鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.7月取材旅行「『游相日記』の旅 番外編-半原 その5」

2014-08-18 05:43:13 | Weblog
『細野区100年史』によれば、享保年間(1716~1736)までの糸撚りは「紡ぎ車」という一本錘の道具で行っていたが、天明3年(1783年)、桐生の岩瀬吉兵衛が新しい機械(後に「八丁式撚糸機」と呼ばれる)を発明したことにより糸撚りは一気に能率化され、一大転換期を迎えることになったという。この八丁式撚糸機が半原村に導入されたのが文化4年(1807年)のことであり、半原村の小島紋右衛門が桐生より数台購入し、職人を招いて撚糸を始めたことにより、半原村において撚糸業が勃興するようになったらしい。生産された織物用の撚糸は主に八王子方面に供給され、江戸方面には縫糸や組紐用の材料糸を供給したという。では半原村で水車が八丁式撚糸機の動力として本格的に利用されるようになったのはいつ頃かと言えば、それは桐生や足利などと較べるとかなり遅く、嘉永年間(1848~1854)になってからのことであるらしい。そして明治から大正時代にかけて、半原村の沢筋や用水路においては、八丁式撚糸機の動力となる水車が相当数稼働していたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災による傾斜地の崩壊により大きな打撃を受け、その後電気モーター式の動力へと転換していったという。つまり半原村に八丁式撚糸機の動力として水車が稼働していた時期は、嘉永年間から大正時代にかけてということになる。孫兵衛が崋山と出会った天保2年(1831年)当時は、桐生から小島紋右衛門が新しい機械や職人を導入し、撚糸を始めてから四半世紀ほどが経過しており、動力源としての水車の設置はまだ本格化していないけれども、撚糸生産が活発化しており、それに併せて養蚕業もますます盛んに行われていた時期であったと思われる。というふうに考えてくると、中津川の取水口の近くにあった「水車中」と刻まれた水神様(石造物)の建立された年は、「天保5年」ではなく「明治27年」ではないかということになり、あの用水路が造られたのもその頃ではないかと推測されてきます。では、半原神社前を走るまっすぐな表通りや、その表通りに沿って建ち並ぶ家並みはいつ頃形成されたのか。孫兵衛の生きていた頃に、あのような家並みはあったのか。それが疑問になってきました。 . . . 本文を読む