鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.7月取材旅行「『游相日記』の旅 番外編-半原 その最終回」

2014-08-20 05:22:03 | Weblog
崋山が荏田宿で出会った孫兵衛の家は、半原村のどこにあったのだろうか。それについて記されていたのは『県央史談』第46号所収の「愛川郡半原村松葉沢のむかしといま」(小島茂平)という論文。それによれば半原神社から馬坂の登り口までを松葉沢といい、その松葉沢には古くからの住居が7、8軒あったという。ちなみに馬坂は、半原村を貫く主要道(甲州道)にあった坂で、この甲州道は、田代→半原台地→馬坂→中津川→津久井というルートを走っていました。小島さんは松葉沢における古くからの住居のうち5軒を挙げ、それぞれについて説明を加えています。「松葉沢略図」の中に番号も付されており、その位置もわかるようになっています。①井上惣左衛門家…酒屋を営み「酒屋」という屋号。「土平治騒動」の時に「所払」の処分を受けた伝重郎の権利を譲り受けたのではないかと小島さんは推測しています。②井上孫兵衛家…「鍛冶屋」という屋号。蔵がかつてあったらしい。天保12年(1841年)1月24日(陰暦)に亡くなり、戒名は「春翁禅定門」。③井上治郎兵衛家…「綿屋」を屋号とする。「綿」とはこの場合「真綿」のことであり、蚕の繭を煮たものを引き延ばして綿状にしたもの。「金を借りるなら質屋か綿屋に行け」と言われたらしい。④井上伝右衛門家…馬による運送業を営んでいたらしい。⑤花上村三郎家…この家の水車が写った古写真が掲載されています。このうち②の井上孫兵衛家が、崋山の出会った孫兵衛家に該当するものと思われますが、小島さんは、琉球大学の小島攖禮名誉教授からの資料をもとに市之田に和田孫兵衛という者もおり、天保2年(1831年)当時、二人の「孫兵衛」が半原村にいたとされています。資料に出てくる井上孫兵衛は天保2年当時16歳。和田孫兵衛は、その後家の年齢から考えて40歳ほど。私にもにわかに判断はつきがたいのですが、崋山が「いざとはん 紅葉のしぐれ もる家か」という俳句を孫兵衛に贈っていることから、松葉沢の谷あいにある②の井上孫兵衛家こそそれにふさわしいのではないかと考えています。となると、崋山が会った孫兵衛は、資料に出てくる16歳の井上孫兵衛の父親にあたる人物であり、当時40~50歳ほどではなかったか推測されてきます。 . . . 本文を読む