以下は、白樺MLです。 (
また、「紅草子」さんの感想も素晴らしと思いましたので、リンクしました。ぜひ、ご覧下さいークリック)
武田様
映画、「チョムスキーとメディア」、昨日見てきました !
3時間近い映画なのに、一瞬も退屈しない、一言も聞き漏らしたくない“凄い”
“見事な”映画でした。観客は7割ぐらいの入りでしたが、渋谷からの道で会った
男性は長野からの出張の合間に来たと言っておられ、口コミで広がっているように
見えました。
〈他人との連帯の中で、自分自身の価値観を身につけ、自衛の手段を身につけ、
自分の生活に主導権を取り戻し‥‥‥〉
まさに民知という考え方にピッタリ、武田さんがおっしゃったみたいに合わせ鏡の
ようですね。 難しいことではなく、本当に哲学の初心です。基本のところがぶれない
生き方をする、そのことが非常に大切だということを強く感じました。
「歴史修正主義者」の本の序文に関する事件に関しても言論の自由を守るという筋が
きちんと通っていました。
「独裁的な政治ではこん棒で脅かせばいいが、民主主義では思想のコントロールが
必要になってくる。マスメディアは大企業だから、自らの利益のために市民ではなく、
権力に奉仕するようになる」他、すべての言葉が
強い説得力をもって伝わってきました。
チョムスキーさんは人間的にも「普通」の感覚を持った素適な人ですね。それに比べ
彼に敵対するする人たちの顔の表情がひどく気持ち悪く、不愉快な表情をしている
のを感じましたが、武田さんはお感じになりませんでしたか?あれは映画の作り方
の所為かしら?彼らの生き方の所為かなあ?
現実には巧妙に覆われた真実を一般市民が見極めるのは難しいです。しかし、
努力はいるが、人々が少し視点を変え、視野を広げ、連帯し情報を共有することで、
可能なのだという希望を感じました。
最後の方で、チョムスキーさんの講演を聞いた女性が「異を唱える者は孤独だが、
集うべき中心点があるように思える」と言っていましたね。日本でも色々な市民運動が
たくさんあっても、社会を変えていく力になりきれないことに無力感を感じていましたが
映画を見て、この女性と同じような希望を感じました。
(以下省略)
☆皆さんこの映画、16日までですが、是非ご覧下さい。
著作も「メディアコントロール」(集英社新書)は薄くてすぐに読める本ですから、通勤
途中で読むのにも最適です、是非!!
楊原
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阿部です。
鈴木安蔵の憲法研究会の映画「日本の青空」ができあがっているそうです。
http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/index.html
日本の青空(HPよりストーリーを抜粋)
・・・政府によって作成された憲法草案はおよそ民主的とは言いがたく、大日本帝国憲法と基本的には代わり映えしないものであった。
それに対して「憲法研究会」によって熟考を重ねられ遂に完成した草案は国民主権、人権保障、男女平等などを謳った真に民主的なものであった。
政府による新憲法案はGHQ側にあっさりとはね返されたのに対し、憲法研究会による草案は英訳され、GHQ案に多大な影響を与えることに・・・・
筑紫哲也ニュース23で3/9に特集やってたらしいです。
どんな出来の映画か見てみないと判りませんが・・・。
あと、チョムスキーとメディアの映画見てきました。
タケセンの言ったのそのまんまですね。
精神衛生上非常に良い映画でした。
ふつうの人と人との横のつながりでー自分の意見を育てるー未来への希望も見せてくれてるし。
これはまさに民知だ!王道(真実に向かって真っ正直な道)をいってる!
チョムスキーがただ一つ悔いていたことー本の序文に使われた文章をあとから撤回したことーがあったりして、
ヴォルテールが言った「あなたの言うことには一つも賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命を懸けて守るつもりだ」
ってことを言ってるのを理解してもらえず、悪者扱いされていたところは、けっこう人がいいんだなぁと思ってしまいました。
チョムスキーは自分ができること、得意なことをやっているだけと言っていました。本当にそうなんですが、
物事を比較検討して判りやすく提示する能力は半端じゃなくすごいです。
映画の内容ー大手メディアの構造的な問題点ー現政府のプロパガンダとしての役割をになってしまっているってところが
はっきりわかってしまうところがすごいですね。
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古林です。
一日遅れで私も今日見てきました。
入りは30%くらい。(10:40の上映)
楊原さんと阿部さんが素敵なインプレッション書いてくれたので、あまり言うべき
ことはないのですが、気のついたことをいくつか。
こんな面白いドキュメンタリーは見たことない。
一言で言うとこうなります。
制作者の執念に脱帽です。チョムスキーの行動力におそれいりました、です。
何より、題材が重く気分が暗くなってもおかしくないのに、なぜか活力をわけて
もらってきた感じがするのが最高です。
音楽(音)も良かったです。パーフォーミング・アートのローリー・アンダーソンや
ロック界の大御所、デビッド・バーンなどなど。もしかしたら彼らはボランティアかも?
ところで、チョムスキーのように思考と実践の中から培ってきた健全な思想を
受ける側がどう捕らえているかを考えてしまいました。
『国家は暴力装置である。』という会話がありました。
事実、そのような一面はあるでしょう。ですが、チョムスキーが国家そのものを
否定しているとは思えません。日本の「進歩的」知識人は国家の存在
そのものを否定しているように見えます。
チョムスキーはまた、リバタリアン的社会主義を自認していたと思いますが、
「自由の森学園」の一部の狂った教員たちが信奉していたのがリバタリアンでした。
無論、その内容はチョムスキーとは無縁のものです。
そんなわけで私はこの国の思想の貧弱さも同時に思い浮かべてしまいました。
繰り返しになりますが、「原理論」をしっかりと捉えることが出来ていないせいなの
でしょうね。
以上、チョムスキーとメディアについてでした。
ちなみにネットの前売り+ファミリーマートの発券で1300円です。
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武田です。
確かに古林さんの言うように、民主主義の国家と国体思想の国家との違いは何か?を明確にしておくことは、重要です。
すこし、簡単に整理しておきます。
ひとりひとりの自由で対等な人間が集まって、その権利と安全を担保するために国家という制度をつくる、と考える民主主義の国家観に対して、
国体思想による国家観は、予め日本はどういう国であるかを規定し、その観念的な国家像に合うようにひとりひとりは生きるべき、と考えるわけです。
個々の実存を基底に据え、国家とはその社会に住む人々の人権を守るために必要な制度だとする民主主義の国家思想と、国体思想=国家主義とは原理がまったく異なります。
日本語を使い、日本の気候風土の中で生活するする私たちは、自ずと「日本的」な感性と思考(私は「水の国ー日本」と考えます)を持ちます。日本で生きる人々の実存は、アメリカや中国で生きる人々の実存とは「異」なる部分がありますが、それは予め日本主義の思想を政府・教育機関が教えることとは違います。教育行政(権力)による方向づけ・誘導がなされれば、人々の想念は固定化・保守化してナショナリズム(国家主義)に傾斜していきます。頑なになり、柔軟で自由な思想が失われると、個人も国家も弱体化してしまいます。他在を受け入れる柔らかさ・しなやかさがなくなるのは「死」に近づくことだからです。
結論を言えば、国家という制度の価値は、人々のよき生のための条件整備にどれだけ貢献しているか、その程度にあります。同じことを逆から言えば、人々が自分たちのよき生(互いの人権確保と安全)のために、国家制度を有用なものとしてつくり、運用しているかどうか、それが核心。現代における国家とは、【人権と民主主義を守るための制度】と考える以外はありません。日本主義=国体思想を引きずり、特定の国家観を持つように国民を誘導するという政策は、現代社会では許されません。これは市民社会の原理です。「市民国家」以外の国家、たとえば「天皇元首の国体国家」を目がけることはできないのです。
個人の自由を奪うこと=実存の否定=哲学の否定=自由と民主主義の否定という選択は、国際的に禁止されています。
以上、少し思うところを書いて見ました。
また、楊原さんの言う、「顔―表情」については、私も同じ思いです。
「顔は顕現する」とは、現代フランス哲学者の長老、エマニュエル・レヴィナスのキーワードですが、人間は、ひと目「顔」を見れば分かりますよね~(笑)。
☆ドキュメンタリ映画「チョムスキーとメディア」は、渋谷ユーロスペースで、
3月16日(金)までです(一日3回上映)。お問い合わせは、03-3461-0211(ユーロスペース)