思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

学校では、いまだに皆勤賞がある!やすむのは悪いこと? 日本人は昆虫のようかな。

2016-11-29 | 教育

学校では、いまだに皆勤賞がある!やすむは悪いこと? 今も日本人は昆虫のようです。

今日でもまだ、学校では、1年間、一日もやすまないと褒められます。皆勤賞と言うのです。

まるで「滅私奉公」の戦前のようです。わが日本はいつまでも遅れた国のようです。

疲れても行く?病気でも行く?家庭の都合は関係なし?

 
会社は有給休暇があるのに、です。

でも、いまの日本は、世界とは違い、有給休暇も取らない、取れない、という凄~い国ですからこどもたちも右へ倣え~~~~ということなのでしょう。

もうそろそろ、人間らしく、心身に余裕を持って生きたいもの。そういう国に変えたいもの。

昆虫の属性を示すような人々の集まりでは哀しいです。

 

世界一長い学校拘束時間。世界一長い労働時間では、魅力ある心豊かな人間にはなれそうにありません。日本という国家は、「人びとを生かさぬよう、殺さぬよう」という基本思想で動いているようですそういえば、政府の御用学者(安倍首相の親しいお友達)の八木秀次麗澤大学教授は、「反人権宣言」という本を出し、われわれは、人権という言葉に怯えずに、こどもの人権や女性の人権と闘おう、と宣言していますので、国家のために個人は存在するのでしょう。なんとも罰当たりな国です。

 ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる灰色の男たち=時間泥棒は、人間の幸福を元から奪います。


武田康弘 

 

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ヤルヴィ・ドイツカンマ-フィル 演奏評 ブラームス交響曲1番。唸るほど凄い、オリジナルの塊。

2016-11-27 | 芸術

2016年11月26日 所沢ミューズ

感情的にも知的にも興奮し、熱が出た。

ブラームスの交響曲1番を聴いていま帰宅。
まったく新しい21世紀の演奏で、過去の誰とも似ていない。
オリジナルの塊だ。

唸るほど凄い。

指揮者のヤルヴィとドイツカンマーフィルの共同作業が生んだ超名演である。このオケは、全員がソリストで、まるで弦楽四重奏団を拡大したよう。各プレーヤーは、オケの一員というのではなく、強い個性の輝きをもつ個人なのだ。一人ひとりが明確な主張をもち、それが互いに協力して曲をつくるので、全体は、通常のオケを超えて、凄まじいばかりの灼熱となる。

演奏もそれぞれがソリストのように身体を大きくゆすり、まるで踊っているようだ。コンサートマスターは3番と1番で交代したが(3番が男性、1番が女性)、完全にソリストだし、ヴィオラもチェロも同じ。オーボエの男性と隣りのバスーンの女性は、まるで二人でダンスをしているかのよう。

みな顔も光り輝き、「わたしの音楽よ!」と言わんばかり。

この聴いたことのない超名演は、指揮者のヤルヴィの解釈だけではなく、オケのメンバ-全員の意見を統合させたものではないか?と思う。YouTubeで見たら、ヤルヴィとパリ管弦楽団で同曲の映像があったが、基本的な解釈は近いが、色合い・表情・力感はかなり異なり、今日の演奏の方がはるかによい。

もしそうなら、これは演奏思想・方法まで異なることになり、対話の哲学による音楽表現で、納得が生む個人のパワーの炸裂、それゆえの白熱ということになる。

弦は、音の出だしが素早く強烈なまでに強いが、歌う場面では、弓を返さずに長いフレーズを滑らし、優しくしなやか。まるで、美味しい料理を舐め尽くすがごとくだ。そのために、音楽表現の幅がとても広くなる。
木管も金管も主張が明確でクリアー、惚れ惚れ。
多色で多面的な音楽世界がまるで万華鏡のように繰り広げられ、時間があっと言う間に過ぎてしまう。

あえて言えば、この演奏は、大陸合理論の世界であり、イギリス経験論の世界ではない。強く駿立している。それゆに、ドイツ音楽の典型であるブラームスやベートーヴェンのシンフォニーでは、新たな規範と言えるかもしれない。

二管編成で、通常のオケの半分だが、各人がソリストのような強さをもって演奏するために、迫力はかえって大きく感じる。マスとしての音量の大きさではなく、一音一音のパワーが凄いので、音楽はより強靭で立体的になる。聴いていて鳥肌が立ちっぱなし。ああ、もう終わりか、いつまでも終わらないでほしい、と願った。

最後は、グッとテンポを落とし、大満足のエンディング!

聴衆の反応は凄く、アンコールの2曲が終わってもまだ誰一人席を立たない。
オケが引き上げても半数近くが残り、拍手を続けた。フー。
サイン会もあったが、もう心も頭も満杯でなので、帰路についた。

武田康弘

 

 

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皇太子を見た小学2年生の少女は、棒で強く頭を叩かれたー安倍首相の言う愛国心とは、戦前回帰のこと。

2016-11-25 | 学芸

今日の「とわの会」(鎌ヶ谷市公民館での恋知)での対話授業の中で、生き証人の安部節子さんにお聞きしました。

節子さんは、戦争中、学習院の向かいにあった国民学校の1、2年生で、皇族が近くにいたので、あの人たちが「神」だとは思えなかった、と言います。

ただし、先生からは、天皇や皇族は特別な(神聖な)存在だと教えられ、毎月、皇太子(いまの明仁天皇)が通るとき、全校生徒は最敬礼していなければならず、けっして顔を見てはならないと言われたとのこと。

でも、節子さんは、2年生の時に一度顔を見てみようとして少し頭を上げた時、先生に後ろから棒のようなもので強く叩かれ、あまりの痛さに声も出ず、その痛さは、いまだに忘れられない、と話されました。

その自身の経験からも、わたしの書いた「最も憎むべき社会体制は、戦前の日本」との文章に、共鳴・賛同すると言われました。

【小学2年生の女の子の頭を後ろから棒で強く叩く】、それがわが日本の「天皇教」でした。その体制をつくっていた岸信介を敬愛するという安倍首相をよしとするのでは救いがありません。日本では、戦前への回帰をめがける政権が続きます。

武田康弘 

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恥を知りなさい!無礼の極みの安倍君。いま、大統領はオバマ氏であり、トランプ氏ではないのです。

2016-11-22 | 社会批評

今何かあれば、オバマ大統領が決断するのです。まだ就任までは予定者に過ぎないトランプ氏しか頭にない安倍晋三首相は、政治家としてだけではなく、人間として最低の男というほかありません。

オバマ氏が憤るのは当然です。非礼、無礼の極みであり、厚顔無恥という四字熟語を地でいきます。

これほどまでにハレンチな首相を国のトップに置くわが日本には、道徳も倫理もありません。よき理念も優れた思想もなく、ただ、勝ち組礼参、自我拡張の戦略だけ。実に下品・下劣の見本です。このような戯けた人間を批判すらできない国民とは、一体なんなのでしょうか。

やはり人間ではなく、エコノミックアニマルなのか。恥を知るべきです。

武田康弘

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2017年の天文年鑑が届いた!1965年から53冊目~~

2016-11-21 | 学芸

2017年の『天文年鑑』(誠文堂新光社刊)が届いた!

1965年(小6~中1)の時に初めて買い、それから53冊目だ。

ここには元号表記はない、すべて世界暦(西暦)ー超あたりまえだが、気分いい!(笑)

宇宙を想う、奇跡的な惑星=わが地球を想う。

日本民族が偉いとか、天皇の祖先が日本をつくったとか、唯一神が世界を創造したとか、いつまで続けるのでしょうか?

おバカもいい加減にしてほしい。


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金ぴか偉いのだ。安倍とトランプ万歳!!金閣寺とトランプタワー万歳??

2016-11-19 | 社会批評



おお、なんとすばらしいことでしょう!!!

強いアメリカ、自国絶対で、タカ派こそ愛国者、これは、わがニッポン官僚王国と同じ。127歳の長寿=神武天皇にはじまる世界一の由緒正しき国と、新興の世界一の軍事と経済の力をもつアメリカがタッグを組む。安倍+トランプ万歳! 天皇陛下!

対米戦争の間違いを繰り返さず、今度はアメリカさんと組んで、漁夫の利を得て、自衛隊はバンバン海外派兵で、つまらないおバカ憲法など解釈改憲で好きなように変え、実に楽しいわが長州藩の春じゃ~~~

再び【強欲で暴力大好きの長州藩】による日本支配=岸・佐藤・安倍一族による日本臣民の支配で(日本人は支配され凌辱されることを喜びとし過酷な長時間労働にもくもくと従い=時に自殺するが=昆虫のように犬のように生きる人種なのです)【愛国心】に燃え、日米共同体に燃え、いよいよ個は、全体の一部=細胞となり(あれれ、共産主義と同じ・笑)全体一致!!

もう一度、安部+トランプ万歳!!素敵~~~痺れる~~~~カッコいい~~~~
金持ちが支配する、権力者が支配する、これが世界の正しいあり方です。貧乏人や負け犬は口をはさむ資格なし。黙って従えばIいいのですよ。

なに??民主主義??こどもみたいなこと言ってるんじゃない。君たちもいい大人なんだから、戯けたおとぎ話は馬鹿でしかない。
金ぴかに従え!金閣寺とトランプタワー~~~~!!??


凄~~~~い悪夢です。早く目が覚めたい。


武田康弘

 

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共同通信が「金ピカ」と安倍・トランプ会談を批判 ーーまことにその通りです(拍手!)

2016-11-18 | 社会批評

共同通信の公式ツイッターアカウントが「こんな人に庶民の気持ちが分かるのか」と、トランプ氏を批判しました。

実に正しい指摘です。

民主政などお題目で、自分や自分の仲間による「国の私物化」を当然とする想念をもつ二人。すばらしく仲がよいです。

自己想念により、国を思うようにしたいという欲望は、凄まじいほどのパワーを発揮します。

そういう権力者を許さないのが、古代アテネのペリクレスにはじまる民主政の思想と行為です。

世界的に、民権派と国権派の闘いになります。

シチズンシップをもつ市民は、新たなルネサンス=古代市民の精神を現代に蘇らせる営みに励みたいと思います。

民主派の世界的共闘が必要です。

 

武田康弘

 

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安倍政権が「神武天皇は実在した」を本気で喧伝、 神話で国民を支配するカルト国家化 (宮島みつや)

2016-11-18 | 社会批評



安倍政権が「神武天皇は実在した」を本気で喧伝、産経もトンデモ神武本出版! 神話で国民を支配するカルト国家化

 リテラ 宮島みつや著


 とうとう、ここまできたか──。日に日にエスカレートしていく安倍政権の歴史修正主義だが、いよいよ連中は「神武天皇は実在した」なるトンデモまで喧伝しだしたらしい。

 念のため最初に言っておくと、神武天皇は8世紀の「古事記」「日本書紀」(あわせて記紀という)を基にした“初代天皇”だが、もちろん実在したとは立証されておらず、ときの政治権力である朝廷がその支配の正当性を説くために編み出した“フィクション”というのが歴史学の通説だ。

 ところが最近、安倍政権周辺から「神武天皇は実在の人物でその建国の業績を讃えるべき」という主張が次々飛び出してきているのだ。

 自民党の三原じゅん子参院議員が、先の参院選投開票日のテレビ東京の選挙特番で、VTR取材中に「神武天皇の建国からの歴史を受け入れた憲法を作りたい」と発言していたことについて、MCの池上彰から神武天皇は実在の人物だったとの認識かを問われ、「そうですね。そういう風に思ってもいいのではないか」と“珍回答”。池上が呆れて「学校の教科書でも神武天皇は神話の世界の人物ということになってますが?」とツッコんだのは記憶に新しい。

 このトンデモ発言にはさすがの有権者も「まあ、三原じゅん子だから」と一笑に付したが、しかし、どうもこの神武天皇実在論は、安倍政権の中枢にしかと根付いているようだ。

 たとえば今月、11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改称すべしとの運動を展開している「明治の日推進協議会」なる団体が都内で決起集会を行った。同団体の役員名簿には小田村四郎、小堀桂一郎、大原康男、伊藤哲夫、百地章など、おなじみの日本会議系人物がちらつく。その集会に、安倍首相の盟友である古屋圭司自民党選対委員長、稲田朋美防衛相らが参加。稲田は壇上でこう息巻いたという。

「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」(朝日新聞11月2日付)

 

 ……おいおいマジかよ?と突っ込まざるをえないが、この安倍政権の神武天皇ゴリ推しを“機関紙”の産経新聞もバックアップしている。今年8月には『神武天皇はたしかに存在した』(産経新聞取材班/産経新聞出版)なる書籍を出版。記紀にある日向(現在の宮崎県)から大和(奈良県)までの「神武東征」を追いかけるルポだが、完全に神武実在が前提になっており、置いてけぼり感満載の一冊に仕上がっている。

 しかし、繰り返すが、神武天皇について直接的に伝えるのは記紀だけであり、その記述は完全に“神話”の域を出ないものだ。たとえば「日本書紀」の記述は天地開闢から始まる神武以前が神代、神武以降が人世の歴史とされているが、明治政府は神武天皇即位の年=皇紀元年を紀元前660年とした。実に縄文時代後期である。

 そんな、人々はもっぱら狩猟採集生活で文化といえば土器みたいな時代に、神武天皇は「天下を治めるためには東に行けばいいんじゃないか」と思いついて、大和までの長い旅に出たというのだが、記紀が描く道中の出来事はあからさまに現実味がない。

 たとえば、亀の甲羅に乗った釣り人(地元の神)に明石海峡から浪速までの海路を案内してもらったり、突如、助っ人が神のお告げで天の神がつくった剣を持ってきてくれたり、かと思えば神の仰せで八咫烏が吉野まで先導してくれたり、はたまた天の神がやってきて証拠の宝物を見せて神武に仕えたりと、「史実」とみなすには神がかり過ぎている。

 さらにいえば、神武を含む古代天皇の年齢も解釈に苦しむ。たとえば「日本書紀」によれば、神武天皇崩御時の年齢は127歳で、「古事記」では137歳とある。そんな超長寿なんてありえないだろう。年齢を2で割ると丁度良くなるとする説もあるが、すると逆に皇紀自体がおかしくなってくる。なお、初代天皇となった神武の後を継いだ綏靖天皇から開化天皇までの8人については、なぜか、その実績がほとんど記されていない。この「欠史八代」はあまりにも有名な記紀の謎として知られている。

 結局のところ、神武天皇及び欠史八代は創作で“虚構の天皇”だとするのが一般的な古代史研究者の見解である。では、なぜ安倍政権はいま、こんな神武天皇実在説というトンデモを言いふらしているのか。

 その目的を、前述した稲田朋美の「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神」という言葉が、端的に表している。

 実は、神武天皇の陵墓は、たとえば天武、天智、持統天皇などの陵墓と比べて軽視されており、中世まで始祖として崇め奉られていた形成はほぼない。それが一転、江戸中期の国学を経て尊皇思想の核となり、明治維新は王政復古の建前のもと幕府を転覆させた。ようは、“クーデター”のため「万世一系」たる天皇の権威を超越的なものとして再興し、利用したのだ。

 また、このとき明治政府は、それまで民間信仰であった神道を天皇崇拝のイデオロギーとして伊勢神宮を頂点に序列化、“日本は世界無比の神の国”という「国体」思想を敷衍したそうした流れのなかで、日本書紀などについて批判的研究を行った津田左右吉に対し、東京地検が尋問を行い、『神代史の研究』など4冊を「皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ、政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱セムトスル文書」として発禁押収。後日、津田と版元が出版法違反で起訴されるという事件も起きている(佐藤卓己『物語 岩波書店百年史』2巻/岩波書店)。

 

 一方、1945年の敗戦後にGHQが神道指令を発布、国家と神社神道の完全な分離を命じると、津田の学説は学会の主流派となり実証主義的な記紀研究が活性化。その蓄積を踏まえ、今日では神武天皇は実在しないというのが定説となっているわけだが、これを面白く思わないのが日本会議ら極右界隈と、それに支えられる安倍政権だ。

 彼らにとって天皇は「万世一系」でなければならない。それは前述のとおり、日本を万邦無比の「神国」とし、天皇を超越的な存在として再び支配イデオロギーの頂点に置いて政治利用するために他ならない。だからこそ、記紀は史実であり、神武天皇は実在すると主張するのだ。

 すると必然的に、神武天皇は記紀にあるように神話的でありながら同時に存在を認めるという、矛盾めいたことになる。三原じゅん子が「神話の世界の話であったとしても、そう(実在したと)いう考えであってもいいと思う」と池上彰に応答したのはまさに典型だ。ようは政治的な目的ありき。だからこういう発言になる。

 事実、安倍晋三は下野時の2012年、民主党(当時)による女性宮家創設議論および皇室典範改正に反対し、こう述べていた。

「私たちの先祖が紡いできた歴史が、一つの壮大なタペストリーのような織物だとすれば、中心となる縦糸こそが、まさに皇室であろう」
 「二千年以上の歴史を持つ皇室と、たかだか六十年あまりの歴史しかもたない憲法や、移ろいやすい世論を、同断に論じることはナンセンスでしかない」(「文藝春秋」12年2月)

 見ての通り、立憲主義もクソもない。こんな人間がいま日本の総理であることにあらためて戦慄するが、一方、安倍のブレーンである八木秀次が天皇・皇后の護憲発言に対して「宮内庁のマネジメントはどうなっているのか」と猛批判したように、実際には、安倍は天皇に対する敬愛などほとんどもっていない。そこにあるのは、天皇の政治利用、もっと言えば、皇国史観と「万世一系」イデオロギーの復活による大衆支配の欲望だけだ。

 そう考えてみてもやはり、わたしたちは表出する神武天皇実在論を笑って済ませておくわけにはいかない。戦前回帰を目論む安倍政権のプロパガンダの一種として、十分に警戒しておく必要がある。


リテラ
 (宮島みつや

 

 

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わたしにとって、最も憎むべき社会体制とは、戦前の日本です。 あなたはどうですか?

2016-11-15 | 社会思想

天皇を生きている神(現人神)として、学校で生徒たちに拝ませ、天皇の前に拝跪することをもとめた国家とは、わたしにとって、言語に絶する憤りの対象でしかなく、唾棄すべき社会体制というほかありません。嘔吐をもよおすします。

近代の国家でこれ以上に狂った思想はないでしょう。ヒトラーの国家社会主義(ナチズム)とて、思想としては、〈人間を神とする国家カルト〉などではありません。ヒトラーは一独裁者に過ぎませんでした。政府が皇族を神の系譜と定め、その下に全国民を置くという凄まじい国家宗教は、それに反対する者を社会的に、また肉体的に抹殺しました。

これは、忌むべき国家思想と社会体制であり、民主的倫理、個々人の自由と対等性に基づく「普遍的な人間性」とは最も遠い思想、おぞましいイデオロギーですが、これを仏陀の根本思想=みなが唯我独尊であるという仏教国で断行したのですから、ただただ驚き呆れ返るほかありません。

わたしは、この種の思想=皇室崇拝や天皇主義というイデオロギーをもしも学校教育の中に復活させるような政府が出現すれば、全実存をかけ、あらゆる手段を用いて闘います。

明治維新政府のつくった【国体思想=靖国思想=天皇現人神思想】と親和性をもつ思想は、民主政(民主的倫理に基づく)とは二律背反です。

その戦前思想に基づく国家を大戦時に支えたのが、東条英機であり、岸信介安倍晋三が敬愛する祖父)です。わたしは、戦前思想による政府がつくった社会体制は、不倶戴天の仇敵と思っています。戦前のふつうの多くの人々にとっても、敗戦は息苦しい国家主義からの解放だったのでしょう。英・中・米による「ポツダム宣言」受諾で無条件降伏し、連合国(実際はアメリカ一国)に統治されても、「戦勝国に恨みを抱く」ことがなかったのは当然です。


敗戦は、「国家カルト教」による軍国主義の狂気からの解放でした。
明仁さんはそれをよく弁えているので、いまの安倍政権の復古思想に反対しているわけです。民主政は世界的に普遍的なもので、国体思想は恐ろしい悪夢でした。亡霊を復活させてはなりません。


※よい・優れた人間の生き方を、わたしは、「恋知の生」と呼びます。


武田康弘

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スーパームーン?宇宙旅行&開発? 言葉の魔術です。

2016-11-15 | 学芸


(今年1月に小型で安価な超望遠付きデジカメ=キャノンSX50HSで撮影した満月です)


星占いで言われることのある「スーパームーン」という言葉は、天文学では使われません。

地球を回る月が楕円軌道なので、月ー地球間の距離はたえず変化していますので、見える大きさもいつも違いますが、

最接近時をもとにした平均の距離との比の値は、1.08弱ですから、とりたてて大きく見えるわけではありません。月面写真を同じ倍率で撮り比べれば分かりますので、遠い時と平均時と近接時を撮り、並べて見るのは面白いと思いますが(今は、超望遠付きの安価なデジカメがありますので、誰にでも撮れます)。

テレビで大騒ぎしているのを見て、ああ勘違いの報道で、天文の知識が何もない人たちだな(昔から天文についてはみなが無知です)と改めて呆れました。

ついでに言えば、宇宙開発とか宇宙旅行とかの言葉も大いなる誤解を与えます。地表上の空間に過ぎないのに「誇大広告」のような言葉です。、

一番遠くを回る宇宙ステーションや人工衛星でも、地表からの距離は500キロメートルです。地球を直径13センチの円に描くと、13000キロメートルに対して500キロメートルですから、 比の値はわずか 0.038で、えんぴつの線の厚み(0.5ミリのシャープペンの芯)でしかありません。

これも言葉の魔術で、変な勘違いを誘発してしまいます。こどもたち(大多数の大人も同じですが)が間違ったイメージを持ちますので、こわいです。

 

武田康弘(昔の天文少年・笑)

 

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従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそが知の目的なのです。

2016-11-13 | 学芸

   読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。

問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・ これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために「知的優秀の意味」がひどく偏ってしまいます。」 

 知に対する見方・態度の酷い歪み(客観神話)こそ、わが国の(わが国だけではなく先進産業国全体でしょうが)最大・最深の問題であり、あらゆる困難や不毛な対立はそこから出てくることを知らなければ問題解決の可能性はありません。各自が「主観性の知」を豊かにする努力を始めること、そのための条件整備をすることが何よりも先に求められるはずです。

 では、主観性の知を生み出すにはどうしたらよいのか。

 主観性の知は、何よりもまず自分の五感で「感じる」ところに始まります。したがって、主観性の知を育成するためには、さまざまな事象を「感じ取る」練習が基盤となるわけです。常に生活の中で直接経験につき、そこから「感じ取りつつ知る」という営みを習慣化する必要があります。

 それと同時に、感情の多彩さ・豊かさの育成が欠かせません。そのためには、日々の内容の濃い豊かな対話と共に、詩や物語、音楽や美術、映画、ドキュメント・・・をよく味わい知ることが大切です。偏った感情ではなく、こまやかで深く、「共感性と生命愛に満ちた感情」の育成が、人間のよき生の基盤となるからです。その基盤をつくるための条件が、その人の存在のすべてを肯定する豊かな愛情です。

 更に、「センス」を磨くことは極めて重要です。数学の問題を解くにも、研究課題を見つけるにも、ことばを扱うにも、論争するにも、ものを選ぶにも、よいセンスがなければ成果は得られません。センスを磨くためには、自分から積極的にものごとに関わり、そこで失敗と成功を繰り返すことが求められます。他者の判断に従うのではダメで、己を賭けて選択することがないと、センスはほんものになりません。センスとは情報では全くなく、自分自身の内から湧き出る「よきもの」に目覚めることなのですから。ほんらい、情報とはヒントでしかなく、それらは「私」の内なる世界に従い奉仕するものなのです。

 知の目的とは、主観性の知(意味論としての知)であり、それは人間が善美に憧れつつよく生きることに直結している知なのです。人間を幸福にするのは主観性の知の力です。

 ところが、日本の教育はこのことについてまったく理解→了解していないために、ただの事実学・技術知・客観学を集積することが価値だと錯覚しています。「客観神話」に深く侵されているのです。これでは、知は競争(勝ち負け)でしかなくなり、生の豊かさを育むものにはなりません。この現代の教育と学問の危機を乗り越えるには、「競争原理」から「納得原理」へのコペルニクス的転回が必要です。「私」が、よーく見、よーく聴き、よーく触れ、よ~く味わい、よ~く想い、よ~く考える。それを繰り返すことがなければ、全ては砂上の楼閣で、言葉は観念遊戯に過ぎなくなります。全身で考え生きなければ、人間がよく生きることに資する「腑に落ちる知」は得られないはずです。



 武田康弘
(2013年10月に発行した『恋知』武田康弘著より。)

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知も大きな権力であることの自覚

2016-11-11 | 恋知(哲学)


 知識・履歴・財産の所有
は、どれも人間の対等性を壊すパワーですが、お金や政治権力や履歴は、それが大きなパワーをもち、他者を従わせる力となりうることが自覚されています。

 ところが、「知の所有」がパワーとなり、他者への抑圧として働くことは、自覚されていません。

 多くを知っているということは、他者の上に立ち、他者との対等な関係性を壊す権力になることを自覚せずにいる知の所有者は、自己を他者に優越するものとして無遠慮に知を用い、知らずに他者を傷つけています。

 一般に改革派は、金品の所有によるパワーに対して、知の所有で対抗しがちですが、それは、金品の所有による以上に深く他者を傷つけます。目に見えない知のパワーには否応なく従わされてしまうからです。知識や経験の量で人の上に立つ者に対するウットウシサを感じている人は多くいます。

 こどもに対する親や教師の存在も、知識や経験量にまさる抑圧者と映ることがしばしばです。

 大切なのは、知の所有がパワーとなり、抑圧として働くことを十分に自覚することです。無自覚だとたとえ善意でもひどい抑圧として知が働いてしまいます。「自覚した罪は半ば許されている」とも言いますが、ほんとうの知は、「所有」ではなく、よき「作用」として、自他に資するもの、自他の悦びに寄与するもの、と思います。

 他者に優越する知の所有ではなく、他者も自己も活かす知のありようを模索したいもの。楽しさや嬉しさを導く有用な知は、いかなるものか?


 武田康弘

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フィロソフィーは、「哲学」から「恋知」へ。  現代に最も必要な〈考え方・生き方〉の転回

2016-11-10 | 恋知(哲学)



 言うまでもなく、よい人美しい人 よいこと美しいこと よいもの美しいものを憧れ想うことと、真実を求める心は、誰にでもあります。
 言語使用が人間の本能的能力であるのと同様に、善美に憧れ、真実を求める心も本能的です。子どもは、心身全体で愛されて育ち、特定の思想や宗教を要請されなければ、皆にそれは発現します。

 その内なる「善美への憧憬と真実を探求する心」を座標軸=基準として生きるのは、最も自然で無理のない生き方です。特定の思想や宗教によるのではなく、自己の内なる座標軸について生きることを、わたしは「恋知(れんち)の生」と呼んでいます。

 従来の哲学という訳語で表される知は、特別な語彙(ごい)を多用するもので、ごく一部の人にしか関係しませんが、それでは、ソクラテス出自のフィロソフィーとは異なってしまいます。

 プィロソプィア(フィロソフィー)という言葉は、ソクラテスが、それまでの自然学=自然哲学と区別するためにつくりました。善美に憧れ真実を求める人間の心につく知の働きを、知((sophia知恵と知識の双方)+恋愛(phileinエロースが象徴する恋する心)としたのです。

 外なる絶対ではなく内なる善美と真につく思想ですが、それは、現代に生きる人間にとって、とても大切な考え方であり、営みだ、とわたしは思っています。フィロソフィーを「哲学」(賢い知)から「恋知」(知への恋)へと広げることは、現代に生きる人間の生と社会のありように大きな変化をもたらすでしょう。外なる価値=絶対に従う生き方は、本質的に人間性の悦びとは折り合わず、さまざまな心身の病気を招来してしまいます。内なる座標軸に従う生への転回が必要です。

 恋知の生へ。

 

※なお、「恋知」のという言葉=概念を書物として公にしたのは、『ともに公共哲学する』(東京大学出版会)のメインである《「楽学」と「恋知」哲学対話》(金泰昌と武田康弘の哲学往復書簡30回)です。84ページにわたしの考えと立場を明記しました。 また、「国会図書館」の検索で「恋知」を引くと、わたしの著書『恋知』(白樺教育館刊)のみが出ます。


武田康弘

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明日は「恋知の会」 フィロソフィーは、哲学から解放され、恋知へと。

2016-11-08 | 学芸

明日は、第2水曜日ですので、「恋知の会」です。

ちなみに、国会図書館で「恋知」と検索すると、武田著の「恋知」だけしか出てきませんので、嬉しくかつ寂しい感じ。

ソクラテスの造語(「パイドロス」最後の部分に明示されています)であるプロソピア=フィロソフィー(恋+知)は、日本語に直せば、哲学ではなく、恋知です。

フィロソフィーを、哲学(とりわけ近代西洋哲学書の読解)から解き放ち、ほんらいの恋知の営みとすれば、計り知れない有益さ=有用さを持ちます。

誰でもが持つ本能ともいえる、「よい・美しいへの憧れ心」を基準=座標軸に生きようという提案が、世界中に広まりますように。

いつも通り午後1時開場で、1時30分開始です。
我孫子市『白樺教育館』で

飛び入り参加もOKです。



武田康弘


今日(11月9日)の恋知の会。

本は『ブッダとブッダ親鸞』(浄土真宗東本願寺派出版部刊)

ブッダ思想の核心は、ソクラテスのフィロソフィーとダブるもので、超越神という一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)とは異なり、あたらな人間の生き方=考え方を示しています。

「恋知」という発想(フィロソフィーを哲学から恋知へと変える)のもつ深く大きな可能性をみなで確認する今日の「恋知の会」でした。広めるための作業も開始することになりました。川本さん、楊原さん、ありがとう~~!!
みなさん、ありがとう~~~


 

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おおやけ(公)とは天皇家をさし、その思想に基づく国家制度を国体と言いました。

2016-11-06 | 学芸


日本語のおおやけ=公とは、もともとは、大家(おおやけ)大宅(おおやけ)で、天皇家を指すことばでした。

天皇家が大家=公であり、そのおおやけが臣民全員のおおやけとなる。それが日本という国なのでした。国の体と書いて「国体」とは天皇家がおおやけであるという意味です。

これは、世界の多くの国がそうで、古代世界では、王が中心で、王がイコール国家であり、時間=歴史もまた王と共に変わりました(王が変われば時代も変わります=日本だけはいまだにその古代王による時間=歴史支配の記号である「元号」制度が残ります)。

人類の時間=時代=歴史は、進歩し、次第に一人ひとりの人間存在の対等性という認識が生まれました。その最初が、ブッダのみなが「天上天下唯我独尊」であるという思想であり、ソクラテスのフィロソフィー=誰でもみな思考する力(真善美に憧れる恋心)があり、それはエリート以上にふつうの人々に強くあるという思想であり、時代をくだってイエスのどこの国の人もわけ隔てなく救うという思想でした。

王・皇帝・大王(壬申の乱以降は天皇)がおおやけを代表するという思想は退けられ、人間の存在は対等であり、生まれにより差別されてはならない、という人権思想が次第に世界共通のものとなったのでした。

おおやけ(公)とは、ふつうの人々「皆の」という意味となり、皆の自由な考え・皆に共通する利益・皆の納得を生む行為という意味になりました。だから、敗戦後、日本語では、おおやけ(公)と呼ぶよりも公共という言葉が多く用いられるようになったのです。

生まれにより、赤ちゃんから死ぬまで敬語で遇し、みなの税金で豊かな生活をさせ、そのかわりに、自由な言動を控えさせる皇族と呼ぶ人々を拵(こしら)えるというシステムは、もうとっくに人類的な普遍性を失っているでしょう。

ほんとうの人間の品位とは、誰であれ、個人として互いに対等に相手を尊重し合うところに生まれる、白樺派、民藝館の柳宗悦・兼子さんのように。わたしはそう確信しますが、あなたはどうお思いですか?

武田康弘

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