思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

郷原信郎さんの記事(首相夫人のFBは官邸の捏造)への多くのアクセス感謝と、彼との思い出。

2017-03-27 | 日記

 

3月25日のアクセス数

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    郷原信郎さん(元東京地検特捜部)の昨日の記事は多くの方に読まれたことが分かります(前日の5倍近い訪問者数)。とても感謝ですが、ぜひ、引き続き拡散をお願いします。「正義」の実現のために。


    実は、わたしは、7年前に彼と共に参議院において「パネルディスカッション」をしましたが、人間的にとてもよい印象をもちました。
    わたしの旧友の福嶋浩彦さん(元 我孫子市長・当時 消費者庁長官)と同じく長い付き合いの竹田青嗣さん(哲学者・早稲田大学教授)とわたしと、この時はじめてお目にかかった郷原信郎さんの4人で「新しい公共」をテーマにしたパネルディスカッションをしたのでした。

    その内容は、白樺教育館ホームでも見れますが、郷原さんは、東大の数学科に学び、その後で司法試験に合格し、検察庁に入ったたいへん異色の人です。ほんとうは弁護士事務所に就職する予定(内定)でしたが、検察庁が彼を是が非でも採りたいので、横やりをいれて獲得したというまるで拉致のような~(笑笑)。

    頭脳明晰ですが、尖った感じではなく、物静かで優しく、正義感に溢れ、とても人間味のある人という印象でした。芯は強く不退転です。


2010年6月24日「新しい公共」について考える。修了後、スタッフと
福嶋さん、郷原さん    竹田さん   武田

 

 

  


 

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昨日は、泥さんと初顔合わせ。柏まで来ていただき、ありがとう~~

2015-03-17 | 日記

昨日は、泥 憲和さんと初顔合わせ、とても楽しいひと時。

白樺教育館のメンバーとの会合です。

泥さん、遠いところをありがとう!!

白樺同人の川瀬優子さんがいろいろ手配してくれました。

FBをどうぞ。

 

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神田祭りに一番縁のあるわたしは、昨日は、神田駅で乗り換えて奥多摩に行きました(楽しい写真)。

2013-05-13 | 日記

 

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太平洋戦争で長いこと祭りができず(保守主義の政府が天皇現人神というトンデモナイ靖国思想で「聖戦」)、

戦後はじめて神田祭りが行われたのが1952年(昭和27年)の5月14日と15日。

わたしは、その初日に神田須田町で生まれたので、神田祭りー神田明神とはとても縁が深いのです。わたしの父は、お祭りに出ていて誕生の瞬間にはいなかったというおまけつき(笑)。

お宮参りも七五三も神田明神で、結婚式も明神会館でした。
写真は5月3日の憲法記念日に撮った写真ですが、1日に亡くなった母の供養のためと、 『天皇制って何だろう』の文章を奉納した際に写した一枚です。結婚35周年。

また、祖父は神田市場(今は大田区に移転)で使う「大八車」(野菜や果物などを載せて場内を移動する時に使う)をつくる職人で、経営者(今井製車店)でもありましたが、神田市場の大半の大八車は、祖父とそのお弟子さんが作ったものでした。

昨日は、4年ぶりの祭りでしたが、わたしは子どもたちを連れて、奥多摩(御嶽ー沢井)に行ってきました。青梅線への(からの)乗り換えは神田駅ですので、帰りには、赤い顔をした神輿の担ぎ手たちと遭遇。

よい天気!のびのび、生き生き。
京都の儀式的・権威的な祭りとは対照的な、明るく平易なまつりが明神様のお祭りですから、奥多摩で遊ぶ子どもたちの笑顔とピッタリ。


武田康弘

 

 

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またウォルフレン氏の予言が的中!でも、それをみなで避けませんか。

2010-04-22 | 日記

オランダのジューナリストで、日本社会の優れた分析で世界的に有名なウォルフレン氏は、16年前のベストセラー『人間を幸福にしない日本というシステム』のなかで、次のような分析と予言をしました。

「検察庁は、まず第一に現状維持に関心がある。それが秩序維持の最善の方法だと思われているからだ。これは、日本の民主主義にとって重大なことだ。なぜなら既成秩序とはすなわち官僚独裁のことだからである。日本の民主主義を実現するためには、官僚の意思決定に政治家の支配が及ぶようにしなくてはいけない。それは現状を激しく破壊することになるだろう。官僚たちはなんとかそんなことにならないように努めるだろう。
日本の検察庁は法務省の統制化にあるから、結局は官僚制度全体の下僕ということになる。つまり、官僚たちが強力な政治家に脅威を感じはじめたら、検察が面倒をみるのだ。田中角栄にこれが起こり、金丸信にも起きた。小沢一郎やほかの改革政治家たちにも同じことが起きるかも知れない。」

周知の通り、非妥協的な改革主義者の小沢憎しで一致する既存の勢力(政界、検察、マスコミ等)による徹底した追及で「犯罪者」に仕立て上げられた小沢一郎氏は、ウォルフレン氏の予言通り、極めて厳しい状況に追い込まれています。


『中央公論』の先月号においては、ウォルフレン氏は、以下のようにいまの新党ゴッコを予言し、警鐘を鳴らしていました。

「確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権が現れては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。」

彼の恐ろしい予言、「官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。」
を避けるために、わたしたち市民はもっと賢くなければいけませんね。市民が肝っ玉を太くして、悠然と構えましょう。一番損をするのは、焦ることです。元も子もなくします。


武田康弘

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石橋湛山から学べ (内田卓志)
2010-04-23 15:02:09

低レベルなマスコミに混乱させられてはいけません。
この国はやっと本格的な政権交代ができた民主主義一年生なのです。

皆で現政権と共にがんばればきっと歴史の峠を越えられると信じます。

それには建設的な批判が大事です。
今のマスコミのように代案なき現状批判は最も愚かです。

明治以来の最大の言論人といわれる石橋湛山は、自らの代案無しに現状批判などしませんでした。湛山から学ぶところ大です。
                       

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なぜ東大生は頭が悪いのか?

2010-04-11 | 日記

わたしは、いままで多くの東大生と話をしてきましたが、彼らの多くは客観知に支配されているために自分で考え出す能力に劣り、受動的でステレオタイプの情報処理頭脳でしかありません。

東大生に限らずですが、受験主義の勉強=暗記の訓練が中心の頭の使い方をしていると、「考える力」が潰れてしまうのです。

記憶力に頼ると思考力が働かなくなるのですが、その点に対する自覚がないために、現代の勉学はペーパーテストの点数をあげるという目標のみに特化してしまい、「記憶力競争」に陥っています。丸暗記と答えの決まっている問題の解法を身につけることだけの勉強を長時間やると、知らぬうちに頭は不活性化して情報に頼るだけの「死んだ頭」になってしまいます。

東大生は、自分の具体的経験によく照らしながら自分の頭で考える力が乏しいのです。そのために生きた心と頭になりません。テスト問題を解くだけの優秀さ・言葉・概念を羅列するだけの優秀さでは、人間としての優れた頭脳とは到底言えません。

ここで注意しなければいけないのは、『考える頭』とは、奇問・難問が解けるという意味ではないということです。それは、その種の訓練を繰り返せば出来ます。そうではなく、真に優れた頭脳とは、自分の経験から意味を見出し、新たな意味を創造する能動的な能力を持つのです。わたしは、それを『主観性の知』と読んでいますが、「東大病」の問題と共に説明した論文もありますので、ぜひ見て下さい(参議院発行「立法と調査」別冊)。
知の目的は「主観性の知」であり「客観学」は知の手段に過ぎないことを、学者や教育者を含めてほとんど誰も自覚していませんが、そこに日本の知と教育の不毛性の原因があるのです。

『主観性の知』を、例をあげて簡単に説明しますと、
自分で考える力、対話する能力、作文力、イマジネーション、創造力、感受性の能力、センス、企画や設計する力、評価し判断する力、有用な意味を見出し、生み出す力・・・これらの能動的な知は、答えがドリルに書いてある知(客観知)ではありません。

ただの『記憶力競争』は、使えない頭しかつくりません。それは『全体的に考える有用な頭』を潰してしまうのです。ほんとうのことは何も分からず、何も見えず、でも、権威に従い、決まっている正解が書ければ「頭がいい」とされる!?これでは問題は解決せず、よろこびは得られず、人間の生はやせ細るしかないのです。

わたしは、一人ひとりの豊かな生のために、「客観学」と共に、知の目的である「主観性の知」を鍛える教育を続けています。

暗記マンの東大生ではなく、自分の頭で考えるソクラテスを目がけましょう。


武田康弘
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今思い出してもゾッとします (C-moon )
2010-04-12 21:32:03

耳の痛い話です。
東大生とまったくかけ離れたところにずっといましたが、取り組み方は、彼らと同じ傾向にあったと認めざるを得ません。
学ぶことが、すべて受験に向いていたわけではありませんが、ある時期かなりのスペースを埋めていたことは間違いなく、受験への流れを確かなものにすべく、考えることなく反復の繰り返しでした。
こうした姿勢を「学ぶ」とは言わないですね。

その頃、机に向かっていたり、参考書を開いたりすることは、ぜんぜん楽しくなく、とても苦痛で、今思い出してもゾッとします。二度と繰り返したくない取り組み方です。
だから、身についたものはひとつもなく、受験が終わったとたんすべて消えてしまいました。

こうした傾向に容易に運んでしまうのは、今考えると根が深く、小学校に上がった時、そこに準備されていた指導方法だと思います。
「憶えろ」という言葉を教師たちがどれほど私たちに言ったことか。「考えろ」という言葉よりはるかに多かったように思います。
「よく考えろ!」と言われたのは、悪戯をして怒られた時くらいのものですか……。

今思うのですが「憶える」という姿勢に能動性は感じられませんね。一生懸命やったわりには、脳が受動的な姿勢でただ疲労するだけです。ポンポン投げ込み、受け入れるだけで、まるで玉入れのようなものです。
これが「考える」となると、姿勢はもちろん脳も五感も感受性も(医学的、生物学的、大脳生理学的には、五感も感受性も脳の支配下にあるんでしょうけど)能動的でかつフル活動しないと事が運びませんね。そして「考える」ことで脳も五感も感受性も養われていく。

そんなことに、ようやく気付いた今日この頃です……

これからしっかり能動的な姿勢で考える力をつけていきます♪
(けして遅くはないと思うので……)
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試行錯誤・五感全体による会得 (タケセン)
2010-04-12 22:01:15

Cmoonさんは、本質的に大変優れた方だと思います。
それに、極めて率直・正直ですので、どこまでも伸びる可能性を持ちますし、とても気持ちがよいです。

わたしは、24才のときに自信をもって私塾を立ち上げましたが、小学生のこどもたちによって、その自信は単に言葉=理論=観念上のものに過ぎないことを悟らされ、数年間は書物を封印し、すべてを白紙に戻して日々の経験から考え直し・作り直す作業を続けました。五感全体による会得を心がけたのです。その方法を少しづつ徹底し、試行錯誤を繰り返し、豊かな認識を得るように努力して今日に到りましたが、毎日が広義の勉強です。

ぜひ、今後もお付き合い下さい。共に進みましょう。

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ラトル・ウィーンフィルの名演・ベートーヴェン交響曲全集が2700円(驚)

2010-04-10 | 日記

ラトルのベートーヴェンは、以前に第九を購入しましたが、実に面白く愛聴していました。全集が聴きたくなり、アマゾンで見たら、なんと!アメリカ・カルフォルニアのショップで2369円(+送料340円)で売られていましたので、早速購入しました。

実に自由で創意あふれる演奏、のびのびとした能動性・豊かな主観性の愉しい音楽に大満足ですが、あまりに安い価格には驚かされます。CD一枚分で、全曲(5枚組)が揃うのです。どうなっているのでしょうか?紙ジャケットのデザインもシャレています。

それに、Manufactured and printed in the EUのこの盤は、日本盤よりも音質がよいのです。第九のみの比較ですが、音が豊かで、ダイナミックレンジが広いのです。日本盤は、小型のオーディオを意識してか、わざわざレンジを縮小しているようです。音楽の面白さが大きく違います。

送料込みで、演奏・録音とも見事な全集が2709円!(驚)。買わなきゃ損ですよ~~(笑)。変な思い込みのない人・ピュアな心をもっている人は誰でもこのべートーヴュンに感動することでしょう。
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わたしは○○ちゃん、でも、ひとりだけは○○さま、人間は平等ではないの?

2010-03-20 | 日記


わたしの教室の小学生の女の子の「つぶやき」です。

わたしは、○○、とか、○○ちゃんとか、○○さん、って呼ばれてるけど、
どうして、おんなじ小学生なのに、「あいこさま」なの~~?へんなの!!(プンプン)。
平等にしてほしいーーー。

あなたなら、どう応えますか?

「愛子さまは、お生まれが天皇家という偉いところなので、生まれながらに高貴なお方なのよ、だから、「さま」と呼ぶの。あなたは、ふつうの家の女の子だから、「ちゃん」なのよ。分かった。」--------分かるはずありませんよね(笑)。

教師は、とっても困ります。



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「町中みんなで合唱団」(地球ドラマチック)に感動。

2010-03-01 | 日記

若き合唱指導者のギャレス・マローンは、この町の牧師からの要請を受けて、活気もなく娯楽も少ないロンドン郊外の町サウスオキシーにやってきます。

彼の熱心な呼びかけで、市民と合唱団と児童合唱団が誕生しました。マローンの企ては、町の人の心を変え、一つの「奇跡」を起こします。

わたしは、NHKの『地球ドラマチック』で放映されたこの番組を見て、感動に涙しました。

その後篇が、3月3月 4日(木) 19:00~19:40に
『町中みんなで合唱団! ~大聖堂への道~』(NHK教育)として放映されるそうです。
わたしはとても楽しみにしています。みなさんもぜひご覧ください。


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「武田哲学の整理」 石橋湛山のこと、親鸞のこと・・・(内田・武田メール)

2010-02-25 | 日記

武田先生

私もいまだにいろいろ本を読んだり、学会へ行ったら恩師と勉強したりしておりますが、現実のレベルで武田先生の行っている運動が現実生活を活きる上で最も納得できるのです。それは如何に崇高な学問を構築しても現実生活から乖離していたらそれまでの話しです。
つまり純粋学問の探求は大切なことですが、私の望んでいることはそれだけではないということです。
その武田先生の哲学の根幹・柱をきちんと理解して、先生や皆さんと共に新しい哲学を開く橋げた(架け橋にはなれませんが)ぐらいにはなれたら良いと思います。難しいですね。(笑い)

【武田哲学の柱】

次元1.「自我の考察の問題」、「哲学的な実存論(哲学的エロース論)」
     ⇒よく活きる、楽しく、気持ちよく活きる、活き方にかかわる次元のこと。

峻別→-------------------------------------------

次元2. 「知の次元の問題」、「哲学的知の目的論(哲学的知性論)」
⇒知の目的である①「主観性の知」の次元と、知の手段である②「客観知(学)」の次元の違いを
明晰に自覚すること。

        次元2-①  「主観性の知」⇒知の目的  
   峻別→---------------------------------------
        次元2-②  「客観知(学)」⇒知の手段


次元1「自我の考察の問題」と次元2「知の次元の問題」は別次元  
次元1 ≠ 次元2  次元1と次元2は哲学的な価値次元の高低はない

次元2中の次元2-①「主観性の知」と次元2-②「客観知(学)」は別次元
次元2-① ≠ 次元2-② (哲学的な)知の目的は 次元2-① であり
次元2-②ではない 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

それに、先生と石橋さんのこと共感できたことは嬉しいことです。
私の研究もがんばらなければなりません。正に哲学者かくあるべし
で白樺思想と石橋さんの思想はやはり近いですね。
以下は感想です。


先ほどブログ拝読、石橋さんへの言及共感しました。『石橋湛山評論集』を読まれてのことですね。確かに石橋さんは、英米の哲学だけでなくルソーを始めフランスの哲学から影響を受けました。(ベルグソンなど)そして、田中王堂から指導を受け自らの思想を確立したわけです。
このような『民主主義・平和主義・自由主義』の思想家・言論人があの時代に日本にいたことは誇りです。戦後は、保守党の第二代総裁で総理大臣にまでなったのですから。ここのところが興味深いし大切です。
また、世界的にみても一国の宰相が、全集15巻にも及ぶ言説を公にした人は世界でも石橋さんだけでしょう。山県有朋を「死もまた社会奉仕」と言ったことは正に痛快です。今のジャーナリズムの低レベルには困ったもので、比較になりません。
さらに、石橋さんは官僚批判と共に現代的な文脈に耐えることの出来る初めての地方分権論を主張した人でもあります。

内田卓志
――――――――――――――――――――――

内田さん
そうですね。
「生活世界」という海の中に「学」の小島はあるのだ、という強い自覚と言明がどうしても必要です。
うむ~、「武田哲学の整理」ですね。いろいろありがとう。
武田

―――――――――――――――――――――――――

武田先生

こちらこそご多忙中にしつこく伺いまして失礼しました。
今後とも同朋同行でお願いします。
同朋同行と言えば親鸞聖人ですが、親鸞聖人は日本人の心の故郷のような人ですね。五木寛之さん親鸞を書き、今村仁司さんの遺著が親鸞です。
内田

――――――――――――――――――――――――――――

内田さん
あれだけ赤裸々に自己を見つめ、裸になり、しかも少しも崩れない。
世界の実存哲学の最高峰!にしてかつ宗教者。天皇制国家権力と根源的に闘い、しかも少しも過激ではないのは、彼が真の主体者として実践と共に生きたからでしょう。
どのような対象化(客体化)も色あせる能動性=主体性は、他力本願という深き受動性から生まれたのですが、これほどの深みをもつ人は、世界にもいないでしょうね。
武田

―――――――――――――――――――――――――――――

武田先生

まったく賛成です。私も学生の頃から『歎異抄』を読んでどれほど感動したかしれません。
確かに『教行信証』は引用も多く大変難しいですが、いつか読破したいと思ってます。親鸞聖人の声がきっと聞こえるでしょう。正に、世界に誇りうる大人物です。憧れてやまない方です。
「悪」や「罪」の問題をこれほど深く思索した思想家はいなく、煩悩具足の凡夫の私には大変な救いになる方でもあります。

内田
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国会と行政の改革―「内閣法制局」という根本問題

2010-02-14 | 日記

三権分立(立法権、行政権、司法権の権力分立)は、言うまでもなく民主制の屋台骨です。

「国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である」という憲法41条の規定にある通り、法治国家における中心は国会です。

ところが、実際に法律をつくっているのは、国会ではなく、行政機関(霞が関)なのです。
行政機関(各役所)が自分たちに都合のよい法案をつくり、また改正案や廃止法案をつくって、それを「内閣法制局」が取りまとめ、そこから閣議を経て国会に出すのです。国会はそれを採決するだけで、議員立法は例外的、それが現実です。

ほんらいの民主主義による政治を行うには、行政機関が法律案をつくるのではなく、国会議員が法律案をつくる必要があります。そのために、国会(衆議院と参議院)に法制局があるはずなのですが、話題になるのは「内閣法制局」ばかりで、肝心の「衆議院法制局」と「参議院法制局」は影が薄いのが現実です。

こういう矛盾した国の仕組みを根本的に変えなければ、民主制による政治は現実化しません。法案づくりまでも行政(役所)に握られていたのでは、国会議員の力はつかず、国会は形骸化してしまいます。主権在民に基づく民主主義を実現するためには、選挙で選ばれた国会議員が立法を行う必要がありますが、そのためには、衆・参の法制局の大幅な改革=充実が急務です。


武田康弘
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NHKスペシャル「権力の興亡」

2009-11-02 | 日記

昨晩に続き、夜10時からのNHKスペシャル「権力の興亡」②を見ました。

実に面白い!!

当時の映像と共に、いまの小沢一郎さんをはじめとする有力政治家の証言をふんだんに盛り込み、事の真相を明らかにする番組で、明日が最終回です。

長年にわたって、NHKに大きな影響力をもってきた自民党が下野した為か、のびのびと番組づくりができるようになったようです。

はじめて「公共放送」の役割を果たすようになってきたな、というのが私の感想です。

それにしても、映像は怖いものです。誰がいちばん説得力=実力があるのか、一目瞭然です。

明日の最終回が楽しみです。


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官と公ーー言葉の意味について

2009-10-05 | 日記

「官」と「公」のことばの意味について、簡潔にまとめてみました。


公は、歴史的には大きなイエとしての「おおやけ」から来ていて、領主権を指す。
官は、古代中国(隋・唐)をモデルにした集権型の権力機構を指し、明治時代からは国家に限定されて使われた。
「官」が国であり、市町村は「公」であり、「官公庁」という時は、国家と地方の両方を指し、公が下位、官が上位になる。
明治以降敗戦までの天皇は、【絶対公】であり、これに直属しているものが官と称されたので、世俗の官=国家を超越した【絶対公】としての天皇は、雲の上の存在であると同時に名もなき貧民の側に立つ者でもあるという両義性をもった(これが曲者で、天皇はひとりの男性であるにも関わらず、国家宗教の絶対者となり、それゆえにいつも「聖」としてあらゆる責任を免れた。よいことは全て天皇の功績、悪いことは全て天皇以外の者の責任!?!?こういう曖昧で都合のよい無責任性をその本質とするシステムが近代天皇制である)。

第二次大戦の敗戦による終戦後は、「日本国憲法」の誕生により※、わが国は、主権在民の近代市民国家へと大きく舵を切ることになったが、ここでは、「公共性」とは、個々人の共同性・相互性へと変わり、国家=官も、それ以外の公も、市民の公共性を下支えする道具となった。官も公も、市民・国民への奉仕者なのある。

※現「日本国憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正という形を取ったが、明治憲法は、天皇が臣民に与えるという欽定憲法であり、主権在民の立憲主義に立つ「日本国憲法」とは根本的に異なる。主権者が天皇から国民に変わり「主権在民」となったのは、革命に等しい。

以上は、原理次元の話だが、それを明晰に自覚し、そこから逸脱するような官府の言動に対しては、明確に「ノー」を突き付けるのが、わたしたち市民の権利であり義務であるはず。
国家とは、右翼の想うような「命」ではなく、左翼の言うような「悪」でもない。市民の公共性を支え・つくるのが国家の存在意味であり、国家はふつうの市民の意思によってつくられるもの=市民国家。
近代民主主義社会における国家とは、市民の公共性を実現するためにのみ存在するのであり、もしそこから逸脱すれば、国家権力はその正当性を失う。


武田康弘


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松崎公昭さんのポスター&パンフ写真の裏話!?

2009-08-27 | 日記

重たい話がつづきましたので、
今日は、少し、軽い話題です。

いま、衆議院議員選挙の真っ最中。すでに終盤ですが、
千葉8区から立候補している私の友人―松崎公昭のポスターとパンフレット写真についての裏話(笑)です。

実は、彼の写真は、全部わたしが撮ったのです。

1年前の9月7日、もうすぐ選挙だ!間にあわせねば~~、と慌てて撮影。でも現実はみなさんご存知の通り、1年近くも延びて、いまになりましたが。
とても暑い日で、汗だくになりながら、家族と秘書さん総出の大賑わい(笑)の撮影でした。場所は、手賀沼に臨む我孫子市のアビスタ(生涯学習センター)前の公園。

「このご時世、ただ笑顔のポスター写真ではダメ」という私の判断で、「明治以来の官僚主義を打破しなければ!」という演説を松崎さんにしてもらい、それがポスター写真になりました。

カメラは、ソニーα350。レンズは、泣く子も黙る(わけないか・笑)カール・ツアイスのゾナー135ミリF1.8.(35mm版換算で200ミリ)。デシタル時代にツアイスが本気で取り組むとどうなるか、という見本のようなレンズです。おそろしいほどの解像力と、自然なボケ、質感描写の美しさには息を飲みます。ただし、印刷用原版ということで、RAW画像ではなく、Jペグの圧縮です。

パンフレット用には、お孫さんや秘書さんのこどもたちとの写真も撮りましたが、なかなかいい感じに撮れたと思います。笑過ぎ!で、パンフには載せなかった写真を一枚、貼り付けましょう~~~。
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!?「皇室を守る政治が必要」―自民党総裁・麻生太郎さんの弁

2009-08-07 | 日記

わたしたち日本の主権者は、皇室の維持費・生活費を全額(総額170億円)を出していますが、さらに「皇室を守る政治」をしなければならないのでしょうか?

わたしは、どうにも合点がいきません。私たち一人ひとりが主権者である民主主義の政治において、「皇室を守る」ことを目的にするというのは。
これは、すでに60年以上前に歴史的に審判が下ったはずの「国体思想」そのままですが、こんな亡霊言説が総理大臣の口から出るのですから、近代民主制国家(=個人の思想及び良心の自由に基づく「主権在民」のルール社会)をつくり出すのは、なかなか大変です。いつまで、儀礼的存在に過ぎない天皇や皇室を特別視し、特別扱いし、国民がそれを守らなければいけないのでしょうか?

同じ人間であるにも関わらず、生まれながらにして特別な存在であることを保証する。そして、天皇家に伝わる宗教儀式を年間に200以上こなすことを生活の柱とする皇室生活に掛る費用は、国民が負担する。浄土真宗の信徒もクリスチャンも。おまけに、その一人の人間の生死で、時代の名前まで変えてしまう。天皇現人神の1945年までと、その後の新憲法制定=主権在民の民主主義時代も、同じく「昭和時代」と呼ばれる。ええっー、!?意味不明ですね。


以前にみなさんと対話した記事がありますので、ご覧ください。ふつうの市民のふつうの常識に基づく政治が必要だと思います。天皇制の問題については、わたしの以前の記事=「皇室の人権と市民精神の涵養」を読まれれば、みなさんの納得・合意が得られるのではないかと思います。ぜひ見てください。
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ケストナーの『飛ぶ教室』より

2009-06-15 | 日記
以下は、世界中で愛読されてきた児童読み物―ケストナーの『飛ぶ教室』からです。

みなさんは、できるだけ幸福でいてください。そして、おかしくておかしくて、その小さなおなかがいたくなるほど、愉快(ゆかい)にやってください。
でも、ただ一つ、自分をごまかしてはいけません。また、ごまかされてもいけません。不幸にあったら、それをまともに見つめることを学んでください。うまくいかないことがあっても、あわてないことです。不幸があったてもくじけないことです。へこたれてはいけません。不死身にならなくては。
この一番かんじんなことさえわきまえていれば、勝負はもう半分きまったようなものです。なぜなら、そういう人は、ちょっとくらいパンチをくらったところで、落ち着いたもので、一番かんじんなあの二つの性質、つまり勇気と賢(かしこ)さを示すことができるからです。わたしが次に言うことを、みなさんは、よく覚えておいてください。
賢さをともなわない勇気は乱暴(らんぼう)であり、勇気をともなわない賢さなどはクソにもなりません!世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人たちが臆病(おくびょう)だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人が賢く、賢い人たちが勇気をもったときにはじめて――いままではしばしばまちがって考えられてきましたが――人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。



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