思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ブログ『思索の日記』-4年ー16万件ー感謝!!です。

2007-11-27 | その他


以下は「白樺ML」です。みなさん、これからもよろしく。


武田です。

「ブログ」とは何かも知らず、ただ簡単に更新できるホームページみたいなものがあればいいのにな~、と思ってみなに聞いたら、管君が、「アメリカですごく流行っているブログというのがあります」というので、綿貫君と管君に頼んで【思索の日記】という名のブログをつくりましたが、早いもので、今月で4年が経ちます。

当初は勝手が分からず、どういう人が読むかのかの見当もつかず、おっかなびっくりで記事を書いていました。途中でネットウヨクのような人のコメントがしつこく入ったこともありましたが、断固として反論していたらすっかり消えてしまい、寂しいくらいです(笑)。

丸4年たって、今日でアクセス数が16万件に達しそうです。振り返れば、このブログを出したために、いろいろ面白いこと、大変なことが招来したのですね~(笑)。今後ともみなさんよろしく。コメントもお願いします。

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祝!「思索の日記」四年!
16万件ってすごい・・・

ここ2年くらいはすさまじく根気のいるテチャン(金泰昌)さんとの往復書簡(これも山脇直司さんをつうじてブログがキッカケだったでしたっけ?)も続いていましたし、たまった疲れがでたり風邪もぶりかえしているようですが、タケセン、どうかお大事にしてください。

今もこれまでも、過労だろうが風邪で熱がでようが何があろうが、授業などでそんなところを微塵もみせないタケセンですから、あとからたまたま百代さんに聞いたりしてビックリしたことは何度もあります。百代さんでさえあとからビックリってことがあると言っていました。

これって、タケセンが仕事や日々の生活の中でもそうとうな試行錯誤や創意工夫を実践して想像できないくらいのプラスのエネルギーをうみだしながら生きているからできることなのかしら、と最近思います。

教室は建物はもちろん、教室内においてあるさまざまなもの、ただよう空気、空間には、ほんとうってなんだろうと問い続ける「哲学の土台]や、おしゃれ心、いろんなエッセンスがちりばめられている感じがして、いるだけでなんだかたのしくてみてふれるともっとたのしくて、発見もあり、会でみなさんと自由対話を深めていく時間も有意義で、貴重な場だなぁと私は思っています。

もう一度、祝!4年ー16万件
今私はタケセンや白樺のみなさんに心から感謝の気持ちでいっぱいになっています。

染谷ひろみ




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事実学は事実人しかつくらないー意味論は人間と民主主義を生む

2007-11-23 | 恋知(哲学)

3回に分けて書いたものをひとつにまとめて以下に再録します。


事実学は事実人しかつくらないー意味論は人間と民主主義を生む


 【好きなこと】のない人は、悲しく不幸です。
よろこびを持たずに生きるしかないからですが、自分からはじまる面白いこと・楽しいことがなければ、生に意味を感じることができません。フッサールの言葉を借りれば、ただの【事実人】(犬でも猿でもないという意味で人間であるだけ)でしかないということです。

 外なる価値=履歴や財産や・・・がなければ自立できない人。
知識や技術を集積するだけで、心の内側に生きる意味を見出せない人。
他者=親・教師・上司・・・からの指令や要請によって生きる人。
社会人という仮面をつけ、実存としての生を歩めない人。
そういう人として生きるのは、誰にとっても悦びのない人生です。

 生きる意味と価値を自ら生み出すことができないと、いつも上から(上位者)の・外から(世間)の価値に従うほかないわけですが、それでは【根源的不幸の生】を生きるしかありません。その人がその人としての意味と価値を持った生を歩めず、「事実としての人」以上にはなれないからです。外的には申し分のない地位や財産や履歴を所有していても、それらは何の助けにもなりません。内的な意味の欠乏を外的な価値で埋めることはできないからです。心・内的世界の開発を人生の中心に置かないと、何もかもが【空しさ】に支配されてしまいます。その空しさを紛らわせるために、他者からエロースを奪うしかない人生を歩むのでは、存在そのものが腐ってしまいます。他者を表向き尊重する態度を取りながら、実のところ他者を自己実現の手段として利用する人生には救いがありません。

 これは恐ろしい話ですが、なぜそのような事態が招来してしまうのか?以下にそれを考えたいと思います。「事実学は事実人しかつくらない」(フッサール)がキーワードです。

興味・関心から切り離された点数のための勉強を毎日こなす人生を歩まされる子供、幼い頃から面白みのない紋切り型の勉強をするように躾けられる子供、それでは、人間は人間にはなれません。意味と価値のない世界を生きるのは、人間としては生きないことだからです。自分からはじまる「好き」の世界が中心・土台になければ、人間は人間にはなれず、自動人形に陥ってしまいます。

 人間の知性―「知る」とは、心身全体による会得のことであり、感情世界にまで届く悦びや面白みのことです。丸暗記や冷たい理性ではないのです。知ることが生の充実に結びつかないならば、その知は、「悪しき知」でしかありません。人間のよい=よいのイデア{生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、溌剌(はつらつ)としていること、瑞々(みずみず)しいこと、高揚感のあること、愉快なこと=自由と愉悦の心}を広げ深めることに寄与しない「知」には存在理由がないのです。ただ他者に優越するための知であれば、それは自我主義をしか招来せず、自他の幸福を元から奪う「悪しき知」としか言えないからです。

 【意味論としての知】ではなく、【事実学としての知】を累積することを続ければ、内側から湧き上がる世界のない人間=自動人形に陥るしかありません。内面世界の豊饒化とは無縁の技術主義に落ちていくわけです。スタティクな形式主義、四角四面の灰色空間、悦びを消去する厳禁の精神、外的価値しか分からない不毛な生、に沈んでしまいます。

内的世界の形成のための基本の条件は、【自分が引き付けられることに集中する時間をもつこと】です。既存の路線に沿って「こなす」ことをしていてもダメです。自分の創意工夫と試行錯誤でつくる世界を持たないと、内面世界はつくれません。
 自分からする創意工夫と試行錯誤の営み抜きには、けっして人が独自世界をひらくことはないのです。「型にはまった個性!?」の演出は空しいだけです。【好きなことを自分のやりかたで追求する】、その営みを続けることで、少しずつその人の独自の内面世界は形成されていきます。

 したがって、余裕のないスケジュールに縛られた生活を送れば、心のエロースは開発されず、精神世界=内面世界が形成されることはありません。
 現代の優秀と言われる子どもたちの生活をみると、細かく管理され、時間を縛られていて、自由がありません。優秀と言われる子ほど心の世界が単調で機械的です。【固く決まりきった理屈】と【紋切り型の感情】に支配されていては、生の意味・価値は減じてしまいます。内側からはエロースがやってきません。

 「事実学」を累積した人間を優秀だと考えるような社会では、「事実人」でしかない人間が増え、新たな事態に対応することのできない紋切り型の「優秀人」(という名の愚か者)が評価されます。自分から始まる世界をもち、「意味論」としての知を生きる人間はあまり評価されないことになりますが、それでは【根源的不幸の社会】を生んでしまいます。
 幸福とは、内から湧き上がる力=情熱がなければ得られません。魅力ある人間、悦びの人生をつくるのは、【意味の濃さ】です。事実学は事実人しかつくりません。

 その内面世界を鍛え、豊かにする必須の手段が対話・討論です。内面世界を「自分教」に陥らずに深め広げるには、日常的な「自由対話」の実践が求められます。閉じれば腐るのです。民主主義とは政治の体制ではなく、人間の生き方のことだと思います。事実学の累積は「エリート主義」しか生まず、意味論の探求は豊かな人間性を育むことで「民主主義」を生むのです。

武田康弘




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目次ー恋知(哲学)-3

2007-11-22 | 目次(番号をクリック)
目次ー哲学〈恋知)-3

140.事実学は事実人しかつくらないー?
141.事実学は事実人しかつくらないー?(完)
142.公共とは合意によってつくられるルールの束のことー自由を互いに認め合うことのエロース
143.官と公共哲学
144.プライドを肯定しエリート意識を否定するー民主制社会における倫理
145.プライドとエリート意識
146.近代市民社会の常識ではダメー真の神を見出すべき!?へのわたしの応答
147. 知識と思考は両立し難いものーエロースは考えることから生まれる。
148.公共哲学とは何か?
149.対話のために




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事実学は事実人しかつくらないー?(完)

2007-11-21 | 恋知(哲学)

内的世界の形成のための基本の条件は、【自分が引き付けられることに集中する時間をもつこと】です。既存の路線に沿って「こなす」ことをしていてもダメです。自分の創意工夫と試行錯誤でつくる世界を持たないと、内面世界はつくれません。
自分からする創意工夫と試行錯誤の営み抜きには、けっして人が独自世界をひらくことはないのです。「型にはまった個性!?」の演出は空しいだけです。【好きなことを自分のやりかたで追求する】、その営みを続けることで、少しずつその人の独自の内面世界は形成されていきます。

したがって、余裕のないスケジュールに縛られた生活を送れば、心のエロースは開発されず、精神世界=内面世界が形成されることはありません。
現代の優秀と言われる子どもたちの生活をみると、細かく管理され、時間を縛られていて、自由がありません。優秀と言われる子ほど心の世界が単調で機械的です。【固く決まりきった理屈】と【紋切り型の感情】に支配されていては、生の意味・価値は減じてしまいます。内側からはエロースがやってきません。

「事実学」を累積した人間を優秀だと考えるような社会では、「事実人」でしかない人間が増え、新たな事態に対応することのできない紋切り型の「優秀人」(という名の愚か者)が評価されます。自分から始まる世界をもち、「意味論」としての知を生きる人間はあまり評価されないことになりますが、それでは【根源的不幸の社会】を生んでしまいます。
幸福とは、内から湧き上がる力=情熱がなければ得られません。魅力ある人間、悦びの人生をつくるのは、【意味の濃さ】です。事実学は事実人しかつくりません。

その内面世界を鍛え、豊かにする必須の手段が対話・討論です。内面世界を「自分教」に陥らずに深め広げるには、日常的な「自由対話」の実践が求められます。閉じれば腐るのです。民主主義とは政治の体制ではなく、人間の生き方のことだと思います。事実学の累積は「エリート主義」しか生まず、意味論の探求は豊かな人間性を育むことで「民主主義」を生むのです。

武田康弘





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事実学は事実人しかつくらないー?

2007-11-20 | 恋知(哲学)

興味・関心から切り離された点数のための勉強を毎日こなす人生を歩まされる子供、幼い頃から面白みのない紋切り型の勉強をするように躾けられる子供、それでは、人間は人間にはなれません。意味と価値のない世界を生きるのは、人間としては生きないことだからです。自分からはじまる「好き」の世界が中心・土台になければ、人間は人間にはなれず、自動人形に陥ってしまいます。

人間の知性―「知る」とは、心身全体による会得のことであり、感情世界にまで届く悦びや面白みのことです。丸暗記や冷たい理性ではないのです。知ることが生の充実に結びつかないならば、その知は、「悪しき知」でしかありません。人間のよい=よいのイデア{生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、溌剌(はつらつ)としていること、瑞々(みずみず)しいこと、高揚感のあること、愉快なこと=自由と愉悦の心}を広げ深めることに寄与しない「知」には存在理由がないのです。ただ他者に優越するための知であれば、それは自我主義をしか招来せず、自他の幸福を元から奪う「悪しき知」としか言えないからです。

【意味論としての知】ではなく、【事実学としての知】を累積することを続ければ、内側から湧き上がる世界のない人間=自動人形に陥るしかありません。内面世界の豊饒化とは無縁の技術主義に落ちていくわけです。スタティクな形式主義、四角四面の灰色空間、悦びを消去する厳禁の精神、外的価値しか分からない不毛な生、に沈んでしまいます。
(つづく)




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事実学は事実人しかつくらないー?

2007-11-18 | 恋知(哲学)

【好きなこと】のない人は、悲しく不幸です。
よろこびを持たずに生きるしかないからですが、自分からはじまる面白いこと・楽しいことがなければ、生に意味を感じることができません。フッサールの言葉を借りれば、ただの【事実人】〈犬でも猿でもないという意味で人間であるだけ)でしかないということです。

外なる価値=履歴や財産や・・・がなければ自立できない人。
知識や技術を集積するだけで、心の内側に生きる意味を見出せない人。
他者=親・教師・上司・・・からの指令や要請によって生きる人。
社会人という仮面をつけ、実存としての生を歩めない人。
そういう人として生きるのは、誰にとっても悦びのない人生です。

生きる意味と価値を自ら生み出すことができないと、いつも上から(上位者)の・外から(世間)の価値に従うほかないわけですが、それでは【根源的不幸の生】を生きるしかありません。その人がその人としての意味と価値を持った生を歩めず、「事実としての人」以上にはなれないからです。外的には申し分のない地位や財産や履歴を所有していても、それらは何の助けにもなりません。内的な意味の欠乏を外的な価値で埋めることはできないからです。心・内的世界の開発を人生の中心に置かないと、何もかもが【空しさ】に支配されてしまいます。その空しさを紛らわせるために、他者からエロースを奪うしかない人生を歩むのでは、存在そのものが腐ってしまいます。他者を表向き尊重する態度を取りながら、実のところ他者を自己実現の手段として利用する人生には救いがありません。

これは恐ろしい話ですが、なぜそのような事態が招来してしまうのか?以下にそれを考えたいと思います。「事実学は事実人しかつくらない」(フッサール)がキーワードです。
(つづく)

武田康弘



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ファウストの劫罰ー【ベルリオーズの世界】

2007-11-17 | 趣味

わたしが先日立ち上げたミクシィ・コミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックに、【ファウストの劫罰】という恐ろしくマニアックなコミュニティ(笑)の創設者・ちょさんからコメントが入りました。以下にコピーします。


ファウストの劫罰って、こんな音楽です。タケセン

お勧めのCD(ジョルジュ・プレートル指揮・パリ管弦楽団)入手された方いらっしゃいますか?
おせっかいながら、少し説明してみます。

「ファウストの劫罰」は、オペラでもなく交響曲でもないが、両方でもある、分類不可能な曲で、「劇的交響曲」と呼ばれます。
フランス語訳されたばかりのゲーテの「ファウスト」を読んで熱病につかれたように感激したベルリオーズは、作曲にあたり、原作を大胆・自由に変えて台本をつくりました。

お勧めしたCDは輸入盤で日本語の対訳や解説がないので、簡単にご紹介します。この曲は音楽がすべてなので、細かい話はどうでもよいのですが。

粗筋は次のようなものです。
主人公のファウストは、自然にも人生にも飽きて毒杯を飲もうとするが、そこに復活祭の歌が聞こえてきて思い留まる。
突如メフィストフェレスが現れ、酒と歌は人生を楽しくすると言う。
メフィストフェレスの力で美青年に変身したファウストは、マグリートの部屋で愛を確かめ合う。マグリートの恋の歌。ファウストの大自然を讃える歌。
マグリートは母親殺しの罪で死刑の宣告、それを救いたい一心からファウストの地獄堕ちが決まる。メフィストフェレスは勝利感に酔う。
ファウストは地獄の炎に焼かれ、天国から天使たちの合唱する「マグリートへの賛歌」が聞こえてきて幕。

CD1
第一部 ハンガリーの平原(注・ゲーテの原作には全くない)
第二部 ドイツの北部
第三部 マグリートの部屋12幕まで
CD2
第三部 マグリードの部屋13幕以降
第四部 マグリートのロマンス、自然への祈願、地獄への騎行、天国にて
(余白には「クレオパトラの死」(20分)が収録されている)

まさに天才の作、霊感に満ちた天衣無縫の響きをぜひご堪能下さい。

武田康弘

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コメント(2件)

1 2007年11月08日 04:24 ちょ

はーい♪聴きました

>第一部 ハンガリーの平原(注・ゲーテの原作には全くない)

私は、この場面がものすごくすきなのですが、ご推薦のプレートル盤は、第2部からが凄く素敵です。
特に第3部以降のオペラティックな各場面。

なんといっても、ゲッダ、ベイカー、バッキエの名人達の絡み合いが素晴らしすぎる!
バッキエのメフィストフェレスは、古今東西最高のメフィストのような気がします。かっこよすぎ。

>酒と歌は人生を楽しくする

バッキエは、ホントに楽しそうに歌いますね。

ゲッダとベイカーの温かく人間的なファウストとマルガリーテもぐっときます。
この二人のヂュエットは絶品です。

また、彼らを支えるプレートル&パリ管の明るくふっくらした管弦楽も実に気持ち良いですね。
ベルリオーズの「天衣無縫」を楽々と嬉々として表現していると思います。

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2007年11月09日 12:56 タケセン

ちょさん、

さすが「ファウストの劫罰」のスペシャリストですね。
見事なコメントをありがとう!!
自由人・情熱人バンザイ!ですね。

武田康弘



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「民主主義の国家」と「国家主義の国家」の違い

2007-11-15 | 社会思想

当たり前でしかないと思われるでしょうが、
民主主義の国家(戦後の主権在民の日本)と国体思想の国家(明治憲法下の天皇主権の日本)との違いは何か?を明確にしておくことは、極めて重要です。

ひとりひとりの自由で対等な人間が集まって、その権利と安全を担保するために国家という制度をつくる、と考える民主主義の国家観に対して、
国体思想による国家観は、予め日本はどういう国であるかを規定し、その観念的な国家像に合うようにひとりひとりは生きるべきだ、と考えるわけです。

個人の実存を基底に据え、国家とはその社会に住む人々の人権を守るために必要な制度だとする民主制の国家思想と、国体思想=国家主義とは原理がまったく異なります。前者は、理念としての人権思想―自由の相互承認を基盤として、ルール的人権の思想により営まれる市民自治国家であり、後者は、上からの「公」の思想によるエリート支配の国家です。

日本語を使い、日本の気候風土の中で生活するする私たちは、自ずと「日本的」な感性と思考(私は「水の国ー日本」と考えます)を持ちます。日本で生きる人々の実存は、アメリカや中国で生きる人々の実存とは「異」なる部分がありますが、それは予め日本主義の思想を政府・教育機関が教えるのとは違います。気候風土に合致した自然性・合理性が生む個性(日本性)はよいものですが、国家主義による誘導を行えば、人々の想念は固定化・保守化してナショナリズム(国家主義)に傾斜し、頑なになってしまいます。柔軟で自由な発想・思想が失われると、個人も国家も弱体化します。他在を受け入れる柔らかさ・しなやかさがなくなるのは「死」に近づくことだからです。

国家という制度の価値は、人々のよき生のための条件整備にどれだけ貢献しているか、その程度にあると言えます。同じことを逆から言えば、人々が自分たちのよき生(互いの人権の確保)のために、国家制度を有用なものとしてつくり運用しているかどうか、ということです。現代における国家とは、【人権と民主主義を守るための制度】と考える以外にはありません。「市民国家」以外の国家、たとえば「天皇元首の国体国家」を目がけることはできません。自由の相互承認に基づく民主主義と異なる政治体制を選択することはできない、というのが市民社会の哲学=根源ルールだからです。

武田康弘





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幻の「白樺特集号」 -「公共的良識人」紙07年2月号掲載予定の原稿公開!!

2007-11-11 | 恋知(哲学)

【白樺教育館】ホームに13名のとても興味深い原稿を公開しました。
13名13通りで、似たものは一つもありません。
年齢は16歳の高校1年生から76歳の主婦の方まで、職業もそれぞれ異なる人々の【公共哲学】をめぐる討論会後の【感想と意見】は、ほんとうに深く面白いものです。ここにはほんらいの「知」が生き生きと脈打っています。

ここに掲載された【感想と意見】をお読みになって、「真に有用な知とは何か?」をお考え頂けれたら、わたしは望外の幸せです。

武田康弘

「白樺教育館」公式ホームページ(クリック)


83. 幻の「白樺特集号」
『公共的良識人』07年2月号掲載予定の原稿公開

 久々の更新です。

大分前のこと、2006年12月23日に【金さん・武田さんを軸にした白樺討論会<第5回白樺討論会>】を開催したのですが、この討論会に参加したメンバーの感想文を後日、公共的良識人紙に載せようということになっていました。が、残念ながら編集部の都合により、この企画はお流れとなってしまいました。
「民知」に共鳴する皆さんの書かれた文章が、おそらくは「進みすぎて」いて、従来の「公共哲学」運動の中に位置づかないと判断された故のようですが、この「白樺特集号」が「学」を職業としている皆さんに読まれれば、大変よい刺激となり、運動の前進に寄与したのではないかと思われます。とても残念です。

 今日はその幻の「白樺特集号」の原稿をご紹介します。ここに掲載する13名の方の文章は、 金泰昌(キム・テチャン)さんからの依頼=「白樺特集」を組みたいので、12月23日の「白樺討論会」の感想を参加者のみなさんに書いて頂きたい=を受けて、討論会参加者の方が暮から正月にかけて書き上げたものです。
(ただし、最初の私・古林治の文は、金泰昌さんからの依頼により、「この討論会に至った経緯と概略」を書いたものです。)

古林治

みなさんの原稿は白樺教育館ホームでご覧下さい。



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哲人気取りの渡邉恒雄は、民主主義の破壊者=国政を私物化。読売新聞の不買を

2007-11-09 | 社会思想

「育ちのいかがわしい者を哲学に近づけてはならない」(ソクラテス)

今回の騒動―福田首相と小沢民主党党首との大連立のための閉鎖会談は、読売新聞会長・主筆によって画策されたものであることが明らかになりました。

渡邉恒雄〈81歳)とは、名前の通り、恒(つね)に雄(ゆう)でいたいようですが、彼は、東大文学部・哲学科(法学部というエリート学部ではなく)の時、「全学連委員長」になれず、大きなルサンチマンを抱えたと言われています。就職は、当時はまだ朝日、毎日に遅れをとっていた読売新聞社。そこで一記者から社長になるのが当初からの夢だったようです。言論界を支配することで、傷ついたエゴを慰めようとしたのでしょう。彼は、「日本はアメリカの不沈空母」発言の天皇主義者・中曽根元首相と共に、「哲学者」気取りで、哲学を政治支配(己のエゴの満足)の道具として利用しようとします。

プラトンは、主著『国家』(市民国家ポリスの教育論・社会論)で、こういう輩を「育ちのいかがわしい者」とよび、ソクラテスの言葉として、そのような者を哲学に近づけてはならないと警告しています。「政治を哲学化」しようとして手痛い失敗をしたプラトンの自戒を込めての発言だったのかもしれません。元来、理念次元の探求を行う哲学と現実次元の得を実現しようとする政治を並列させて捉えることはできません。中曽根が言う「政治に哲学を!」という発想ほど危険なものはないのです。哲学の探求は、人間の生の意味と価値を問うものであらゆる営みの基盤となりますが、それをそのままの形で現実化するのは不可能ですし、もしそれを強行すれば、理念が現実を支配するという「理念主義・ロマン主義」を招来してしまいます(戦前の「八紘一宇」や「天皇現人神」という理念は、集団的ロマン主義の最たるものでした)。

話を戻しますが、今朝の東京新聞には、仁木啓孝さんと魚住昭さんの証言が報じられていて、それによると、
渡邉氏が中心となり、有識者や官房長官、ときに首相まで呼ぶ「山茶花会」(さざんかかい)という内密の親睦会があり、2000年の「加藤の乱」もこの会が発端とのこと。また、1998年の「自自連立」も渡邉氏の画策で、犬猿の仲とされた野中広務官房長官は、渡邉氏に料亭でひれ伏したが、野中氏の役が今回は福田康夫首相である、と魚住さんは語っています。
今回の件で、首相の代理として使われたのが、森元首相。

渡邉氏にこういうことができるのは、巨大新聞のドンという立場を悪用しているからでしょう。彼は、取材対象と一体となることで情報を集め、それによって政治を動かす古い派閥記者の典型であり、ジャーナリストとしては不適格者です。己のエゴの拡大を公共の新聞を使って行うというのは、民主主義の基本ルールを侵す暴挙としか言えません。
彼のような超自我主義者が全権を持つ新聞社が、日本最大規模の読売新聞です。民主制の根幹である報道の公正・公平という【公共】を実現するためには、現在の経営体制の変革が必要ではないでしょうか。そのためには【不買運動】も有効な手段だと思いますが、みなさんいかかでしょうか?

武田康弘


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青い民主党にエールを贈る・小沢一郎の記者会を見て。

2007-11-07 | 社会思想

小沢一郎は、政治家として愚直に、全身全霊で生きてきた為に、上手に、大人の腹芸で生きてきた「政治家」には、その存在意味が分からないのだろう。
自民党の古だぬきたちは、最悪の意味で、実に大人である。
彼らには、真実・原理・理念は始めからなく、【戦略的思考を身体化】させているために、【シニカル(冷嘲的)な現実主義】で生きている。その点は俗世間的価値観(意識)しか持てない多くのマスコミ人も同様である。
この現実主義=悪しき大人の考え方が、日本をいつまでも「悦び」のない社会にしている。真に主体的(=「私」のロマン・理念・価値意識で生きる)ことがなく、外に・周りに合わせて生きる為に、永遠に幸福(=充足・意味充実)はやってこない。いつまでも不幸な生の再生産が続く。
いま、小沢一郎の記者会見を見ていて、小沢は「悪しき大人」にはなっていないと感じた。日本政界最大の男が「悪しき大人」でないのは、とても喜ばしいことだ。
自民党は大人である。しかし、この国は【大人】には変えられない。けっしてこの「官僚独裁国家」を変革することはできない。それだけは間違いない。
民主党は青い。しかし、【青い大人】でなければ、変革はできない。「混迷の民主党」にわたしはエールを贈る。

武田康弘




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小沢一郎よ、よく聞きなさい。

2007-11-05 | 社会思想

もう分かったでしょう。
国民も、あなたが選んだ民主党の幹部も、あなたより進んだ理念を持ち、思想は進歩しているのですよ。
政局として見るというレベルではなく、政治として・政権(交代)として政治を見ているのです。
政局としてしか見ることのできない遅れた頭脳の【渡辺や中曽根】をそれなりに優れたものと勘違いしているのは、愚かなマスコミであり、「国を憂う」などという気色の悪い騙しの言説を吐く【町村や伊吹】などの自民党の古だぬきグループだけなのです。

小沢一郎よ、あなたはせっかく半分変わったのですから、元の半身の方に逆戻りする愚だけは犯してなりませんよ。
国民は、暫くの政治の混乱は大きな改革のためには甘受するのです。
小手先の騙しのような改革ではこの「官僚独裁国家」はどうにもならないことを十分に知っているのです。厳しい対立や混乱を経由しなければ、改革はできないことを。
既得権を持っている人やグループ、もちろん前記の【老害】でしかない【古き自我主義者】たちは真の改革を何よりも恐れているわけですから、そのような人たちは遠ざけなければいけません。
あなたの近くには、こういう【戯けた老人】よりも桁違いに優れた人が多くいます。育っているのです。足元を見なさい。岡田や枝野や長妻や・・・彼ら若手のいう事に耳を傾けるのです。

時代遅れの古き「実力者」たちの政局主義に幻惑されているのは、マスコミ人であり、国民はもっと賢く先にいるのです。
民を信じなさい。この国では「エリート」よりも「民」の方が進んでいるのですよ。
小沢一郎よ、古だぬきの策謀から真に自由になるためには、後半分、自分自身を変革することしか方法はないのです。
あなたはまだ古い武将や明治維新期の政治家に範も求める気持ちがありますが、過去に範を求める精神を乗り越えないと、未来は未来に値するものとしては開けないのです。範を求めることのできない領域に入らなければまだ何事も成しえないのだ、ということを深く自覚しなければならないはずです。
あなたがしなければいけないのは、政治の変革なのです。

武田康弘



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荒井達夫さんのコメントー山脇直司さん金泰昌さんの公共哲学

2007-11-04 | メール・往復書簡

以下は、「金泰昌・武田康弘の往復書簡・第二次「恋知と楽学の哲学対話」ドキドキの展開!! 」への荒井達夫さんのコメントです。


[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 21:24]
「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」というのが、金泰昌さんの思想ですね。国際的経験が豊富な金さんらしい思想ですが、特に「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などの議論は、日本国内の諸問題を考える際にも、問題の重要な側面を際だたせ、非常に有用な視点を提供するものと思います。
そこで、最近問題になっている防衛省の公務員倫理違反などを考えると、「国民主権(憲法前文)→全体の奉仕者(憲法15条)→公務員倫理法」という発想で思考し、行政運営を行うことの重要性を痛感します。なぜなら、個々の公務員(特に霞ヶ関キャリア)が、憲法の依拠する民主制原理を深く理解し、「活私開公」を徹底的に実践すれば、当然、「私」から「公共」が開かれ、その結果、「真の全体の奉仕者」となり、「良き公」(=公務の民主的で能率的な運営)が実現することになるからです。
-――――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/29 22:51]
荒井さん、
そうですね。自由対話による民主主義を原理中の原理に据えなければ、公共は成立しません。原理がボケれば、「公共」はすぐに「公」という名の官僚主義へと転落します。日本の現状は、その官僚主義ですが、彼らが「市民の公共的利益」とは違う独自の公(おおやけ)を持つことができると思うなら、それは言語道断という他ありません。主権在民の民主制を否定することにしかなりませんから。
コメント、感謝です。
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[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 23:15]
私は、1年前、山脇さんとずいぶん厳しい論争をしたのですが、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などについて、上記のように理解するようになって、実は、あまり問題意識において違いはないのではないかと思うようになりました。今の日本で、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」とやっていくと、そのような理解が最も自然で、結局、皆そうなるのではないかと考えているところです。
補足です。
「公務の民主的で能率的な運営」とは、国家公務員法(1条)の究極目的で、公務が実現すべき「国民一般の共通な利益」を意味します。当然、「官」の利益ではあり得ません。
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[ タケセン ] [2007/10/29 23:52]
そうですよね。
【官の利益】、なんてまったくどこにも位置付かない意味不明の話でしかありませんものね。組織の利益のために組織がある!?とうバカげたことにしかなりませんからーそれを主権者の税金で維持する!?無間地獄に落ちますよ(笑)。
山脇さんも「民主主義派」ですからね、荒井さんとも一緒にいろいろやれますよ~
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[ 荒井達夫 ] [2007/10/30 21:14]
金泰昌さんは、「三次元相関思考」と言っていますね。私は「三元論」よりも、こちらの呼び方が好きです。「三元論」ですと、単なる理論モデルのようですし、また、内容も公共哲学の「原理」とは違うからです。大事なことは、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」という点であって、だからこそ、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」が、現実問題を考える上で重要な視角を提供してくれると考えています。金さんも、本来はこういう意図なのではないでしょうか。そうでなければ、金さんが一番心を痛めている日・中・韓の関係など、複雑困難な問題の解決が、さらに難しいものになってしまうからです。(これは、切ない話です。)例えば、「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。
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[ タケセン ] [2007/10/30 23:40]
荒井さん、
わたしが、キムさんのほんらいは?を言うわけにもいきませんので、返事は無理ですが、荒井さんの言う、【「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。】は、
誰が考えてもそう言うしかないでしょう。
そこが「官」の問題の核心のはず。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/04 09:03]
山脇さんは徹底した民主主義派で、その三元論は、どこまでも、個人一人一人から成る「民の公共(活動)」が「政府の公(的行動)」と「私企業の行動」の「正当性(legitimacy)」を成し、前者が後者を方向付けるという観点で使っているようです。これですと、上のコメント欄の私の論や、その基礎にある武田思想とも矛盾しませんから、「官」の問題についても基本的な認識はそれほど変わらないということになるでしょうね。
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11月7日補足。
以下にコメント欄の9つのコメントを張り付けます。


荒井達夫 ] [2007/11/05 23:50]
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(憲法前文)
これは、我が国が「地球的規模の公共性」の実現を目指すという宣言と言えますが、憲法を遵守し、実施する義務を負う「官」が率先してその実現に努力しなければならないことは、明らかです。また、この「地球的規模の公共性」の基礎にあるのは、当然「市民的公共性」であると言えますから、「官=公」でも、結局、「官とは市民的公共性を実現するための権力機構である」ということになるでしょう。私は、最近、「和」や「グローカル」の公共哲学をこのように考えています。
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荒井達夫 ] [2007/11/06 21:18]
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
これは、「市民的な公共」の実現(正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)により、「官」が「最悪の公」(政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る)とならないようにする。そのために、憲法を確定するに当たり、はじめに「主権在民」を明らかにしたものであると言えるでしょう。この思想についての深い探求なくして公共哲学はあり得ないと考えます。
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[ タケセン ] [2007/11/07 09:16]
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
そうです。
当たり前と思うこの箇所こそ核心中の核心、原理中の原理であり、【主権在民】の徹底なくしては、武田の考える公共哲学は成立しません。
そこが【第二次哲学対話】(金泰昌と武田康弘)の論争点になっています。
まだ、発表していませんが、10月4日の『主権者は「天皇」から「国民」へーこの原理を徹底させたい』と、10月10日の『天皇制と主権在民について』は、この原理の確認と徹底化による【新たな公共哲学】の開示なのです。
新語・造語に惑わされず、「当たり前」を愚直に掘ること、それがほんものの哲学・公共哲学であるはずです。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/07 20:49]
「官=公」の「公」と「公共」は次元を異にする概念であり、そのように理解してはじめて、金さんの「三次元相関思考」が活きてくるのではないかと思います。「官=公」の「公」は、「良き公」(公務の民主的能率的運営など)と「悪しき公」(最悪は、政府の行為により起こる戦争の惨禍)に分けられますが、「公共」については、このような区分けはあり得ません。「公共」とは、市民一般の共通利益(市民的公共)を意味するからです。「官」とは本来「公共」を実現するための権力機構のはずですが、実際には「公共」の実現につながる「良き公」と、つながらない「悪しき公」となる場合があり、我が国ではそれが「最悪の公」となった過去があります。そのために主権在民・民主制原理を確認し、「公共」の徹底的な実現を図る(諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)というのが、憲法前文の思想であると考えるのです。
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[ タケセン ] [2007/11/08 11:08] [ Myblog ]
荒井さん、
なぜ、【「官=公」の公は、】などと言わなくてはならないのか?
わたしは、「官」は、公共を下支えする組織であり、公共を「民意の代行機関であ
る議会」の決定の下に遂行する組織である。だから「官」は、絶えずその仕事が公
共(民意と人権)の実現に値するものかどうかを検証する義務がある、と言えばよ
いのだと思います。
「官の公」、というのは誤解を招く言い方であり、「官の仕事」、と言うべきであり、それならば、極めて分明に、「官の仕事は、民の公共を担保するのがほんらいだ」となり、そこに危うさが入る余地がなくなるわけです。そのような言い方=思想が民主主義の徹底化による公共の実現になる、わたしはそう考えています。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/08 21:21]
おっしゃるとおりだと思います。私は、現行法制を分析してみましたが、以下のように理解しなければ、「三元論」と「三次元相関思考」を使って憲法前文や国家公務員法の目的規定(1条)を合理的に説明することは不可能である、と考えています。 ?「官=公」は「政府の組織と活動」を、「公共」は「市民一般の共通利益」を意味する。その意味で、「公共」は「官=公」と次元を異にする概念である。(そう考えなければ、三次元思考にならない。) ?「政府の組織と活動」の目的は、「公共」の実現である。また、「公共」の実現に反する「政府の組織と活動」は、認められない。これは民主制国家において当然である。 ?「三元論」は公共哲学の「原理」ではなく、「現実問題の重要な側面を際だたせて説明する道具の一つ」である。また、「三次元相関思考」は、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」という点に重要な意味がある。
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[ タケセン ] [2007/11/08 22:39] [ Myblog ]
荒井さん、
官を公と置くという思想=キムさんの「公共哲学」の基本姿勢を引き受けて、それを現行の日本の社会制度と法体系に合致させようとすれば、ここに示された「荒井解釈」しかない、とわたしは判断します。
しかし、ふつうの多くの人の共通了解を命とする公共性に関する思想・考察が、「注釈」の必要な用語法の上にしか成立しないのは致命的な欠陥だと言えます。さらに、なぜ「三次元相関性」が、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」ことにつながるのか?論証抜きの結論先取りは、論理の基本に反しますが、荒井さんの悪戦苦闘!?(笑)ぶりはよく伝わります。
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[ 古林 治 ] [2007/11/08 22:58]
荒井さんが悪戦苦闘している姿を見てじっくり考えてみました。
『【公】という語を単独で使った刹那、公と公共は峻別され、公共とは別の正当な主体者が存在することを(暗に)喚起してしまいます。これはどう考えても民主制の原理とは相反する考えです。』
やはり、原理レベルでの調停、妥協、折衷というのは成立しない、それは現実レベルでのお話である、という結論になりますね。
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[ 荒井達夫 ] [2007/11/09 00:11]
私が、公共哲学の検証に憲法と国家公務員法を題材にしたのは、これらが公共哲学の実践において最重要の法制であることと、民主制原理を明確にしている法であることが理由です。その結果は以下のとおりですが、公共哲学関係者にとって無視できない重大な意味を持っていると考えます。是非、真正面から検討し、議論していただけるよう希望します。





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ファウストの劫罰って、こんな音楽です。

2007-11-02 | 趣味

以下は、【ベルリオーズの世界】(ミクシィ内につくったコミュニティ)のトピックです。

まず、クリックして下さいーベルリオーズの世界


ファウストの劫罰って、こんな音楽です。

お勧めのCD、入手された方いらっしゃいますか?
おせっかいながら、少し説明してみます。

「ファウストの劫罰」は、オペラでもなく交響曲でもないが、両方でもある、分類不可能な曲で、「劇的交響曲」と呼ばれます。
フランス語訳されたばかりのゲーテの「ファウスト」を読んで熱病につかれたように感激したベルリオーズは、作曲にあたり、原作を大胆・自由に変えて台本をつくりました。

お勧めしたCD(クリック)は輸入盤で日本語の対訳や解説がないので、簡単にご紹介します。この曲は音楽がすべてなので、細かい話はどうでもよいのですが。

粗筋は次のようなものです。
主人公のファウストは、自然にも人生にも飽きて毒杯を飲もうとするが、そこに復活祭の歌が聞こえてきて思い留まる。
突如メフィストフェレスが現れ、酒と歌は人生を楽しくすると言う。
メフィストフェレスの力で美青年に変身したファウストは、マグリートの部屋で愛を確かめ合う。マグリートの恋の歌。ファウストの大自然を讃える歌。
マグリートは母親殺しの罪で死刑の宣告、それを救いたい一心からファウストの地獄堕ちが決まる。メフィストフェレスは勝利感に酔う。
ファウストは地獄の炎に焼かれ、天国から天使たちの合唱する「マグリートへの賛歌」が聞こえてきて幕。

CD1
第一部 ハンガリーの平原(注・ゲーテの原作には全くない)
第二部 ドイツの北部
第三部 マグリートの部屋12幕まで
CD2
第三部 マグリードの部屋13幕以降
第四部 マグリートのロマンス、自然への祈願、地獄への騎行、天国にて
(余白には「クレオパトラの死」(20分)が収録されている)

まさに天才の作、霊感に満ちた天衣無縫の響きをぜひご堪能下さい。


武田康弘





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