思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

21世紀のルネサンス=世界革命。 クルレンツィス賛! 伊藤信宏 武田康弘

2018-06-26 | 芸術

 

 以下は、クルレンツィスとムジカエテルナ、コパチンスカヤの2019年日本公演のチラシにある音楽学者・伊藤信宏さんの言葉です。とても同感なので、書き写します(改行は武田による)。

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  異界とのコミュニケーション”!?今一番危険な音楽集団!

 クルレンツィスとムジカエテルナは、今一番危険な音楽集団だ。

 彼らは、ルーティン化した音楽界の制度に背を向け、ヨーロッパとアジアの境界の謎めいた都市(ロシアのペルミ)に引きこもっている。そして昼夜の区別もなくなるような徹底したリハーサルを続け、途轍もない切れ味と、天上的な美しさをもった演奏を生み出した。

 それはヨーロッパの主要都市で投げつけられ、炸裂した。多くの聴衆が怒りだし、そしてもっと多くの人々が強く魅せられはじめている。

 この先、これまでの多くの「コミューン」がそうだったように、グルの力が勢い余って自壊するかもしれないし、あるいは時とともに硬直していくかもしれない。だが、今のところ彼らの勢いに翳りは見えない。彼らのチャイコフスキーは、ストラヴィンスキーよりも荒々しい。それはかつて音楽というものが持っていた、異界とのコミュニケーションという役割を思い出させる。

 もし自分が十代の若者だったら、今すぐ家出して、ペルミに飛んで仲間にいれてもらうだろう。もし自分が絶世の美女だったら、グルーピーになってクルレンツィスを追い回すだろう。もし自分がビル・ゲイツだったら、私財を投げ打って彼らのパトロンになるだろう。

 でも今のところ、私は彼らのCDを繰り返し聴き、そして演奏会があれば聴き逃さないことで我慢するほかない。彼らの演奏を前にして、それを聴くことしかできないなんて、なんて歯がゆいことだろう。 伊藤信宏(音楽学・音楽評論)

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 イデアという概念に基づく「フィロソフィー」(ソクラテスの造語で「恋愛」+「知」)を生んだ古代アテネ、わたしは、はじめてクルレンツィスを知ったとき、彼を「古代アテネからの使者」と呼びました。

 行動に駆り立てる強烈な音楽、目がつぶれるような眩い光輝で、音楽のイデアを直接見る想い。「怖い」までに根源的ですが、深い人間愛を感じます。一人ひとりの精神的自立を奏者にも聴衆にも求めるクルレンツィスは、かつての全体主義のようなマスの名演奏とは著しく異なり、『個人』がキーワードのデモクラシーの音楽です。21世紀のルネサンス=人間復興の世界革命のようです。国家や権威ではなく、個人=人間のイデアが圧倒的なパワーで迫ります。 武田康弘(フィロソファー)




武田康弘

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日本の底なしに愚かな知的教育=東大生は頭がいい!(笑)う~~ん。拡散希望

2018-06-26 | 教育

 わが日本とは「集団ヒステリー」の国ではないでしょうか。
すべての価値意識が一本で、片道通行、特高(変換ミスだが意味ありげ)特攻隊の精神です。

 どうでもよい暗記テストの勝者=がり勉君が頭がいい!?と言われます。
このバカバカしさを明晰に認識している人はとても少なく、「東大生は頭がいい」と信じ込んでいるようです。

 わたしは、彼らを教え、また東大教授の幾人かとお付き合いをしてきましたが、意味論=本質論のレベルで頭がいい人など誰もいませんでした。情報収集と整理・パターン暗記は得意です。しかし、それらはみなAIで可能な領域の話でしかありません。彼らのもつ論理は、見事なほどみな「形式論理」でしかないのです。しかし、彼らは、それが弁証法的で立体的な論理ではないこと、ほんとうに現実的で意味のある論理になっていないことに全く無自覚です。却って、形式論理の固い枠組みを保持して緻密化する自分の思考を、「優れている」とさえ思い込んでいるのですから言葉がありません。

 そのようなタイプの頭脳を崇拝するのでは、国は滅びてしまいます。数学科を出て司法試験に合格した破格の元検事・郷原信郎さん(東大卒なのに例外的な頭脳・笑)はわたしと意見があいますが、「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)という本で形式論理に過ぎない官僚やマスコミ人たちへの根源的な批判をしています。

 ほとんどの場合、事実学をため込んでいくと固くて使えない頭になりますが、その融通の利かないダメな頭脳の持ち主を「エリート」としてしまう国は、愚かで救いがありません。臨機応変や当意即妙という世界とは無縁です。規制枠の中だけで考え、生きるのです。

 日本の基準で言えば、近代西洋哲学の祖・デカルトは怠け者・変わり者でしかないですし、近代民主制のアイデア=社会契約論のルソーは、不良の恋愛小説家でしかありません。20世紀最大の天才といわれるアインシュタインは落第生の落ちこぼれに過ぎません。日本人の場合でも、小説の神様と言われた志賀直哉は、学習院で親友の武者小路実篤と成績ビリを争い二度も落第しています(ただし当時は、文科ならば学習院から東大へは無試験で全員進学できましたので、二人とも東大です・中退)。世界で一番知られている作曲家の武満徹は普通高校卒で音楽教育は受けていません(唯一の師の清瀬保二も独学です)。小沢征爾は、斎藤秀雄の私塾のような短大(桐朋大学の一教室を間借りした桐朋短大)の卒です。

 人間管理主義(その根は「形式論理」という頭の構造にあります)の息詰まるような現状を変えるには、知的教育のありようを根本的に変えることが必要ですが、駅前進学塾がはやり、東大○○名合格がセールスポイントになるのでは、これを変えるのは至難です。
(※なお、今盛んに歪な形式論理を振り回すのがネットウヨク(リベラルな人を指して「反日」と言う)と呼ばれる安倍政権支持のグループです)


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 以前に参議院調査室から依頼されて書いた論説文から、その一部分を以下に載せます。

 わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。
また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。

 人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

 現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです

 読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます

※全文はクリックで出ます。




武田康弘

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安倍首相による選挙妨害の事実。首相退任どころか、代議士辞任もあり得る。

2018-06-26 | 社会批評

ポスト「モリカケ」か? 安倍首相に浮上したもう一つの「重大疑惑」 (楽天ニュース)

HARBOR BUSINESS Online / 2018年6月26日 8時44分

  今回、明らかになった事実などからすれば、その真相が当時、大手マスコミに出ていれば、首相退任どころか、代議士辞任もあり得、いまのように安倍氏が首相に返り咲くなんてことはあり得なかっただろう

 
写真/時事通信社)

 モリカケ問題追及が行き詰るなか、ポストモリカケといってもいい重大疑惑が浮上して来た。

 しかも、モリカケ問題はあくまで官僚の忖度で、安倍晋三首相との関係は間接的とも見られるなか、このポストモリカケは安倍首相が少なくとも途中から直接かつ主体的に関与している可能性が高いのだ。

◆入手した「3枚の文書」

 このポストモリカケの重大疑惑とは、筆者がスクープしたものである。安倍氏の地元、山口県下関市で99年4月にあった市長選に関し、地元の安倍事務所が反社会勢力にも通じる小山佐市氏(80)なる地元ブローカーにライバル候補に対する選挙妨害を頼んだというものだ。

 選挙妨害の見返りが小山氏には約束されていたようだが、安倍事務所側はこれを反故に。これに怒った小山氏が、塀の中で知り合ったお隣、福岡県北九州市に本部を置く指定暴力団「工藤会」組長らと組んで、安倍氏の下関市内の自宅などに火炎ビンを投げ入れ、小山氏は非現住建造物放火未遂容疑などで懲役13年の実刑に問われた。その小山氏が今年2月、満期出所。この5月に筆者に連絡して来たことに始まる。

 もっとも、この選挙妨害疑惑、小山氏らが逮捕された03年11月以降、選挙絡みのようだとは大マスコミでも報じられた。しかし曖昧なものだったし、いずれにしろ、小山氏の逆恨みとされた。

 ところが、今回、筆者は小山氏に接触するなかで、安倍事務所が選挙妨害を頼んでいたと思わないわけにはいかない3枚の証拠文書を入手した。

 この文書とは、当時、地元安倍事務所の筆頭秘書だった竹田力氏(元山口県警警視)が、小山氏側と交し、署名・捺印したもの。それぞれ前述99年4月の市長選挙後の同年6月17日、6月22日、7月13日の日付が入っている。

 最大の注目点は、まず1枚目では、小山氏が選挙妨害の見返りに安倍氏側に対し、懇意にしていた元市長の面倒を見ること、市内計画道路の変更(小山氏は地上げ屋で、誘致するスーパーの利権絡みのことから)などを要求していたことがわかる。さらに小山氏は選挙妨害の件で安倍氏との1対1の面会を要求。これに対し、筆頭秘書の前出・竹田氏は計画道路変更は難しいが、元市長の件は安倍氏に連絡したところ小山氏、元市長と3人で話し合いし、最大限努力したいといっていると回答。さらに「古賀潰し(=文書の記載。選挙妨害)の件も安倍氏に報告済みで、安倍氏は小山氏と話をしたいといっているとの回答もしている 2枚目は、1枚目に記された小山氏の安倍氏との面談要求が通り、99年7月3日午前10時からにスケジュールが決まったので、申し訳ないが、地元の安倍事務所にお越し下さいという内容だ。

 そして3枚目は、予定通り安倍氏との面談を受け、「双方一切他言しない事、約束した」(文書より)として、(1)元市長の件は、本人から依頼あれば誠意を持って話を聞く、(2)「古賀問題」(選挙妨害のこと。1枚目の「古賀潰し」から言葉が代わる)については安倍氏、小山氏の1対1面談でいろいろ話がされたが、安倍氏より話し合いをするように指示を受けている。今後、双方弁護士を入れて解決に向け最大限努力しますと記されている。

 以上、これら記載を見ると、少なくとも安倍氏は選挙後ほどなく、筆頭秘書・竹田氏の報告で選挙妨害の件を知り、しかしこれを咎めるどころか、実行役の小山氏と直に会い、見返りを与える代わりに、「一切他言しない事」と約束を交わせ隠蔽を図ったというのが、普通の解釈というものではないだろうか。

 ここで筆者が強調したいのは、安倍氏がこうした行動に出たのは、単に地元市長選絡みで自分の国家老といってもいい江島潔氏(現・参議院議員)を再選させたかったに止まらず、安倍氏自身、この選挙妨害したと思われる相手に危機感を持ち、その相手の政治生命を絶ちたかったと思われる節があることだ。

◆握りつぶされた「約束」

 前述の「古賀潰し」、「古賀問題」の記載にあるように、その相手とは古賀敬章氏を指す。

 古賀氏は93年7月の衆議院選挙で当時の新生党から出馬し初当選。しかし、再選を目指した96年10月の選挙では落選している。

 この間、選挙制度が中選挙区制(山口1区。定員4人)から小選挙区制(山口4区)に替わり安倍氏との一騎打ちになったためだ。しかし、それでも古賀氏は安倍氏の約9万3000票に対し約6万票と善戦。

「これに安倍は脅威を感じた。古賀も自宅は下関市。もし、山口県最大の同市長になられ、2期ほど務めて利権を安倍から奪取した上で再度、衆議院選挙に出られたら、ヘタをしたら自分が負ける可能性もあると」(地元事情通)

 しかも、その選挙妨害は、拉致問題に引っ掛けてか、「古賀は朝鮮人。もし当選したら、下関市は“金王朝”になってしまう」というビラを撒くなど虚偽(古賀氏は在日ではない)かつ差別・偏見に満ち満ちたものだった。

 ところが、安倍氏側は約束を反故にしただけでなく、一転、“密談”の翌月、すなわち99年8月30日、小山氏は、そもそも選挙妨害を直に依頼したと見られる佐伯伸之秘書(当時)に対する300万円の恐喝事件で逮捕される。のだ。

誌面の制限上、詳細は触れられないが、筆者が入手した300万円の領収証(絵画購入名目)の宛名は佐伯秘書とは別人で、この事件は小山氏をデッチ上げ逮捕し塀のなかにいれることで口封じしようとした疑惑がある。さすがに余りに強引過ぎたからではないか。小山氏は結局、起訴猶予になり、この件では服役するに至らなかった。

 それでもこの間、水面下で小山氏は約束の実行を何度も迫ったようだ。しかし、安倍氏側は完全拒否。ついにブチ切れた小山氏は、前述のように工藤会側と組んで火炎ビンを安倍氏自宅に投げ込んだとして(実際は安倍事務所も入れて計5度)、03年11月、逮捕となるのだ(罪に問われていないが、この間、江島市長の公用車のフロントガラスが割られるなどの事件も起きていた)。

 ただし、小山氏は逮捕され、13年の懲役に問われる(一審。控訴、上告するも棄却に)も、自身、「双方一切他言しないこと事」の約束を守り通したようで、公判において、前出の3枚の文書の存在が明るみに出ることはなかった。

 しかしながら、共同通信がどこからかその存在を聞きつけ、安倍第1次政権が発足する06年、記事にしようとしたことがあった。しかしいまふうにいえば、上層部の安倍氏に対する忖度の結果、記事は出なかった(参照:「共同通信が握りつぶした安倍スキャンダル」。『現代』06年12月号。著者は魚住昭と青木理両氏)。

◆真相を明らかにすべき

 筆者がここでいいたいのは、その事実からも、この重大疑惑の信ぴょう性は高いということだ。

 さらにいえば、当時の共同通信がどれだけ真相に迫っていたかは不明ながら(小山氏は当時、共同の記者が面会に来たことは認めるも取材拒否。文書は渡していないという)、今回、明らかになった事実などからすれば、その真相が当時、大手マスコミに出ていれば、首相退任どころか、代議士辞任もあり得、いまのように安倍氏が首相に返り咲くなんてことはあり得なかっただろう。

 それはそうだろう。選挙妨害は、特に政治家にあっては自身もその洗礼を受けるだけに、その公平性を歪める、なおさら重大な犯罪だ。いまとなっては法的には時効だろうが、政治家としての資質上、倫理的にも時効などあろうはずもなく、事実だとすれば許されるものではない。

 まして今回の重大疑惑においては、その選挙妨害手法におけるヘイトぶり、デッチ上げ逮捕疑惑、その他にも小山氏の言によれば放火未遂事件においては、工藤会側と共謀したとする日時、小山氏は旧知の警官と会っていたアリバイがあるが上層部が圧力をかけてその警官に証言させなかった、なんという疑惑さえもあるというのだ。

 以上のようなことから、筆者はモリカケ問題より重大疑惑と思うのだが、筆者が配信しているニュースサイト「アクセスジャーナル」でこの疑惑を6月9日から連載開始。真っ先に3つの証拠文書を掲載、安倍氏と小山氏が一緒の写真、獄中から小山氏が安倍首相に出して手紙などの物証も転載するも、まったくというほど大手マスコミから反応はない。

 ある永田町事情通によれば、「安倍3選が既定路線。3選無しならやるが、勝ち馬を叩くバカはいない」結果という。しかし、安倍氏の首相以前、政治家としての資質が問われる重大疑惑であり、いま首相なら、なおさらその真相をハッキリさせるのが第4の権力ともいわれるマスコミの使命ではないのか。

<取材・文/山岡俊介>

 

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いや~~な顔の人にはなりたくないですね。顔は顕現する。

2018-06-24 | 恋知(哲学)

お軽い~~顔の人
狡知さの臭う顔の人、
金あるぞ~と得意顔の人(おバカ)
厚顔無恥の嘘つき顔の人、
偉がり顔の人(最低)、
意地悪顔の人、
固い自我丸出し顔の人(終わっている)
無個性で人間味のない顔の人(気の毒)
真剣さのない顔の人、
余裕あるぞ~のふやけ顔の人、
エリート顔の人(愚か者)、
下品できたない顔の人、
情緒音痴の尖がり顔の人、
慇懃無礼な顔の人、
スパイ顔の人(笑)

理論武装の理屈顔の人、
ケチでせこい顔の人、
酒浸り顔の人、

そのような魅力のない顔の人にはなりたくないものです。

優しさ、にこやかさ、自由、勇気、覚悟、愛情、広がり、伸びやかさ、楽しさ、真剣さ、追求、囚われない、自然性、受容、能動、善美への憧れ、明晰、爽やか、わたし自身でいること、そういう顔がいいな~~~。




武田康弘

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前川喜平氏、加計氏の会見は「嘘を嘘で塗り固めた」と明快に述べる。

2018-06-21 | 社会批評

前川喜平氏、加計氏の会見は「嘘を嘘で塗り固めた」(日刊スポーツ)

6/20(水) 16:31配信

    

前川喜平・前文科事務次官は20日、加計学園の加計孝太郎理事長が19日の会見で、15年2月25日の安倍晋三首相との面談を「記録にも記憶にもない」と否定した姿勢について、「嘘を嘘で塗り固めた上に、さらに嘘の上塗りをしたものにほかならない」と、痛烈に批判した。

【写真】前川氏、首相案件と「安倍さんは言っていると思う」

 この日、代理人を通じてマスコミ各社にコメントを送付した。

 前川氏は、「一連の愛媛県文書によって面談および、その後の会食の際に、安倍総理と加計理事長が獣医学部新設について話し合っていたことは、決定的に明らかにされている」と指摘。「そうした事実を覆す反証は、何ら示されていない」と述べ、加計氏が面談を否定する具体的な証拠を示していないとただした。

 その上で、「会っていない」とする首相や加計氏の説明は「嘘だと断じざるを得ない」と、虚偽の説明だと主張した。

 加えて、「柳瀬唯夫前総理秘書官が、15年に官邸で加計学園関係者と複数回にわたって面会していたことを国会で認めているにもかかわらず、加計氏はその面会の事実まで否定してしまい、柳瀬氏の答弁との間に矛盾を来しています」とも指摘した。

 「何が嘘で、何が本当だったか、ご本人も分からなくなってしまったのではないでしょうか」と記し、加計氏の発言内容を強く批判した。

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日本の政府と官を信じる人は、もはや誰もいません。倫理が元から消えた国にしたのは誰?

2018-06-20 | 社会批評

もはやドロドロというほかない安倍政権です。

その無責任と、その場の嘘と誤魔化(ごまか)しは、歴代内閣にはない底知れぬ悪行というほかありません。

ニューヨークタイムス元東京支局長のいう通り「これほど異常な民主主義国家は見たことがない」ですが、

首相は辞任するどころか、「国家の私物化」という最悪の事態にも平然とし、どこ吹く風で、「サッカー、勝った!」とみなに溶け込もうとします。類は友を呼ぶで、長年の親友・加計学園の加計氏は、何年間もずっとダンマリを通し、昨日、ドサクサに紛れて形だけの会見を開いて逃げを打ちました。

元総理の福田さんや自民党良識派もいう通り、間違いなく「最低の内閣」です。すでに敗戦により終わっている「戦前思想」(国家神道=靖国思想)で武装した恐ろしい政治です。

こんなひどい権力悪に対して黙っているのは、公共的良識に欠ける人であり、はっきり言えば、底なしの奴隷根性です。同罪とさえ言えるでしょう。

以下は、東京新聞の連載最後の「背信の根」-No7(今日の朝刊)です。

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【賭け事奨励】の安倍政府は、カジノ法案を強行採決へ!トランプ資金援助者のアメリカのカジノ王が乗り込みます。

2018-06-19 | 社会批評

【賭け事奨励】の安倍政府は、カジノ法案を強行採決へ!

トランプ大統領と共和党への多額の資金援助者であるカジノ王が日本に乗り込みます。

どんどん墜ちる日本。あらゆる分野で属国化が進む「神道国家」(戦前思想)をめがける日本(神道を排して仏教による国づくりを行った聖徳太子とは正反対)です。

で、愛国心!?教育(笑・呆)。

愛情と理性のない国へ、ですね。

ほんとうに哀しいことです。与党への投票者は反省してほしいものです。

武田康弘

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国家、愛国心!?ちっぽけで、つまらない思想です。何より必要なのは、人間愛・生命愛と個人精神です。

2018-06-15 | 恋知(哲学)


「愛国心」などという精神は、アナクロニズムです。危険でちっぽけな想念に過ぎません。
国を愛することなどできません。愛するのは人です。人間愛です。幼子や子どもたちを中心にして、今を生きる生きものたちと人間への愛です。生命愛です。

 ソクラテスは、(国家権力者による)地上の支配などはるか下に見下ろすのがフィロソファー(恋知者)だ、といいましたが(プラトン著「ポリス=国家」)、その意味は、一人ひとりの人間こそがあらゆる価値の根源であり、個人の精神こそが何よりも一番上位にあるという意味です。それは、同じ文化圏から生まれた釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の自帰依・法帰依と重なります。

 国家というものは、個々人の意思でつくられるものであり、個々人の精神以上の価値など原理上存在しません。個々人がそれぞれの精神をもち、互いに対等で自由に生きるために必要なシステムが国家であり、Stateとはそれ以上の価値はもたないのです。

 戦後途絶えていた愛国心教育が再び始まりましたが、これほど有害な教育はありません。昔の国家主義に戻るレベルの低い思想であり、危険です。他者愛のない自己愛が有害なのと同じで、他国への愛や寛容が先立たない自国への愛などは、争いを増やすことはあっても減らすことはなく、実に愚かです。

 いま何よりも必要なのは、人間愛、人への愛です。いかに考え・生活すれば、愛が豊かになるか、よろこびや楽しさの広がる人生をつくれるか、そのための教育が求められるのです。世界平和は、よい思想・優れた考え方から生まれます。制裁や脅しや強面や強がり、軍事力強化は、危険を増やすだけの恐ろしまでに愚かな態度です。

 豊かな人間愛をひろげる教育は、親や教師の表情やことばや態度から出る「優しさ」「愛情深さ」「寛容さ」「おおらかさ」「よろこび」「にこやかさ」「しなやかさ」「自由さ」のオーラなのです。愛国心教育ではなく人間愛ー生命愛教育でなければいけません。


武田康弘

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日本で最初にロト&レ・シエクルの「春の祭典」を批評したのは、わたしです(自慢)ー-この年のレコードアカデミー大賞を受賞しました。

2018-06-14 | 芸術

 
 日本で最初にロト&レ・シエクルの「春の祭典」を批評したのは、わたしです(自慢)。

先行予約発売で2014年6月に購入し、すぐにアマゾンに感想を書いたのですが、このCDは、その年(2014年)のレコードアカデミー賞の大賞を受賞しました。

 一昨日(6月12日)の公演の感想と写真もぜひごらんください。

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以下は、4年前にアマゾンに出したレヴューです、

武田康弘

5つ星のうち5.0新鮮、シャープ、快感を呼ぶ

2014年6月23日形式: CD

 20世紀の管弦楽曲のベスト1は、と問われれば、多くの音楽愛好者は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」と答えるでしょう。もちろん、わたしも。

 春の祭典は、元々は、天才的な芸術企画者であったニジンスキーの依頼でロシアバレエ団のために作曲されたバレエ音楽ですが、通常は管弦楽曲として演奏されます。
原始的なエネルギーに溢れた抉(えぐ)るようなリズム、メロディーとも思えぬメロディー、現代的な不協和音と複雑な変拍子、しかし、全体は見事なまでに一つに統一されています。

 1913年、パリのシャンゼリゼ劇場で初演されたとき、聴衆は、かつて聞いたことのない音型ー深層心理を音楽化したようなこの曲に恐れ・不安・苛立ちを覚えて大混乱となりました。これは、広く知られている音楽史上の有名な事件です。

 初演者は、品格豊かな指揮者として名高いピエール・モントゥーでしたが、昨日、HMV先行予約で届いたCDは、この初演時の楽譜(ストラヴィンスキーは改訂魔で、改訂版多数)により、楽器も当時のフランスで用いられていたものを使い演奏されています。フランスの比較的若い指揮者、ロト(フランソワ=クザヴィエ・ロト=1971年生まれ)が手兵の室内オーケストラ「レ・シエクル」と共につくった時代楽器による演奏です。

 新鮮、シャープ、快感を呼ぶ演奏で、一日で三回も聴いてしまいました。春の祭典を連続で何度もというのは、始めての経験です。春の祭典には、いろいろなアプローチにより優れた演奏が多数あります。それぞれに独自のよさがあり、どれか一つと言いうわけにはいきませんが、この初心に戻ったロトの演奏は、実に刺激的で面白く、とてもお勧めです。二曲目の「ペトルーシュカ」も初演時の1911年版によりますが、明るく透明な音で、冴えたリズムと、楽しさに溢れる素晴らしい演奏です。ストラヴィンスキーは改定などする必要はなかったのです。初版が一番刺激的で面白い!

 なお、ロトのつくる生き生きとした新鮮な音楽を聴いていて、イギリスのガーディナー指揮による時代楽器を用いたベートーヴェン(交響曲全集と合唱幻想曲)の快演を思いましたが、解説を読むと、彼は、ガーディナーのアシスタントを務めていたとのこと! 似ているわけですが、ガーディナーは、革新的ですが、やはりイギリス人、コモンセンスを感じさせます。ロトは、より明晰性が強い、evidence!

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昨日のロトとレ・シエクルによる初演時の「春の祭典」公演には、痺れた。

2018-06-13 | 芸術

 数年前のCD発売時に購入し感激した最高の「春の祭典」(初演時の楽譜と楽器による演奏)が、そのためにロトがつくったフランス人によるオーケストラのレ・シエクルと共に来日。アジアツアーの一環としてだが、日本では昨日の東京オペラシティ(新宿)一回のみの公演。

 前半のドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」と「遊戯」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」からして、もう美そのもの。フランスの明晰さ、透明さ、オシャレ。しかも、それは、よきフランスを感じさせる「自然さ」に満ちている。シャープで凜として立つが、ナチュラルで土の臭いをもち、人間味にあふれている。AIの自動演奏のような、とは対照的にヒューマンな音楽だ。

 う~~~ん、フランス音楽とはこれだ! この味、色、香りは、他のオケでは真似できない。もう一度、フランスにブラボー! 痺れた。

 後半、「晴の祭典」は、もう、全身に鳥肌が立ちっぱなしで、ストラヴィンスキーの頭に浮かんだ作曲時のイメージをそのまま音にしてしまった!ようなものすごい演奏で、口が開きっぱなし。ロシアの大地と共にパリの都会的な洗練も感じさせる。神田生まれのわたしは、粋だね~、というのが好きだが、まさに「粋」。粋とは、現代の都会(地方出身者が都会に憧れてつくった都会)とは全然違い、ふだん性や何気なさに現れるセンスのこと。

 アンコールの「アルルの女」から は静謐で透明。

全身が美に染まった。なんという素晴らしい演奏会であったことか。ただ感激あるのみ。
オケのメンバーは、演奏会後には、男女関係なく抱き合い、頬を寄せ合い、とても仲がよい。強い自立心をもつ個人の国だからこそのよろこびの触れ合いは、見ていて羨ましくなる。自由の国だな~~。

※日本で最初にロト&レ・シエクルの「春の祭典」を批評したのは、わたしです(自慢)ー-この年のレコードアカデミー大賞を受賞しました。


武田康弘

 





 

 

 

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袴田事件=再審さえ認めずは、人権抑圧国としてのわが国を象徴するおぞましい司法を象徴する出来事。

2018-06-11 | 社会批評


以下のニュースの記事をよむだけでも、日本の民主政治とは言葉だけのことで、司法の検察からの独立はなく、とうてい西側諸国と同じ人権と民主政の国とは言えないことが分かります。

疑わしいだけでは有罪-死刑に処するなどできない、という大原則も踏まえない高等裁判所とは、あまりの愚かさに評する言葉もないのです。
ましてや、この事件では、無罪を立証するDNA鑑定まで出されているのですから、司法の判断には唖然とするほかありません。

警察や検察の言う通りという裁判所をもつ国は、独裁的な政治がおこなわれている後進国を除き、世界には存在しません。国連から幾度も警察や検察や司法がらみでの人権改善勧告をうける国では情けないとしか言えません。

なぜ、ここまで理性が欠落してるのか、司法試験にはじまる司法の思想と制度のあまりの遅れに、公共的憤りを持ちます。

いつまで後進国なのでしょう。警察・観察の過ちを認めず、本人が死亡するのを待つという戦略はおぞましいの一言です。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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 被害者らが経営に携わっていたみそ工場の従業員だった袴田さんは裁判で一貫して無罪を主張したが、1980年に最高裁で死刑が確定。確定判決は、事件の1年2カ月後に工場内のみそタンクから発見された、血痕がついた5点の衣類を「犯行時の着衣」と認定した。再審請求では、この衣類の血痕のDNA型鑑定が最大の争点になっていた。


 地裁決定は、衣類のうちのシャツの血痕から袴田さんとは異なるDNA型を検出したという本田克也・筑波大教授の鑑定結果の信用性を認め、「衣類は袴田さんのものでも、犯行時の着衣でもなく、事件から相当期間がたった後、みそ漬けにされた可能性がある」と判断。「捜査機関が証拠を捏造(ねつぞう)した疑いがある」とも指摘し、再審開始とあわせて死刑の執行停止と、袴田さんの釈放を認めた。

 これに対して、検察側は不服として東京高裁に即時抗告。本田教授の鑑定が「独自の手法で信用できない」と主張してきた。高裁では、検察側の請求で鈴木広一・大阪医大教授による検証実験が行われるなど、審理に4年以上が費やされてきた。

 死刑囚の再審請求が一度認められた後に取り消された例としては、61年に発生した名張毒ブドウ酒事件がある。この事件では2005年に名古屋高裁が再審を認めたが、翌年に同高裁の別の部が取り消した。再審請求をめぐる争いはその後も続き、事件を起こしたとして死刑が確定した奥西勝元死刑囚は15年に89歳で病死した。

 

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胸を締め付けられ、怒りが湧き起こる。幼子のけなげさと、躾と称する大人による子どもへの抑圧・体罰

2018-06-07 | 教育

以下は、東京新聞一面です。2018年6月7日朝刊

 


言葉がない。あまりにも哀しい。

 

このような悲劇の背後には、こどもは、「おどけ・いたずら・悪さ・ふざけ」(これが健全な証)などを経て、段々と成長するもの、という原理を知らない歪なニッポン主義の教育思想があります。幼稚園児に教育勅語を暗唱させ「礼儀正しく!?」させる教育を「すばらしい!」と礼賛した安倍明恵さんやその夫である首相、自民党文教族や有力議員たちの想念であり思想です。

狂った思想による教育改革が安倍政権のもとで進んでいます。安倍晋三の親友でウヨク思想家の八木秀次(麗澤大学教授)は、厳しい「躾」の強化=愛国主義教育の推進=子どもの人権否定という路線で、政府の教育改革をすすめる中心者の一人ですが、子を親の所有物のように見て、躾と称して子どもを抑圧する(国連の「こどもの人権」条約違反)ことが日本では日常茶飯事で、ふつうに行われています。ボディーランゲージやスキンシップを基本にした広義の対話によるのではなく、大人の意思を叩きこむ。

死亡事件にまでなってはじめて取り上げられますが、ソフト化した形で、同じ思想による子育て・教育が蔓延しています。

それは、政府の思想(戦前回帰のウヨク思想=八木秀次の主張する、日本をダメにしたのは人権思想であり、とりわけ子どもと女性の人権である」「個人というのは不毛な概念であり、家族の一員、国家の一員という自覚を植え付けるのが教育である」)が背後にあるからと言えるでしょう。森友の教育勅語暗唱の幼児教育を礼賛しいた安倍夫妻や自民党議員たちの所業により、誰もが知る通りです。

戦前の「明治維新による天皇政治」の狂気性、警察や検察による自由の弾圧や拷問や殺人、非国民という言葉での人権無視と個人の思想の抑圧、それを背後にした戦争政策への反省はなく(安倍首相は戦前の思想と行為の日本への批判は一度もしない)、逆に戦後民主主義への批判だけを行う異様・異常な状況が続きますが、そういう精神風土を背景にして、幼子やこどもたち(中学生の世界に例をみない長時間拘束の部活動は象徴)の受難は今日も続きます。

しかし、はじめから「自由」を奪われていると、豚が飼育小屋で十分な餌を与えられ、小屋の中で好きに動ければ文句がないように(笑・嘆)、やがて、大きな自由を奪われていることに慣れ、それでよいと思い込むまでになります。「精神の自由」とはどういうことかさえ分からない人間に育ち、それを再生産するオトナになるのです。上位者にはまことに都合のよいニッポン人の出来上がりですが、人間はほんらいそういう存在ではありませんから、必ず、オゾマシイ出来事が起きます。全部パーになりるでしょう。

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 おどけ・ふざけ・いらずら・悪さもして、親を手こずらせる「子どもらしい子ども」をではなく、親や教師の言う通りの「いい子」でいることを要求する子育てや教育は、

 『教育勅語』を暗唱させられ、ビシッと躾の行き届いた森友の幼稚園児を見て、「すばらしい子どもたち」「理想的な教育」と絶賛した安倍首相夫人の明恵さんや、教育勅語を礼賛した多くの自民党議員の思想とピタリと符合しています。

 今回の事件に限らず、幼少期→こども時代における教育を「躾」と称してして厳しくすることが多くなってきましたが(死にまでは至らしめなくとも)、なぜそういう傾向が強くなってきたのかといえば、「子どもの特性」を認めず、早くから躾けることが正しい、大人の言う通りにするのが正しい、という復古的な思想の蔓延が、大きな原因の一つです。

 第一次安倍内閣で、安倍首相は教育改革を最大の柱と位置付けて「教育基本法」の改定をしましたが(その改定には公明党の故山下栄一さんが強く反対しましたが、押し切られてしまいました・参議院行政監視委員長室で彼から直接聞きました)、その改革の方向性は、『こどもの人権』を守るのとは逆に、個よりも国家を優先させる思想によっています(それは、自著「美しい国へ」改訂版は「新しい国へ」-内容はほとんど同じーに記載されています)。

 こういう痛ましい出来事は、たまたま偶然に発生したのではないのです。それはこの種の事件が頻繁に起きることで明らかですが、ありのままのこどものありようを認め、肯定し、愛するところから出発せず、「あるべき」姿や型を生身のこどもたちに押し付ける教育に深因があるといえます。たとえ、政治的には野党支持者であっても、受験主義に代表されるように子どもを鋳型にはめるのをよしとする人も大勢いますから、保守主義者だけの問題とはいえません。

 ただし、安倍内閣に集う人の多くは、「日本会議」に所属しているのでもわかるように、上記の【復古的な教育思想】の持ち主であり支持者であることは確かですから、一連の「こどもの人権」軽視のできごとへの【思想的責任】があるのは明白といえます。思想の責任は、暗黙のうちに具体的事象を支配しますから、極めて重たいのです。


武田康弘

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間抜けな免許証ー平成33年まで有効!?いつまで元号なの?おかしいですよね~~(笑)

2018-06-06 | 社会批評

今日、免許証を更新しましたが、
笑うしかないのですが、有効期限が平成33年とは?そんな年はないはず(笑)




古代は、王が空間だけではなく、時間まで支配していたので、王が変わると時代も変わりました。
世界でただ一カ国、まだそれを続けているのが日本ですが、不合理であると共に、国を治める最高の地位を国民がもつ時代なのに、あまりに時代錯誤ですね。

もう、天皇に異常なまでの負担をかけるのは止めて、文化的行為だけに専念してもらいましょう。天皇や皇族にも自由(人権)を、です。
今の天皇の明仁さんは、「世襲の職業はつらいね。」と以前より話しています。

元号は個人が使いたければ使えばよいでしょうが、公的機関や公共的領域では、世界標準(西暦)にするのが理の当然のはずです。
変えましょう。

武田康弘




 

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自民党の「憲法改正草案」作成の裏話と、わたしと参議院調査室との関係の発端について。

2018-06-03 | 社会批評
 FBコメントですが、極めて重要な事実ですので、以下に載せます。
 
 
武田 康弘 小林さま、みなさま

自民党が憲法改正草案をつくるとき、議員立法を支える参議院法制局の荒井達夫さんに対して、自民党議員は、「日本の独自性を出すため、社会契約説によらない憲法案をつくりたいので、よろしく」と依頼してきたとのことですが、

荒井さんをはじめ参議院法制局など調査室の職員はその意味(社会契約説およびそれに依らない)がよく分からず、

それでわたしに聞いてきたのがきっかけで、荒井達夫さんは「ソクラテス教室」の大学クラスの生徒になり、そこからわたしは参議院との深い関係をもつことになったのです。

人民主権(国民主権)にもとづく新しい社会=民主制(政)の国家をつくるためのアイデアがルソーの「社会契約論」であり、主権者を市民とする社会思想の原理であるわけですが、それを知らない調査室職員では困るということで、後にわたしは官僚(直接には「行政監視委員会調査室」の職員)に講義することになったのです。さらに広く調査室全体を対象とした講義や、人事院職員も含めたパネルディカッションのパネラーも二度務めました(それらは、参議院ホームページや白樺教育館ホームで閲覧できます)。

いくらなんでも社会契約論によらない憲法をもつ「西側諸国」とはありえない話で、満点大笑いなのですが、これが現実なのです。国連の掲げる理念=社会原理と根本的に矛盾してしまいますが、それも分からないのが自民党国会議員なのです。怪談よりはるかに怖ろしい事実です。


2008年1月 参議院での討論。
公共哲学の中心者・金泰昌さんおよび山脇直司さん(東大教授)
と厳しく議論する武田康弘。

参議院各調査室の室長・首席など40数名(人事院からも7名)
が集まったパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」で。
(参議院ホームページで公開)

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個人の自由はない-【学校・会社・団体】 内 【個人】--見事に完成された全体主義国はどこでしょう?

2018-06-02 | 社会思想

日本人、とくに管理教育世代以降は、個人が消滅し、すべて組織・団体が優先します。
個人の都合というのは、わがままとされ、ダメです。
個人からの出発はなく、「団体 内 個人」 になっていますので、
自立した精神をもつ個人のあつまりが団体なのではなく、
団体(その上位者の思惑と都合と気分)が先立ち、団体のために一人ひとりが存在しています。それは、学校教育(とりわけ部活動)により、骨の髄まで染み込まされ、個人の都合は通りません。さらに道徳教育でますます加速されます。

まさに昆虫社会のようですが、人間ですからすべて全体一致というわけにはいきません。
そこで、芸能とスポーツとオタク趣味で、フラストレーションの解消をします、というよりそれしかないのです。ですから自治政治はひどく困難です。個々人に社会の主体者である自覚がないのですから(受験主義のテスト勉強と集団主義の部活によりそういう人間にさせられる)。
個人の精神世界とか精神的自立とかは、死語になり、なにもかもシステム化されて、その中で生きるのです。

世界に冠たる全体主義国ですが、
ここからの脱出、人間性=個人性ゆたかな社会への転換は果たして可能なのでしょうか?

わたしは、『恋知』の生を広めることで、みながそれぞれの精神世界を拓く人生、私からはじまる輝きの生をつくりだしたいと思い、実践していますが、日本の全体主義は学校教育を通して、生活の隅々まで神道、ではなく、浸透しています。この変換ミスには納得(笑)
明治政府の廃仏毀釈=仏教(個人意識につき互いの平等と自由と慈悲の思想)を廃して、神道(明治政府がつくった国家神道=靖国思想という全体一致)による天皇国家づくりで、滅私奉公を道徳の柱としたのですから、やっぱり日本は、神の国で、個人はいないようですが、わたしは、その現状を変えることに挑戦し続けています。半世紀たちました。

必ず、成就します。課題は困難なほど面白い!!



武田康弘

Kunimitsu Kobayashi 現憲法の悪いところ、それはまさに、基本的人権、主権在民、平和主義だと言い張った自民党議員さんがいたような~~怖いですね。個人があって国家でなく国家あって個人、でもこの思想には個人の概念がみえない。それはまさに恐怖の国家に向っているのでは。

 
 武田 康弘 小林さま、みなさま

自民党が憲法改正草案をつくるとき、議員立法を支える参議院法制局の荒井達夫さんに対して、自民党議員は、「日本の独自性を出すため、社会契約説によらない憲法案をつくりたいので、よろしく」と依頼してきたとのことですが、

荒井さんをはじめ参議院法制局など調査室の職員はその意味(社会契約説およびそれに依らない)がよく分からず、

それでわたしに聞いてきたのがきっかけで、荒井達夫さんは「ソクラテス教室」の大学クラスの生徒になり、そこからわたしは参議院との深い関係をもつことになったのです。

人民主権(国民主権)にもとづく新しい社会=民主制(政)の国家をつくるためのアイデアがルソーの「社会契約論」であり、主権者を市民とする社会思想の原理であるわけですが、それを知らない調査室職員では困るということで、後にわたしは官僚(直接には「行政監視委員会調査室」の職員)に講義することになったのです。さらに広く調査室全体を対象とした講義や、人事院職員も含めたパネルディカッションのパネラーも二度務めました(それらは、参議院ホームページや白樺教育館ホームで閲覧できます)。

いくらなんでも社会契約論によらない憲法をもつ「西側諸国」とはありえない話で、満点大笑いなのですが、これが現実なのです。国連の掲げる理念=社会原理と根本的に矛盾してしまいますが、それも分からないのが自民党国会議員なのです。怪談よりはるかに怖ろしい事実です。
 
 
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