思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

今日23日は徳仁さんの誕生日でおやすみです。明治政府がつくった天皇教と天皇制について考える日にしましょう。

2024-02-22 | 恋知(哲学)

ユダヤ教にはじまる一神教(ユダヤ教を母としてキリスト教とその弟分のイスラム教)の騙し=荒唐無稽の物語も、
明治政府が創作した天皇教の儀式主義への馴致も、宗教のもつ詐術の強さ・怖さをあらわしています。
わたしは、こどもたちに誰もみな天上天下唯我独尊として生れてきたのだと話し、至上の価値は人間の個々の実存だと教えています。真実を。

23日は、徳仁天皇の誕生日なので国民の休日いまだに続く天皇教は、明治政府が作成した国家カルトですので、天皇制についての批判や制度の見直しについては、話し合うことすらできません。テレビも新聞も批判的な言説をまったく許しませんので、完全なる独裁国家と同じですが、他国を言論の自由の抑圧といい非難する日本のテレビや新聞は、はるかに徹底した言論統制が行われている自国の問題については、頬かむりです。

天皇現人神(天皇は生きている神)という明治政府のつくった天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、ものすごい暴力(特別警察と憲兵隊)で、反対者をなぎ倒し、また、全国の数万以上の寺を焼いたり破壊したりし神社にかえました。明治政府の出した神仏分離令を端緒にした廃仏毀釈(仏法を排し釈迦の考えを捨てる)の大運動は、野火のように広がり、国宝級の仏像や寺院を破壊した為に、いまある国宝は3分の1程度と言われます(故 梅原猛さんによる調査)。

天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、敗戦後にいったんは否定された思想でしたが、1946年からはじまったアメリカの占領政策の大転回(逆コースと呼ばれる)で岸信介をはじめとするA級戦犯の解放により、再び彼らやその親族が日本政府の中枢を占める政治となり、天皇教は徐々に復活してきたのです。

明治政府は、天皇教=国家宗教を作成するために、まず、京都御所の天皇とされる男性を江戸城に連れてきてここを皇居となづけて占有させること、次に、日本史上、一度もなかった一世一元の元号制度をつくり、全国民にそれを使わせることを強要しました。時代=時間も天皇が支配することで、空間も時間も日本という国は、天皇が中心であるという意識を国民の無意識領域にまで浸透させるのが岩倉具視による計略でした。

ここで分かるのは、いったんは国のありようを変えたかに見えた戦後日本の今も、明治政府が作成した天皇教という国家宗教は、そのまま生きているということです。江戸城占有は変わらず、一世一元の元号も変わらすですから、日本は、天皇教のままです。天皇教は、教義(内容)を持たず、その時その場の政治勢力と世俗価値に合わせます。形式=儀式だけがあり、それを仰々しく行うのが天皇教という国家宗教の特徴です。まさに日本の特色で、中身・内容は問いません。形式を強要することで、日本人という型をつくるわけです。

「門地(家柄)により差別されない」という日本国憲法14条は空文化され、皇族はよくも悪くも差別され、超がつく特権が与えられます。天皇は、国籍も住民票もなく、そのためにあらゆる義務から逃れ、税金も保険料の支払いませんし、パスポートも発行されず(できない)ために、パスポートなしで外国に行きます。法的には日本人ではなく、人間でさえありません(人権がないのです)。明治政府がつくったように、やはり生きている神なのでしょうか?



明治政府が作成した天皇教とそれに基づく天皇制をしっかり考え直すことは、とても大きな意味をもちますが、それは日本人の義務でさえあると思います。今日23日の天皇誕生日はそのよい機会でしょう。詳しくは、「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをお読みください。



武田康弘(哲学者)


「皇族と統一教会」の深い関係を示す写真。明治政府がつくった天皇教が、文鮮明の手本となった。
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/bd971b6f2aed5162891b443b0b85c614?fm=entry_awp




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マジメ=芯が固いは、ダメ。『真剣』が大切です。

2024-02-21 | 恋知(哲学)
日本人の多数はマジメ=芯が固い。だから人間性の豊かさ・魅力に乏しいのです。心の底に真の自由がないので、せいぜい新奇に飛びつくだけ。『真剣』が大切です。真面目はダメ、堅マジメは超ダメです。『真剣』は、人間の底を深め豊かにし、魅力を生みます。
 
 
 
関口徹
凄くよくわかります。
職場は真面目人間が多いように感じて、世間一般的には良い人とされると思いますが、私から見て真面目な人ほどおもしろくなくて魅力を感じない。
命令には絶対服従でどんな酷暑で仕事しててもマスクはずさないし。
障がい者支援の仕事ですが、わたしは利用者支援誰よりも真剣です。マジです。真剣に関わります。だからダメなことにはダメだよとも伝えられます。時には真剣に伝えることもあります。
でも、利用者は真面目職員よりわたしのところに来ますね。わたしのことが大好きです。
他の真面目職員、堅真面目職員よりもね。
遊ぶにしても、何するにしても、叱らなくてはならない時もわたしは常に真剣ですから。
真剣に愛して、真剣に関わりをもっています。


武田 康弘
関口さん、実に素晴らしいです。
外なる規則や道徳に従う外人間は、ほんらいの人間性とは真逆な人です。内なる真剣は、実存をかけた営為で、内的充実があります。他者承認で生きる愚かで哀しい日本人とはちがいます。
日本人ではなく、人間にならねば、ですよね。
 
関口徹
武田康弘さん
まさしく日本人でも、ウクライナ人でも、ユダヤ人でもなく人間であることが大切ですよね。
国も守るために、領土を守るために戦え❗徴兵❗敵を撃て、殺せ
冗談ではない。まともな人間にそんなことできるはずがない。
あらゆる意味で○○人でなく人間にならねばと思わされます。
コメント (1)
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カラヤン路線にかわった小澤征爾の変身。 『ぼくの音楽武者修行』の改ざんは、ほんとうに悲しかった。

2024-02-13 | 芸術

 小澤征爾 『ボクの音楽武者修行』 から核心部分が削除。誰が?何の意図で?

2015-01-15 | 学芸   再録です。

 

音楽の友社版1962年      新潮文庫版1980年

 

 わたしは、ソクラテス教室(白樺教育館)の旧称「我孫子児童教室」で、1976年から数年間にわたり若き小澤征爾が書いた「ボクの音楽武者修行」を、小学6年生の授業の一部としての「読書会」で使っていました。ずいぶん昔の話です。

  それは、《音楽の友社》から出ていた本で、飛び入りでブザンソンの指揮者コンクールを受けて優勝した前後のエピソードを記した青春物語です。師の斎藤秀雄からマンツーマンで音楽原理と指揮法を教えられた小澤の快進撃は実に面白く、こどもたちに夢と勇気を与えます。まだ世界的には何者でもなかった若干26才の小澤の語りは、覇気に富み心躍るもの。

  若き音楽家が書いた大変珍しい本書は、版を重ね、1962年初版から18年後の1980年には《新潮文庫》の一冊に加えられ、今もなお読み継がれていますが、この時、わたしは、ある重要な箇所が削除されているのを見て、ひどくガッカリしてしました。その時以来、本書は教材に使っていません。

 

 音楽の友社版では、以下のように書かれています。

≪カラヤンの弟子になる の小見出しの 151ページから152ページ≫

「 レッスンになると、カラヤンは指揮台の真下の椅子に腰かけて、ぼくらが指揮しているのを、じろっと睨むように見ている。ぼくは睨まれると、カラヤンの音楽そのものを強要されるような気がした。そこで考えた。こんなことをしているとカラヤンの亜流になってしまう。カラヤンなにくそと思って、ぼく流の音楽を作らなければいけないと固く心に誓った。
  しかし一方、カラヤンは教えることに非常に才能があった。・・・・・・」

  新潮社による文庫本は、本文は全体としては同じなのですが(音楽の友社版そのままの文庫化)、驚くことに上記の青字の部分(本では3行分)が削除されているのです(165ページから166ページ)。
 若き血潮ほとばしる小澤のこの決意の言葉=が抜け落ちた文章を通読すると、当時、楽団の帝王として大きな政治力をもっていたカラヤンへの賛美だけとなり、平板で面白味がないだけでなく、小澤の見方と決意=【魂】が消されて、全体はまるで別物の印象となります。

  さらに、ここで使われている写真の説明文も変更され、
「カラヤンの指揮でベルリン音楽祭の幕は切っておとされた」という音楽の友社版の事実説明は、
新潮文庫版では、「カラヤンの人気はヨーロッパ全体でもすばらしい。」と賛美の文章に変えられています。

 

「あとがき」の江戸京子さんとのことを書いた6行の削除は、音楽内容とは関係のないプライベートの話ですので許せますが(これも本来は削除すべきでない)、この変更は、なにかあまりに政治的な臭いがして興ざめです。

 小澤征爾さん、今からでも、当該箇所を元に戻されてはどうでしょうか?
もう、三十数年も前のことですが、インターネット時代になり発信が可能となりましたので、長いこと胸につかえていたことを書きました。


武田康弘 

 
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小澤征爾追悼ーー小澤征爾くん、君も丸くなったね。斎藤秀雄

2024-02-09 | 芸術

小澤征爾くん、君も丸くなったね。    斎藤秀雄  2018年12月の再録です。ご冥福をおいのりします。

2018-12-06 | 芸術 

 ' わたしは、君にほとんどマンツーマンで(直純くんなどもいたが)わたしの考案した指揮法を伝授したが、よくそれをマスターし、「まだ第九を教えていないからダメだ!」と言って、君を引き留めたが、君は、貨物船に乗って(富士重工から借りたスクーターを積んで)フランスに渡ったね。

 まったく無名の君は、音楽大学を出ていない(わたしが桐朋大学の一室を間借りしてつくった短大など誰も知らなかった)というのでパリの日本大使館では相手にしてもらえず、アメリカ大使館に飛び込んで、「ブザンソン指揮者コンクール」を受けることができたのだよね。その当時、世界で唯一の指揮者コンクールだったが、誰一人として知らないアジアの若者である君が優勝したのにはほんとうに驚き喜んだ。審査員たちの公平さに感謝もしたよ。それはわたしの指揮の教則が本場の欧州で認められたことでもあった(わたしは密かに自負の念を持っていたが、震えたよ)。

 それからしばらくして帰国してN響(NHK交響楽団)の指揮者となったが、楽員と衝突し、君のいうことは聞けないと、演奏会当日に団員が誰も来ないという大事件(N響事件)が起きたときには、わたしは自分の経験と重なり、やはり、と思った。わたしは、N響の前身の新響のチェリストであり、指揮もしていたわけだが、音楽のイデーを明晰にしようとするわたしの言動に対して、団員が否!となり追いだされたのだった。子弟で同じ目にあったわけだ。日本では、法則とかイデーとかは嫌われるのだよ。うん、しかし、あのとき新響をやめていなければ、すべて無かったこと!

 日本からの二度目の旅立ち(追いだされたという方が正確だが)の後の活躍には目を見張るものがあり、毎日早朝からの学習を欠かさない君の努力が実を結び、トロント、サンフランシスコ、ついにはボストンの常任指揮者にまでなったが、相変わらすNHKは君の活躍をほとんど伝えず、「世界で有名、日本では無名」の状態が長く続いたものだ。安永徹くんもベルリンフィルで活躍し、コンサートマスターになったのも嬉しかったが、もうそのころからは、世界中で教え子たちが活躍しだし、教師冥利に尽きたな。

 さすがにウィーンの国立歌劇場の音楽監督になり、ウィーンフィルのトップ指揮者になるとは予想もできず、そうなると、もうNHKも無視するわけにはいかず、小澤、OZAWAで、音楽好き以外の多くの日本人にも知られる有名人になったわけだが、その活躍は、わたしは天国から見ることしかできなかった。斎藤キネン→サイトウキネンのオケをつくって皆が集まり、見事な合奏を世界中で披露しているのも、嬉しい限りで、感謝だ。
 秋山君も東響を世界に通用する見事なオケにしてくれた(ジョナサン・ノットという強いイデーを持った助太刀もありがたい)。

 もうあげればキリがないので、やめるが、一つ、話しておきたい事がある。

 それは、君のつくる音楽は、音楽のイデーが弱いことだ。オペラなどは何も教えていなかった(わたし自身がよく知らなかった)のに、それを克服した努力には頭が下がるが、それはそれ。いま、わたしが言いたいのは、楽曲の理念、作曲家の思想(言葉ではなく、音楽でしか伝えられない想い)が希薄で、個々の音の美しさ、見事な音響を生みだすことが音楽の中心となり、作曲者の理念が弱まることだ。それでは聴衆を酔わせることはできるが、楽曲の核心を伝えることにはならないのだよ。

 一つ例をあげれば、シュスタコーヴィチの5番「革命」の演奏だ。これを聴くと、彼が曲にこめた複雑な想いへの共感がなく、上手で見事な音響があるので、この曲の真価=意味=姿はボヤケて見えなくなるのだ。だから、感動は、精神ではなく神経と肉体にのみやってくるという結果を招いているよ。この演奏は大評判になったようだが、それは聴衆におもねて、曲の真髄を明らかにするのではなく、音響の美しさや迫力による演奏をしたからだ。彼の息子のマキシム・シュスタコーヴィチなどは、逆に楽曲の意味を明白にした演奏なので、心身の奥深くから強烈な感動がやってくるのだよ。

 苦言を呈してしまい、申し訳ないが、死の瞬間まで丸くならずにいてほしい、というのがわたしの勝手な願いなので書いた。許してほしい。かって、「カラヤンなにくそと思った」と著書(「ぼくの音楽武者修行」)に書いたその言葉を、今は消してしまったようだが、それはいけないよ。モーツァルト(わたしは39番が好きだった)もベートーヴェンも君が得意にしていたベルリオーズもみな革命家で、最期まで丸くなるどころか、ますます尖がって深く大きくなったのだからね。

 
   天国から失礼  斎藤秀雄 


(すべて武田による創作ですが、事実関係に誤りはないと思います。私は小澤ファンを1960年代から続けてきましたので、よく記憶しています)

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コンサートホール関係者の皆さまへ。写真撮影について。

2024-02-05 | 芸術


再録です。サントリーホールは1年ほど前から許可となりました。ぜひ、他のホールもよろしくお願いします。

コンサートホールや美術館での写真禁止は、日本だけ。「後進国」からの脱皮が必要です。

2016-12-17 | 学芸


ベルリンフィル本拠地で、指揮はラトル  (2015年秋、染谷裕太君撮影)   ここでは一応「No photo」の看板は周りますが、
撮影しても別段注意もされず、うるさくない、とのことです。


アムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ   (2015年秋 染谷裕太君撮影) ここでもロンドンその他でも自由に撮影できました。



   わたしの愛弟子の染谷裕太君は、昨年、欧州一周をした時に、ベルリンフィル(ドイツ)、アムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ(オランダ)、ロンドン交響楽団(イギリス)などいくつもオーケストラ聴きましたが、どこでも写真は演奏最中でなければOKで、たくさん撮り、よい記念&記録になりました。

   ところが、日本のコンサートホールでは、どこも写真撮影を厳しく(うるさいほどのアナウンスと見張りで)禁止していて、呆れます。世界基準・国際基準とは異なり、日本だけは禁止とは、なぜなのでしょう。

   そういえば、わたしが小学生の時から親しんできた上野の国立西洋美術館(松方コレクション)も、ず~~と写真を一律に禁止し、ジロジロと見張っていました。しかし、優美で合理性に富む美しいコルビュジエの設計の同館を世界遺産に!という運動が始まった時から(今年ようやく実りました)、特別展以外は、写真撮影は自由になったのです。そのおかげで、わたしは、同館の所有する傑作マイヨールの「夜」を優れた写真にし、いま、多くの人がわたしの写真を使用しています。

   世界遺産に登録されるためには、ルーブルもオルセーも大英博物館もどこでも写真は自由に撮れるという国際標準に合わせる必要から、自由にしたのでした。なんでも禁止が大好きな日本という国の情けない現実です。【自由や個人性に乏しい後進国=日本】を象徴するエピソードです。

   話を戻しますが、
わたしがコンサートホールの管理者であれば、写真撮影は自由にしますが、それは、ホールにとっても演奏者や演奏団体にとっても大いに利益になるからです。今は、みながスマホを持ち、写真を撮り、発信しています。これは、最高の宣伝になります。しかも無料でたくさんの人が宣伝してくれるのです。いま、オーケストラはなかなか満席にならず、時には世界を代表する楽器奏者でもガラガラということもあります。生写真付きで、「よかった!」がSNSで発信されるのは、大いなるCMで歓迎されてしかるべきこと。

大型機材(大型の望遠レンズやカメラ)、三脚、ストロボなどの照明器具は禁止、演奏中は禁止とし、それ以外はご自由に。というのがよいのです。日本だけは特殊でなんでも禁止という悪しき慣習はやめなければなりません。コンサートホールや美術館は公共の場なのですから、世界的な公共の常識に合致させる必要があるはずです。


武田康弘

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追加

このblogを出した後、主なコンサートホールにメールでお願いをし、直接お話しもしました。その結果、改善が進んでいて嬉しいです。ありがとうございます。

今までは、どこのホールも一律で「禁止」し「見張りを立て」写真を撮らせないことを徹底していたわけですが、それが変わったのは、小学5年生から55年間のクラシックファン(同時に写真ファン)のわたしとして、よろこびです。

コンサートホールはみなのもの、公共性の象徴ですから、節度をもち、楽しく利用したいと思います。(2018年12月7日)

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