不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ある理念が生まれた理由と、ある理念を生む理由の探求ー哲学の仕事

2007-03-31 | 恋知(哲学)

生活世界における個々人の生々しい声(黙せるコギトー)・心の本音、
学として理念化される前の多様な想い、
社会生活の中で失っている赤裸々な自己意識、
これらを一言で「実存としての意識」ないしは、「生の現場」と呼びましょう。

哲学の中心的な仕事は、
さまざまな「理念」が生まれた理由を「実存としての意識」(生の現場)に戻して、そこから分析するものであり、また、ある理念をつくる時には、それがどのような「実存としての意識」(生の現場)に応えるためなのか?を明らかにすることです。

「学」や「理論」以前のありのままの「心」を知ろうとする営み抜きには、「理念」は理念としての意味と価値を持ちません。理念を生きた有用なものするには、生の現場=実存としての意識の場に戻しての考察が必要で、それが哲学するということです。ある前提=知識から哲学することはできません。生の現場を体験抜きに知識で見ることはできないからです。

哲学(恋知としての哲学)する営みが弱ければ、人間の生・この世のすべての営みは砂上の楼閣で、後には何のためかは分からない「理念」、意味のない「技術」、知の廃墟、さらに厳しく言えば、人を生きながらにして死者とするシステムが作られるのみです。

以上は、理念主義=哲学主義に陥らずに、生きて恋知(哲学)するための原則ですので、しつこく!?確認してみました。

武田康弘





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日ブログが今日の日本テレビ「ザ・ワイド」でー父と植木等さん

2007-03-29 | その他

昨日午前10時30分に出したブログ(この下)が「日本テレビ」の目に留まり、私の父と真浄寺(浄土真宗大谷派)が取材を受けました。今日の午後2時からの「ザ・ワイド」で放映されるとのことです。

なお昨日、植木等さんのお父さんのことを書きましたが、今朝の東京新聞「筆洗」(一面の下段)に詳しく書かれています。以下をご覧下さい。

『植木等さんには『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日新聞社、一九八四年)という好著がある。
七八年に八十三歳で亡くなった父・徹誠(てつじょう)さんは戦前、浄土真宗大谷派の僧侶ながら、運動と農民運動を連携させ、三重県における明治以降の三大民衆闘争の一つといわれた「朝熊(あさま)闘争」を指導、投獄された経歴がある。
本は、妹の夫で歴史学者の川村善二郎さんとともに、自らの記憶と関係者からの聞き取りで父の足跡をたどり、北畠清泰さんの協力でまとめたものだ。三男を「等」と名付けたのも「絶対平等が人間社会の根本だという宣言で、私はこの名前を誇らしいと思い、本名も芸名もこの名前一本でやってきた」と植木さんは記す。
当初は芸能界入りに激怒した徹誠さんだが、「わかっちゃいるけど、やめられない」のスーダラ節は「親鸞の教えに通じる。青島君はなかなかの詞を作った」と理解を示し、戦後は、頼まれると「割り切れぬまま割り切れる浮き世かな」と揮毫(きごう)する器量人でもあった。
徹誠さんは三重県伊勢市の回船業者の子に生まれる。真珠王、御木本幸吉と縁戚(えんせき)だったこともあり、上京して御木本真珠店の職工となる。そこで大正デモクラシーの洗礼を受け、労働組合運動に目覚めるが、関東大震災後のレイオフで失職、妻の実家の寺を継ぐ形で僧籍に入るという波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生』

なお、この『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日新聞社、一九八四年)は、現在、絶版です。朝日新聞社さん、増刷をお願いします。

武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の親友・植木等の死に想う。「愚禿」親鸞

2007-03-28 | その他

私の父は81歳で植木等より一歳年長ですが、旧制中学(文京区白山の京北中学・高校)時代からの親友でした(大学は東洋大学・哲学科)。

植木等さんのお父さんは三重県・伊勢の浄土真宗の寺の住職、私の父の親も浄土真宗の僧侶でした。父と植木等さんは、京北中学時代から一緒に檀家回りなどをしていたそうです。今で言えばアルバイトですね。文京区向丘の真浄寺(浄土真宗・大谷派)でのことです。
昨年亡くなった真浄寺住職の葬儀(父が植木さんに知らせました)には、酸素吸入器をつけて出席したそうです。植木さんは大変義理堅く、毎年お正月には必ず真浄寺を訪れていました。

植木さんのお経は、声がよく通り、大変聞き栄え?がしたそうです。
太平洋戦争時には、植木さんのお父さんは親鸞思想に則って「反戦」を掲げ、戦争政策の愚を説いて回ったために、官憲に捕まり拷問を受けたそうですが、気骨ある人で怯(ひる)むことはなかったとのこと。私の父の親はその時すでに他界していました。

「分かっちゃいるけど、やめられない」(スーダラ節)は、親鸞の言う「煩悩につかれた凡夫」―凡夫こそ救われるのだ、の現代版のような歌詞ですが、この歌の意味・価値を見抜いたのもお父さんだったようです。

人間のありのままの思い・姿を肯定する、肯定からしか「救い」は得られない、という究極の真理をつかんだ愚禿親鸞の思想については、以前、「親鸞思想の核心」(クリック)として書きましたので、ぜひご覧下さい。

朝廷から流罪に処せられ、僧籍を剥奪(はくだつ)された故に、愚かな禿(ハゲ)と名乗った親鸞の思想は、どこでもいつでも生きることができる、そんなことを昔、植木さんの活躍を見て感じたものです。南無阿弥陀仏。

武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者に。

2007-03-26 | 教育

若者に。

「勉強、勉強、勉強、
勉強こそよく奇蹟を生む」
(武者小路実篤)

これは、 『白樺教育館』に掲げてある色紙です。

ただし、ここでいう「勉強」とは「受験勉強」ではありません。

勉強ではなく、受験勉強をするのは、ダメです。
ほんとうにダメです。
必ず実力は落ちますー物事の核心は見えなくなりますー保証します。自他に有害な「我」だけが強くなります。その方向に舵を切れば、そのような人生、これからは流行らなくなる!(笑)人生を歩むしかなくなります。

しかし、「ふつう」のではなく「有名」学校に入ることが「何らかの理由」でどうしても必要ならば、致し方ないことです。頑張るしかありません。ただし、「必要悪」であるとの認識をなくしたらお終いです。

何をし、何を目がけようと、絶対的に言えるのは、
?心を見つめる作業=システム内人間としての「心もどき」ではなく、裸の人間としての「心」を見つめる作業と
?根源的な思考力を鍛える作業(主観性の知としての哲学)と
?体を鍛える作業を
欠かしてはダメだ、ということです。

心身の実力がないのに受験成績がよい、というのは最悪人間です。

システムがつくる路線=マニュアルに乗るのではなく、
自分で、
自分の創意工夫で、
心身と思考力を鍛錬することは、
深く納得できる人生を生きるための条件です。
自他の豊かな生ー悦びの生を生むための条件です。

処世術に留まる「ためになる話」「よい話」などは、人間の存在それ自体をつまらぬものー魅力に乏しいものにしかしません。
悩み、怒り、苦しむことはいいことです。不安に陥ることはいいことです。そこから逃げずに、それを引き受けることです。「裸」の人間としての存在を大きく深く、したがって「ほんものの優しさを生きる」ことができる人間になれたら素敵です。

テクニックで誤魔化す人生ー表層紳士ー自己欺瞞(最悪のウソ)ー自我の拡張ー覇権主義・・・は、底の抜けた人生でしかありません。あり地獄・もがけばもがくほど心は落ちていきます。

私は、自分自身として生きることができる人間がひとりでも多くなることを願っています。


武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安部晋三のルール違反の策謀=「日本らしさ」を有識者が決定する

2007-03-24 | 社会思想

4月、政府=公権力による「美しい国」=日本らしさを決定する会議がはじまります。
日本の支配階級とその取り巻きを集めて、政府は「美しい国つくり」のための有識者会議を始めるとのことです。23日付けで、内閣官房に事務局となる推進室を設置しました。政治権力者が、文化のありようを決定する→それを教育現場で強制するという戦前の「日本主義」(深い洗脳の手法)が全面的に復活します。

いよいよ「天皇を中心とした神の国」=「美しい国」つくりが始まります。座長は平山郁夫です。極めて平面的な絵画しか描けない、その意味では私が言う二次元世界のチャンピョン(にすぎない)の彼が座長だということが、ダイナミックな立体世界=実存の自由が生む市民国家とは異なるものであることを象徴していると言えましょう。
しかし、この問題の根っこはその「内容」だけにあるのではないのです。その中身がいかなるものであろうと、政治権力が「文化」のあるべき姿を決定し、それを教育現場で子どもたちに教え込むというのは、言語道断の所業なのです。

こういう日本的な洗脳手法=有識者と呼ばれる平面知のチャンピョンを集めて、「合議」の形をつくり、そこで決めた(システムの構造上、あらかじめ方向は決定されています)内容を「合意」による「よきもの」として国家の名の下に強制する、まさに日本版Manufacturing Consent(合意の捏造)です。
言語学者チョムスキーのこの概念については、クリック

せっかく戦後、ある程度つくりあげてきた市民的自由は、「文化」の大枠を国家が決めるという「根源的な洗脳システム」が作動すれば、消去されてしまいます。シチズンシップ(市民精神)に基づく政治は元から断たれます。政治の土台となる人々の思考・想念をある一定の文化(日本らしさを教え込むことによる)の下に統合することで、個人の自由を根こそぎ奪ってしまうからです。人々は、ある思考枠にはめ込まれている自分に気づくことなく「自己決定」!?するようになるわけです。
エリート支配による「美しい国」とは、権威主義による序列宗教の国に過ぎません。スタティックな二次元世界に生身の人間をはめこむ「人間を幸福にしない日本というシステム」の別名です。わが日本人は、ますます自分の頭で考えなくなり、「エリート」の思惑通り動かされる自動人形になっていくでしょう。

日本では、保守派に限らず革新派と呼ばれる人々も、「客観主義」の想念に囚われているために、「あるべき姿」「・・らしさ」という観念に深く縛られてしまいます。人間の生や社会のありようという文化の問題については、ほんらい「正解」(客観的正しさ)は存在しませんが、客観学(答えの決まって勉学)という手段としての知・学しかない日本社会では、「正解」への恐怖心が人の心を支配しているために、自分に感じ思われるところから自分の頭で考える営み=主観性の知=哲学する営みが成立しません。

こういう精神風土の中で、権力者があるべき日本の姿=日本らしさを決定するという行為がどれほど恐ろしい結果をもたらすことか!「洗脳」というレベルではなく、日本的権力システムによる「根源的な想念誘導」は、人権の成立する大元を消去してしまいます。チョムスキーの言う「合意の捏造」は、アメリカ社会では「思想」のレベルですが、日本社会では思想成立以前の「心」にまで及びます。

ますます、「民知」(恋知としての哲学=哲学の初心)という健全な立体知を広めたい・広げなければ、と強く思います。左右の客観主義を超えて、主観性の知としての恋知(哲学)を共に!

武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育の原理論ー30年間の実践を踏まえての私の教育哲学

2007-03-21 | 教育

下のブログで、私の30年間の教育実践(子ども・人間の生を元から問い直すことの連続による)を踏まえて、教育とは何か?という教育の本質論=原理論を書きましたが、
二回に分けて書いたものを一緒にして、古林治さんが「白樺教育館」のホームページにアップしてくれました。子ども(大学生も)の写真入りでとても見やすくなっています。教育の「原理中の原理」について凝縮して書いたものなので、ブログ記事では読みにくかったと思いますが、ホームページだとかなり感じが違いますので、ぜひ、ご覧下さい。
クリックで出ます。 白樺教育館ホーム・『教育の本質』

武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体遊びー豊かな心ー優れた頭 教育の本質ー2

2007-03-19 | 教育

教育の本質ー2(下からのつづき)

では、豊かな心を生むための基本となる条件は何でしょうか?
それは、心身全体で子どもと交わることです。抱っこ、オンブ、たかい・たかい、ふざけ合い、取っ組み合い、肩もみ(足もみ)し合い、いろいろ工夫して体遊びをすることが必須です。率直、自由、柔軟、臨機応変・当意即妙のしなやかな心は、【心身全体による豊かな触れ合い】が生み出すもの。一本調子、融通(ゆうづう)が利かない、頑固、臆病、ギクシャク、固い自我、厳禁(げんきん)の精神、暴力性、居丈高(いたけだか)、尊大・・・は、豊かな体の触れ合いのなかった人に共通する悲劇(人生の失敗)です。

このような心の持ち主は、生きた有用な頭の使い方ができません。意味をつかみ、全体を把握(はあく)できる健康な頭脳とは無縁です。公理・公式にあてはめるだけ、ハウツーによるパターン思考、丸暗記の事実の羅列(られつ)、情報に操(あやつ)られる判断。こういう死んだ頭・機械のような不幸な頭は、上述した固く貧しい心がつくるもの。

囚(とら)われの少ない意味をよくつかめる生きた頭は、情報に操作されずに、自分が真に自分自身としてよく生きるための絶対条件です。自立した優れた頭を、私は民知という知=頭と呼びますが、この民知の頭をしっかり育てれば、特殊な受験校(不健全な学校)以外ならば、特別な勉強などしなくても、入試は簡単です。私は30年間、哲学しつつ教育に携(たずさ)わってきた者として、自信をもって断言・保障できます。

楽しく・面白く触れ合い、たくさんおしゃべりすることが、力のある優れた頭脳を育てる必須の条件。どんな話でも、「へ~、そうだったの、そうなのか」と聴くことが何より一番です。それは子どもの心を心地よくヌクヌク満たします。そういう心になってはじめて、いろいろな知識や考えを吸収する準備が整い、頭が回り出すのです。子ども・人間は機械=ロボットではありません。心と頭と身体は切り離せないのです。悦(よろこ)びのないところに、よきものは何一つ生まれません。みなの役に立つ優れた頭脳は育ちません。

心身の豊かな触れ合い、楽しい対話、この何より一番大切なことが極めて不十分にしか行われていないところに、教育からはじまる日本のすべての人間・社会問題の元凶(げんきょう)があります。これが、型はまりの様式主義の文化を生んでしまいます。
子どもの話を聞かずに、「こうしなさい、こうすべきです」という躾(しつけ)と称する言説は、正直な心、自分の感じるところ・思うところにつき、そこから真に自分の頭で考えるという何よりも重要な営みを元から潰(つぶ)してしまいます。哲学は成立しようがありません。頭の芯に「脅迫観念」が植えつけられて、紋切り型(もんきりがた)の面白みのない人間や、肩書きだけで実力と魅力に乏しい人間しかつくりません。テレビで政治家や官僚の顔を見れば誰でも分かるでしょう(全員とはいいませんが・笑)。まさに「顔は顕現する」(レヴィナス)です。

子どものありのままを受け入れ、よく付き合い、それを楽しむこと、それが教育の本質=原点です。理想・あるべき姿を追う愚かで弱い精神からの脱却が急務です。「幸福をつくらない日本というシステム」(ウォルフレン)を変えていくためにも。有用な優れた頭を育てたいならば、何よりもまず楽しくなれる「心の環境整備」が必要です。闘争・蹴落(けお)とし・勝ち負け・ギスギスの心は、遅かれ早かれ必ず人格破綻(はたん)をもたらします。

他者への優越・抑圧に過ぎない単なる「事実学」の集積ではなく、生活世界に根差した生きたほんものの知=「意味論」でなければ、有用な価値ある「知」にはなりません。心身全体による豊かな交流が、意味の分かる生きた有用な頭を育む、が結語です。

武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受験を目的に生きる!?教育の本質-1

2007-03-16 | 教育

受験を目的に生きる!?
そういう少年・少女時代をおくった人は、人間的に豊かでしょうか? 自他へのが育っているでしょうか? 生きるよろこびを広げているでしょうか? 芯の強さをもった優しい心の持ち主になっているでしょうか? 余裕のある心身、豊かな実力をもった魅力ある人間に成長しているでしょうか?

私は、30年間、多くの子どもたちと深く交わってきました。多くの相談を受けてきました。多くの家庭崩壊を見てきました。目先の狭い了見や外的価値に基づくプライドによって、人生を暗く、重く、悦びの少ないものにしている人たちを見ると、「ほんとうに不幸だな」、と悲しくなります。自分で自分の首を絞めている、でもそのことに気づかない。形だけを整えようと必死になり、どんどん中身は狭く固くなる。情報に振り回され、他者の目を気にして自分の心のありよう・物事の本質を見ようとしないために、「出口のない世界」でもがき苦しむ。
そのことで一番犠牲になるのは、誰でしょうか?

ほんとうは、一つも難しいことはないのです。
自分と子どもの「ありのまま」をよく見ること。善悪を抜きに、まず、そのままを受容すること、それがはじめの=絶対の一歩です。理想・あるべき姿を追わず、目の前の現実を素直に見て、それを肯定し、受け入れるのです。

そういう心が基本としてあれば、自ずと心身は動き出します。ありのままを受け入れると、世界が変わるのです。受動的な意識・脅迫神経症のような不安定な心・他者の評価に怯える弱い精神は、だんだんと薄らいでいきます。そうして、自分がよいと思うこと、自分がほんとうにしたいと思うことに「真っすぐ」になれると、心は、積極的・能動的に、強くなります。他者がどう言うか?ではなく、少しずつ自分を信じられるようになり、心は安定を得るのです。

大人(親・教師)子ども共に、そのような心の安定・広がり・発展があってはじめて、「勉強・学習」に落ち着いてとり組むことが可能になります。「心」を豊かに強いものにすることと一緒にでなければ「頭」も鍛えられないのです。これは人間の生の原理です。けっして切り離すことはできません。 (つづく)

武田康弘

☆写真は、白樺教育館・大学クラスで(小、中学生の時から通っている染谷君と目黒さん)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョムスキーとメディアー白樺ML

2007-03-14 | メール・往復書簡


以下は、白樺MLです。 (また、「紅草子」さんの感想も素晴らしと思いましたので、リンクしました。ぜひ、ご覧下さいークリック


武田様

映画、「チョムスキーとメディア」、昨日見てきました !
3時間近い映画なのに、一瞬も退屈しない、一言も聞き漏らしたくない“凄い”
“見事な”映画でした。観客は7割ぐらいの入りでしたが、渋谷からの道で会った
男性は長野からの出張の合間に来たと言っておられ、口コミで広がっているように
見えました。
〈他人との連帯の中で、自分自身の価値観を身につけ、自衛の手段を身につけ、
自分の生活に主導権を取り戻し‥‥‥〉
まさに民知という考え方にピッタリ、武田さんがおっしゃったみたいに合わせ鏡の
ようですね。 難しいことではなく、本当に哲学の初心です。基本のところがぶれない
生き方をする、そのことが非常に大切だということを強く感じました。
「歴史修正主義者」の本の序文に関する事件に関しても言論の自由を守るという筋が
きちんと通っていました。
「独裁的な政治ではこん棒で脅かせばいいが、民主主義では思想のコントロールが
必要になってくる。マスメディアは大企業だから、自らの利益のために市民ではなく、
権力に奉仕するようになる」他、すべての言葉が
強い説得力をもって伝わってきました。
チョムスキーさんは人間的にも「普通」の感覚を持った素適な人ですね。それに比べ
彼に敵対するする人たちの顔の表情がひどく気持ち悪く、不愉快な表情をしている
のを感じましたが、武田さんはお感じになりませんでしたか?あれは映画の作り方
の所為かしら?彼らの生き方の所為かなあ?
現実には巧妙に覆われた真実を一般市民が見極めるのは難しいです。しかし、
努力はいるが、人々が少し視点を変え、視野を広げ、連帯し情報を共有することで、
可能なのだという希望を感じました。
最後の方で、チョムスキーさんの講演を聞いた女性が「異を唱える者は孤独だが、
集うべき中心点があるように思える」と言っていましたね。日本でも色々な市民運動が
たくさんあっても、社会を変えていく力になりきれないことに無力感を感じていましたが
映画を見て、この女性と同じような希望を感じました。
(以下省略)
☆皆さんこの映画、16日までですが、是非ご覧下さい。
著作も「メディアコントロール」(集英社新書)は薄くてすぐに読める本ですから、通勤
途中で読むのにも最適です、是非!!

楊原
―――――――――――――――――――――――

阿部です。

鈴木安蔵の憲法研究会の映画「日本の青空」ができあがっているそうです。
http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/index.html
日本の青空(HPよりストーリーを抜粋)
・・・政府によって作成された憲法草案はおよそ民主的とは言いがたく、大日本帝国憲法と基本的には代わり映えしないものであった。
それに対して「憲法研究会」によって熟考を重ねられ遂に完成した草案は国民主権、人権保障、男女平等などを謳った真に民主的なものであった。
政府による新憲法案はGHQ側にあっさりとはね返されたのに対し、憲法研究会による草案は英訳され、GHQ案に多大な影響を与えることに・・・・

筑紫哲也ニュース23で3/9に特集やってたらしいです。
どんな出来の映画か見てみないと判りませんが・・・。

あと、チョムスキーとメディアの映画見てきました。
タケセンの言ったのそのまんまですね。
精神衛生上非常に良い映画でした。
ふつうの人と人との横のつながりでー自分の意見を育てるー未来への希望も見せてくれてるし。
これはまさに民知だ!王道(真実に向かって真っ正直な道)をいってる!

チョムスキーがただ一つ悔いていたことー本の序文に使われた文章をあとから撤回したことーがあったりして、
ヴォルテールが言った「あなたの言うことには一つも賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命を懸けて守るつもりだ」
ってことを言ってるのを理解してもらえず、悪者扱いされていたところは、けっこう人がいいんだなぁと思ってしまいました。

チョムスキーは自分ができること、得意なことをやっているだけと言っていました。本当にそうなんですが、
物事を比較検討して判りやすく提示する能力は半端じゃなくすごいです。

映画の内容ー大手メディアの構造的な問題点ー現政府のプロパガンダとしての役割をになってしまっているってところが
はっきりわかってしまうところがすごいですね。

――――――――――――――――――――――――

古林です。

一日遅れで私も今日見てきました。
入りは30%くらい。(10:40の上映)
楊原さんと阿部さんが素敵なインプレッション書いてくれたので、あまり言うべき
ことはないのですが、気のついたことをいくつか。

こんな面白いドキュメンタリーは見たことない。
一言で言うとこうなります。
制作者の執念に脱帽です。チョムスキーの行動力におそれいりました、です。
何より、題材が重く気分が暗くなってもおかしくないのに、なぜか活力をわけて
もらってきた感じがするのが最高です。
音楽(音)も良かったです。パーフォーミング・アートのローリー・アンダーソンや
ロック界の大御所、デビッド・バーンなどなど。もしかしたら彼らはボランティアかも?

ところで、チョムスキーのように思考と実践の中から培ってきた健全な思想を
受ける側がどう捕らえているかを考えてしまいました。
『国家は暴力装置である。』という会話がありました。
事実、そのような一面はあるでしょう。ですが、チョムスキーが国家そのものを
否定しているとは思えません。日本の「進歩的」知識人は国家の存在
そのものを否定しているように見えます。
チョムスキーはまた、リバタリアン的社会主義を自認していたと思いますが、
「自由の森学園」の一部の狂った教員たちが信奉していたのがリバタリアンでした。
無論、その内容はチョムスキーとは無縁のものです。
そんなわけで私はこの国の思想の貧弱さも同時に思い浮かべてしまいました。
繰り返しになりますが、「原理論」をしっかりと捉えることが出来ていないせいなの
でしょうね。
以上、チョムスキーとメディアについてでした。
ちなみにネットの前売り+ファミリーマートの発券で1300円です。

――――――――――――――――――――――――

武田です。

確かに古林さんの言うように、民主主義の国家と国体思想の国家との違いは何か?を明確にしておくことは、重要です。

すこし、簡単に整理しておきます。

ひとりひとりの自由で対等な人間が集まって、その権利と安全を担保するために国家という制度をつくる、と考える民主主義の国家観に対して、
国体思想による国家観は、予め日本はどういう国であるかを規定し、その観念的な国家像に合うようにひとりひとりは生きるべき、と考えるわけです。

個々の実存を基底に据え、国家とはその社会に住む人々の人権を守るために必要な制度だとする民主主義の国家思想と、国体思想=国家主義とは原理がまったく異なります。

日本語を使い、日本の気候風土の中で生活するする私たちは、自ずと「日本的」な感性と思考(私は「水の国ー日本」と考えます)を持ちます。日本で生きる人々の実存は、アメリカや中国で生きる人々の実存とは「異」なる部分がありますが、それは予め日本主義の思想を政府・教育機関が教えることとは違います。教育行政(権力)による方向づけ・誘導がなされれば、人々の想念は固定化・保守化してナショナリズム(国家主義)に傾斜していきます。頑なになり、柔軟で自由な思想が失われると、個人も国家も弱体化してしまいます。他在を受け入れる柔らかさ・しなやかさがなくなるのは「死」に近づくことだからです。

結論を言えば、国家という制度の価値は、人々のよき生のための条件整備にどれだけ貢献しているか、その程度にあります。同じことを逆から言えば、人々が自分たちのよき生(互いの人権確保と安全)のために、国家制度を有用なものとしてつくり、運用しているかどうか、それが核心。現代における国家とは、【人権と民主主義を守るための制度】と考える以外はありません。日本主義=国体思想を引きずり、特定の国家観を持つように国民を誘導するという政策は、現代社会では許されません。これは市民社会の原理です。「市民国家」以外の国家、たとえば「天皇元首の国体国家」を目がけることはできないのです。
個人の自由を奪うこと=実存の否定=哲学の否定=自由と民主主義の否定という選択は、国際的に禁止されています。

以上、少し思うところを書いて見ました。

また、楊原さんの言う、「顔―表情」については、私も同じ思いです。
「顔は顕現する」とは、現代フランス哲学者の長老、エマニュエル・レヴィナスのキーワードですが、人間は、ひと目「顔」を見れば分かりますよね~(笑)。

☆ドキュメンタリ映画「チョムスキーとメディア」は、渋谷ユーロスペースで、3月16日(金)までです(一日3回上映)。お問い合わせは、03-3461-0211(ユーロスペース)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本政府・文部科学省による「反・道徳教育」から子どもたちを守るために。

2007-03-11 | 教育

子どもの心を特定のイデオロギーで縛る「思想教育」が本格的に始まろうとしています。これは極めて恐ろしいことであり、自由と民主主義の根源的な危機だと言えるでしょう。
ウヨク思想の安倍政権が続けば、間違いなく、主観・実存から出発する思想の自由・生き生きとした個人の羽ばたきは抑圧され、消されていきます。保守主義・国家主義という名の「エリート」支配の下で、人権、自由、民主主義は形骸化し、紋切り型の考え方・生き方しかできない社会になっていきます。

私は一人の哲学者として、また30年教育に携わってきた者として、上記のことは「間違いない」と断言できます。

10日の中央教育審議会は、政府が教育員会に対して是正・勧告・指示できる権限を強化する「地方教育行政改正法」を進める答申案を文部科学大臣に提出しました。今の通常国会にこの改正法案は提出される予定です。

この中で、学校教育法改正では、【わが国と郷土を愛する態度】を義務教育の目標に盛り込むことを提言していますが、一昨日のブログにも明記した通り、これは、道徳の本質=「自分が自分に課す規範・態度」をその大元から否定する【反・道徳思想・教育】でしかありません。

言うまでもなく、社会体制を変え、文化を発展させた歴史上の人物は、それまでの伝統や国家のありかたに対して異議を唱え、それに挑戦した人々です。わが国最大の宗教である浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)は、時の天皇制国家権力から流罪の刑に処せられた人物であり、自由民権運動の中心者のひとりで、近代天皇制の明治政治から忌み嫌われた植木枝盛は(うえきえもり)は、現・日本国憲法にもっとも強い影響を与えた私擬憲法草案者です。一つひとつ上げればきりがありませんが、真に人々の幸福に寄与したのは、時の政府や伝統に挑戦した人物なのです。

国を愛し、伝統を尊重するのももちろんよい生き方ですが、今までの国ありようや伝統の文化を批判し、それに挑戦するのもまた素晴らしい生き方です。

どのような思想や態度を持つか?は、ひとりひとの人間に委ねられていることであり、それを侵害する現政権と官僚たちによる上記のような「反・道徳的」な思想や教育は、原理次元における「悪」であり、論外です。特定の態度(愛国心や伝統尊重)を強要されれば、人は、深く心の声を聴き、己の主観・実存を育てる営みができなくなります。心の内奥を掘り進める生とは無縁な、外的価値に従い、外的価値に振り回される人生しか歩めなくなっていきます。個人の心の真実=道徳を否定する「国家主義」による教育は、実存の飛翔―思想の自由を抑え、狭めることで、結果として社会・国の発展を阻害する極めて愚かな所業です。

官僚(役人)や政治家や「事実学」しかない学者の、生の原理への無知―哲学の貧困は、恐ろしい結果を招きます。私たち市民は、現・政府や文部科学省の方針には従わないことが必要です。全国の教師や父母のみなさん、子どもの心と頭の健全な発展のためにネットワークを組み、ぜひ連帯しましょう。ひとりひとりがメディアになり、感じ、思い、考えたこと、知りえた事実を発信し合えたら、と思います。

武田康弘





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日、武田講演&対話の会ー「民知が開く心と世界」

2007-03-10 | その他

本日、
午後1時より3時まで、鎌ヶ谷中央公民館で、私の講演&対話の会があります。
参加費は無料です。お気軽にどうぞ。

『民知が開く心と世界』

詳しくは、白樺教育館ホーム(クリック)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛国心は強制が不可欠-国民は命を犠牲にして国家の連続性を守るべきー八木秀次(安倍首相のブレーン)

2007-03-09 | 教育

道徳とはなんでしょう?
損得計算による言動や、強制による言動を道徳とは呼びません。
簡潔に言えば、
道徳の本質とは、【自分が自分に課す規範】のこと。自分の存在のありように対してどの程度意識的か?が道徳的価値の基盤となるわけです。
したがって、自己存在に対して非・反省的で、ただ上位者に従順に生きることは、最も非(反)道徳です。言動に対して自己責任が生じないからです。
第二次大戦の直前に、アメリカでつくられた映画『日本を知れ』の中で、「日本人には道徳は存在しない、ただ目上の人に従うだけである。」という件がありますが、これは、日本人の上意下達(「上官の命令は天皇の命令と思え」)の精神構造を指摘した言葉です。現在の日本でも事態はほとんど変わりません。いわく「先輩の命令には逆らえない」(スポーツ部活動でしばしば言われる)。

「愛国」という思想を教育現場で強制するというのは、その本質において道徳を潰す行為でしかありません。「新・教育基本法」に従わせることは、反道徳・非道徳な子どもを育てることにしかならないわけです。道徳とは、自分が自分に課す規範である限り、他者(政府・行政・学校)による強制は、その時点で道徳に反する行為だからです。これは原理であり、反論は不可能なはず(反論可能と思う人は反論してみて下さい)。

安倍首相にブレーンであるとされる八木秀次の言説は、まさに教育現場に【反道徳精神】を持ち込もうとする主張でしかありません。一昨日の東京新新聞から以下にその発言を写しましょう。

「現行憲法は、敗戦の産物として日本の歴史から切り離されて生まれたもの。前文はジョン・ロックに倣って、個々人の生命、自由、財産を守るために国家をつくったという論理を展開している。しかし、それでは国防は説明できない。国防とは、国民が生命さえ犠牲にして国家の連続性を確保すること。本来、国家とは観念的なもの、国家や国民、愛国心という観念を共有し、次世代に継承するには、強制が不可欠。歴史的名場面を子どもたちに「読みなさい」「考えなさい」と教える。」(八木秀次・3月7日の東京新聞・朝刊30面トップ)

愛国思想の強制という主張は、極めて反・道徳的であり、反・人権的ですが、このような前時代的な「国体思想」を振り回す八木秀次という男は、安倍首相の有力なブレーンなのです。
子どもたちを政府による「思想教育」(これでは北朝鮮と同じ!)から守るためにも、タカ派の安倍グループには早々と退場してもらわなければいけません。

武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョムスキーとメディア

2007-03-08 | 社会思想

以下は白樺MLです。

----- Original Message -----
From: 白樺教育館ー武田康弘
To: shira_philosophy@freeml.com
Sent: Wednesday, March 07, 2007 8:35 PM
Subject: [shira_philosophy:1505] チョムスキー

武田です。

「チョムスキーとメディア」、見てきました。
午後2時5分開始で終わりは5時。
チョムスキーの語る思想は、白樺哲学と大変似ていました(笑)。
彼は21世紀のサルトルという感じです。ただし、平明で明るく、シェイプアップされたサルトルですが。冷静・沈着・内省的でかつ能動的・情熱的です。
チョムスキーは、たえず自由と民主主義の原理をとらえ返し、「ふつう」の人々の生に大きな価値を見、そこに希望があると語ります。本に書かれなかった人々こそが歴史・社会の真の主役である、という信念をもっています。現代社会の「エリートと専門家による支配」を覆すための思想・政治の闘いーアメリカ社会におけるエリート支配を打破し、ふつうの市民が主役になる「民主主義」革命を実現するために精力的に動く姿は実に感動的です。

以下は、チョムスキーからのメッセージ。
「政府・メディアが人々をお互いから引き離し、孤立させようとするなら、
私たちは、その逆をいきましょう。
つながるのです。
各々の地域社会にオルタナティブな行動の拠り所が必要です。
他者との連帯のなかで、
自分自身の価値観を身につけ、
知的自衛の手段を学び、
自分の生活に主導権を取り戻し、
そして周囲の人々にも手をさしのべるのです。」

渋谷のユーロスペース(2)ー140名の定員のところ45名くらいでしたので、ゆっくり見られて疲れませんでした。数名のお年寄り、数名の若者、後は中年。男女は半々くらいでした。
チョムスキーの明晰で力・張りのある声、透明な思想と不退転の行動は、視聴していて生理的にも気持ちがよく、元気が湧き出ました。
なにしろ、彼の主張は白樺哲学と合わせ鏡のようで、哲学の初心=民知そのものなのです。
―――――――――――――――――
----- Original Message -----
From: 白樺教育館ー武田康弘
To: shira_philosophy@freeml.com
Sent: Thursday, March 08, 2007 12:14 PM
Subject: [shira_philosophy:1506] Re: チョムスキー続き

昨晩の続きです。

ユダヤ系のアメリカ人であるチョムスキーは、デューイ(プラグマティズムの哲学者で、自由と個性と社会性を重んじ、抑圧や権力の介入を排した教育の提唱と実践で知られる―戦後の日本の教育にも大きな影響を与えた)の考えによる自由な学校で学びましたが、そこには「競争」がなく、「優等生」という概念さえ存在しなかった、と言っています。
受験勉強は嫌いで、さまざまな現実を見、触れて育ったということです。こういうところが「言語学のアインシュタイン」との評価を呼び寄せる要因かもしれません。
それにしても、すでに世界的な言語学者(言語の動的分析=生成変換文法や本能としての人間言語説)であった彼が大学教授としての生活を奪われることも覚悟して、アメリカ社会の不正に対して敢然と立ち上がり、「ニューヨークタイムス」をはじめとする大メディアの構造的問題―それらはエリート・支配層に都合の良い「思想注入」の役目を果たすにすぎないーことを、個人が良心に基づいて活動する小メディアと連携しながら追求する姿勢、その迫力・美しさには圧倒されました。「ニューヨークタイムス」がエリート支配のための思想注入新聞であるとの指摘(多くの具体的事実・とくに東ティモールの大量虐殺事件をあげての追求)に対して、論説委員・カール・マイヤーが次第にシドロモドロになっていくさまはなんとも愉快!痛快!
また、現代思想のチャンピョンと言われたフランスのミシェル・フーコーとの対談でも、チョムスキーの明晰さが際立っていました。「抑圧規則の体系があってこそ科学も可能」とうフーコーのギクシャクした語りとは好対照。
また、なにより素晴らしいのは、若者・学生たちのインタビューや質問へのウエット・ユーモアに富んだ、真摯で謙虚な態度です。著名人であることを嫌い、なんの野心も持たない彼は、アメリカの良心ではなく、人間の良心そのもの。

「プロパガンダ・モデル」と名づけられたメディア分析のチョムスキーとハーマンとの共著『マニュファクチャリング・コンセント(合意の捏造)』(マスメディアの政治経済学)は、先月(2007年2月)に翻訳本が出ました。トランスビュー刊・(1)3800円、(2)3200円で高価ですが、教育館で購入しようと思います。

☆ドキュメンタリ映画「チョムスキーとメディア」は、渋谷ユーロスペースで、3月16日(金)までです(一日3回上映)。お問い合わせは、03-3461-0211(ユーロスペース)

武田康弘。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「正解」はないことの深い自覚

2007-03-07 | 恋知(哲学)

日本の思想と政治は、大きく分ければ、「客観神話に囚われた型の文化による国体思想」と、「個々の実存から出発する自由民権思想」の対立です。

どちらの方向で生きるのか?どちらの方向で政治を行うのか?で二つに分かれます。

民知=哲学の初心=恋知としての哲学は、後者の立場に立ちますが、わが国の不幸は、政治的には革新といわれた人たち・政党が、客観主義の思想(とりわけ科学的社会主義・マルクス主義)を掲げていたことです。

これでは、一人一人の生の現実、赤裸々な人間の心、生活世界の現場につき、そこから出発することはできません。「主観性の知」を広げ深め鍛えるという方向に進まず、「客観的真理」という虚構の世界を構築し、それに依拠する弱い精神は、体制派とは異なるとはいえ、やはり一つの権威主義、客観主義に行く他はないのです。

自分が感じ・思うところをよく見つめ、そこから考えを立ち上げるという思考の基本は、正解が決まっているという想念(客観神話)がある限り、しっかり踏まえることができません。

人間の生き方や社会のありように正解はないのです。どう生き、どう考えたらよいか?は、一人ひとりが生活世界の具体的経験から「生み出す」以外にはありません。自問自答し、対話する中からつくりだすしかないのです。ここで大切なのは、誰であれ皆に共通する「生活世界」という立場で考えることです。

このことの深い自覚があれば、ほんらいの哲学とは「主観性の知」であり、対等な自由対話に拠ることが了解できるでしょう。民主制社会では特権者は存在しませんから、それぞれの主観を鍛え、深め、豊かにすることが何より強く求められるのです。

主観・実存に依拠し、そこから立ち上げる以外には、思考が根付く場所はありません。これは原理であり、覆すことは不可能です。「客観神話に囚われた型の文化による国体思想」は、人間の生の原理を踏まえない思想です。「個々の実存から出発する自由民権思想」を明晰に自覚することは、はじめの一歩なのです。

左右の客観主義を超えて、「私」からはじめましょう!!民知の実践を。


武田康弘



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんとうによい頭とは、【よろこび・たのしみ・おもしろみ】を生み出すもの

2007-03-05 | 恋知(哲学)

こどもたちを見ていると、強く思います。
人間は、ほんらい、よろこび・たのしみ・おもしろみを生み出す存在だ、ということを。
しかし中学生くらいからは、次第に既成の枠組みにはめられて、受動的な人間になっていきます。「生み出す」のではなく、「こなす」だけの存在になります。

意味を追求しない事実の暗記だけの机上の勉強と、連日の長時間の部活動における閉じた濃密な人間関係。これは共に個人としてのパワー・創造性・想像力・魅力を消去して、システムにはめ込まれた紋切り型の「つまらない」人間をつくります。
既存の行政システムに都合のよい「人間」!?経済的支配者に従う優秀な!?自動人形になるための人生に誘導するのが、ザ・ニホンシステム=「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)だと言えましょう。

この受動人間=人間ならざる人間は、【客観神話に囚われた型の文化・権威主義・序列宗教】に意識の深部を侵されて、そこから脱出する気力もなく、システムが命じる役割をこなすだけの人生を死ぬまで続けるほかありません。【序列 内 存在】としてだけ生存を許された人間は、死ぬまでドレイなのです。これが私の言う【天皇教・靖国思想、東大病・官僚主義】です。白樺が主張する『民知』(恋知としての哲学)の運動とは、この客観神話に囚われたニホン主義をその土台から断つことを目的とした、頭の使い方・心のありようの根源的な変革の営みです。ほんらいの恋知(哲学)する力が、悦びを奪う非人間的なシステムを無価値なものとします。革命の中の革命ですね。

何よりも一番大事なのは、自分自身が、よろこび・たのしみ・おもしろみを生み出す存在になることです。他者から、具体的には、友人や、妻(夫)や、子ども(親)や・・・の生む悦び(プラスのエネルギー)を吸収して生きる吸血鬼のような「受動的な人生」をやめ、自分自身が悦び(プラスのエネルギー)を生む能動性を取り戻すことです。皆が幼いころの存在の輝き・力を取り戻そうという心・考えを持ち、そのための創意工夫をすると、互いの力は共鳴しつつ豊かに広がる世界をつくり、人間としての面白みのある人生を生き合うことが可能になるはずです。

既存のシステムの命じること、その枠内の価値意識に囚われた「優秀」な人間とは、本質的にはまったくダメな頭であり、優秀なのでありません。頭がいいのではなく、システムに呪縛された頭の構造になっているに過ぎないのです。間違った評価をしてはいけません。私が見るところ、ほんとうに頭がいい人は、学校の成績がさほどでない人の中にいます。受動性に過ぎない頭と心は、どんなに成績優秀でも、自分も周囲も幸福にしません。かえって困った事態・困難な問題を招来させるだけです。本質的には、頭が悪いからです。
ほんとうに優れている頭は、【よろこび・たのしみ・おもしろみ】を生み出すことができます。受動的に「こなす」吸血鬼もどきではなく、能動的に「生み出す」エロースの人こそが一番優れているのです。既成の評価・価値意識を覆し、自他によろこびを広げる豊かな人こそを評価し、賞賛・称揚しなければ、未来を開く可能性は消えてしまいます。

マイナスのエネルギーに満ちた受動性の人間と社会をチェンジ、といきましょう。恋知としての哲学=民知の実践で、主観性の知としての哲学を広げ、深め、豊穣な世界をつくりたいものです。
growing-young

武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする