以下は
、「金泰昌・武田康弘の往復書簡・第二次「恋知と楽学の哲学対話」ドキドキの展開!! 」への荒井達夫さんのコメントです。
[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 21:24]
「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」というのが、金泰昌さんの思想ですね。国際的経験が豊富な金さんらしい思想ですが、特に「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などの議論は、日本国内の諸問題を考える際にも、問題の重要な側面を際だたせ、非常に有用な視点を提供するものと思います。
そこで、最近問題になっている防衛省の公務員倫理違反などを考えると、「国民主権(憲法前文)→全体の奉仕者(憲法15条)→公務員倫理法」という発想で思考し、行政運営を行うことの重要性を痛感します。なぜなら、個々の公務員(特に霞ヶ関キャリア)が、憲法の依拠する民主制原理を深く理解し、「活私開公」を徹底的に実践すれば、当然、「私」から「公共」が開かれ、その結果、「真の全体の奉仕者」となり、「良き公」(=公務の民主的で能率的な運営)が実現することになるからです。
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[ タケセン ] [2007/10/29 22:51]
荒井さん、
そうですね。自由対話による民主主義を原理中の原理に据えなければ、公共は成立しません。原理がボケれば、「公共」はすぐに「公」という名の官僚主義へと転落します。日本の現状は、その官僚主義ですが、彼らが「市民の公共的利益」とは違う独自の公(おおやけ)を持つことができると思うなら、それは言語道断という他ありません。主権在民の民主制を否定することにしかなりませんから。
コメント、感謝です。
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[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 23:15]
私は、1年前、山脇さんとずいぶん厳しい論争をしたのですが、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などについて、上記のように理解するようになって、実は、あまり問題意識において違いはないのではないかと思うようになりました。今の日本で、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」とやっていくと、そのような理解が最も自然で、結局、皆そうなるのではないかと考えているところです。
補足です。
「公務の民主的で能率的な運営」とは、国家公務員法(1条)の究極目的で、公務が実現すべき「国民一般の共通な利益」を意味します。当然、「官」の利益ではあり得ません。
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[ タケセン ] [2007/10/29 23:52]
そうですよね。
【官の利益】、なんてまったくどこにも位置付かない意味不明の話でしかありませんものね。組織の利益のために組織がある!?とうバカげたことにしかなりませんからーそれを主権者の税金で維持する!?無間地獄に落ちますよ(笑)。
山脇さんも「民主主義派」ですからね、荒井さんとも一緒にいろいろやれますよ~
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[ 荒井達夫 ] [2007/10/30 21:14]
金泰昌さんは、「三次元相関思考」と言っていますね。私は「三元論」よりも、こちらの呼び方が好きです。「三元論」ですと、単なる理論モデルのようですし、また、内容も公共哲学の「原理」とは違うからです。大事なことは、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」という点であって、だからこそ、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」が、現実問題を考える上で重要な視角を提供してくれると考えています。金さんも、本来はこういう意図なのではないでしょうか。そうでなければ、金さんが一番心を痛めている日・中・韓の関係など、複雑困難な問題の解決が、さらに難しいものになってしまうからです。(これは、切ない話です。)例えば、「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。
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[ タケセン ] [2007/10/30 23:40]
荒井さん、
わたしが、キムさんのほんらいは?を言うわけにもいきませんので、返事は無理ですが、荒井さんの言う、【「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。】は、
誰が考えてもそう言うしかないでしょう。
そこが「官」の問題の核心のはず。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/04 09:03]
山脇さんは徹底した民主主義派で、その三元論は、どこまでも、個人一人一人から成る「民の公共(活動)」が「政府の公(的行動)」と「私企業の行動」の「正当性(legitimacy)」を成し、前者が後者を方向付けるという観点で使っているようです。これですと、上のコメント欄の私の論や、その基礎にある武田思想とも矛盾しませんから、「官」の問題についても基本的な認識はそれほど変わらないということになるでしょうね。
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11月7日補足。
以下にコメント欄の9つのコメントを張り付けます。荒井達夫 ] [2007/11/05 23:50]
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(憲法前文)
これは、我が国が「地球的規模の公共性」の実現を目指すという宣言と言えますが、憲法を遵守し、実施する義務を負う「官」が率先してその実現に努力しなければならないことは、明らかです。また、この「地球的規模の公共性」の基礎にあるのは、当然「市民的公共性」であると言えますから、「官=公」でも、結局、「官とは市民的公共性を実現するための権力機構である」ということになるでしょう。私は、最近、「和」や「グローカル」の公共哲学をこのように考えています。
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荒井達夫 ] [2007/11/06 21:18]
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
これは、「市民的な公共」の実現(正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)により、「官」が「最悪の公」(政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る)とならないようにする。そのために、憲法を確定するに当たり、はじめに「主権在民」を明らかにしたものであると言えるでしょう。この思想についての深い探求なくして公共哲学はあり得ないと考えます。
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[ タケセン ] [2007/11/07 09:16]
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
そうです。
当たり前と思うこの箇所こそ核心中の核心、原理中の原理であり、【主権在民】の徹底なくしては、武田の考える公共哲学は成立しません。
そこが【第二次哲学対話】(金泰昌と武田康弘)の論争点になっています。
まだ、発表していませんが、10月4日の『主権者は「天皇」から「国民」へーこの原理を徹底させたい』と、10月10日の『天皇制と主権在民について』は、この原理の確認と徹底化による【新たな公共哲学】の開示なのです。
新語・造語に惑わされず、「当たり前」を愚直に掘ること、それがほんものの哲学・公共哲学であるはずです。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/07 20:49]
「官=公」の「公」と「公共」は次元を異にする概念であり、そのように理解してはじめて、金さんの「三次元相関思考」が活きてくるのではないかと思います。「官=公」の「公」は、「良き公」(公務の民主的能率的運営など)と「悪しき公」(最悪は、政府の行為により起こる戦争の惨禍)に分けられますが、「公共」については、このような区分けはあり得ません。「公共」とは、市民一般の共通利益(市民的公共)を意味するからです。「官」とは本来「公共」を実現するための権力機構のはずですが、実際には「公共」の実現につながる「良き公」と、つながらない「悪しき公」となる場合があり、我が国ではそれが「最悪の公」となった過去があります。そのために主権在民・民主制原理を確認し、「公共」の徹底的な実現を図る(諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)というのが、憲法前文の思想であると考えるのです。
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[ タケセン ] [2007/11/08 11:08] [ Myblog ]
荒井さん、
なぜ、【「官=公」の公は、】などと言わなくてはならないのか?
わたしは、「官」は、公共を下支えする組織であり、公共を「民意の代行機関であ
る議会」の決定の下に遂行する組織である。だから「官」は、絶えずその仕事が公
共(民意と人権)の実現に値するものかどうかを検証する義務がある、と言えばよ
いのだと思います。
「官の公」、というのは誤解を招く言い方であり、「官の仕事」、と言うべきであり、それならば、極めて分明に、「官の仕事は、民の公共を担保するのがほんらいだ」となり、そこに危うさが入る余地がなくなるわけです。そのような言い方=思想が民主主義の徹底化による公共の実現になる、わたしはそう考えています。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/08 21:21]
おっしゃるとおりだと思います。私は、現行法制を分析してみましたが、以下のように理解しなければ、「三元論」と「三次元相関思考」を使って憲法前文や国家公務員法の目的規定(1条)を合理的に説明することは不可能である、と考えています。 ?「官=公」は「政府の組織と活動」を、「公共」は「市民一般の共通利益」を意味する。その意味で、「公共」は「官=公」と次元を異にする概念である。(そう考えなければ、三次元思考にならない。) ?「政府の組織と活動」の目的は、「公共」の実現である。また、「公共」の実現に反する「政府の組織と活動」は、認められない。これは民主制国家において当然である。 ?「三元論」は公共哲学の「原理」ではなく、「現実問題の重要な側面を際だたせて説明する道具の一つ」である。また、「三次元相関思考」は、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」という点に重要な意味がある。
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[ タケセン ] [2007/11/08 22:39] [ Myblog ]
荒井さん、
官を公と置くという思想=キムさんの「公共哲学」の基本姿勢を引き受けて、それを現行の日本の社会制度と法体系に合致させようとすれば、ここに示された「荒井解釈」しかない、とわたしは判断します。
しかし、ふつうの多くの人の共通了解を命とする公共性に関する思想・考察が、「注釈」の必要な用語法の上にしか成立しないのは致命的な欠陥だと言えます。さらに、なぜ「三次元相関性」が、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」ことにつながるのか?論証抜きの結論先取りは、論理の基本に反しますが、荒井さんの悪戦苦闘!?(笑)ぶりはよく伝わります。
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[ 古林 治 ] [2007/11/08 22:58]
荒井さんが悪戦苦闘している姿を見てじっくり考えてみました。
『【公】という語を単独で使った刹那、公と公共は峻別され、公共とは別の正当な主体者が存在することを(暗に)喚起してしまいます。これはどう考えても民主制の原理とは相反する考えです。』
やはり、原理レベルでの調停、妥協、折衷というのは成立しない、それは現実レベルでのお話である、という結論になりますね。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/09 00:11]
私が、公共哲学の検証に憲法と国家公務員法を題材にしたのは、これらが公共哲学の実践において最重要の法制であることと、民主制原理を明確にしている法であることが理由です。その結果は以下のとおりですが、
公共哲学関係者にとって無視できない重大な意味を持っていると考えます。是非、真正面から検討し、議論していただけるよう希望します。