思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「公・私・公共三元論」の現実的機能について (荒井達夫)

2007-01-17 | 恋知(哲学)

荒井達夫さんから公共哲学の「公 公共 私」の三元論に対しての疑問がメールで寄せられましたので、以下に載せます。極めて重要な論点だと思いますので、公共哲学の関係者は、ぜひ深く受けとめ、コメントしてほしいと思います。けだし、公共哲学の生命線は、開かれていることだからです。
武田康弘


「公・私・公共三元論」の現実的機能について 荒井達夫

政府の公、公=官という「公・私・公共三元論」を原理として認めた場合、それが現実にどのように使われることになるのか、考えてみることが重要です。
政府の公、公=官と私を媒介する中間項として「公共」を置き、「公共知」の創出を図らなければならない。では、「公・私」と異なる「公共」とは何か。「公共知」とは具体的にどのような知を言うのか。まったく不明です。
これを聞いて、何かしろと言われたら、霞ヶ関の官僚たちは、間違いなく、審議会やパブリックコメント(意見公募手続-行政手続法第6章)を思い浮かべるでしょう。タウンミーティングもそれに含まれます。どれも行政に民の意見を反映させるための仕組みです。これが「公共」。そして、これらの仕組みの中でまとまる考えが「公共知」ということになります。こうした理解を否定する理由はないでしょう。官を統制するために民の意見を聞くのですから、「民の公共」実現のための仕組みに間違いありません。
しかし、審議会は行政の隠れ蓑、大臣の責任回避の道具として使われていると非難されたため、中央省庁等改革で審議会意見の尊重義務の法律規定が削除されました。また、パブリックコメントも、民主的手続と言われて導入されたものの、今日各省の政策実施のアリバイ作りの手段と化している危機にあります。タウンミーティングに至っては、最近の「やらせ質問」で見るも無惨な状況です。
「公・私・公共三元論」が公共哲学の原理であると教われば、公務員は何の疑問もなく、善意も悪意もなく、それを覚えて実務で実践することになるでしょう。税金をどんどん使って、審議会を作り、パブリックコメントやタウンミーティングを行うのです。「民の公共」実現のため、という名目で。そして、現実の害悪発生については、今以上に無神経になるでしょう。何しろ、仕組み自体は哲学的基礎が与えられるのですから、これ以上信頼に足るものはありません。「公共」実現を責務とする全体の奉仕者である公務員は、自信を持って職務を遂行することができるのです。
「公・私・公共三元論」を主張する公共哲学者は、このような行政運営の実態についてどれほど考えているのか、疑問に思います。現実を直視した地に着いた議論をしてほしいものです。
なお、「民から開く公共哲学」である白樺思想では、公と公共の区別はなく、特に「民の支持しない公」を認めませんから、話は簡単です。個々具体のケースにおいて、審議会やパブリックコメント、タウンミーティングが、官を民主的に統制する手段として不可欠かどうか、また現実において実質的にそのように機能しているか、つまり「民の支持する公」を直に問うだけだからです。(荒井達夫)







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