思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

学者がえらい、と思っている学者ではダメです。

2008-10-31 | 日記
追求したいことがある、好きなことを研究したい、
という己の欲望に従って学者の道を選ぶのは分かりますが、
なかには、学者と言う職業は偉い!?と思って学者になる人もいるようです。
そういう人は、「学者は偉い」→「自分はその一員である」→「したがって自分は偉い」、と思い込むわけです。

そうなると、
現実の仕事に現実的に取り組んでいる人は、自分よりも一段下の存在である、という心を暗黙のうちに持ちます。

それが人間・社会・思想関係の学者だと、酷い話になります。
日々の具体的経験を生きている生身の人間を「言語で整理」すれば理解できるという逆立ちした観念に囚われた人は、生きている人間・現実の人間を「具体的経験の中で掬いとるように見る」能力をどんどん減らし、既成言語の意味の牢獄に人間の生を閉じ込めてしまいます。

言語が先立ち、現実の人間存在を「理論」で説明し、その観念で生身の人間を縛ろうとする愚かな「概念主義」から抜けられない自分を、かえって他者に優越するものと思うまでになれば、もはや救いがありません。

ほんらい、生きた人間存在のありようを言葉で規定することは不可能です。それは、ただ感じ知ることができるだけなのです。言葉は、それをブキッチョにようやく分節化するのみです。だから、感受する能力を豊かにし、言語に先立つ広大なイマジネーションの世界を拓くことが何よりも必要なのですが、脅迫観念を植え付けられた不安神経症の人は、固い概念=言葉の中に自他の赤裸々な存在を封印してしまうのです。

閉じた絶対を求める心は、不幸しか生みません。「きめの粗い大地に戻れ」!


武田康弘
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哲学・思想の「大学化」は、不健全。

2008-10-28 | 日記
以下は、「白樺ML」です。

・・・・・・・・・・
なお、哲学・思想の探求を「大学」という閉鎖的な環境(特権意識を育む場所)で行う近代以降の「常識」は、真剣に考え直す必要があると思います。

大学知の特権化、まるで具体的現実の上に「知」があるかのような思い込み(「知の支配」という暗黙の想念)に知的作業に携わる人間が呪縛されている非喜劇は、現実問題を現実的に解決していくことを阻害し、言語遊戯者が偉い!?という酷い観念をまき散らします。

そういう観念につかまると、自分の生活や仕事を踏まえて哲学するのではなく、過去の哲学者(説)についてあれこれ論評することが哲学だという「哲学書趣味」に陥りますが、これでは、現実逃避にしかなりません。あるいは、人が読めない哲学書を読める自分を他に優越するものという歪んだ想念にとりつかれてしまう哲学では、百害あって一利なし、です。

自分の現実を踏まえて自分の頭で考える「健全な精神」を自他の中に育てること、それが核心のはず。

また、「本質言いあてゲーム」に留まることのない能動性=「現実を変えるパワーという『質』をもった思想」を生みだすことは現代の必須の課題でしょう。ほんとうの哲学は、単なる理論・言葉ではなく、結局は生き方の問題に行きつきます。哲学は只の言葉や技術ではないはずです。

武田康弘
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イラク派兵の竹内行夫氏が最高裁判事にー久松重光さんからのメール

2008-10-27 | 日記
以下は、「白樺ML」です。

・・・・・・・・・・
なお、哲学・思想の探求を「大学」という閉鎖的な環境(特権意識を育む場所)で行う近代以降の「常識」は、真剣に考え直す必要があると思います。

大学知の特権化、まるで具体的現実の上に「知」があるかのような思い込み(「知の支配」という暗黙の想念)に知的作業に携わる人間が呪縛されている非喜劇は、現実問題を現実的に解決していくことを阻害し、言語遊戯者が偉い!?という酷い観念をまき散らします。

そういう観念につかまると、自分の生活や仕事を踏まえて哲学するのではなく、過去の哲学者(説)についてあれこれ論評することが哲学だという「哲学書趣味」に陥りますが、これでは、現実逃避にしかなりません。あるいは、人が読めない哲学書を読める自分を他に優越するものという歪んだ想念にとりつかれてしまう哲学では、百害あって一利なし、です。

自分の現実を踏まえて自分の頭で考える「健全な精神」を自他の中に育てること、それが核心のはず。

また、「本質言いあてゲーム」に留まることのない能動性=「現実を変えるパワーという『質』をもった思想」を生みだすことは現代の必須の課題でしょう。ほんとうの哲学は、単なる理論・言葉ではなく、結局は生き方の問題に行きつきます。哲学は只の言葉や技術ではないはずです。

武田康弘
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痺れるスッペの序曲集・ショルティ、ウィーンフィル

2008-10-25 | 日記
ショルティの指揮したスッぺの序曲http://www.hmv.co.jp/Product/detail.asp?sku=1286879を聴き、仰天しました。

HMVの輸入盤は、3タイトル買うと値引きになるので、軽い気持ちで購入した廉価版に、ショルティの指揮したスッペの序曲が4曲収録されていたのです。

1959年にウィーンフィルと録音したものですが、凄まじいパワー、怒涛の迫力、恐るべきスピードに唖然!です。30分間が一瞬のよう。

断固として、何のためらいもなく、一気呵成に進むこのような演奏は、残念なことに今はなくなりましたが、
もう一度、理屈ぬきの快感で全身が痺れるような音楽が奏でられるような時代をつくりたいもの(笑)、そんなことを思いながら、繰り返し聴いています。

何度聴いても、充填された恐るべきパワーの炸裂に血肉が踊ります。
それにしても、とんでもないスピードで突っ走りながら、艶やかさと優美さを失わないウィーンフィルには脱帽するのみ。


武田康弘
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理論をつくれば現実が変えられる?

2008-10-24 | 日記
理論が現実をつくる、
新しい理論をつくれば現実を変えられる、

社会思想関係の学者で、そう思っている人が少なからずいるようです。
それでは、どんどん観念的な思い込みの世界に入り、抜けられなくなります。

不可視の構造を解明し、
知らずに囚われている観念の元を明らかにし、
近代社会の原理を自覚し、・・・という作業が現実をよく変える条件であり、
理論が現実をつくったり、変えたりするのではありません。

それは、音楽の理論が曲をつくるのでないのと同じです。
作曲のためには、音楽の基礎理論は必要ですが、理論をつくっても曲ができるわけではありません。
言うまでもなく、作曲は、「主観性の知」の領域であり、「客観学」ではないのです。

よい社会のしくみを生むことや現実変革も、「客観学」ではなく「主観性の知」によります。
こういう基本的な認識に欠けると、理論信仰になって、言語遊戯が偉い!というバカげた話に陥ってしまうのです。


武田康弘
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自由と平等はセットです

2008-10-18 | 日記
がんばったら、人よりも高収入が得られる、それはいいです。

がんばっても同じ、では働きがいがないでしょう。

しかし、際限なく金儲けができる、というのは、弱肉強食の愚劣な文化でしかありません。

最高給与は、一般給与者の十倍くらいに抑える制度をつくらないと、社会問題は解決しません。

自由とは、経済的な覇者となり、金で何でも買えることを指すのではありません。

それは、間違った自由、レベルの低い自由でしかないのです。

機会均等という意味だけでなく、結果としてもある程度の経済的平等をつくる社会としなければ、心・精神の自由は現実化しません。

理論として「自由の相互承認」を力説しても、それは絵にかいた餅にしかなりません。

経済的な格差が大きすぎる社会では、自由は現実化せず、不幸が蔓延する他ないのです。

自由と平等はセットであり、自由だけ、平等だけではどちらも人間を幸福にしません。これは原理なのです。

経済を手段とせず、目的化すれば、人間の真・善・美は、消えて、内的な意味充実の生は得られません。

自由がもっとも輝くのは、精神の自由であり、表現の自由です。心と頭と体が内側から輝くところに自由の意味と価値はあるのです。

金の力で好き勝手なことをするのが自由の価値ではありません。

現代文明は、大きな曲がり角にきています。わたしたちの考え方・生き方そのものが問われているのです。

テレビでは「セレブ」を称賛しますが、これは根源悪であり、よき社会秩序を大元から壊すおぞましい想念の流布としか言えないのです。
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亡き父の写真

2008-10-16 | 日記
10月1日に死去した亡き父の写真です。

1999年にブローニー版のコンタックス645が出とき、すぐに購入して玄関前でスナップしたものです。

ツァイスの新設計のレンズがついたブローニー版のカメラに親父も興奮して、玄関前で撮ったものです。葬儀にも使いました。

父は、写真好きで、わたしの幼い頃の写真は、コンテストで何度も入選していました。

74歳のときの写真です。

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価値ある人生を

2008-10-14 | 日記
システムが与える役割をこなすだけの人生、

出来合いの商品を買うだけの消費生活、

既成の価値観に従うだけの底の浅い生、

自分の生よりの「国家」が偉い!?と思うような愚かで哀れな思想、

そういう価値の低い人生だけは歩みたくないですね。


創意工夫、臨機応変、当意即妙の精神と行動で生きる。

ただの消費や享受ではなく、日々を創造する生、人や物や状況を産み育てる生を生きるのがほんとうの人間の生です。

感動や悦びの生は、創造からしか生じません。「お上手」に生きる人にはつまらないエロースしか与えられない、これは生の原理です

いたずらに生死を繰り返すのみ、ではやりきれないですよね。


武田康弘
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葬式仏教?

2008-10-12 | 日記
(以下は、ミクシイブログのコメントへの返信です。)

ヨッシーさん 2008年10月12日 13:41

亡父(10月1日死去)にも私にも浄土真宗の仏教的世界はずっと親しいものでした。それは、慣習と重なる自然な感情です。「死」は、人を覚醒させ、深い想いを生み、生を強くします。日本の仏教は、「葬式仏教」と悪口を言われますが、わたしは、宗教としては、それが一番よいと思っています。
生(現世)を縛る強い宗教は、世俗の日々の具体的経験に善美を見、そこに至上の価値を感じる「恋知(哲学)の生」を歪めるからです。余計な解釈抜きに「死」を想うことで日常の生に自覚と輝きをもたらす、そういう感情を宗教的と呼ぶなら、わたしは幼少のころからずっと宗教的人間ですが、それは戒律等によって生に方向性を与える宗教とは異なる宗教ならざる宗教です。あらゆる権威から自由になり、人生を謳歌できるようにしたのが親鸞思想だとわたしは思いますが、以前そのことをブログに書きましたので、よろしければ見てください。クリック『親鸞思想の核心』

タケセン
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父の死

2008-10-09 | 日記
以下は、10月1日と10月5日の「白樺ML」の写しです(固有名詞は一部○○に換えました)。


From: 武田 康弘
To: 白樺教育館メーリングリスト
Sent: Wednesday, October 01, 2008 11:03 PM
Subject: [shira_philosophy:3305] 父のことーご報告


武田です。

今日(10月1日)は、父の退院日なので、朝9時30分、文京区の○○病院に行きました。
特定の病気ではなく、全身衰弱(老衰)でもう長くはないので、自宅で最期を看取るための退院です。
病室に入ると、
父は目もうつろでようやく息をしていましたが、わたしの顔を見るや一生懸命話しかけてきます。しかし声にはなりません。「迎えに来たよ、家に帰るからね。」と言うと、分かったという目をして静かに口を閉じました。
とてもタクシーで連れ帰れる状態ではないので、病院側で、寝台車と人の手配をしてくれることになりましたが、午後1時30分になるというので、荷物を持っていったん家(文京区の実家)に帰り、母に様子を話していましたが、
12時に医師から電話があり、どうも1時30分まで持ちそうにないので・・・というので、
急いで病院に行きました。
10分ほど前に呼吸が止まった、ということでしたが、まだ心臓は動いていて、身体は暖かかったです。それから2分後の12時27分に心臓も止りました。最期の命の炎が静かに消えたのですが、いつ消えたのかは分かりませんでした。

その後、葬儀社に電話をし、自宅まで遺体を運んでもらい(午後2時ころ)、葬儀の方法と日どりを決めました。
生前の希望通り、家族葬とし、4日(土)の通夜・5日(日)の葬儀を自宅で行うことにしました。

隣りが武田家の寺である○○寺ですので、4時過ぎに坊さんに来てもらい、枕経をあげてもらいました。

幼いころ、毎日のように、昔話や創作話を聞かせてくれ、スポーツやゲームなどをして遊んでくれ、分からない勉強は意味が分かるように教えてくれた父は、いわゆる父権とはまったく無縁の人で、子供に対して何かを望むということはありませんでした。無類の動物好きで、とても優しく、年を取ってからも知的好奇心を失わない父でした。

以上、ご報告です。

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From: "武田 康弘" <shirakaba2002@k.email.ne.jp>
To: <白樺教育館メーリングリスト>
Sent: Sunday, October 05, 2008 11:06 PM
Subject: [shira_philosophy:3324] 父の通夜と葬儀のご報告


武田です。

みなさんのメール、棺に入れて亡き父と共に浄土に送りました。どうもありがとうございました。

昨晩の通夜では、○○寺のお坊さん二人と親鸞と蓮如のこと、宗教思想と哲学思想の違い、歎異抄のこと、浄土真宗東本願寺(大谷派)のこと・・・を食事をしながら父の棺の前で語り合いました。

火葬場では、驚かされました。痩せて細かった父の骨が大変しっかりしていたことです。ふつうは崩れてしまう弱い部分も形がそのまま残り、係の人が「こういうことは、あまりないことです。」と話していました。また、骨の量が多く、大きな骨壺でも入りきれず、詰めて入れました。「ふつうの人の倍近くあります。」と係の人が驚いていましたが、わたしも予想外のことでビックリしました。

金テミョンさんの本-『欲望としての他者救済』ではありませんが、父は、誰に対しても親切で、親戚の人の面倒のみならず、他人の面倒もよく見ていました(母の実家である神田の家には地方から上京してきた若い人がよく泊っていました)。父は動物の世話と同じように人間の世話も好きだったのです。「他者救済」という気はなく、ただ自然の心のままにそうしていました。

南無阿弥陀仏
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[キャリアシステム」を支えている歪んだ想念

2008-10-02 | 日記
「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念 

 
キャリアシステムとは、明治憲法下において行われていた高等文官試験制度(1887年に制定された「文官試験試補及見習規則」がその原型)の残滓ですが、その実態は、悪しき官のエリート主義=東大法学部支配です。これを真に廃止するためには、何よりも先ずそれを支えている想念の明晰化が必要ですので、以下に記します。

わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。

また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。

人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものにする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです。

読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。このことは、わたしの32年間の教育実践(小学1年生より大学生・成人者まで)と哲学的探求から確実に言えます。では、なぜ、この不幸な逆転に長いことわが日本人は気付かないできたのでしょうか。それについては、わたしが『主観を消去する日本というシステム』(ブログ「思索の日記」2006年1月10日))に簡明に記しましたので、以下に写しましょう。

封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。
山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。
豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観である」(笑止です-主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。
これで主観性-主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。
このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。
おぞましい主観主義やヒステリックな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、それとは逆に、あらかじめの正解を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見を求めるという矛盾した要求―虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人の私が入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。
客観神話が支配する精神風土の中では、わがまま(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部のエリートを除いては。私(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す正解・権威的な人や組織が与える正解を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=主観主義(自己絶対化)と客観主義(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。
客観神話に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と主観を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないこと-それが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない正解(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。

以上ですが、
このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。

武田康弘
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