思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

昨日からの続きのコメントですー「公共哲学」論争。

2009-06-29 | メール・往復書簡
金氏の発言に関して (山脇直司)
2009-06-28 16:56:23
公・公共・私の三つを並べて「三元論」を主張しているのは、山脇さん(山脇直司東大教授)らである、と言っています。
とあるのはどういう神経でしょうか!私は並列的な三元論はとっていません。どこまでも「民の公共」を基盤として、「政府の公」の正当性を考える民主主義思想を展開しているのです。
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公・私・公共三元論とは何か (荒井達夫)
2009-06-28 19:48:53
「公・私・公共三元論」は、あくまでも「現状説明のための理論」として見れば、日本国内の諸問題を考える際に有用な視点を提供する理論と言えるのではないかと思います。例えば、薬害肝炎問題は、厚生労働省における「公」と「公共」の乖離の問題と言うことができますし、また、防衛省事務次官の汚職事件は、「滅私奉公」が「滅公奉私」に転じた事件として説明できます。問題の重要な側面を際立たせて、わかりやすく説明できる理論と言えます。ところが、「公・私・公共三元論」を哲学思想の大元の考え方であるかのような説明がされているために、主権在民(民主制原理・国民主権原理)との整合性を考えれば著しい論理矛盾となり、また、主張の全体が曖昧で不明確、さらには意味不明なものになってしまっていると思います。

公・私・公共三元論とは何か2 (荒井達夫)
2009-06-28 22:51:24

佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)では、編集方針として次の4点を掲げております。ですから、これらが学問としての公共哲学の代表的見解と言えるのではないか、と思います。普通はそう考えるでしょう。

①公共性を、個を殺して公に仕える「滅私奉公」のような見方ではなく、個が私を活かし、公を開く「活私開公」という見方でとらえる。
②従来の「公」と「私」という二元論ではなく、「公」と「私」を媒介する論理として「公共性」を考える。
③公共性の担い手について、国家が独占するという観点よりは、市民や中間団体の役割を重視するという観点から議論を進める。
④グローカル(グローバルかつローカル)なレベルでの公共性について積極的に考慮する。

ここで、重要な点は②にあり、これを単なる「現状説明のための理論」としているのか、「哲学思想の大元をなす考え方」としているのか、が問題です。前者であれば「哲学以前の問題」であり、後者であれば「現状認識と原理的思考の混同」になると思います。
白樺思想と大学の公共哲学 (荒井達夫)
2009-06-29 00:20:05
以前、白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会が行われました。その後に私が書いた論文です。今になって非常に参考になると思いますので、是非お読みください。金泰昌さんの依頼で書いたにもかかわらず、「公共的良識人」に掲載されなかったものです。現在、白樺教育館のホームページで公開されています。

83. 幻の「白樺特集号」『公共的良識人』07年2月号掲載予定の原稿公開

白樺思想と大学の公共哲学

白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会や討論会が開催され、私はそのほとんどすべてに参加してきました。それらを通じて、私は、白樺教育館で行われている哲学の実践と大学の公共哲学には本質的・根本的な違いがあることを知りました。
 例えば、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」では、あたかも「公・私・公共三元論」が公共哲学の原理のように書かれていますが、民主制社会において、民の支持しない官=「公」を想定するのは、原理論的には成立しないはずです。現実問題として「官」がイコール「公」であるかのような事態が続いてきたことは事実だとしても、それは原理の問題ではないと考えます。「二元論的発想ではダメだ。三元論的発想にならなければ問題は解決しない。」という言い方は、見方・方法を哲学の原理にしてしまっているように聞こえます。これでは、多くの人の納得が得られず、結局、大学人が一般人を啓蒙するという時代遅れの哲学運動にしかならないはずです。
 私は武田康弘さんが提唱する民知としての白樺哲学を学ぶことによって、大学の哲学の大きな欠陥は、書物からの哲学的知識の吸収ばかりで、生活上の現実に即して個々具体の問題を生活者の立場からていねいに考えるという作業がないところにある、と考えるに至りました。
 ただし、この点は、金さんと一般の大学人の方々とでは、まったく異なるように思われます。金さんの場合は、ご自身の強烈な実体験に基づいて哲学論を展開されており、その並はずれた説得力の強さは「公・私・公共三元論」という理論などではなく、金さん個人の人間的魅力、その存在そのものから出てくるように思われました。
 なお、金さんは、12月23日の討論会で、三元論は公共哲学の原理ではなく「用」=現実運動上の働きの理論である、と説明されました。

また、民主社会における公共哲学は「民から開く」もの以外にありえませんが、その点でも大学中心で行われている公共哲学には問題があると考えています。「民から開く」という視点は、日本社会の歴史と現状を考えれば、いくら強調しても強調しすぎることはないと言えるほどに重要ですが、大学の公共哲学では、その点の認識がまだ非常に弱いと思います。なぜなら「民の公共」と言うだけで、それが現実具体的にどういうことなのか、極めて不十分な説明しかされていないからです。また、どうしたら「民の公共」が実現するのか、その可能性を広げ、現実のものにするためにはどうしたらよいかについては、ほとんど説明がないという状況です。
 金さんが強調する「対話」(対話する・共労する・開新する)の重要性は、当然のことであり賛成ですが、では、なぜそれが今まで日本社会ではできなかったのか、どうすればできるようになるのか、そのために必要な哲学の原理は何か、を明確にする必要があると思います。

この点、白樺思想は大学の公共哲学とまったく異なります。
思想の原点を日々生きる生身の人間、生活者であることに求め、個々人がすべて異なる欲望存在であることを真正面から正直に認める。このことの深い自覚が他者に対する配慮と尊重を生みだし、そこから自ずと公共性が開かれていく。一人一人が、何より主観を大切にして、よき人生とは何か、よりよい社会とはどのようなものかと問い、自由で対等な対話を生活の中で日々実践するところに「民から開く公共」が始まる。原点を個々人のありのままの主観に置き、それを互いに鍛え合う自由対話に依拠するというのは市民社会の原理であり、世界に通用する普遍性を持つ思想だ。個々人の実存から発する「民から開く公共」は必然的に地球的規模の公共につながる。
 これは、武田さんから学んだ私なりの白樺思想の理解ですが、ここには「民の公共」の意味とそれを実現するための方策について、基本となる考え方が簡明に示されています。ふつうの人なら誰でも理解可能で、「そうなんだよな」と腑に落ちる感覚を持って実践することができる、まさに哲学の原理であると思います。一般市民において「異」を前提とする「対話」は、このような思想に基づかなければ成立しないでしょう。討論会での金さんの発言も、私が理解する白樺思想とその芯はほとんど重なるものだと感じました。
 「民から開く」という意味で言えば、大学人中心の公共哲学より市民の集まりである白樺の思想の方がはるかに優れているというのが私の実感です。また、市民が求める哲学(人生や社会のありようを深く問う哲学)が白樺の方にあるのは事柄の性質上当然であり、これは、もはや否定しようのない事実だと思います。もともと哲学も公共も、ふつうの市民の生活世界から出てくるものであり、そうである限り、大学人中心の哲学・公共哲学はその存在意義を根本から問い直す必要に迫られているように思えてなりません。

ところで、今日、公共哲学は特に公務部門において注目されつつあるようです。しかし、私は、それを大学人中心の公共哲学に求めることに強く批判的です。全体の奉仕者(憲法15条)である公務員こそ公共哲学を身につけておくべきことは間違いありませんが、そもそも「民から開く」という哲学が十分に展開されていない状況で、大学教師が公務員に「公共とは何か」を教えることは甚だしい矛盾に他ならないからです。また、公務員が「公・私・公共三元論」を哲学的原理のように捉え、それを知識として覚えるだけで、その意味や働きについて深く考えることをしなければ、形だけの「公共」となり、タウンミーティングの「やらせ質問」のような公共性に反する有害な結果を招くおそれがあるでしょう。白樺のような対等な対話・討論を生み出す哲学を背後にしっかり持たなければ、対話・討論は形だけのものにしかならないはずです。
 大学の公共哲学が公務部門において真に有用なものとなるためには、民から開く公共哲学の原理である白樺の思想を土台に、それを作り直す必要があると考えています。そのためには、大学教師も、まず一市民、生活者であるとの深い自覚の下に、その立場で思考し行動する必要がある、と自戒も込めてそう思います。それが実現すれば、大学の公共哲学は、民主社会の基礎となる市民の日々の哲学実践に対し、その哲学史や哲学説の高度な専門的知識を活かし、側面援助が可能になります。まさに本来の「哲学する」ことが実現するのではないかと思います。一人でも多くの大学人の皆さんが、一日も早くこのことを理解されるよう願っているところです。
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大きな誤解! (山脇直司)
2009-06-29 02:43:13

荒井さん、相当にバイアスがかかった投稿に思えたので、あえて反論を述べさせていただきます。実際のところ、大学での公共哲学の授業は、大学人のための公共哲学ではなく、実社会に出て行く人のための、また社会人として大学院に入ってくる人のために行われています。学会がないのもそのためです。その点をあなたは全く誤解しています。私は、権威主義的なエートスを払拭できない国家公務員よりも、地域住民に密着した地方公務員やNPOの間に公共哲学の理念が広まることを期待していますし、実際に何度も集会に呼ばれて、対話を重ねています。ところで、荒井さんは自ら絶賛する白樺教育館「以外の方々」とどれだけ多くの緊密な会話を重ねていらっしゃるのでしょうか?もしそうでなければ、貴方の意見は単なる白樺教育館のプロパガンダの記事になってしまうと思いますので、あなたがどれだけ幅広く活動をしているか、その実情を聞かせてください。
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内容的には? (荒井達夫)
2009-06-29 05:53:16

山脇さん。
「白樺思想と大学の公共哲学」、内容的にはいかがでしょうか。
私の活動について解説しても、主張が妥当であることの裏付けにはなりません。
内容的な批判を、よろしくお願いします。
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ぜひ、有意義な自由対話を! (タケセン=武田康弘)
2009-06-29 12:45:45

荒井さんと山脇さんの忌憚のない対話、とても生産的だと感じます。いいですね。

国会所属の官僚である荒井達夫さんと、公共哲学運動をすすめる東京大学教授の山脇直司さんが、従来の狭い立場を超えて、民主主義を深め広げるために思考錯誤されるのは、実に素晴らしいことだと思います。ことばの最も深い意味での「自由対話」の実践は、まさに最良の意味での哲学なのですから。

ぜひ、また直接顔を合わせて、たのしく議論と歓談をしましょう!!真の「民知」をうむためには何をどうしたらよいのか?みなの力を合わせたいですね。


コメント (1)

公と公共の分離を柱とする「公共哲学」への批判②ー荒井達夫と武田康弘

2009-06-28 | メール・往復書簡
この下からの続きです。


公共哲学論争の結論 (荒井達夫)
2009-06-21 17:05:46

「公」と「公共」を区別する思想は、民主主義の原理に反しており、現実の法制度においてもそのようにはなっていない。これが結論です。

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てつがくにおける結論とは? (タケセン(武田康弘))
2009-06-22 13:46:03

荒井さんの結論は、一般の論理としては「その通り」ですが、哲学の議論(=わたしのブログの文章=論理)としては、これだけでは、少しマズイのです。

というのは、『哲学』とは、人間の生きる意味の探究(ほんとうに価値ある生とはどのようなものなのだろうか)を音楽における通奏低音のように絶えずもちつつ、人間の全体性の論理(単なる論理的整合性に留まらず)を追求するものだからです。

ここでの話で言えば、金さんは、どうして公と公共という言葉を使い分けるのだろうか?また、その主張に共鳴する人がなぜいるのだろうか?その地点にまで進み降りた上でなければ、「結論」は出せないのです。ここに哲学(人間の全体性の論理)としての深さと困難と魅力があるわけです。

わたしの言い方(結論)は、こんな感じです。以下をご検討下さい。

荒井さん
これは、一応は「結論」ですが、
この問題を論じる上で一番大事なのは、何故このような思想が語られ、それが一定の力をもつのか?を知るところにあります。

日本では戦前の近代天皇制による「国体思想」が長いこと社会全体を支配してきたために、私=個人のことがらに対して、皆に共通することがらは、「官僚政府が行う公」だと思われてきました。先に書きましたように、江戸の庶民文化は民がみずから公共世界をつくっていましたが、富国強兵をめがけた明治の天皇制官僚政治の下では、官府が民の公共を奪い、民の自発性を公に吸収してしまったのです。その結果が「お国のため」という言い方になり、皆のためになることがらを担うのは、すべて官府が行う公=国だ、という想念を国民全体が持つようになったのです。

そうであるために、「市民の意思が生む公共世界」という見方・自覚が弱いのです。だから、金さんの「官が担っている公に対して、市民が担う公共の世界を広げよう」という主張がリアリティを持つわけです。確かに現実の日本社会を見ると、「官」は誰が何を言おうともビクともせず、官僚は決して従来のやりかたを変えようとはしませんから、市民は絶望的になります。そこに公と公共を分けて考える、と言う金さんの主張が「救い」に見える理由があるのです。

しかし、金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、結局は「現実」を変革する力を持たず、敗北するだけですので、わたしは、金泰昌さんの公共哲学に対して繰り返し批判してきたわけです。

現実次元における妥協や曖昧性はものごとを実際的に円滑に進める上で大切ですが、原理次元での詰めの甘さや戦略的な妥協は、混乱や停滞を生み、さらには逆効果になってしまいます。いま一番必要なのは、民主主義原理をさまざまな具体的な場で検証し、それに基づく現実の改革を進めていくことだと思います。その営みは、わたしたち自身の自己変革=生きるエロースの豊饒化につながります。ぜひ共に!!
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三元論の論理的破綻について (荒井達夫)
2009-06-22 20:50:20

 確かに一般の論理を説明しただけで、そこに止まっていては、哲学になりません。「金さんは、どうして公と公共という言葉を使い分けるのだろうか?また、その主張に共鳴する人がなぜいるのだろうか?」が、考えるべき最も重要な問題だと思います。ただ、私が主張しているのは、その一般の論理の段階で「公・私・公共三元論」が破綻しているということです。つまり、三元論が妥当かどうかは、哲学以前の問題であることを「私の結論」として述べたのです。以前、「三元論は、現状説明のための理論であり、公共哲学の原理ではない」と述べたのもそのためです。
 「金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、現実を変革する力を持たない」というのも、まったくそのとおりです。現状認識と原理的思考の混同は、哲学以前の単なる論理的思考も妨げてしまい、法の制度を正しく理解することを不可能にしているようです。憲法の民主主義原理に立脚する国家公務員制度を明治憲法下の「天皇の官吏」のように理解するようでは、キャリアシステムの問題など解けるわけがありません。
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ほんとうの「結論」とは? (タケセン=武田康弘)
2009-06-23 10:37:27

もちろん、論理的にはその通りです。
しかし一番大事なのは、金さんが主張し続けてきた「現実問題」を引き受け、乗り超える、また、できるならば相手の納得を生む(誰に対するどのような批判も根底にはその意識が必要)ためには、どのように考え、言うか?です。

ただ論理的な間違いを指摘する、その次元を超えて(もうすでにとっくに超えているわけですから)「問題」(=主権在民の民主主義を阻害している日本における官僚制度の現実とそれを支える想念)の解決の方途を明瞭に示すことが、ほんとうの「結論」なのです。哲学の論議とは、ディベートの表層的論理(=勝ち負け)とは截然と異なり、遥かに深い意味と価値をもちます。

生きる意味(エロース)への探究を底に持たない論理は【無】であり、生にとってよきものを何もうみません。そういう論理しか知らないのが、従来の日本の「官」であり、それを根底から変革するのが、ほんらいの哲学の使命です。

荒井さん、よい対話ができ、とても面白くなりましたね。
みなさんもぜひご参加ください。

タケセン=武田康弘

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「公」と「公共」 (荒井達夫)
2009-06-24 20:45:35

「公共的良識人2009.5.1」で、金泰昌さんが、「公」は「官」の論理であり、「公共」は「民」の論理である、と述べているので、反証として以下の立法例を追加しておきます。

「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」(民法90条)

つまり、民法は「公」の秩序を守る法律です。

また、次は、公安調査庁設置法の規定です。

(任務)
第3条 公安調査庁は、破壊活動防止法 (昭和二十七年法律第二百四十号)の規定による破壊的団体の規制に関する調査及び処分の請求並びに無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(平成十一年法律第百四十七号)の規定による無差別大量殺人行為を行つた団体の規制に関する調査、処分の請求及び規制措置を行い、もつて、公共の安全の確保を図ることを任務とする。

つまり、公安調査庁は「公共」の安全の確保が目的の機関です。
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荒井さん

現行の法律文における「公と公共の同一性」についての例証をあげても、金さんの公共哲学批判としてはピンときません。言葉の定義の問題に留まり、哲学次元に届かないからです。

「金泰昌さんが、「公」は「官」の論理であり、「公共」は「民」の論理である、と述べているので、反証として以下の立法例を追加しておきます。」(荒井)とありますが、
実は、ここでの金さんの言わんとするところは、従来の官僚政府の言動・思想を「おおやけ」と呼び、比較的最近の市民の自発的な言動・思想を「公共」と呼んで区別しないと、市民の主体性が育たないということなのです。なぜなら、官僚の力があまりに強い(官僚独裁国家とさえ言われる)日本社会では、官と市民を切り離さないと、官のもつ強大な権限や惰性態の力に従う他なくなる、という現状認識があるからです。

したがって、金さんの思想への批判は、法律論や言葉の定義のレヴュルでは不十分で、いまの現実を変革するより説得力のある新たな見方=思想を提示しなくてはならないでしょう。それが、わたしの【民主主義の原理を明晰化する民知としての哲学】です。もちろん論理批判はするのですが、相手が言いたいことの中身を引き受けて、より深い思想を提示し、より大きな普遍性を産み出そうとする努力なのです。それが民知(という最善の知)です。

タケセン=武田康弘
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公と公共は区別できない (荒井達夫)
2009-06-25 22:22:34

法律では「公」と「公共」の区別はしておらず、「公共」に反する「公」も想定していません。これは、現行法制が日本国憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しており、「公」も「公共」も「全国民に共通する社会一般の利益」の意味を持っているからです。ですから、法の運用実態において「市民の公共」に反する「官の公」という事態が生じているのであれば、それは法の理念としてはあってはならないことと考えなければなりません。ところが、思想の大元(原理)において「市民の公共」に反する「官の公」も認めることになれば、当然そうなりません。それで具体的にどうなるかが重要な問題です。

例えば、官民癒着の最悪のケースである官製談合は、公務員が「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)の「一部の奉仕者」となり、「公共の利益」(国家公務員法96条1項)の実現を妨げることになるから許されない。これが通常の法解釈です。しかし、法の理念で「市民の公共」に反する「官の公」を認める場合、これらの規定は無意味に解釈され、そのような事態が生じても法的には「特段問題がない」ことになります。

また、国家公務員は「市民の公共」ではなく「官の公」を実現するためにある、との考えに従えば、国家公務員法96条1項は、「すべて職員は、国家の利益のために勤務しなければならない」と規定することになります。つまり、「全国民に共通する社会一般の利益」に反してでも、「国家の利益」を追求する義務が国家公務員に課せられるのです。
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荒井さん

これは、説得力があります。
社会に関する思想(もちろん法律や法律論も含む)では、ふつうの市民・国民にとって有益になる思想か、否か?それが最大の問題でかつ基準となりますから、そこが分明になる言い方が必要ですよね。ほんとうのてつがく(=恋知としての哲学)に通底する思想とはそういうものでなければいけません。
いいですね。

武田

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現状認識と原理的思考の混同について (荒井達夫)
2009-06-27 01:52:03
現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)の混同は、哲学以前の単なる論理的思考(法の解釈)も妨げてしまい、法の制度(国家公務員制度)を正しく理解することを不可能にしてしまいます。金泰昌さんの「公共的良識人2009.5.1」での以下の発言がそれを明瞭に示しています。

「官僚の世界にはいわゆる通説的見解というのがあるという話を聞いたことがあります。それは自分たち、即ち国家公務員たちこそ国民全体の奉仕者だという位置付けです。そして国民全体に関連する事柄についての正当な思考と判断と決定と執行の主体であるということでもあるというのです。その法的根拠が国家公務員法の中に明示されているということを強調します。だから自分たちがやることはすべて国民全体のための法的に認定された正当な公務であり、だから自分たちこそ公共性の担い手でもあるという理屈です。だから公と公共とは基本的に同じものでありそれらを区別する必要はないというのです。」

国家公務員法96条1項は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」と、国家公務員の在るべき姿を「法の理念」として規定しているのであって、国家公務員の現実の職務遂行(法の運用実態)が常に「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために」なっているなどと言っているのでありません。むしろ、そうならない可能性があるので、戒めるために規定しているのです。国家公務員は「一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)のだから、何時も「全国民に共通する社会一般の利益」の実現を目指して努力しなさい、官製談合などは絶対に許しません、という義務付けの趣旨の規定なのです。(だからこそ、公務員制度・公務員倫理の根幹をなす規定と言えるのです。)

ですから、この規定があるからといって、金さんの言うように、現実の国家公務員が常に「国民全体に関連する事柄についての正当な思考と判断と決定と執行の主体である」と考えられるわけではないし、「自分たちがやることはすべて国民全体のための法的に認定された正当な公務」になるわけでもないのです。

また、「公と公共とは基本的に同じものでありそれらを区別する必要はない」のではなく、法律の明文で「公の利益」ではなく、「公共の利益」と規定されており、法解釈上は議論の余地がないということなのです。

私は、金泰昌さんのような国家公務員法の解釈を聞いたことがありません。

以上は、言うまでもないことですが、哲学以前の問題です。
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「公・公共」と法の読み方 (荒井達夫)
2009-06-27 11:01:40

「公の施設」(地方自治法96条1項11号)、「公の機関」(同法252条の2第6項)「公の秩序」(民法90条)、「公民館」(社会教育法12条)、「公的賃貸住宅」(住宅確保要配慮者に対する賃貸住宅の供給の促進に関する法律5条)、「公共の福祉」(憲法13条)、「公共の安全」(警察法1条、公安調査庁設置法1条)、「公共の精神」(教育基本法前文)、「公共の利益」(国家公務員法96条1項)、「公共機関」(災害対策基本法1条)、「公共的施設」(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律2条2項)、「業務の公共性」(日本銀行法5条)・・・・・・・

法律では「公」も「公共」も、全国民や地域住民や一般市民に共通する「社会一般の利益」の実現という「理念」の下に使われており、その「法の理念」に基づいて、それぞれの「法の制度」が出来ています。現行法制は、憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しているからです。

そこには、金さんのような、「公」と「公共」は異なる、「公」は「官」の論理で「公共」は「民」の論理である、という考え方は存在しません。

ですから、金さんのような発想で法律を読むと、とんでもなくおかしなことになります。それが、現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)の混同であり、憲法15条2項と国家公務員法96条1項の「聞いたことのない」解釈は、その典型例と言って良いと思います。
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感覚的な話 (荒井達夫)
2009-06-27 17:09:08

少し感覚的な話になりますが・・・・・

私は仕事が国家公務員ですが、金泰昌さんのように、「市民の公共に反する官の公も認める」と言われると非常に困ります。なぜなら、官製談合等の深刻な不祥事は、明らかに「市民の公共に反する官の公」という現象であり、そのような現状を肯定する結果になってしまうからです。金さんの思想では、公務員の中から改革する機運を起こすことはあり得ないと思うのです。

これまでくどくど見てきたように、現行法制は建前は憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しています。ですから、続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、「法律をその趣旨目的に沿って誠実に執行すること」ではないかと思います。金さんの考え方では、それを逆に困難にしてしまうと思います。

また、私もいずれ退職して公務員でなくなるのですが、その時に「市民の公共に反する官の公も認める」という思想では、官に対して中途半端な批判しかできず、真に国民・市民のための政府を求めることができないのではないか、と思います。
キャリアシステムと公共哲学 (荒井達夫)
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荒井達夫
2009-06-28 10:37:35

続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、原点に立ち返って「法律を誠実に執行すること」(憲法73条1号)であると思います。そのためには、公務員が常に市民の目線に立って、全国民や、地域住民や、一般市民に共通する社会一般の利益を実現するには具体的にどうすべきか、をきちんと議論し考えていくことが必要です。そのためには、土台となる哲学思想(公共哲学)が必要であり、私は、それは「主権在民」の意識を公務員に徹底させる強い思想でなければならないと考えています。

例えば、国家公務員のキャリアシステムは、思想的に「天皇の官吏」の流れをくむ、国家公務員法に違反する人事慣行であり、今日の行政における最重要の課題となっているところです。キャリアシステムは、天下りと省庁割拠主義の温床であり、行政の無責任の本質的原因と言えますが、私は、さらにキャリアシステムが生み出す公務員の「特権的意識」が、一般市民の常識・利益(市民的公共)とかけ離れた「官」の歪んだ想念(官の公)を形成し、民主的運営を第一とする公務(国家公務員法1条)に深刻な悪影響を及ぼしてきたと考えています。

つまり、キャリアシステムの問題は、単なる組織・人事の実務的問題ではなく、日本の民主主義の在り様を大きく左右する思想的問題とも言えるのですが、この問題は「主権在民」の意識を明晰にする強い思想でなければ、解くことができません。ところが、金さんのように、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」とするのでは、キャリアシステムを廃止するどころか、それを維持強化する結果になってしまうことは明らかです。私が「公・私・公共三元論」に強く反対しているのは、このためです。
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対話により議論が深まりました。 (タケセン=武田康弘)
2009-06-28 11:34:55

金泰昌さんは「現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)を混同している、という荒井さんの指摘は、わたしもまったく同感です。
原理次元の話と現実次元の話を同一平面で語れば酷い混乱を招き、非現実的な話にしかならないことを、わたしは幾度も強調してきましたが、
金さんは、自分は「三次元相関的」に考えているのであり、公・公共・私の三つを並べて「三元論」を主張しているのは、山脇さん(山脇直司東大教授)らである、と言っています。
ところが、金さんは、わたしとの対談でも、繰り返し、自分の公共哲学の要諦=一番大事な点は、公(おおやけ)と公共の分離にあることを強調してきました。
これは、まさしく、現状認識と原理的思考の混同が生みだした「思想」だ、としか言えないのです。思考は、充分に立体的でダイナミックでないと、「現実」の前に敗北する考え方しか生まないのです。

また、荒井さんの「感覚的な話」ですが、
これは、荒井さんの生きる現場を踏まえた実存的な視点からのもので、大変に説得力があります。
「官僚の方は、国家=公のために働くのです。」(金泰昌)と言われ、「市民的な公共」とは異なる世界=公を自覚せよ、と言われれば、一人の人間や一市民としての、あるいは家庭人としての彼らの常識や生活とは異なる発想で仕事をしなければならないことになりますが、それは、官僚が天皇の官吏とされた戦前の日本でならまだしも、主権在民の日本国憲法下においては完全に間違った考え方だ、と言う他ないのです。現代の官僚とは、「主権者である国民に雇われた国民サービスマン」であり、市民的公共につき、それを支え、担保するのが仕事=公務なのです。憲法に規定されている通り、特定の人や団体でなく、国民全体(=市民の公共)への奉仕者でなければならないのですから。


コメント (7)

公と公共の分離を柱とする「公共哲学」への批判①ー荒井達夫と武田康弘

2009-06-28 | メール・往復書簡
以下は、「金泰昌さんの公共哲学批判ー公と公共の分離」への荒井達夫さんのコメントと、わたしの返信コメントです。
(10000字を超えてしまい、一度に出せないので、二回に分けて載せます。)


金泰昌さんの思想について3 (荒井達夫)
2009-06-20 08:20:05

 日本国憲法の制定に深く関わり、さらに第3代の人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。
 「昭和22年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15周年にあたって」『人事院月報』昭和38年12月号)
 この佐藤氏の見解は、現在のすべての公務員の立脚点を明らかにしていると言えますが、それは日本国憲法下の国民一般の理解を前提とするものです。
 「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」という金さんの思想は、これに真っ向から反すると言わざるを得ません。
 この点について、公共哲学の関係者の間で徹底的に議論していただきたいと思います。



公と公共について (荒井達夫)
2009-06-21 12:12:39

 公・私・公共三元論者は、「公」と「公共」は明確に意味が異なっており、常にそれを意識しなければならないと主張していますが、これがそもそもの間違いの原因と思います。
 例えば、国家公務員法第96条は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない。」と規定していますが、この規定を三元論では説明できません。国家公務員は「市民の公共」とは異なる「官の公」を追求する存在である、というのが、三元論者の主張ですから、それに従えば、同条は「公共の利益」ではなく「公の利益」と規定されているはずだからです。
 次の警察法の規定も、例にあげることができます。
(この法律の目的)
第1条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。
 警察の目的は、「公共の安全」と規定されているのです。また、ここで「公共の安全」と書こうと、「公の安全」と書こうと、意味は同じです。
 このような立法例は、他にもいろいろあります。つまり、「公」か「公共」かという議論自体が、現実とかけ離れており、ナンセンスと言うほかないのです。
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タケセン(武田康弘)

わが国における「戦前レジーム」の発生源は、明治時代前半に、自由民権運動を徹底して取り締まった明治政府(山県有朋ら)が、天皇主権の大日本帝国憲法の下で、市民的な公共性を抑え、天皇制国家=「公」に従う臣民としての【公民教育】を、小学校を中心に徹底させたところにある、これは誰も異論を挟めない事実です。

その名残りを、戦後も「官」が引きずってきた現実(それを象徴するのがキャリアシステムであり、そのシステムを支える想念が「東大病」です)が、公共問題を分かりにくくさせているのです。

端的には、有罪率が100パーセント近い検察と司法との癒着関係は、わが国を除き、独裁国家以外にはありませんが、警察や検察の閉鎖的で独善的な組織の実態は、明治以来の旧態依然とした「官」のありようを象徴するものです。冤罪事件が日常的に起きますが(月刊「冤罪ファイル」を参照)、誰も処分されず、足利事件で「異例」の陳謝が行われても、冤罪の被害者の方が深々と頭を下げてしまう現実を見ても分かるように、わが国では依然として「公」と呼ばれてきた「官」が、市民の上位にあるわけです。これが現実です。

だからこそ、公と公共の区分けを要請するような思想(金泰昌さんの公共哲学)は、今後、わが国をその内実において、市民主権の民主主義国家にしていくための「障害」にしかならないのです。「官」は、その仕事の内容も組織運営のありようも、わたしたち市民が考える公共性=ふつうの市民の良識に合わせなければならず、もしそうしないのなら、その存在自体が民主主義の原理に反するわけですから、認められないのです。

武田康弘
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ソニーのデジタル一眼・製造中止したα700は、いいカメラです。

2009-06-26 | 趣味
実際に触れてシャーターを切ってみる、
その音がカメラの構造のありようを映す。小気味良い音がするか否か?
ファインダーを覗く、画像のシャープや明るさ、色の正確さを見る。
液晶画像の見易さ、美しさを見る。
こういう基本性能の高さは、使うものに深い満足をもたらし、よい写真を生む原動力になる。

ソニーが製造中止したα700は、実売価格が9万円程度だったが、基本性能が高く、お金がかかった造りをしていて、売ってもあまり儲からなかったであろう。
手抜きなしで真面目につくり過ぎた!?ゆえに、ユーザーは大満足だ。これだけ基本性能のよいカメラは、もし後継機種が出たとしてもかなりの価格になるはず。写真をしっかり撮ろうとする意欲のある方は、在庫があれば、ぜひ買われることをお勧めしたい(常用レンズは、コンパクトなAPS用のZEISS・16~80mmが一番。ボディーとのバランスがよく、描写は、解像力はほどほどだが、艶やかさ・色の抜けの良さ・白の美しさが際立ち、主観的満足度が高い)

この真面目な姿勢が続けば、ソニーは、デジタル一眼の世界でニコンやキャノン以上の価値ある存在になれるだろう。ZEISS最新設計のレンズ群を使えるという何よりの強みがあるのだから(大きくて重たいが)。



カメラのデザインについて。
ニコンは、「機械マニア」を連想させる固くて色気のないデザインだし、
キャノンは、「偏差値秀才」を連想させる余裕のないデザインだ。
わたしは、柔らかみがあり詰め過ぎないソニーのデザインが好きだ。親しみが持て、愛着が湧く。どこか長年愛用してきたフィルムカメラのコンタックスにも雰囲気が似ている。

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上のブログに、プロのカメラマンのKさんからコメントがありました。

α-700 本当にお買い得です。大満足です。
α-7700i以来のMinolta愛用者で、Reflex 500mm F8レンズの熱烈なる愛用者です。
Konica-Minolta α-7 Digitalと共に使用してきました、良い写真が得られて来ましたが、
レンズに超音波モーターがないので、動体撮影ではCモードで「ジコジコ」と音がしました。
ところが、今回α-700 に着けて撮影すると、一瞬で合焦するので音がしません。

5月の初めに購入して、プロなので、テストに借りたNikon D700とNikon D3x と私のD300とD2x と撮り比べしました。写した結果をA4にプリントして比べてみても、Nikonのフラッグシップ・カメラによるものと、シャープネス、色再現、カラーバランス、質感などなど全く区別がつきませんでした。

恐らく、Sonyさんは、上級機種をα-900 に絞り込む予定ではないかと思います。
なぜなら、α-900はフルサイズという点を別にすれば。α-700と全く同じスペックだからです。逆にいえば、α-700 発売から1年半で、これに優る新型をだす必然性が無いと思います。

まだ在庫があれば、購入をお勧めします。
私の場合、決断が遅れて、α-700 Body は売り切れ、止む無くレンズ付キットで購入しました。キットの16-105 mm もシャープな良いレンズなので、損をしたとは思いません。

2009/06/28 12:18 

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金泰昌さんの公共哲学批判(2)官の存在意味は?

2009-06-19 | 社会思想
「国家公務員は、『公』=国家のために働くものです。それに徹することが大事です。」「われわれ市民は、『公』とは異なる『公共』の領域を拓き、それを豊かにすることを頑張るのです。」

そう金泰昌(キム・テチャン)さんは言いますが、
なんだか江戸時代みたいですね~。

江戸の町民は、世界屈指の町民自治=自分たちで『公共』の世界をつくり上げていました。でも、それとは異なる江戸幕府という絶対権力=『公』がありました。幕府は幕府でしっかり仕事をし、町民は町民で頑張る、そういうことだったのでしょう。

ところが、維新で天皇を担ぎ出した王政復古の明治政府は、江戸の町民がつくっていた『公共』の世界を、『公』(官僚政府)に吸収し、一元的に『公』の支配する天皇制国家を目がけたのでしたね。「国=天皇陛下のために生き・死ぬことが道徳だ」と宣言したわけですが、それは今もなお「靖国神社」の中心思想として残っています。

『公』の一元支配から『公共』領域を拓こうとする金泰昌さんの公共哲学は、なにか江戸時代の町民自治のようですが、幕府という『公』が町民のつくる『公共』とは独立して存在する封建時代ならそれでよいのでしょうが、主権在民の民主主義国家では、市民の『公共』とは別に『公』なる権力が存在することは許されないはずです。

『公』が『公共』から自立して存在することを認めない、そういう意味で『公』を廃棄し、『公共』の下に政府と官を従わせる、それが民主主義の民主主義たる基本思想=要件のはず、わたしは小学生の時からずっとそう確信してきましたが、それがなかなか現実化せず、いつまでも、われわれ市民が「サービスマン」として雇っているはずの役人=官僚が、市民=『公共』の上に君臨する官僚独裁のような「お上国家」から抜け出れないことも確かです。

愚かな話ですが、この官僚に跪(ひざまず)く国民という哀れな現実を支えきた想念が「東大病」であることを、わたしは参議院発行の『立法と調査』に書きました。単なる事実学に支配され、暗記マシーンのような頭脳を優秀だとする無思考文化の生む非喜劇が今のわが日本の現実ではないでしょうか。

話を戻しましょう。

いちばん大事な基本思想は、従来は『公』と呼ばれた政府や官は、市民がつくる『公共』世界を支え・担うためにのみ存在すること。最上位にあるのは、主権者である市民がつくる公論であり、それを現実化することが政府や官の仕事であること。政府や官は、市民から自立した権力や主権者の論理とは異なる独自の論理を持ってはならぬこと。以上です。

したがって、ほんとうに価値ある【公共哲学】とは、金泰昌さんが『公』と呼ぶ官は、『公共』を支え・担うためにのみ存在することを明白にし、その現実化のために社会的、教育的、学問的な努力をするものです。そのように考え、行為したとき、はじめて公共哲学は、皆のものになる可能性が生まれます。

金泰昌さんの「公と公共を分けることが大事」という思想=言い方は、古い思想=常識を引きずったまま『公共』を拓こうとする営為が生んだものと言えますが、それでは少しも前進しないのです。


武田康弘
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金泰昌さんによる「公共哲学」の要諦ー公と公共の分離への批判

2009-06-16 | 社会思想
 
金泰昌さんが中心の月刊新聞―『公共的良識人』紙(東大出版会によるシリーズ『公共哲学』の基盤となる思想が現されていて、出資者は衣料品の通販会社による「フェリシモ財団」)の5月号は、8面すべてを使い、土田修さん(東京新聞記者)世古一穂さん(金沢大学大学院教授)金泰昌さん(公共哲学共働研究所所長)による鼎談が載せられています。

 わたし武田康弘は、2007年に金泰昌さんと計34回にわたる哲学往復書簡を交わしましたが、そのうちの30回分は3回に分けて『公共的良識人』紙に掲載されました(2007年7月号・8月号・12月号)。 最後の12月号においては、金泰昌さんによる「公共哲学」の要諦―公と公共とは違うものであり、これを分けて考えなければならないとする主張と、その考えは「民主主義の原理」を逸脱する思想であり受け入れ難い、とするわたしの主張が厳しく対立しました。

 この論争は、参議院調査室及び人事院の注目するところとなり(金泰昌さんは国家公務員研修の特別講師を13回も務めていた)、2008年1月に参議院においてパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」(参議院ホームページで公開)が行われることになったのです。出席者は、金泰昌さんとわたし武田康弘のほか、山脇直司東京大学大学院教授と荒井達夫参議院総務委員会調査室次席調査員(当時)の4名でした。

 パネルディスカッションでの激論の後、金泰昌さんは、自身の公共哲学の要諦であった「公と公共の分離」の主張をほとんどしなくなっていましたが、最新刊(5月号)の『公共的良識人』紙における上記の鼎談では、再びこの違いについて強調しています。―「公にする」と「公共する」との重要な差異をぼかす官のたくらみが隠されている云々、という具合に。これはとても重要な思想問題ですので、わたしは、再び、否、三度、否、四度(かな・笑)金泰昌氏による公共哲学=「公と公共の分離」の主張への批判をできるだけ分明・簡潔に書いてみました。


まず、確認ですが、公共の担い手は、市民としてのわたしたち自身です。
ただ、戸籍などの管理や、横暴な者からの安全確保や、社会保証や、多額のお金を必要とする事業は、わたしたち市民が直接担いにくいので、市民(=主権者)がお金(=税金)を出し合い、代行者(=議員)を選び、人(=役人)を雇っておこなうわけです。

だから、役人の仕事(これを金泰昌氏は「公」と呼ぶ)=「官」は、市民の公共を支え、市民の代わりに公共を担うのであり、それ以外の目的があってはなりません。ほんらい、主権者の意思(公論)の集合がstateとしての国家であり、民主主義の社会においては、それ以外に国家意思があってはならないのです。
市民の共通利益とは異なる国家の利益は存在しない、これは原理です。

したがって、「公と公共は違うもの」「国家の利益(公)と国民の利益(公共)はちがうこともある」という金泰昌氏の主張は、民主主義とは異なる原理の是認になってしまいます。それは「主権在民の民主主義」を進める上で、大変困った考え方だと言わざるを得ません。

確かに、現実の政治家や官僚の意識は、この原則から離れ、しばしば自分たちはふつうの民とは違うのだという歪んだ「エリート」意識に支配されるようです。しかし、それが悪しき誤った観念であることを示し、正すためには、上記の民主制国家の原理・本質を明晰に自覚し、そこに座標軸を定める必要があります。
ふつうの生活者の誰もが納得できる考え方に則って国を運営していく以外に道はない、それが市民主権社会=民主主義国家の原則であり、「日本国憲法」が現す理念なのです。

金泰昌氏が「公」と呼ぶ「官」と、市民的公共性の世界を別に考えるというのは、現実の歪みを深いところで是認し、その上に現実問題の解決を考えるという「弱い」思想でしかありません。言葉の表層に見えるイデオロギーは強いのですが、それを支える哲学が脆弱なのです。物事の原理を曖昧にしてしまうと、ほんとうには社会問題の解決は出来ません。
哲学とは、ほんらい根源的と言う意味でラディカルな営みです。公共哲学は、従来の「学」を超えて深いところで現実を変えていくものでなければならない、それが武田思想=武田による公共哲学の理念です。


武田康弘
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以下は、コメント欄のコピーです。
金泰昌さんの思想について (荒井達夫)
2009-06-16 21:16:46

武田-金論争に続き、私と金泰昌さんとの間でも論争がありました。「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」という金さんの思想は、明治憲法下の天皇の官吏の発想で、国民主権原理・民主制原理に反する。だから、日本国憲法下の公務員制度には適合しないし、公務員研修にも使えない。私の主張の核心はここにあります。この論争、皆さんはどう考えるでしょうか。広く世に問いたいと思います。


金泰昌さんの思想について2 (荒井達夫)
2009-06-19 00:15:48
金泰昌さんの「公・私・公共三元論」では、憲法や国家公務員法を合理的に説明することができません。これは「三元論」が公共哲学の原理となり得ないことを示しています。民主主義思想の大元をなす考え方なら、これらの法の理念・目的と矛盾することはありえないからです。この点は非常に重要なので、しっかり確認しておきたいと思います。



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ケストナーの『飛ぶ教室』より

2009-06-15 | 日記
以下は、世界中で愛読されてきた児童読み物―ケストナーの『飛ぶ教室』からです。

みなさんは、できるだけ幸福でいてください。そして、おかしくておかしくて、その小さなおなかがいたくなるほど、愉快(ゆかい)にやってください。
でも、ただ一つ、自分をごまかしてはいけません。また、ごまかされてもいけません。不幸にあったら、それをまともに見つめることを学んでください。うまくいかないことがあっても、あわてないことです。不幸があったてもくじけないことです。へこたれてはいけません。不死身にならなくては。
この一番かんじんなことさえわきまえていれば、勝負はもう半分きまったようなものです。なぜなら、そういう人は、ちょっとくらいパンチをくらったところで、落ち着いたもので、一番かんじんなあの二つの性質、つまり勇気と賢(かしこ)さを示すことができるからです。わたしが次に言うことを、みなさんは、よく覚えておいてください。
賢さをともなわない勇気は乱暴(らんぼう)であり、勇気をともなわない賢さなどはクソにもなりません!世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人たちが臆病(おくびょう)だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人が賢く、賢い人たちが勇気をもったときにはじめて――いままではしばしばまちがって考えられてきましたが――人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。



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「一般人」に陥らず、充実した強い生を歩むために

2009-06-12 | 私の信条
他人の眼や言説に怯え、
既存のシステムに囚われ、
外なる価値意識に脅迫され、
一般人=単なる事実人としてしか生きられない人。
あるいは、
情報に振り回され、自分の五感・心身の声に従うことのできない外面人。
そういう本質的に心身薄弱な人間として生きるのは、一番損だ。それは生きるに値しない生だから。
わたしは、40年間以上ずっとそう思って生きてきました。
だから、中身において、とっても生産的な人生です。

「自分自身」として生きるという一番大事な生の基本が崩され、「一般人」として生きることをよしとする。
周りに合わせる手法を教え・奨励する「病気」のような「哲学」が万延する。
どうも みなが強迫神経症者のようです。愚かな話です。

わたしは、そこから脱却するには、心身を統一するための行をすることだと思っています。自分流に、気持ちと身体を一つにする方法を見出すと、とっても強くなれます。

※写真は、5月、サイクリングで。撮影は小学生、57歳のわたしです。


武田康弘
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刑事、検事、判事は、土下座して謝り、反省し、透明化すること。

2009-06-11 | 社会批評


礼を尽くして謝る。

菅谷さんを訪問し、土下座して、心からの謝罪の言葉を述べ、反省すること。

冤罪を生む密室主義を打破することを誓い、透明化の実現に向けて歩み出すこと。

刑事、検事、判事は、それをしないなら、人間としての基本倫理に悖(もと)ります。

必ず、上記の行為を行わなければいけません。これには反論の余地はなのです。

至急、実行しなくてはなりません。

それが「はじめの一歩」であり、それがなければ何も始まりません。


武田康弘
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以下は、コメント欄のコピーです。

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公権力への不信 (高城 久)
2009-06-12 10:18:30
武田さんのおっしゃっていることは、公権力を持たない一般市民の声にほかなりません。

しかし、テレビ等の報道を見ていると
検察や警察が謝罪のコメントを発表しただけで画期的だとか、前例のないとかという形容をしてあってはならない間違いを犯したものを賞賛するような錯覚に陥ります。

取調べの可視化について、元検察幹部が
被疑者との信頼関係を損なうなどと発言していますが、取調べの可視化をしなければ一般市民の公権力への信頼関係が崩壊していることに気がつかないのでしょうか?!

民主党は取調べの可視化を法制化しようとしていて、昨日、菅家さんを党の法務部門会議に招いたそうです。この点だけをとっても政権交代の意義があると思います。

しかし、民主党はコンプライアンスに疎い新人候補などが多いのではないかと気がかりです。
来る総選挙で微罪、冤罪で大量摘発をして政権交代阻止に警察、検察が暴走したらと思うと恐ろしいのですが…。

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もし、警察、検察がそのような動きをしたら、日本の北朝鮮化です。それは、民主制国家としての自殺行為ですが、どうなるでしょうか?

タケセン

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奥多摩ハイキングー鳩ノ巣~白丸~奥多摩

2009-06-09 | 日記
7日(日)、奥多摩にハイキングに行きました。白樺教育館・ソクラテス教室の恒例行事です。こども10名、大人2名。自由遊びでノビノビ~~~。写真は、わたしと小学生の女の子のツーショット!歳の差(47歳)なんてー(笑)撮影も小学生、デジタル一眼は誰が撮ってもよく撮れる?

我孫子から奥多摩までは3時間かかりますが、「鳩ノ巣」の渓谷美は何度行ってもいいです。「白丸」までのハイキングコースは変化に富んでいます。途中の湧水をペットボトルで持ち帰り、お茶にコーヒーに紅茶に、軟水のすっきりしてやわらかい味わいは格別。こどもたちも慣れたもの、みな自然の贅沢を堪能です。

土日、祝日は、ホリデーパスを使うと大人2300円、1300円もお得です。みなさんもぜひどうぞ。JR青梅線。
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官を守り、個人は守らない「国家」!?

2009-06-08 | 日記
足利事件は、6月5日のブログ【冤罪ほど酷い「犯罪」はありません・官僚のお上意識が元凶】 に書いた通り、これは[一つの事件]というレベルの問題ではなく、日本社会の本質的な反民主制の現われです。


「 街を行き交う人たちを眺め、「刑務所では移動はいつも行進。やはり、人間には自由がないとだめだな」と語る菅家さんは、日常生活の中の幸せを満喫しているようだ。
 だが、今後の生活への不安も大きい。釈放から2日間は、東京都内のホテルに宿泊したが、金銭面での負担が大きく、6日以降は佐藤博史弁護士の横浜市内の自宅に泊めてもらっている。
 菅家さんは「(刑務所の)外に出たら、1人ではものすごく不安で、買い物でも、トイレでも、やり方がわからない。佐藤先生のそばにいると本当に心強い」と話す。
 生まれ育った栃木県足利市で暮らすことを希望しているが、急な釈放だったこともあって、今後の生活についてはまだ何も決まっていない。弁護団は、今後、菅家さんのための募金集めをすることも検討している。 」(6月8日9時27分配信 読売新聞)


菅谷さんに無実の罪を着せ、17年間以上も獄中に閉じ込めた「官」(=官府)は、ただ釈放して済むと思うなら、間違いなく「地獄堕ち」という他ないでしょう。
五欲に憑かれ、悪をなしてしまう人間こそ救われると説いた親鸞聖人の浄土真宗も、国家権力を用いて個人を抑圧した人間の救済など考えていません。当事者たちの心の底からの反省ー「回心」が求められます。

警察、検察、裁判所は、責任を果たしなさい。政府は、礼を尽くした救済を至急行わなければなりません。日本が【官僚独裁国家】でないこと、【東大病の「エリート」(もちろん少しも優れていませんが)支配】の遅れた後進国でないことを、今すぐ示すことが必要です。そうでないなら、日本は、近代民主主義国家とは言えません。「主権在民」を貫く国家以外の国家にはレーゾン・デートル(存在理由・価値・意味)はないのです。これは近代社会成立以降の大原則です。


武田康弘
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再審請求中の死刑執行!法務省の責任は重大

2009-06-06 | 社会批評
今朝の東京新聞(24面)には、
飯塚事件で、久間三千年(くまみちとし)さんが犯人とされ、昨年10月に死刑執行されたが、これは冤罪の可能性があり、なぜ法務省は死刑執行を強行したのか?大きな疑問が残ると書かれています。

警察庁・科学警察研究所が開発した「MCT118」の鑑定により有罪とされたのは、今回の足利事件と同じ。この科学警察の鑑定技術は未熟で、科警研とは別に鑑定を実施した石川夫(いくお)帝京大学名誉教授(法医学)は、「当時の科学警察の鑑定はずさんだった」と証言。石川教授の研究室では久間被告のものは検出されなかったという。法廷でも「こんな鑑定は私の教室では通用しない」と証言した。

久間さんは、昨年8月、「真実は無実であり、これはなんら揺らぐことはない。私は無実の罪で捕らえられから拘置所に14年間収監されている。今年の1月9日で70歳になった」と書いた。弁護団も「昨年9月に久間さんに会いにいったとき、再審請求の話をしたらとても喜んでいた。その一ヶ月後に・・・・」と言葉を詰まらせたという。

村井敏邦・龍谷大法科大学教授(刑法)は、「死刑執行の段階で、事件当時の鑑定法に問題があることは常識だったし、科警研の研究結果も法務省は熟知していたはずだ。強硬に死刑執行した責任は重い」と話している。

なんとも残酷なことですが、無実の可能性がある死刑囚を殺してしまったわけです。
法務省には説明責任があります。ダンマリを決め込まないで、最低限の責任は果たさなければいけません。官を絶対化して人権を軽視する法務省では、存在意味がありません。無実の人間を死刑にしたとしたら、その罪は計り知れないものです。

武田康弘
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冤罪ほど酷い犯罪はありません・官僚の「お上」意識が元凶。

2009-06-05 | 社会思想
足利事件

冤罪ほど酷い犯罪はありませんー警察官・検察官・裁判官は猛省し、責任を取るべきです。

警察と検察の人権意識の希薄さには、唖然とするほかありませんが、裁判所もまた極めて人権意識の低いこと、ただ呆れ返るのみです。これほどまでに冤罪が日常化している国をはたして民主主義国と呼べるのでしょうか?

著名な日本社会の分析者・ウォルフレンが言うように、日本の民主主義は形式だけで、中身は「官僚独裁国家」でしかないとしたら、悲しく不幸なことです。

犯人でない人を犯人として監獄に閉じ込めることがどれほど恐ろしいことか、どれほど残酷なことか、どれほど酷いことか、その痛みを感じない人が「国民全体の奉仕者」だとしたら、ほんとうに背筋が寒くなります。弁護側が新証拠を提出しても無視し続けた裁判所とはいったい何なのでしょうか?公共的な怒りを覚えます。当然ですが、責任者は厳正に処分すべきです。

更に、冤罪を引き起こす警察、検察、司法の官僚制度自体にメスを入れる必要があります。警察、検察を監視するオンブズマン制度をつくることは必須ですし、また、行政及び司法官僚とそのシステムを監視するために、国会の「行政監視委員会」の活動を強めることも必要です。言うまでもなく、主権者=市民の利益を守るのは国会の責務だからです。

繰り返しますが、
確たる証拠もないのに「犯人」と決め付け、暴行を加え、精神的苦痛を与えて「自白」を導く警察官、 それをそのまま追認する無能力かつ無責任な検察官、新証拠を認めず、検査結果も握りつぶす裁判官。こういう人たちが、大手を振るい、高い給料を取り、なんの処分も受けない、あまりに酷い彼ら官僚=国家公務員の姿に怒りを覚えない人がいるでしょうか。

「お上」という想念に支配されているために、人間としての「良心」が働かない。こういう不遜な意識が生じる発生源を元から絶たなくては、再生は永久に不可能です。ほんらいは国民のサービスマンであるはずの官僚が、主権者のような顔をする。これではいつまでたっても「主権在民」の市民国家にはなれません。ほんとうに嘆かわしいことです。

武田康弘

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志賀直哉の小林多喜二への手紙ー入手の経緯

2009-06-05 | 白樺文学館
わたしは、白樺文学館の「誕生秘話」(2)で、
ブレイクの石版画を、2000年(平成12年)の『古書七夕大入札会』(明治古典会主催)で入手したことを記しましたが、
実は、この同じ入札会に、文学史上有名な、小林多喜二に宛てた志賀直哉の書簡も出品されました。わたしはどうしても落札したいと思い、八木書店の取締役で古書部の店長である八木朗さん(※注1) にその旨を伝えました。

毎年7月に行われる「古書七夕入札会」は、個人で入札するのではなく、こちらが指名する業者(明治古典会会員の古書店・三十数社の内)に入札を依頼するシステムになっています。会場は、神田小川町の東京古書会館です。

ベテランの八木さんに託しましたが、落とせるかどうかは蓋を開けてみなければ分からないので、ドキドキです。後は祈るのみでした。結果はわずか8000円の差で(二百万円以上での8000円!です)入手できました。ホッとして全身の力が抜けたのを今でも覚えています(「競り」ではないので、落札できるかどうかは、文字通り蓋を開けるまで分からないのです)。
以上が、入手の経緯です。

ところが、

5月27日(水)の朝日新聞・「ニッポン 人・脈・記」に、白樺文学館オーナーで二代目館長だった佐野力さんのインタビュー記事として、朝日の早野透さんは、2001年9月より館の運営を佐野さんから任された渡辺貞夫さん(小樽商科大学の同級生)を紹介した後に「この人の快挙は、志賀直哉が小林多喜二に書いた手紙を館の宝にしたことである(※注2)『売りに出たのを、いくらかかっても手に入れたいと競り落としました』と佐野。」(5月27日朝日新聞)と書いています。

これでは、「この人」(ふつうに読めば渡辺さん、全体の文を見ると佐野さん)が入手したことになってしまいます。どうしてこんな「ストレートな嘘」が新聞記事になるのか?また、佐野さんの発言にある「競り落とした」というのも間違いです。とにかく「歴史の改ざん」はよくありません。今年4月1日から我孫子市が税金を使って運用する施設に変わったのですから、「事実」をそのまま伝えることが必要です。結果としてではあれ、公共の文化施設が「つくり話」を流布することになったのでは困ります。



(※注1)八木書店ー千代田区神田神保町1-1.八木朗さんには、わたしがお願いして2001年1月1日の白樺文学館開会式にも出席して頂きました。

(※注2)渡辺貞夫さんという方は、白樺文学館の創成時(1999年2月~2001年1月)においては、文学館とは何の関わりもなく、わたしがはじめて彼の存在を知ったのは、開館から半年後の2001年7月でした。9月から二代目館長に就任することになった佐野力さんが、運営を任せる人として私に紹介したのです。


武田康弘

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以下は、コメント欄のコピーです

文学館の歴史について (荒井達夫)

渡辺貞夫さんは、現在、文学館の顧問(公務員)です。市民の税金で報酬を受けながら、自らが担当する市の文化施設の歴史について嘘の話を伝えることは、違法であり、許されません。朝日新聞社に対して、ご本人が訂正を申し出るべきです。
我孫子市白樺文学館条例は、文学館を市の施設とする目的を「市民の文化の向上に寄与するため」と規定していますが、そのためには、文学館の設立の経緯について市民に正確に伝えることが不可欠です。文学館の顧問がこのような状況では、条例目的の達成はまったく不可能になります。市の担当部局も、放置しておくことは許されません。速やかな対応を求めます。
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武田さんはなぜやめられたのですか? (黒古寿夫)

2009-06-17 11:50:36
白樺文学館はその性格がよくわからない存在ですね。

「文学館」といいながら、文学にはあまり興味なく、陶芸の比重が高いように見えます。

それにしても武田さんはなぜ、館長をやめられたのですか?
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お応え (タケセン)
2009-06-18 00:44:50

わたしが館長を辞したのは、オーナーであった佐野力さんとの基本姿勢の相違からですが、 『白樺文学館創成記』の「誕生秘話」をお読み頂ければと思います。よろしければぜひご覧ください。


コメント (3)

国の意志とは何か?ーNHKの困った日本語②

2009-06-03 | 社会思想

主権者である国民に委託され、国の行政を担当する各行政機関は、ほんらい【市民的公共性】を現実のものとするために働く組織です。日本国憲法第15条の、「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とは、そういう意味です。

ところが、実際はしばしば「市民的公共生」から遊離し、組織のため・官僚の個人的利益のため・一部の企業や団体のために働くことがあります。
そういう場合、市民は行政機関や政府の方針・言動を、市民的公共性・公共善に欠けるものとして批判し、また行政訴訟を起こすわけです。

したがって、市民は、「現政府や行政機関」の方針・言動を批判するのであり、「国」を批判するのではありません。政府や行政機関を批判することを、国を批判するというと、現政権のもつ思想やありようを批判することは「反日」だという見方を導いてしまいます。これは、とても不幸なことです。

行政機関が国を代表するのではなく、市民の集合意思が国を代表するのです。その集合意思(=市民が公共善だと考えること)に従って市民サービスをするのが各行政機関なのです。市民が公共善を追求して得られた意見の集合が国の意思なのであり、行政の意見が国の意志なのではありません。それでは主客が逆転していて、主権在民の近代民主主義国家とはいえないのです。

公共放送と呼ばれるNHKが、誤った考えやイメージを流布するような言葉の使い方をするのは、大変困った問題です。

武田康弘


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