日本社会に一番かけているものは、思想の原理を深め、明晰にすることです。
人間であれば、誰でもみな自分の価値意識のまとまり=思想を持っていますが、それを自覚しようとしないために、不幸が生まれます。
たとえば、皇太子の発言に対して、「分を知らない」!?と発言した評論家は、天皇制というシステムを原理にしているために、保守主義者の間で共通了解となっている「天皇制」を基準にして、そこから外れた皇太子の発言に「分をわきまえろ」と言ったわけです。
ふつうの多くの人も皆、それぞれが思想の原理をもっているわけですが、自分がどのような価値意識をもっているか?を自覚しないと、自分が知らずに身につけている思想に縛られて、それを絶対化してしまいます。囚われから解放されるためには、自問自答と自由対話が不可欠です。
自分を自分で知らずに動かしている価値意識=原理がどのようなものか?を意識することが「はじめの一歩」であり、次に、私たちが住まう社会では、どのような思想の原理が必要なのか?を自覚することが必要です。21世紀に住む私たちは、市民社会の常識を身につけ、民主制という思想の本質を知ることが大切です。
こういう原理の確認がまったく行われないのが日本社会の基本的な問題であることは、多くの人がうすうすは感じていることでしょう。無原則的なその場対応(例・ゆとり教育の廃止)=原理が無い、特定のイデオロギーを絶対化して他者に強要する(例・新教育基本法)=原理主義というのは、ひとつメダルの裏表で、どちらも同じです。
ところが、原理を明確にし、それにつくことを、「原理主義だ!」という人がいます。右派左派を問わず、しっかりとした優れた人=思想がブレない人に対して、これに水をかけ、それぞれの集団に同調させるために、意図的に用いられます。
原理主義とは何か?
それは、現実の問題に柔軟に対処できない固い紋切り型の頭=思考のことです。特定の言葉や概念に固執し、それらをオウム返しに言うだけの人、あるいは、固い組織(例・官僚組織や学校)に同調し、自分の頭で考えない人が原理主義者です。
自分の意見を主張しない人は、他者の手厳しい批判を受けないために、自己の思想や感情を絶対化して隠し持ち、原理主義に陥ります。とくに組織に守られた上位者はそうなりがちです。
自分の思想のありようを明確にし、これを分明で明晰なことばで語ること。それが原理主義の根をたつことです。原理の明晰化が原理主義への転落を防ぐのです。
イスラム教原理主義、キリスト教原理主義以上に人間をダメにするのは、「異」を消去し「同」を求める=集団同調を原理とする日本主義という原理主義ではないでしょうか。「異」を前提にするからこそ始めて「同」ではなく「和」が実現する、という原理を生きることが「日本原理主義」を超える方法なのだと思います。
武田康弘