思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

改竄を見過ごし、放置!(読売新聞)――検察の悪は誰が正すのか?

2010-09-22 | 社会批評

以下は読売新聞です。

「押収資料のフロッピーディスク(FD)のデータを改ざんしたとして証拠隠滅容疑で逮捕された大阪地検特捜部検事・前田恒彦容疑者(43)が、今年2月初め頃、特捜部の当時の大坪弘道部長(現・京都地検次席検事)に対し、「FDを手直ししてしまった可能性がある」と報告し、当時の次席検事、検事正にも伝わっていたことが、検察関係者の話でわかった。

 地検首脳部が犯罪につながる行為を把握しながら放置していたことになる。

 関係者によると、今年1月に開かれた厚生労働省の村木厚子元局長(54)(無罪確定)の初公判で、弁護側は証明書の作成日時に関する検察主張と、FDのデータを基に作成されたとする捜査報告書との日付が食い違うと指摘。その後、前田容疑者がFDに細工したとのうわさが地検内で広がったという。」


こういうのを「組織ぐるみ」というのです。元・大阪高等検察庁の三井環さんにより検察庁の裏金づくり実態(検事正の全員が関与)も内部告発されていますし、小沢事件にしても、元検事の郷原信郎さんは、不当な政治的弾圧だと証言しています。
検察を監視する有効な仕組みがないのは、現在の検察組織が、官僚は絶対善だとする立場でつくられているからです。それをつくったのは、天皇を神聖視する国粋主義者として知られた第35代総理大臣の平沼騏一郎(A級戦犯・靖国神社に合祀)だと言われています。戦前の思想(天皇の官吏としての公務員)によりつくられたキャリアシステムの官僚組織が生き残っているわけですが、この【官治主義】の象徴である検察庁の改革に着手しない限り、民主主義を現実のものとすることはできないはすです。
政治の緊急課題です。

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実存の引き受け=責任は、はじめの一歩。

2010-09-21 | 恋知(哲学)
9月7日のブログ「個人レベルでも公共レベルでも、よき人間の生にとって最も重要なのは、【責任】です」は、サルトル哲学の核心点についてでしたが、これに対して、内田卓也さんから以下のメールをもらいましたのでご紹介します。


武田先生
私の大学の時はすでにサルトルは、過去の遺物のようでした。ポストモダンの流行
(構造主義や脱構造主義)でサルトルのことはあまり話題にならなかったのです。
ただ、私はいまだにサルトルに惹かれます。あの楽天的ともいえる彼の思想の明るさ
は、いったいどこから来るのでしょうか?
サルトルの自由と責任とそして覚悟の問題、武田先生の主張に共感します。
ただ、私には「強い思想」過ぎる感じなのです。私の感じなので人によって違うので
しょう。私は、現代日本のことを考えすぎなのでしょうか、責任(自己責任)や自立
(律)を強調するには、あまりにも日本の社会基盤が弱いのです。正社員どころか、
就職先もなく絶望している若者に責任を強調しても無理でしょう。だから、私は「弱
い個人」を想定して考えたいと思います。責任を持ちたくても持てない社会におかれ
ている個人が問題なのです。構造改革以来の社会的中間層の弱体化の促進が一層進ん
でいます。
そこで大切なのは、やはり教育でしょう。ここを原理的に改革しない限り、一時経済
が回復してもダメだと思います。(経済のことは次の機会に)それでも当面の経済回
復は必要です。
「神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」
は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサ
ルトル哲学でした。」それが実存であり、そこに自由が開け、倫理的に生きることも
出来るという思想、その思想を選び取るのも他者には代替不可能なこの「私」である
ところの実存なのでしょう。全く賛成です。ただ、実存として生きる決断をするには
あまりにも酷な状況を作ってしまったのは、私を始め大人たちの責任が大だと思って
います。私の今思っている素朴な感想です。弱い個人を前提として、その個人が責任
や自覚や決断を可能とする地平である自由を選びとれる哲学が創れないでしょうか。
如何ですか。白樺の方々は切実に考えておられるかもしれません。  内田


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内田さん

わたしは、人間が生きる上で一番基本となるのは、自分の存在を「引き受ける」ことにあると思うのです。たとえ、それがどのようなものであったとしても。
もちろん、自分の存在は、自分で「引き受ける」以外にはないのですが、核心は、そのことの明晰な自覚です。

「神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサルトル哲学でした。」
と、わたしは書きましたが、それは、一つの思想ではなく、人間の生の普遍的な原理です。それ以外はないのです。

たとえ、実存として生きたくなくとも、そうする他はありません。そのことを深く自覚できた時、誰であれ、人生は変わります。そこから人間としての生が始まるのです。「責任」の意識と行為=「引き受ける」ということ、それがはじめの一歩です。

無意識的・受動的引き受けから、自覚的・能動的引き受けへのコペルニクス的転換、それが人間のよき生の条件なのです。


武田

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サンデル教授の困った思考法に倣う大学人

2010-09-17 | 趣味
下のブログに対する荒井達夫さんのコメントに返信しましたが、大事な問題ですので、ブログにします。


わたしの指摘は、
サンデル教授の思考法が、
極限状態における人間の行為の是非と、日常生活における社会思想の良否を混同させてしまうために(=次元の混同)社会・人間問題の適切な分析にも解決にもならず、思考を混乱させるだけである、
とのものです。
これは、ソフィストの思考法(ディベート=言語ゲーム)であり、真実を目がけるソクラテスの問答法(ディアレクティケー)とは無縁です。

ところが、これはひとりサンデル教授の思考法の欠陥ではなく、多くの大学人に共通する実に困った問題です。単なる「事実学」(フッサールの概念)の累積が学問だと信じ込んでいる大学人の多数派は、知を硬直化させ、知から有意味性を奪っています。事実学とは、受験知の延長上にある「パターン知=二次元的な平面知」のことですが、立体から見れば影に過ぎない世界を実像だと思い込むために(比ゆ的には、写真を現実と混同するものと言えます)、言葉の上の問題を現実の問題としてしまい、いたずらに混乱を招く形式論理なのです。

小林正弥さんらの公共哲学が言葉の遊戯・造語趣味に陥るのは、頭脳(=思考構造)が立体化していないために、平面的思考の枠内で現実問題に取り組まざるを得ないからです。形式論理でしかない「事実学」の累積では現実問題を解決する視座が得られないために、「霊性」をプラスして、公共哲哲学運動を【公共的霊性(スピリチュアル)】の運動としていますが、これを公金で行っているのですから、なんとも酷い話です。

人間の生の問題や社会問題を考えるには、『意味論・本質論』として取り組まなければならず、『事実学』の累積ではどうしようもないのですが、そのことの明晰な認識を持つ人が少数なのは、ほんとうに困った問題(知のありようと教育)です。

事実学だけなら、勉強時間を増やして暗記すればいいのですが、そのような頭の使い方をしていれば、論理とはイコール「形式論理」となり、知は【受験知・官知】という狭く固い非人間的な〈形式知〉に堕ちる他ありません。まさに「人間を幸福にしない知」と言えます。いま何よりも必要なのは、ディアレクティケーの営み=実践なのあり、サンデル教授ら大学人の次元を混同させた言語ゲームや事実学ではありません。


武田康弘

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思考停止 (荒井達夫)
2010-09-19 00:03:04

難破船の乗組員4人がボートで漂流し、生きるために弱った者を殺して食べた。その行為の是非を議論するのに、社会運営の基本原理であるベンサムの最大多数の最大幸福を持ち出すのは、「筋違い」も甚だしい。問題に対する議論の仕方が明らかに間違っています。何か変だな、と思わない方がおかしいのです。「思考停止」というほかありません。
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本邦初討論-「ハーバード 白熱教室 」を巡って。山脇直司・小林正弥・武田康弘

2010-09-15 | 趣味

本邦初討論「ハーバード 白熱教室 Justice マイケル・サンデル教授」を巡って

が、 『白樺教育館ホームページ』にアップされました。制作は古林治さんです。

わたし武田康弘と、山脇直司さん(東京大学教授)小林正弥さん(千葉大学教授)との討論ですが、相手方(小林さん)の討論拒否に至る激論です。最近ではこれは珍しいことでしょうが、悪口やケチ付けではない「忌憚のない討論」はとても大切で、思考力は厳しい討論を経ることなしには強く豊かになりません。討論はテレビで「見る」ものではなく「する」ものです。勝ち負けを競う「ディベート」ではなく、なにがホントウかを探る「哲学的対話」を生み出したいと思いますが、なかなか難しいですね。

武田康弘


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検察の正義を担保する仕組みがない。恣意的な権力行使は、独裁国家と同じ。

2010-09-14 | 社会批評
もう忘れてしまうほどの「冤罪」の数々。
ずさんな検察庁の実態を目の当たりにすると、誰でもが言葉を失うでしょう。
今回も、革新的な官僚の一人であり、官僚らしくない異色の(=正直な)国会答弁で知られた村木さんを、検察官の思惑により「ストーリー」をつくり犯人とする。こんなことが許されるならば、とても法治国家とは言えません。しかも、恣意的でお粗末な捜査を実行し、無実の人を犯人に仕立て上げた検察官には何の処分もない。処分する第三者機関がないのですから、ひどい話です。これほどの不公正=【検察主義】がまかり通るのでは、わが国は、とても民主主義国とは言えません。
人事さえ自分たちの思いのままーキャリアシステムのおぞましさ。抜本的な改革が必要なのは火を見るよりも明らかです。

武田康弘


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すかぶら
2010年09月14日 12:33

検察官適正審査会と言うのがありますが、 機能してません。
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タケセン
2010年09月14日 13:28

これもまた日本的詐術の典型で、機能しないように作られていますね。

ついでに言えば、村木厚子さんは、障害者の問題に積極的に取り組み、大変優秀な官僚のようですが、地方大学(高知大学)出身なのです。東大法学部卒ならば、このような逮捕はあり得なかったのです。
おぞましき「キャリアシステム」(国家公務員の暗黙の人事制度)の改革なくして、日本の改革はあり得ません。
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土肥元校長の陳述書と、10.2四谷集会(~学校に言論の自由を求めて~)ご案内

2010-09-10 | 教育
10.2 四谷集会 ~学校に言論の自由を求めて~
    モンスター都教委さま 裁判へようこそ Part ll
  
 
      元都立三鷹高校校長土肥信雄の闘い  

のご案内と、

土肥元校長の陳述書の全文を、白樺教育館のホームページに載せましたので(制作・古林治)、ぜひご覧ください。

http://www.shirakaba.gr.jp/index.htm







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大林検事総長の小沢不起訴宣言→検察側資料の開示を恐れて 武井繁明 

2010-09-10 | 社会批評
以下は、Cmoon=武井繁明さんのコメントです。皆さまは、いかがお思いですか?


メディアと司法は、官僚の奴隷みたいなものですね。
このタイミングで鈴木宗男さんの上告棄却(近く収監)はないでしょう。
官僚主導の総本山の町村は歓喜。仙谷も喜んでいるかもですね。
政治主導の小沢さんはがっかり。

まともな司法なら、補欠選後でしょう。

それにしても、大林宏検事総長の小沢不起訴宣言は呆れます。
強制起訴となった場合、検察側の資料がそっくり手渡されので
「それだけは困る」と思い検審にプレッシャーをかけたのでしょう。
それと何と言っても、小沢さんの「訴追は逃げない」宣言。
裁判で小沢さんが無罪となった日には、検察もメディアも
「政治とカネ」で小沢さんを貶めた人の信用は失墜します。
もし総理になった場合、「総理を無罪なのに貶めた」ことになり
世界中の笑い物になります。

これで小沢さんの「政治とカネ」問題は決着がつきましたね♪

Cmoon

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なぜ、テレビと新聞は沈黙? (すかぶら)

検事総長という検察の親分が
記者クラブで発表してるのに
テレビや新聞で沈黙している
これいかに?
鈴木宗男は異議の申し立てをするでしょうから
最高裁は何と答えるか関心があります。
証人を脅して創った作文証拠だけでで結審するのか!
日本はたしか法治国家であったと思いますが。

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大林検事総長の敗北宣言 (C-moon:武井繁明)

2010-09-10 14:53:47
小沢一郎議員をめぐる一連の「政治とカネ」問題で、大林宏検事総長が、これまでの不起訴について、9月1日「日本記者クラブ」の昼食会で「国民の司法参加と検察」のテーマで講演した中で代表質問(東京新聞)に答えるかたちで話しました。

http://www.youtube.com/watch?v=XXO8Bf60ZPQ&feature=player_embedded
(28分頃から)

内容的には、小沢さんがこれまで記者会見や事あるごとに答えてきたように「徹底的に捜査しても立件する証拠がなかった」とのことです。

1年以上にわたる、メディアのネガティブ報道の大半は、憶測記事でした。そして今回の大林検事長の言葉は、憶測記事を否定するものです。
それを目の前で聴いた「日本記者クラブ」の記者たちは、小さな記事しか書かなかった。メディアは大きく取り上げていません。
おかしな話ですね。

この国にジャーナリズムは、ほとんど存在していない。と言えるでしょう。

いずれにせよ、小沢問題、郵政不正事件、村木公判の無罪判決により、検察とメディアの信用は失墜し「検察は正義だ」という神話は崩壊しました。

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もはや、抗弁のしようもない。 (タケセン=武田康弘)

武井さんの言うとおり、神話の崩壊ですね。

検察官による「ストーリーの捏造」による冤罪事件の多発は、検察庁が機能不全に陥ってしまった証ですが、もはや、誰も抗弁しようがないところまで堕ちました。

主権在民の民主主義国家にふさわしく検察庁を抜本的に改革する必要があることは誰の目にも明らかです。

旧社会主義圏の崩壊前夜といまの日本の状況は似ています。





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受験知崇拝の知的退廃が、不幸をつくる。

2010-09-09 | 教育

人間がよく生きるために、頭を有効に使う力を鍛えるのではなく、
ただ覚えること、受験知・資格知しかない日本の現実は、知的退廃そのものです。
物知りになることが知的になること、と信じられている社会では、人間としての豊かさをもった頭脳は育ちません。
「知ってる・知らない」、という頭しかないと、
ほんとうに「よい」こと「美しい」ことは何か、という人間的認識の基本は遠のき、損・得と快・不快、だけの世界で生きることになりますが、それでは、昆虫の生のようです。
思考も、中身・内容を考えるのではなく、形式として考えるだけですので、総合判断はできません。形式論理しかないと、豊かな内容を伴った全体判断は不可能なので、与えられた既存の想念に縛られて、堂々巡りをするだけです。
そのような頭脳が優秀とされる社会に生きる人間は、不幸です。
受験教・資格教という悪しき宗教から抜け出るには、「よく生きるとはどういうことか」の明晰な自覚が求められます。


武田康弘
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個人レベルでも公共レベルでも、よき人間の生にとって最も重要なのは、【責任】です。

2010-09-07 | 恋知(哲学)

わたしが20代のころ、サルトル哲学に惹かれたのは、その【責任】を強調する思想にありました。

有名な「実存は本質に先立つ」という命題が、どのような決定論も存在しないことの明晰な自覚をもたらす思想であることを知り、人間はいかなる支えもなく、たえず己を人間としてつくり出すべく宿命づけられていることを了解したとき、わたしは、【人間になった】と感じ、深いよろこびを得ました。

人間は、存在論的には自由であるほかないという自覚と、
現実次元における【自由】の行使が【責任】を生み、その責任を「私」が引き受けるということ。
それこそが主体者としての人間の人生です。

神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサルトル哲学でした。

わたしは、私の人生を日々創造しながら生きる。抽象的に人が生きるのではなく、私が生きるのです。己の存在は己が引き受けるより他にありません。この【根源的な責任】の思想ほど人間を自由にするものはないのです。表層的な自由ではなく、精神の奥深くの自由です。勝手気まま、その場その時の都合で揺れ動くというのではなく、「私」が己の存在を引き受けて行為するという自由は、強い責任意識を生み、人間を真に倫理的な存在とします。それが深い人間的魅力をつくるのではないか、わたしは、ずっとそう思って生きてきました。


武田康弘
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陳述書 ーー 土肥 信雄

2010-09-07 | 教育

以下は、言論の自由を奪う【悪しき官の象徴】である『東京都教育委員会』と闘う良心の教育者・土肥信雄さんの陳述書です。
長文のなので、3回に分けます。良識ある市民みなの力で、教育の現場に民主主義をつくりだしましょう。

(「生徒がくれた卒業証書」の本もぜひ。)


陳述書   土肥 信雄


私は34年間の小学校、高等学校の教師生活を通じ、勉強がきらいな子ども、運動の得意な子ども、障害を持った子ども等々、様々な子どもと関わってきました。私は教師として当然のことですが、どの子どもにも幸せになってほしいと願っています。そのためには、一人ひとりの基本的人権が保障される、平和な社会でなければならないのです。

第1次世界大戦を体験した世界の人々は、戦争は子どもにとって最悪なものとして、1924年、国際連盟において子どもの権利に関するジュネーブ宣言を採択して国際的に子どもの権利を認めました。第2次世界大戦を体験した日本は、日本国憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と不戦の誓いを述べ、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を三大理念とし、民主的な国家を目指したのです。基本的人権の尊重と平和主義を私のポリシーとしたのは、まさしく民主主義社会の中で子どもの幸せが保障されるからなのです。

その基本的人権のなかでも最も重要なのが、言論の自由だと思っています。国民の意見を反映できる民主主義政治にとって、言論の自由は絶対不可欠です。言論の自由がない民主主義や平和はありません。「おかしいと思ったら、声をあげる自由。これを失った時、本当の意味で国は滅亡の道を辿るんだ。」(『アメリカから自由が消える』 堤未果著 扶桑社新書)の言葉はまさにそのことを表わしており、言論の自由がない組織は独裁化し、腐敗し崩壊していくのです。戦前の日本、ソビエト、船場吉兆、ミートホープ等々、組織の大小に関わらず崩壊したのです。言論の自由こそ組織を活性化し、組織が発展していく最大の要素なのです。
学校は日本国憲法の理念に基づいて、教育基本法第1条にあるように、平和で民主的な国家、社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成をその目的とするものです。そのためには、学校そのものが言論の自由を保障し、民主的に運営されなければならないのです。教育の主体者は生徒です。教育という組織的、意図的営みは、教職員の主導権により、子どものために行われます。教職員の言論の自由が保障されなければ、教育の主体者である子どもの言論の自由も保障されないことは、戦前の教育を考えれば明らかです。

言論の自由が保障されているからこそ、私は政治経済の教師として生徒達に「自分の意見は間違っていてもはっきりと言いなさい。」と教えてきました。自分の意見を言うことは、ほとんどの日本の学校の教育目標に掲げられている「生徒の主体性、自主性」を育てることなのです。私は生徒にそのことを教えてきた責任からも、自分の思ったことを発言せずに、権力にへつらうことはできません。

教育は誰のためですか?生徒のためです。2009年3月24日の離任式で、卒業生から卒業証書と全クラスからの色紙をもらったことは、私の教育活動が評価されたことではないのでしょうか?都教委に従順に従わなければ、私の教育活動は評価されないのでしょうか?

私は法律や法令に違反するようなことは一切やっていません。都教委の通達、通知通りやってきました。「教職員の意向を聞く挙手・採決の禁止」の通知後、職員会議で教職員に説明した後は、三鷹高校では意向を聞く挙手・採決はやっていません。卒業式等においては、全日制では包括的職務命令も個別的職務命令も、定時制では包括的職務命令を出しています。業績評価も実施要領どおり18年度、19年度、20年度と提出しました。私は教育現場から言論の自由がなくなるのを恐れて、意見表明をしただけです。法令遵守は私のポリシーです。なぜなら、民主主義社会の日本では、選挙はほぼ公平に行われており、選挙で選ばれる議員や首長等は民意を反映していると思っているからです。したがって私と意見が違っていても、民意を反映している人達によって制定された法令等には従うことが民主主義だと思っています。もし自分の意見と違う法律は守らないとなれば、全ての人がそのように考え、無政府状態の社会になります。無政府状態の社会は、ホッブスが唱えた「万人の万人に対する闘争」が発生し、結局は弱肉強食の社会になり、弱者にとって非常に不利な社会になることは明らかです。そして、民主主義社会だからこそ少数意見は尊重されるべきであり、法令に違反しない限り、批判、意見表明は保障されているのです。

私の意見表明に対して、都教委は私が納得する回答をしてくれませんでした。この言論の自由の問題は、民主主義の根幹に関わることなので、都教委に公開討論を要求しました。しかし、公開討論にも応じてくれませんでした。やむを得ず、裁判所に提訴したのです。裁判という公開の場で意見をたたかわせ、国民、都民の皆さんの公平な判断を仰ぐためです。

私は大学卒業後大手総合商社に入社しました。しかし利益のためなら、法律さえも犯す(談合)企業にはなじめませんでした。経済的にも社会的にも安定した生活が保障されていましたが、将来の日本を担う子ども達に、平和で公平な社会を作ってもらいたいと思い、言論の自由のある教員になったのです。教員になったのは、言論の自由があったからです。いまさらその言論の自由を奪われたら、私が商社を辞めた意味が無くなり、私自身が無くなってしまうのです。言論の自由だけは、平和で豊かな社会を守るために譲れないのです。

それではこれからそれぞれの事象について、私と都教委の主張が全く違いますのでそのことについて意見を述べたいと思います。どちらの主張が真実であるかどうか是非ご判断ください。
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経済が元気になっても日本人は元気にはなりません。

2010-09-05 | 教育

経済が元気になっても日本人は元気にはなりません。
今のままの考え方では、経営者の支配力が強まるだけで、個人の幸福には結びつかないのです。経済は、どこまでも人間生活の手段であり、それが目的ではないのですが、手段と目的を取り違えている人は、人間としての豊かさ・面白さ・楽しさを知らず、元気は覇気にしかなりません。今の思想とシステムは、経営者独裁で、個々人の幸せを拡げる「経済の公共性」がないのです。最悪の資本主義!

当然ですが、個々人の「個性を互いに楽しみ合う愛の文化」は、競争主義からは生まれないのです。誰が勝ったか、どれほど勝ったか、ということばかりに注目する社会では、攻撃性だけが強まって、人間の心身の満足・意味の了解による頭の充実という悦びの世界はやってきません。どのような考え方・生き方がよいのか、という哲学的探求と検証なしに勉強や仕事に取り組むのでは、「根なし草の生」となり、底なしの不幸に陥るほかないはずです。人々をな根なし草にする人間性破壊の資本主義は、悪でしかありません。公共的な善を広げる「人間を豊かにする資本主義」への転換はどうしたら可能か、それを考えることが焦眉の課題です。

では、この不幸、「幸福をつくらないシステム」を実際に生みだしているのは、なんでしょうか?

それは「教育」だとわたしは見ています。
とりわけ中学校における教育の管理化は、市民社会の常識とかけ離れていて、柔らかな心の広がり、豊かな人間性、個人の独自の面白さを開花させることを阻害しています。そもそも、人間の教育と物やシステムの管理とは正反対の概念であることさえ知らない教育者が多いのには、閉口してしまいますが、「人間とは何か」という実存論的探求抜きの教育は教育ではなく、単なる一技術でしかないでしょう。それでは人間は管理される物品として扱われる他なくなるのですが、「人間性」に鈍感な人は、その恐ろしさに気付かないようです。「根本的に考える力と人間性の豊かさ」はセットなのですが、残念なことに、これを潰す教育が大手を振っているのです。

その実際、豊かな人間性を奪う「仕組み」については、次回に。

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コメント

教育こそ。 (Cmoon)

2010年09月06日 21:43

小沢さんも菅さんも、経済政策に言及しましたが、教育にはほとんど語っていませんね。
特に菅さんの経済政策には、創造性が感じられません。具体性にも欠け東大病の重症患者、財務省官僚の政策を右へならえ式に取り入れ、お茶を濁す程度に形容詞をつけただけの貧困な政策です。
一律10%カットのどこに創造性が生まれるでしょう。農林業、漁業、工業、商業、貿易、外交、医療福祉……そして、すべての基本となる教育に希望の光が当てられていません。
たいしたセーフティーネットもなく、緊縮財政、規制緩和の中で行われるのは、小泉構造改革と同じような、市場経済原理の再登場ではないかと危惧しています。
そうした中で、教育はさらに荒廃していくように推察します。
経済的貧困だけが、教育を荒廃させるのではなく、創造性に欠けた苛酷な競争原理が、人々の心を萎えさせ、たとえそれによって経済が再生されたとしても、さらなる競争原理が働き、心を荒廃させると思います。
荒廃した心に対して行われるのは、さらに強化された管理化。
悪循環ですね。

経済は低成長でもいい。安定していればそれでいいと思います。
競争原理一筋の社会よりも、ささやかな安定とささやかなゆとり社会の中で競争原理の中で見えなかったものが見えてくる。創造性が生まれる。管理を解くことができる。そんなふうに思います。

書かれた要旨からピントが外れたコメントです。
まだまだ、考る力が不足していると感じる今日この頃です。

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タケセン 2010年09月06日 23:50

いやいや、
Cmoonさんのコメントは、わたしの「抽象」をいつも見事に「敷衍」してくれるので、とても感謝です。
さすがです。

競争は、人間が豊かな精神をもって生きる上でよきものを獲得する限り有用ですが、競争を主義にまで格上げすれば、ひどく不幸です。
競争原理から納得原理への転換が必要ですが、教育がそれを阻んでいます
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バルトーク弦楽四重奏曲 クラシックを超えたエマーソンの名演

2010-09-04 | 趣味

わたしは、しばらく前からバルトークの弦楽四重奏曲(全6曲)をよく聞いています。

「とっつきにくい」はず?のバルトークの弦楽四重奏曲が、エマーソン ストリング クァルテットの演奏で聴くと、とっても面白いのです。
クラシックの現代音楽ではなく、まるでロックやジャズや民族音楽などのようにノリのよい楽しい演奏で、以前はじめて聞いた時、「えーっ!こんなバルトークあり?」とビックリ。そして思わずニンマリ。

6曲中最も難解と思われる12音技法満載の4番も実に明快、ウキウキ心身が弾みます。
暗いはずの最後の6番も、ユーモアに富み、柔軟に音楽が息づき、ピチカートが生き生き。暗い世相(独裁者ヒトラーの台頭)を映すかのような沈み込む終楽章も、粘り・艶・パワーを失いません。

バルトークは、名盤の誉れ高いアルバンベルク四重奏団の演奏でお聴きの方が多いと思いますが、エマーソン四重奏団のクラシックを超えたような演奏もとってもお勧めです。わたしは大好き。


武田康弘
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