思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「愛国心」の要請!?ー官府による方向づけは、脆弱な社会と人間しか生みません、秩序をつくりません。

2008-03-28 | 社会思想
■文科省、新指導要領に「愛国心養成」を追加
(読売新聞 - 03月28日 05:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=444586&media_id=20


「愛する」ことを保守主義の政治家と一体化した文部官僚が、権力を使って教えこむーこれほど愚かな話はありません。それは、一人ひとりの内的な秩序という人間の最大の価値を元から歪める=イデオロギー化してしまう所業でしかないのです。

愛は、強制や誘導や洗脳によっては決して得られません。【愛をイデオロギー化する】のは、これ以上はない悪=根源悪というほかありませんが、このような思想をもつ政治家や役人は、自身が「ほんとうの愛」とは無縁の人生を歩んできたために、愛の形骸を他者に強要することを平然と行うおぞましい人間となるのです。

それを政治と官の権力を使って強制するのですから、まさに【公共悪】です。自分の想念を権力を使って他者に強要する、そうすることで、不幸な己の生への復讐を果たす、それが彼らの深層心理ですが、そのような人間の言動をきちんと批判することが、よき健全な公共社会を生むための基本条件です。それが民主主義哲学の役割です。

明治政府が極めて意図的につくった「近代天皇制」の下で、明治天皇に捧げられた歌=「君が代」を国歌として、それを全国民に教育せよ!というのがどれほど愚かなことか! 敗戦によって、「天皇主権」から「国民主権」へと日本の政治は根本的に変わったにも関わらず、明治天皇に捧げられた「君の時代は苔が生えるまで永遠なれ」という意味不明の歌をどうやって教えるのか?答えられる人がいるのなら答えて頂きたいものです。「さくら」など分かりやすく誰も積極的には反対しない曲はいくらでもあるのに、わざわざ物議を醸し出す「君が代」を国会の多数の力で国歌とするという行為・思想は、ほんとうに「愚か」としか言いようがありません。

保守主義の為政者は、伊藤博文や山県有朋らの明治の超保守主義者がつくった天皇主義・国家主義の想念にいまだに呪縛されているために、こういう意味の通らないことを元にして、愛国心教育をしようなどとしか考えられないのですが、これでは人間の生のよろこびに基づくよき未来は開けません。
豊かで強い社会は、一人ひとりの華・エロースが咲き乱れることではじめて生まれるのであり、上からの愛国心の教育は、国をダメにする施策でしかなのです。歴史から何も学ばすに、こんなことも分からない愚かな政治家や役人は、健全な市民社会の阻害者でしかありません。

納得―了解をうまない強制という手段は、人間の精神の大元を壊してしまいます。秩序の形成=人間の内的な統一を阻害するのです。≪何よりも国を滅ぼすのは、愛国心教育です。≫この逆説が分からぬようでは政治を行う基本能力がない、と断罪するしかありません。人間とは何か?という哲学的探求がないところにはよきもの・美しきもの何も生まれないのです。これは原理です。

武田康弘
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The End 都議会自民党・公明党―東京新聞社説より

2008-03-27 | 社会思想
都議会の予算特別委員会で、新銀行東京への400億円もの巨額追加出資が自民党と公明党の賛成で可決されました。

今朝の東京新聞の社説ー『石原銀行増資・都民の意に背く独善だ』は、まことに正鵠を射る内容です。
この一ヶ月間の審議は、第三者の意見聴取を排除する異様なものであったこと。
わずか三年で一千億という巨額な損失を出すに至った経緯説明、調査報告書は、すべて石原慎太郎の側近が書いたものであること。
店舗を六か所から一か所にし、信用金庫なみに規模を縮小するという再建案は、金融専門家の意見を排除し、都の役人OBの津島隆一氏らが作成したものであること。
そこでつくられた報告書は、最大株主であり、基本コンセプトを作成した東京都の責任には言及せず、旧経営陣にのみ責任を被せるものであったこと。

以上が指摘されていますが、
これはもう、わたしが先のブログで書いたとおり、旧社会主義圏の崩壊前夜と同じで、権力の保持者が好きなようにやる、しかも都知事の石原慎太郎と与党と役人が一体化し、責任は負わず、困れば税金を使えばいい、という「唖然」とする話です。

社説では、
「清算も含め事業撤退に追い込まれることが目に見えている。もはや損出最小化の選択をためらってはならない。」と結論づけていますが、その通りです。
さらに、「困ったときには税金頼みというのでは【倫理感の欠如】の極みではないか。責任は免れまい」と書かれています。倫理感のかけらもない【自我主義】による強圧的な政治を続ける石原慎太郎を支持し続けてきた都議会自民党と公明党に明日はない、わたしはそう思います。

言わずもがなですが、民主主義社会とは、主権者がお金=税金を出し合って【共同経営】をする社会です。【代行者】は、主権者の共同利益を守り、発展させるのが仕事であり、自分のもつ特定思想や趣味で政治を行うことはできないのです。

武田康弘

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国民のためではなく、国家のため!?石原東京都の「君が代」強要は、民主主義原理への挑戦です。

2008-03-25 | 社会思想

今朝の東京新聞には、都立南大沢学園養護学校の根津公子教諭(57)が「君が代」斉唱時に起立しなかったことで、懲戒免職となる可能性が高くなった、という記事(こちら特報部)が載っています。

 石原都知事の強い意向を受け(実質的に破たんした「新銀行東京」の場合と同じ)、東京都教育委員会は、2003年に、「教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」「従わない場合は、服務上の責任を問われる」という通達を出しましたが、それにより処分を受けた教員は、約390名、生徒が起立しなかったことでも教員の責任が追求され、70名が厳重注意を受けたとのことです。
なんだかすっかり戦前に回帰したような国家主義ですが、「愛国心」を国旗や国歌に従わせるという「形」にすること=「フェティシズム」(物神崇拝・衣服などを性的対象とする精神異常)の強要というおぞましい政治が21世紀の今もまかり通っているというのは、わが日本人の知的退廃以外のなにものでもありません。「思想及び良心の自由」(19条)という憲法の根本理念=近代民主主義の原理に挑戦することで得られるものは何もないはずです。

土台、入学式や卒業式までも上からの指令で行うということがどれ程異様なことか!!生徒や先生や親たちが決められないという学校に教育はありません。これは原理です。教育内容にいたるまですべてを現場の決定に委ねることで世界一の教育先進国となったフィンランドなどの例を見ても分かるとおり、自治という民主主義の原則がなにより必要なのは、これからのよき社会人=公民=公共人=市民を育てる教育の現場です。自分の意見が言える手強い人間=集団同調・付和雷同しないしっかりとした個人=意味をつかめる頭と心の自立をもつ人間を育てなければよい国は生まれません。

新聞によると、自分の信念を貫いてきた根津公子先生は、「わたしを含めて大人の言うことを鵜呑みにせず、自分で考えることのできる人間を育てたい」と考え、その通りに実行してきた大変立派な先生です。教え子たちから慕われ尊敬されてきた現代まれに見る先生のようです。
「自分をさらけ出せる唯一の先生」「障害のある私の相談にのってくれ、いじめた生徒を怒るのではなく、双方を話し合わせて解決してくれた。生徒のことを本当に考えてくれる先生」「君が代問題も、生徒にある考えを押し付けるのではなく、どう思うかを問いかけられ、自分で考えるきっかけをもらった」「強制で国への誇りが生まれるはずはない」「どの生徒にも平等に接してくれる先生」「意見が言えない学校で育つと、社会へ出ても理不尽なことにも我慢するしかない生き方になる」 ・・・・と口々に生徒たちは、根津先生を支持する発言をしています。
そういう先生を何より嫌うのが権力主義=国家主義の政治家であることは、戦前も戦後も変わらないようです。一人ひとりの「市民のため」ではなく、「国家のため」という【幻想】(フェティシズム)に囚われている人たちこそ公共社会にとって最も危険な人物だと言えるでしょう。

石原慎太郎をはじめとする権力主義の政治家は、自分が上に立ち他を従わせることに「快感」をもつ人間ですが、そのような人間に政治を任せるのは極めて危険です。現場が決めるという自治政治=民主主義を破壊し、公共精神を育てず、よき社会人=公民==公共人=市民を生みません。

武田康弘
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『十五の心』(クラリネットとピアノ・大島姉妹)日本語の美しさを≪器学≫で味わう

2008-03-21 | その他
白樺派・柳宗悦(やなぎむねよし)と共に「民芸」運動を進めた夫人の柳兼子(かねこ)は、日本最高のアルト歌手であり、孤高の作曲家・清瀬保二(きよせやすじ・武満徹の師としても知られる)の歌曲の初演者、紹介者でもありました。ドイツリートの見事な解釈で日本をリードし、ドイツ本国でもドイツ人歌手以上!との批評を受けた兼子は、
同時に、歌曲としての日本語のよさ・美しさを追求し、新たな歌唱法の確立に至ったのです。
(作曲家の清瀬保二の音楽は、足が地についた健康な精神が生みだすもので、品位が高く、しっかりとした身体性を伴っています。現代の日本人が忘れている心と風土の世界を表していて、なつかしく、且つ新鮮です。心から心へ直接伝わる珠玉の名作は、素朴にして高貴であり、独創にして自然です。)

柳兼子さんは80歳を超えてもなお新たな挑戦を続け、演奏会を開き、幾つものレコード(現在はCD化されています)を出しました。戦中に戦争協力を拒否したために活躍の場を奪われましたが、斎藤秀雄(小沢征爾等「サイトウキネンオーケストラ」に集う人たちの師))をはじめ日本の有力な音楽家には最高の歌手として認められ、韓国では「神」のように尊敬され続けた兼子さんには大勢の弟子がいました。その中でただ一人の内弟子であったのが大島久子さんです。久子さんの親友・松橋桂子さん(清瀬保二のお弟子さん)の大著『柳兼子伝』に依れば、ご主人の大島恵一さんも若いころは兼子さんに師事していたとのことです(後に東大教授、OECD科学技術工業局長)。

前置きが大変長くなりましたが、昨日、大島久子さん(84歳)から頂いた『十五の心』ー「詩」を奏でる・クラリネットとピアノで綴る日本の歌―という最新録音のCDをご紹介しようと思ったら、歴史を書くはめになりました。http://www.amazon.co.jp/%E5%8D%81%E4%BA%94%E3%81%AE%E5%BF%83-%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E5%AD%90-%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%96%87%E5%AD%90/dp/B0013HUW8O/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=music&qid=1206070681&sr=1-1

このCDの演奏者の大島文子(クラリネット)さん・直子(ピアノ)さんは、大島久子さんの三女・二女です。わたしは、二女の直子さんの運転するアルファ・ロメオで都内を疾走!(恐怖)したことがあるのです(笑)。脱線しましが、このCDを昨晩から3回通して聴き、とても素晴らしいと思いましたのでご紹介します。以下に、文子さんと直子さんの書かれた一文を載せます。

「二人で演奏をはじめて、かなりの時間が過ぎました。やっと二人とも心の雑念がとれて、素直な気持ちで自分の心表現できるような気がします。・・母は声学を学んでいましたので、遊びほうけていた子供の頃から、歌は私たちにとっては身近なものでした。その母の恩師は柳宗悦夫人の柳兼子です。・・柳兼子が歌った石川啄木の「不来方」(こずかた)を聞いた時、涙が溢れ出た感動を今でも覚えています。・・この啄木の「不来方」の最後の節の言葉である「十五の心」を、私たちのこのCDのタイトルにしました。
楽器でいかに日本の歌を演奏するか?これは、「表現する」とは何なのかということに通じるような気がします。・・同じメロディーでも歌うときに「詩」が違えば、違う表現をしなければいけないのです。・・楽器を演奏しているという雑念があっては、このことは表現しきれない事に気がつきました。どうやって同じメロディーで違う「詩」を、そしてその「詩」の持つ本当の深い意味を表現できるかという事が、私たちが長年取り組んできたテーマです。このことに挑戦するために、全曲、日本歌曲でまとめ、器学のCDではありますが、歌詞を載せました。
私たちの演奏でその歌詞を、そして、日本語の持つ表現の美しさを感じていただければ幸いです。」

まことに見事なコンセプトであり、演奏も実に美しく共鳴します。このCDを聴いて心やすまらぬ人はいないでしょう。ただ、ひとつだけ残念なのは、柳兼子さんが晩年もっとも熱心に取り組み、一番高く評価していた清瀬保二さんの曲が入っていないことです。直子さん、文子さんのコンセプトを深め、独創の境地を切り開くことにもなりますので、次回のアルバムではぜひ入れて下さいね。期待して待っています。


武田康弘
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いま、自見庄三郎さんの質問に感動しましたー参議院予算委員会

2008-03-14 | 社会思想
いま、参議院予算委員会のテレビ中継を見て、感動しました。

わたしはほとんど知らない人でしたが、自見庄三郎さんが、経済、財政問題を中心に質問しました。自身の大臣経験を踏まえ、本質的・原理的次元の問題と現状の問題を立体的に論じて、大変迫力があり、考えさせられる内容でした。

福田首相をはじめ他の大臣もいくつか説得される場面がありましたが、それだけ真に迫った論議でした。こういう政治家ならば、主権者が税金を出す価値があります。

財務省官僚の思惑で作られた経済見通しと政策をバックに答弁した太田大臣とは異なる考えの経済学者と公開討論することを約束させたのには、ほんとうに感心しました。この問題に限らず、役人も民間人や学者も対等な立場で公開討論を行う事はほんらいの民主主義の原則あり、それがなされれば日本社会に「自由と責任」が生まれます。

久々に対話の持つ面白味を味わいました。現実政治の只中でこのような本質的でかつ具体性を伴った議論が行われることがいま何よりも一番大切なことではないか、わたしはそう確信します。


武田康弘
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石原都政の崩壊が始まりました。

2008-03-13 | 社会思想
民主主義の思想、手法、生き方とは大きく異なる「自分中心主義の権化」のような権力主義の政治家・石原都知事は、役人が銀行を経営するという意味不明の愚策を強行しましたが(わたしはそれが必ず失敗すると計画段階から断言していました)、案の定、最悪の事態に陥りました。破綻を逃れることは不可能でしょう。

隆盛を極めた石原都政は、あだ花でしかなかったことが誰の目にも明らかになる日も近いと思います。

明治天皇賛歌の「君が代」斉唱と、権威主義的な入学・卒業式を東京都教育委員会の人事を操作することで各学校に強要し(その目に余る横暴は、NHKも批判しました)、国家独裁者のような言動を繰り返してきた(ふつうの民主主義国家ならばとっくに失脚している差別的・侮蔑的暴言の数々)石原都知事は、その教育政策に反対する者には職すら奪うという暴挙に出ましたが、わたしはその「悪行」を断じて許しませんし、公共的な良識をもつ人ならば、誰でも彼のような言動を容認できるはずがありません。

数々の独断専行を繰り返す復古主義の人物を都知事にした都民の責任もまた重いと言わざるを得ませんが、自問自答と自由対話に基づく対話精神を育成する教育がなければ、彼のような独裁的人物をよしとしてしまう風潮がつくられるのも当然かもしれません。

旧・ソビエト崩壊のような事態が、威張った政治を強行してきた石原東京都にいま始まった、わたしはそう見ます。都民もまた、自分自身の問題として政治に対する考え方の甘さ(自治を基本とする民主主義社会であるのに、独裁的なリーダーを選び、それに任せるという態度)を深く反省する必要があるはずです。


武田康弘
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福田自民党政権の責任は明白ですー日銀総裁問題

2008-03-12 | 日記
[ 00:53 ]

財務省の武藤氏を日銀総裁にすることは、日銀の独立性の観点から民主党その他の野党が反対していたにも関わらず、福田政権は、財務省の強い意向を受けて武藤氏を総裁候補としました。これでは混乱は必至です。

このような福田政権の行為は、参議院での民主党の多数という現実を無視した政権党のおごりという以外にはありません。選挙の結果を無視して、従来通り自民党の思惑を通せると思うならば、まったく民主主義を理解していないことの証としか言えません。

日銀総裁を空白にすれば、それは政権党に責任であることは火を見るより明らかですが、反対されるのがはじめから分かっている財務省の武藤氏を出して、それが通らなければ野党の責任だというのでは、あまりにお粗末な話です。こんな簡明な事も分からないようでは政権担当の基本的な能力が欠落していると言わざるをえません。どうしてこうも今の日本の政治家はテイタラクなのか、ほんとうに呆れ返ります。

「主権者の厳粛な信託による」という感覚がまるでなく、緊張感に乏しい言説を日々テレビで見せられ、聞かされていると、公共的な怒り、憤りを覚えます。政権党が自らの問題を野党のせいにして済まそうという精神では、政権を担う基本の資格がないと断ずるほかありません。これには誰も反論できないでしょう。

武田康弘
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すべての問題の元は、国家主義思想にあります。

2008-03-08 | 社会思想
民主制国家のほんらいの最大の仕事は、人権(自由と平等)を担保することです。
したがって、国家主義等の特定のイデオロギーを強要するような政治や教育=自民党右派の言動は、国家機関を使った許しがたい悪行としかいえません。安倍前首相の本―『美しい国へ』はその見本です。「自由の相互承認に基づくルール社会」という近代民主主義の前提を壊すことは、最も罪深い行為なのです。「日本は天皇を中心とした国であるーその悠久の歴史という大義に殉じたのが特攻隊員だ」「政府が、あるべき家族像を教育によって国民に示す必要がある」「負の歴史(日本の戦争犯罪)を教えるのは自虐史観だからよくない」という考えに基づく政治・教育を国家権力によって実現しようとするのは、近代市民社会―民主主義原理への挑戦としか言えません。

こういう原理違反の思想は、日本のエリート層には都合がよいためか、いまもなお、政界の大物や財界人などには支持されているようですが、この種のイデオロギーをきちんと退治しない限り、日本社会を市民主権の民主主義にすることはできません。現今のさまざまな社会問題―「病院がなくなるー医療の現場の混乱」「点数優先の受験教育で考える力が育たないー東大病」「国家公務員による不祥事の続出」「検察・警察による冤罪の数々―人権蹂躙」、「農業壊滅の政策―食料自給率最低」「生活道路がないー基幹整備の不足」・・・・これらの【出口なし】のような問題の大元は、民主主義―現場の人間が決定するという【自治】の否定=中央でコントロールするという発想・想念・思想にあります。

いま世界中の注目を集めているフィンランドの教育改革、それが大成功したのは、子どもを中心にし、決定権をすべて現場に委ねたところあるのですし(石原都知事とは真逆な方法)、日本でも成功している公立学校は、豊かな人生経験を持つ校長がリーダーシップを発揮し、文部省やその出先機関=教育委員会の意向ではなく、子ども自身の内的な発達を重んじる教育を実践したからです。道路を住民自身でつくる町の試みが大成功を治めているのも、「現場が決める」威力ですし、農業の自立に成功している地域では、消費者と一体となり各農家が直接経営をしています。

【現場が決定する】、これが市民自治=直接民主主義です。エネルギーもすでに太陽光発電を使えば(屋根にソーラーパネル)家庭用の大部分は賄えるわけですし、自動車も燃料電池になればスタンドも要りません。いま何より必要なのは、【発想の大転換】なのです。古い発想に縛られ、中央集権的な遅れた思想をもつ政府機関の要人よりも、一人ひとりのふつうの市民の方にはるかに大きな力があります。可能性としては「ふつうの市民」以上の存在はない、という人類が到達した深い知恵による思想・制度―それが民主主義ですが、それを現実のものとするのが、自問自答と自由対話を方法とする対話的精神の育成です。教育の眼目もそこに置かれなければなりません。これは原理です。


武田康弘
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「誘導・i強制」と「教育」の違いは?「私は、」と言うことが絶対の条件

2008-03-03 | 教育
どのような言説も「主観」であることー「客観」とは背理であることを明らかにしたのはフッサールの偉大な業績で、これが深く了解されれば、いかなる宗教的回心をも上回る人類の実存的回心が起こる、という彼の言葉は、21世紀の現代なお貴重な「予言」だとわたしは確信します。

日本の教育が、教育ではなく馴到・誘導・強制でしかないという事態が、おぞましい近代天皇制=天皇教による圧政が敗戦によって終わった後もなお残ってしまったのは、日本的な「型の文化」が「客観学」と融合させられてきたために「主観性の知」が育たず、単純な「事実学」の累積が勉強であり学問である、という非生産的で非人間的なエロースに乏しい知の支配が続いているからです。

人間や社会問題という部分ではなく、全体的判断・理性が求められる領域においても、どこかに正解がある・「よい」のひな形がある・あるべき型が決まっている、という想念に深く囚われているために、権威者の意向に従い集団同調する他なく、自分の頭で考えるという営みが始まりません。心身が丸ごと客観神話の中で眠りこまされているために、情報を集め整理し記憶するというレベルを超えて自分で考える=主観を鍛えるという作業が「恐ろしくて」出来ない=脅迫神経症に陥る他ないのです。これは「国民病」ですが、これでは自分の生の内側から悦び・充実が来ることはなく、いつも他者の目を気にしてビクビク生きる不幸から抜けられません。それに耐えられなくなって今度は自分の世界に閉じこもりオタクになる、なんとも酷い話でしかありませんが、これは哲学的には、「客観」とは背理であることが了解できない問題と重なります。

したがって日本の教育とは、本質的にはいつも「洗脳」でしかないわけで、教師は「客観的な正解」を言う人、人間ではなくマシーンに過ぎなくなります。頭の使い方―自分で考える方法を教えるのではなく、「ひな形」に誘導する役割を担うのです。教場に主語はありません。学校が主語になり、抽象的で非人格的な教師が主語になります。家庭でも事情は同じで、子どもたちは、世間や社会一般が主語となる言説に取り囲まれてしまうために、個人として、自分自身として生きる術と能力を奪われるのです。主語にはならないものが主語となる倒錯した世界に住めば、「私」は消えるわけですが、人間である限りほんとうに「私」を消すことはできませんから、その隠れた「私」は鍛えられることなく、幼児的なまま形だけが大人になり、「お上手」で内容の貧しい人間に育ってしまいます。全教科100点を取る優秀な「事実人」(人間ではなくただの人)が誕生しても、害あって益なしです。

こういう「型はめ」ではないエロース豊かな教育を生むための基本条件は、大人が「私は、」と語ること、主語=言説の責任主体を明瞭にして、はっきりと自分の感じ思うことを述べることです。

もう20年ほど前のことですが、
小学5年生からの教え子であった木村健君が大学生の時に次のような発言をしました。
わたしの主宰する「哲学研究会」でのひとこまですが、まだ通いはじめて日の浅かった佐野力さん(当時IMB営業部長・後に日本オラクルの初代社長)は、「タケセンは、いつも自分の意見を強く言うが、それでは他の人が圧迫されて、強制のようになるのではないか」と言ったところ、
木村君は、「ぼくは小学5年生の時にはじめて武田先生に出会って、声が大きくはっきり自分の考えを言うので最初ビックリしたが、それはすぐに慣れた。僕はその時、【僕を自由にしてくれる人に初めて出会った】と思った。僕の周りの大人はみな意見を言わなかったが、僕は彼らの暗黙の考えに縛られてそこから抜けられず、苦しかった。自分の考えを説明しながら、はっきり主張する武田先生は、「私は、」と言うことで、他の人やこどもたちにも「自由に考える」ことを可能にした。自分の考えを絶対だと思って人に押し付けるのは黙っている大人の方だ。「私の意見」をきちんと言わなければ、他人の意見を尊重することもできない。だからおじさん(佐野さんのこと)の言うのとは逆だ」と。
わたしは木村君の話を聞いてすっかり感心し、感激したことを今でも鮮明に覚えています。

日本社会の主観性を消去する詐術については以前書きましたが、ここからの脱却は、「私は、」と語ることによって可能になります。【自問自答と自由対話を方法とする対話精神】の育成こそが何よりも一番に求められるのです。それなくしては何事も成就しません。繰り返しますが、客観とは背理である限り、主観性を開発し深め鍛える【自問自答と自由対話を方法とする対話精神】に依拠する以外には、よき人間と社会を生む方法はないのです。誘導や型はめー洗脳ではなく、教育(問答的思考法)が必要です。

武田康弘

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民・官・学による「公共哲学」を巡る討論―参議院における画期的な試みがインターネットで公開!!

2008-03-01 | 社会思想
【主権者は市民である】という「近代民主主義の原則」を貫き、それを具体的現実にもたらすためには、強く大きな意思と、持続する志と、権力者や権威者に寄り添う弱い精神からの脱却が必要でしょう。

【ふつうの生活者としての意識を深め鍛える】という方法以上のものはない、という最良の哲学実践が、いま大きくその歩を進めつつあります。
個々人の自由を相互に承認し合い、生活世界こそがあらゆる「知」の大元であることを深く自覚し、その上に魅力あるルール社会をつくろうというのが民主主義という思想です。

国体思想のような権威主義的国家主義をその発生源から断ち、一人ひとりの自由と可能性を広げることで、楽しく豊かな社会を築こうという試みは、深く大きな普遍性を持つはずです。

参議院のホームページに載った『立法と調査』―1月22日のディスカッション「公共哲学と公務員倫理」の紙上での再現をぜひご覧になって下さい。http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/kounyu/new.htm話言葉そのままの活字化ですので、読みにくいところ、文字で見ると不要と思える繰り返し、舌足らずな個所、言い間違えもありますが、かなり面白い「激論」だと自負していますので。

武田康弘
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