思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公務員は、政治批判はできない?ーtaro・タケセン・山脇・哲学するふつうの市民

2006-09-30 | メール・往復書簡

「政治批判をすることは国民の義務です」に対するコメントです。

公務員は政治批判はできない!?のか。


[ taro ] [2006/09/18 16:50]

「批判精神をもつこと、政治について発言すること、これは民主政治の命であり、国民の義務です。」と言われますが、………私は一応、公務員なんですけど、公務員は「全体の奉仕者」で、だから、公的にも私的にも政府批判が許されないことになっているんですね。ほとんどの公務員の人たちは、それでしょうがないと考えているように思いますが、これって、国民の義務を果たしていないことになるのですか? できないのだから、しかたないと思いますけど。
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[ タケセン ] [2006/09/18 23:03] [ Myblog ]

taroさん、コメントありがとうございます。
困りましたね(笑) 私の父も国家公務員(労働省)で、「メーデー事件」の時は現場にいたそうです。
国家公務員法の16条に基づいて「人事院規則」が命令形式で定められいますが、これを読むと、私的であれ、政治への関与、発言が禁じられています。まともな頭の人が見れば、明らかに基本的人権の剥奪であり、違憲であることは論を待たないと思います。日本はおそろしいほどの後進国ですね。憲法41条の規定など無いかのような規則制定には唖然!です。愚か者の作文でしかありません。ユネスコに人権侵害で訴えたいですね。
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[ taro ] [2006/09/18 23:31]

やっぱりそうですか。私生活で全体の奉仕者やるって、何なんでしょうね。これ無理ですよ。治安維持法の世界に住んでいるようです。公務員労組はILOに労働基本権の制限が不当だと訴えていますが、こちらの方がよほど重大じゃないですか。言論表現の自由を制限しているんだから。これじゃ、自分の意見が持てなくなって当然ですよね。
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[ タケセン ] [2006/09/19 10:02] [ Myblog ]

taroさん、なるほどね。1925年公布の悪名高き思想の国家統制ー「治安維持法」(天皇ヒロヒトの命令で、朝鮮や台湾にも施工)にいまなお縛られる公務員の世界!!日本はぜんぜん民主制社会ではないですね。政治家は一体何をしているのでしょうか?
もしかすると、「国体思想ー天皇制」を賛美する思想をもつ保守主義の政治家は、再び天皇崇拝ー家族主義ー国家主義ー靖国思想の復活をもくろんでいるのかもしれません。安倍晋三は、教育基本法の改定をうたい、社会科と家庭科の教科書を変え、政府が国民にあるべき家族像のモデルを示すと「美しい国へ」で書いています。先祖がえりのようなとんでもない政治家が現れたものですが、へたをすると、公務員だけでなく、全国民が再び国家の思想統制下に置かれるようになるでしょうね。「国民の不断の努力」が求めらます。taroさんも、風穴を開けるべく、工夫して頑張ってください
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[ taro ] [2006/09/19 21:08]

「頑張って」と言われても、困ります。全体の奉仕者なんだから、あまりできることないです。でも、毎日、地道に「これ絶対に変だよ」って、声かけていくことで、少しは変わっていくのかもしれませんね。人の思考(脳の働き)が、そう簡単に変わるわけはないですが、何事も継続は力なりですから。今、日本は、靖国問題などで外観上は右の方向に大きく流れているみたいですけど、私は、日本人の場合、本当は右も左もなくて、思想的に「空」なんじゃないか、本当は何も深く考えていないんじゃないか、と最近思うようになりました。右の人も、左の人も、どうも、やたら薄っぺらい感じなのです。これは、政治家も、官僚も、大学教授も、みんな含めてのことですけど。どう思われますか。
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[ 山脇直司 ] [2006/09/19 21:23]

taroさん
「思考の薄っぺらさ」が日本を支配しているという見解に賛成です。無内容な週刊誌がたくさん発売されているのは、世界にも例がないでしょう。メディアと教育の責任は重いと思います。ところで、公務員の「理性の公共的・私的使用」に関しては、カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)を是非お読み下さい。現代にも活きる見解が示されていると思います。
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[ taro ] [2006/09/20 21:00]

哲学思想は苦手なので、カントから何を得られるか、全然自信ありませんが、本当に考えなくちゃいけないのは、何のための「全体の奉仕者」なのか、ということだと思っています。結局、国民の基本的人権がしっかり保障された、より良い民主社会を実現するため、という以外にないんじゃないか。だとすると、「全体の奉仕者」を理由に言論表現の自由をやたら制限するのは、やっぱりおかしいのではないか、などと考えているのですが・・・・・。
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[ 哲学する普通の市民 ] [2006/09/20 23:37]

「東大脳の作り方」(安川佳美 平凡社新書)という本があります。著者は、桜陰高校を首席卒業、東大理3現役合格で、何についても、奮起→努力→挑戦→達成のプロセスを続けられる人が、真の「東大脳」なのだそうです。私には、「最高の受験マシーンの作り方」の指導本としか思えなかったのですが、もちろん、著者にはそのような意識はないようです。暗記力抜群、頭の回転もすごく速いのでしょうけど、思索はひどく薄っぺらな感じです。良い感じのお嬢さんとは思いますが、こういう人が東大卒業して霞ヶ関の官庁に入ると、無思想で、ひたすら忠実無定量に働く昆虫のような役人になるのかもしれません。ちょっと怖い気がしました。
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[ 山脇直司 ] [2006/09/21 00:08]

taroさん
公務員が全体の奉仕者というのは、「私利私欲」に陥らずに、常に「公正・公平・公共益」を考えながら行動するという意味に受け取るべきだと思います。またtaroさんが公務員(public official)であるかぎり、業務命令には逆らえず、守秘義務も当然生じます。しかしtaroさんも、公務員以外の「市民というアイデンティティ」を持っているはずで、その市民というアイデンティティの下で、「現在の政府や国家や公務員制度の在り方などを批判する自由な権利」を持っていることを自覚し、賢く行動されるのがよいように私には思えます。
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[ taro ] [2006/09/21 23:34]

いつも「全体の奉仕者」を「市民」の視点から考えて行動する、ということですね。これなら、「国体思想ー天皇制」のために忠実無定量に働く昆虫役人になることもない。日本国憲法の想定する公務員像というのは、本当はこれなんでしょうね。
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了。


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人それぞれという受動性のニヒリズムと、国家主義という能動性のニヒリズム

2006-09-29 | 恋知(哲学)

私の教え子のまりかちゃん(高1)の「ひとそれぞれ」を受けて、書いてみました。
まずは、まりかちゃんの「ひとそれぞれ」です。


それにしもてなんだろー。

「人それぞれ」っていうのを聞いて私が思うのは
意見の対立があって「違うんじゃない」で、「まぁ人それぞれだよね」って逃げる人は
そもそも本当に自分の意見なんじゃないんじゃないかと・・・

そうやって逃げるっていうのはその意見を持っている
理由がまず希薄だからかなって気がする。うん。

周りにもいやっちゅーほどいるけど

自分に自信がないからマスコミとか、身近なところで周りがかたまって作り上げるような意見にしがみついて自分を支えてるかんじだから「それ違うんじゃない?」とか言っても
うっ・・・ってなって

「人それぞれー」とか逃げるしかないんじゃないかなぁーって
思う。

上手く言えないけど
意見自体が自分の中からでてきたものじゃなくて
ふわぁっと宙に浮いてるものにしがみついてるから
そもそも意見を言うってこと自体「逃げ」みたいな・・?

うまく言えないねぇ~笑 (まりか)

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人それぞれという受動性のニヒリズムと、国家主義という能動性のニヒリズム


人それぞれ、人生いろいろ(笑)、という言い方、
これは、人生から「悦び」を消去する恐ろしい「思想」だと思います。

人間の生のありようを、まったく逆転させた「言い方」です。

ほんとうによい生、ほんとうによい考えって、なんだろう?と一生懸命考え・模索して、いろいろ試し、確かめて、「うん、そうだな」と思える何かを見出していくーーそういう「考え、生きる」ことへの追求と努力―――
このほんとうとは何か?の追求は、必ず、その人の固有性・独自性をもった個性的な表現をとるーー結果として「人それぞれ」の世界が立ち現れるのです。

その主体的な追求・努力の前に、はじめに「人それぞれ」を置くのは、生きるに値する世界って何だろう?という追求=真に納得できる人生を歩もうとする思索と実践に水を差し、人それぞれだから、何でも同じ!?周りに合わせてまぁ~、という受動性のニヒリズムを生んでしまいます。よりよい考えを求める努力を踏みにじる言葉です。

わたしたちの多くが、生の深い「悦び」を持てず、情緒音痴で、パターン化した情感に支配されてしまうのは、「主観性の真実」を消去してしまうこの受動性のニヒリズムに起因するのでしょう。個性・個人性とは、ほんとうとは何か?求めて試行錯誤することでようやく生み出されるものですが、「人それぞれ」は、それとは180度異なる発想です。これが自由のもつダイナミズムとは無縁の「型の文化」を生み、個人性の否定=人間性の抑圧を正当化してしまいます。

受動性のニヒリズムに支配されている人々は、いとも簡単に、政治権力者が示す「国家の実体化→愛国心の高揚」という能動性のニヒリズムに反転します。「古きよき日本!?への回帰」という集団ヒステリーに陥り、その共同幻想・虚のロマンを追う根源的不幸へと落ちていきます。

受動性、能動性のどちらのニヒリズムも、自己存在の赤裸々な真実から目をそらし、自分から逃げる自己欺瞞の上に成り立つ外的な生ですが、この不毛・不幸を超えるには、自分の存在をしかと見据え、内的世界を豊饒化させる以外にはありません。恋知する営みを放棄して政治次元へと逃避する人生には根がないので、他者の生き血を吸って生きる人にしかなれません。
「人それぞれ」という言い方は、極めて政治的です。いやらしいー。

武田康弘




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「全体知=民知」と「部分知=専門知」の関係

2006-09-25 | 恋知(哲学)


「全体知=民知」と「部分知=専門知」の関係 


民知という全体知と専門知という部分知は、次元を異にする知なのですが、これをどう捉えたらよいか?は、なかなか難しいですので、ひとつ建築を例えに説明してみます。

家を建てるとき、そこには様々な専門家が必要です。
水道技術の専門家、電気技術の専門家、構造計算の専門家、デザインの専門家、図面の専門家、内装技術の専門家、・・・
でも、それらの専門家全てが集まっても、家は建ちません。
当たり前の話ですが、どのような家を建てるか?を決定しなければ、家づくりは始まらないからです。

どのような家を建てるか?それは、建築技術の専門家ではなく、そこに住まう人=わたしが決めます。
わたしの想い=構想がすべての始まりです。
美しく日々の生活が楽しくなる空間、使い勝手がよく快適な動線、ライフスタイルに適う間取りや建築素材、周囲=環境によくなじみ、空間イメージをアップする外観―形と色・・・・様々なことを想いつつ、どのような家にするか?を決定するのは、住まう人=わたしです。
イメージを膨らませ、変容させ、それを現実の諸条件を踏まえて具体化していきます。

その際、専門家の協力は欠かせません。アドバイスを受けることで、内容をより豊かなもの、確実なものにしていくわけですが、専門家は、「どのような家を建てるか?」を決定しません。専門家は、「精緻な部分知」を提供して、構想の現実化を助けることが仕事であり、わたしの代わりに生き、生活する!?人ではないからです。

全体知とは、建築の比ゆで言えば、「どのような家を建てるか?」を構想する能力のことですが、その能力を強めるには、専門知を獲得する仕方とは異なる方法が必要です。専門知を足しても全体知にはなりません。次元が違う能力だからです。建築の各専門家を全部集めても家が建たない=構想を決定できないのと同じです。

生活世界の具体的経験から立ち上げ・戻るーそのラセン的な反復の知を鍛えること。情報知やパターン知による判断ではなく、自分が感じ・想うところから考え・語ることの実践。
それが生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)を強めるための核心です。この全体知を鍛えることによってしか、人生や社会のありようについて考え、よい判断を下すことはできません。そのような全体的な判断は、全体知による以外にはないわけで、専門知は、それ自身としては自立した意味・価値を持ちません。生活世界から立ち昇る「全体知」の中でのみ「専門知」は、意味・価値をもつ、これは、知の原理です。

この生活世界から立ち昇る「全体知」が広義の「思想」を生みますが、価値意識の集合である思想とは、それ自体極めて立体的なもので、平面化する(比ゆ的に言えば、実物を写真にとる)ことで精緻な一般知を可能とする専門知とは、次元を異にします。三次元=立体の知が全体知であり、思想なのです。立体を立体としてそのまま見るのは、近現代の学校知=正解が決まっている平面知(客観学)の訓練だけを受けた頭脳にとっては、なかなか骨の折れる作業です。事実学―技術知という平面の知ではなく、意味論―本質論という立体の知を会得するのは、学校秀才には難題です。かえって学業成績が悪い人=学校知のありように違和を持つ人の方が、みなの実感に届く立体視=総合判断に秀でることが多いのは、背後にそういう事情があるのです。

私たち白樺同人がいう「民知」とは、この生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)のことで、それは、誰でもが普段の生活の中で物事を判断している「知」ですから、馴染みのある親しみの知です。ただ、これを放置せずに、全体知のレベルを上げることに意識的に取り組もう!というのが、民知の運動=実践というわけです。自他の専門知を現実に生かすための知=全体知を鍛えるのが目的です。全体知に秀でた人はいますが、全体知の専門家!?などは存在しません。範囲を限り、平面化することで一般性を得る「部分知としての専門知」は、生活世界から立ち昇る「民知」という「全体知」(立体的な主観性の知)の中ではじめて意味と価値をもつ、これは原理です。

2006.9.22 武田康弘



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「君が代」強要の石原都知事に屈しない教師の方は、真に偉い人間ですー私は尊敬します。

2006-09-24 | 社会思想

下のブログに対するミクシィ内のコメントです。

2006年09月23日
21:07


思想信条の自由を認めておきながら、
なぜ「桜」や「故郷」は「皆が喜んで歌える」と言い切れるのかが分からない。

世の中には色んな考え方の人がいるという前提に立つのであれば、
当然これらの歌を好まない人も居るという可能性は否定できないと思うのですが。

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2006年09月23日
21:53
タケセン

もちろん、どの歌であっても皆が好きというわけにはいかないが、「君が代」のような拒絶反応は起こりようがない。もともと天皇賛歌であり、「現人神」という特異な存在と重ねあわされたという歴史的経緯が、君が代問題をつくっている。
国歌がなんであれ、歌うことを強要することができないのは、常識に属する話。

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2006年09月23日
22:44


桜は軍国主義の象徴という見方もありますけどね。

まあ、考え方は人それぞれなので、
私は貴方の考えを否定するつもりはありません。
(内心では「強要されるのが嫌なら、強要されない職業を選べば?」と思っていますが。)

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2006年09月24日
00:14
タケセン

記事に書いたとおり、「無菌室のような環境にして学校教育を行えば、人間を脆弱化させ、活力に乏しい、底力のない日本人しか生みません。」
教育の場で異なる意見、違いが出ることは、とてもよいこと、大切なことです。政治権力者の意見に屈しない教師は、とても偉い人間であり、私は尊敬します。彼らのような人が大きな不利を承知で頑張ってくれなければ、再び「治安維持法」の集団同調社会が現出してしまいます。 やめなければいけないのは、レイシズムの発言を繰り返す強圧政治家の石原慎太郎の方なのです。

☆ナショナリスト=国家主義者は、もうたくさんです。さんざん国民をひどい目に合わせた戦前の思想体系=天皇崇拝の「国体思想」を引きずる愚か者の為政者には、そうそうと退場願いましょう。ニッポン万歳の自国主義者がもっとも国をダメにする人たちです。これは、すでに歴史が証明した事実です。ヒステリー体質からの脱却が急務です。




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石原都知事と安倍自民党総裁には猛省を促します。

2006-09-23 | 私の信条

政治権力者が裁判所の見解をまったく認めず、無視するとう姿勢ー言動は、国の根幹を揺るがす大問題です。彼らには猛省を促します。


昨晩のブログ(この下)に対して、ミクシィ内から20以上のコメントを頂きまいした。
そのコメントに対するまとめのコメントを書きましたので、以下に載せます。

2006年09月23日
09:28
タケセン

明治天皇に捧げられた天皇賛歌が「君が代」です。歌詞の内容も天皇の時代の永遠性をうたうものと教えられてきました。それまでの伝統を壊して明治政府がつくった「近代天皇制」=靖国思想(これが天皇現人神ー神国日本ー八紘一宇ー大東亜共栄圏の思想にそのまま繋がりました)に基づく歌です。これは歴史的な事実です。
それゆえに「君が代」を国歌にすることには多くの反対があったのですが、「国体思想」を引きずる自民党は、天皇を元首化したいとの思い(安倍晋三もそうです)から、国会で国旗・国歌法を制定しました。戦前の日本でさえ、当時の文部省は、国旗・国歌を法律で強制するのはおかしい、として法制化しなかったのにです。
この問題には、そういう経緯があるのです。
私は、皆が喜んで歌える歌ー日本の古歌である「桜」や故郷への郷愁を歌った「故郷」など、イデオロギーと結びつかない歌を国歌として制定するのが、ものの「あはれ」を解する日本と日本人にはふさわしいと思います。
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今回の司法の判断は、あまりに当然です。現天皇自身も、強制するのはよくないと発言していますが、公務員であっても、思想信条に関わる問題について強制されることはありません。「君が代」を歌わないことを理由に懲罰があれば、会社員であれ教師であれ、それは日本国憲法が保障する基本的人権の侵害になります。近代市民社会(民主制)をつくりだした基本理念のひとつー三権分立(「法の精神」モンテスキュー)の精神を踏まえ、石原都知事・東京都教育員会や自民党総裁は、もっと謙虚にならなければいけません。
反対する自由が認めれない国家とは、民主制国家ではありません。少数意見を尊重するのは、よき社会の基本原則です。
北朝鮮は、戦前の日本の政治を手本にしているそうですが、新しい日本ー民主性の国に住む現代の日本人は、北朝鮮を真似る必要はありませんー(蛇足ー冗談です)。

なお、?靖国神社、?国家、国体思想、?皇族の人権、市民精神については、クリックしてください。三部作すべてを見ることができます。

武田康弘



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君が代の強制は教育現場を「正常化」させる!?否、教育を殺します。

2006-09-22 | 社会思想

私は教育者として自信をもって断言します。

違った考えは認めない。政治―行政権力が強制力をもって従わせる、また集団同調の圧力で従わせる、というのは、愚か者の仕業です。

違った意見が正々堂々と主張され、個人の内面の自由が尊重される社会こそ健全な社会です、管理・統制され、異なる者が排除されるのは、暗黒社会であり、病んだ画一社会でしかありません。

とりわけ、教育現場では、思想的な違いーぶつかりが何よりも大切です。子どもたちが自分頭で考える力は、違いやぶつかりがなければ育ちません。様々な思考実験が行われる場を創造しなければ、真の思考力は養われないのです。

無菌室のような環境にして学校教育を行えば、人間を脆弱化させ、活力に乏しい、底力のない日本人しか生みません。大人の顔色を見て行動するひ弱な優等生、自分の意見を持てないどんよりとした目の子どもたち、逆らう気力さえない奴隷のような人間では、救いがありません。為政者の思想管理―違いを封じ込める強圧や洗脳は、よきものを何もうみません。

巨大な日の丸を掲げ、君が代を歌うことを強要する教育政策をよしとする人たち、日本や日本人をことさらに強調する人たちは、日本と日本人を最もダメにする人たちなのです。

武田康弘


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「天皇制こそが日本の根幹」ー安倍晋三・「人権否定、国民の常識が基準」ー八木秀次

2006-09-20 | 社会思想


保守主義=ナショナリズムを掲げる権力者に従う日本人では、日本人がすたります。
上位者にへつらうマスコミ人や批評家、政治権力者の意向に頭を垂れる教師や裁判官、上意下達の想念に縛られて政治批判のできない個人。これでは日本人がすたるというものです。
そのようなテイタラク人間の集合でしかない日本国だとは思いたくはありませんが、石原慎太郎のような愚かな強圧政治家や安倍晋三のようなあけすけに国家主義を宣揚する権力者が、自己のもつイデオロギーを政治権力を使って実現しようとする流れは、物凄いものあります。

われわれは、再び集団にヒステリーに陥り、愚かな日本人になるのか?

人間、ひとりの人間としてどのように生きるのか?という一番底にある「原・人間」のよさを育てるのではなく、日本、ニッポン、日本人、ニッポン人をことさらに強調し、どうだ、これでもか!というほどのバカデカイ「日の丸」を壇上に掲げる入学式・卒業式の強制。天皇賛歌として明治天皇に捧げられた「君が代」斉唱の強要―声の出し方までチェックする東京都教育委員会。安倍政権誕生後は、全国の学校がことさらにニッポンを強調する異様な精神状態に陥りそうです。1931年から始まる15年戦争時の知識人・文化人・マスコミ人の総崩れー「天皇ただ一人が日本人のよりどころ、天皇制こそが世界に誇れる日本の独自性」(西田幾多郎・林房雄・亀井勝一郎らほとんどのインテリが異口同音)が想起されます。

このヒステリー、感情主義から日本人が抜け出すのは、いつの日か?
一人ひとりが自分の頭で考える力を持ち、上位者にへつらう小心さを克服したとき、はじめて世界に誇れる日本人が誕生するのです。
日本人としての日本人ではなく、人間としての日本人でなくてはいません。普遍性のある人間としての生を歩む、その普遍性の表現が日本的なる様相を自然にまとう、日本人的なるものとは、目がけるものー目標ではなく、深く自己を掘り下げる生き方をした時に結果として現れるものなのです。ことさらに日本を強調する精神からは、よきものは何も生まれません。

安倍晋三の有力なブレーンである、八木秀次は、反「人権」宣言(ちくま新書)で、裸の個人につく「人権」は、間違った思想であり、「国民の常識」につくべきだ、伝統や共同体の道徳・倫理こそが基準だ、と激しい調子で「人権思想」という人類の英知(ソクラテスや釈迦やキリストに始まる人間の普遍性の探求)を総否定しています。

このような偏頗な思想を元に、自民党新総裁に選出された安倍晋三は、『美しい国へ』(文春文庫)を書いています。「天皇制こそが日本の根幹であり、特攻隊員たちは、その日本の悠久の歴史という大儀に殉ずることで、自らの命を永遠のものにしようとしたのだ。」と。

私は、激しい公憤を覚えます。天皇現人神・神国ニッポンという愛国教育によって、国家主義ー靖国思想を植えつけられた若者の魂は、これでは永遠に浮かばれません。彼らに犠牲を強いた為政者への批判をしない安倍晋三の言動は許しがたいものです。

武田康弘


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政治批判をすることは、国民の義務です。

2006-09-18 | 社会思想

わが日本という国では、現実政治のありようや権力政党=自民党の言動を批判すると、政治的な発言だ!と、あたかもよくないことのように言う人がいますが、これほど愚かな想念はありません。
少なくとも民主制の政治においては、「政治批判」は健康な社会を維持する生命線であり、批判力が弱まり、現状肯定=保守主義になれば、その国は極めて危険な状態に陥った、と断じられます。

権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対的に腐敗する、とは、普遍的な真理です。
国民一人ひとりの不断の努力がなければ、いったん保障された個人の自由や権利もその社会の支配層・権力政党やそのグループの圧力や誘導―世論操作によって簡単に奪われてしまいます。国民一人ひとりの不断の努力が求められるゆえんです。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」(日本国憲法12条)

政治の仕組みについて学び、現実の政治のありようを検証し、問題だと思う点についいてはっきりと批判する行為は、国民の権利どころか、義務でさえあるのです。

ところが現代の日本は、まるで1931年の満鉄爆破から始まった15年戦争時のように、保守主義が台頭し、政治批判―権力批判は著しく弱まっています。
そういう風潮があると、冤罪が蔓延します。
昨日夜中の4チャンネル(日本テレビ)でも鹿児島県の片田舎で起こったウソの「選挙違反事件」による警察の恐ろしい取り調べの実態が詳細に報道されていましたが、検察と警察の人権無視の行為は、権力の非人間性―傲慢さを嫌というほど見せてくれました。
石原都政下で頻繁に起きている政治的発言への警察の露骨な弾圧も続いています。
テレビからも辛口の権力批判が消えています。
保守主義を宣揚するのは政治的ではなく、保守主義を批判するのは政治的!?もはや完全な「病気」ですが、自覚していない「病気」なので、最悪です。
「国民の不断の努力」がいかに大切かが痛感されます。

批判精神をもつこと、政治について発言すること、これは民主政治の命であり、国民の義務です。手厳しい批判がないところに前進はありません。危険だけがあるのです。

武田康弘

追記ーtaroさんという公務員の方のコメントと私のコメント返しも見てください。下の「コメントを見る」の項。




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思想の始発点とは何か?(原理中の原理)

2006-09-14 | 恋知(哲学)

人間の生や社会のありようについての「考え・思想」においては、正解はありません。論理で決着のつく部分は、限定された枠組みの中での問題に過ぎません。なぜならば、どのような生がよいか?を論理で決めることは不可能だからです。

ひろく一般に人間の生がどうあったらよいのか?-どのような社会がよいのか?という問題は、ふつうの多くの人がどのような人間・人生がよいと感じているか?にかかってくるために、論理ではなく、よき生のイメージが問題の核となるのです。

人間の自然性の肯定、濃やかで豊か、自由で生き生き、しなやかで且つダイナミック・・・私は、私の好きなこととして、?明快で美しいこと?品位の高いこと?親しみがあり遊び心があることと書きましたが、このようなよき生へのイメージがおおもとにあり、そこから「考え・思想」は生み出されるのです。思想がつくられる源泉は「よき生のイメージ」です。

一番底にあるのは、このイメージの世界であり、そうである限り、それとは大きく異なるよき生のイメージを持つ人(例えば、忍従や自己犠牲に生の価値をみる)がつくる思想とはぶつかることになります。そこでの闘いは、論理の争いの形をとりますが、究極的には、イメージの優劣の競い合いであり、純粋な論理の問題ではないのです。

イメージは論理に先立つ、これは原理です。

(写真は9月3日、川村記念美術館・ムーアの彫刻の前でボール遊び)

武田康弘




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北朝鮮のミサイル攻撃の危険性!?安倍官房長官らタカ派の情報操作

2006-09-12 | 社会思想

安部晋三の「美しい国へ」では、「2006年7月5日北朝鮮はあいついでミサイルを発射」 「今回のミサイル発射への一連の対応をつうじて、日米同盟がいかに重要で、かつ有効に機能しているか日本国民もよく理解できたのではないかと思う」と述べ、制裁措置こそ有効であることを強調し、アメリカの軍事力の行使を辞さない姿勢を評価しています。

昨日のブログー「少年の凶悪犯罪は増えてる?・・」と同じく、これなども、おおウソの情報操作の一典型です。

事実としては、北朝鮮は、ロシア近海に向けたミサイル発射実験を行ったのです。これは単純な事実です。日本に向けてミサイルを発射したわけではありません。それをあたかもそうであった、または、そうなるであろうかのような書き方をするのは、政治家にあるまじき行いです。

それによって、アメリカ軍との共同のミサイル防衛構想の正しさを主張していますが、北朝鮮が、日本にミサイル攻撃をすることなどありえないことです。リアリティのない三文空想小説でしかありません。

もし、そのようなことをしたら、自国(北朝鮮)の自殺行為であることは火を見るより明らかで、どのような愚かな政治家や軍人でも、そのようなバカげた選択をするはずがありません。もし、北朝鮮がミサイルを日本に向けて打つことがあれば、それはただひとつーアメリカがイラク戦争のように、北朝鮮に攻め込んだ時だけです。「窮鼠猫を噛む」で、持っているミサイルをアメリカと軍事同盟を結んでいる日本に向けて発射することでしょう。

このような簡明なことが分からないとはなんとも不思議な話です。彼ら保守主義の政治家は、軍事力強化の願望が強いために、「自己幻想」を現実だと自他に信じ込ませようとしているのでしょう。タカ派は、幻想を現実だと自他に言いくるめて現実政治を行おうとしますが、それがどれほど悲惨な結果をもたらすかは、アメリカのブッシュ政権を見れば誰にでも分かることです。

つづく

武田康弘





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少年の凶悪犯罪は増えている!?というひどいウソー恐ろしい情報操作の一例

2006-09-11 | 社会思想

以下の記事ー資料を見ると、
少年犯罪が増えている!?!?といのは、真っ赤なウソだということが分かります。
事実は、少年犯罪は大幅に減っています。意図的な情報操作の手法で騙されているだけ、ということが一目瞭然!の記事を見てください。クリックー 『キレやすいのは誰だ』

マイミクのべいにょんさん、ご紹介どうもありがとう。

武田康弘




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山脇論文に対する荒井さんの反論文ー昨日9.9の討論会資料

2006-09-10 | その他

昨日の討論会ー9.9山脇・荒井討論(クリックしてください)
は、内容は厳しく、しかし、雰囲気は柔らかく、でとても面白く有意義でした
以下に山脇論文に対する荒井さんの疑問・反論を載せます。討論内容やその結果については、また後日。


山脇教授論文-クリック
最初の画面の左の項目ー「評論」をクリックして、 06年4月ー現代を如何に生きるか―公共哲学の視点から― 山脇直司(東京大学教授)</u>を選んでください。



「現代を如何に生きるか」について
 「哲学する普通の市民」
 荒井達夫(我孫子市在住、社会人)

○全般的な感想

・「滅私奉公批判」、「滅公奉私批判」等は、あまりにも当然の主張であり、「公共哲学」を持ち出さなくてもできる。「公共哲学」として主張する意味があるのだろうか。
・「民の公共」、「活私開公」、「活憲」、「WA」、「グローカル」等は、キャッチフレーズの域を出ない造語ではないか。現実問題により良く対処するための基準を導く「ヴィジョンや思考の枠組み」ではない。また、一般市民が本当に求めている哲学=日々の生活実践の原動力になる思想とは、到底言えないと思う。
・「公共哲学」という新しい看板を掲げ、当然の事柄について、「グローカルの時代。民の公共の観点から、活私開公を図り、活憲で世界的なWAを実現しよう」と主張しているだけのように思われる。問題への対処策を伴わない、キャッチフレーズの寄せ集めであり、「政策の提言」とは言えない。
・そもそも「公共哲学」とは何か、なぜ「公共哲学」という新たな学問領域を作る必要があるのか。それによって何が明らかになり、具体的にどのような新しい政策提言ができるのか、全然明らかでないのではないか。
・憲法解釈で誤解、条文の読み誤りがあり、「活憲」になっていないのではないか。

○個別の論点

?民の公共・民主主義(P4,5)
・「公共性の主要な担い手は人々であり、民である」、「公共哲学は、政府の活動や営利企業の活動の正当性が民の公共によってチェックされ、正当化され、批判されるという民主主義観を提示する」等々とある。しかし、現代市民社会では、これは当然の原理であり、「公共哲学」として述べるまでもないのではないか。重要なことは、個々具体のケースにおいて、公共性の意味と程度をどのように判断するのか、ということであるが、何の基準も示されていない。「民の公共の観点から判断する」では、何も言っていないのと同じである。さらに、現実には「公共性」の判断において人々(民)が主体となっていないケースが多いが、それをどうしたら改善できるのか、「公共哲学」は何も提言していないのではないか。(なお、NPO等の活動を根拠づけるために、「公共哲学」を持ち出す必要はない。)

?NHK(P4)
・論文に書いてある程度なら、「民の公共」などと言わなくても、昔から公共放送やNHKについて議論してきている。また、「NHKは公共放送であって、国営放送ではない」、「NHKは人々の受信料で成り立っている。だから政府に気兼ねするNHKなど、あってはならない」との指摘は、おかしい。公共放送かどうかは、放送の質の問題、国営放送かどうかは、経営主体の問題であり、また、受信料は税金類似の法律による負担金だからである。仮にNHKの運営財源が税金になったとしても、公共放送である限り、政府に気兼ねしてはならないと考えるべきである。「民主主義の担い手である放送事業者が、政府に気兼ねすることなどあってはならない。その意味での公共性は、民放もNHKも同じである」と説明すべきであろう(放送法1条、3条)。その前提で、NHK独自の公共性や、その在り方(放送の内容と範囲、経営形態、受信料負担等)について議論できることになるが、「公共哲学」を持ち出す必要はない。

【放送法】
(目的)
第1条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
 一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
 二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
 三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
(放送番組編集の自由)
第3条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

?プロ野球(P5)
・「文化的な公共財として、ファンあってのプロ野球であって、オーナーのためではない。オーナーがプロ野球を私物化することは許されない」とあるが、なぜプロスポーツが「公共財」なのか。「公共財」であるならば、消費の非排除性のために、ただ乗りが生じ、市場取引が成り立たない。したがって、プロスポーツの民営はあり得ないことになるから、この説明は誤りではないか。「オーナーであっても、私物化するようなことをしたら、ファンが離れていってしまい、プロ野球が成り立たなくなるから、すべきでない」、と考える方が素直でわかりやすい。プロ野球の経営は、元々「公共性」とは無関係の問題と言うべきではないか。「公共哲学」で一体何が明らかになるのか。逆に問題の本質が見えにくくなるだけではないか。

?滅私奉公批判(P6)
・「公共哲学の最初の任務は、なによりもまず、そうした滅私奉公のイデオロギーやライフスタイルを批判することです」とある。しかし、滅私奉公が前近代的な悪習であることは当然であり、わざわざ「公共哲学」だの、「民の公共」だのと、言う必要はないのではないか。やりたくないけれど、未だに滅私奉公に近いケースがあるのが現実であり、それをどうしたらなくせるのかが問題である。「公共哲学」云々だけでは、具体的解決策は提示できないのではないか。

?活私開公(P7)
・「私という個人一人ひとりを活かしながら、人々(民)の公共性を開花させて、更には政府の公を開いていく」とある。これには誰も異論はないと思うが、「活私開公」の実現を妨げる思考が現代日本人に蔓延しており、その現状をどうしたら変えられるのかが問題である。それを示さなければ、「活私開公」は単なるキャッチフレーズである。「公共哲学」は具体的解決策を提示していないのではないか。また、「自分とは何だろうという自己理解と、他者を理解することと、人々が生きる価値的な場である公共世界とを、できるだけ関連づけて考える」とあるが、これを言うために、わざわざ「公共哲学」を持ち出す必要はないと思う。

?公共的感情(P8)
・「公憤やコンパションなどの公共的感情を基にして、人々を煽り立てることなく、公共世界を創出していくことこそ、今の不安定なグローバル化の時代に求められている」という。しかし、これは今に始まったことではなく、昔から、例えば国際連盟ができた頃から、そう言えるのではないか。問題とすべきは、なぜそれができなかったのか、できるようにするために満たされるべき哲学的な前提条件は何かであり、それらを明らかにすることが本物の哲学者の仕事ではないか。

?個人の権利と公共の福祉(P8,9)
・「個人の権利というのは、自分の権利だけではなく、一人ひとりが持つ権利を意味し、個人の尊厳とは、自分だけでなく、他人一人一人を大切にしなければならないということを意味します。自分の権利と同時に他人の権利を尊重するという考え方ですから、一人一人の権利がぶつかった場合、当然調停が必要なわけです。そこで公共の福祉に即して個人の権利を調停せざるをえないわけです」とある。しかし、「公共の福祉」が人権相互間の矛盾、衝突を調整する原理であるというのは、憲法の伝統的解釈であり(宮沢俊義、憲法?P235、有斐閣、昭和34年)、一体これとどこが違うのか。「公共の福祉という概念を再解釈する」というが、まったくそうなっていない。

?社会福祉と公共の福祉(P9,10)
・「25条の「社会福祉」と29条の「公共の福祉」がとどのように違うのかという問題が生じますが、私はこの二つは等価概念だと思っています」とあるが、これは甚だしい条文の読み誤りである。25条の「社会福祉」は、社会保障、公衆衛生と並んで、政府が国民の生存権確保のために行うべき社会政策の一つとして規定されたものであり、人権の調整原理である29条の「公共の福祉」とはまったく異質な内容であるからである。(25条の「社会福祉」の具体化は、生活保護法、社会福祉法、児童福祉法等)


【憲法】
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

?憲法前文と9条(P10,11)
・「憲法の前文と切り離して9条だけを言うのは、逆効果になるおそれがある」、「前文は全人類や国際社会へ向けての発信ですが、それを踏まえずに9条擁護だけを叫んでも、他国からは、一国平和主義の主張としか受け取られかねない」とある。しかし、同一の憲法に書かれている以上、前文と9条はセットで解釈すべきことは当然であり、憲法の制定過程を見てもそれは明らかである。したがって、前文と切り離しての9条解釈は、単なる条文の読み誤りと言うほかない。仮にそのような者がいるとしたら、特定の政治的意図に基づく邪道極まりない法解釈であり、それを批判するために「公共哲学」を持ち出す必要はない。

?WA・調和・平和・和解(P11,12)
・「WAという概念を、21世紀の国際社会に向けて更新し発信する」、「和は日本固有の特殊な価値ではなく、諸文明に通底する普遍的な価値」、「多様性の中の和」、「和して同ぜず」、「大切なのは、調和・平和・和解の意味を包含した「和」」等々とある。しかし、「和」の解釈をあれこれ行って、それを推奨するだけでは、「和」は実現しない。誰もが「和」を求めながら、それが実現しないのはなぜか。価値観が対立する根本原因を究明し、対立を克服する思想的前提条件を明らかにして、それを実現するための具体的方策を提示することが、本物の哲学者の仕事ではないか。

?自己-他者-公共世界(P13)
・「自分は日本人でもあるし、地球市民でもあるし、宮城県民でもあるという多層的な自己理解をしていくのが、グローカルな公共哲学からみた理想の生き方です」とある。しかし、そのような生き方の実現を妨げる思考が現代日本人に蔓延しており、それをどうしたら変えられるのかが問題である。「公共哲学」は具体的解決策を提示していないのではないか。(白樺教育館の大学生クラスの方がはるかに進んでいる)

?「ある」論と「べき」論と「できる」論(P13,14)
・あまりにも当然の事柄であり、なぜこれが哲学なのか、わからない。また、日々の生活で「理想か現実か」の二者択一をしている者など、いるのだろうか。


コメント

天皇問題への見事なコメントーもったいないので、記事にします。

2006-09-08 | メール・往復書簡

昨日のブログ(この下)へのコメントは、どれも素晴らしいものです。もったいないので記事にして出します。みなさん、どうもありがとうございます。まさに「民知」の威力です。


[ hiromin ] [2006/09/07 21:50]
この大騒ぎには私もうんざりで、今日もテレビはつけてません。皇室に生まれた赤ちゃんももちろんですが、普通の家庭に生まれ育つ子供たちにも同じような酷な状況があるのでは?と感じます。親や、まわりの大人たちによって、自由を奪われて、知らぬ間に「型」にはめられ、「自分の頭で思考する」ってことができなくなってしまっているような子供は、私のまわりにも実際、多くいます。小学校低学年でもそんな状態だということは、子供たちが話す言葉や表情で感じます。かつて私自身もそうでした・・・白樺教育館に通う前は。この国の教育っていったいどうなっちゃているのでしょうか?人って何なんでしょうか、思考せず進化もせず止まったまんまで生きていて、本当の幸せやよろこびってあるんでしょうか?私はそんな生き方は嫌です。かなしすぎます。

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[ eucharistia ] [2006/09/07 22:28]
私はここ12年ほど、テレビのない生活をたのしんでいます。そのため、却って、マスメディアの「大騒ぎ」はキャッチしやすくなっています。なぜかというと、テレビをもっていないはずのわたしにまで内容が伝わるほどの「音漏れ」が耳に、目に、刺激的だからです。「列島は慶祝ムード一色に」、テレビなしの私も見飽き、聞き飽きました(どの列島の話かなぁ)。 しかし、一番ぞっ!としたのは、宮内庁自体はなにもするきがなかったのに、民間からの問い合わせで仕方なく「祝賀記帳」がはじまってしまったり、神社仏閣に近所の人たちがやってきて「記帳所はないのか」などいい、神社仏閣もとまどいながら私設の記帳所をもうけた、という報道です。「なんとすばらしい出来事!」という報道でしたけど、私は背筋に冷たいものが走りました。「草の根」「内からの」天皇制の典型。いやな世の中になりつつあるのでしょうか。やだ。
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[ タケセン ] [2006/09/08 00:53]
eucharistiaさん、
自分からはじまる人生=内的な意味充実をつくらないで生きれば、外なる価値に従う=自ら従わざるを得ない人生になります。それが「草の根」の天皇制を生み出すのでしょう。外的価値を内的価値にしてしまう人間では、人間として生きるエロースがうんと小さくなってしまいます。それは謙虚なのではなく、自己欺瞞でしかないでしょうね。
よいコメント、ありがとうございます。これからもよろしく。

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[ コテツ ] [2006/09/08 02:21]
何気なく書いた言葉がタケセンのブログにのってしまうなんて。
なんともお恥ずかしい・・・。
すごい馬鹿っぽいコメントですいません。
自分の言いたいことはタケセンがうまくまとめてくれました。
「天皇家を歴史的・文化的な存在として遇するべき」
賛否両論ある制度なので、自分も上の考えに大賛成です。
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[タケセン] [2006/09/08 12:16]
hirominさん、
hirominさんの思考は、まさに哲学そのものですね。特殊な問題を一般化し普遍化するーその見本のような思考で感心しました。単なる事実学ではなく、本質論=意味論の追求になっています。平面(二次元)ではなく立体(三次元)として物事を見ていますね。真に価値ある言説です。

コテツさん、
コテツさんの、「 宗教法人『天皇家』みたいにして自主経営して!! 」は、「馬鹿っぽい」どころか、近代天皇制の矛盾の核心を射抜く一言です。この一言で天皇制は論理的に崩壊してしまう恐ろしい(笑)言葉です。正鵠を射るとは、まさにこのことです。ほんとうに凄いですよ。
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それにしても、このように平易な言葉で本質抉(えぐ)る力は「学者」にはまったくありません。「民知」の偉大な力を感じます。ブログが「市民革命」を生むかもしれませんね(笑・嬉)

武田康弘


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男子誕生!男の子が生まれた!はぁ~、なんで大騒ぎしてるの?

2006-09-07 | 社会思想

いやはや、なんとも凄い騒ぎー「空騒ぎ(からさわぎ)」というオペラがありますが(笑)。なんだか異様な宗教国に住んでいる気がしますね~。

私の宗教(宗教ならざる宗教ですが)は親鸞の浄土真宗で、私は、天皇教=明治政府がつくった近代天皇制=靖国思想をまったく認めていません。

安倍晋三の「美しい国へ」を見ると、私は「非国民」!!??ということになりそうです(笑笑)。

男の子!男の子!テレビは全局大騒ぎの大はしゃぎ。赤ちゃんの人権侵害!にはならないのかな?赤ちゃんにはじめから厳しい尊称がつき、さま・様呼ばわり。今もまだ律令政治なの?変もいいところで、まともに考えると頭がおかしくなりますね。


『ミクシィ』に、
「いろんな主義主張があるから、その辺はいーけど、 宗教法人「天皇家」みたいにして自主経営して!! 」とうコメントがありました。

確かにそうですね。年間200以上の宗教行事を行うのが「天皇家」の生活だそうですが、その宗教を日本人みなが認めるわけではありませんからね。それを年間170億円の税金で支えるというのは、明らかに矛盾です。あれぇ、信教の自由は日本にはない!?明治政府は言っていましたねー「靖国神道」は宗教ではないーこれに従うのは全国民の義務だと。また同じことになるのですかね?安倍さん。

もうそろそろ、天皇家を歴史的・文化的な存在として遇することで、政治=国事行為から解放しなければいけませんね。現実政治=市民社会としての日本国家と天皇家とは関係がないはずなのですから。

皇族の人権と市民精神の涵養もぜひ見てくださいークリック。

武田康弘




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ネット上の排外主義・国家主義と現実政治の右傾化ー安倍晋三のナショナリズム宣揚

2006-09-06 | 社会思想

下は、今朝の東京新聞25面「本音のコラム・自己愛」です。

「 若い人の肥大した自己意識ほど怖いものはない。プライドは出口を失うと腐敗し、絶望へとともに「世間や大人」への恨みという可燃ガスを生む。そこにわずかな火種でもあれば爆発する。・・・
これが政治化すると、山口二矢少年(社会党委員長・浅沼氏刺殺犯)が生まれる。
その簡易版がインターネットという匿名空間にはびこる排外主義と国家主義だ。
昔からそうだった。
第一次世界大戦のドイツを生きた画家志望の失業青年アドルフ・ヒトラーもこうした青年だったのだろう。(斉藤学{さとる}・精神科医) 」


歴史が証明するように、排外主義と国家主義ほど恐ろしいものは、ありませんが、その国家主義=ナショナリズムをあけすけに表明し、「地球市民」などという人がいるが、それではダメだと言ってこれを排撃しているのが、安倍晋三の『美しい国へ』(文春新書)です。
こんな一面的な主張を堂々とする人間を支持する人が多いのは、なんとも困った問題で、彼がトップに立てば、排外主義と国家主義のムードを加速することは間違いありません。


たとえば、私は祖父・祖母の代から神田という街に生まれ育った日本人であり、ずっと日本で生活し、日本語で考え・交流して50数年ですが、その私がことさらに日本・日本と言い、国家主義で行こう!と叫んだら、頭大丈夫?としか思われないでしょう。
私の思い出がいっぱい詰まった故郷は神田であり、大学以外の学校はみな文京区であり、今は我孫子市民(手賀沼に浮かぶこの街を愛しています)です。私は、いままで日本各地の自然や文化に愛着を感じてきましたが、同時に世界の音楽や美術や文学や思想・・・にも深く感動し続けてきました。

私は、いま我孫子市民であり、日本国籍を持った日本人であり、安倍晋三の嫌う「地球市民」です。私は日本人ですが、安倍晋三のいう「日本主義」を真正面から批判する日本人です。心に余裕のある、位相の異なる幾重もの属性を意識した人間であることが、よい日本人=よい人間の条件ではないでしょうか。ことさらに国家を強調するアン・バランスな思想は危険であり、不幸の種にしかなりません。公平さの意識をもつこと=バランスが大切です。どこかの国と軍事同盟を強めることだけを考えるヒステリーではなく、人類に課せられた多くの困難な課題に挑戦する「おおきな」日本でありたいですし、間違いは隠さずに率直に認める広い視野と知見をもった「豊かな」日本人でありたいと思います。

最後に確認です。位相の異なる幾重もの属性のいちばん底には、「生物としての人間」という意識なければいけないはずです。生まれによる差別や特権意識は、人間のよきもの消してしまいます。「エリート意識」は、人間性の根幹を腐食してしまうのです。われわれの多くは日本人ですが、それ以前に人間の男であり、女なのです。これは原理で、覆すことはできません。人間としてどう生きるか?どう生きるのがよいか?それが一番底にある課題です。恋知(哲学)に世界的な普遍性があるのは、そこに課題の中心を置いているからです。 (民知―恋知についてはクリック)

武田康弘





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