思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

今・現在を生きるー期待と希望

2007-01-30 | 恋知(哲学)

私(たち)は、今・現在を生きている。
行為、想像、思考、あらゆる営みは、いつもそのつど、現在において行われる。
未来を想い、過去を懐かしむのも、今・現在の生だ。
現在は、一刻一刻変わりながらも連続しているもの、今・現在を「よく」生きることは、永遠を生きることに通じる。
生とは、いつも現在であり、その一刻は永遠なのだ。

期待と希望の違いはここに明瞭となる。
期待は、他者をあてにし、そして未来をあてにする。
希望は、自分の心の中から沸き立ち・広がり、今・現在を意味あるもの、輝くものとする。
期待は、たえず「満たされる」ことを要求し、未来に既定性を与えることで未来を消去し、人を殺す。
希望は、状況・境遇によらず、いつも今を光で包むために、無垢な悦びで人を生かす。

今・現在を永遠にするもの、それが希望の本質である。


武田康弘



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人から学ぶ、ということ

2007-01-28 | 恋知(哲学)

人から学ぶ、ということが、広い意味で言われるならば、これほど大事なこと・必要なことはありません。独我論へ陥る不幸、不遜になる愚かさから人を救ってくれるからです。
しかし、「人から学ぶ」ということを狭く捉えて、既存の権威者、有名人から学ぶ、という意味で言われるならば疑問です。学ぶということが、既成の序列に深く組み込まれる=自己馴致になってしまいますから。
学ぶとは、固定観念から自由になることです。学ぶことは、ある特定の傾向に自分を閉じ込めること(例えそれが理念としてはどんなに「進歩的」と思われることにしても)ではありません。それでは、学ぶことの意味がなくなります。
自分の言動をより楽しいもの、より悦ばしいもの、より面白いもの、より伸びやかなもの・・・にしていけるから、学ぶことには大きなエロースがあるのです。そういう学びは、何よりも子どもたちから多くもたらされます。固い発想を打ち破るヒントは、子どもたちからやってきます。
大人でも、女性や、体を使って現実の仕事をしている人からは、多くのよき学びが来ます。
特定の知識や技術を学ぶ、というならば、その道の専門家に学べばいいわけですが、「人から学ぶ」ということのほんらいの意味は、そういうことではないはずです。
私がみるところ、どうも「学」があると言われる人ほど、過去や既成の権威に囚われて狭い世界でしか生きていないようです。民知の実践が何より大切です。小さき者にこそ学べ、です。



武田康弘




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おそるべし!川端康成コレクション(芸術新潮ー2007年2月号)

2007-01-27 | 書評

少年時代に雑誌「白樺」を愛読し、そこから強く影響を受けた川端康成は、国宝を含む多数の美術品の収集家としても有名でした。良寛の書、雪舟、光琳、玉堂らの日本画、当時の新進画家の作品、陶器・朝鮮の白磁、ロダンの彫刻、ガラス器・漆器・・・・

おまけ!?の話ですが、志賀直哉のツアイスの顕微鏡(息子のために購入)に影響されたのか?1937年には、35mm版カメラの最高峰、ツアイスのコンタックス?型を入手して写真もたくさん撮っています。

今月号(2007年2月号)の「芸術新潮」の特集は、【おそるべし!川端康成のコレクション】(定価1400円)です。これは実に見ごたえのあるものですので、ぜひ、お近くの本屋さんへどうぞ。

余談ですが、1968年、ノーベル文学賞受賞が決まった日の夜、駆けつけた三島由紀夫と一緒に写っている写真(32ページ)を見ると、川端の「強さ」が際立って見えます。三島は〈表層言語の達人〉に過ぎなかったというのが、私の三島評ですが、底力のないさまが顔に表れています。

武田康弘








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シャルル・ミンシュの芸術 ベルリオーズ

2007-01-24 | 趣味

磐石の巨人クレンペラーとは大きく異なりますが、シャルル・ミンシュも私の大好きな指揮者です。

私は、高校生のころよりベルリオーズが好きなこともあり、燃える情熱で全体をつかみ、その中に豊潤な色彩と繊細な世界を生むミンシュの音楽を、なんとも悦ばしいものと感じてきました。

そのミンシュがボストン交響楽団の常任指揮者だった最盛期のCDがまとめて40タイトル発売されました。 (BMG JAPAN)クリック(試聴もできます)
 
一枚1050円、二枚組2100円と廉価なのは、うれしい限り。ベルリオーズの4枚を購入して聴きましたが、音質もLPレコード時代のプアーなものではなく、1954年の最初期のステレオ録音から大変優れたものです。CD化の技術進歩を実感します。

創造的想像力そのもののようなベルリオーズの音楽の再現は極めて難しいのです。燃え上がるような白熱のドラマ、ロマン的激情とエスプリと古典的品位を併せ持つ空前の音楽の真価を知る音楽家や聴衆は多くはありません。ベルリオーズを振らせてミンシュの右に出る者はいません。違った角度からそのエレガントな美しさを現したアンドレ・クリュイタンスを除いては。

ます、一枚という方には、イタリアのハロルド+序曲集がお勧め(BVCC38432)。その生気溢れる演奏・温度の高さは、現在のオーケストラからは聴くことができません。眩いばかりの輝き、美しい激情の世界をご堪能ください。

1954年、1962年録音の二つの幻想交響曲も、晩年のパリ管弦楽団との名盤(67年録音)とはまた異なるよさを持ちます。刺激的な激演!ミンシュの白熱の演奏で40タイトル全部を聴きたくなりました。困った(笑)

(※ミンシュは、1891年フランスのストラスプール(当時はドイツ領)で生まれ、1968年パリ管弦楽団とアメリカ演奏旅行中に心臓発作で急逝77歳)

武田康弘






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皆に共通する立場は、ひとつだけあります

2007-01-18 | 日記

例えば、官僚の立場で考える、学者の立場で考える、技術者の立場で考える・・・・
ということでは、普遍了解性は得られません。
学者の常識に基づいて考えれば、学者仲間には通じますし、技術者にしても、官僚にしても、その社会の通念で考え・語れば、それぞれの世界の住人には通じるでしょうが、ふつうの多くの人の共通了解は得られません。
ひとりでやってれば~、という「集団オタク」の世界から抜けられずに、独我論の世界に陥るしかありません。

では、どうしたらよいか?
皆に共通する立場に立つことです。それ以外の答えはありません。
では、皆に共通する立場とは何か?
生活世界の現場から考え・話し・行為することです。
どのような立場の人にも共通するのが生活世界です。生活世界を持たない人はいないのですから。
生活世界から立ち上げて、生活世界で通用するような言葉、生活世界に受け入れられるような態度で語り、行為することです。

何かを語り、何かをなそうとする時、この原理中の原理をよく自覚し、実践することがまず何よりも先に求められます。この原理から逸脱するような歪んだ「エリート」意識に囚われていると、何を考え、何を語り、何をしても、空しい独我論の世界から抜けられません。
たとえ、言葉・思想として独我論や自我主義を批判しても、それを語る人間の「語る言葉や態度」が上記したそれぞれの世界の枠内のものであれば、つまるところオタクに過ぎず、普遍了解性は得られないのです。

人間や社会の問題について考え、解決し、よい人生を生むためになにより必要な「対話」は、生活世界という共通項の中でするほかありません。このことの深い自覚があれば、対話・討論は驚くほどの成果を生むはずです。
民知に基づく公共哲学は、公共政策の専門家を養成するという「東京大学公共政策大学院」構想の思想を元から断つものです。エリート主義をその発生源から消去し、ふつうの多くの人々の「私」から発する公共性を担保するのが、ほんらいの公共哲学です。けだし、公共性とは、ふつうの市民を主体者にしなければ成立しない概念なのですから。キーワードは、生活世界です。

武田康弘



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「公・私・公共三元論」の現実的機能について (荒井達夫)

2007-01-17 | 恋知(哲学)

荒井達夫さんから公共哲学の「公 公共 私」の三元論に対しての疑問がメールで寄せられましたので、以下に載せます。極めて重要な論点だと思いますので、公共哲学の関係者は、ぜひ深く受けとめ、コメントしてほしいと思います。けだし、公共哲学の生命線は、開かれていることだからです。
武田康弘


「公・私・公共三元論」の現実的機能について 荒井達夫

政府の公、公=官という「公・私・公共三元論」を原理として認めた場合、それが現実にどのように使われることになるのか、考えてみることが重要です。
政府の公、公=官と私を媒介する中間項として「公共」を置き、「公共知」の創出を図らなければならない。では、「公・私」と異なる「公共」とは何か。「公共知」とは具体的にどのような知を言うのか。まったく不明です。
これを聞いて、何かしろと言われたら、霞ヶ関の官僚たちは、間違いなく、審議会やパブリックコメント(意見公募手続-行政手続法第6章)を思い浮かべるでしょう。タウンミーティングもそれに含まれます。どれも行政に民の意見を反映させるための仕組みです。これが「公共」。そして、これらの仕組みの中でまとまる考えが「公共知」ということになります。こうした理解を否定する理由はないでしょう。官を統制するために民の意見を聞くのですから、「民の公共」実現のための仕組みに間違いありません。
しかし、審議会は行政の隠れ蓑、大臣の責任回避の道具として使われていると非難されたため、中央省庁等改革で審議会意見の尊重義務の法律規定が削除されました。また、パブリックコメントも、民主的手続と言われて導入されたものの、今日各省の政策実施のアリバイ作りの手段と化している危機にあります。タウンミーティングに至っては、最近の「やらせ質問」で見るも無惨な状況です。
「公・私・公共三元論」が公共哲学の原理であると教われば、公務員は何の疑問もなく、善意も悪意もなく、それを覚えて実務で実践することになるでしょう。税金をどんどん使って、審議会を作り、パブリックコメントやタウンミーティングを行うのです。「民の公共」実現のため、という名目で。そして、現実の害悪発生については、今以上に無神経になるでしょう。何しろ、仕組み自体は哲学的基礎が与えられるのですから、これ以上信頼に足るものはありません。「公共」実現を責務とする全体の奉仕者である公務員は、自信を持って職務を遂行することができるのです。
「公・私・公共三元論」を主張する公共哲学者は、このような行政運営の実態についてどれほど考えているのか、疑問に思います。現実を直視した地に着いた議論をしてほしいものです。
なお、「民から開く公共哲学」である白樺思想では、公と公共の区別はなく、特に「民の支持しない公」を認めませんから、話は簡単です。個々具体のケースにおいて、審議会やパブリックコメント、タウンミーティングが、官を民主的に統制する手段として不可欠かどうか、また現実において実質的にそのように機能しているか、つまり「民の支持する公」を直に問うだけだからです。(荒井達夫)







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あらゆる教育問題は、公共的自由をつくらない日本システムから生まれる。

2007-01-14 | 教育


こどもたちの公共的自由がない、学校での生活において、自由に考え・発言して生活のありようを決めるという経験を全くさせないのが、わが日本という国です。
これは、会社に入っても同じ、すべてが上意下達で、社員の話し合いによる自己決定がないのです。

中学や高校の校則も同じ。校長が決めたものに従うだけ。上位者が決定し、それに従うだけというのは、民主制社会の基本原則に反します。ルールは、その成員が決定や変更に参加できなければ、ルールではありません。現在の校則はルールとしての基本要件に欠けるために、ルールにはなっていないのです。子どもたちが無視するのは当然です。

昨日「日本テレビ」で、成人式のやり方を変えた沖縄と夕張市の例を紹介していましたが、昨年までの沖縄の荒れる成人式が、参加者みなで後片付けをするまでに反転したのも、夕張市が感動的な手づくり成人式で成功したのも、理由はひとつです。

なぜでしょうか?
自己決定したからです。沖縄では、毎年荒れる成人式の改革を、「官」ではなく主役である成人者自身に任せたのです。夕張市ではお金がないために「官」が行えず、市民の有志と成人式を迎える若者が「手作り」したのです。

自分のたちのことは自分たちでする、自分たちで考え・決定する。このあまりに当たり前のことが、日本列島から失われていたところに現在の教育問題の核心があります。核心中の核心ですが、このことの自覚が、文部科学省にも学者や評論家にも政治家にも少しもありません。最重要な点について何も分からずに「教育改革」を言うのですから、ただ呆れるだけです。

入学式、卒業式のやりかたも、ほんらい参加者・当事者が決めるのです。文部科学省や教育委員会や石原都知事が決める!?のではありません。自由な自己決定という大原則さえない国では、国民は市民=公民=公共人にはなれません。精神的・思想的に自立したよき社会人にはなれないのです。公共性・普遍性を持たず、上位者にとって都合のよい「型はまり人間」を育成していたのでは、国・社会は元からダメになっていきます。個人も社会も腐ってしまうのです。

イジメをはじめとするさまざまな教育問題の発生源はすべて同じです。自由な対話による自己決定のない社会構造が生み出すもの。【公共的自由】を生み出し、その実践をするのが公共哲学です。したがってそれは、自由対話によって自己決定の力をつける相互学習をその本旨とするもの、と武田は確信していますが、その実践を全国的に行うことが急務です。上意下達の歪んだ文化に支配されているわが日本にとって、いま、このように解釈された公共哲学以上に重要なものはありません。公共哲学とは、ほんらいの哲学と同じで、学者が教えるものではありません。「学」とは部分知のことであり、恋知(哲学)とは全体知のことですので、誰かが教授するものではなく、思考対話の実践で相互に学び合う以外にはないのです。

武田康弘







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「自己納得」の生と「自我主義」とは鋭く対立するもの

2007-01-12 | 恋知(哲学)

自己納得(腑に落ちる)を原理にするのが恋知(哲学)です。
自己にこだわるのではなく、自己納得をめがけるのです。
自我主義=エゴイズムは、自我の不完全燃焼が生む有毒物です。
人は、欲望が否定され外的な価値を強要されると、自我の成育が止まり、よき「社会人」の仮面をつけた幼児になってしまいます。

自己納得を阻む外側からの要請・命令(それはしばしば躾と称して正当化される)によって育つ人間は、外見がどんなに立派でも、中身は精神的自立のない幼児に過ぎません。
既成社会の枠組みに疑いを持たず、親の言う通りに育つ人、いわゆる『エリート』ほど大人の仮面を付けた幼児です。少し批判されると直ぐガタガタになり、切れたり、自閉したりします。自分に居直る生き方しかできません。

日本社会の上位者に「赤ん坊」が多いのは、彼らの態度が証明しています。
石原慎太郎などもその一人ですが、自分の考え・ロマンに従わない人間を許容できないのです。権力をつかって黙らせようとする彼の言動は、その精神の幼児性を現しています。
新教育基本法=特定の態度を養うことを政府が要請するというのは、個人の公共的自由を原理とする市民社会の原則に反することですが、これを押し通した政治家やそれを作成した学者・官僚なども精神的自立なき幼児にすぎません。

現代の日本は、「ウヨク小児病患者」で溢れていますが、このような現状に対しては、自分の頭で考える営み=自己納得(腑に落ちる)を原理とする哲学する生が何より求められます。「なぜだろう?」「どうしてかな?」という探求、自分自身の頭と心に深く納得がもたらされるように生きること、それが恋知(哲学)の生です。公理に代入し、情報を整理し、記憶するというのではなく、権威者に従うのでもなく、今の自分に固執するのでもありません。深い納得(腑に落ちる)をめがけるのです。この堀りすすめる営みを止めると、人はある特定の考えに縛られ、自我主義に陥ります。自己納得をめがける生き方(開かれた生)と自我主義(閉じた生)の生き方とは正反対なのです。

自我主義=エゴイズムの最悪の形が国家主義(国家エゴイズム)ですが、普遍的価値を目がけない自国主義がどれほどおぞましい現実を生んだのか?思想的かつ公共的反省がない為政者は、社会にとって極めて危険な存在だと言えましょう。

自我主義=エゴイズムを超えるには、自分の心、その赤裸々な姿をしっかり見ることが条件です。自己の欲望の自覚がまず何よりも先に求められます。自分の欲望を肯定できずに「こうあるべきだ」という要請を先立ててしまうと、欲望は成長を止めて幼児的な全能感から抜け出られなくなります。知識を詰め込み、さまざまな技術を習得し、高い地位に就いたとしても、いつまでも幼児的欲望を抱え持つ「大人」にしかなれないのです。日本の「エリート」男性がしばしば妻を母親がわりにするおぞましい光景は、こうして生まれるのでしょう。妻もまたその同伴者、共犯者であれば、出口のない閉じた世界の誕生!です。

自我(内面)が成長するとは、欲望の階段を上ることです。自分だけの得という小さな欲望から、周りの人々皆の利益・公共的な利益を考える大きな得→徳へと向かうのは、自分の心・欲望を肯定するところからしか生まれないのです。子どもの場合で言えば、親や教師が肯定してあげること。それがない子供は「底なしの不幸」です。肯定されると子どもは面白いように自我の成長を始めます。階段を上りだすのです。そのプロセスを飛ばせば、内面は幼児のまま、外見だけが成長する仮面人間になるしかありません。立派な仮面を付けた幼児は、周囲に、社会に、有毒物を撒き散らすおぞましい存在にしかなれません。欲望の自覚・吟味によって自他のよろこびを広げようというのが、恋知(哲学)する生です。

武田康弘




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生きた公共哲学・その1 公共的自由が健全な社会を生む

2007-01-10 | 恋知(哲学)

いま、伝統尊重や愛国の態度を養うこと、アメリカとの共同軍事行動がとれるように集団的自衛権の規定を見直すこと、それが重要な国策だとして、安部晋三を中心とする保守主義者たちは、日本の市民社会に挑戦状を叩きつけています。

私は、権力も地位もない一市民ですが、真に自分の頭で考える者=恋知(哲学)者として、政治権力者が国家主義のイデオロギーを振りかざすこの事態には、不退転で闘う覚悟です。

『自由をあきらめさせる日本というシステム』で書いた通り、【自由に生きるという責任】を果たすのが言葉の最良の意味での哲学する者=哲学者(自分の頭で考えて、集団同調しない人はみな哲学者)です。人は、国家主義者の国策に従うときに最も醜くなり、哲学的精神や公共的精神から遠くなるのです。

国家主義の政治権力者は、自分の所属する一族(俗に「エリート」と称される)の持つイデオロギーを政治権力を使って、全市民に強要します。ここで「公」と言われることは、エリート一族の「私」でしかありませんが、その「私」の思想を、市民から集めた税金によって運営する権力機構を使って集団同調の圧力をつくりだし、社会の全成員におしつけるのです。

自他の人生のよろこびを広げるための公共哲学は、権力者やエリート族ではない、一人ひとりの「私」を活かすところからしか公=公共は開けないと考えます。これは公共哲学の最も重要な理念です。

「公・公共・私」の三元論というのは一つの方法論であり、公共哲学の本質ではありません。【ほんらい「公」とは市民的な共同利益のことであり、「官」はそれを下支えする市民サービス機関である。現在の日本社会の問題は、政府や官僚制度が個々人から発する市民的な共同利益=「公」を実現するために働いているのではなく、国家主義思想を持つ政治家集団の信念実現という私益や、それぞれの省の集団化した私益を追求しているところにある】と考えてもよいのです。そうすれば、公と私を媒介する公共という三元論で考える必要はなく、公=市民的共同利益を実現しない「官」は、本質次元で存在意味がないことをもっとストレートに言えるわけです。
また、「私」と言ってもプライベートな私生活上の私ではなく、私の意見という時の私は、はじめから一定の公共性をもっています。その公共性の質を高め豊かにしていくことが「公共哲学する」ことだと言えるでしょう。国家主義とは「私」を活かさずに、国家を実体化させ、私を一つの歯車にしてしまう思想のことであり、反・公共思想でしかありません。

民主制社会においては、「公」とはほんらい市民が生み出すものであり、そこでの意見が公論です。政府は、市民が公論を形成するための条件整備をするのが仕事であり、政治権力によって思想や態度を要請するものではありません。公論とは、「私」が考える市民的な共同利益のことであり、市民社会としての国についての「私」の思考です。各自の主観を豊かにしていくためには、形式に囚われない真の自由対話が必要です。それだけが誘導・ヤラセ・タテマエではないほんとうの公論を可能にするのです(公論形成のためには、小学校から「自由対話」の時間を正規の授業とすることが不可欠でしょう)。

社会のさまざまな問題について、自分の赤裸々な心の地点から、日々の生活体験に照らして、自分の頭で考え、それを自由対話によって鍛え、皆と共有できるものにしていくこと。それが公共哲学の営みです。

政府の思想に従うことや、文部科学省の方針に従うことや、学者の言説に従うことは、公共哲学ではありません。哲学とは自己納得につくことであり(自己につくのではなく、自己納得につくことで普遍了解性が開ける)、システム・組織・団体の権威者の考えに従うことで生じる危険を大元から断つ役目も果たします。一人一人の人間が公共哲学することで、はじめて社会は、健全な発展を持つのです。

保守主義・国家主義を掲げる為政者とは、その本質において鋭く対立するのが公共哲学です。こどもや弱い立場にあるふつうの人の利益をその深部で担保する極めて重要な営みだと言えるでしょう。核心は、各自が主体者である、主体者になることです。

武田康弘




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公共哲学をめぐってー荒井達夫さんの質問と山脇直司さんのお応え

2007-01-09 | メール・往復書簡

元旦のブログのコメント欄にありますように、
山脇直司さんから「荒井達夫さんの質問書へのお応え」が私(武田康弘)宛に来ましたので、以下に載せます(プライバシーに関わるものでない限り、公開性が公共哲学の要諦です)。


1. 三元論の現実妥当性

 私(荒井)は、一般市民の意識や民法、行政法等の現実具体の例を挙げて、「公・私・公共三元論」が現実妥当性を欠いている、と批判しています。この論に山脇さんが反対する理由は何でしょうか。具体的に説明してください。

お応え→たとえば、1) 「国民主権」が意味するように、「民の公共活動や承認」が「政府の公的活動」の正当性(legitimacy)を成すということ、2) 「経済の私的活動」も「民の信頼という公共的徳性」に基礎を置いていることなどが挙げられます。また、3) 私立学校や私立病院やNGOは、「公共性」を義務づけられた「非公的組織」です。


2. 三元論と「民から開く公共哲学」

 私は、「公・私・公共三元論」は「民が支持しない公」を想定する点で非現実的・非論理的であり、「民から開く公共哲学」には不適切である、と批判しています。この論に山脇さんが反対する理由は何でしょうか。具体的に説明してください。

お応え→世論(公共論)の著しい支持率低下など、「民が支持しない公」は、実際にあり得ます。「民が開く公共性」によって「政府の公」が政権交代を余儀なくされることや、全体主義体制が崩壊することもあり得ます。


3. 三元論と天皇制

 山脇さんは、「三元論は天皇制批判を射程に収めている」と述べていますが、その理由を具体的に説明してください。また、私は、天皇制批判のためには「民から開く公共哲学」以外にあり得ないと考えていますが、山脇さんの考えを教えてください。

お応え→日本語の公には、「政府の公」以外に「天皇の公」というニュアンスが常に伴うばかりか、伊勢神宮には、まさにそういう立場から、神道を「政府公認の国家宗教」にしようとまで主張するパンフレットが置かれています。それで、荒井さんの言う「民から開く公共哲学」による天皇制批判のお考えには、共鳴します。


4. 国家公務員と市民

 山脇さんは、「国家公務員は極めて公(公共ではない!)に近い特殊な職業である」、「国家公務員を職業とする市民はふつうの市民ではない」と述べていますが、その理由を具体的に説明してください。

お応え→まず、公務員には一般市民には漏らしてはならない「守秘義務」が伴います。これは、「公共性」を成り立たせる条件の一つの「公開性」と矛盾します。ですから、公務員(public official)は、政府の公(the official, the goverbmental)に近いと私は考えます。しかし、その点を踏まえるならば、「国家公務員としての自己」と「一般市民としての自己」は両立可能だとも考えます。この関係は、「企業秘密」を抱える「私的企業人」と「公共的市民」の関係にもあてはまるでしょう。


5. 白樺思想と大学の「公共哲学」

 私は、「民から開く」という意味では大学の「公共哲学」より市民の集まりである「白樺」の思想の方が優れている、市民が求める哲学(人生や社会のありようを深く問う哲学)が「白樺」の方にあるのは事柄の性質上当然である、と考えています。また、これは白樺の人たちに共通する認識であると思っています。この論に山脇さんが反対する理由は何でしょうか。具体的に説明してください。

お応え→公共哲学は、大学だけで行われるものではありません。平和運動や教育基本法改悪運動にコミットしている公共哲学ネットワークもあります。また全20巻のシリーズに関して言えば、議論や討論によって互いの立場をはっきりさせること、いわば「アゴーン(闘技)としての公共性」が公共哲学の醍醐味を成しています。こうした点で、人生哲学と公共哲学は、やや異なっています。しかし私としては双方が大切と思っており、どちらが優れているといった優劣を論じる発想自体がナンセンス(無意味)です。とはいえ、現下の日本社会の惨憺たる状況をみるとき、武田さんたちの白樺グループの意義はとてつもなく大きいと思うので、エールを送るだけでなく、時間の許す限り、これからも協働・連帯していきたいと思っています。
以上です。

山脇直司




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自由をあきらめさせる日本というシステム

2007-01-05 | 社会思想

いま日本人・日本社会に一番必要なのは、自由です。

買い物の自由!?雑談の自由!?は当然あります(笑)。

学校で、校則や部活動のありようについて、生徒が意見・批判が言えますか?
大学で、正当な社会批判がなされていますか?授業で社会問題についての自由討論がありますか?
会社で、役所で、仕事の仕方について社員やパート労働の従業員が意見を述べられますか?
個人が個人の資格でいまの社会体制について、自由な批判的発言ができますか?

私はそうしていますが、実名ではっきりとイエス・ノーが言える人は、ほんとうに少ないと思います。何か見えない恐怖によって、知らずうちに頭と心の深部が既成の社会体制に馴致されてしまい、人前では、ほんとうに思うところとは違う「意見」を言うような人間にされてしまっているのではないですか?

「主観を消去する日本というシステム」に書いた通り、個人を個人にしない教育がずっとなされてきた為に、私たち日本人は、【自由に生きるという責任】を持たない人間になっているようです。それを加速させ、「政府があるべき家族像・人間像を提示する」というのが安倍首相です。自著『美しい国へ』で、天皇制を柱にした日本の悠久の歴史を守るために、保守主義による教育改革を行うと書いています。こういう復古趣味で政治を行う権力者に、私は激しい公共的怒りをもちます。

自由に遊ぶ。
自由に思う。
自由に考える。
自由に発言する。
自由に行動する。

近代哲学の父、カントは、「人間は自由な存在だ」と言い、近代哲学の王、ヘーゲルは、「人間は自由を求める存在だ」と言いました。また近代市民社会の原理をつくったルソーは、「個人の自由を確保するのが政治権力の役割だ」として社会契約論を書きました。
私が小学生の時(43年前)、感動と共に記憶したヴォルテールの言葉、「あなたの言うことには一言も賛成できない。しかしあなたにはそれを言う権利がある。その権利を私は死をかけても守るつもりだ」(美濃部亮吉編「社会のしくみ」の囲み記事)は、個人の自由に依拠することが公共性を生むという逆説=真実を一言で表現しています。

また、わが国ではそれより遥かに昔、800年前に浄土真宗の宗祖・親鸞は、絶対他力・自然法爾の思想により、個人をその最も深い地点で解放する偉業を成し遂げましたが、これについては、以前「親鸞思想の核心」として書きましたので、ご参照下さい。わが国が守り発展させるべき「伝統」とは、支配者の論理ではなく、こういう民の論理のはず。現在も浄土真宗は、日本最大の教団です。

為政者・「エリート」にとって都合のよい思想を、子ども・人々に身体化させること=馴致を教育だとする支配者の論理で政治を行うのは、根源的な公共悪なのです。なぜならば、民主制とは、絶対者がいない政治体制のことであり、自由に基づく個人の判断と批判精神を育成しなければ機能しない政治の仕組みだからです。再び天皇を元首とし、民を天皇の赤子だとする「天皇制国家」に戻すのがよいというのでない限り、現在までの日本の教育=馴致は根源悪であると断罪する他はないのです。自由な個人=主観を育てず、ある型に誘導するのは、人間性の大元を絞め殺す「犯罪」でしかありません。個人も社会もダメにする何よりも大きな犯罪です。

近・現代社会の政治のほんらい役割とは? ひとことで言えます。
よい【秩序】をつくることで、【個人の自由】を担保すること。
人生のよろこびを生むための基盤=個人が自由な想念を羽ばたかせ、のびのびと行為することを可能にするための条件整備、もう少し具体的には、経済的な格差を広げない工夫をすることで、個人の生き方・思想・表現の自由を現実化し、おしひろげることです。それが政治のほんらいの役割であり、それ以上でも以下でもありません。為政者は、この政治の本質を明晰に意識しなければなりません。

最初に書いたように、わが国では、著しく公共的自由が実現されていないからこそ、個人が個人として育たず、精神的な自立が阻まれてしまうのです。自我が生育するためには、学校や会社や役所や地域など「公共的な場」で思い切り自由に発言できる・することが条件です。それがないまま育つと、たとえ立派な会社人・組織人(役割をこなすだけの外面人間)にはなれたとしても、社会人(公民=公共人)にはなれないのです。外見=形だけが優秀で、中身=内面が貧弱という魅力のない人間がつくられてしまいます。個人が団体・組織のために生きる!?人の顔色をうかがい、上位者におもねる!?そういう人間で溢れる国には、悦びはありません。ただ生存するだけをめがける!?のでは、子どもたちの生きる希望は元から消去されてしまいます。灰色の時間が支配する。

自他共にエロース豊かな生をひろげるために、「自由」の意味と価値を深く知ろうではありませんか。民知とは自由を基盤とする知であり、【自由に生きるという責任】をつくり支える知なのです。

武田康弘




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私は作曲家ー今年もよろしく。

2007-01-03 | 恋知(哲学)

私は作曲家です。
ただし、音楽のではなく、「考え」の作曲です。

子どもと遊び、勉強を教え、手賀沼遊歩道で運動をし、街の景色を見、JRに乗り、MINIで走り、ロードバイクにまたがり、主婦の人と会話し、妻と話し、仲間と交流し、人と出会い、テレビを見、新聞を読み、ネットで、メールでやり取りし、写真を撮り、音楽を聴き、本を読み、掃除や後片付けをし、買い物に行き、指圧をしてあげ、してもらい、電話で対話・議論し、・・・・・・・・・
生活のあらゆる場面で感じたこと・思うことから「考え」をつくるのです。私は、作曲するのが大好きです。

もし、私のつくる曲がいいな~と思われたら、どんどん演奏してください。印税は要りません(笑)。そうしてもらえるのが何より私の幸せなのです。
でも、ほんとうは誰でもみんな作曲家です。みなさんのつくった曲もぜひ聴かせてください。

2007年もよい曲をつくるぞ~。駄作も混じりますが、ご勘弁を。

武田康弘




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2007年ー年賀状

2007-01-01 | その他

(いま書いた年賀状です。実物は猪の絵付きです)


2007年1月1日
新年おめでとうございます


今年も、よろしくお願いします。

意味をつかむー自分の頭で考える教育の実践
も今年で31年目に入ります。生活世界と結び
つけた知がつくる心の自立は、よろこびを生み
ます。
 昨年、東京大学+千葉大学の公共哲学の営み
と共に日本の二つの注目すべき動向と評価され
た「白樺教育館」は、今年また大きな飛躍があり
そうです。力まずに頑張ろうと思います。
 ブログ・『思索の日記』は2年で10万件になりま
した。ご愛読感謝です。白樺教育館ホームと共に
ひき続きご贔屓に(共に名称検索で出ます)。

 今年がともに楽しい一年となりますように、
昨年以上によき交流をもちましょう。


武田康弘




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