思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

小貝川サイクリングーこどもたちの写真です。

2013-04-29 | 教育

昨日、小貝川までサイクリングに行きました。

写真の一枚目は、利根大橋の上で、二枚目は、小貝川の第三堤防付近で。

いい写真がたくさんありますが、とりあえず二枚です。

 

 

 

 

ソクラテス教室・武田康弘

 

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露骨な憲法否定の発言は、首相として不適格ですので、安倍首相は辞任すべきです。(拡散希望)

2013-04-29 | 社会批評

安倍首相は、過去に例を見ない露骨な「日本国憲法」否定の発言を繰り返していますが、これは、社会契約論に基づく近代民主主義への挑戦と言えます。

「人権思想と人民主権」に基づく近代民主主義では、公務員(政治家と官僚)の思想と行動を縛るものとして主権者である市民が「憲法」を制定するのです。99条にあるように、主権者である国民が為政者が順守しなければならない理念を提示し、彼らに順守義務を負わせているのですが、自民党や維新の会は、それとは逆に、一般国民にタガをはめるのが憲法であるかのような発想をもちます。

縛られる側の人間が、自分たちの思想・立場を有利にするためにする憲法改定の画策は、近代民主主義に基づく憲法の精神=立憲主義の否定であり、到底許されるものではありません。戦前の天皇主権(現人神という国家宗教)時代からの国家権力者の家系にある自民党の保守派たちによる日本国憲法の全面廃棄の画策は、立憲主義による民主制の根を断とうとする陰謀とさえ言える行為なのです。

内閣総理大臣が率先して近代民主主義(人権思想と人民主権)に基づく憲法の全面廃棄を行おうとすることは、原理次元における違反行為であり、安倍首相は、現行憲法の下で首相を続けるこはできません。即刻辞任を求めます。なお、安倍首相が憲法の本質的意味について無知なのは、先月行われた参議院での質疑でよく分かりました。以下をご参照ください。
安倍首相「有名な憲法学者」の名にポカン 「芦部信喜知らないって…」支持者もドン引き

以下は、先日のブログのコピーですが、質問者のよしくんぱっとさんとのやり取りを読まれると、この件について分明な理解が得られると思いますので、ぜひご覧ください。

 

安倍首相の言動は、明白な憲法違反です。 (拡散希望ー皆さまよろしく)

2013-04-23 | 社会批評

近代民主主義における憲法は、主権者である国民が為政者を縛るためにある、という立憲主義は、民主制国家の常識です。

縛られる側の為政者、それも最高権力者である内閣総理大臣が率先して憲法改正(しかも全面廃棄)を企てるというのは、酷い話であり、明白な憲法違反というほかありません。

新聞もテレビもこの間違った首相の行為を批判し正さないのは、近代憲法の意味の基本すら知らない証拠です。

 一体、大学で何を学んだのか、また、大学教師は、何を教えているのか。わが国の知的退廃は留まるところがありません。

武田康弘

(Facebookへの追記)

憲法の全面廃棄→新憲法の制定ということは、社会体制の変革時(王政から民主政とか、民主政から軍政とか・・)にしか出来ないこと。こんなことも分からない人ばかりが跋扈するのにはゾッとします。意味論・本質論なき教育の成果。(武田)


ーーーーーーーーーーー

よしくんぱっと  2013年4月24日 04:21

誰だったら憲法改正を企ててよいのですか?

ーーーーーーーーーーーーー

タケセン(武田康弘) 2013年4月24日 12:04

部分改正ならば、国民の一般意思を代議者である国会議員が提起することはOKです。ただし、どこまでも主権者の一般意思の範囲であり、政治家独自の思想で国民を誘導するものであってはなりませんので、【国民的議論】に基づくことが必須です。議員内討論ではなく、国民的議論こそが絶対要件です。

まして、今回のように、憲法の全面廃棄(=体制変革)を目がけることを時の内閣総理大臣が主導して行うことは【根源的な憲法違反】(革命、クーデター)としか言えません。99条に反する無法行為であり、民主制を形骸化させる首相独裁となります(ヒトラーと同じ論理)。

ーーーーーーーーーーーーー

よしくんぱっと2013年04月24日

ということは、憲法総入れ替えみたいなことをするのは、“合法”的には誰もできないのですか?あるいは、部分改正を繰り返せば国会議員にもできる?

ーーーーーーーーーーーーー
タケセン2013年04月25日

民主主義の原理である人民主権の憲法が成立した後では、社会体制そのものの変革を意味する憲法の全面廃棄はありえないはずです。
全面改訂のためには、各地で市民運動が起き高まることが絶対的条件ですが、人民主権の原理を変えようとする主権者(国民)の運動が起きるとは、非現実な想定です。
したがって、全面廃棄するというのは、社会契約思想による近代民主主義とは異なる思想(わが国の場合では明治の国体思想=天皇中心主義)による革命しかありえません。
安倍首相の思想は、そのような国体革命(維新)を議会を通じて行おうとするもので、その点においてヒトラーの思想・手法と全く同じです。

ーーーーーーーーーーーーー

 

結語 (問答)2013-04-27 12:44:42

 

よしくんぱっと 2013年4月25日 23:58

で、その安部首相が「議会を通じて行おうとするもの」は違法なんですか?

ーーーーーーーーーーー
タケセン 2013年4月26日 08:07

具体的な法律には抵触しないようにしながら憲法の理念を否定するという手法ですが、憲法は実定法ではなく理念法ですので、これに反する行為は、量刑のある実定法違反という次元の話ではなく、民主制の根源ルールに反する行為と言えます。

ーーーーーーーーーーー
よしくんぱっと 2013年4月27日 03:31

「具体的な法律には抵触しないようにしながら」「民主制の根源ルールに反する」行為をおこなうのは、法律的には合法ですか?

ーーーーーーーーーーー
タケセン 2013年4月27日 09:30

実定法では、具体的な個々のケースについてしか規定できません。それらを成立させている理念次元の憲法は、実定法と同一次元(同じ平面)では語れないのです。

権力者が、この次元の相違を利用して、実定法上では明確な違反とはならないようにしながら民主制の土台を崩し、中身を骨抜きにする行為は、歴史的に各国で繰り返し行われてきました。支持率8割〜9割を誇ったヒトラーの恐怖政治は代表的なものです。選挙での勝利を背景に【人権】を制限・抑圧して、愛国主義による思想統制を行いましたが、戦前の日本も「天皇現人神」という民主主義に反する思想を、一定の民主的手続きを経て全国民に強要したわけです。

そのようなおぞましい政治を防止するために、第二次世界大戦後に『世界人権宣言』が国連で採択され、また近年では『こどもの権利条約』が成立しました。これらは、多数では縛れない個人の権利を定めたもので、形式的合法性(各国の実定法)の下での横暴・抑圧を防ぐための「根源ルール」(人権という哲学思想)です。

というわけで、「民主制の根源ルールに反する行為」を実定法には抵触しないように行うことは可能です。
したがって、結論はYESです。

ーーーーーーーーーー
よしくんぱっと 2013年4月27日 10:12

なるほど、勉強になりました。ありがとうございました。


この記事に出てくる安部総理もなかなかのものですね。
http://www.j-cast.com/2013/03/30171884.html?p=1

「法学部卒で憲法を論じるのに芦部信喜知らないって!?」

ここでも、ちょっと怖い安部総理。憲法のことはほとんど何も知らずに改憲をしようとしているんですね。

 

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いま、ミヤネヤ(日本テレビ)で、「靖国問題」ーー北朝鮮と同じような洗脳放送!

2013-04-25 | 社会批評

韓国人や中国人ではなく、普通の日本人が聞いても異常性を感じる「靖国神社」の思想=天皇教=国家神道については一切触れずに靖国神社を紹介する。靖国思想に批判的な意見はゼロ。まったく紹介しない。

北朝鮮のテレビ局と同じで、異論や反論は封印して国民を日本主義・天皇主義へと誘導する。「思想及び良心の自由」は昔の話のよう。思想的・倫理的にどこまでも落ちていくアベノミクス国家のマスコミでは、世界的・普遍的な価値をもちません。


『靖国神社』の教義・思想とは以下です。あなたは賛成しますか?

『靖国神社』の遊就館で売られている宣伝パンフレットからの抜粋です。
小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)の談・1999年8月

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」

 

 

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安倍首相の言動は、明白な憲法違反です。 (拡散希望ー皆さまよろしく)

2013-04-23 | 社会批評

近代民主主義における憲法は、主権者である国民が為政者を縛るためにある、という立憲主義は、民主制国家の常識です。

縛られる側の為政者、それも最高権力者である内閣総理大臣が率先して憲法改正(しかも全面廃棄)を企てるというのは、酷い話であり、明白な憲法違反というほかありません。

新聞もテレビもこの間違った首相の行為を批判し正さないのは、近代憲法の意味の基本すら知らない証拠です。

 一体、大学で何を学んだのか、また、大学教師は、何を教えているのか。わが国の知的退廃は留まるところがありません。

武田康弘

(Facebookへの追記)

憲法の全面廃棄→新憲法の制定ということは、社会体制の変革時(王政から民主政とか、民主政から軍政とか・・)にしか出来ないこと。こんなことも分からない人ばかりが跋扈するのにはゾッとします。意味論・本質論なき教育の成果。(武田)


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よしくんぱっと  2013年4月24日 04:21

誰だったら憲法改正を企ててよいのですか?

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タケセン(武田康弘) 2013年4月24日 12:04

部分改正ならば、国民の一般意思を代議者である国会議員が提起することはOKです。ただし、どこまでも主権者の一般意思の範囲であり、政治家独自の思想で国民を誘導するものであってはなりませんので、【国民的議論】に基づくことが必須です。議員内討論ではなく、国民的議論こそが絶対要件です。

まして、今回のように、憲法の全面廃棄(=体制変革)を目がけることを時の内閣総理大臣が主導して行うことは【根源的な憲法違反】(革命、クーデター)としか言えません。99条に反する無法行為であり、民主制を形骸化させる首相独裁となります(ヒトラーと同じ論理)。

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よしくんぱっと2013年04月24日

ということは、憲法総入れ替えみたいなことをするのは、“合法”的には誰もできないのですか?あるいは、部分改正を繰り返せば国会議員にもできる?

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タケセン2013年04月25日

民主主義の原理である人民主権の憲法が成立した後では、社会体制そのものの変革を意味する憲法の全面廃棄はありえないはずです。
全面改訂のためには、各地で市民運動が起き高まることが絶対的条件ですが、人民主権の原理を変えようとする主権者(国民)の運動が起きるとは、非現実な想定です。
したがって、全面廃棄するというのは、社会契約思想による近代民主主義とは異なる思想(わが国の場合では明治の国体思想=天皇中心主義)による革命しかありえません。
安倍首相の思想は、そのような国体革命(維新)を議会を通じて行おうとするもので、その点においてヒトラーの思想・手法と全く同じです。

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結語 (問答)2013-04-27 12:44:42

 

よしくんぱっと 2013年4月25日 23:58

で、その安部首相が「議会を通じて行おうとするもの」は違法なんですか?

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タケセン 2013年4月26日 08:07

具体的な法律には抵触しないようにしながら憲法の理念を否定するという手法ですが、憲法は実定法ではなく理念法ですので、これに反する行為は、量刑のある実定法違反という次元の話ではなく、民主制の根源ルールに反する行為と言えます。

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よしくんぱっと 2013年4月27日 03:31

「具体的な法律には抵触しないようにしながら」「民主制の根源ルールに反する」行為をおこなうのは、法律的には合法ですか?

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タケセン 2013年4月27日 09:30

実定法では、具体的な個々のケースについてしか規定できません。それらを成立させている理念次元の憲法は、実定法と同一次元(同じ平面)では語れないのです。

権力者が、この次元の相違を利用して、実定法上では明確な違反とはならないようにしながら民主制の土台を崩し、中身を骨抜きにする行為は、歴史的に各国で繰り返し行われてきました。支持率8割〜9割を誇ったヒトラーの恐怖政治は代表的なものです。選挙での勝利を背景に【人権】を制限・抑圧して、愛国主義による思想統制を行いましたが、戦前の日本も「天皇現人神」という民主主義に反する思想を、一定の民主的手続きを経て全国民に強要したわけです。

そのようなおぞましい政治を防止するために、第二次世界大戦後に『世界人権宣言』が国連で採択され、また近年では『こどもの権利条約』が成立しました。これらは、多数では縛れない個人の権利を定めたもので、形式的合法性(各国の実定法)の下での横暴・抑圧を防ぐための「根源ルール」(人権という哲学思想)です。

というわけで、「民主制の根源ルールに反する行為」を実定法には抵触しないように行うことは可能です。
したがって、結論はYESです。

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よしくんぱっと 2013年4月27日 10:12

なるほど、勉強になりました。ありがとうございました。


この記事に出てくる安部総理もなかなかのものですね。
http://www.j-cast.com/2013/03/30171884.html?p=1

引用>>
「法学部卒で憲法を論じるのに芦部信喜知らないって

ここでも、ちょっと怖い安部総理。憲法のことはほとんど何も知らずに改憲をしようとしているんですね。

 

 

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学力が必要なのは、人生の充実のためであり、国のためではありません。

2013-04-20 | 教育

かつて、フランスの哲学者・文学者のジャン・ポール・サルトルは、ソビエト(現・ロシア)を訪れた時、工場に張られている標語を見て激怒しました。

そこには、
「結核は生産を阻害する」と書かれていました。

 
わが日本人の思想も同じで、「私」の人生をいかに充実させるか、とは考えず、組織や団体の利益のためにどうするか?と発想します。

こども自身の生のよろこびを豊かにするための重要なアイテムとして「学力」がある、とは考えないのです。

そもそも言葉から、思想のゆがみ・逆立ちを感じます。「学」という既存の枠組みを優先させる固い言葉ではなく、もっと広く普遍性を感じさせる言葉=「知」を用いるべきです。

学力ではなく、【知力】です。

そして、知力は、「私」のためにある、これは人間的な生の原理です。

知力は、国や産業界のためにあるのではありません。知的好奇心や知的探求、また、芸術的興味や表現は、なにかのためにあるのではなく、「私」の生のよさ(=意味充実・豊かさ・悦び・面白さ)を広げるためにあるのです。それが結果として社会の役に立つのです。

知力は、自他の生が輝くために、公共世界を広く「私」のものにするためにあるのです。


武田康弘

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α99は、「デシタルカメラのフラグシップ」です。(価格コムのレビュー)

2013-04-17 | 趣味
価格コムへ載せたソニー の35mmフルサイズカメラ・α99のレビューです。
 

5か月使いました。結論から言えば、最高!
α99は、一眼レフという従来の形式を超えた自由なカメラ。いわば、デジタルカメラのフラグシップといえます。
APSサイズの一眼レフα700よりもずっと使う頻度が増えました。気張らなくとも美しい画像が簡単に得られます。
わたしはほとんどディスタゴン24mmで撮っていますが、中央だけをトリミングで拡大する機構で1.4倍(35mm)にすることもしばしばです。でも画質は余裕たっぷりで美しい。新しい受光素子の透明でダイナミックレンジの広い画像は、ツァイスの品位の高い色を引き立たせて言うことなし。
35ミリフルサイズで手ぶれ補正がつくのはソニーだけですが、それにプラスしてミラーショックから解放された構造は、ストレスなく美画像を生み出します。ファインダーは、保守的な人には「不評」のようですが、光学式よりも明るく見やすいので助かります。
α99は世界に一つしかない独創的なカメラで、使うほどによさを実感しています。
最後に、
プロ機材を扱う業界に勤める親友(技術者)は、ゾナー135mmで撮ったわたしの写真を見て、「Jペグ万歳!」と叫びました。何の苦も無く、植物の葉の柔らかさと金属のゾクっとするような質感描写の共存する画像が得られる、凄い時代になったものです。

武田康弘

 

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「心を一つにする」ことの恐しさー映画『アレクサンドリア』

2013-04-14 | 恋知(哲学)

アレクサンドリア [Blu-ray]

みなが同じ「神」を信じることの恐さと愚かさ
「国民」がひとつになることの恐さと愚かさ
がよく分かる映画です。

 『君が代』を歌わない人は「非国民」-教師失格者という類の言動がいかに野蛮で愚かなものであるかが分かる映画です。
自民党右派や維新の会に集う政治家たちが、どれほど危険な思想の持ち主かが分かる映画です。
心を一つにすることは不可能ですが、不可能を求めれば、何が起きるかが分かる映画です。

キリスト教徒になることを拒む天文学者である主人公(実在した女性・ヒュパティア)は、
「神に従わないのなら何に従うのか。」という詰問に、
「わたしは、哲学に従います。」と明瞭に応えます。
古代において哲学とは、理性的な思考の全体をさす言葉です。何かを、誰かを信じ込むのではなく、何が真実かを探求し思考する心と頭の働きです。

戦前の日本では、天皇に従うという宗教(天皇教・靖国神社・国体思想)を求められたわけですが、従わない者は、多くが迫害を受け、殺されました。
現代でもなお、「日本人ならば天皇制を支持すべき」という思想が言われることがあります。安倍首相は、教育で「日本は天皇を中心とする国」であることを子供たちに教えようと考えています。

わたしは、ヒュパティアと同じく
「天皇制・国体思想・日本主義」には従わず、恋知(哲学)に従う人間です。
人権を否定する学者(安倍首相のブレーン・八木秀次)が教育再生委員に選ばれていますので、自民党右派と維新の会が国会で多数を占めれば、何が起きるか分かりませんが、政治レベルで何が起きようとも、
わたしは、理性と豊かな人間性をもつ恋知者であり続けたいと思います。
「集団同調」ほど愚かで危険な思想はありません。

武田康弘

 

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「はにかむことを知っている天才」小沢征爾さんがつくる音楽への私の見方。

2013-04-07 | メール・往復書簡

わたしの中学時代からの親友が、指揮者の小沢征爾さんを、「はにかむことを知っている超天才」と書いたメールをくれましたので、わたしの小沢征爾さんに対する思い、見方を書きました。

「はにかむ小沢さん」のことは、わたしも大好きで、素晴らしい人だな~~とずっと思い続けてきました。しかし、残念ながら、暫く前からの彼の演奏については、手放しでは楽しめないというのが本音です。

以下は、親友への返信メールです。

 ○○様

 小沢征爾さんの『ぼくの音楽武者修行』は、30数年前から長いこと中学一年生の授業で使い、彼の演奏する音楽を聞いてもらいつつ音読しました。 ず~と応援してきてLPCDもたくさん購入してきました。

 ただ、ウィーンフィルの音楽監督になったころ(超有名になったころ)からの演奏は、
 最高の評価を得たショスタコービッチの交響曲5番にしろ、
 奇跡のニューヨークライブと謳われた最近のベルリオーズの幻想、ブラームスの1番にしろ、各々の音楽の真髄に「届かない」と感じてしまいます。

 たとえば、サイモン・ラトルがつくる明晰で豊かな理念を感じるエロース=立体的な面白味とは異なり、平板的・直線的でひろがりを持ちません。聴衆は熱狂していますが。

マーラーの9番(2001年東京文化会館でのライブCD)など、西洋人がつくる世界とは別の意味で優れた演奏(美しく情緒的で涙を誘うような)もあり、好感を持ちづづけてはいますが、若いエネルギーの奔騰を示した以前の演奏のようには絶賛できない演奏も多いです。
 おそらくは、オーケストラプレーヤーをまとめる力はあっても、強靭な理念世界を生み出す力が彼の中にはなく(師の斎藤秀雄にはありましたが)、そのことが、若さの輝きを失った後の彼の演奏を平板化させているのではないかと思えます。

 小沢は、間違いなくわが国最高の指揮者ですから、これからの最晩年に、予想外の逆転(新たな価値をもつ演奏)が生まれることを祈ります。

 武田

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昭和天皇の思想と行動ーー知らずに判断するのはとても危険です。

2013-04-04 | 社会思想

どうもわが国では、近現代史、とりわけ天皇や皇族の言動及び彼らの思想について、客観的・学問的な研究抜きに、特定の事象のみに頼って判断するケースが多く、ほとんど「神話」の域を出ていません。

いまだに肯定的な話だけが流布される異様な状態が続いていますが、判断は、まず、虚飾なしに知ることが条件となるはずです。

吉田裕(一橋大学教授)の『昭和天皇の戦後史』と、大著ですがハーバート・ビックスの『昭和天皇』上下の二冊は優れた歴史書です。

また、極めて平易に書かれている『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか』は、天皇・皇室問題を考えるための必読文献です。33年間宮内庁記者を務め、天皇家と親しくお付き合いした板垣恭介さんによる著作ですが、これは日本人みなが読むべだな、とわたしは思います。

まず知りましょう!

武田康弘

 

 

 

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