思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

2016年3月30日 アリーナ・イブラギモヴァ公演(所沢ミューズ)その到達点は、あまりの高みで、言葉を失う。

2016-03-30 | 芸術



無伴奏ヴァイオリン、

アリーナ・イブラギモヴァの到達点は、あまりの高みで、言葉を失う。
ヴァイオリンひとつで、オーケストラのもつ多彩で多面的な美の世界をつくりだす。しかもオーケストラより求心的。

艶やかでどこまでも美し音色、...
音楽のイデーに強く踏み込んだ解釈、
楽曲の姿を美しいヌードとして提示する大胆なまでの鮮やかな演奏には、唖然となる。
テクニックは完璧だが、それは当然の前提で言うも愚か。
濃やかでニュアンスに富み、千変万化する音世界に聴衆は固唾を飲んだ。わたしは惹きこまれて聴き入り、心身のすべてがヴァイオリンに浸った。
細部も全体もすべて完璧、ただ酔いしれるのみ。
時折見せるフッと抜く(脱力する)余裕は、絶妙の間をつくり、楽想が膨らみ、音楽を立体化する。

アリーナ・イブラギモヴァのつくる音世界は、演技も演出もなく、まるで自然物のよう。凄まじいまでの高み。

今日の所沢ミューズ・マーキーホールでの演奏を聴いた人は、一生の幸せ、聴けなかった人は涙を流してください。

真空管の音のような(!?)伸びやかで艶やか、見事な音響のマーキーホール。
新旧のコントラストが斬新で、互いのよさが分かる完璧なプログラム。
もう何も言うことはありません。あ~~~、幸福。

ーーーーーーーーーーーー

ビーバー:『ロザリオのソナタ』より パッサカリア ト短調
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 二短調 BWV1004

~~~20分間の休憩~~~

イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 二短調「バラード」
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ



武田康弘

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唯我独り尊し(天上天下唯我独尊)の優れた意味解説ー『ブッダと親鸞 教えに生きる』より。

2016-03-28 | 学芸

 「天上天下唯我独尊」として知られる釈迦の根本思想について、以下の説明はとても優れていますので、ご紹介します。釈迦の思想=仏教は、宗教ではなくフィロソフィだと言われる訳がよく分かると思います。一神教(いっしんきょう)の呪縛からの解放は、全人類的課題です。いま、ブッダの先見性と根源性を深く自覚したいと思います。



 「 私たち一人ひとりは、他の誰とも代わることのできない、唯一人の者として誕生しました。私が唯一人の者だということは、他の誰とも比べる必要がない私である、ということを意味します。ですから私たち一人ひとりは、それぞれ尊いといえるのです。

 しかし、同時にまた、私たちが生まれたということは、他の人とさまざまな関わりをもって生きる者である、ということも意味しています。私たちは、そういう関わりのなかで、常に自分と周りの人とを比べて生きているのです。

 ブッダは、私たちが他の人々との関わりのなかで陥っていく生き方を、「地獄・餓鬼・畜生」という迷いのあり方として明らかにされました。私たちは、そのような迷いのあり方のなかで、かえって自分の尊さがわからなくなり、そしてまた、周りの人々の尊さをも見失ってしまっているのです。

 ブッダは、釈迦族の王子シッダールタとして誕生しました。つまりブッダもまた、一人の人間として、関わりのなかを生きる者として誕生されたのです。ブッダは、さまざまな関わりを生きていくなかで、さまざまなできごとに出会い、人間は何のために生まれ、何のために生きていくのかという問題に直面されました。その問題に向き合うなかから、ついに「唯我独り尊し」(ただわれひとりとうとし)と、尊い者として誕生した自らを発見されたのです。

 「尊い」ということは、私たちにとって考えるまでもないような当たり前のことではありません。むしろ私たち一人ひとりが、それぞれの人生のなかで見つけ、確かめていかなければならないことなのです。そのことが「吾当(われまさ)に世において無上尊(むじょうそん)となるべし」「私は人生において、この上なく尊い者とならねばならない」という言葉で確かめられているのです。

 私たちがブッダの生涯から学ばなければならないのは、「唯我独り尊し」という私が明らかになる道です。私たちは、日ごろの生活のさまざまな経験のうちに、そのことを問いかけられているのです。その問いかけを通して、私たちは、何ものとも比べる必要のない自分に目覚めていかなければならないのです。」   『ブッダと親鸞 教えに生きる』(東本願寺出版部刊)より。


============================


fbに、すぐに優れたコメントが寄せられました。

「人は生まれながらに
”唯我(誰とも比べることができない、比べる必要のない唯一の存在)”
だけれど、ただ漫然と生きていても
”独尊(他の誰でもない、私ならでは尊さ)”を身につけることはできない。」(佐藤宏)

------------------------

「一神教のドグマでもなく、果てしない相対論でもなく。」(takayuki kawanisi)

 -------------------

Kentaro Tanaka
 
Kentaro Tanaka 憲法13条と通じる気がします。
 
 
武田 康弘
 
武田 康弘 ええ、元祖にして、最も徹底した「個人」の尊重。究極の民主的倫理。

 

武田康弘



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アリーナ・イブラギモヴァ[ヴァイオリン無伴奏]ー所沢ミューズ・3月30日。残席あります。

2016-03-28 | 芸術

 

アリーナ・イブラギモヴァ[ヴァイオリン]

アリーナ・イブラギモヴァ[ヴァイオリン]

日 時 2016年3月30日(水) 13:15 開場/14:00 開演
出 演 アリーナ・イブラギモヴァ[ヴァイオリン]公式サイト
会 場 マーキーホール座席表ホール案内
曲 目 ビーバー:『ロザリオのソナタ』より パッサカリア ト短調
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 二短調 BWV1004
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 二短調「バラード」
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
チケット
料金

全席指定:2,800円



ミューズチケットカウンター  04-2998-7777
(10時~18時)



まだ座席があります。
 
当日券は、午後1時からホール入口で発売予定。
 
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モーツァルト Vソナタ 全曲演奏会最終日 イブラギモヴァ+ディベルギアン 王子ホール。興奮冷めやらず。

2016-03-26 | 芸術

アリーナ・イブラギモヴァ(ロシア生まれ・10才のときイギリスに移住)というヴァイオリニストの凄さは、もうなんと表現したらよいのやら。

昨晩は、昨秋10月1日から続いたモーツァルトヴァイオリンソナタ全曲演奏会の最終日。

技術的な意味で彼女に難しい曲はありません。バッハからイザーイの無伴奏、プロコフィエフのソナタ、どのような曲でも自由自在で、やすやすと余裕感を持って弾きますが、技術的なレベルの話はどうでもよく、アリーナ・イブラギモヴァは、21世紀のいまの音楽を奏でます。20世紀の客観主義や昔の精神主義などとは次元が異なる人間性豊かな主観性の音楽です。のびのび自由で、固定観念から解放され、大胆不敵です。おそろしく幅が広く、弱音から強奏、繊細な濃やかさから強靭無比、優しい微笑みから圧倒される激しさ、感情の幅=豊かさには唖然とします。しかもどのような場面でも美しくしなやかで魅力的な音は一貫していて、耳障りな音は少しも出しません。

まさに21世紀のルネサンス、人間の自由と個性の発露であり開花です。囚われなどどこにもありません。それをもたらす精神の健全と強靭は、なんとも頼もしい。相棒のフランスのピアニスト、セドリック・ディベルギアンは10才年長ですが、アリーナの磐石の力に喜んで共調しているのが分かります。見事な名演を二人は苦闘の末に奏でているのではなく、よろこびー楽しみの行為としているのです。

だから、昨晩のモーツァルトは、いまを生きる新しいモーツァルトの新作を聴くような感動で、聴いていた私は(恐らく王子ホールにいた皆は)興奮が収まりませんでした。まさに、時代に反逆し(ウィーンの大司教や貴族と激しく喧嘩)、音楽の歴史上はじめて【自立】を成し遂げた(1781年25歳時)モーツァルトに相応しい自由で人間味あふれる音楽が、強い確信を持って奏でられました。

 古典的でありロマン的でもあり、現代音楽のようであり、さらに、フォーク(民謡)であり、ロックであり、即興的なジャズでもある。自由に今を生きる音楽は、既存のモーツァルト像を破壊し、新しくかつ現代に蘇る普遍的な音楽としてのモーツァルトを現出させたのです。これは、事件です。でも、彼女らは、なんの気負いもなくニコニコとして前に進んでいきます。時代はこのようにして変わっていくのでしょう、「過去」は良性の菌の働きで肥やしとなり、消える。「今」が未来に向けて意味深く輝く。う~~ん、実に気持ちよい。

彼女は、「優秀」とか「エリート」というようなツマラナイ存在とは無縁のほんものの芸術家です。世間的な評価などは超越しています。制度の範疇(音楽大学などの世俗的価値)に収まるような人間ではありません。だからこそモーツァルトの実像を現代に蘇らせることに成功したのです。再度言います、21世紀の新作モーツァルト!!


この後、30日は、所沢のアーリーホールで無伴奏の演奏会。4月6日は、再び王子ホールでアリーナがつくった弦楽四重奏団「キアロスクーロ・カルテット」の公演です。とても楽しみ。



武田康弘

 写真は、昨年10月1日と2日に撮ったもの。昨日、それにサインをもらいました。

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自民党の犯罪・暴言・スキャンダル・使い込みetcーーただただ凄い政党!というほかないですね。

2016-03-25 | 社会批評

泥さんのFBからです。言葉もない、昨日もまた追加でしたし、なんでもありですね。
安倍首相からして、堂々たる違憲立法ですから、もうなんでもいいのでしょう。
これが「強い国へ!」「決められる政治へ!」の意味≒正体のようですが、それを支持するのは国民なので、なんとも言葉がありません。


【また自民党か 犯罪・暴言・スキャンダル・使い込みetc】
チャンシマさんのツイートから拝借

ま―た自民党か
◆告発された 自民党議員と元女性秘書2人めぐる“給与騒動”(日刊ゲンダイ)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/170936

ま――た自民党か
◆犬と外国人を比較...川口市議会の一般質問で不適切発言 議事録を削除(埼玉新聞)
http://www.saitama-np.co.jp/news/2015/12/12/03.html

まーーーた自民党か
◆須貝議員、同性愛「好ましくない」 山形市議会総務常任委で発言(山形新聞)
http://www.2nn.jp/newsplus/1450001616/

まーーーーた自民党か。
◆車内で下半身を露出 佐賀県議を公然わいせつ容疑で逮捕(佐賀新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151218-00010000-saga-l41

まーーーーーーた自民党か。
◆花田県議逮捕 和歌山県議会に衝撃 紀伊民報
http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=306171

まーーーーーーーた自民党か。
◆森喜朗元首相が慰安婦問題に持論「包み隠していく方がよいのでは」時事ドットコム
http://news.livedoor.com/article/detail/10363694/
http://twinavi.jp/…/ne…/55a8b596-f07c-4ae2-beb8-2c685546ec81

まーーーーーーーーた自民党か。
◆「傍聴者真っ赤」と神奈川県の市議ネットで書き込む –日刊スポーツ
http://www.nikkansports.com/general/news/1585095.html

まーーーーーーーーーた自民党か。
◆朝生で自民党議員が一般人(建築板金業)を装って「民主党政権時代よりよくなった」と発言
http://netgeek.biz/archives/63078

まーーーーーーーーーーた自民党か。

◆100万円超「旅費」12回の「?」馳文科相 遠藤五輪相 計2000万円ナリ
原資は国民の税金 しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/…/aik15/2016-01-03/2016010301_04_1.html

まーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆島尻沖縄担当相にまたカネの問題 文科省傘下法人から補助金受けた専門学校が献金
理事長は夫の昇氏(アジアプレス・ネットワーク) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl…

まーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆自民議員:「慰安婦は職業」…桜田氏、党内会議で発言 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160114/k00/00e/040/227000c

まーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆馳文科相に、補助金を受けた会社が958万円献金(アジアプレス・ネットワーク
http://www.asiapress.org/apn1/archives/2016/01/15104121.php…

まーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆自民松村氏を寄付不記載で告発 3500万円、熊本地検に 神奈川新聞
http://www.kanaloco.jp/article/147522

まーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆「自民党神戸」政活費流用 神戸市議会の告発状受理 兵庫県警
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201601/0008758354.shtml

まーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆外国人派遣会社:遠藤五輪相に予算化要請 創業者が献金 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160204/k00/00m/040/158000c

まーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆政務調査費返還訴訟:自民会派と15人に2080万円返還命令 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160205/ddl/k26/040/458000c

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆自民支部、佐藤ゆかり議員側告発へ…200万円資金処理問題で政治規正法違反 
代理人「虚偽告訴で告訴も」 産経新聞
http://www.sankei.com/west/news/160215/wst1602150040-n1.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆市長への贈賄申し込み疑いで逮捕 佐世保市議、太陽光発電で 共同通信
http://www.kyoto-np.co.jp/poli…/article/20160217000093/print

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆丸山議員の憲法審査会発言に「暴言」批判 撤回謝罪 テレ朝ニュース
http://news.tv-asahi.co.jp/news_pol…/articles/000068551.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆また閣僚不祥事か 林経産相に「税金320万円」ネコババ疑惑 日刊ゲンダイ
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/175553

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆政治資金でコンサート代 自民・前田議員の団体 函館で2人分
http://dd.hokkaido-np.co.jp/…/soc…/society/1-0239740-s.html…

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆自民・豊田参院議員私設秘書 警官の尻蹴って現行犯逮捕
http://www.sponichi.co.jp/…/02/28/k…/K20160228012117370.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆安倍首相補佐官の暴行を元秘書が実名告発 | スクープ速報 - 週刊文春WEB
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5927

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆告発された 自民・猪口議員“出所不明金”517万円の言い訳 日刊ゲンダイDIGITAL
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/176606 … #

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆“政活費でバー”違法/東京・千代田 自公区議に返還請求へ/住民の訴えを東京地裁認定
http://www.jcp.or.jp/…/aik15/2016-03-13/2016031304_02_1.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆「おかまに行政支援は不要」市議が発言撤回 新潟・三条:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASJ3G4RK7J3GUOHB00N.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆大分県議が年6万キロ走行、燃料代245万円を計上 政務活動費、監査請求へ
http://www.sankei.com/politi…/…/160314/plt1603140041-n1.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆石崎徹議員、秘書にセクハラ行為か 「週刊新潮」が報じる(ライブドアニュース) -
http://news.livedoor.com/article/detail/11301434/

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆自民3議員、寄付不記載か - 中西財務政務官ら、告発状
http://news.mynavi.jp/news/2016/03/15/628/ … マイナビニュース

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆「巫女のくせに何だ」自民・大西氏がまた失言 「誘って札幌の夜に説得をしようと…」とも
http://www.sankei.com/politi…/…/160324/plt1603240034-n1.html

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆自民党参院議員が白昼堂々の“暴力沙汰” JA関係者を殴る
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/177926 … 日刊ゲンダイDIGITAL

まーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーた自民党か。
◆林経産相 政治資金の「私物化」?自らに1850万円「寄付」
原資の大半は政党助成金 しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/…/aik15/2016-03-24/2016032415_01_1.html

 
 
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古舘一郎 報道ステーション・文字起こし。ナチスの言葉と手法は安倍政権と酷似!強い日本を!

2016-03-23 | 社会批評


麻生副総理の「ナチの手法を真似ればいい。」という言葉通りの事態が進行しています。




たいへんな努力で、文字起こしされたblogをシェアーします。

ぜひ、拡散を。

https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=108461

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反公共ー違憲の安倍内閣(国体思想)を批判できないのでは、近代社会に生きる人間とは言えません。

2016-03-22 | 社会批評

安倍という権力を私物化する男の国体思想(ゲスの極み)を批判できないようでは、恥ずかしくて生きていられない、とわたしはいつも思います。
もう9年近く前(第一次安倍内閣発足の直前)から繰り返し、新聞や本に書き、blogには連続で書き続けてきましたが。

マスコミ経営者も少しは矜持をもったらいいと思います。権力にヘツライみっともなく生きて死ぬだけでよいのでしょうか?それで人間として恥ずかしくないのでしょうか?

戯けの権力意思(反公共)とは闘うのがほんとうの人間でしょう。
面と向かって「戯け者!」とガツンと言えないのは不思議です。

 女々しく、失礼、男々しく(笑)生きるのではなく、「天上天下唯我独尊」(自帰依ー法帰依)という人間としての自己に尊厳をもち、堂々と生きるのがほんとうの人生です。

ヘツライ人間ばかりでは息が詰まります。
優れた教育は成り立ちません。
精神の自立がなく、アナクロニズム(時代錯誤)の権力意思に従う人であっては、生きている価値に乏しい、わたしは強くそう思います。

 

武田康弘

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いよいよ戦前へ、残るはネットのみ、安倍恐怖政治への大きな一歩。ゲスの極み!

2016-03-18 | 社会批評

安倍政権の圧力で降板、NHK国谷裕子が『クロ現』最終回でSEALD奥田愛基を取り上げ“最後の一刺し“

リテラ / 2016年3月18日 7時30分

・・・・・・・・・・・・・

・・・・・実際、奥田氏は昨日の放送前に、〈NHKの人からはずっと取材はされてたのですが、一度も企画通らずで、最後の最後で放送されることになりました。〉とツイートしている。たしかにVTR中にはTシャツ姿のSEALDsメンバーが登場しており、長く取材をつづけていたことがわかる。つまり、制作側としては実質上の最終回だったからこそ放送できた......ということなのだろう。

 若者が中心となって立ち上がり、多くの市民が後につづく一大ムーブメントを生み出した。これは紛れもない事実だが、そんなことさえ最終回でなければ放送できなかった。──情けない話だが、これがいまのメディアが置かれた状況なのだ。

 NHKの籾井会長は「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と、公共放送のトップにあるまじき発言を行ったことがあるが、いままさにNHK全体が、そして民放も、その言葉通りになりつつある。事実、高市早苗総務相の「電波停止」発言に対して抗議声明を出したジャーナリストたちのひとりであるTBSの金平茂紀氏がTBS執行役員から退任すると発表されたが、これもまた粛正人事だという声もあがっている。

 国谷キャスターにつづいて、膳場キャスターと岸井氏が25日に、古舘キャスターは31日をもってそれぞれの番組を去る。国谷キャスターは多くを語らなかったが、膳場・古舘キャスターにはぜひ最後に、メディアの危機的状況について言及してほしいものだ。
(水井多賀子)



 
  この記事を読めば、いかに安倍スタイルの独裁政治が完成に近づいているかがわかる。 「ニッポン主義」(国体思想)の愚かさ再びで、主権者を国民とする戦後民主政は風前の灯。つぎの選挙で安倍自民が勝てば、いよいよ日本式恐怖社会(真綿で首を締めあげて反対派は息の根を止められる)へ。右翼と保守が一元支配するニッポン。安倍首相が見事な見本を示すように、このじわじわと首を絞め、社会的に相手を抹殺する手法は、わが「先進国」における独裁の方法、北朝鮮のような下手くそなのとは訳がちがい、馴致主義。だんだんと国民を慣れさせて、言うことを聞かぬ者は、みなが無視するようにもっていく。なんと素晴らしい占脳=染脳の手法でしょう~~~。世界に冠たるニッポン式です(笑笑)ーゲスの極み。

市民精神をもつわたしたちは、「下種の極み」に過ぎぬ姑息な権力者などはるか下に見おろす者です。お笑いレベルの安倍グループの政治屋など蹴散らして進みましょう~~~!!それが公共善です。

ほんらい主権者のものである国家権力を私物化して自分の思いを果たす、これ以上はないゲスです。


武田康弘

 

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「国が、国は、国側???」=詐術にすぎぬ言い方 。騙(だま)し、騙されるわが日本人、哀れで愚か。

2016-03-13 | 学芸

 毎日毎日、ニュースや社会解説番組で、何百回も繰り返される「国は」「国対住民」「国側勝訴・敗訴」、国、国、国。

 ここまでウソというより詐術の言葉を繰り返すマスコミ関係者、あるいは、評論家は、【国語科の学習・社会科の学習】の内容を身に付けているのでしょうか?
大学入学試験に合格しても何も分からない=丸覚えとパターンの刷り込みだけで、ほんとうのことは何も知らない人だらけのようですね。
もしそうでないなら、明治維新の末裔(主に長州藩の下級武士たち)とその従属者である今の政府関係たちに脅されて、あるいは誘導されてそう言っているのでしょうか?

 国は、ではなく、 政府は、あるいは官邸は、であり、または、通産省が、財務省が、文科省が、です。
いまの政府の意思に過ぎないものを、国は、という。いまの官邸の意向でしかないものを、国が、という。官僚たちの集合意志=惰性態でしかないものを、国側は、という。

 現在の日本国は、主権者を市民=国民とする民主政なのではないのですか(憲法第一条にある通り、天皇は象徴であり、その地位は、主権の存する日本国民の意志に基づくのです)。

 明治天皇所持の伊藤博文の写真(宮内庁が公表)
憲法作成者の伊藤博文は、大日本帝国憲法は、天皇から恩寵として臣民に与えられるものであり、「主権が国民に変わることは永久にない」と教説)


 無条件降伏による敗戦までの明治憲法(大日本帝国憲法)では、主権は天皇にあったのですから、民主政の前提である「人民主権」とは異なりましたが、現憲法では、主権者(国家権力の源泉)は、わたしやあなた=国民にあるのです。小学校の教科書に記載されている通りです。これは、原理・原則です。明治以降の「天皇という名を利用した官僚政府」にあるのではありません。

 主権者を天皇から国民への大転回をはたしてから70年経ちますが、いまだに、政府や官邸の意思を、国の意思だと言う!!!????もう、これは、低脳か詐欺のどちらでしかありません。「上官の命令は国イコール天皇の命令である」という戦前思想は終わったのではないのでしょうか。

 きちんと言葉を使わないで、政府・官邸の意思や官僚組織の都合のことを「国」と呼んだのでは、政府批判も官僚批判もできなくなります。「おい、お前、【国】に逆らう気かなのか!」(これは、自民党の桜田衆議院議員が、我孫子の一市民にみなの前で言った言葉です)。

 国という言葉には、大きく3つの意味があります。わざとごちゃ混ぜにして、政府の方針への批判をしにくくする詐術はもういい加減にやめなければいけません。
国の主人公は、わたしでありあなたです。国は、わたしとあなたの意思とお金を出し合ってつくるものです(それが「社会契約」の意味本質)。わたしとあなた=公共の意思とは別に国家権力があり、公共の意思に逆らう国家権力がある、というのならば、言うまでもなくその権力は正当性を持ちません。

それにしても、ある特定の考え方や政策を、「国」の方針だと言い、まるで、国という生物あるいは物体が存在するかのように錯覚させるというのは、北朝鮮も真っ青な恐るべき詐術というほかありません。

  マスコミ関係者や官僚政府のみなさん、これからもまだ詐欺の言葉を使い続けるのですか? もし良心があるなら、変えなさい。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員=日本国憲法の哲学的土台を講義)


 
☆簡潔なまとめを記します。

  主権者を人民(民衆・民・市民・国民)とする社会を民主政社会とよびますが、民主政社会における国(国家)とは、主権者であるあなたやわたしの意思(これを「一般意思」といいます)により、つくるシステム(制度・組織・体系・体制)のことであり、それ以外ではありません。...

 政治レベルで話題となる「国」または「国家」というのは、自立した一人ひとりの考え(一般意思)とお金(税金)によりつくるシステムのことです。国という実体がどこかにあるのではなく、国とはシステムのことで、それ以外ではありません。

 政治レベルの話とは異なる、言語とか歴史とか生活習慣という意味での国は、ネーションであり、それは文化的レベルでの話です。また、故郷という意味での国は、カントリーで、気候風土など自然レベルの話です。

 政治レベルにおては、責任の所在を明確にすることが何より重要ですから、きちんと、政府は、官邸は、○○省では、と言わなくてはいけないのです。国は、という曖昧な言い方は、騙しの言語にしかなりませんし、問題の所在を不分明にする詐術になります。それは犯罪行為とさえ言えます。心しましょう。

 政治レベルの話でしかないもの=国のありようについての特定の見方や主張や解釈に、文化や風土レベルの話ダブらせて、まるで日本という実体(物)が存在するかのように思わせるというのは、極めて悪質な占脳ー染脳です。それにより、人々の自由な意識を縛り、特定のニッポン主義の思想に気づかれぬように誘導するわけです。

 これは、明治の維新政府以来続く日本の悪しき「伝統」で、国体思想とよびますが、まさにシステムを実体化させてしまうのですから、「国体」です。政治的なレベルの国(政府の思想)が、体になり固定化されて惰性態となるのです。個々人の自由を元から奪う恐ろしい思想です。


武田康弘

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日本政府死ね! は、日本人みなの心の声です。

2016-03-13 | 社会批評




震災ー原発事故から5年、

歴代保守政権=原発村(利権の構造ー甘い汁)による原発大推進政策の見事なまでの成果が、前代未聞の原発爆発事故ー未曾有の放射能の流出と今も続く垂れ流しです。

海外から見れば、事故処理をしないに等しい日本政府と、原発オーライという政策のあまりのバカバカしさに、悲劇を通り越して喜劇としか見えないはずです。低能の集まり=ニッポン人。

福祉はなし、海外には安倍のバラマキ、米軍には安倍のヘツライ、国内には企業との安倍のネンチャク、僕んちは、お金あるからね~~。でも、自腹じゃなくて、みんなの税金使うんだよ、僕の好きなようにね~~。

「日本死ね!」が共感され、リアリティをもつのは当然の話。

違憲の法案をつくり、武器輸出をし、戦後の国是をひっくり返すことをよろこびとするイカレタ権力者が白昼堂々と歩くニッポンーそれを許す底なしの奴隷根性のテレビ人。

だから、震災ー原発事故を利用されて、逆にもうとっくに終わっている戦前回帰=「1億総〇〇」になるのです。株価を政府が釣り上げる危険な行為を是とするのは、【スケベ根性】にドップリつかる人々のおかげ。

みんなでわたれば、みんなでせきにん、みんななかよく、みんないっしょ、みんなにっぽんじん、みんなちからをあわせ、みんなほしゅ、ほしゅ、ほしゅ。はい、みんなでおわりましょう~~~(でも、お金持ちと権力者は大丈夫ですよー安倍のミクス~~)。

わたしは、みんないっしょ、ではなく、「私」として「個人」として生きます。

実は、みなが「個人」としての誇りと独自性をもち、権力にへつらわず、自由と責任で生きる覚悟をすると、安倍のなんとかかんとかという下品でおバカで危険で非人間的な「おめでたいニッポンチャチャチャ」(バカ丸出しの一億みんな一緒病)は消滅します。わが日本人は【スケベ根性】からの脱却を成し遂げましょう!!えっ、無理ですって?それではほんとに終わってしまいます。


武田康弘

(注)

こ誤解された方がいますので、説明します。

【すけべ根性】とは、
善美への憧れや真実を求める気持ちなしに、あるいは、努力することなしに、欲しいものを我が物にしようとする心のことです。
また、他者の成果を盗んで、得をとろう=我が物とする心とも言えます。...
漁夫の利を得る、ということわざがありますが、【すけべ心】で生きている人は、善も美もなく、狡知(頭はよく欲深)で、心身からイヤラシサが滲み出ています。

誤解された方は、性の問題(「男はスケベ」)と見たようですが、性欲は、スケベと言う意味ではありません。食欲がある、食欲が出てきた、というのはプラス価値ですが、それと同じで、性欲は、健康な証拠ですから、非難されることではありません。性への関心は人間性への関心と重なるもので、プラス価値です。

「すけべ根性」をあえて性のレベルで言えば、相手の心身の「よさ」から生じる美質に惹きつけられる心なしに、女性をただ「女」としてだけ見、遇するような心でしょうか。逆も言えますが。

 

 

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超おすすめのショスタコーヴィチの名盤

2016-03-12 | 趣味



超おすすめのショスタコーヴィチの名盤  CD(SACDハイブリット)です。


1・チェロ協奏曲第1番
2・ピアノ協奏曲第2番
3・ヴァイオリン協奏曲第1番

1: ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc) ユージン・オーマンディ(指揮) フィラデルフィア管
2: レナード・バーンスタイン(Pf/指揮) ニューヨーク・フィル
3: ダヴィド・オイストラフ(Vn) エフゲニー・ムラヴィンスキー(指揮) レニングラード・フィル

1と3は初演者による演奏ですが、もう黙るしかない超絶的な名演です。
1950年代後期のステレオ録音初期のものですが、すばらしい音です。鮮明でかつ聞きやすく、とても古い録音とは思えません。当時の録音水準の高さに驚かされます。

オイストラフの余裕感のある超絶技巧と艶やかなヴァイオリンには、感動を通り越して呆れるほどですし、ムラヴィンスキー・レニングラード・フィルの上手さと作曲者との一体性は言うまでもないこと。
ロストロポーヴィチも同様に凄い技巧と色気たっぷりのチェロです。オーマンディ・フィラデルフィア管のゴージャスな響きとピタリで、気持ちがよい。
バーンスタインは、弾むように軽やかで、かつ情熱的。オシャレな感覚で楽しく美しい。

いわゆる歴史的名演集ですが、美しい音で、とても新鮮に聞こえます。
フランス・パリ発の見事なCD(SACDハイブリット)です。何度聴いても、う~~ん、すばらしい。


武田康弘

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ショスタコーヴィチの音楽は、状況を引き受ける「個人」としての人間の声でありドラマだ。

2016-03-10 | 学芸
 
 (写真は交響曲のみ)

 ショスタコーヴィチの音楽は、社会主義リアリズムに基づく音楽ではないが、神や宗教の音楽でもなく、自然の音楽でもない。 彼の音楽は、個人の音楽だ。それは、理想的な人間性という麗しきお話ではなく、赤裸々な「私」の開示=「個人」のドラマである。悪しき思想と社会の状況を引き受ける個人の感情と意思と想念が発する声だ。

 「私」の内面世界を大胆なまでに肯定し主張するショスタコーヴィチの音楽は、なにものにも侵されない「個人」の偉大さを露わにする。

 わたしは、彼の音楽を「20世紀の抒情性」と呼ぶが、それは、たとえ暴力と圧政が去っても、管理の網の目で「個人」が消去される現代に生きる人間の人間的な叫びであり、通常の意味での勝利を超えた≪底知れぬ勝利≫である。ショスタコーヴィチの音楽は、個人こそが最後の拠り所であることの鮮やかな提示であり開示なのだ。

 ユーモアを超えた嘲笑、
 シリアスな皮肉、
 悲劇を喜劇にもする精神の強靭、
 叩きのめすような強さ、巨大な力、
 弱音の支配、
 相反する感情の交錯、
 前進と後戻り、
 錯綜とシンプル、
 勇猛果敢な挑戦と停滞。
 不条理と暴力の支配に超然として立ち向かうかと思えば、
 動かしがたい状況の中で苦悶に沈む。

 左右の全体主義の前に無力な個人、呆然と立ち尽くし、何もできない個人。しかし、状況に決して埋もれない個人、誇り高き個人。 
どこまでも人間味に溢れ、負けない【個人】こそは、この世界の闇を煌々と照らす輝ける存在だ。個人の前に、悪しき権力は牙を抜かれ、個人の前に、絶対神は退散する。 

 古代、必然の神アナンケが支配する暗黒の厳禁世界を変えたのは、アナンケを打ち破った恋愛の神エロースであった(プラトン「饗宴」)。恋愛の感情は、個人の象徴であり代名詞である。 

 わたしは、21世紀を個人の世紀としたい。新たな革命とは、個人の価値に目覚めること、「個人の宇宙」を超えた世界など存在しないことの大胆な宣言である。

 われわれは20世紀の偉大な交響曲を二つもっている、異なる状況と視点から「個人」を謳ったマーラーとショスタコーヴィチだ。 もちろん、個人の多面的な感情世界を肯定し表し、大胆なまでに内面の思想と良心についた先駆者にして偉大な金字塔を打ち立てたのはベートーヴェンだが。



武田康弘
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プラグマティスト 現象学 フィロソフィの方法と本質 ・・・内田卓志⇔武田康弘

2016-03-08 | 恋知(哲学)


武田先生

 社会と政治の前に回答と現象学のことをちょっと質問をします。
  ちょっと長くなりました。よろしくお願いします。
  ...
以下回答と質問です。

 まず、私へのご質問からお答えします。私が、プラグマティストといっている人は、先生が主張されているフィロソフィ、そのようなフィロソフィをする人、行う人のことを個人的に広義に解釈してそう呼んでいます。

 ご存知のように、一般的には、哲学史でいうところの「プラグマティズム」の哲学者、パースやジェイムズやデューイらを代表的なプラグマティストといっています。
  また、プラグマティズムという言葉が、ギリシャ語に由来しており、パースは、カントを学び、そこからつくった概念だとか本には書いてあります。
  プラグマティズムでは、「思考は行為の一段階である」と考えます。思考だけでは不十分です。「行為する・活動する」ことが大切です。私は、「フロソフィする」こととして、具体的な経験の場面で、思考の作用が何らかの行為や働きとなって表れてくることを強調したいと思います。

 以上の意味で私にとって武田先生は、正に「プラグマティスト」です。武田先生は、皆さんが認めるように、ダイナミックな方ですよね。よって、私の中でのプラグマティストとは、ジェイムズやディーイを学んでいるとか、その学説を支持する人などの意味ではないのです。

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 そして、盛りだくさんのご回答を頂きありがとうございます。キリスト教やスコラ哲学までも触れて頂きました。

 白紙に戻して見る、大元を探る。そうすれば今までの既成の見方や価値観 に囚われることが減り、頭が自由に動き、言葉と行為に幅と深みと面白味がでる。生活に仕事に自ずと役立つ、それが先生のおっしゃるフィロソフィですね。

 事物を白紙に戻して見る方法にも言及されました。それは、感覚とイメージによる認識といわれます。ーーー「出来合いの言語がつくる意味とイメージに囚われずに、世界を言葉の介在なしに直接見る練習が必要です。いわば始源―白紙に戻して世界 を感じ知ろうとするのです。街中でも自然の中でも芸術作品を見たり聴いたり触れたりする中でも、言葉を介在させずに、そのまま見る・ 聴く・感じるのです。そういう練習がとても大切で、それを意識して行うことがフィロソフィの基盤となります。」(武田)
  
  以上のようなことは、大人の私にとっては難しいことです。先生がいわれるように、大人が幼児の思考を取り戻す作業を意識的にしてみること、練習してみることは、まことに必要なことと思います。 

 私は、美術館や博物館で芸術作品を見たとき、その作家の名前で作品の価値を判断していないか? 私は、コンサートに行き音楽を聴いたとき、その演奏の良し悪しを演奏者の社会的評価で判断していないか?日常の生活で、無意識に色眼鏡をかけて人を見ながら、その場その場の出来事に対応していないか?新しい仕事に携わりチャレンジが必要な時に、必要以上に過去の慣習に囚われていないか?

 先生のいわれるように行為してみると、日常の生活に仕事に、具体的なレベルでどのように役立つのか、その実感は正直いって今はありません。直感的に、必要な行為だと分かります。意識して、練習してみましょう。ただ、この練習は毎日毎日絶え間なく行っていく行為です。大人の私は、言葉の世界にどっぷりと浸かって生きています。きっと練習の成果として、事象を白紙の気持ちで真正面から見ることが可能になるでしょう。その行為が、常に反射となって習慣化、日常化したとき世界が変わって見えるかもしれません。

 私は、武田フィロソフィによって、生活の具体的経験の場における対象への見方や振る舞い方を学びます。地味な行為と思いますが、積み重ねて行くしかないでしょうね。このような方法論的な話は、大学の哲学の授業では聴けないし、哲学の本にも書いていません。

 先日白樺教育館へ行きました。30年以上前から武田フィロソフィと共に歩んだ方々とお会いしました。なぜそんなにも長い間、フィロソフィを介して交際ができるのだろうと素朴に思います。そこに武田フィロソフィの秘密があるのでしょう。

 伺ったことに関連してちょっと伺います。私は、このような認識方法をもちいるとき、現象学の難解な論理を具体的な経験や現実の生活の場に、活かしいくことに繋がると思いました。私は、現象学についてほとんど分からないのですが、そう直感しました。武田先生は、現象学との関係でどのように考えておいででしょうか。

内田卓志

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内田さん
  はじめに、現象学へのご質問にお応えします。

   クリックで拡大

 青白く見える、ギーギーという音が聞こえる、ベタベタしている、というような、直接的に与えられる感覚所与を「内在」と呼びます。
それは、わたしにとって動かしがたい 感覚ですので、それを疑うことはできません。内在として与えられたものは、認識の究極の基盤です。
青白く見えたものを、別の場所で見た ら紫色に見えた、ということはありますが、その時にそのように見えたという感覚=内在的知覚は絶対です。
  
 その内在としての知覚こそあるゆる人間認識の最後の拠り所であることの自覚、それが現象学の核心であり、認識論の原理中の原理です。
 
具体的な事物、例えば、机とかカバン という認識は、それがもしかすると机やカバンとしてつくられたものでない可能性が残りますので、「疑える」のですが、内在として与えられた感覚与件は「疑うことに意味がない」=疑えないのです。

 これがフッサール著「イデーン」Ⅰー 1(みすず書房刊)の第2章46「内在的知覚には疑わしさがないこと、超越的知覚には疑わしさがあること」の意味です(超越的知覚とは、机やカバンという認識のこと)。

 
 この簡明な認識論の原理(「内在」)を明晰にすること=深く自覚することが、フィロソフィの最大の眼目だとわたしは考えてきました(20数年前の小論文に記載)。

 なぜなら、幼いころから記号(数字や言語)の操作を優先する学習を強いられると(現代の「優秀者」にはそのような人が多い)、内在としての知覚が希薄になり(そのことを本人は自覚しない)、認識は、人間の健全性や有用性から離れてしまいます。数字や言語が先立つ紋切型となるからです。しかも「記号ないし言語至上主義」という歪みを自覚できずに、それが却って己の優秀さの証だとさえ信じ込みます(いわゆる「東大病」)。

 これは心身全体での会得=五感をフルに用いての健全な認識と対極です。観念主義=様式主義=型ハマリ=デジタル的な白と黒という認識を「正しい」「優れている」と思い込むのですから、とても困った「現代の病」といえます。

ーーーー
 まず、なぜフッサールの認識の原理論(現象学)を自覚することが大切なのかにお応えしました。フィロソフィの原理(=土台)である認識論を明晰化するのはフィロソフィ(人間が物事を元から考えること)の前提ですので。
 次に、ご回答とご質問の全体についてまとめてお応えします。
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 もともとフィロソフィとは、持ち運べるような「真理」の体系ではなく、元に戻して(幼児の目で)世界を見直すという実践をさしますので、生活世界の中で有用に考える実践をするという意味では、【プラグマティズム】と言えるでしょうし、また、どこまでも「私」の内在から世界を見、知るのですから、【超越論主義】(フッサール現象学)とも言えますし、「私」の意識を原理とするのですから【実存主義】とも言えますし、無意識領域までも意識化しようとするのですから【構造主義】とも言えます。
  また、「私」の想像力に基づく思考を基底に置くのですから、必ず「個人」という概念を必要としますので【個人主義】でもありますし、それを可能にするには民主的社会(互いを対等な存在と見なし自由を相互に尊重し合う社会)を要請しますから、【民主主義】者でなくてはなりません。

 いま、強調するためにあえて、〇〇主義、とか〇〇主義者と書きましが、ほんとうは、フィロソフィと、「主義」や「宗教」は相いれませんので、「主義」ではなく「論」と言うのがよいのです。特定の見方や立場に囚われずに、柔軟で自由な見方がフィロソフィの本質ですから、特定の政治思想、例えば、明治政府がつくった靖国主義を前提にする思想とは次元を異にしますし、靖国主義のようなアナクロニズムでなく、進歩的と思われる思想にしても、それを「主義」として固定してしまえばフィロソフィとは言えません。フィロソフィは政治運動でも宗教運動でもなく、「私」が自他の人間性を肯定して内からの悦びや輝きをもって生きるために必要な最も人間的な営みだ、とわたしは思いますので、わたしは自覚的なフィロソファーであり、同じことですが、恋知者です。

 というわけですから、フィロソフィとは、ある意味では確かに内田さんの言われる通り、「地味な」行為=活動でしょう。しかし、その地味な営為は、「すべての有を支える無」とも言えますし、根源的な問い=フィロソフィなくしては、どのような人間の活動も意味を持たない=意味付かないのですから、すべてを支える大地であり、すべてを包む海であり、すべてを輝かす太陽でもある、と思います。人間が人間として生きる(特定の職業人としてではなく、特定の宗教者としてではなく、特定の主義者としてでもなく)ためには、何よりも必要な営みではないでしょうか。

 「日本にフィロソフィなし」と言われますが、それは、残念で、危険で、愚かで、不幸なことです。


 

 武田康弘 3月8日 

 

 

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明後日、9日(水)は、【恋知の会】 システムドレイからの脱却ーどうしたら「個人」=「人間」になれるか?

2016-03-07 | 恋知(哲学)

明後日、9日(水)は、【恋知の会】です。
13時開場、13時30分開始ー白樺教育館。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




【個人】を消去しようとする安倍グループの国体思想から、なぜ日本人は脱却できないのでしょうか?

政治の左右を問わず、【個人からの出発】を嫌う精神風土では、民主政=主権者を市民とする自治政治は、本質的に不可能です。

まず、どうしたら個人になれるのか?この深く本質的な問いを追求することが、公共問題の前進のために必要でしょう。

システム 内 人間=組織 内 人間=国家 内人間にさせられてしまう元凶は、【受験 内 生徒】というパターン奴隷をつくる思想と制度にあるとも言えますが、この民主政とは相いれない考え方は、戦後民主主義の「逆コース」と関連しています。主権者が国民に変われたのも、逆コースで、戦前支配者が再び日本の中心者になってしまったのも、みなアメリカのおかげです(笑えない笑話)。その意味で、戦後日本人の精神構造=価値観と生き方の捻じれは、政治と深く結びついていると言えます。

ともあれ、われわれは、どうしたら【人間】になれるか、【個人=精神的に自立する存在】になれるか、です。「事実人」から「人間」へ。

【序列と型】、二つの概念にすべて収まる社会では、エロース=幸福に乏しいですので、文化のありよう=考え方=生き方を動かしていくことが、とても大切だと思います。

ーーーーー
 (注)1947年の「逆コース」とは、民間人(高野岩三郎・鈴木安蔵ら)による憲法案を基に「日本国憲法」案をつくったアメリカ民生局の民主主義派から、タカ派のトルーマン大統領の国家主義派(日本を対ソビエトの防波堤にする)への転換のことを言います。占領からわずか2年もたたずしての急旋回は、その後のさまざまな矛盾の原因となり、戦前の日本権力者たちの復古的な保守主義を再興しました。A級戦犯の安倍の祖父(岸信介)が戦後に総理大臣になることができたのも、いま安倍首相が強権をふるえるのも、「逆コース」ゆえです。(武田康弘)

ーーーーー

飛び入り参加も歓迎しま~~~~す。ただし、参加費2000円がかかります(半年会費は8000円です)。

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ショスタコーヴィチの優れた解説書ー千葉潤著、音楽の友社。

2016-03-01 | 芸術

いま出したfbです。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=973200199441016&set=pcb.973201079440928&type=3&theater

本を先に読むのはよくないので、聴かれてからどうぞ。
チョスタコーヴィチの場合は、あまりにも激しい革命と戦争と圧制の中での作曲でしたので(周りの人間は次々と 流刑、銃殺、死刑)、状況を知るのも必要と思います。
いまは、といっても、もう10年前ですが、優れた本が出ています。
わたしがおすすめした交響曲全集を買われた方は、ぜひ。

わたしが鈴木英男君とムラヴィンスキーの初来日で聴いたのは、ショスタコの6番でしたが、その時(1973年)はまだ存命、その2年後に遺作「ヴィオラソナタ」が初演されたとき、ムラヴィンスキーは慟哭に身を震わせていた、との記述には感無量。

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