思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

京セラの責任ーNシステムと645システムはわずか発売数年です。

2005-04-28 | メール・往復書簡
「コンタックス製造中止」のブログ(この下)に関してdelta16vさんから以下のようなコメントを頂きましたが、確かにおっしゃる通りだと思います。

ひどい話なのですから、「京セラ」経営陣の責任を追及しなければいけませんね。趣味のサークル内の話ではなく、社会問題ですから。

認識を新たにしました。ありがとうございます。



[delta16v] [2005/04/28 12:23] [ MyDoblog ]

レンズそのものの価値に対する責任というよりも、そのマウントと将来性を信じてシステムをそろえた顧客に対して、頭を下げるべきなんじゃないでしょうか。

645にしてもNにしても、長いマウントの歴史からすると、始めてすぐに投げ出した、と言われても仕方がないタイミングだと思います。


[タケセン] [2005/04/28 16:36] [ MyDoblog ]

コメント、ありがとうございます。

確かにそうですね。大資本ー「京セラ」という会社の無責任性を許してはいけないと思います。

具体的にはどうしましょうか?

武田康弘




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(昨日のつづき) コンタックス645用ツアイスレンズの描写力

2005-04-28 | その他

この下(偉大なツアイス「視覚文化」ー京セラへの叱咤!!)からのつづきです。

645版ツアイスレンズについて。

新しいブローニー版645用のレンズは、従来の35mm版のレンズより透明感が増しています。私が使っているのは、350ミリ望遠とズームを除き、ディスタゴン35mmからゾナー210mmまでの全てのレンズ(7本)ですが、ツアイスレンズのもつ上品な柔らかさは、645版でより生きることを強く実感しています。色のりがよく、かつ透明感があり、ボケのとろけるような美しさには言葉を失います。ライカのレンズ(もちろん35mm版)のような「線」描き的なキツさではなく、品位の高い「面」としての描写は、豊かな美しさがもたらす愉悦です。ただし、実物よりも高品位に写るのはケシカラン!と思う人がいるかもしれません(笑)が。

個々のレンズの特徴については触れませんが、ただ一番新しいディスタゴン55mmのレンズは、他の6本よりコントラストが高く、暗部の描写などが日本製レンズに少し近寄っている感じです。露出アンダー部分に宿る美しさが後退して、「ふつう」のよさになっています。
マニュアル・フォーカスのマクロプラナー120mmは、見事な解像力と正確な質感再現と美しいボケ、柔らかさが一つになった最高のマクロレンズです。比較できる製品は存在しないでしょう。他もみな一度使えば虜になること請け合いですが、いくら称揚しても製造されないのでは虚しいですね。

こういう上質ー上品な製品とマネーゲーム・金融資本主義とは相容れないのでしょう。ほんとうによい物が分かる人間を育てたいーエロース豊かな文化に変えていきたいと改めて強く思います。

2005。4.28 武田康弘




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京セラのコンタックスーツアイスレンズ製造中止の決定に思う。偉大な文化をどう継承するか?

2005-04-27 | その他

カール・ツアイス(ドイツ)のカメラ用レンズ、双眼鏡、顕微鏡などをお使いの方は、その品質=見え味の美しさをよくご存知のことでしょう。
単にコントラストや解像力がよいというのではなく、階調が豊かで立体感と質感に優れ、なにより「気高さ」を感じさせる上質な像・描写は、人類が生み出した至高の文化の一つです。

京セラ経営陣のみなさん、カメラ部門から全面撤退!!とは、どういうことなのですか?
大衆文化全盛の中で、貴族的な高品質の製品が商売にならないことは、1975年のコンタックスRTS発売当初から分かっていたはずです。大企業には「偉大な文化」を守るための社会的義務があるはずです。とキツイことも言いたくなります。

私が長年愛用している35mm用のツアイスレンズのことと、1999年に発売されたブローニー版・コンタックス645用のレンズについて、実体験からその描写の特徴をレポートしようと思っていた矢先の「事件」に大変残念な思いです。

レンズのことは日を改めて書きますが、35ミリ版は9月まで。645は12月までで発売中止です。これらの史上最高の高品位レンズは、それ以後は中古でしか入手できなくなります。

京セラには、ツアイスの偉大な「視覚文化」継承の展望を喫緊に示されるよう、強く要望します。今までせっかく頑張ってきた努力を無にしないためにも。
わたしたちユーザーも本物を知り、ほんとうによいものを長く愛用する「文化」を育てなければと思います。


2005.4.27 武田康弘





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「変身」した梅原猛さんにエールを贈るー靖国と愛国教育について

2005-04-26 | その他

私は、もう30年以上前-「地獄の思想」の頃からずっと梅原猛の思想には、批判的でした。しかし、ここ最近の梅原さんは大きく様変わりして、私の思想と重なるようになってきました。親鸞の捉え方も大分本質をつくような論説に変化したのにはビックリ!です。高齢になり「変身」できるのは、大変素晴らしいことです。エールを贈ります。

昨日の東京新聞夕刊7面に、梅原さんの「思うままにー国家より人間を愛してこそ」という主張が載りましたが、これは、私の昔からの主張―この「ブログ」でも昨年来掲載している「靖国」「国家」「教育基本法」などーの考えとほぼ一致します。ただし、愛国教育についての批判の論拠は、まだ上滑りで、昔の彼のままなのは残念ですが。さらに掘り下げる努力をぜひ!


以下にその一部を抜粋して載せます。

「たしかドストエフスキーの小説であると思うが、愛国者というものは、国という観念のみを愛し、その国の人間を少しも愛さないものだという文章を読んだことがある。東条英機も観念としての国を愛したかもしれないが、そこに住む日本人を真に愛してはいなかったであろう。

日本の神道は、味方とともに、戦争で犠牲となった敵方を祀ることを重んじる神道であり、靖国神社のように味方だけを祀るのは日本の神道の伝統に反すると再三批判したが、小泉首相は得意げに靖国神社を参拝した。今の中国や韓国における反日運動の原因の一端が小泉首相の靖国参拝にあることは明白であろう。

日本の過去を考えると、中国や韓国との外交には細心の注意が必要であろう。小泉首相には隣国の人たちの苦しみを思いやる心が全くなく、隣国との親善関係を壊し、日本の経済的繁栄にまでも暗い影をなげかけるような原因をつくった。

東条首相や小泉首相が愛国者であるかどうかを自由に議論することを許すような愛国教育であれば私は賛成であるが、真に人間を愛せない権力者のいうことに無条件で従えというのが愛国教育であるとすれば、私は絶対に反対である。」


こうやって抜粋してみると、残念ながらやはり梅原さんはジャーナリストであり、哲学者ではないな、と思います。イデオロギーとしては私と多く共通なのですが、論拠が甘く、思考が表層的です。あまり掘り下げずに次々と新しい知識を導入するのが「成功」する秘訣なのでしょうが。私はもっと欲張りなのかもしれません。「意味論」としての追求が乏しい世界にはエロースを感じないのです。哲学とは、横に流れるような思考ではなく、穿(うが)つことです。
梅原さん、上げたり下げたりで御免なさい。


「なぜ?」が人間をつくるのシリーズをご覧下さい。クリック ? ? ?

2005.4.26 武田康弘





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えほん版「教育基本法」--教育における「理念」とは?

2005-04-25 | 教育

「新・教育基本法案」の歪んだ思想との闘い? (?は、クリックして下さい)


絵本版「教育基本法」が出版されました。今朝の東京新聞に紹介記事が載っています。

書名は「十一の約束―えほん教育基本法」(ほるぷ出版)このえほんの和文和訳?は、伊藤美好さんと池田香代子(「ソフィーの世界」などの訳者)さんです。
伊藤さんによると、中央教育審議会の委員にも「教育基本法」の内容を理解していない人がいた!という証言があるとのこと。
まずは、みなが読んで内容を「知る」ことが必要ですよね~~(念押し疑問文)



通常の意味での理念があったらいけないのが教育です。

政治―行政がすべきことは、読み書き計算、知識と思考力、対話・発言能力、情感の豊かさなどの人間力を育てるための条件を整備することです。

「国を愛する人間」「伝統を重んじる人間」「国旗・国歌を尊重する人間」「天皇を敬愛する人間」というような理念を先立たせれば、教育ではなく、洗脳になります。あらかじめ理念=思想的目標を置くことは、民主制が未発達の国が採る愚策でしかありません。

教育における理念とは、民主主義の理念と同じで、通常の理念ではない「理念」なのです。はじめに思想内容を規定してはいけないのです。基本の条件を整えることが教育の仕事であり、そこからどのような内容が生まれるか?は、現実に生きる一人ひとりの人間にゆだねられるわけです。 「実存」が先立つのは、人間存在の原理なのですから。

2005.4.25 武田康弘





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「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉?「ソクラテスの無知の知」

2005-04-23 | 教育

ソクラテスの「なぜ?」 

教育哲学 1およびとあわせてご覧下さい(クリック)。

本来、哲学とは理論の体系ではありません。
理屈・論理で武装することではないのです。固定観念から心を解放することで、実存の力=魅力を生みだそうとする営みです。アカデミズム内の思考とは異なるはるかに広い生活世界における思考です。形式や権威や既成社会の思想を「なぜ?」「どうして?」の問いによって白紙に戻すことです。権威主義から最も遠いものです。ひとことで言えば、自由の実践だと言えるでしょう。

ソクラテスの「無知の知」=わたしは知らないということを知っている、とは、「なぜ?」という意味論の追求をすれば自ずと出てくる「答え」です。ただの事実ならば、知っていると言えるわけですが、「なぜ?」の探求を、知っている、といって終わりにすることはできません。「なぜ?」という問いの答えは、段々と深め豊かにすることができるのであり、知っている、とは言えないからです。

現代日本を覆う度(ど)し難(がた)いほどの「事実学」の支配は、人間を昆虫化させてしまいます。パターンの組み合わせによって生きる人生では、人間は窒息死してしまいます。人間の心をエロース豊かで健康なものにするには、「なぜ?」を問う心に就くことが絶対条件です。

さまざまな異様な犯罪は、「事実学」によって神経質に管理された社会がもたらすもの。形式主義というイデオロギーに支配されている日本社会は、事実学の培養池です。平面=二次元でしかない事実学の集積は、人間を生かすのではなく、「反抗」する心さえ消去することで、人間をドライフラワーにします。「なぜ?」の意味論を禁じられた世界では、人々は自分の疎外感の理由を知ることすら奪われるために、異様なヒステリーに陥るほかないのです。
(つづく)

余分な?付け足し:
人間は二次元世界で生きることはできません。二次元世界をそのままにし、自分だけ「うまく」やろうとして、この社会の「エリート」になっても問題は解決しません。原理からの逸脱=嘘の上塗りの人生は、更なる悲劇を生むだけです。三次元の心と頭=「なぜ?」の意味論が必須です。
念のための補足でした。

2005.4.23 武田康弘





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日本の政治家の皆さんへ。エマニュエル・トッドをお読み下さい。

2005-04-21 | 書評

日本の政治家の皆さんへ。エマニュエル・トッドをお読み下さい。

明治政府がつくった新宗教=「国家神道」の総本山の靖国「神社」(本来は神社ではありませんが)のとっくに終わっているイデオロギーを日本の伝統!!??などと思っている保守政治家の皆さん、少しは思想について勉強してください。あなたたちは、税金を毎月もらって生活しているのですからね。大臣たちの日々の発言、そのあまりの見識のなさと無知には言葉もありません。「平和な国」です。よくこれで国がつぶれないものだと感心します。

そこで、読書のお勧めです。世界の政治家が読んでいるベストセラーですが、日本の政治家は読んでいない、エマニュエル・トッドの本です。

2年前に邦訳が出た「帝国以後」(藤原書店)
フランスのシラク大統領が、アメリカ外交の歴史的な大転換を自信をもって行ったのは、トッドの情熱的でかつ冷静な学的分析、巨視的な人類学による新たな世界像の提示によるといわれます。単純なアメリカ追随外交では、日本は計り知れない損失を受けることを認識してもらわなければ、「国益」を損ないます。

2001年7月に邦訳がでた「世界像革命」(藤原書店)
副題が「家族人類学の挑戦」となっていますが、伝統だの、家族制度だのを論じるならば、こういう新しい研究成果を踏まえなければバカバカしい先祖帰りにしかなりません。

書籍代はちゃんと別に支給されている政治家の皆さん、まじめに勉強してから発言してくださいね。

小泉首相にいたっては、明治政府が作った国家宗教の「靖国」と伊勢神宮の違いも知らないで、「なんで伊勢神宮に参拝しても批判されないのだろう?」と以前テレビで発言していましたが、絶句するしかありません。それとも「おふざけ」なのですかね~?

「日本主義」のイデオロギーではなく、世界的な普遍性をもつ頭脳が求められているのです。明治天皇讃歌の「君が代」を強制するのが仕事ではあまりに悲しいですね。

ロシア革命の中心人物、トロッキーは、1933年にこう書いています。
「日本の政治家たちの力は、一般的思想の驚くべき貧困と結びついたシニカルな現実主義にある。だがこれは彼らの弱みでもある。近代国家の発展を支配する法則に対する理解は、彼らにはまったく無縁である。・・・このような知的構造をもった人々は、ある一定の条件のもとでは、例外的な成功をおさめることができるかもしれないが、それと同様に、国を未曾有の大災厄に投げ込みかねない。」(「破局に向かって突進する日本」)
予言は的中してしまったわけです。


2005.4.21 武田康弘




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社会問題を語るのは自分を語ることー「社会」への逃避は有害です。

2005-04-20 | 私の信条

以下は、昨日のブログの最後に、「私の信条」として書いたものです。
以下の文だけでは唐突な感じで分かりにくいと思います。
この下のブログと共にご覧下さい。



最後に私の信条を書きます。

原理的な思考により、「ほんとう」をつかむこと、「現実」に負けないこと、愚直に本道を歩むこと以外には道はないと思います。
たとえ多くの人が「気だるさ」に支配され、「ごまかし」や「その場しのぎ」の生き方をしていたとしても、それに引きずられては「損」です。
「社会」に逃げてはいけません。問題とは、結局は「自分」の問題なのですから。皆がどう言おうと、自分がよく生きることです。

社会問題を考えるのは、既成秩序・価値のツマラナサを批判して、新たなエロースを広げるためです。受動性から能動性へと人生を転化するためです。真に自分を中心に生きるためです。それ以外にはありません。

あらゆる学と思考は、人生を肯定するためにのみ意味と価値をもちます。逆に言えば、自分の人生を肯定し、喜び・悦び・歓びを広げるような選び=決断を断固として行う勇気が必要です。展望のない思考には存在理由がありません。よき実践=行為をともなわない思考は、有害・有毒で、人生からエロースを奪ってしまいます。

2005.4.19 武田康弘






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中国問題をめぐるやりとり=「違い」は「生産的」です。

2005-04-18 | メール・往復書簡
『メタフィジカルな気分』のlucienさんの中国への強い批判のブログをきっかけに、私と彼との間でコメントのやりとりがありました。 「違い」は、ものの見方を深め、クリアーにする意味でとても「生産的」です。 以下にやりとりをコピーして載せます。
lucienさん、ありがとうございます。


まずは、lucienさんのブログのコピーからお読み下さい。

中国の日本潰しが始まった~中国と断交してかまわん! lucien
[ 19:29 ] [ 読書録 ]
[ スライドショウ ]

中国の日本潰しが始まった
著者/訳者名 : 黄文雄/著
出版社名 : 徳間書店 (ISBN:4-19-861850-X)
発行年月 : 2004年04月
サイズ : 311P 20cm
価格 : 1,575円(税込)

はっきり言おう、中国の低脳な愚民どもが日本を嫌いなのであればとっとと国交断絶すべし。最近のあの低脳な愚民の愚挙には我慢ができかねる。日本大使館やら企業を「襲う」土民を「低脳な愚民」と呼ばずして何と呼べばいいのか。
反日教育をし、国内の各地に反日記念館を建設するヴァカ中共にどうしてODAなどするのだ?まるで貢物ではないか。核ミサイルだかが東京とか各都市に照準を合わせているような国にここまでされて私たちは何も言わないのだろうか。何も感じないのだろうか。

本書はなぜ中国人が反日行為を繰り返すのかがよくわかる本だ。
その梗概はやはり国内の所得格差の拡大や高率な失業率や腐敗した政治体制への不満、独裁的で不自由な体制への不満によって為政者は体制維持に危機感を感じていて、もはや求心力を失った共産主義ではなく、外部の日本の悪行に愚民の目を向けさせて乗り切っているのだという。

やはりそういうことか。反日教育やキャンペーンは江沢民が主席になってから特に力が入れられたのだが、その環境で育った若い層が反日運動の主力なのだそうだ。

さらに、中国では民主主義化は不可能だとする、かなり説得力のある議論がなされている。
民主主義は小国の原理であって、広大な多元的多民族をまとめるには中央集権的な独裁体制しかありえないこと。また、有徳者が天に代わって万民を統率することが中国では理想とされていること。そういえば儒教は国家を運営する哲学だとも言える。
中国では国家を存続させるには民族主義を高揚させるしかないらしい。

とっとと中共など潰れて、民主主義が可能な程度の小国に分裂してくれ。中共なんかの存続のために反日などされたらたまらん。




以下は、コメントのやりとりです。

[タケセン] [2005/04/12 09:06] [ MyDoblog ]
元・特攻隊員の話、「チャンコロの首を切るとどんな音がするか分かるか?」をアップしました。(「思索の日記」)
東京新聞の紹介記事ですが、どう思われますか?
(武田康弘)



[lucien] [2005/04/12 09:50] [ MyDoblog ]
こんにちは。
旧日本軍の大虐殺事件や731部隊等の残虐行為は一応知ってますが、それがゆすりたかりのネタにされてはたまらないということです。残虐さでは中国人も日本人に負けてはいないと思いますし。
海底資源の強奪、原潜の領海侵犯、尖閣諸島や台湾問題、靖国内政干渉問題など、中国が日本を刺激し続ければやがて日本も右傾化することは誰でもわかることなのですから、中国も戦争から何も学んでいないことになります。
私は戦争など真っ平ゴメンですが、これから先日本の危険なナショナリズム高揚は避けられないでしょう。



[タケセン] [2005/04/13 12:09] [ MyDoblog ]
避けられないかもしれませんが、避けようではありませんか!自分と皆の意識を変えていく営みー思索と実践ーには、おおきなエロースがあります。
lucienさんは、せっかくたくさん本を読み、よく思索しているのですから、それを大いに活用し、日本社会をよく変えていくために一肌脱いで下さい!笑。期待していますよ。
(武田康弘)



[lucien] [2005/04/13 17:12] [ MyDoblog ]
もしかすると、普通の国程度の正常なナショナリズムが広がるのが「良い世の中」になることかもしれません。
最近の中国の態度を見ているとそう思います。



[タケセン] [2005/04/14 10:49] [ MyDoblog ]
自我の問題と同じでしょうね。自分が、自分が、と思っているとよい人間関係はひろがらない、結局は自分が損をする。「得」も「徳」も得られない。自民党政府のように、明治政府が作った「国家神道」という宗教の施設=靖国神社を是認していては、日本は、『ふつう』の市民社会になれません。これは国際問題であるより先に国内問題です。ふつうの愛国心ー健全な皆の得になるふつうのナショナリズムが育つ土壌がつくれません。よき日本の伝統を断ち切った明治政府の「近代天皇制」=現人神の思想を大元から批判し、日本版の市民精神による市民社会(実は自治政治は500年前からの伝統)をつくる思想と実践的努力をしないと、「ふつう」にはなれず、柔らかさ・自由さを欠いた日本が、日本が、という国家自我主義に陥るしかないでしょう。芯の強い優しさー本物の強さをもった国にするには、自国を変える勇気を内外に示すことです。(武田康弘)



[lucien] [2005/04/15 23:31] [ MyDoblog ]
もちろんおっしゃるとおりだと思います。明治政府の廃仏毀釈はまったく余計なことでした。しかしどうしても国家の近代化を急いでやろうとすると、天皇という超越者をしつらえて強力な求心力も必要だったわけです。そういった自我=内面のナショナリズムというより、私がこの記事で言っていることはただ単なる普通の人間的感情なんですが。中国人民は本当に不幸な人たちです。反日が中共のガス抜きだと気が付いている人もいるでしょうけど、もうちょっと賢くなってほしい。それか、いっそのこと反日デモが爆発してその矛先が中共に向いて民主革命でも起こればと。



[タケセン] [2005/04/17 22:03] [ MyDoblog ]
中国政府の思想や政策、「反日」の過激な行為をする中国人への批判は分かりますが、私たち日本人が取り組むことは、日本社会の問題をしっかりと分析し、解決していくことではないでしょうか?
もし、真に明治中期以後の天皇教の「洗脳教育」を批判し、「靖国」問題をしっかりとクリアーしていれば、とっくにアジア諸国の真のリーダーとして尊敬を集める国になっていたはずです。
自国の問題の深い解決は、自国ー他国の双方に大きな「得」と「徳」をもたらします。 今からでもいいのです。ほんものの「知」に関心のある人は、健全な社会実現のために力を出そうではありませんか。 他国の批判はたやすいですが、自国を見つめることは難しいものです。 お互い少しづつ前進しましょう!!
(武田康弘)



[lucien] [2005/04/18 20:24] [ MyDoblog ]
何回も言ってしまいますが、武田先生のおっしゃることはもっともだし、私も賛同するのですが、今どきの人たち(もちろん例外もたくさんいます)にとって、先生のおっしゃることはあまり意味を持ち得ないと思いますよ。何しろ2005/04/18 の記事に書いているような現実は既知のことであり、正論によって世界が変わると信じる若者は本当に少数です。大人も同様でしょう。だから「世の中なんてぶっ壊れてしまえ」とみんな思っているわけです。シニスムやニヒリズムの上で彼らは認識や判断を構築してるので、根本的な地点からニヒリズムを揺さぶるような戦法を取らない限り無理があるのではないでしょうか。



[タケセン] [2005/04/18 23:59] [ MyDoblog ]
そうですか。正論=まともでは如何ともし難い、という感じもよく分かります。私は、「ふつうの人間じゃない!」「哲学者だから・・」などと評されることもありますが、あえて「真正面」・「健全」・「楽天」を貫いてきました。私の内的な意味充実の世界が、外的な負の世界(個人であれ社会であれ)を蹴飛ばしてしまうのです。私に自ずとやって来る内的な確信は、意味=「なぜ?」「どうしたらよいだろうか?」を考えることを、歯磨きのように習慣化したところから生まれるようです。悲観的な情報も自分の生を豊かにするために「逆転」させてしまいます。特権や固い組織に守られていない人と子どもたちが勇気と元気を持てるように考えようとする癖があります。常に具体的に思考し、実践します。そうすると不思議とエネルギーが湧き、力に満ちるのです。「健全」以外はない、というのが私のイデオロギーです。つき合わせてしまい御免なさいね。 



最後に私の信条を書きます。 武田康弘

原理的な思考により、「ほんとう」をつかむこと、「現実」に負けないこと、愚直に本道を歩むこと以外には道はないと思います。
たとえ多くの人が「気だるさ」に支配され、「ごまかし」や「その場しのぎ」の生き方をしていたとしても、それに引きずられては「損」です。
「社会」に逃げてはいけません。問題とは、結局は「自分」の問題なのですから。皆がどう言おうと、自分がよく生きることです。
社会問題を考えるのは、既成秩序のツマラナサを批判して、新たなエロースを広げるためです。受動性から能動性へと人生を転化するためです。真に自分を中心に生きるためです。それ以外にはありません。
あらゆる学と思考は、人生を肯定するためにのみ意味と価値をもちます。逆に言えば、自分の人生を肯定し、喜び・悦び・歓びを広げるような選び=決断を断固として行う勇気が必要です。展望のない思考には存在理由がありません。よき実践=行為をともなわない思考は、有害・有毒で、人生からエロースを奪ってしまいます。(4.19)





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天皇家内の対立ー原因は「宗教儀式」にあるとのことです。

2005-04-17 | 社会思想

歴史的に天皇家には耐えざる闘い=対立がありましたが、「大正」以降に限っても、皇室には確執が絶えないそうです。

その主たる原因は、「宗教儀式」にあるとのこと。

今日の東京新聞20面の記事=「祭祀の宗教性が生む確執」の記事には、確執―対立の様相が具体的に紹介されています。

結論は、「神々に向かって祈る宮中祭祀がつづけられる限り、そこには必ず宗教的な要素が伴う。それは往々にして、皇室の内部における対立を生み出す原因になる」ということです。

昨日のブログー「靖国・歴史認識問題は国内問題です」―の最後にも書きましたが、宗教儀式を執り行う中心者を「元首」にするという自民党の憲法改正案は、宗教と政治を一致させようとするもので、近代市民社会の原理そのものを否定する思想です。

2005・4・17 武田康弘


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「靖国」・「歴史認識」は、先ず、そして何より「国内問題」です。

2005-04-16 | 社会思想

中国に言われるから、韓国や北朝鮮に言われるから、「靖国」が問題なのではありません


日本人の多くは、「靖国」は日本の伝統の「神社」とは全く異なる施設だということを知りません。1869年(明治2年)に明治政府がつくった「東京招魂社」を10年後に「靖国神社」という名称に変えたものです。戊辰戦争などで戦死した政府側の人間だけをまつるためにつくった施設です。敵味方の区別をしないという日本の神社=神道の伝統に逆らったものです。伝統を重んじる右翼の人々がなぜ反対しないのか?不思議です。

靖国は、明治政府がつくった新・宗教=天皇を現人神(あらひとがみ)とする「国家神道」の総本山です。これももちろん日本の伝統とは全く異なります。古代ギリシャやインドなどと同じ、八百万(やおよろず)の神=多神教が日本文化の伝統であり、天皇を「神」とする一神教とは根本的に違います。靖国は日本古来の神社とは無縁な存在なのです。

1946年の「人間宣言」後の日本国憲法下でも、天皇を象徴と規定していますが、一人の人間を「日本国民全員を統合するシンボル」にするというのは、本来「無茶な話」としかいいようがありません。現憲法下でも天皇には国籍がありません。憲法で保障されている人権も天皇は例外とされ与えられていません。このようなおかしな思想=制度を支えてきたのが、靖国に象徴される明治の新宗教=「国家神道」であり、現代なおその思想の清算が済んでいません。天皇を一人の人間として尊重するならば、「象徴」という規定から自由にしなければならないはずです。また、戦死者も死してなお「国家神道」の下に縛ったのでは、その魂は浮かばれません。「国立墓苑」の新設が急がれます。もう戦後60年なのですから。

自由で平等な民主的な社会、抑圧や理不尽な命令のない社会、一人ひとりの命と思想を何よりも重んじる社会は、万人が望むものです。右も左もないはずです。
宗教的儀式の中心者でもある天皇を「元首」にするという自民党の憲法改正案は、市民社会の良識とは相容れません。この21世紀に政治と宗教の一致を目がけるというのは、恐るべき暴挙としか評しようがありません。
もういい加減に、明治政府がつくった国家主義=国家宗教の思想から抜け出そうではありませんか!!


「靖国」は、何より日本の国内問題なのです。


?靖国「神社」と君が代
?国とは何か?
?皇族の人権と市民精神の寛容 
および「水の国=日本、よき伝統を壊したのは誰ですか?をぜひ見てください。


2005.4.15 武田康弘





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「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉ー?自芽の成長

2005-04-14 | 教育

教育哲学
昨日(この下)のつづきです


?自我=自芽の成長の条件は?

「なぜ?」「どうして?」という意味論ぬきの「事実学」の積み上げは、人間の生からエロース、喜び・悦び・歓びを奪って、つや消しの世界を生んでしまいます。「人間を幸福にしないシステム」の大もとは「意味論」の欠如にあるのです。

生きるよろこびとは、自分の世界が広がり・深まることですが、自我の成長がないと外側の価値に振り回される生き方しかできなくなります。存在そのものの成長・魅力ではなく、知識・履歴・財産の所有を追いかける人生に陥ります。

では、どうしたら、自我はよきものとして成長するのでしょうか?
私は、自我を「自芽」と考えるとよいと思います。自分という芽は誰にでもあるわけですが、自芽が豊かに生育し、花を咲かせ、実をつけるためには、_内的なエネルギーが必要です。外側から弄(いじく)れば、芽は枯れてしまいます。意味論なしの「事実―知識」の注入は、根腐れをおこさせ自芽を生育させません。
自芽の成長の絶対条件は、「なぜ?」「どうして?」の意味論=内的エネルギーにあるのです。

意味論としての本質学がなく、事実学だけという精神風土の中では、情報が多ければ多いほど、学歴が高ければ高いほど、本を読めば読むほど、死んだ頭―紋切り型のパターン人間になっていきます。ほんとうには何も見えず、何も分からず、ただ言葉上の理屈だけで生きる人生に陥ります。現実問題の現実的解決とは無縁の実力のない「口先人間」にしかなれません。

中身の豊かさ、魅力、意味充実の世界への扉を開くこと=自芽が成長・開花する条件は、「なぜ?」「どうして?」という意味の探求にあるのです。(つづく)

2005.4.14 武田康弘





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「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉-?意味を問う

2005-04-13 | 教育

教育哲学
人間が人間になるための原理について(「おどけ、ふざけ、悪さ・・」もご覧下さい)

?意味を問う 

幼い子供は、なぜ? どうして? とうるさいくらいに問いを発します。
そのとき、大人がどういう態度をとるかで、子供の未来は大きく変わります。
なぜ? というのは、言うまでもなく「意味」を問うことです。
ただの知識―事実ではなく、その事実には、一体どんな意味があるのか?を知りたいのです。

何より大切なのは、そのとき大人が、子供の問いに対して一緒に考えようとする態度をもつことです。答えられなくてもいいのです。「不思議だね?」とか「なぜだろう?」と一緒に考えようとすることが、人間的なよき心と頭を育てるための条件です。

でも、残念ながらわが日本の現状は、そうはなっていません。むやみに「もの」を与えるのと同じように「事実」―「知識」を与えてしまいます。「なぜ?」を共に考えることをしません。問い=疑問・質問を喜ぶ態度が見られません。しばしば嫌な顔をして「問い」を遮り、上からの決まり文句で終わりにしてしまいます。考えることを一緒に楽しむのではなく、やり方と答えばかりを教えようとします。手っ取り早く覚えさせることを知育だと信じでいます。

こういう環境で育つと人は、答えばかりを求めるようになります。日本では問いと答えを繰り返す「対話的思考」が育ちません。哲学までも「問い」ではなく「正解」!?の集合になってしまいます。「できること」や結論だけに関心が行き、考えるプロセスと答えがひとつの全体をなしていることを理解している人は少ないのです。いつも目先の「正解」ばかり求めるために、薄っぺらな世界しか与えられません。

意味の探求をしない「事実とやり方」だけの勉強には喜びや面白みがありません。
「なぜ?」「どうして?」という子供の初発の問いに就くこと、
それが人間の心と頭の底力ー実存の魅力を生み育てる源泉になるのです。

(つづく)

2005.4.13 武田康弘





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「チャンコロの首を切るとどんな音がするかわかるか?」元・特攻隊員の話

2005-04-12 | その他

11日の東京新聞・朝刊に、二人の元・特攻隊員の話が載っていますので、一部をご紹介します。1920年生まれの斉藤一好さんと1926年生まれの信太正道氏のお二人です。


海兵隊の教育では、「脱亜入欧」が貫かれていた。戦争をしながらも、米英には敬意を抱いた。裏返しにアジア人には、潜在的な蔑視の意識が強かった。(斉藤氏)
子ども時代の銭湯で、帰還兵の人が、「チャンコロ(中国人)の首を切るとどんな音がするか、分かるか」と言い、手ぬぐいをパンとはたいた。その音を聞き、このおじさんは英雄だと疑いもなく思った。(信太氏)

戦前も現在と同様に大不況の後、一気に軍国化していった。生活の不安定さは、特定の政治方向に引っ張られる条件になる。おぼれる者はわらをもつかむ、という心境なのだ。理解しがたいのは、戦前の誤りに対する指摘が「自虐史観」になるという考えだ。海軍の中にすら日中戦争批判はあった。反省すべきことは反省してこそ、自分の祖国は誇れる。愛国心は押し付けるものではない。(斉藤氏)

時が経つにつれ、物事を美化したがるのは、お上の情報を信じたがることと併せ、日本人の悪い癖だ。水に流すという言葉に日本人はイチコロだ。一億総ざんげでおしまい。 この60年間で日本人は何も学べなかったのではないか。(信太氏)


20世紀は未曾有の戦争の時代でした。全世界で5000万人以上が犠牲になりました。そのうち私たち日本人が殺害した外国人の数は2500万人です。つらく苦しいこの事実をしっかりと見据えること。そこからしか未来を開くことはできないと思います。(武田康弘)

水の国=日本。よき日本の伝統を破壊したのは誰ですか? クリック
靖国「神社」と君が代 クリックを見て下さい。






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哲学クラスのご案内ー白樺教育館・・・「事実学」から「本質学」へ

2005-04-08 | 教育

日本の教育界には、思考力ー意味論を育成する「場」が存在しません。
「事実学」しかない文部科学省には、哲学(意味論・本質学)を理解する人間がいません。
1976年に創設した白樺教育館のソクラテス教室(旧称ー「我孫子児童教室」)では、高校生以上を対象に広義の哲学の授業を1990年からつづけています。


ご参考までに、以下にその簡単な案内を載せます。


高校生・大学生(一般)
曜日 土曜日 時間 4時~7時

◎高校・大学(一般)クラスは思考力(読解・論説文・対話力)の育成です.

国語の授業の読解レベルでは、ただの国語力しかつきません。哲学的な文書の読解をしますが、古典は、表層的な「まとめ」をしようとしても歯が立ちません。自分自身の具体的経験に照らして読み込み、腑に落ちるまで詰めていく練習をします。頭を全開にする経験はやってみると大きな喜びが得られます。また、毎回、感想―質問―意見を述べ合いますが、言葉ゲームとしての「ディベート」ではなく、「何がほんとうなのか?」を目がけての思考力の訓練は、学的、生活世界の双方(正しくは、学的世界は生活世界の中につくられるものですが)に充実をもたらします。
浪人生には「予備校の授業が簡単に感じられる!」という副産物もあります。
一般成人や専門学校生も参加できます。


なお、意味論としての真の哲学の発祥は、ソクラテスが弁論術(ディベート)の方法を批判し、弁論家としてのソフィストたちと闘い、言語をゲームとしてではなく、善・美のイデアを目がけて使用したところに始まります。

2005.4.8 武田康弘

白樺教育館ホーム(クリック
ソクラテス教室については、ココをクリックして下さい。





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