思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

とらわれの自我

2007-04-28 | 恋知(哲学)

自分の感情
自分の主義
自分の思想
に囚われた心がつくる「思想」は、狭量で、深い納得を生みだすことができません。
非生産的な「対立」や、同じことの裏返しである「同調」しか生みません。
エロースに乏しい無意味な言動・人生しかつくりません。

自分の【とらわれの自我】に固執し、それを固めていく人生は、たえず外的な競争と張り合いによって生きる【根源的不幸】を生むだけです。内的悦びがない失敗した人生です。浮わついて、絶えず刺激を求めるしかない貧しい人生には救いがありません。


以下は、私の好きな老子のことばです。

天と地とはいつまでも存在している。
それらは存在を存在として考えないからいつまでも続いている。
賢者は背後に身をおきながら、前へ進む。
彼は自己を忘れて、自分自身を発見する。
人が自己の状態に達するのは、無自己によってではないか。

生み出してもそれを所有するな。
はたらかせても、それに頼るな。
導いても、それを統御するな。これは神秘の徳と呼ばれる。


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公共性の思想的基盤となる「ルール的人権」思想

2007-04-25 | 恋知(哲学)

ほんとうに市民が主体になる「新しい公共」をつくるための思想的基盤は、【ルール的人権】という考え方にあります。

名実ともに市民が主権者になるためには、その基盤となる思想が必要です。ただ憲法に書かれているという事実だけでは、市民主権は現実のものにはなりません。哲学的な掘り下げが足りないと、ただのお題目に留まってしまいます。

何かしらの超越項(例えば、「神」とか「個人の絶対不可侵性」とか)を置かずに、人権という民主制の中心思想を位置づけないと、必ず特定のイデオロギー(例えば、「伝統や国家の常識」を基準とする)による上からの秩序化によって、公共性は外的強制へと転化してしまいます。

その見本のような思想(現代版「国体思想」)が安部首相の中心ブレーンである八木秀次の「反人権宣言」(ちくま新書)です。【ルール的人権】の思想は、安倍政権のおぞましく危険な国家主義思想をその基盤から消去するものです。

【ルール的人権】の思想を、人間の生の現実を見つめ、哲学的な原理論として提示したのが金泰明さんの「共生社会のために二つの人権」(クリック)です。
公共哲学の哲学的基盤となるこの思想を皆が知り、発展させ、現実化することが必要だ、私は強くそう確信します。ぜひ、お読み下さい。

武田康弘





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自己を生かすためには、自己を相対化する作業が不可欠。

2007-04-20 | 恋知(哲学)

「面白くない」、いまどきの言葉で言えば、「むかつく」という感情は、誰でもが持つことがあるでしょう。
こういう感情に包まれた自分を否定せずに、よく見つめることはとても大事なことです。
ごまかさずに自己の気持ちを見・知ることは、よく生きるためのはじめの一歩です。

しかし、その感情がどのようにして?なぜ?生じたのかをよく考えることをしないと、初めの自分の感情に縛られて、世界が広がりません。
子どもたちは、しばしば「むかつく」「頭くる」といいますが、そのとき大人がその感情を否定せずに、どうしてそう感じるのかをよく聴くことで、「初めの感情」を相値化していく作業をサポートする努力が必要です。

初めの感情にいつまでも囚われていると、思考する・自分で考えるという営みが始まりません。怒りや苛立ちの感情は、確かにひとつのパワーですが、そのままでは人生にとって有益なものにはならず、逆に自分をダメにしてしまいます。自分の感情を相対化できないと、よき考えは生み出せないからです。思考力が鍛えられずに、感情の湧出に留まってしまいます。

哲学とは、はじめの感情や直感にこだわらずに、その地点からしっかり思考を降ろす作業です。いったん溜めて、反芻することが必要です。ありのままの心、直感は哲学の出発点(もう少しきちんと言うと、認識論の原理は「直観=体験」であり、実存論の原理は「欲望」)ですが、出発点=はじめの感情や直感に留まれば、それは「反・哲学」にしかなりません。

自己を相対化する営み=哲学することこそが、より大きく深い世界を拓く鍵です。自分を生かす、エロースを広げるためには、沈思する作業が不可欠。反射的な反応が支配する現代社会では、ひろく哲学する営みは何より大切なもの、私はそう考えています。

武田康弘





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人権思想とは何か?『ルール的人権』思想は「公共哲学」の原理。

2007-04-15 | 恋知(哲学)

ひとりひとりの人間の自己中心性を否定せず、そこに立脚して、そこから人権をルールとして考える思想は、現代民主制社会における普遍的な哲学だ、と私は確信しています。

押し付けや命令や要請ではなく、個々人の生活世界での実感に則って、互いの「欲望」を肯定し合うところから生み出される「ルールとしての人権」思想は、市民主権の民主制社会を支える屋台骨となる哲学のはずです。

この人権の哲学は、【公共哲学の原理】、単なる理論という次元を超えた【原理】になると私は考えていますが、ルールとしての人権思想をルソー出自のものと捉え、カントの理念型の人権思想との対比において分かりやすく説いた本がありますので、ご紹介します。

金泰明という人の書いた「共生社会のための二つの人権論」(2006年1月・トランスビュー刊・定価2520円)ですが、本書は、世界的に「公共性とは何か?」を改めて考える必要に迫られている今日、公共の原理論となる必読文献だと思います。

武田康弘

☆コメント欄もぜひご覧下さい。




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安倍政権打倒は、市民の義務ではないのか。

2007-04-14 | 社会思想

大多数の識者が疑義を呈する法案=「国民投票法」を強行採決、わずかの期間に強行採決された法案はいったい幾つになるのか。
文部科学大臣の「人権シンドローム」発言。法務大臣の「貞操義務」発言。安倍首相の「国による学校監視体制の構築」発言。
すでに復古主義=「伝統尊重と愛国の義務化」の教育基本法の改悪も成し遂げています。

国家権力者が市民生活・個人生活の上にたちコントロールするという明治政府以来の「お上」の思想の復活を目論む保守主義の政治家たちは、わたしたち市民の共通の敵である、と言う他はありません。

自由・平等の民主主義の思想をもつわたしたちふつうの市民、明治の自由民権運動の伝統を受けつぐ市民は、このような復古的思想を国家権力を使って市民に強制しようとする安倍政権を倒すために立ち上がろうではありませんか。気がついたら遅かった(東京新聞社説)という戦前の徹を踏まぬためにも、ふつうの市民は国家主義の政治家を政治の舞台から退場させる義務があると思います。学校で、地域で、職場で、安倍政権の危険性を訴えていきましょう!!!!

今朝の東京新聞言には、個人の自由を奪う法務大臣の思想・発言(貞操義務)に対しての批判記事が載っていますが、その最後に、1915年に与謝野晶子の文章が紹介されています。「愛情のない夫婦生活の持続も貞操の一種として強要せねばならぬという風であれば、貞操観念の内容ほど不純、不正、不自由、不安なものはなく、私たちの生活を裏切って不幸に導く従来の圧制道徳から一歩も出ないものになります」
まことにその通りです。人間の自然性=性に対する偏見を持つ人間は、政治家以前に人間として愚劣な存在です。人間失格。


追加:

厚生労働大臣の「女性は生む機械」発言、
法務大臣の「貞操義務」発言(離婚後に妊娠したという医師の証明があった場合のみ出生届けを受理する)、
文部科学大臣の「人権シンドローム」発言、
安倍首相の「あるべき家族像を国が示す」発言、
伝統尊重と愛国の義務化の教育基本法の制定、

もはや誰の目にも明らかなのは、国家が市民を管理するという戦前の思想=父権主義=万世一系の天皇制の復活です(安倍首相は、自著「美しい国へ」で日本の国の根幹は天皇制であると書いています)。わたしたちふつうの市民は、この政権との妥協の余地はまったくありません。安倍政権を倒さなければ、まさに市民が国=政府の管理下におかれる「おぞましい国へ」転落する他ないのです。

武田康弘



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近代社会原理への無知がもたらす暴言―「国の監査官が学校を評価する」安倍首相の「美しき国へ」

2007-04-13 | 教育

「ぜひ、実施したいと思っているのは、サッチャー改革が行ったような学校評価制度の導入である。学力ばかりではなく、学校の管理運営、生徒指導の状況などを、国の監査官が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れ替えや、民営への移管を命じることができるようにする。・・監視の情況は国会報告事項にすべきだろう。」(安倍晋三「美しい国へ」211ページ)

これは、無知がもたらす驚くべき!!!暴言です。国家が教育を直接管理するというのは、近代民主制社会では許されない思想ですが、このような反・民主主義の思想を謳った愚本が市民権を得ているというのは、恐ろしいことです。

【生活者の常識、市民精神の尊重、合意に基づくソフトな秩序】による学校運営は、民主制社会の大原則であり、これに反する安倍首相の【政府=国家主導の教育】は、近・現代社会の原理=社会契約(論)への極めてハレンチな挑戦でしかありません。

国家が個人の上にたつような思想をもつことは、民主制社会では許さていません。個人の思想や家族のありようについて、ほんらい政府が口を出すことはできないのです。このあまりにも当然の前提を無視するかのような発言が安倍政権から出ているのには呆れ返りばかりです。「人権シンドローム」などという戯言を文部科学大臣がするとは、この政権はすでに終わっている、と言わざるをえません。

戦前の日本の政治家を評した言葉、「日本の政治家たちの力は、一般的思想の驚くべき貧困と結びついたシニカル(冷嘲的)な現実主義にある。だが、これはまた彼らの弱みでもある。近代国家の発展を支配する法則に対する理解は、彼らにはまったく無縁である。・・このような知的構造をもった人々は、ある一定の条件の下では例外的な成功をおさめることができるかもしれないが、それと同時に国を未曾有の大災厄に投げ込みかねない」(「破局に向かって突進する日本」1933年・L.トロツキー)が、いまもそのままあてはまります。

自民党(のみならずですが)の有力政治の大多数は、近代社会の国家原理である社会契約論の意味についてまったく理解していません。安倍首相の中心ブレーンである八木秀次などに到っては、本質次元における思想の意味や価値について理解する能力を持たず、ヨーロッパ思想の一知半解に基づいて自身の国粋主義のイデオロギーを恥じかしげもなく主張するというお粗末です。現代日本の知的退廃は目を覆うばかり。

武田康弘



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【実存・市民思想】は哲学の原理です。

2007-04-11 | 恋知(哲学)

【国家・国民思想】に立脚するのではなく、
【実存・市民思想】に立脚することではじめて、国民は、国民であることをやめないで、同時にそれを越えた人間同士としてのつながりをもてるのですね。
まず何より先にひとりの人間であり、ひとりの男また女であるという土台の上に立つことではじめて、【地域社会人として・国民として・人類として】生きることも可能になります。これは哲学(普遍的な人間性の探求))の原理です。
右であれ左であれ、イデオロギーを先立てると、個人の輝きや広がりは抑えられて偏頗(へんぱ)な人間になってしまいます。
(以上は、大学生のS君の日記へのコメントです)

現代日本の歪んだ思想=人類的な普遍性の探求を後景に押しやり、人権という考えは日本には合わないとしてこれを否定し、日本人の伝統・国家・国民の常識を基準とせよ!という主張(八木秀次の「反人権宣言」〈ちくま新書〉)は、実存の否定=哲学の否定であり、極めて程度の低い国粋主義でしかありませんが、従来の左翼思想は、唯物論・マルクス主義という【客観主義】から抜けられないために、この愚かな国粋主義への有効な批判ができません。
右であれ、左であれ、「エリート」が社会を管理するという本質的に「反・民主主義」の思想(客観主義)を持つ限り、民の生活に価値を置く【民が主役の思想】=民知=恋知としての哲学は実現しません。
民の代行者のはずの政治家が民を支配する、民のサービスマンのはずの官僚がエリート風をふかせ民を抑圧する、ひとつの職業に過ぎない大学教師が民に教えを垂れる、こういう愚かなエリート主義が根っ子にある限り、個人性の豊かさが開花する民主制は実現しないのです。政治家や官僚や学者である前に、親や教師である前に、日本国民である前に、【ひとりの人間】であるという厳然たる事実を自覚することは、よき生を歩むための絶対条件です。哲学の原理である実存からの出発とは、その自覚化の営みです。こういう原理・原則さえ知らない思想とは、右であれ左であれ思想以前の戯言に過ぎません。

人間がよく生きるための思想の原理は、「国家・国民思想」ではなく、「実存・市民思想」にあるのです。 『主観を消去する日本というシステム』クリックもぜひ見て下さい。

武田康弘




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価値ある言動とは、内なる感覚・想いから生じる

2007-04-09 | 恋知(哲学)

人間のあらゆる言動は、ほんらい、その人の内なる感覚・想いから生じるもの。
自分自身という中心(エゴ・自我主義ではない)をもち、その場所から掘るもの。
外からの刺激は、内面化されて自分自身の心の声にまで変容しなければ、刺激に翻弄される外的人間に陥ります。
あれも、これも、という感覚は、自分が自分として、統一されたひとりの人間として生きていない証拠。
根っこと幹があり、そこから枝葉が大きく伸びるというのではなく、自己が分裂して、自分自身としての意味充実がないために「目移り」するというのは、不幸な人生でしかありません。
人に対しても物に対しても「浮気性」の人とは、現代の根源的な不幸=意味の薄い人生を歩む人です。
たえず刺激されて「飛んで」いなければ、面白くないと感じるのは、底なしの不幸です。
悦びとは、内なる感覚を心身の全体で感受することであり、外的価値を追い回すのは「死に至る病」でしかありません。
ほんとうに必要で有用なもの、真に自他の充実をもたらすものは何か?と沈思することは人生のアルファでありオメガです。
人付き合いも同じ。迎合もまた競争もよきもの・美しきものをもたらさず、よろこびは広がりません。
深い納得、内的意味充実の世界を生きられない人は、刺激に依拠して生きるしかなく、自他を不幸にするだけ。
私は、内なる感覚・想いを深め、広げるエロースの人でありたい。そうでなければ、つながることもできません。

武田康弘

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『チョムスキーとメディア』=ベートーベンのシンフォニー

2007-04-07 | その他

知的興奮・悦びが、強烈な感動を呼ぶドキュメンタリー映画「チョムスキーとメディア」のDVD(クリック)が早くも発売になりました。

ここには、汲めども尽きぬ知=ほんらいの知=民知が溢れていて、見るたびに精神が覚醒されます。愚劣極まりない国家主義の権力者たちの顔と言辞をテレビで毎日見せられるのはほとんど拷問に等しいですが、チョムスキーの明晰・誠実・高潔・不退転のほんものの知性と豊かな人間愛に満ちた語り=行動は、見る者に不屈のパワーを与えてくれます。

そう、これはベートーベンのシンフォニーと同じ。聞く(見る)度に精神を躍動させ、不屈の魂を呼び起こす最高傑作。知的にも芸術的にも。

武田康弘




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民知としての私の哲学 VS 愛国・伝統のイデオロギー

2007-04-06 | 恋知(哲学)

楽観的でいよう、心や頭の芯を明るく保とう、日常の生活を充実させよう、権威(者)とは無縁でいよう、外なる価値ではなく、内なる心の声につこう・・・・
という基本的な態度のもとに、よく考えること。

流行に流されないこと。
真の価値とは、自分自身の生活の中から生み出されるものであること。
内なる輝き・悦びのもとに日々を生きること。
生活世界を超越した価値、例えば、愛国だの、天皇だの、この世をつくった神だの、というものには騙されないこと。

愛するもの、何よりも大事なものとは、私自身の具体的経験の世界で出会う人や自然やさまざまな人工物。

ある集団(学校や会社や国家・・・)が生み出す特定の理念=観念を信じ込む人は、いつまでも自分自身として生きることが出来ず、心の内から自ずと湧き上がる「よろこび」がなく、自他を不幸にするだけ。
信じるに足るもの・愛するに足るものとは、実存としての私の内部から自然と立ち昇るよきもの以外には存在しない。

以上は、私の信念ですが、
これは、何かのイデオロギーに頭が占領されていない人には、共通する「真理」でしょう。いまの日本政府は、この近・現代の人間の生の基本原則を壊そうと画策しています。これは、根源悪であると断ぜざるを得ません。「実存としての生」に挑戦する戯けた仕業です。馬鹿げたイデオロギー(安倍首相のブレーンであり政府の要職についている男、八木秀次の「反人権宣言」〈ちくま新書〉を読めばよくわかります)は、おおいに「お笑」の種にして日本政府のレベルの低さ(おバカな男女)を嘆き悲しみ、そして楽しみ!?たいところですが、こうした悪徳、公金=税金を使って明治以来の日本主義(近代天皇制)を広めようー学校で「愛国・伝統」のイデオロギーを強制しようという所業を許すわけにはいきません。民知の力で国家主義を元から消去していきましょう。

私は職業柄、こういう哲学の原則を理解しない愚か者(学者や官僚や政治家)を見ると、つい再教育(きちんと本質が分かる人間にするための)したくなります。『民知』(恋知としての哲学)の発想で自己と事象を見なければ、すべては砂上の楼閣で、不幸しか生みません。「人間を幸福にしないシステム」とは、左右の「エリート知」が生み出すもの。民主制の原理・原則(実存からの出発)に則って生きること以外に自他に幸福が来ることはないでしょう。【草の根の民主制】を生活の中で実践したいと思います。

武田康弘



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理念の大切さと理念主義の恐ろしさ

2007-04-03 | メール・往復書簡

理念の大切さと、
理念主義の恐ろしさの問題は、
ロマンを育むことの大切さと、
ロマン主義のおぞましさの問題と同じで、
極めて重要ですので、
「コメントという形での対話」を整理して記事にします。
(荒井さん、智子さん、タケセン)

【理念をどう導くか?の記事へのコメント】

[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 07:38]
ある法制度(例えば、人材バンク)について議論する場合、その役割や機能を現実具体的に考えるとともに、その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。
人材バンクは、法の手段。各省による再就職あっせんの禁止が、法の直接目的。官民の垣根をなくして人材移動を活発にすることが、法の間接目的。では、法の究極の目的は何か。それは、どのような理念に基づいているのか。
このような思考、議論がきちんとされていないところに、問題が発生していると考えています。
―――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/04/01 13:48]
荒井さん、コメントありがとうございます。
「その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。」(荒井)
その通りだと思います。こういう一番大切な営為がないのが日本の現状ですね。
ただ、さらにその先を考えるのが、哲学の重要な仕事です。
それは、【ある法の理念が生まれたのは何故か?】を生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業なのですが、これがないと生活世界の「具体的経験」ではなく、ある「理念」から出発することになって、根っ子が切れた理念=理念主義へ陥り、皆の生の実感とはかけ離れてしまいます。哲学するとは、理念がつくられるおおもとを探る営みです。
―――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 17:46]
法制度がどのような理念に基づいているのか、しっかり吟味するためには、「理念がつくられるおおもとを探る営み」がなければダメですね。つまり、哲学なくして法の理念は語れないと思います。そして、それは「生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業」であるということ。実は、私、つい最近になって、このことを意識し始めました。大学クラスで皆さんと、ああでもない、こうでもない、といろいろ話をしているうちに、血の通った思考になってきたように思います。
――――――――――――――――――――――
タケセン ] [2007/04/01 21:53]
新井さん、大変うれしいコメント、感謝です。
「血の通った思考」、制度としては、どこでもやっていない一番大切な教育、これがないから、わが日本人は総体としては、いつまでも内的精神の自立が得られず、思想の自由を行使できないわけです。
具体的経験に立脚し、自分の頭で考え、血の通った思想を生み出すという、人間が人間として生きるうえで一番大切な営みがどこにもないというのがわが日本の現実です。
孤軍奮闘に近いタケセンとしては、荒井さんのコメント、とても励みになります。
―――――――――――――――――――――

【愛は強制できるか(東京新聞社説)の記事に対するミクシィブログへのコメント】

2007年04月01日 22:31
智子

武田先生、お久しぶりです。私も最近の政治の動向が、変な方向へ向かっているようで、恐ろしく思っています。内心の自由まで否定して愛国心を強制する洗脳教育が始まるのでしょうか。まるで軍国主義に向かっているようで、危機感を覚えています。自分がなにができるか考えています。
――――――――――――――――
2007年04月02日 10:10
タケセン

智子さん、コメントありがとう。
右であれ左であれ、上位者に従い、集団同調するという風潮は、個々人から発するパワー、悦びを奪い、地位や肩書きやの鎧兜に頼る人生しか歩めなくなります。外的価値による評価しかできなくなるために、「人間性の魅力」の源泉を枯らしてしまいます。
伝統尊重・愛国思想の政治・教育が恐ろしいのは、上位者への従順と外的価値(特定の理念)による内面性の抑圧によって、人間性の魅力の源泉である「実存としての心」を踏みにじるからです。
私が危惧するのは、「理念主義」(この場合は、愛国や伝統尊重という理念)の恐ろしさ・オゾマシさなのです(この一つ前のブログに記載した通り)。
イデオロギー・理論によって政府の方針に立ち向かうという従来の方法ではダメで、赤裸々な心を開示する手法=実存からの異議申し立てが必要だ(そこに基盤に立脚した知のありようを民知と呼ぶ)と言うのが私の考えです。
ぜひ、友人や近所の人に呼びかけて、あらゆる種類の権威者に侵食されることのない皆の心の発露の場(小雑誌でも、おしゃべり部屋でも、インターネットコミュニティーでも・・・)をつくられることを!!


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愛は強制できるかー気づいたら引き返せなくなっていた!東京新聞の名社説

2007-04-01 | 社会思想

2005年に発表された自民党憲法改正案には、前文に国民の責務として愛国心を定めていますが、ほんらい【愛】とは心の内側に生じるものであり、法律で義務付け、学校で採点するものではありません。これは言うも愚かな話ですが、愛の義務化・強制のための準備が着々と進行しています。

気づいたら引き返せなくなっていた、そんな事態になること避けたいですが、今のままでは避け難いと私は感じています。恐ろしい時代、個人が国家に管理される時代・エリートによる民の支配の時代はすでに始まっていますが、今朝の東京新聞の社説―『愛は強制できるか』(「内心の自由への介入」・「迫られる現代版踏み絵」・「将来、悔やまぬように」)は、正鵠を射る名社説ですので、ぜひ皆さんにお読み頂きたいと思い、以下に全文をコピーします。(東京新聞のホームページはクリックで出ます


4月1日の東京新聞社説ー「愛は強制できるか」(週のはじめに考える)


 歴史の節目はある日突然、現れるのではありません。大事なことを見落としていて、気がついたら引き返せなくなっていた、ということが多いものです。

 安倍晋三首相は改憲を参院選の争点にするといい、国民投票法案もいよいよ審議入りです。非戦、非武装の第九条改廃と並んで国民に対する愛国心の要求がいよいよ現実の問題として迫ってきます。

 自民党が二〇〇五年十月に発表した新憲法草案では、前文に国民の責務として愛国心を定めています。昨年暮れに成立した新しい教育基本法でも、教育の目標として愛国心の養成を掲げました。

「内心の自由」への介入
 所属する地域、国家に誇りや愛着を感じるのは自然の感情です。他人がそれをとやかく言うべきではありません。逆に「誇りを持て」「愛せよ」と強いるべきでもありません。まして法律で強制するのは「内心の自由」への介入です。

 昨年九月、東京地裁は入学式・卒業式で教員らが「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する義務はない」との判決を出しました。強制は憲法第一九条で保障される「思想および良心の自由」、つまり内心の自由を侵害する、という判断です。

 他方、最高裁はさる二月に、入学式で君が代の伴奏を教員に強制しても違憲、違法とはいえないと判断しました。日の丸、君が代問題のとらえ方は人や立場によって異なり、違憲、違法か否かの限界に関する法的判断の違いも微妙です。

 “愛”と“強制”を考える題材としてよく紹介されるのが、シェークスピアの名作「リア王」です。

 リア王は領地を分け与える条件として娘三人に「自分を愛するかどうか」問いかけます。その結果、美辞麗句を並べた上の二人に与えますが二人は晩年の父を虐待し、王は「何もいうことはない」とこびなかった末娘に一度は救われます。

迫られる現代版踏み絵
 この物語は、愛を強制するむなしさ、愛を強調するうさんくささを示唆しているともとれますし、「強制されて表明するのは愛でも尊敬でもない」と教えているともとれます。日の丸、君が代をめぐって現実世界で起きている問題は、これに似て現代版の踏み絵ともいえるものですから深刻です。

 日の丸、君が代に対する違和感の理由は歴史観、国家観、政治信条、信仰など人によって違います。政治思想から日の丸を愛さない人に「敬意を表さないと処罰する」と迫るのは転向を、信仰を理由に君が代を歌わない人に斉唱を強制するのは改宗を強いるようなものです。

 国旗国歌法を制定したとき政府は「強制はしない」と明言していました。東京地裁の判決も「懲戒処分までして強制するのは少数者の思想良心の自由を侵害する。国旗、国歌は自然のうちに定着させるというのが法の趣旨」と述べています。

 第二次世界大戦の末期、多数の若者を死に追いやった特攻隊は、建前としては志願制でしたが事実上、強制でした。志願しないと国を愛していないと異端扱いされますから多くの人が志願したのです。

 押しつけが危険なのは「何を言っても無駄」「自分が決めるのではないからどうなっても責任はない」という心境になり思考停止に陥りがちなことです。国中がそうなってしまった結果が、あの敗戦でした。

 その教訓から自由にものが言え、多元的価値観を尊重する原理を、私たちは選びました。マスゲームのような統一的行動を尊ぶ感覚もあり得ますが、日本国憲法はそのような思想に立脚していません。

 内心の問題は多数決になじまず、民主的手続きを経ても強制できません。誰もが互いの思想、信仰などに寛容でなければならないのです。

 公権力が国家、社会、国民のあり方に公定の価値観を貫徹しようとしたための深い傷はまだ癒えていないはずですが、現在の状況を他人事(ひとごと)として、深く考えずに過ごしている人が少なくありません。

 自衛隊と米軍の一体化による軍事力強化、防衛省の実現、有事法制の整備、そして愛国心教育…「まるで臨戦体制の整備」という声もあります。小泉純一郎内閣に続く安倍内閣の誕生、国内のナショナリズムの高まりでこの国は大きなカーブを切りつつあるように見えます。

 「文芸春秋」四月号に載った小倉庫次侍従の日記「昭和天皇・戦時下の肉声」を読むと、軍部の独走と政治の非力に不満を抱きながら、立憲君主制の枠内にとどまろうとしていらだつ天皇の姿が浮かびます。

将来、悔やまぬように
 天皇と違って情報の少なかった当時の国民は、いまと同じように平穏に暮らし、気づいた時は後戻りできなかったのではないでしょうか。

 しかし、いまは見ようとすれば見え、聞こうとすれば聞こえ、発言も自由です。将来「あの時、あの角を曲がらなければ…」と悔やまないよう、目を凝らし、耳を澄まし、思考を研ぎ澄まして行動したいものです。




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