2005年に発表された自民党憲法改正案には、前文に国民の責務として愛国心を定めていますが、ほんらい【愛】とは心の内側に生じるものであり、法律で義務付け、学校で採点するものではありません。これは言うも愚かな話ですが、愛の義務化・強制のための準備が着々と進行しています。
気づいたら引き返せなくなっていた、そんな事態になること避けたいですが、今のままでは避け難いと私は感じています。恐ろしい時代、個人が国家に管理される時代・エリートによる民の支配の時代はすでに始まっていますが、今朝の東京新聞の社説―『愛は強制できるか』(「内心の自由への介入」・「迫られる現代版踏み絵」・「将来、悔やまぬように」)は、正鵠を射る名社説ですので、ぜひ皆さんにお読み頂きたいと思い、以下に全文をコピーします。(
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4月1日の東京新聞社説ー「愛は強制できるか」(週のはじめに考える)
歴史の節目はある日突然、現れるのではありません。大事なことを見落としていて、気がついたら引き返せなくなっていた、ということが多いものです。
安倍晋三首相は改憲を参院選の争点にするといい、国民投票法案もいよいよ審議入りです。非戦、非武装の第九条改廃と並んで国民に対する愛国心の要求がいよいよ現実の問題として迫ってきます。
自民党が二〇〇五年十月に発表した新憲法草案では、前文に国民の責務として愛国心を定めています。昨年暮れに成立した新しい教育基本法でも、教育の目標として愛国心の養成を掲げました。
「内心の自由」への介入 所属する地域、国家に誇りや愛着を感じるのは自然の感情です。他人がそれをとやかく言うべきではありません。逆に「誇りを持て」「愛せよ」と強いるべきでもありません。まして法律で強制するのは「内心の自由」への介入です。
昨年九月、東京地裁は入学式・卒業式で教員らが「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する義務はない」との判決を出しました。強制は憲法第一九条で保障される「思想および良心の自由」、つまり内心の自由を侵害する、という判断です。
他方、最高裁はさる二月に、入学式で君が代の伴奏を教員に強制しても違憲、違法とはいえないと判断しました。日の丸、君が代問題のとらえ方は人や立場によって異なり、違憲、違法か否かの限界に関する法的判断の違いも微妙です。
“愛”と“強制”を考える題材としてよく紹介されるのが、シェークスピアの名作「リア王」です。
リア王は領地を分け与える条件として娘三人に「自分を愛するかどうか」問いかけます。その結果、美辞麗句を並べた上の二人に与えますが二人は晩年の父を虐待し、王は「何もいうことはない」とこびなかった末娘に一度は救われます。
迫られる現代版踏み絵 この物語は、愛を強制するむなしさ、愛を強調するうさんくささを示唆しているともとれますし、「強制されて表明するのは愛でも尊敬でもない」と教えているともとれます。日の丸、君が代をめぐって現実世界で起きている問題は、これに似て現代版の踏み絵ともいえるものですから深刻です。
日の丸、君が代に対する違和感の理由は歴史観、国家観、政治信条、信仰など人によって違います。政治思想から日の丸を愛さない人に「敬意を表さないと処罰する」と迫るのは転向を、信仰を理由に君が代を歌わない人に斉唱を強制するのは改宗を強いるようなものです。
国旗国歌法を制定したとき政府は「強制はしない」と明言していました。東京地裁の判決も「懲戒処分までして強制するのは少数者の思想良心の自由を侵害する。国旗、国歌は自然のうちに定着させるというのが法の趣旨」と述べています。
第二次世界大戦の末期、多数の若者を死に追いやった特攻隊は、建前としては志願制でしたが事実上、強制でした。志願しないと国を愛していないと異端扱いされますから多くの人が志願したのです。
押しつけが危険なのは「何を言っても無駄」「自分が決めるのではないからどうなっても責任はない」という心境になり思考停止に陥りがちなことです。国中がそうなってしまった結果が、あの敗戦でした。
その教訓から自由にものが言え、多元的価値観を尊重する原理を、私たちは選びました。マスゲームのような統一的行動を尊ぶ感覚もあり得ますが、日本国憲法はそのような思想に立脚していません。
内心の問題は多数決になじまず、民主的手続きを経ても強制できません。誰もが互いの思想、信仰などに寛容でなければならないのです。
公権力が国家、社会、国民のあり方に公定の価値観を貫徹しようとしたための深い傷はまだ癒えていないはずですが、現在の状況を他人事(ひとごと)として、深く考えずに過ごしている人が少なくありません。
自衛隊と米軍の一体化による軍事力強化、防衛省の実現、有事法制の整備、そして愛国心教育…「まるで臨戦体制の整備」という声もあります。小泉純一郎内閣に続く安倍内閣の誕生、国内のナショナリズムの高まりでこの国は大きなカーブを切りつつあるように見えます。
「文芸春秋」四月号に載った小倉庫次侍従の日記「昭和天皇・戦時下の肉声」を読むと、軍部の独走と政治の非力に不満を抱きながら、立憲君主制の枠内にとどまろうとしていらだつ天皇の姿が浮かびます。
将来、悔やまぬように 天皇と違って情報の少なかった当時の国民は、いまと同じように平穏に暮らし、気づいた時は後戻りできなかったのではないでしょうか。
しかし、いまは見ようとすれば見え、聞こうとすれば聞こえ、発言も自由です。将来「あの時、あの角を曲がらなければ…」と悔やまないよう、目を凝らし、耳を澄まし、思考を研ぎ澄まして行動したいものです。