思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

生活世界における「私」こそ究極の原理。 知と教育の貧困

2011-08-30 | 恋知(哲学)

現代では、「どのように生きるのがよいか」「どのような社会で生活したいか」を考えることまで職業=仕事=商売になっているようです。大学人が外国の思想書を翻訳し、または読解することで、そういう問いに答えを与えてくれると思う人さえいます。

元来、上記の根源的な問いは、学問書に答えを書けるものではないのですが、思想や哲学関係の研究者の中には、何かしら特権的な力をもっていると勘違いしている人もいます。これは、知の目的と価値は「主観性の知」にあり「客観知」はそのための手段に過ぎないことの認識が弱いために起こる悲喜劇です。日本の受験知教育が「正解」は決まっているという想念を深く植え付けるために、客観神話に囚われ、哲学や社会思想にまで「正解」(客観的真理)があると思い込むのです。

基本の確認ですが、大学人の仕事は、さまざまな思想書・哲学書の「価値」を分明にし(もちろんそれは一つの解釈=見方ですが)、数々の情報を整理して提示し、人々が自分で考え・判断するための手段を提供することです。それがほんらいの仕事であり、大学人が「正解」!?を出したり、自らの信念の方向に人々を誘導することではありません。

どうもいまだに啓蒙時代のような旧態依然とした観念に囚われて、「ああ勘違い」の人がいるのは、ほんとうに困りもの。どのような考え方(思想)がよいかは、各自が、生活(日常生活・仕事・趣味・活動)の中から立ち上げ、生み出すものであり、「一般的な答え」などどこにもありません。

結語ですが、「生活世界」(日常生活・仕事・趣味・活動)こそが人間の生の基準であり、ほんらいの哲学には、特権的な場(例えば大学や研究機関)は存在しないのです。生活世界における「私」の意識=私がどのように見、聞き、感じるか、私がどのように想うか、私がどのように考えるか、それこそが「絶対の基準」(正しいというのではなく、正しさが意味をもつ座標軸=生きることの始発点)であり、哲学(自立した精神)には、それ以外の基準はありません。これは究極の原理です。


武田康弘

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生きることの始発点=私 (古林 治) 2011-08-30 19:48:07

以下の結語について、まったくだ、と言うほかありません。

多分、普通の人が聞けば誰しも賛同する話だと思うのです。
が、学者さんたちとの議論を通じて感じたのは、どうも3番目についてはえらく勘違いしている人が多い、ということです。

1.「生活世界」(日常生活・仕事・趣味・活動)こそが人間の生の基準
2.ほんらいの哲学には、特権的な場(例えば大学や研究機関)は存在しない
3.生活世界における「私」の意識=私がどのように見、聞き、感じるか、私がど のように想うか、私がどのように考えるか、それこそが「絶対の基準」(正しいというのではなく、正しさが意味をもつ座標軸=生きることの始発点)
であり、哲学(自立した精神)には、それ以外の基準はありません。

『他者性』という外国由来の概念(流行)を濫用して【私】を軽んじる場面が多々ありましたし、【私】と言った刹那、私=エゴととらえる短絡性もそこにはありました。
どうも彼らにとっては、ここが肝(弱点)になっているように感じます。
キム・テチャン氏との対話が、この【私】をテーマとするところでストップしてしまったのは大変残念に思います。
機会があれば、どなたか優れた哲学者とタケセンさんによる、【私】をテーマとする対話篇を望みたいものです。

参考
金泰昌(キム・テチャン)‐武田康弘の往復書簡 出版へ
    『ともに公共哲学する』 東京大学出版会刊
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori123.htm


優れた外来文化から受けたトラウマ状態から抜け出るのに50年はかかる、という様な話を夏目漱石がしていたと記憶してますが、50年どころではないですね。
そろそろ自分の頭で考えられる状態にしたいものです。

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全身で感じ、想い、考える (タケセン)
2011-08-31 11:46:34

古林さん
よいコメント、どうもありがとう。感射です。
哲学を「ふつう」の言葉で語る。権威に頼らず、書物に頼らず、日々の自分の経験につき、自分の頭で考え、語り合う営み、どんどん広げたいですね。
「私」が、よーく見、よーく聴き、よーく感じ、よーく味わう、それがなければ、全ては砂上の楼閣。
私が感じ、私が想い、私が考えるのですから。
ただの言語ゲーム観念遊戯ではなく、全身で考え生きなければ、エロース豊かな生はやってきませんものね。
(そう、プラトンの学園『アカデメイア』の主祭神は、エロースでした。)


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ソニー新カテゴリーの高級一眼レフα77 これはよさそう。

2011-08-29 | 趣味
ソニーからα55の上級種で、有機EL液晶ファインダーを搭載したα77が10月に発売になるとのことですが、外観写真とスペックを見ると、これはいい!!買いですね~~。
優れた機構にも関わらず驚異的な低価格のα55の最大の弱点がファインダーでしたので、それが改善すれば鬼に金棒!?(笑)。
ソニーのカメラに賭ける情熱は半端ではないです。新機構満載で2400万画素。いよいよ、ツァイスレンズが活きるでしょう。わたしの24mmF2と135ミリF1.8がどのような絵を見せるか!いまから興奮してしまいます。今はα700とα55を使用。

なお、デジタル一眼は、35mmフルサイズは中途半端でダメ。受光部の面積はAPSサイズが正解です。乾板カメラのような高画質を求めるならば、ハッセルやコンタックス645のデジタルバックを使うのがよいのです。

ソニーさんに一つ注文ですが、AFでのピントの精度をしっかり管理してください。
新製品を買っても、それをサービスセンターに持ち込んで調整してもらわないとピントが合わないレンズ(またボディー)が多いようでは情けないですからね。

参考に、写真家の三好和義さんのブログをご覧下さい。


武田康弘
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私が『田村哲夫氏が運営する渋谷教育学園渋谷校とは』を書いた経緯 古林治

2011-08-27 | 社会思想

以下のコメントが、コメント欄に載せられない(最初のurlの箇所で切れてしまう)というので、古林治さんからわたし宛てにメールで送られてきましたので、記事としてお載せします。内容が深く大事なものと判断しましたので。(武田康弘)



私が『田村哲夫氏が運営する渋谷教育学園渋谷校とは』を書いた経緯 古林治


学者を中心とする、“公共哲学ML”というメーリングリストがありました。公共哲学について議論を交わす場として設定されたもので、このブログの 主であるタ ケセンさんも参加していました。
ただし、このML、設立趣旨と違って誰も議論しようとしない場でした。また、特定の大学教授にのみ『先生』付けする序列の場でもありました。それ に対して、いつも問題提議をし、序列関係を廃した対等な議論を提唱するタケセンさんと、MLの運営責任者である千葉大教授の小林正弥さんとの間で ようやく少しだけ論争が始まりました。私が書いた批判も、タケセンさんがMLに流すことで私自身も間接的に論争への参加者となりました。

論争のさなか、MLメンバーの一人であった東大大学院哲学教授で唯一“先生”付けされる山脇直司さんが鈴木文部副大臣のレジュメを紹介しました。
http://www.shirakaba.gr.jp/minchi/library/library17.htm 『熟議』という言葉による啓蒙でした。ユルゲン・ハーバーマスという著名な社会学者の言葉を引合いに出し、『熟議』を薦めるという構図で す。現政権の一部閣僚らが使っている言葉です。ところが、これを提唱している学者さんたち自身、議論も対話もできない、しない人たちばかりでした ので、私には悪い冗談にしか聞こえませんでした。『熟議』以前に、まともな対話くらいしてみなさい、という気分です。思想とは、その人の生き方か らにじみ出てくるものであって、言葉にして表現すれば済むものではないのです。
また、それに加え、海外の権威(著名な社会学者)を頼みにして上から目線での啓蒙ですから、”気持ちが悪い”と感じたのです。まるで大手広告代理店が、海外の最先端の流行を引合いに出して、『これからは○○だ。』と煽るような構図です。

もう一つの批判は、このレジュメに出てくるリストに田村氏の名前があり、その点を問題にしたのです。田村氏は、文部科学省「熟議」の実践:熟議懇 談会のメンバーとして載っていました。また、中央教育審議会の主メンバーとして名をなし、この国の教育行政の指針に影響を与える立場にもいまし た。私はこれを見て、この国の教育の行く末に大きな危機感を覚えました。

タケセンさんを通してMLに流された二つの批判は、私の印象を極めて短い文章にしたものでした。
小林さんの反応は、『品性が無い、その上これをMLに流すタケセンさんは問題だ』、という指摘で内容についての批判ではありませんでした。私は、改めて、何故批判したのかを書くことにしました。その一つが、『田村哲夫氏が運営する渋谷教育学園渋谷校とは』であり、田村氏の教育観を 生々しく浮かび上がらせる目的で書いたのです。

ところが、この批判文がMLに投稿される前に、何の通知もなくタケセンさんはMLから小林正弥さんによって追放(登録の削除)されてしまいまし た。
この辺りの経緯は、下記のタケセンさんのブログを参照ください。
【小林正弥 メーリングリストの悲喜劇?(武田)ー税金での運用なので憲法違反です(荒井)】
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/30e9bce112334c33f12b9032e8845a8a
以下に、一部抜粋しておきます。
『わたしは、公共哲学mlの中で議論したところ、突然除名されました(驚)。この会の代表・小林正弥さん(千葉大学教授・NHK「ハーバード白熱教室」の解説者)が高く評価するサンデル教授の思想を批判し、同じく小林さん と近い関係にある鈴木文部副大臣のレジュメを批判する古林治さんのメールを転送したところ、3時間半後に、突然登録を削除されました。』(武田)

私が書いた批判文は、最終的に、小林さんによって公共哲学MLに流されましたが、それに対する反応は、何一つありませんでした。このブログを見て いるはずの山脇さんからも公式でのコメントはありません。


その後しばらくしてから、タケセンさんが自身のブログに、『田村哲夫氏が運営する渋谷教育学園渋谷校とは』を公開しました。この批判文が、現在の 教育が抱える本質的問題の一面を具体的な形で提示していると考えたからです。
哀しいことですが、生々しい具体的現実を前にしない限り、私たち日本人は真剣に考えようとしません。フクシマの悲惨な事件が起こるまで、ほとんど の日本人が原発について真剣に考えようとしなかったように。この機会に、多くの人が現代の教育が抱える深刻な問題に真剣に対峙して欲しいと願っています。


参考:公共哲学論争に関して興味のある方は以下を参照ください。
    【「公共」をめぐる哲学の活躍 ‐‐ これですべてがわかる!!】(武田康弘著)
    http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori127.htm


古林治
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日本社会の全ての問題の根は、「天皇教=靖国思想・東大病=官僚主義」にあります。

2011-08-26 | 恋知(哲学)

「天皇教」というイデオロギーが、「靖国神社」の思想と実践を生み、
「東大病」という精神の病が、「官僚主義」による日本支配を生みました。
このような精神風土のなかでは、人間は、個人として精神的に自立することが難しいのです。

集団の空気に従い、
決められている答えに従い、
権威・専門家に従う。

自分の感じ、思うところに付くことがなく、
自分の経験を基に、自分の頭で思考することがなく、
自分の力で判断する能力がない。

暗記に明け暮れ、
パターンを身に付け、
もんきり型の「正解」にしがみつく。

勉強の仕方も、
運動の仕方も、
遊び方も、みな同じ。
「集団同調主義」とは「天皇教」の別名です。

受験勝者=暗記とパターン知の持ち主を頭がよいと信じ、
客観的正解があると思い込み、
自分の「主観性の知」を鍛えることを知らない。

まるで自動人形。
「優秀な」(笑)機械。
昆虫!?

こういう今までの日本人の考え方=生き方をチェンジしなければ、わが国に明日はない。「情緒オンチ」には人間としての魅力がありません。
わたしは、ずっとそう確信してきました。
そういう意味で〈日本を変えたい〉と思ったのが、わたしの思索と実践の原点です。
1976年に独自の私塾を立ち上げて35年がたちました。


外なる価値に幻惑されず、
内的な生命の輝きを放ち、
「私」から立ち昇るエロースを生み、
悦びと愉しみの多い豊かな人生を創造する。

それがほんらいの人間の生であるはずです。


武田康弘
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民主主義の原理を知らない松下政経塾出身者

2011-08-24 | 社会思想

前原さんにせよ、野田さんにせよ、旧自民党とどこが違うのでしょうか?

官僚に抗えない実力のなさ、
脆弱な現状維持思想、
主権在民を原理とする民主主義に対する甘い理解。

松下政経塾出身者の「エリート」意識は、主権者を市民とする民主主義とは異質なものです。


「民主主義とは何か」を知る最高の教材は、ルソーの『社会契約論』ですが、レトリックを多用した文学的な哲学書であるこの本の真意を読み取るのは難しく、現代の大学教授(受験知の延長でしかない頭脳の持ち主)も荒唐無稽な読み方をする人が多いのです。『社会契約論』の意味は、ルソーの教育論・人間論・文化論である主著の『エミール』と共に読まないと明瞭になりませんので、一般の政治家がこれを勉強するのは難しいでしょう。

そこでわたしが勧めるは、哲学徒であり経済紙(『東洋経済』)の主幹であり、戦後は総理大臣を務めた石橋湛山の著作です。岩波文庫の『石橋湛山評論集』(石橋湛山著)を岩波ブックレットの『石橋湛山の小国主義』(井出孫六著)と共に熟読することが大切です。民主主義を理解する上に不可欠な努力だと言えましょう。

話がそれますが、
政治家ではなく官僚たちも、これらの著作をきちんと読んでいる人は、ほとんどいません。「受験勉強的な知」しか知らない人たちは、理論書の読解を自らの経験とする主体的な読書ができないのです。彼らは、事実の暗記や物事のパターン的理解に留まり(=「事実学」的な情報知の収集)、意味をつかむ(=「意味論」の探求)が不得手なために、現状維持に明け暮れるばかりです。

話を戻しますが、
民主主義の意味と価値を了解する上で大きな助けになるのが、ホイットマンの詩です。
生涯かけて改定を続けた『草の葉』は、アメリカの良心とも言われますが、民主制社会に生きる人類の良心です。内的であることが民主的、民主的であることが内的であることの宣言のような詩で、平明でパワフル、人間の内から湧きあがる声は、民主的倫理の文学的=詩的表現の極地です。

人間存在の対等性と自由を相互に承認し合うことでつくられるルール社会(=開かれた社会)である民主主義の価値を深く知れば、官僚が治める「官治主義」ではいけないことが分明になります。主権者は国民であり、国会議員は「一般意思」の代行者であり、官僚は国民サービスマンなのですから。


武田康弘
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学・官・財・政の四者一体の原発推進、自民党は責任を取らないのでしょうか?

2011-08-23 | 社会思想

東京大学工学部の「学」の権威を支えとして、
経済産業省という「官」が実務的権力を行使し、
電力独占企業体の「財」が金で縛り、
自民党大物議員が「政」の権力世界を支配する。

という四者一体の「惰性態」が、長年にわたり愚かな(=知恵のない)エネルギー政策を進めてきたわけですが、当事者たちは、責任を取らないのでしょうか?

わたしは、先のブログにも書いた通り、「反省」し「謝罪」し「償い」をすることは、【民主的倫理】の基本だと確信しています。
中曽根康弘元首相は、原発の推進者であると同時に道徳教育を柱とする教育改革(孔子の「上下倫理」を学校教育で徹底させる)を熱心に進めた人としても有名ですが、
彼の言う道徳=上下倫理の教育では、「反省」し「謝罪」し「償い」をすることは必要ではないのでしょうか?
もしも、「エリート」族は、何かあっても一生安泰!?というのが道徳だというのであれば、道徳は廃止しなければいけませんね。

孔子思想=上下倫理から、実存思想=民主的倫理への転回が何より必要なのです。上位者は安泰という騙(だま)しの倫理は、社会を深部から腐らせます。

武田康弘
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「原子力保安員は、完全に気が狂っている」(武田教授)・「深刻な事態が進行中」(ジェイコブ教授)

2011-08-23 | 社会批評

「原子力保安員は、完全に気が狂っている」(武田邦彦教授のTV)

「非常に深刻な事態が進行中」(広島市立大学のジェイコブ教授の報告ーロシアTV)

を見ました。You Tubeで、短いものです。


武田康弘
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35年目の式根島キャンプ&ダイビングー明日出発です。

2011-08-16 | 教育

早いもので、こどもたちのキャンプ&ダイビングも今年で35年。

明日、竹芝から式根島に行きます。大浦キャンプ場ですので、式根島に行かれる方は、現地でお会いしましょう。21日に帰ります。

写真は、昨年のものです。とっても素敵な笑顔と海をご覧ください。

武田康弘
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「靖国思想」のおぞましさー民主主義の否定

2011-08-15 | 社会思想

以下は、昨年の8月15日のブログの再録です。


靖国神社の思想と近代民主主義の思想とは二律背反です。


いうまでもなく、主権在民を原理とし自由と平等の理念を掲げた『日本国憲法』と、『靖国神社』の掲げる宗教イデオロギーは、まったく相いれません。靖国神社(明治政府がつくった国家神道)の思想を認めるならば、日本はもう一度、天皇主権の『大日本帝国憲法』時代に戻る他なくなります。

靖国神社は、
天皇大権を当然のこととし、明治以降の日本の戦争はすべて「聖」なるものと主張し、
韓国・中国への植民地支配はなかった!と主張し、
敵と味方を峻別し、天皇陛下のために斃れた者だけを祀ると主張し、
個人の信教の自由を否定して、兵士は日本の軍神=集合神だと主張します。

このような靖国神社の掲げるイデオロギーは、現代の日本国家をつくっている基本理念=近代民主主義の原理とは二律背反ですが、同時に、多神教の『神道』を天皇神格化により疑似的な一神教へと変えた明治政府の所業(神道の国家神道化)は「古き日本」の伝統とも大きく異なりますので、日本の悠久の歴史を主張する人々もまた「靖国思想」には反対しなければならないはずなのです。

明治政府は、富国強兵政策を進めるために、古来の「神道」を「国家神道」へと変えましたが、その思想の下では、一人ひとりのかけがえのなさは否定され、公(おおやけ)とは滅私奉公のことだとされたのです。このような国家主義=靖国思想に縛りつけられたままでは、兵士たちの霊は永久に浮かばれません。
彼らは、戦争のない平和な日本を夢見、差別のない、一人ひとりが大切にされる社会を夢見たはずです。天皇を神として崇め、それに従う人生をよしとしたのではありません。天皇の官吏(官僚)が治める自由のない日本をよしとしたのではありません。軍人が威張る日本をよしとしたのではありません。互いの自由を認め合い、皆でつくる平等なルール社会を夢見たはずです。
死してなお、靖国思想に縛りつけるのは、戦死者への冒涜でしかないのです。一刻も早く、政府の責任で、国立の墓苑をつくらなければいけません。

65年間、その義務を怠ってきた政府に対して、わたしは激しい公共的な怒りと憤りを感じています。



以下は、『靖国神社』の遊就館で売られている宣伝パンフレットからの抜粋です。

小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)の談・1999年8月

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」

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様式が意識を支配する国。  8.15と3.11 失敗から学べ。

2011-08-14 | 恋知(哲学)

わたしたち日本人の生き方は、今もなおやたらと儀式的。
なぜ?なんのため?は問わず、形式・様式優先で事が運びます。
勉強も正解が決まっていて、そこに早く至る訓練だけがあります。
元に戻して考えること、既成の価値意識を洗い直す努力がないのです。

主権在民の民主制を敷き、人間の対等性を謳いながら、生まれながらにして敬語で遇するような存在を置いて怪しみません。1年間で200以上の宗教儀式をする一家族が日本人統合の象徴で、年間170~180億円という税金でこれを賄っていますが、その代わり彼らの人権を制限しています。
明治政府がつくった「近代天皇制」という曖昧なシステムは、まさに「様式による意識の支配」を象徴するものです。

なぜ?なんのため?を問わない=意味論の追求がないために、受験競争(パターン知と丸暗記)の勝者を頭がいいと思い込みます。思考錯誤、創意工夫、臨機応変、当意即妙の才が育たず、自らの具体的経験から立ち上げる思索力・対話力に乏しい人間が増えます。権威と既成秩序に従うのみでは、人間の尊厳は生まれません。「私」からはじまる生は歩めません。それは、深いニヒリズムをうみます。

日本にこだわる者も、海外に憧れる者も、その精神の底はまったく同じです。
形式や様式的思考(紋切型の言語中心主義)だけがあり、「私」からはじまる生がないのです。開かれた私=大我としての自分を中心に生きることができません。中身・内容が希薄で、様式が意識を支配しているからです。豊かな「意味」の追求がないからです。なぜ?なんのため?を無視する只の「事実学」が跋扈(ばっこ)し、その勝者を崇める社会は、貧しいのです。

「私」から始まる生のみが、豊かなエロース溢れる国、楽しく伸びやかな文化の国をつくります。儀式、様式の支配から、中身、内容の豊かな世界へと跳躍したいもの。

8月15日と3月11日 二つの大失敗を根源的に反省し、そこから学ばないと、未来を拓くことは不可能です。


武田康弘
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ホイットマンの「草の葉」、法然・親鸞の他力思想  (白樺ML)

2011-08-13 | 恋知(哲学)

以下は、昨日と今日の「白樺ml」です。


楊原様 皆様

柳の講演会(7月18日)の後、ホイットマンの詩集(「草の葉」)を読んでみたいという楊原さんからの白樺mlメールがありましたが、一昨日の『愉しい哲学の会』でそれについてお話できませんでしたので、メールします。

ホイットマンは、「草の葉」と名づけた詩集を生涯かけて改訂し続けましたので、「草の葉」にその一生が集約されているとも言えます(表題が、平凡=自然・ふつう・健康を端的に表します)。

内的であることが民主的、民主的であることが内的であることの宣言のような「草の葉」は、柳夫妻と寿岳夫妻が出し続けた美しい手づくりの本『ブレイクとホイットマン』=肯定の二詩人において激賞されているように、誰でもが読める平明・分明な詩集で、自己を信頼し、人間の内面性と民主性を高らかに謳った傑作です。

岩波文庫は、1997年の木島始さん編集ですが、活字も大きく見やすいですし、左右見開きで英語と日本語訳が並び、たいへん読みやすく出来ています。
ホイットマンの英語は平明です。まさに「民知」。
対訳・ホイットマン詩集(岩波文庫)560円+税。
みなさん、ぜひ一冊お手元に。

(なお、全訳は、岩波文庫3冊です。)

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武田康弘様

ホイットマン詩集「草の葉」のこと、お教え下さり、ありがとうございます。
お知らせ下さったamazonで注文してみます。
翻訳詩は訳した人の想いが間に介在しますので、元の英文と対訳なのは嬉しいですね。(英語はあんまり分かりませんが・・・)。

先ほどのタケセンさんのブログ「なぜキリスト教は、日本に入れないのか?」―――

心の中で「南無阿弥陀仏」を唱えれば、みな等しく救われるという絶対他力の優れた思想があったから日本ではクリスチャンが少ないということ、以前「愉しい哲学」の授業の時に話が出た韓国の状況との比較するといっそう納得できますね。
韓国はキリスト教信者が全体の30%(カトリックとプロテスタントを含む)、仏教信者が20%くらいだと聞いています。
韓国の仏教の状況はよく分かりませんが、上下倫理である儒教思想の影響が強い韓国にはキリスト教が入りやすかったのかも知れませんね。
とても興味深いです。

楊原泰子

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楊原様、皆様
人間は「意識存在」ゆえに、悩み、迷うのです。ゆえに、救いを求めます。
救われたいと思えば直ちに救われるーこれは弥陀の大願(=自然の摂理)であるゆえに間違いないこと。(救いを必要としない人は、はじめから救われているので、何もする(思う)必要はありません。)
観念に縛られる存在だからこそ、人間の悩みや苦しみは深くなるのですが、その理由(私は意識存在であるゆえに他者の眼差しに恐怖する)を自覚すれば、その牢獄から解放されます。明晰な自覚は、それだけで半ば以上問題を解決するからです。そうなれば、「わたしはわたしの声を出す」=主観性の開発が始まります。わたしから始まる生。
武田

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武田様

ありがとうございます。
法然や親鸞の教えが驚くほど広く深いものであるということ、とても納得できました。
その思想を言葉として、論理としてだけではなく、私自身の人生で、日々の暮らしの中で真摯に向き合い噛みしめてみたいと思います。

ホイットマン詩集「草の葉」をamazonで注文しました。
楽しみにしています。

楊原
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なぜキリスト教は、日本に入れないのか? 

2011-08-12 | 恋知(哲学)

わたしたち「ふつう」の人間(凡夫)は、さまざまな欲望に(五欲)に憑かれ、さまざまな「悪」をおかし、悩み、また苦しみます。
そうだからこそ、死後の極楽浄土は約束されているのです。

阿弥陀仏は、苦しみの多い凡夫(ふつうの人)を一人残らず救うための大願をかけて下さった。ゆえに我々は心の中で「南無阿弥陀仏」を唱えれば、みな等しく救われるのです。

これにより、死後に対する心配や恐れはなくなりましたので、【現世】(この世)のことは、対等な存在であるわれわれ自身が「自らの自由と責任」で話し合って決めればよいのです。阿弥陀仏の前には特権者は一人もいませんから、「ご同胞ご同行」の精神で、対話し議論しながら共に生きるのです。

この法然・親鸞・一遍の「他力本願」思想には、晩年のハイデガー(20世紀ヨーロッパ哲学の雄)も驚愕し、親鸞の前に跪いたのですが、わが国が生みだしたこの絶対他力の思想は、「原罪」の前に怯えるキリスト教思想を超えています。

法然・親鸞・一遍の「他力思想」があるために、世界を席巻してきたキリスト教も日本には入れない、わたしはそう見ています。真宗・浄土真宗は、わが国最大の宗教ですが、「他力思想」の偉大さが現代日本において明瞭に意識されれば、われわれは現実次元において巨大な能動性を発揮するはずです。それは、世界の哲学・宗教と現実世界を変える力を秘めています。


武田康弘


翌日のブログが続きのようになりましたので、併せてご覧ください。
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休みなく動く・働く人間をつくるという教育思想=部活主義=個人性の消去。わが国の貧しさ。

2011-08-10 | 教育

中学校の部活(運動部)の実態は、まるで戦時中の月月火水木金金です。自分の時間を持つこと・余裕をもつことは「悪」であるーそういう貧しい思想が蔓延し、教師も生徒も、夏休みもやすみません(やすめません)。

自分の時間を自分の趣味のために自由に使うことで生まれる「個人性」を消去するー「天皇教」とも呼ばれる日本人の「集団同調主義」(「レジャーでさえ、日本人は、どこへ行き何をするかが決まっている」ウォルフレン)は、貧しい教育思想が生みだす「部活主義」と「受験主義」によって作りだされています。

私が生きる、私から始まる生を創造する、という人間的生の基本がなく、昆虫のような集団同調を求められる国では、頑張れば頑張るほど、個人性・個々人の輝き、個人から立ち昇るエロースを失わせてしまいます。

その意味で、「体育会系」と言われる単純バカが多い集団スポーツの世界で、なでしこジャパンの人たちが見せた「個人性」は、大きな救いです。彼女らの発言・行為は、日本人には珍しく、それぞれの「私」を強く感じさせます。

中学校の教師のみなさん、
あなた方のしている行為―月月火水木金金というやり方は、強く豊かな個人性=主観性に立脚しなければならない時代に逆らい、古い封建的な日本人をつくりだそうとする有害な努力でしかないことを知らなければなりません。まずは、自分がやすみをとり、自由時間をつくることです。夏休みまで部活で消耗していたのでは話になりません。

また、旧態依然の想念・道徳観に基づく『教育委員会』(東京都教育委員会の権力主義などは戦前と変わらず、愚かの極み)やそれを支える『文部科学省』の役人たち(頭の悪い惰性者)の思想は、上下倫理であり民主的倫理に反します。個人性を抑え込むことをよしとする思想は、人間の幸福を元から奪うのです。まさに根源悪としか言えず、「常習的殺人者」(竹内芳郎)と呼ぶほかないでしょう。猛省しなければ、救いはありません。

教師や官僚の皆さん、
人間は何のために生きるのか、哲学する人生をはじめてみませんか?


武田康弘


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コメント欄より

Unknown (林 毅)
2011-08-10 23:37:09

武田先生
先生のお考えに強く賛同いたします。
つい先日、元読売の投手・桑田真澄氏がテレビで「軍隊式の練習はもうやめてもらいたい」
元阪神の赤星氏も「スポーツは本来、楽しんでやるもの!」と申しておりました。特に桑田氏は様々な所でそう訴えているようです。

高校生も含め、夏休みの練習も1,2日程度の休みしかなく、顧問教師の顧問教師による地区大会優勝や県体出場、全国大会出場という極めて勝手な一方的な妄想により、物考えず物言わぬ生徒を作りだしているのが全国的な傾向でございます。

■スポーツ系のみならず吹奏楽等の文化系も同様でございますね。もう30数年前のことでサッカー部でしたが、湖北台中学校や我孫子中すなわち他校の校庭でも「気合が足らない」と言われ暴力を顧問教師から受けたこともございます。


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顧問教師のための部活 (武田康弘)
2011-08-11 10:15:22

林毅さん

確かに、「顧問教師の顧問教師による顧問教師のための部活」ですよね。

勝敗主義による型ハメ部活は、こどもたちの溌剌と輝く生・楽しくのびやかな生を殺します。上下倫理を植え付け、上位者に面従腹背するドレイ根性→無気力人間→ニヒリズムをつくり出すのです。
暗く、重く、権威に従い自分をなくす「情緒オンチ」「情動不足」の惰性態では悲しですよね。

自らが無批判的に既成価値に従うだけのドレイ的存在である教師は、ドレイの仲間を増やすことに日々努力する。こんな愚かな行為はすぐにでもやめなければなりませんね。教師(あるいは親)は、民主的倫理に則って、今までの自分を反省し、生徒(子ども)に謝罪し、償いをする必要があります。


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mixiコメントより

茶所博士2011年08月10日 20:44

 仰るとおりだと思います。中学・高校と部活を強制されて自由時間の削減としか思えなかったです。
 私自身、好きでもないのに強制だったから仕方なく水泳部に入って「やった」のですが、まあ、まじめにやるわけでもないし、結局顧問から首にされました。腹の中では「別にやりたかったわけじゃない。入れというから入ってやったんだ。こっちは首になったほうが清々するがな」と思ってました。こんな無理やりで物になるわけがないのに若いもんを遊ばせとくとろくなことにならん、と偉い連中は思ってるのでしょうね。
 やはり、戦後の教育改革以降、おかしな方向にはしっているのが我が日本の現状ですね。
 戦前の教育から一新されてより良い方向に進んでいる、と終戦直後の子供たちには思えたかもしれません。その後、奇跡とも言われる戦後の復興と高度成長期を支え続けた世代なので、私の両親は「教育を受けられることをありがたく思いなさい」と口をすっぱくして言います。
 しかし、私の中学時代には既に学級崩壊が始まっていて、不登校も増え始めていたし、教師たちの一方的な態度にも服従させられていました。それを「ありがたく思え」というのは納得できませんでした。
 
 なぜ、私と両親と教育に対する捕らえ方が違うのか、私が学校教育を通じて受けてきた心の傷を理解できないのか、長年疑問に思っていましたが、最近になってようやく謎が解けてきました。
 簡単に言えば、戦争中、沖縄や硫黄島で手痛い抵抗を受けたアメリカが占領政策の一環として教育制度を変えてしまい、教師の言うことに集団で服従させるような児童を養成させてきたからです。戦前のものは徹底的に貶められ、西洋的な価値観を植えつけるシステムです。
 これでは、先祖や伝統に敬意を払わないし、個性は否定されて天才が才能を発揮することもできないし、面従腹背の人間ばかり育って、誠意も責任感もない者ばかりが後に続いてしまうようになっています。
 でも、私の両親のような「ギブミーチョコレート世代」は疑問にさえ思わないのですから、問題は野放しのまま。既得権益にしがみつく教育関係者が変革を望むわけもなく、害悪を撒き散らしているのが現状なのです。
 日本の諸問題の原点がここにあります。

 先日の私の日記に書いた小学校教師みたいな輩が出てくるのも無理はないといえましょう。一応、断っておきますが、食事中には語れない内容ですので、飲み食いしながら読まないでください。

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タケセン2011年08月11日 00:01

茶所博士さんの原点が、学校教育とそれを絶対化する親への反発→批判にあることは、以前頂いたコメントからもよく分かります。

わたしは、日本の教育の問題は、民主制を徹底させる方向でしか解決しないと確信しています。民主主義を単なる制度の問題とするのではなく、生き方=民主的&実存的倫理として捉え、それを生きる以外はない、というのがわたしの見切りです。

大人も子供も、男も女も、この世界をつくるパートナーとして互いを遇する、この「存在としての対等性」こそが豊かなエロースを生む源泉であり、優れた社会をつくる基盤だと思うのです。

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よしくんぱっと2011年08月11日 06:57

>私が生きる、私から始まる生を創造する、という人間的生の基本(タケセンさん)

人間は暇でないとイカン、というのが私の人生観ですので、このコメントには大変同感です。

私は幸い、受験勉強だけでなく、学校の勉強というものをほとんどする必要が無い10代を送りました。また、当時は(今もですが)、部活に馴染めない体質でした。
そのときのことがその後の人生に及ぼした影響(良い意味で)は計り知れませんね。暇だと、自分で自分の生き方を創造しないといけなくなります。そこのところのエンジンが身につきました。
タケセンさんがここで批判されている環境に取り込まれなくて、私はほんとに良かったと思っています。

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タケセン2011年08月11日 09:47

よしくんぱっとさんの原点→成功の元は、一般の学校教育思想との距離の遠さにあることは、以前のコメントでよく承知しています。

「暇ではイカン」というのも、ある意味ではわたしも同じです。自分の時間を充実したものにするというのであれば、何より素晴らしいことです。

ここが核心なのですが、自分の時間をフルに活用する、ではなく、脅迫やまたは誘導されて自分が生きる時間を他者(教師や親)に支配されるのでは、「私が生きる、私から始まる生を創造する、という人間的生の基本」を否認されることになります。

ドレイがドレイの仲間を増やすような教育では、誰も幸福にせず、人間が生きる意味は、制度やシステムそれ自体を維持すること(官僚たちの惰性的生)という、笑えない笑話しにしかなりませんよね。

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よしくんぱっと2011年08月11日 10:40

私のモットーは「常に暇であること」ですワ(笑)。
私は、子供の頃にとても多くの暇な時間をもらえました。これの重要性を分かってもらえる人は少数派ですね。

以前、問題児の甥について相談させてもらったことがありますが、覚えていただいていますか?
その子が、昨日まで私の家(ワシントンDC)に居ました。そして滞在中にDC United(プロのサッカーチーム)主催のサッカーキャンプに参加して大活躍!
詳細は妻のブログにゆだねます。

http://ameblo.jp/nukuichimaki/entry-10981436748.html#main

この子は、日本の小学校では、先生から親に電話がかかってくる問題児です。それが、アメリカのサッカーキャンプではヒーロー。そして重要なことですが、それをコーチがポジティブに評価する。

ドレイがドレイの仲間を増やすような教育とは大違いです。

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タケセン2011年08月11日 12:43

ははは、読み違えです。 失礼。
うん、「暇」という言葉の意味の取り方の違いで、どうとも言えますね。

自分で何かをしよう、何かをしたい、という能動性をもつと「問題児」と言われる。よ~~く分かります。いい加減にしてくれ!ですよね。

受動的で、従う子だけがいい、というイデオロギーは、人間を腐らせます。こどものよさ・面白さが消えてしまいますが、それが歪んだ(死んだ)大人をつくります。


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ブリヂストン美術館のDVDー近代絵画の名品

2011-08-10 | 趣味

『ブリヂストン美術館』が制作し販売しているDVDは、とてもよくできています。

石橋財団の誇る世界的な傑作絵画(フランス近代が中心)を紹介するDVDですが、優れた画質で、丁寧で分かりよい解説付きです。
全体像の後でアップされる細部の描写は、作品理解に役立ちます。
男性ナレーターの声は落ち着いた美声で、装丁も上質です。ヨーロッパ近代絵画の一つの頂点=セザンヌ晩年の《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》が表紙を飾ります。この名品もブリヂストン美術館の所蔵品です。

詳しい内容は、美術館のホームページにありますが、これで1000円は、ほんとうにお買い得。美術愛好家だけではなく、子供さんや学生さんのいる家庭にもぜひ。BGMのように流しておくと自然と興味が湧くでしょう。優れた絵画を繰り返し見ることは審美眼を養います。


武田康弘
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原爆はアメリカの間違え。15年戦争は日本の間違え。

2011-08-06 | 社会思想

昨日のブログ=『反省と、謝罪と、償い。よく生きること=民主的倫理の基本です。』に対して、田中王堂→石橋湛山の研究者である内田卓志さんからメールがありましたが、わたしもまったく同感です。以下に写します。

反省なき言い訳は、日米の保守主義の為政者に共通するもので、「民主的倫理」に反する言動というほかありません。わたしたち市民は、上下倫理を排し、民主的倫理に従い生きる実践を続けていきたいと思います。(武田康弘)

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武田先生

『プライベートでも公共の場でも、人間がよく生きるための基本は、失敗や間違いを犯したときには、自分を「反省」し、相手に対して「謝罪」し、「償い」をすることだと思います。』

本日は8/6です。先生のご発言は「生活の基本」だと思っています。人は、間違える存在です。間違えないようにしても間違えてしまう存在です。そのとき「反省」し「謝罪」し「償い」をすることができるか。
そして、自分はしているか、自らの間違えを素直に認めることが本当に必要です。職場でも家庭でもいつもそう感じています。


8/6の原爆投下は、アメリカの間違えです。しかし、15年戦争は日本の間違えでもあったわけです。

武田先生、良いお話に感謝。  合掌   
          

内田卓志
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