鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

小見川と黒部川 その5

2011-11-06 05:12:43 | Weblog
『宮負定雄 下総名勝図絵』川名登編著(国書刊行会)という本を図書館で見付け、それに描かれている各地の風景を一つ一つ見ていったところ、そのP162~163に「小見川市中」というのがありました。宮負定雄(みやおいやすお)は寛政9年(1797年)に香取郡松沢村で生まれ、安政5年(1858年)に亡くなっています。平田門下の父の影響で平田国学に傾倒し、一方、旅を好んだ定雄は「利根川に沿う村々」や「銚子の海」を描き、その「挿絵をふんだんに含んだ地誌」(川名登)を完成させました。したがってこの『下総名勝図絵』に描かれた風景は、江戸時代末期の頃のもの。「小見川市中」は、江戸時代末期の小見川の町の様子を知ることができる貴重な資料ということになります。いや、この『下総名勝図絵』そのものが、下総各地の「名勝」のかつての様子(風景)を知ることができる、大変に資料的価値の高いものです。さて、その絵を見てみると、黒部川は「大橋」からすぐに利根川へと流れ込み、その河口部には「利根川高瀬船」が4隻、帆を立てて停泊しています。黒部川には「大橋」以外に二つの橋が架かっており、それは「仲橋」と「新田橋」であると思われ、「仲橋」と「新田橋」の間の黒部川右岸に四角く大きな木々の繁りがあるところが「小見川藩陣屋」ということになります。左岸には河岸がいくつかあり、その左岸に沿って通りが走っていますが、これがかつての「本町通り」であると思われます。かつて、黒部川が「大橋」のすぐ先で利根川と直結していたことが、この一枚の絵によりはっきりしました。 . . . 本文を読む