思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

信条? エロース豊かな理念

2005-01-31 | 私の信条

わたしは、、
多くのふつうの人が「なるほど」と納得できるような理念、
コンコンと泉が湧き出てくるような豊穣な理念、
一言で言えば《エロース豊かな理念》を生み出し、
そこから、広がりのある・意味の濃い・よき合理性をもった《具体の言動》を創っていきたい、といつも思っています。

逆に言えば、「現実」を全身で掬い取るように捉え、
そこから《エロース豊かな理念》を立ち上げる、という訳ですが、
これは本来、一体のものです。

「現実主義」と「理念主義」の双方を超えて、思想を生きたものにするには、生身の人間として、鎧に守られた人間=肩書き人や組織人ではなく、裸の個人として、日々の現実に素手で関わる態度―勇気が必要です。

本物の強さ=優しさがなければ、生きたエロース豊かな理念=新たな人生と社会を切り開く能動的な理念をつくることは決してできません。

人間力を養うには、書物に頼らず、生の体験=具体的経験に基づき、自問自答し、生きた話し言葉で対話することが必要です。書かれたものー書物は、思考を触発する単なる一アイテムにしかすぎません。

私の人生の立場は、音楽に例えて言えば、作曲者兼演奏者です。したがって、その立場から全てに関ります。過去に書かれたものは、それなりに尊重し、一つの手段として今に役立てればよいのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

今、生きている心身と、今、生きている心身が触れ合い、新たなエロースを生み出すこと。
それが生きることです。これは原理中の原理です。

武田康弘 2005.1.31


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生きた話ことば=哲学の誕生 (哲学?)

2005-01-28 | 恋知(哲学)

議論―討論は、やろうと思えば、ちょっとした努力ですぐにできるのに、多くの人は、なかなか始めようとしない。

型どおりの公式的発言、一方通行の独白、単なる情報の収集はやるのに、一番有意義な、一番エロース豊かな討論的対話はやらない。

やってみなくてはエロースを味わえない。互いに少し努力すれば、面白みが分かってくる。

普段の生活の中で、メールではなく、顔をつき合わせて話すこと、

あいさつの延長でしかないおしゃべりを超えて、

自己の立場を堅持する紋切り型の発言を越えて、

すでに書いておいたものを読むような、書き言葉でしかないような「話し言葉」を超えて

生きた言葉を交わすこと。

いま生きている精神と、いま生きている精神とが関わることではじめて、熱い反応―真に現実的、能動的な考えは生まれる。

話すこと・考えること・議論することは、よく生きることだ。



「文字言語」と「生きた話言葉」についてのラディカルな考察から、哲学、哲学者は生まれました。哲学=愛知学誕生の瞬間は、プラトン著、ソクラテス対話編「パイドロス」の最後に載っています(岩波文庫「パイドロス」では132ページから後12ページほどです)。





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メール? 「新・サルトル講義」(平凡社新書)の澤田直さんより

2005-01-28 | メール・往復書簡
書評?でご紹介した「新・サルトル講義」(平凡社新書)の著者ー澤田直さんから、書評についてのメールを頂きました。


武田康弘様

拙著についてたいへんゆきとどいた書評を頂き、うれしく存じました。
竹内さんのサルトル論は、ぼくにとっても強力な印象をもった本でしたから、それと比較されることにも喜びを覚えました。
サルトルが日本では単なるブームで終わったのはとても不幸なことでしたが、若い読者が自分なりにサルトルを発見してくれることになれば、というのが拙著 の出発点で、そのあたりのことを丁寧に読み込んでいただき、ありがたく思っています。

ホームページを拝見し、精力的にいろいろな活動をなさっていることを知りました。
ますますのご発展をお祈りしています。

現在、仕事でヨーロッパ滞在中のため、ご返事がおそくなり、失礼しました。

澤田直拝
On 2005.1.22, at 14:37 Europe/Paris, 白樺教育館ー武田康弘 wrote:



?書評 『新・サルトル講義』 澤田 直著(平凡社新書)
書評は、上記をクリックして下さい。





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ありがとう!バイオフィリアの心 (トラックバック)

2005-01-27 | その他
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aBeBeさんの

いま、自分のこどもを育てていく上で、決意を新たに。バイオフィリアで行こう。

これ(「心と心が通うこと」)を読んで「なるほど!」と納得したのが出発点なんだ、と。




12年前の私の文書(「心と心が通うこと」)が出発点とは、大変うれしいです。

思想の発案ー実践者としては、これ以上の喜びはありません。



そうですね。昨日の最高裁による外国人ー朝鮮人差別判決など、日本人エリート層の冷たい官僚主義、固く形式的で、固定したもの・死んだものしか愛せない閉ざされた精神には、毎度毎度、ゲンナリーウンザリさせられますね。

狭い心ー日本絶対主義が、日本人の心と、日本の風土をどれほど傷つけていることか!真の愛国者ならば、問題点をきちんと見つめ、その変革に取り組むべきです。日本絶対主義者は、日本をダメにする人たちで、愛国者ではありません。

明治政府(とりわけ山県有朋)がつくった「天皇制的官僚主義」をズルズル引きずるようでは、楽しく、明るく、喜びの多い、ふくらみのある社会には決してなりません。バイオフィリア(生きているものへの愛)の人間が育ちませんね。

そうです。バイオフィリアで行きましょう!愛の心ー心身全体による愛、それ以上に必要なものはありませんものね。

1910年~20年代の我孫子を拠点とした「白樺派」の運動=日本のルネサンス・人間開眼を、蘇らせましょう!共に。


勇気倍増の感想をありがとう。 2005.1.7








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「哲学」へのトラックバック

2005-01-26 | その他
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ごめんなさい、難しくて。

分からない「熟語」が多くて・・・確かにそうですね。

私は、政治家や研究者と話をするだけでなく、主婦の方とも日常的に話をしています。
日々、小学生から大学生までの授業を複数の科目で行っています。
70歳過ぎの方も参加される成人者の講師もしています。

そういう訳で、勢い、いろいろな文書がブログ上に登場してしまいます。読みやすく、分かりやすいものもあります?ので、ぜひ「ジャンル」で選んで見て下さい。

なお、このブログー「思索の日記」は、「白樺教育館ホーム」を補うもので、リンクしています。こちらもよろしく。

トラックバック、ありがとうございました。これからもご贔屓にお願いします。

武田康弘 2005.1.26



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議員ー実存の意味と仕事 (メール公開ー哲学?)

2005-01-25 | 恋知(哲学)
以下は、私が主宰する「哲学と市政の会」のメンバー(二人の我孫子市議会議員)=(あびこオープンとびら)へのメールです。


タケセンです。では少し、原理的な話をしましょう。

「客観的な学」(専門知)は、「生活世界の学」(全体知)の中で始めて成立するもの。したがって生活世界の学は、客観的な学よりも高い品位をもち、この部分=専門としての知は、その中で始めて意味をもつこと、これがフッサール現象学が論証した結語です。

わたしたちの文脈で言えば、「エリート主義」の持つ守備範囲は、その意味を変容させて「市民精神」の中に一部として含まれるということです。
(ジャンル・社会思想の?「エリート主義vs市民精神」を参照して下さい)

広い意味での哲学的精神に支えられて始めて成立するこの「市民精神」は、原理上、最も品位の高いものですが、生活者のすべてに開かれていて、誰にとっても一番近しい知となる可能性をもっています。

私的な関心や利害から出発しつつ、自分を含む皆のための共同利益を生む考え=公
論に高めていく営みには大きなエロースがあります。自分は自分でありながら、狭い
自己を超えた大きな普遍性の世界を得るからです。

例えば「会社重役」などという、一ポジションにすぎない肩書きを偉い!などと錯覚している組織人間を、裸の個人として、ほんとうの現実の前に立たせるのが、この「市民精神」です。
市民とその意思の代行者である議員の双方の目を覚まさせる・覚醒するのが「市民精神」です。

生活世界から立ち昇る生活世界知=全体知の威力がどれほどのものかを一番知らないのは、残念ながらわが日本人でしょう。専門知がしっかり根付いているヨーロッパは、逆に、その有効範囲と限界についての自覚を持っています。

ともあれ、思考・対話の自己訓練、相互訓練(それが本来の哲学=市民精神)により、真に優れた有用な考えを生み出すエロースを自他に広げる実践を進めようではないですか。

議員というのは、「市民自治」の中身を鍛え、押し広げるためにのみ存在しているのです。言い換えれば「市民自治」=本来の民主政治推進の専門職です。私的利益の御用聞きではないことを鮮明にすることが、「市民のレベル」をあげる「はじめの不可欠な一歩」です。公論に殉じる覚悟・迫力が、市民と自己の双方を救います。

最後に、中央政府(国)ではなく、生活世界の現場である地方政府こそが大事であ
り、原理上、より品位の高いものであることを明記します。
近代社会の客観主義の悪弊を超えるためには、このことの自覚が第一に必要です。

人間のより品位の高い生=幸福は、主観性の開拓・意味の深さにあるわけですが、「生活世界に根ざした公論形成」がそのための基本条件を整備することになるのです。個々人の生の可能性を広げ・深めるための条件整備、それが本来の政治の役目なのですから。

公論形成を職業にするのが議員です。そのために調査し、駆け回り、議論を燃え立
たせるのが議員です。「市民自治」を広げ深めるために、市民が税金で支えているの
が議員です。

原理的な思想の深い了解は、巨大な力を発揮します。頑張りましょう!




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メール? リアルタイムで公開ー創作者と研究者

2005-01-24 | メール・往復書簡
以下は、書評でご紹介した「公共の哲学とは何か」(ちくま新書)の著者ー山脇さんとのやりとりです(ジャンル「メール往復書簡」???のつづきです)。
創作者と研究者の関係づくりの様子をリアルタイムで、お知らせしようと思います。
実存(論)と公共(学)との関連、創作者と研究者との関係、どの程度生産的か?誰にも分かりません。まだようやく「はじめの一歩」です。
このブログの読者が証人!というわけです。なにやらサルトルめいてきた!?


拝復
武田康弘様
早速のお返事ありがとうございました。

『公共哲学の古典と将来』、受理しました。ありがとうございます。新趣向の「教科書ー辞典」という趣ですね。(武田)

そうですね。古代・中世・近現代のヨーロッパ、中国、日本の哲学研究者が同じ土俵の上で議論し合うことがこれまであまりなかったという意味では新趣向と言えます。それに各執筆者は、単なる研究者を超えた個性的思想を持つ面々ですから、教科書・辞典の域は超えているでしょう。(山脇)

誠実な学問的営為、為政者ではなく、裸の個人につく視点ー立場の山脇さんや、公共哲学ネットワークの皆さんには、敬意を表します。(武田)

討論部分は、文字言語を、生きた言葉に近づける努力として、面白く有益だと思います。「論」の立体化に貢献しています。また時間をかけて読んでみます。(武田)

編者としてこの部分がこの本のセールス・ポイントだと思っています。(山脇)

協力関係がうまく築ければ、お互い、新たな発展が得られるかもしれませんが、ひとつ、過去の経験から注意しなければならないと思うことがあります。言わずもがなですが、同じく思想に関る身であっても、山脇さんは〈研究者〉であり、私は〈創作者〉です。実存の選びが異なっています。異なっているからこそ、生産的だと思いますが、異なっていることの自覚が薄れると、無価値な軋轢が生じてしまう恐れがあります。(武田)

この事は十分自覚しなければならないと私も思っています。(山脇)

また、一般論ですが、研究者には、研究者固有の「固さ」がありがちですし、創作者には、創作者固有の「わがままさ」がありがちです。互いに違いを許容し、違いを面白がる余裕をもって交流ができれば、楽しく生産的な関係が築けるのではないかと思います。いかがでしょうか?(武田)

全くそのとおりです。現在の私は、半分は(厳密な)研究者、半分は(市民として)公共哲学ネットワークなどで社会的にコミットするスタンスでいきたいと思っています。武田さんの管理教育批判へのコミットや「公共放送」の意味を忘れたNHK批判には、この双方のスタンスから大いに関心を持っています。(山脇)

では、今後ともよろしくお願い致します。(武田)

こちらこそよろしく。(山脇)



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社会? 白昼夢―無条件降伏

2005-01-23 | 社会思想
白昼夢!

私は、社会問題について、専門家でもない人がいろいろ意見を言うのは、やめたほうがいいと思っています。難しい問題は、やはり国会議員の先生や市長さんに任せるべきです。それに、政治を実際に動かしている各省庁の官僚は、みな東大の法学部を卒業した頭のいい方ばかりなのです。素人が口を挟むことではありません。

「社会人=公民=市民として生きる」「市民精神を持ったよく考える人間として生きる」!そんな大そうなことができる人は、滅多にいません。日本では、自分の意見をしっかり言えるような教育は、誰も受けていませんから。

でも、そうは言っても、小さい時から受験勉強のよくできたエリートの人―高級官僚や政治家や大学教授が考えることは、間違えが少ないはずです。庶民は庶民の分を守って、自分の仕事を真面目にしていればいいのです。

石原都知事や自民党政府の人がいうように、国旗にはしっかりと頭を下げ、「天皇陛下の時代は、永遠に」という君が代は、心をこめて歌うことが大切。とくに青少年の育成にあたる教師は、自ら範を示すことで、「国を想い、国を愛する人間」をつくる重責を果たすべきです。

また、日本の尊い文化は、130歳で崩御された神武天皇以来、その伝統をいまに受け継ぐ天皇陛下や皇太子殿下が、日本国元首として、そのすばらしさを世界に示しています。元号制度を維持しているのもわが国だけです。

明治維新の獅子たちがつくった秩序ある自信に満ちた近代国家を支えたのは、小学生からの修身・道徳教育です。東大卒の官僚が国をリードする制度―「山県有朋の遺産」を堅持し、皇室への敬愛の心を甦らせなくてはいけません。

 そうすれば現代日本の社会問題は解決する? 


ああ、夢から覚めました!

60年前の8月15日、こんな考えをもつ「優秀」な人達に導かれて、天皇主義の日本は、無条件降伏したのでした。 

日本だけではありません。20世紀最高の哲学者と言われたハイデガーを始め、賢人や世界最高峰の科学者が一致協力したナチ党のドイツも壊滅。また時代は下りますが、90年には、世界に冠たる優秀なテクノクラートがリードした計画経済のソビエト連邦も無残に崩壊。どうも、「偉い人」「頭のいい人」が決める、というのには問題がありそうですね。

ところで、偉い人、 頭のいい人、ってどんな人でしょうね。
戦争になれば、戦争に賛成して、平和になれば、平和主義者になる人、天皇主義になったり、社会主義になったり、いろいろ理屈をつけて、そういう本を書いて、そういう授業や講演をする人、それが偉い人?頭がいい人? 


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教育? 「子育てやら、親の役目やら」へのトラックバック

2005-01-22 | 教育
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以下は、bondolさんが、私の教育論(「必要なのは、おどけ・ふざけ・悪さですー教育の原理」)について書いたトラックバックに対してのお答えです。

斜体の部分は、bondoll さんの文章です。


「9割方の親というのは、市井の庶民ですよ。
思いつきや自分の経験のみで子供を育てるのが”ほんとう”です。」


とありますが、そうだからこそ、不安になったり、行き詰ったり、困った事態に陥った時に、私のところに相談に来るのです。具体的な対処の仕方は、すべて異なり、決まったマニュアルをつくることはできません。ただ、そこに、共通する問題点を見出すことは可能です。それを整理し、簡明に記しておくことは、有益です。多くの人たちから「なるほど」「助かった」との声を頂いています。もちろん、例外なく全ての人に役に立つ魔法ではありませんが。


「そしたら、まず、話をすることでしょう。 子供と。 人間相手にするのと同様に。
子供にわからないことというのは、ゼロです。 全て理解することはできます。 ただし、経験に基づく”ことばに表現できないこと”には理解がない。」


これは、私の考えー行為の基本ですので、まったくその通りだと思います。それを貫くことが、最も大事なことですね。そうすれば、

「反抗する子供がどーのとって、子供は反抗するんですよ。そういうものですから^^;
で、それを、悠々と抑えつけるのが親の役目です。
ほら、やっぱりね、親は圧倒的な力をもってなくちゃいけないんですよ。」


という無理な頑張りは必要なくなるのではないですか? 『心身全体での対話』が出来ているならば、それ以上の『よい』はないと思います。もちろん、仰るように、エネルギーは何をするにも基本ですが。しかし、「圧倒的な力」を持ってなくちゃ!というのは、ずいぶん酷な要求ですね(理念として語られたのならば話は別ですが)。


「原理を無視して、まず今あることをみる。 当世にあったすばらしい生き方でしょう^^?」

そうすると、「今あることをみる」ことも出来なくなると思います。
何であれ固定した考えに囚われていると、目の前の事象―出来事が見えなくなりますが、逆に、原理まで無視することになれば、全ては砂上の楼閣になって、ニヒリズムに陥いるのではないですか?


早速のていねいな返信、ありがとうございました。「違い」と共に、「共通点」も多いことが分かりました。

では、また。失礼。

2005.1.22 武田康弘


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教育? 「教育の原理」へのトラックバックへ。

2005-01-21 | 教育
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 bondoll さんの私の文書へのトラックバックを見て、改めて思いました。状況や背景が捨象された文字言語だけで真意を伝えるのは、やはり相当に難しいな、と。

私は、30年ちかく多くの子どもたち=大人たちの問題と取り組んできました。親子間のすさまじい修羅場に幾度も立会ってきました。
大病院の精神科でさじを投げられた人のケアーもしてきました。

そういう日常、非日常のさまざまな実践から得た結論を文書にしたのです。思いつきや、個人的な体験のみで書いたのではありません。

いろいろな意見が出るのは、とてもよいことですが、私の文書の背景にあるものを知ってもらった上で、もう一度お考え下さればありがたいと思い、お返事を書きました。


「推薦ー感謝です」にも書きましたが、

人間は「物」ではありませんから、青年期以降に自分で自分を変えることもできますし、得体の知れない力に翻弄されることもありますし、思いがけない「出会い」が人生を変えることもあります。

しかし、親としてどう考え、行為したらよいか?という一応の原則は知っていた方がよいのではと思い、発表したのです。


ご意見をお寄せ頂きありがとうございました。

2005.1.21 武田康弘


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教育? 心と心が通うこと

2005-01-19 | 教育
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OTOMEさんの『教育と抑圧の境目』(私の『必要なのは、おどけ・ふざけ・悪さです』へのトラックバック)を読みました。
12年前(わたしの一人息子が中学1年生の時)に書いた「心と心が通うこと」と通じるものがあると思いました。以下にアップしてみます。


心と心が通うこと

しかることが、反抗や隠れた憎悪の心をもたらさずに、よい=魅了ある人間を育てることにプラスに作用するための条件は何か?

それは、肯定=愛の心だ。しかる、という一種の否定が効を奏すのは、基本に子どもの関心・欲望を肯定する心がある時に限られる。

人間の最も大きな価値は、生きているものを愛する心だ。多くの子どもは、その人がバイオフィリア(生きているものへの愛)人間か、ネクロフィリア(固定し死んだものへの愛)人間かを、瞬時に、ほとんど本能的に見分ける。強くしかっても、厳しく指導しても子どもに好かれる人がいる。優しい言葉や笑顔をふりまいても少しも好かれない人がいる。

人の心の奥深くまで届く言葉=ほんとうに腑に落ちる言葉を発することができる最大の条件は、肯定と愛の心があること=バイオフィリアであることだ。

基本に「否定」の構えをもつと、必ず権威主義的になり、子どもの心を抑圧してしまう。

(1993年5月 武田康弘 ) 

 2005.1.19


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? 正鵠を得るー東京新聞―自民党の恐怖!?

2005-01-18 | 社会思想
「東京新聞」が一般紙の中で一番よい記事が多いことは、識者にはよく知られている事実です。良識ある市民の目線に近いということでしょう。
今日―1月18日の「東京新聞」には、「こちら特報部」(2面ぶち抜き)で、自民党と財務省などの官庁を恐れるテレビ局の実態が暴かれています。
 

一部をご紹介しましょう。

「葉に衣を着せぬ」批評家(例えば、高名な政治評論家の森田実さん)は、「生放送」への出演依頼が激減しているとのこと。

田原や久米などテレビ局の社員ではない一部の人間だけがようやく「ものが言える」というのが実態。コメンテーターは、切られたくないので自粛してしまう。

左への偏向(体制批判発言)は問題になるのに、右への偏向(石原慎太郎などの発言)は問題にされない、という日本のテレビ報道は、「放送が政府の認可事業なので、テレビ局は認可が取り消されかねないと震え上がり、自主規制に走っている」から。

デープ・スペクター談ー「日本のテレビは自民党を過剰に意識しすぎ。自民党に怒られちゃうからというのではなさけない。」
小泉の経済政策を批判したら、財務省の官僚から「なぜ、あんな人物を出演させたのか」と電話がかかってきた。・・・



どうも、わかりよく、真に説得力のある批判は排除し、両極端な言説を飛び交わせる面白番組は、民衆のガス抜きになるので放置するというのが、自民党+官僚(日本の支配層)の身についた!方針のようですね。

北朝鮮のような幼稚な言論統制ではなく、日本の言論統制=人心操作ははるかに進化していますね~。自主規制に追い込み、告発者は社会的に抹殺する!くわばら、くわばら。 拉致問題は、毎日のように流しますが、戦前日本政府がおこなったケタ違いの朝鮮人拉致と虐待と惨殺の事実は、今日に至るまで、ちっとも伝えてきませんでしたものね。

報道関係者には、市民の立場にたった、バランスのとれた報道―真実を明かすマスコミ本来の使命を果たしてもらいたいと思います。

東京新聞の記者がこの紙面で謝っています。「ゴメンナサイ。かつてしばしば自主規制しました。相手は警察官や検察官。・・・・」と。

でも、冷静に考えてみれば、自主規制への圧力に怯えるとは、不甲斐ない!ですね。すでに歴史的使命を終えている政党=自民党=張子の虎に怯えるとは、あまりに情けない、と思います。断じて行えば鬼神も退くのです。まして、烏合の衆にすぎない自民党を恐れるなど、バカバカしいですね。恐れるから、いい気にさせてしまうのです。遠慮なく、真正面から立ち向かうことが必要だと思います。

2005.1.18 武田康弘


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? 国会職員の方からのメール HNK問題/+私の考えの補足

2005-01-16 | メール・往復書簡
国会職員の方からわたしのブログ記事(「堕ちたNHKー「地上の星」はどこに行った」)に対してのメールがありましたので、以下に公開します。
なお、個人名については、公表すべきではないと思いますので、記しません。



「今のNHKの形態では、政府ではなく市民につく報道は不可能でしょう。いったいNHKとは何なのでしょうか?視聴料を取るのなら、少なくとも人事は視聴者による選挙が必要なはずです。そうしないなら「契約テレビ」にするしかありません。これは原理です。」
とありました。

NHKは、放送法により設立された、いわゆる特殊法人です。
強制負担金である受信料で経営しており、これはNHKの目的が公共放送であることが根拠とされています。

(目的)
第七条 協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内放送を行い又は当該放送番組を委託して放送させるとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び委託協会国際放送業務を行うことを目的とする。

(受信契約及び受信料)
第三十二条 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。

私は、民放が成長した現代の我が国では、このような公共放送はその必要性を失っていると考えています。治安・災害対策、官公庁の広報のみを、国や地方自治体が行い、それ以外はすべて民間に任せるべきです。なぜなら、どのような内容の情報をどのように伝えれば、「公共の福祉のために」なるかについて、意見の一致はほとんど不可能であり、統一的判断を求めれば、思想表現の自由を侵害する可能性大だからです。「公共とは何か」は、個々人が真剣に考えるべき問題ですが、それに止めるべきであり、また民放でも無関係ではありえないと思います。
なお、受信料は、契約を強制する点で非合理的な法制度であり、廃止すべきと考えます。

NHKの不祥事は、次期通常国会冒頭の重要問題になりそうです。
何かお考えがあれば、お聞かせください。(2005.1.16)





以下に私(武田)の考えを補足します。

「公共」とは何か?については、書評でご紹介した「公共とは何か」山脇直司著(ちくま新書)をお読み下さい。たいへん平易で明晰な著作です。

ばかばかしいほど当たり前のことですが、権力の座にいる人間が、「公正な報道を!」と発言すること自体が、何よりもの圧力です。

政府および政権党の要職につく者が、マスコミ報道のありよう(=内容)について発言すること自体を禁止すべきです。従来よりも踏み込んだ立法処置で、マスコミの政治権力からの独立を保障する必要があると思います。必要なのは、マスコミ同士の相互批判と独立したジャーナリストを育成するシステム(各マスコミ機関が負担金を出す)をつくることです。(2005.1.17)




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「推薦」ー感謝です

2005-01-15 | その他

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わたしのブログー「思索の日記」を熱烈に!推薦して頂き、どうもありがとうございます。
感謝です。http://www.doblog.com/weblog/myblog/26329/891850#891850

この記事(「必要なのは、おどけ、ふざけ、悪さですー教育の原理ー」)は、職業上の必要から書きました。神経症的な子育て全盛!の現状に対して、父母の方たちへの励まし(きつい励まし)としてです。

もちろん人間は「物」ではありませんから、青年期以降に自分で自分を変えることもできますし、得体の知れない力に翻弄されることもありますし、思いがけない「出会い」が人生を変えることもあります。

しかし、親としてどう考え、行為したらよいか?という一応の原則は知っていた方がよいのでは、と思い、発表しました。(この記事に意見を寄せられた方へ)


以上、簡単ですが、お礼まで。

武田康弘 2005.1.15


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? 山脇さん(「公共哲学とは何か」ちくま新書の著者)の再返信とわたしの再再返信

2005-01-15 | メール・往復書簡
以下は、私と山脇さんとのやりとりです.斜体の部分が私の再々返信です。
私は、実存のエロースを深め広げるためには「公共学」が必要だ、と思っています。


武田康弘様
早速のお返事有り難うございました。
それで、

もしお出で下さるならば、喜んでお迎えします。(武田)
ということなので、早くお目にかかりたいのですが、住んでいるところが横浜市で遠いため、いつか時間がある時、白樺派の再勉強をかけて出向きたく存じます。(山脇)


ぜひどうぞ。白樺派は、在野の精神の象徴だと思います。1910~20年代、柳や志賀や武者やリーチや・・・・みな20才代から30才代の青春の運 動でした。私は少し頭が足らないので、永遠に青春の運動をするつもりです。 (武田)


「公共哲学とは何か」は、研究会や授業でテキストとしても使う予定です。(武田)
どうも有り難うございました。この本はページ数の制限のため、広く浅く書かざるを得ませんでした。ですから、(山脇)

実存の深みへの探求のためには、公共的な社会性の探求・獲得が必要だと考えています。「実存は公共性に先立つ」(笑)というわけです。(武田)
この点を、次著では掘り下げたく思っています。(山脇)

私が考える哲学とは、椅子という「事実」はない、真に実在するものとは椅子の「意味」であるーというソクラテスープラトンのイデア論のことです。そういう意味では、イデア論を否定したアリストテレスは、学問ではあっても、哲学とは言い難いかな?と思っています。(武田)
この点は、哲学する人間の間でも大きく見解が分かれると思います。事実が既に「意味負荷性」を帯びているとすれば、事実VS意味という二分法は成り立たないでしょうから。(山脇)


意味には、「事実的な意味」と「意味的な意味」がある。
 しかし「事実的な事実」=純粋事実 はない、というのが私の考えです
。(武田)


プラトンの「国家」もルソーの「社会契約論」も共にイデアとしての都市国家論・社会論であり、経験的な事実学ではないので、そのような読み方が必要だと思います。(武田)
確かにそのとおりですが、ここでも、イデアVS事実という二分法が少し気になります。この点に関して、私はヘーゲルの影響を受けすぎているかもしれませんがーーー。(山脇)


大変面白いテーマですね。ヘーゲル的思考とギリシャ的思考(ルソーもこちらに近い)。 ヘーゲルの観念論とギリシャ(ソクラテスープラトンということですが)のイデア論。いいですね~。(武田)


実存論と社会学(意味論としてではあれ)とでは、水面下と水面上の違いがあるようです。サルトルのレトリカルな書き方は、両者を融合するための要請だったのではないでしょうか。名称は、単に「公共学」または、「公民学」の方がよいかな?と感じました。「存在論」(これは竹田青嗣さんが解釈し直した「現象学」を下敷きにする以外にはないでしょう)の探求を基盤として、そこから反転して「公共学」に上向するというのが正解ではないか、と考えています。ともあれ、この両者ー水面下と水面上をそのもまま結合することは出来ないと思います。必要なのは、違いの明晰な意識化、ではないでしょうか。(武田)

これは公共哲学にとって、大変重要な根源的なアポリアですね。色々な考え方があって然るべきだと思います。私たちがこの点を論議し合った以下の本を出版され次第お送りしますので、特に各章の後の討論を読んで感じられた点をお聞かせ頂ければ幸いです。(山脇)
http://www.utp.or.jp/shelf/200501/010099.html


 分かりました。楽しみにしています。
 本来、大学の中で哲学するというのは、なんだか変です。
 カント以降「常識」化してしまいましたが。生きた言葉で語り合いたいと思います
。 (武田)


では、お会いできる日を楽しみに。(お名前失礼致しましたー訂正しました。) 協力関係がうまく築けたら、楽しく有益ですね。(武田)
協力関係は是非築きたいと思いますので、宜しくお願い致します。
明日は雪の予報ですが、夕方からの会のご盛況をお祈り致します。私の方は、「受験オタク」が集うセンター入試の監督で朝から大学に缶詰です。
では今日のところはとりあえずお返事まで。(山脇)

山脇直司(2005.1.14)


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