思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

残念ですが、尖閣は、日本の領土ではありません。

2018-10-31 | 社会批評

「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したわが国の領土は、北海道、本州、四国、九州と、その周辺の小島に限られることになり、戦前に日本が支配した海外の地は、すべて放棄することになりました。

尖閣列島は、沖縄ではなく、台湾の所属していたことが明白な以上は、尖閣を日本領土とすることはできません。

敗戦時に日本海軍No2で、台湾州のトップであった福田良三さんが実の娘の光子さんに語っていた事実ー「尖閣は自分=台湾の管轄であった」は、決定的です。

以前に出したblogをご覧ください。なぜ、日本政府や外務省は嘘をつくのでしょうか?


残念ながら、「尖閣」は、日本の領土ではないようです。今日の清水光子さんのお話  

2014-09-11 | 学芸

        清水光子さん(9月10日 白樺教育館)

 

今日の「恋知の会」で、
戦時中は台湾州のトップであり、最後(敗戦時)は、支那方面艦隊司令長官であった福田良三(海軍中将・勲一等)の実娘さんの清水光子さん(84歳)は、以下のように話されました。

お父さまから、尖閣は、台湾州の防衛ライン内であることや、台湾の漁民が漁場にしていると聞かされていた。」
また、「海洋学上(海底地形)も沖縄には所属せず、台湾州である」とも話していたとのこです。

清水さんは、「当時の海軍関係者は、尖閣は台湾州に属するものと認識していて、沖縄に所属すると思っていた人はいないはず。」と話されました。


これは、極めて重要な証言で、
台湾州は、ポツダム宣言を受諾して敗戦をしたわが国の領土ではありませんから、尖閣は沖縄に所属していたので日本領だとする政府や外務書の主張は、明らかな嘘であることになります。
日本人だからといって、嘘で領土を拡大することはできません。  中国敵視ではなく、日中友好が必要です。

 

以下は、福田良三さんの写真と、B級戦犯として上海から家族へ宛てた手紙です(クリックで拡大します)。

            

 

なお、興味深いお話がいくつもありましたが、それはまた後日に。

 

追記

 尖閣の領土問題を煽ったのが石原慎太郎であり、乗じたのが愚かな野田総理でした。石原は「シナと戦争したい」と語っていますので、尖閣で中国を挑発することがその目的であることは明らかです。
 領土問題の大宣伝を行う政府と政治家は、日本的「愛国主義」のイデオロギーを浸透させること→社会契約に基づく現憲法の全面廃棄(国体思想の復活)を目的としていますので、

国民は、その戦略の上で踊らされているわけです。
 市民=ネットしか、冷静な真実を伝えられませんので、ぜひ、拡散して、領土問題を冷静に考えましょう。それがホントウの国益=国民益になるはずです。

 

追記2

 伊藤博文は魚釣島=尖閣諸島を日清戦争時に尖閣を日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。

 1885年(明治18年)の時点で、明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。
 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、

魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 しました。


  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

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ポツダム宣言の全文ー元外務省情報局トップの孫崎享さんの著作より転写





 

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米軍基地新設で自国民を愚弄する政府。憲法に縛られるはずの首相が憲法改定の音頭を取る=狂気のさたの安倍政権。

2018-10-31 | 社会批評

近代民主政のイロハも弁えないデタラメな政府が安倍政権で、この政権の独裁的思想と行為は、到底許されるものではありません。

憲法に一番縛られる立場の総理大臣が、憲法改定の音頭を取り、国会で堂々と主張する。常識も知らないあまりの傍若無人さ、夜郎自大のさまに、怒りは頂点に達する。日本はキチガイか病気の国家なのか。

正当性のない戯けた権力を振り回す安倍晋三には、開いた口がふさがらない。ほんとうに頭が悪く、かつ、民主政社会では許されない思想と行為だが、このしてはならぬことをする首相に対するマスコミの追求の弱さは、ニューヨークタイムスの元東京支局長の言う通り、民主制(政)国家では他にないテイタラクです。

野党の批判と追求も弱すぎです。ガンガン非妥協的に攻めなくてはいけません。安倍首相の言動により民主政の屋台骨が抜かれようとしているのに、妥協の余地などまったくありません。

 

また、米軍が、沖縄に巨大な新基地をつくるのに反対する人たちの民意を土足で踏みつけ、強引に自然破壊そのものの埋め立てを始める政府とは、一体、なんなのか。

自国の民を守るのではなく、米軍のために、自国の民を愚弄しイジメる政府は、存在価値ー存在理由がないのです。米軍と共に行う人権蹂躙の悪業としか言えません。

アメリカ海兵隊の訓練をする沖縄の米軍基地は、日本の国防には無関係なのです。海兵隊は、対北朝鮮とも対中国とも関係ない部隊です。米軍の兵士たちの利便性がよいので沖縄に拘るだけのこと。グアムでもテニアンでも全く問題はありません。

日本政府が、アメリカ政府に「普天間の撤退だけをお願いしたい」と申し出れば、アメリカ政府は応じるほかないのです。実に簡単なこと。

それによりアメリカは日本に不利なことは何もできません。アメリカは、日本が同盟国であることを絶対に必要としているのです。米軍の世界戦略にとって、日本列島は地理的に外せないのす。



武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員・国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」などを講義)

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人類思想を俯瞰して三分類したblogに一部説明を加えました。

2018-10-29 | 学芸

 人類思想を俯瞰して三分類したblogに、以下のように一部説明を加えました。青字の部分です。他は変わりません。

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 最後は、唯一神への帰依を説くキリスト(神の子)であり、その弟分として生まれたムハンマド(神の教えを伝える者)です。この二つの世界的な兄弟宗教は、ユダヤ民族の国家宗教である「ユダヤ教」から生まれたものです。ユダヤ教の宗教改革として生まれたのがキリスト教であり、その弟分がイスラム教です。この二者の近親憎悪の激しさは、戦い(殺戮・略奪)の歴史=十字軍の長く凄まじい宗教戦争として有名です。

 言うまでもなく、絶対神(創造神)に従い信仰するという思想と、上記の実存思想とは、根本的に異なる考え方です。

 キリスト教会は、ギリシャ哲学を換骨奪胎することで膨大な神学体系をつくりました。スコラ哲学と呼ばれますが、その改革として出てきたのが17世紀のデカルトに始まる近代西ヨーロッパ哲学です。西欧の学問を明治に直輸入した日本では、哲学といえば、この思想を指しますが、それでは一面的な思想の見方になります。神学の改革としての哲学と言えども、デカルトは代表作の『方法序説』の二部で、神の実在証明を書いているのです。



哲学者・天文学者のヒュパティアは、紀元415年に
「神を信じない者」として、キリスト教徒たちにより
惨殺されました。
(映画「アレクサンドリア」より)

 

人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」



 


 

 

 

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磐梯町のとんでもない挑戦を知り、たまげた!「仏都会津」 復活の企て(徳一ゆかりの慧日寺復元)

2018-10-27 | 学芸

 

 白樺同人の古林治さんは、少し前から奈良時代の法相宗(ほっそうしゅう)の僧侶・徳一(とくいつ・とくいち)にはまっています(最澄や空海との論争)。
わたしは、少し調べていたら、面白そうな本がありましたので、一昨日Amazonに発注しました。今日届いたので、3分の1ほど読みました。


 この本の第1章には、磐梯町(ばんだいまち)の五十嵐町長(現在、四期目)の奮闘が描かれています。彼は、一期目から「度肝を抜くような」提案をし、まさにドン・キホーテさながらの構想と行動で、会津を仏の都として再興させるための活動をしているとのこと。

 具体的には1200年前に創建された慧日寺(えにちじ)を仏像を含めて再現するのですが、広さは15万平方メートルです。すでに12万平方メートルが公有化されていて、民家七軒、磐梯神社なども移転が完了。

 唯識思想(仏教の認識論)と民衆を救うための直接行動で多くの民から篤い信頼を得ていた法相宗(ほっそうしゅう)の徳一が、磐梯山噴火(806年)の直後に創建した「慧日寺」を復元するのは、あらゆる面で困難を極める大事業ですが、着々と進められているようです。ただ驚くほかありません。「仏都会津」を復活させるという巨大な企ては、長州による明治150年云々という小さな話とはケタ違いです。

詳しくは、本書で。


武田康弘

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私たちのお金で暮らす人・皇族・役人・政治家に主権者が頭を下げる日本文化は、奴隷精神丸出し。自分に誇りをもとう!

2018-10-23 | 社会思想

 わたしやあなたの出しているお金で生活している皇族や役人や政治家(みな公務員です)の方が偉い!?という国は、おとぎ話の国でしありませんね。

 憲法1条にある通り、主権者である国民の総意で「象徴」という役割(明仁さんの言葉では「仕事」)をしているのが、天皇です。その一族を皇族と呼んでいますが、明仁さんの言う通り「象徴としての務め」を果たすことで、その対価として、年6億円の収入を得ていますし、宮内庁という役所には年180億円という予算(税金)がついています。

 主権者の意思の代行をする(今の安倍首相は自分の意思を権力を用いて貫きますので、根本的に民主政治とは異なり、憲法違反です)国会議員の歳費は約4,200万円で世界最高です。

 官僚の年収も45歳以上だと年1000万円を超えますし、退職後の天下りでは、楽してお金がもらえます。数年ごとに民間企業を退職・再就職を繰り返し、その都度多額の退職金も得られます。わたしの友人の警察官僚も懐は温かく、仕事は飲むこと、と笑って話しています。日銀などは、役員は年3000万円(総裁は更に上)です。

 そういう主権者の税金で暮らしている人に敬語を用いたり、頭を下げているのは、お人良しを通り越して、純粋な奴隷精神と言えますね。

 いまの天皇の明仁さんや皇后の美智子さんは、その思想も行動もすばらしいもので、わたしは、高く評価していますが、そのことと、構造的な問題とは話が異なります(別次元)。

 国の主権者は国民(わたしでありあなた)です。主権者が、主権者の出すお金(税金)で雇っている公務員たちに頭を下げるのは、昔の全体主義国家、天皇現人神の国家宗教の国の話です。

 きちんと正しく考え、行為するのが健康・健全な精神です。いまの日本は、主権在民の民主政治なのですから、より豊かにより深く民主主義を発展させることが必要です。



武田康弘

 

 

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「勉強しなければ、だいじょうぶ」 という面白い題の本に触発されて。

2018-10-20 | 教育


 そう、勉強しなければ、心も頭も身体も狂いません。
勉強する人は不幸を再生産しています。イヤな人を増やし、悦びも楽しみも奪っていきます。自分をダメにするだけではなく、みなを不愉快にするのです。

 勉強しないことが大切です。いやなことに耐える、言われた通りにやり、意味のない丸暗記に精を出す、プログラムされて自分はなくなり、パターンあてはめの人となる。これでは意味充実の世界とはアベコベです。

 何から何まで「正しい」やり方に従わされ、自分の自分性は消えていきます。どんどん規格品のようになり、私は窒息してしまいます。勉強すると、権威ある者の世界に縛られて、自分で生きるオリジナルな人=健康な人を馬鹿と思うようになります。

 わたしの心身から生まれる関心、興味、わかりたいという欲望に促されて学習すれば、自分の生きることに結びついたよろこびの知がえられます。世界が広がり、気分は最高。学ぶこと、習うことは、人間味のある知の悦びです。

 規格・公式通りの勉強には、今の成果(テスト高得点)だけがあり、無味乾燥のツマラナイ世界、何の役にも立たない知に埋もれて、人間は人間でなくなります。点数取りマシーンになります。競争を最大の価値とする魅力のない存在に堕ちていきます。それを天才!?というのでは、お笑番組です。

 納得する、腑に落ちる、という得する学習は、自分の頭を使うことで得られます。あてはめやパターンを仕込まれた機械頭は、このほんとうの知の学びを嫌い、あてはめで答えることに快感を覚えるまでに逆立ちしてしまいます。意味に満ちた人間的な知は、「勉強」ではなく、自分の頭を悩ませて考える「学習」によって育ちます。

 わたしは、筋力トレーニングやストレッチを生活に組み込み、自分のやり方で、自分が気持ちよいようにしてきました。誰かにやらされたことはなく、自分にフィットする方法と程度で続けてきましたが、知も同じです。競争はしないで、納得を目がけるから、どこまでも進みます。権威者に従わないから、目が曇らず、意識はいつまでも透明です。

 勉強をやめ、のびやかに自由に自分から始まる学習を始めましょう。おとなも子どもも。


武田康弘

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言語論の見方(言葉が先にある)を了解すれば、ソクラテスの「イデア論」(フィロソフィーの核)は分明になります。

2018-10-17 | 恋知(哲学)

以下は、大学クラスの授業で使う「まとめ」です。


 言葉さきにありき、という言語論の見方を了解すれば、ソクラテスのイデア論は分明になります。

 わたしを取り巻く世界のさまざまな「もの」や「性質」や「出来事」をわたしが認識できるのは、言葉によってであり、もしも言葉がなければ、世界を知ることは不可能です。言葉による区分けがなければ、ものごと・できごとの意味をつかむことができません。言葉によって世界を分節し、さらに言葉がもつ概念を組み合わせたり、ずらしたり、次元分けをすることで、わたしは世界の意味を知ることができます。

 そういう意味で、言葉が先にあるのです。ものごと・できごとは、言葉がなければ意味を持たず、意味が分からなければ、人間にとって存在しないのと同じです。さまざまな物質がある、と言っても、言葉によりそれが切り分けられ、秩序づけられないと混沌とした塊にすぎません。さらに名詞ではなく概念語(愛とか誠とか善美とか真実とか)は、言葉そのものです。ものごと・できごとがある、と思うのも、それが言葉で言われる(定義される)からです。

 「なにかがあって、言葉で名づける」というのではなく、言葉で名づけたから、あるものやできごとが、そのようなものとしてある(とイメージされる)のです。言葉によって意味付けられないものごとは、人間にとっては存在しないのと同じです。これを明晰に認識すれば、難解と思える「イデア」論(ソクラテス・プラトンによる)も、簡明になります。

 一匹一匹の馬は存在しない、ほんとうに存在するのは、馬のイデア(原型・理念・典型・見本)だ、と主張するイデア論は、へんてこな話に聞こえますが、冗談ではないのです。馬という言葉の意味があってはじめて、人間はそれをそれとして認識できるのであり、【言葉が先にある】という言語論の主張と同じことです。人間にとって「存在する」というのは、言葉で名付けられた意味が存在するのであり、ただのものや事態というのは存在しようがないのです。
 
 「善美のイデア」というと、とても難しく聞こえますが、実は簡明です。誰でもが善美という概念語を聞いて、なんとなくイメージが浮かびます。サルに言葉を教えても個物だけであり、概念語は分かりませんが、人間はよいとか美しいいう言葉を使うことができます。善美をイメージし、それに憧れることができます。そのイデアの内実を、明瞭な言葉で定義するのは不可能ですが、そのイメージはだんだん豊かになり、ふくらみます。ソクラテスの言うように、善美のイデアそのものを知ることはできませんが、それを憧れ求めることは可能で、その営み=フィロソフィ-(恋知)こそ、人間を人間にする、という訳です。

 これが言語論からみると簡明になるイデア論の意味です。



 いま述べたように、人間の認識にとっては、言葉が先にありきですが、それは、下手をるすると「言語中心主義」の陥穽にハマりますので、要注意です。

 言葉が先だと言うのは、言葉が言葉として自立する、という意味ではありません。例えば、「石」という言葉の意味を言葉で定義することは不可能です。実際に見て触ってという体験がなければ、「石」という言葉の意味はわかりません。辞書で「石」を引くとどうでるか?これは大笑いの定義ですので、ぜひ引いてみてください。「石」に限らず、大多数の名詞は、体験がないと、意味は定義できないですし、その他の言葉の多くも、体験として五感で感じ知るという基盤がないと、宙に浮いたような話になり、意味が確定せず、内容は曖昧なものとなります。

 椅子とか机という簡単な言葉も、それを人間の用途から外して、客観的・物質的に定義することは不可能です。言葉は、人間の目と耳と鼻と口と皮膚で感じ知るという体験=直観と結びついていますので、生きて作用するのですが、それが弱いと言語だけが独り歩きして、意味不明の世界に入ります。五感をふるに用いた心身全体での会得という人間の生の究極の基盤が失われてしまったら、元からアウトです。言語明晰意味不明の迷宮に昇天してしまいます。

 人間の認識は、①運動・感覚次元と、②想像力次元と、③言語次元とがよく連動することで、価値のあるものになります。言語次元ばかりに集中すれば、認識は脆弱で不健康なものとなり、偏向していきます。日々の経験という生きる土台が希薄になれば、言葉もまた軽々しく価値の少ないものにしかなりません。生活世界の体験から感じ、想い、考えることがなければ、すべて砂上の楼閣です。言語の使用を可能にしているのは、広大なイマジネーションの世界ですが、それを開発する努力を怠ると、固く狭い言葉に縛られて自由を失っていきます。

 「言葉さきにありき」であるゆえに、言語の呪縛力は凄まじいものです。それを片時も忘れてはなりません。生身の生きた人間が言葉を用いて思考し、行為し、対話する、というほんとうの現実から離れてしまうと、おかしな観念の虜になり、人間の生はスポイルされてしまいます。


武田康弘

 

 

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いま、TBSで北村弁護士が渾身の告発!日本の警察・検察・裁判所の恐ろしさ・不正義。阪原弘さん無実で終身刑、獄死。

2018-10-16 | 社会批評

 日本の警察官と検察官と裁判官の人権感覚と人権思想のなさ、それにより数え切れないほどの人々が無実の罪を被らされ、死刑になった人が幾人もいるのは承知の通りです。
 再審さえ認めず、国連から幾度も批判されている日本国の人権無視の司法の現実。警察や検察による証拠のでっち上げも後をたちません。

 いま、TBSで、北村弁護士は、日本の刑事司法に正義はない、と言われてもしかたがない、と厳しく批判していましたが、
少しでも「正義」を実現するために、1時間を使い、詳細に事件を説明した番組を放映したTBSと、渾身の解説をした北村弁護士に感謝します。
遺族のみなさまの真っ直ぐな心と不退転の覚悟と粘り強い行動には頭が下がります。

 それにしても、なぜ、警察や司法関係者は、これほどまでに殺伐としたな行為が出来るのでしょうか。善美への憧れも真実への探求心もありません。
こういう脅しやでっち上げなどの犯罪を行った警察官や司法関係者が逮捕されず、罪を問われないのは許し難いことです。彼らは、どういう育ちなのでしょうか。

京都弁護士会の声明文














 

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人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」

2018-10-10 | 恋知(哲学)

  人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」

 わたしは、神は唯一なり、神は実在する、神の声、神に従う、などという一神教は、嫌いというより、困った思想であると思っています。
 その絶対神=超越神を真似て「疑似一神教」(天皇現人神)をつくった伊藤博文らの明治維新の過激な人たちの思想は、愚かで危険だと見ています。少なくとも近代社会の常識から見れば、異様な思想であることは明白です。

 こういう異様な心=何かに憑りつかれた精神に陥ることのないように注意し、生き生きと自由で健康な精神=自己判断能力を育てようとするのが、現代の教育の基本的な使命であることは間違いありません。

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  では、現代にまで影響を与えている人類の三つの思想について概観してみましょう。

  歴史的に一番古いのは、紀元前6世紀に現れた孔子です、それは儒学となり、その流れは、朱子学や陽明学を生みました。陽明学の実践・行動重視の考え方は、+にも-にも働き、最近では盾の会をつくり市ヶ谷自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫を支えました。

  元々、孔子は、当時すでに崩れていた「君主政治」を理想と考えていました。君主政治に戻すべきと考えていた孔子は、君子に仕える者の道徳、生き方・考え方をつくりました。『論語』として知られていますが、それは、含蓄に富む言葉や普遍的なよきものに通じる思想も持ちますが、全体としては、上位者に仕える人間の生き方を示しています。日本の明治維新の尊王思想(天皇現人神)を支えた水戸学も儒学です。上下意識の厳しい封建道徳であり、《人間存在の対等性に基づき互いの自由を認め合う》という民主主義の社会には適合しません。

 しかし、いまなお力をもつのは、会社や学校や運動部などで民主化が遅れていて、封建的あるいは全体主義的な組織運営が根強く残っているからです。日本文化が、「形と序列」の二文字で収まるのも、儒教・儒学の深い負の遺産と言えましょう。

 

 次には、孔子に遅れること80年、世界の三か所で連続して誕生したのが「実存思想」です。紀元前5世紀にエーゲ海沿岸のアテネに生まれたソクラテス(BC469年)と、インド(ネパール)に生まれたブッダ=釈迦(BC463年中村元説)と、中国にうまれた老耼(老子・BC320年ころ?)。ここで詳しく説明はできませんが、異なる点はあっても、みな、人はどのように生きるか、を国家とか全体の都合(支配者の利害)で考えるのではなく、一人ひとりの心の真実から立ち上げた思想として重なります。

 絶対とか厳禁という考え方とは無縁で、誰かに従うのではなく、各自の思考力と対話により優れた考えを導くというディアレクティケー(問答法)により普遍的(自他ともに深く納得できる)考え方を目がけたのがソクラテスです。

 人はみな唯我独尊として生まれてきたというブッダ(釈迦)は、すべては縁により起こるという真実を明らかにし、究極の拠り所は自分であり法則である(自帰依ー法帰依)という根本思想につき、慈悲に満ちています。

 ソクラテスの思想とブッダの思想は、親近性をもち、基本思想が重なります。それは、両者ともアーリア人と現地人との混合・混血の上に成立しているという事情によるのでしょう。生年も数年しか違いません。両者の死後、紀元前3世紀にはギリシャ王たちと仏教者とは盛んに交流をもち、多くのギリシャ王が仏教に帰依していますし、内容豊かな対話も残されています。超越的な「神」という概念を持たず、人間の思索の力を信頼して対話をする両者は、知恵の協奏といえます。

 中国の老子は、無為自然をkeywordに、儒学を批判して差別や権力的な人間関係を大元から断ち、女性原理につくことで平和をつくるエコロジーとフェミニズムの深い思想を展開しました。これら三者は、みな、異なる一人ひとりの人間性を深く肯定し愛する思想で、もっとも根源的な【実存思想】と言えます。

 

   最後は、唯一神への帰依を説くキリスト(神の子)であり、その弟分として生まれたムハンマド(神の教えを伝える者)です。この二つの世界的な兄弟宗教は、ユダヤ民族の国家宗教である「ユダヤ教」から生まれたものです。ユダヤ教の宗教改革として生まれたのがキリスト教であり、その弟分がイスラム教です。この二者の近親憎悪の激しさは、戦い(殺戮・略奪)の歴史=十字軍の長く凄まじい宗教戦争として有名です。

 言うまでもなく、絶対神(創造神)に従い信仰するという思想と、上記の実存思想とは、根本的に異なる考え方です。

 キリスト教会は、ギリシャ哲学を換骨奪胎することで膨大な神学体系をつくりました。スコラ哲学と呼ばれますが、その改革として出てきたのが17世紀のデカルトに始まる近代西ヨーロッパ哲学です。西欧の学問を明治に直輸入した日本では、哲学といえば、この思想を指しますが、それでは一面的な思想の見方になります。神学の改革としての哲学と言えども、デカルトは代表作の「方法序説」の二部で、神の実在証明を書いているのです。

 近代西欧哲学は、本質的にキリスト教の世俗化としての理論体系ですので、スコラ哲学がめがけたもの=人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述しようとする意思を受け継いでいます。そのために、理論は複雑で難解となる宿命をもち、言葉の構築物としての論理の体系となり、カントからへーゲルに至るドイツ観念論でピークに達しました。人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述するというのは、宗教の宣託のようなものでない限り出来えない不可能事ですが、その出来えないことの努力を続けたのが西欧の「近代哲学」だとも言えます。その歴史は、20世紀最大の哲学者といわれたハイデガーが、1966年に行ったシュピーゲル対話で幕を閉じたと言えるでしょう。

 シュピーゲル対話では、ハイデガーは、哲学にはもはや何も期待できないと言い、従来の哲学の地位はサイバネティクスが占め、諸科学が哲学の替わりをする、と主張しました。哲学は無力だと繰り返し述べ、われわれ人類にできることは、何百年後かに現れる「神」のようなものを待つだけだ、と言いましたが、これは、ハイデガーの存在論(人間と世界のトータルな解明)の挫折であり、「哲学の敗北宣言」と言えます。

 17世紀に始まり20世紀に終わったのが西欧近代哲学と言えますが、この西欧哲学(キリスト教という一神教がバックボーンにある)は、ルネサンスの運動で明らかなように、古代エーゲ海文明への憧れに端を発していて、ギリシャのフィロソフィー(恋知)を換骨奪胎してキリスト教神学をつくり、その上に乗ったものでしたから、相当な無理の上に建てられた思想(形而上学)の建造物であったわけです。

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 わたしの提唱する《恋知》とは、一人ひとりの感じ・想い・考える営みを活発にすることで、意味充実の生を目がけるものです。誰の心にも先天的に備わっている善美へ憧れ心と真実を知りたいという心を不動の座標軸とする生き方ですので、二番目の実存思想と重なります。ソクラテスやブッダや老子に学ぶ温故知新の営みで、日々を支え、未来へ向けて開かれた考え方ー生き方の原理です。

 わが国の宗教である仏教と「恋知」は思想の土台は同じなのですが、ただし、色合いはかなり異なります。

 「恋知」という発想は、現実的で能動性が強く、開放的で明るいのです。子どものよさに学ぼうとする発想がいつも元にあります。いわゆるネオテニーという人間の特性の顕在化です。

 また、とても重要な違いは、性に対する考え方です。「恋知」は、ソクラテスの思想(「饗宴」「パイドロス」)と同じで、恋愛を人間の人間的な生の象徴として捉え、よきものとして肯定します。ソクラテスは、エロ―スという性愛を含む恋愛への情熱を、善美や真実を求める動力源と考えますが、「恋知」も同じく、人間の自然性を尊び、真剣や真面目も、堅苦しいものとしてではなく、それらを、恋愛における態度と同じものとします。更には、老子の思想は、女性原理につきます。

 次に「恋知」と公共性について簡潔に記します。

 恋知という実存思想は、公共哲学を支える「主観性の知」として提示されている通り(金泰昌と武田康弘の哲学往復書簡)、公共性をもち社会に向けて開かれていて、特定の階層による政治や国家主義に対して、明確に否と言い、市民の市民のための市民による自治政治=民主性・民主政・民主制につきます。平和への希求を強くもち、直接攻撃を受けたのではない限りは、あらゆる武器使用と戦争に反対します。

 人間の生まれによる上下意識も元から排し、分かち合いという倫理につきますが、これらは、ブッダの思想と重なります。知識や履歴や財産の【所有】の多さに価値を置かず、【存在】そのもののよさ=魅力に価値を見ます。他との比較・競争主義を排し、納得を原理として、誰もがそれぞれの輝き=魅力を発揮できるような思想の態度です。その実現のために、格差を生まない法と制度に基づく自由主義経済を求めます。

 わたしは、もちろん、宗教者の考え方ー生き方を否定はしませんが、こどもたちに示すことができるのは、「実存思想」しかないと思っています。一神教を信じることを教えたり、上位者に仕える道徳を守れ、と教えることが「禁じ手」であるのは自明でしょう。わたしの40年以上にわたる教育実践は、上記の実存思想に基づいたもので、それは、心身全体による豊かな愛情と一体です。

 1979年~天体観望会                  2015年第39回式根島キャンプダイビング(63歳)

2008年参議院での討論(56歳)               2014年 白樺教育館・新館落成10周年

 

 恋知 第2章では、一神教ではなく、世俗主義でもない「健康な生き方」を提示しました。

 

 わたしは、恋知2章で、人間の人間としての生き方・考え方の基本を書きました。その土台の提示と共にキリスト教の影響下にある従来の西ヨーロッパ哲学や社会思想への見方、学習の仕方や生活仕方などについての反省と新たな考え方を記しました。

 それは、宗教とは異なる「恋知」という広義のフィロソフィーですが、それなくしては、囚われなく自信をもって思想に関連する領域(宗教であれ主義であれ)を検討することはできません。

 とりわけキリスト教の強い影響下にある欧米の学問を直輸入した明治以降の日本では、学問に携わる人は、知らぬ間にキリスト教シンパに陥りがちですので、人間や社会の見方には大きな偏りが生じます。その歪みを正すには、一神教(唯一神)によらずに人間の人間的な生の土台が説得力をもって明瞭・分明にされる必要があります。

 恋知という広義のフィロソフィーは、そのための基盤です。外部に超越的な「真理」を置かず、自分の心身と頭で感じ・想い・考える営みを座標軸とする生き方以外はないことの明晰な自覚は、何よりも大切です。その考え方に基づき日々を生きる「内発的な生」なしには、何事でも本質レベルにおける前進は不可能です。従来の思想の批判・検討もできません。

 恋知という発想=思想は、理論体系ではないですし、宗教性もありません。よき生の原理を踏まえて日々を生きること(実践)で、さまざまな領域でよきものを花咲かせる、という効果をもたらす態度です。知らぬ間に深く効きます。強い宗教(キリスト教や日本の天皇教など)や強固なイデオロギー(マルクス主義など)を必要としない自由でしなやかな生を可能とする原理、それが『恋知』です。

 それは、紀元前5世紀に誕生したソクラテス(アテネ)とブッダ(ネパール・インド)、それに続く老子(中国)、また、中世の親鸞(日本)や20世紀のサルトル(フランス)らの実存思想とも重なる人間性を豊かに開花させる思想です。


武田康弘  2018年10月(66歳)
 孫のなな&れんの運動会で。
 おんぶしているのは、
 わたしの知らない女の子(笑)。

 

コメント

昨日のアクセス数は、桜田大臣の本音の吐露への多数のアクセスで、280万blog中5位。感謝です。

2018-10-06 | その他

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10月5日のアクセス数

  • 閲覧数 24,022
  • 訪問者数 16,522
  • 順位:5位 / 2,842,293ブログ中 

    桜田義孝五輪大臣の暴言記事(本音の吐露)にとても多くのアクセスがあり、280万blog中の5位でした。ぜひ、引き続き拡散をお願いします。こういう政治家は、良識ある市民の力で、やめさせましょう。それが市民・国民主権の民主政治のほんらいの姿です。

    武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員ー「日本国憲法の哲学的土台」などを講義)
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このわたしのblogの閲覧数は、時間と共に数が減らされています。事務局で意図的にしているのでしょうか?

2018-10-05 | その他

 

いままで幾度もあって、今回もそうなのですが、時間とともに閲覧数が増えるのではなく、減らされています。

リアルタイム解析でみるアクセス数が、
トップ記事(桜田五輪大臣の記事)が、何千という数から、1700台にされ、
その後はどんどん増えましたが、いまも、数時間後たったところで、7900件から7100件に減っています。

17時24分では、6900件台に。


証拠に、アクセス数の時々の状況をコピーしてあります。

いま、22時30分では4900件台に  更にどんどん数が減り、22時50分では、4700件台までに減っています。どんどん減ります。

これは、トップ記事の数ですが、合計が何千件も減れば、全Blog中(200万件以上)の中で上位一桁に入るものが、何十位となり、注目されなくなります。


武田
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昨日、2回事務局への問い合わせをしましたが、その返信がありました。

お問い合わせの件ですが、 リアルタイムアクセス解析のページ上に表示される アクセス数が時間とともに減少しているとのことでしょうか。 リアルタイムアクセス解析ページにつきまして、 以下3項目につきましては過去6時間分のアクセス数をグラフで表示しております。 ・現在のアクセス数 ・アクセスされたページ ・アクセス元ページ 直近6時間のアクセス数を表示しておりますので、 ご覧いただく時間によってアクセス数が増減いたします。 今後ともgooをご愛顧くださいますようよろしくお願いいたします。
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 以上の内容でしたので、この件については了承しましたので、その旨を返信しました。

 わたしが、これは変だな、と思い、警戒した理由は、以下です。

 わたしがBLOGを始めたのは2004年です。それは、
このgooブログと同じNTTの経営するDOブログでしたが、数年経った時点で、突然、閉鎖されてしまい、わたしの書いた記事がすべて失われてしまいました。その後、不完全な形で、改行もなく全文がベタな状態で送られてきましたが、その処理にとても苦労し、結局は不備のままになりました。

 閉鎖されてしまったので、そのあとで同じNTTの経営によるgooブログに移行した(他社だと移行がうまくできないので)わけです。

 しかし、ここでも大問題を二度も経験させられることになったのです。

 一度目は、何の連絡もなく、閲覧不能にされてしまい、意味不明なので、事務局に何度も問い合わせました。ようやく返信がきましたが、それは、音楽著作権に触れるBLOGがあったから、というものでした。わたしが素晴らしい歌詞だとして紹介したBLOGが、著作権に反するというのです。それで、そのBLOGでなく、すべてのBLOGを閲覧不可としたのでした。メールで問い合わせても埒が明かないので、電話で幾日にもわたり、強く話して、ようやくBLOGが再開されたのでした。凄く労力のいる作業で参りました。

 次には、今年2月、突然、「いいね!」の数がすべてのBLOGでゼロになりましたので、仰天しました。なぜ、と問い合わせると、システムの変更に伴いフェイスブックからの過去の「いいね!」の数が表示されなくなった。再表示することは不可能ということでした。35万件の「いいね!」をはじめ1万件以上の「いいね!」をいただいた記事もたくさんありましたが、すべてゼロになってしまったのです。

 というなにかとても荒っぽい運営に、幾度も煮え湯を飲ませれている(笑・困)わたしは、神経質にならざるを得ないのです。なぜ、利用者の立場にたった安心できる運営をしないのか、不思議としか言いようがありません。






 

コメント

桜田五輪大臣へ。3日のblogへの異論・反論があれば、お寄せください。原文のまま公開しますので。

2018-10-05 | 社会批評

10月3日のblog

 桜田義孝五輪大臣(今度、初入閣)が我孫子の一市民に放った言葉 「おい、お前、国に逆らう気なのか!」
に対して、桜田義孝五輪大臣の異論・反論があれば、そのまま公開します。桜田義孝さん、ご遠慮なくお寄せください。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員ーー「日本国憲法の哲学的土台」について講義)

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桜田義孝五輪大臣(今度、初入閣)が我孫子の一市民に放った言葉 「おい、お前、国に逆らう気なのか!」

2018-10-03 | 社会批評

  以前のBLOGより一部を抜粋して載せます。わたしの選挙区の桜田義孝議員(今回はじめて入閣)のすさまじい発言があります。

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「ポツダム宣言」受諾による敗戦までの明治憲法(大日本帝国憲法)では、主権は天皇にありましたが、現憲法では、主権者(国家権力の源泉)は、わたしやあなた=市民・国民にあるのです。小学校の教科書に記載されている通りです。

 主権者を天皇から国民へ変える大転回(GHQは、天皇主権は変えないとする日本政府と保守二大政党の憲法改正案を認めず、高野岩三郎・鈴木安蔵ら民間人七名による憲法案=主権は国民にあり、天皇は儀礼を司るのみ、を参考にして憲法案を作った)をはたしてから70年以上経ちますが、いまだに、政府や官邸の意思を、国の意思だと言う!!??もう、これは、低脳か詐欺のどちらでしかありません。「上官の命令は天皇(=国家)の命令である」という戦前思想が今もなお続いているかのようです。

 きちんと言葉を使わないで、政府・官邸の意思や官僚組織の都合のことを「国」と呼んだのでは、政府批判も官僚批判もできなくなります。
「おい、お前、【国】に逆らう気かなのか!」(これは、自民党の桜田衆議院議員が、我孫子の一市民にみなの前で言った言葉です)。

 国という言葉には、大きく3つの意味があります。わざとごちゃ混ぜにして、政府の方針への批判をしにくくする詐術はもういい加減にやめなければいけません。
 国の主人公は、わたしでありあなたです。国は、わたしとあなたの意思とお金を出し合ってつくるものです(それが「社会契約」の意味本質)。わたしとあなた=公共の意思とは別に国家権力があるというのならば、その権力は正当性を持ちません。

 それにしても、ある特定の考え方や政策を、「国」の方針だと言い、まるで、国という生物あるいは物体が存在するかのように錯覚させるというのは、恐るべき詐術というほかありません。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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言い放たれた本人の古林治さんが、FBに詳しく書き込んでくれましたので、以下にコピーします。
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Osamu Furubayashi 昔、私が一市議の後援会会長を引き受けていたころの話。
衆議院選挙の折、みなが誰に入れたらいいかわからないというので、候補者をミニ集会に(別々に)招いて直接話を聞くことに。
桜田氏も自民党候補者として参加。
桜田候補は一通り自分の主張を語り続け、当時、自民党政権が実現した少年法改正(罰則強化)を自慢したのでした。
私が桜田氏の本音を引き出そうと発言しました。

「桜田さん、少年法改正が必要なら変えるのは結構ですが、子供たちが荒れるのは少年法に問題があるからではなくて大人社会の方に問題があるからです。そのことに留意する必要があるのではないですか?」

桜田氏はその瞬間、顔を真っ赤にして激高し、大声でしゃべりはじめました。
「・・・これまで国家を批判する輩がこの国をダメにしてきたんだ。
日教組がありもしないことを教えて国をダメにしてきたんだ。
あんたみたいなサヨク的人間がこの国をダメにしてきたんだ。
従軍慰安婦だとかありもしないことを言い続けてこの国の誇りを踏みにじってきたんだ。
私なんか・・・・」

これはまずいと思ったのか、横にいた隣の選挙区の自民候補者(松戸の渡辺ひろみち氏だったかな?)が止めに入ってもやめず、集会参加者たち(自民党支持者もいた)はみな、ドン引き状態。
こんなアブナイ国粋主義者とは誰も思っていなかったのです。

ミニ集会終了後、「失敗だった。やったな。」とか言われましたが、後の祭り。
「本音を語ってくれてありがとうございました。」と返事。
もっとも、私はどの候補者に対してもニュートラルに本音を聞き出そうとしただけです。
この時、桜田氏は落選、でも確か比例で当選したのでした。

まさか、こんな人間が閣僚とは!

五輪相になって、ナショナリズムを煽り立て国粋主義へと一気に舵を切ろうって魂胆?
やれやれ、いい加減にしろって!

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「これまで国家を批判する輩がこの国をダメにしてきたんだ。」という発言に現れる思想は、民主政の原理に反しますから、大臣や国会議員の資格がありません。
辞めてもらうほかありません。
国家(state)を批判することは、主権者の権利どころか義務でさえある、というのが、民主政(デモクラシー)の原理ですから、それを否定する人は議員としての最低限の資格もありません。

武田康弘

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