思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

原理主義とは?原理の探求が弱いと原理主義に陥る。

2006-12-31 | 恋知(哲学)

日本社会に一番かけているものは、思想の原理を深め、明晰にすることです。

人間であれば、誰でもみな自分の価値意識のまとまり=思想を持っていますが、それを自覚しようとしないために、不幸が生まれます。
たとえば、皇太子の発言に対して、「分を知らない」!?と発言した評論家は、天皇制というシステムを原理にしているために、保守主義者の間で共通了解となっている「天皇制」を基準にして、そこから外れた皇太子の発言に「分をわきまえろ」と言ったわけです。
ふつうの多くの人も皆、それぞれが思想の原理をもっているわけですが、自分がどのような価値意識をもっているか?を自覚しないと、自分が知らずに身につけている思想に縛られて、それを絶対化してしまいます。囚われから解放されるためには、自問自答と自由対話が不可欠です。

自分を自分で知らずに動かしている価値意識=原理がどのようなものか?を意識することが「はじめの一歩」であり、次に、私たちが住まう社会では、どのような思想の原理が必要なのか?を自覚することが必要です。21世紀に住む私たちは、市民社会の常識を身につけ、民主制という思想の本質を知ることが大切です。

こういう原理の確認がまったく行われないのが日本社会の基本的な問題であることは、多くの人がうすうすは感じていることでしょう。無原則的なその場対応(例・ゆとり教育の廃止)=原理が無い、特定のイデオロギーを絶対化して他者に強要する(例・新教育基本法)=原理主義というのは、ひとつメダルの裏表で、どちらも同じです。

ところが、原理を明確にし、それにつくことを、「原理主義だ!」という人がいます。右派左派を問わず、しっかりとした優れた人=思想がブレない人に対して、これに水をかけ、それぞれの集団に同調させるために、意図的に用いられます。

原理主義とは何か?
それは、現実の問題に柔軟に対処できない固い紋切り型の頭=思考のことです。特定の言葉や概念に固執し、それらをオウム返しに言うだけの人、あるいは、固い組織(例・官僚組織や学校)に同調し、自分の頭で考えない人が原理主義者です。

自分の意見を主張しない人は、他者の手厳しい批判を受けないために、自己の思想や感情を絶対化して隠し持ち、原理主義に陥ります。とくに組織に守られた上位者はそうなりがちです。

自分の思想のありようを明確にし、これを分明で明晰なことばで語ること。それが原理主義の根をたつことです。原理の明晰化が原理主義への転落を防ぐのです。

イスラム教原理主義、キリスト教原理主義以上に人間をダメにするのは、「異」を消去し「同」を求める=集団同調を原理とする日本主義という原理主義ではないでしょうか。「異」を前提にするからこそ始めて「同」ではなく「和」が実現する、という原理を生きることが「日本原理主義」を超える方法なのだと思います。

武田康弘





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ほんらいの恋知(哲学)とは?ーご質問へのお答え

2006-12-29 | 恋知(哲学)

恋知(哲学)するとは、ほんらいどういうことか?という
ご質問にお答えします。

事象を大きなまとまりとして見る。
多くの人が日常使っている言葉で考える。
「学」を前提としないで、ふつうの日々の生活から考える。
情報知として整理するのではなく、物事や出来事の意味を探っていく。

ほんらいの哲学する=大元から考えるとは、そういう営みです。
哲学史上の知識の有無とは無関係です。上記のように自分の具体的経験から意味をくみとり、意味を見いだす作業です。これを習性とする人を恋知(哲学)者と呼びます。だから人はみな恋知(哲)者になれるし、なったら素敵です。
哲学者とは、何かの専門家ではなく、素人なのです。ただし、自覚した素人ですが。

暗記するだけの人、○○の権威に従う人、専門用語で語る人、公理・公式代入で済ます人は、恋知(哲学)者ではありません。従来のやりかた・考え方でよいかどうか?集団同調せずに、自分の頭をよく使って考えること。せまい自己に固執せず、常識に囚われず、体制に流されずに、何がほんとうか?よいか?を探るよろこび。それが恋知(哲学)。ワクワク・ドキドキする知的体験です。

では、なぜ恋知(哲学)するのか?
そのような本質的思考・探究には、とても大きなエロースがあるからです。幼い子どもは誰でも、この悦びと面白さをしっていますが、大人になっても考えること・知的好奇心を失わない人が恋知(哲学)者です。だから、ほんらいの恋知(哲学)者とは、もっとも魅力ある人間のはず。知・歴・財の所有者ではなく、存在そのもののよさを持つ子どもたち(とその心を失わない大人たち)の同伴者。

武田康弘






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こどもの問題の根源は?「よきもの」を追求していこうという本能

2006-12-27 | 教育


「大人は、大人の意志で生んだ子どもを、自己決定のできる主体的な人間に育てる義務があるのです。子ども自身がどう判断するか?を大人が決めることはできません。これは人間の生の原理です。実存は本質に先立つ。」(11月28日のブログの結語)

に対して、hirominさんからのコメントがありましたが、これはとても大事な指摘だと思いますので、記事にします。


[ hiromin ] [2006/11/30 00:12]

このブログの特に最後の三行、本当に大切なことだと思います。これが、あたりまえのことなんだと思うんです。
でも実際、今の社会の中には、子供たちの心のありのままや行動を親や身近な大人たちが規制してしまっていて、それに耐えられなくなった純粋な子供たちにあらわれた変化を、「子供がおかしい」と勘違いをしているケースが蔓延しているのが現状だと思います。
子供がおかしいんじゃない、大人がおかしいんじゃないでしょうか。でも、少しづつではありますが、私のまわりのお母さんたち(大人たち)が、そのことに気がつきつつあり、よきもの、本当のことを追求していこうという心(本能)をなくしていないのだと、ここ最近私は感じることができました。
これは私自身にとってもとてもうれしいことでもあり、自分の成長にもつながります。このような生き方は、人間にとってをこの上ない幸福な人生をもたらすのではないでしょうか・・・

―――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/11/30 08:13]

hirominさん、コメントありがとう。

「子供がおかしい」と勘違いをしているケースが蔓延しているのが現状だと思います。」

ほんとうに、まったくその通りです。

「私のまわりのお母さんたち(大人たち)が、そのことに気がつきつつあり、よきもの、本当のことを追求していこうという心(本能)をなくしていないのだと、ここ最近私は感じることができました。」

素晴らしい!ことです。hirominさんの努力の成果ですね。「よきのもを追求していこうという〈本能〉」、という言い方、見事な哲学だと思い、感心しました。

――――――――――――――――――――――――

こういう見方とは正反対な主張を掲げる本がでました。安倍首相のブレーンである八木秀次の新著です。『公教育再生「正常化」のために国民が知っておくべきこと』という題名からして、何を一人でいきがっているの!?という妄想本ですが、国家権力を傘にしているわけで、笑ってすますわけにはいきません。以下に出版社・著者からの内容紹介を載せますので、みなで、徹底的に批判していきましょう!!

hirominさんの上記のコメントは、子どたちの問題を政治的・イデオロギー的に利用して、国家主義・ウヨク思想を流布するために使う八木秀次(安倍首相のブレーン)の新著>への批判にもなっていると思います。

この新著『公教育再生「正常化」のために国民が知っておくべきこと』の紹介記事を以下にコピーします。

出版社/著者からの内容紹介
『昨今、いじめを苦にした子供たちの自殺、高校での必修科目履修漏れの問題が世間を賑わせている。いじめ自殺について著者は、短期的な対策としては報道のあり方の見直しを主張すると同時に、
根本的な要因として、(1)「自由」「個性」ばかりが尊重され、道徳教育が軽視されてきた、(2)日本人の精神が弱くなっていること、などを問題視する。
そして履修漏れの問題の背景には、教育現場の遵法意識の低さがあると指摘する。学習指導要領に規定されている国旗・国歌の指導義務が果たされていなかったり、勤務時間中の組合活動や教職員の政治的活動という違法行為が横行しているのも同じ理由だ。
そこには日教組(日本教職員組合)や全教(全日本教職員組合)という左派系の教職員組合の存在がある。この両者と教育委員会が裏でがっちりと手を握っているのが我が国の教育界の実態であり、この構造を変えなければ我が国の教育は正常化しない。
公教育再生のための緊急提言。』

保守主義のイデオロギーを先行させると、ここまで滅茶苦茶な話になるという見本!?ですが、こんな人が安倍首相のブレーンです。「国家主義者以外は非国民という国」が着々とつくられようとしています。なんとも不気味な世の中です。私は、こどもたちのために、このようなイデオローグ・政治権力者を絶対に許しません。

(※写真は、23日、白樺教育館で)

武田康弘





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金泰昌さんとの対話・討論会ー速報

2006-12-24 | その他

昨日12月23日の白樺討論会では、

公共哲学とは、名詞ではなく、「公共する哲学」=動詞であること。
したがって、「公共哲学」という実体があるわけではなく、誰かが(学者であれ政府関係者であれ)定義できるものではないこと。
真に対等な対話の精神と実践(金泰昌さん言い方では、「対話する・共働する・開新する」)を公共する哲学と言うのであり、固定した方法・内容・言語をもつのではないこと、

以上をしっかりと確認することができました。その点では共通了解が得られました。

したがって「民知の実践」と「公共する哲学」は重なる点が極めて多いことも明瞭になりました。

いくつかの「違い」もまたはっきりしましたが、この違い=「異」があり、それを互いに認め合うことで、「同」ではなく「和」を生み出すことの重要性を再確認しました。
年末を締めるにふさわしいなかなかよい討論会でした。冗談、軽口も飛び出し、脱線もあり、バラエティー番組!?のような一面も(笑)。

「異」を尊重するのは現実には極めて難しいことですが、金さんとの間ではそれがうまくできています。「同」を求めるダルイ精神から決別し、「和」を実現すること。「共同体」ではなく「共和体」としての社会の実現こそ、ひとりひとりの悦びを生み出す前提であること、これらは、何度確認してもしたりない核心点です。

武田康弘





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南京大虐殺―動かぬ証拠―NHKが報道―ウソを流布してきた保守主義者の責任問題

2006-12-22 | 社会思想

誰かがやったことなのに、まるで「自然現象」のような言い方をして誤魔化す、逃げる。とりわけ日本の「エリート」集団に属する人たちは言い逃れに終始する、それがわが国です。戦争責任さえ肝心なところではぐらかそうとする、きちんと書くと自虐史観だ!(安倍総理の著書「美しい国へ」)と叫ぶ。

「南京大虐殺などなかった」というのが右派の主張でしたが、なんとNHKが、詳細に調べた番組を先日報道しました。現場にいた元・日本兵の証言まで入れて。これでいかに右派・保守派の主張がデタラメであるかがハッキリしました。一つの部隊だけでも6千人以上を殺害したことが日本側の資料でも明らかになったのです。(以上は、11月28日のブログの一部)


以上のブログに対して、シナモンさんからミクシィブログに以下のようなコメントがありましたが、いままで、南京大虐殺などなかった!シナ(中国)の捏造だ!と言っていた保守主義者=タカ派の政治家・評論家・マンガ家は、NHKの報道―動かぬ証拠を前に、どのように責任を取るのでしょうか?

アメリカのイラク戦争を全面的に支持した小泉自民党も、国際法上、やってはならぬ先制攻撃の最大の理屈づけであった「核兵器の所持」が、まったくのウソであったことが明白になった今も、何の責任も取ろうとせず、詭弁を弄して逃げていますが、このような政治権力者の無責任で破廉恥な言動が、社会・子どもたちの混乱と不幸を生み出している元凶だ、と私は考えます。その罪は、極めて重いと断罪せざるをえません。

以下は、ミクシィブログ・コメント欄

コメントを書く

2006年11月30日
02:17

シナモン

新教育基本法のお話からずれますが、一言。
先日、そんな報道があったんですか~。ほんとうによかったです。
私は戦争責任について、ずっと頭にきていたんです。10年前から。
なぜなら、昔の職場に高齢の軍医あがりの医者がいて、戦争中にどんなことを指示したか話を聞かされたことがあるんです。ここでは書けないような。ずっと、「元・日本兵の証言を報道しないと、証人がみんな死んでいなくなっちゃう!」と危惧していたんです。
もっと隠された真実を見つめてほしいと思います。
すみません、戦争責任に反応してしまいました…ではまた~。
----------------------------

2006年11月30日
08:02

タケセン

シナモンさん、
先日、偶然に、南京大虐殺の真実を明かす番組を見ました。やはり、まともな製作者は、真実を伝えたいと願うのですね。
今の自民党政権の人たちは、真実を嫌います。
真実を明かすと愛国心教育に支障がでる、というのが彼らの主張ですから、これは「病気」でしかありません。
そういう右派の人が新教育基本法を制定する。国家主義復活の意図は見え透いています。
-----------------------------

2006年11月30日
23:29

シナモン

ほんとに、「病気」ですよね!こんなにおかしな大人が増えているなんて怖い世の中です。どう治療したらいいのでしょうか…。
本人たちに病識がないのでものすごく厄介です!
-----------------------------

2006年12月04日
21:51

タケセン

日本では「エリート」ほど自分で考える力がないのです。書物に拠らなければ何も言えない、情報のパッチワークに長けた人を優秀だ、と皆が信じています。
具体的な体験から自分の頭で意味を生み出す力がないのですが、その欠陥に無自覚です。
「主観を消去する日本というシステム」(クリック)をご覧下さい。課題は深く大きいですね。
まずは、自分自身の主観を広げ深める自由な悦びの知の実践です。白樺教育館の営みを全国に広めたいと思います。ぜひ共に!


武田康弘




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23日(土)キム・テチャン氏・今年三回目の来館=民知で拓く公共哲学・討論会

2006-12-21 | その他


いよいよ大詰めー民知で拓く「公共哲学」の討論会を、明後日23日(土)午後1時より行います。

日本・韓国・中国を中心とする国際的な「公共哲学」推進の第一人者=金泰昌(キム・テチャン)氏(72歳)が、『白樺教育館』に今年、3回目の来館です(クリック)。

「民知」という【主観性に基づく立体的な全体知】を自覚的に追求することで、公共性という概念を生きたもの、生の具体的経験に結びついたものとする営みを大胆に創始する試みには、世界的・普遍的な価値があると思います。

二次化した言語世界に留まることなく、日々の生活実感としっかり結びついた新たな知=民知は、原理的に従来の学よりもより高い品位をもつのです。

今年2006年を知のパラダイム転換を創始する年(5月14日には民知の会設立記念シンポ&パーティーが開催されました)にするための「討論的対話の会」は、白樺教育館で午後1時より開催されます。参加ご希望の方は、白樺教育館までご連絡ください。

写真は、6月3日のキムさんとの対話(クリック)
左から、金泰昌、武田康弘、福嶋浩彦

※ なお、本日で、アクセス数が10万件を越えました(2年1ヶ月)。ご愛読、深く感謝します。







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イリッチ・「脱学校の社会」

2006-12-19 | 日記

いま、30年前に読んだ本をざっと読み返してみた。

イヴァン・イリッチの「脱学校の社会」である。

線の引いてある箇所を中心に、編集しながら、書き写してみる。私の思いとピタリと重なるからだ。


「教育ばかりではなく、現実の社会全体が学校化されてしまっている。・・・裕福な者も貧困な者も同様に学校と病院に依存しており、それらが彼らの生活を導き、世界観をつくり、何が正しいか正しくないかを示してくれる。学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行うのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的な活動にほかならないとみなすのである。学校、病院、どちらに依存している人々も、制度による世話に頼っているため、制度に頼らない独立的な活動を疑いの目でみるようになっている。個人や共同社会が自分でやりぬく能力を伸ばされなくなってきている度合いは、ブラジルの東北部においてよりも、ウエスト・チェスターにおいて一層顕著であるとさえいえる。どこでも、教育だけではなく社会全体の「脱学校化」が必要である。」

「学校化された社会では、消費者も生産者も専門家になることを求められ、急進的な批判家と思われている人々も、経済成長を第一とするイデオロギーを信奉することを求められる。・・この社会では、社会が新しい世代の教育に責任を負わなければならないという感覚を持ち、これが、必然的に、誰かが他の人々の個人的な目的を設定し、分類し、評価してもよいことを意味するようになる。・・学生はまじめにカリキュラムに従うとき気が狂いそうな感じを抱く傾向がある。なぜなら、不可解な印をつけられようとしているのは家畜ではなく、彼ら自身の人生目的だからである。」

「教育を革新しようとしている人々でさえも、教育機関が彼らの詰め込んだ教育内容のパッケージを生徒に注入する注射器のような機能を果たすことを前提としている。・・教育者と被教育者の関係が供給者と消費者との関係として続く限り、教育研究は堂々めぐりを続けるであろう。・・・・・学校化された社会では、人々の自由は、専門家によってパッケージされた商品の中から選択する自由という狭いものにされてしまう。」

「われわれは、希望と期待との区別を再発見しなければならない。希望とは自然の善を信頼することであり、期待とは人間によって計画され統御される結果に頼ることを意味する。」 (The Deschooling Society 1971)
――――――――――――――――――

希望とは、親鸞のいう他力から生じる。
小賢しい論理を超えて、生の底から湧き上がる心。生きているものへの愛がつくる自由な世界。――――「私の心にはいつも希望がある」
期待とは、自我の計算に基づく閉じた世界。
「君に期待している」とは、君のエネルギー・生き血を差し出すことを求めているに過ぎない。―――――「国家は君に期待している」!「期待される人間像とは○○である」!


「新教育基本法」ほど愚かで非人間的な理念法はありません。国家=政府が個人に特定の「態度」を要求するのは、根源悪です。絶対に認めることはできません。

※ イリッチー「シャドーワーク」・生活のありかたを問う(岩波書店)もぜひ、ご参考に。

武田康弘




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天を衝く怒り!!新教育基本法という理念法。不服従でなきものとしよう!!

2006-12-16 | 社会思想

教育の目標を、具体性をもって国家―行政機関が決める、というのは、市民社会ではあってはならぬこと。
5項目にわたる「態度を養う」という文言は、全体主義教育に移行することを示すものでしかありません。伝統を重んじる態度、真理を求める態度、勤労を重んじる態度、・・・
「態度」を養う教育を国家が法律で規定するとは、まったく呆れ果てます。
人間の生の原理=哲学のイロハが分からない低次元の官僚や政治家は、受験勉強しかしらない愚かな頭脳=平面的は事実学の積み上げを知だと思っているノッペラボウでしかないのです。
哲学のテの字も了解しない輩がつくった愚かな理念法には、ガンジィーにならって非暴力不服従で対抗しましょう。従わず、無視することで、この新教育基本法をなきものとする運動を、シチズンシップをもつ心ある人々は、大胆に推し進めようではありませんか。官・民一体で(笑)。それが真の公共哲学の実践です。
なお、人間存在論の原理にこの理念法が全く反するものであることは、後日書くことにします。完膚なきまでに批判しますので、しばらくお待ち下さい。

※民知や恋知という立体的な全体知については、5.14の会の報告のページからいろいアクセスできます(クリック)。

武田康弘




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ほんものの恋知(哲学)ークレンペラーの音楽をヒントに。

2006-12-13 | 恋知(哲学)

目新しいものを追うのは、「恋知(哲学)」ではなく、「流行思想」でしかありませんが、今の日本には、どこにも恋知(哲学)はなく、無思想=反射的で紋切り型の言説か、流行思想の紹介しかありません。

ほんとうの恋知(哲学)とは何か?を1973年に88歳で亡くなったオットー・クレンペラーの音楽をヒントに考えてみたいと思います。

クレンペラーの音楽のひとつ目のキーワードは、「対比」。
管楽器と弦楽器、どちらも主従関係にならない。常に互角で、どちらかが譲るということがない。・・・・「有機と無機という対比」ついには「音と沈黙の対比」という境地を切り拓いた。

もうひとつは、「音の霊」。クレンペラーは「音そのものを鍛えぬいた男」で、音楽を感情の代弁に貶めない。「フレーズ」に意味を持たせず、あくまで「ひとつの音」単位で扱う。すべての音を平等に鳴らし、「音ひとつひとつのかけがえのない存在と意味」を追求した指揮者。だから彼の音楽には「音霊」が宿っている。

シューマンの交響曲4番を例にすると、すべての音がむきだしになっていて凄い迫力を生んでいる。人間の善も悪も、ためらわずに全部さらけ出している。それで失うものがあってもよい。悪いものも全部さらけだしていこうという姿勢。その率直さが胸を打つ。そうすることではじめてトータルな人格が現れ、人間は人間のまま気高くなれるのだ、ということを感じさせてくれる演奏。きれいごとのない世界・自然と真実の世界にひとは打ち震える。

クレンペラーは、誰のどの曲を演奏しても、根底に流れるものは同じ。持ち味はひとつ。それなのにどうして聞き飽きることがないのだろうか?――クレンペラーの魅力は「無限の永遠の変化」なのだ。海岸で波が砂浜に寄せては引いていくのをずっと眺めていくのを見ていても見飽きない、それと同じだ。単調に見える事象の中に「無限の永遠の変化」がある。クレンペラーは、あるがあままの「音」そのもので勝負する。だからこそ「無限の永遠の変化」を引き出すことができたのだ。
(以上は、「レコード芸術」10月号・喜多尾ゼミナールより、変更して引用)

クレンペラーの音楽の悠然たるテンポ。巨大な構築性。無類のリズム感のよさを支える上記の思想は、私には、ほんものの恋知(哲学)の条件そのものと思えます。取り繕い・辻褄合わせ・仮面の笑顔とは無縁の深く巨大な自由とエロースがあります。生は底まで落ち切り、その地点から上昇しているのです。生きるに値する生とはそういうものでしょう。

武田康弘


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12月9日(土)山脇直司VS武田康弘・討論会―速報

2006-12-11 | その他

この日は、実際のところは討論会ではなく、山脇さんが武田思想の用語の意味について質問をし、武田が解説するという会になりましたが、山脇さんの質問とそれへの武田の応答は、後ほど整理して載せることにします。

会は、山脇さんの、武田思想に共感・共鳴するという話で始まり、
「われわれが学校で習う客観学は、知の手段に過ぎず、目的は主観性の知の豊饒化にある」「哲学とは客観学ではなく、主観性の知であり、それを豊かに鍛えていくことが恋知(哲学)すること」という武田思想=白樺思想は、哲学の王道である、との言で終わりました。

ただ、日本の大学には、その王道がなく、どのようにしていけばよいのか?が大きな課題となるが、現在のシステムの中では、大学の哲学科は、哲学史―文献学―「哲学」学をやるところ、というふうに位置づけるしかないのでは?というのが一応の結論でした。

そうなると、「白樺教育館」には超・重大な役割と責任が生じてしまいます。困った結論になりましたね~(笑)。

武田康弘




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ほんらい哲学とは「学」ではなく、生体それ自体の知である。

2006-12-08 | 私の信条
以下は、昨日、ある人からのメールに返信したものです。


ご心配、ありがとうございます。
実は、今回ほどひどくはなくても、私は毎年、何度か風邪などで体調が悪くなります。幼少の頃から長いこと内臓疾患が続いたせいでしょうか、体調万全という日があまりないのです。いろいろ工夫して(生活仕方、栄養、運動、呼吸法・・・)生活してきました(私の肉体・筋肉の力―まだ20台の若者にも負けない格闘力からは想像できないと思いますが)。
恐らく、私の内部に「強い思い」=人間の生に対する豊穣なロマンと、人々の生き方・社会のありよう・形式主義の文化に対する激しい憤りがあり、それが内からフツフツと沸き上がるために、命が燃え、虚弱体質に抗し、克服してきたのだと思います。
私の場合、恋知(哲学)という無=自分の頭で納得がいくまで考え、実践することが、生身の私を支えているのです。恋知とは「学」ではなく、生体エネルギーそのもの・生体それ自体の知なのです。したがって、大学哲学は論外ですが、竹田青嗣さんの言うような「生きるための技術」というものでもありません。もっと深く生体と一体化しています。根源知―心身全体による知とでも言えばいいでしょうか・・・・

武田康弘





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人のため、は間違い。自分のため、も間違い。

2006-12-05 | 私の信条

人のために何かをしよう、人のために何かをしなければ、と言う人は、けっして人のためにはなりません。

一番警戒しなければいけないのは、「あなたの為に何かしたい」という人です。激しい自我の欲望が裏返っただけのことですから。他者を自分のものにしたいが為の言説に過ぎません。

他人のためというのも、自分のためというのも、共に「閉じられたエゴ」を満たそうとする営みです。根源的な不幸から抜けられません。



自分の心の感じ方を大切にし、自分の体をよき状態に保ち、自分の頭を鍛えていく・・・・自分自身の内側をよきもの=健康なものにしていく努力が、まわりの人や物への自然な心配りを生むのです。愛とは、自身の充足が生み出すものです。自己の欠乏がつくるのは、愛ではなく盗みです。「閉じられたエゴ」に他者を取り込むことでしかありません。


深い納得、心の底からの悦びを求める。よきものに憧れる。これが豊かな生を育む源です。

他人のため、あなたのため、と言うのは、不遜です。裏返って、自分のためというのも同じです。どちらも人間を「閉じられたエゴ」として見ているのです。決して他人のためにも自分のためにもなりません。必要なのは、「ために」ではなく、「気遣い」の心です。自他の心身を気遣うこと。

人間の心が健康=自然であれば、心は、よきもの・うつくしきもの・ほんとうのものに惹かれます。その状態が、自他への優しさ、配慮、愛、を生みます。
あなたのため、私のため、という言い方=発想仕方は、どちらも同じで、どちらも間違いだと思います。

武田康弘








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哲学とは何か?主観性の知をめぐってー山脇vs武田・討論会

2006-12-03 | 恋知(哲学)

『哲学とは、ほんらい客観学ではない』、というのが私・武田康弘の主張ですが、近代のヨーロッパ哲学はその点が明確ではありません。強い一神教(キリスト教)の「絶対」・「超越」という概念と結びついた哲学は、「普遍性」の追求(共通了解を生み出し深めること)と「絶対的真理」(原理的にあり得ないこと)との区別を曖昧にしてきたために、全く不要な難解さを結果したのです。

哲学とは、主観性を豊かにする知の営みであるということ(我々が学校で習う客観学は、知の手段であり目的ではない・知の目的は、主観性の深化・拡大・豊穣化にある)。これを私はこのブログ「思索の日記」で繰り返し主張してきましたが、この問題をめぐり、私と山脇直司さん(クリック)との間で討論をすることになりました。『哲学とは何か?主観性の知をめぐって』という最大テーマです。

今週の土曜日・12月9日の午後3時から7時まで。白樺教育館で行います。参加ご希望の方は、白樺教育館(クリック)までご連絡ください。20名までですので、先着順です。

討論に至った経緯のメールと、竹田青嗣さんからのメールを下に貼り付けます。
――――――――――――――――――――――――
----- Original Message -----
From: yamawaki
To: 白樺教育館ー武田康弘
Sent: Tuesday, November 21, 2006 9:02 PM

武田さま
カサブランカからの便が遅れたためドバイで一日足止めをくらい今帰ったばかりです。私が日本から唯一の参加者で、アラブ系の学者が沢山いたので、相当疲れました。モロッコの学生も大勢来ていました。現代のグローバル化時代における哲学の役割について、当地(ラバト)の新聞記者からインタビューも受けました。ただしアラビア語ができないので、大半は英語、少しはフランス語でやりくりし、頭のモードがまだ日本語になっていません。
それで、下記の件は私の責任大ですが、あのような中途半端な形では誤解を招くばかりなので(インターネットの両義性?)、むしろそのものずばり、哲学とは何か、民知とは何か、いつか一時間くらいかけて話させてもらえませんか。私の根本の哲学には、初期ハイデガーによる「主観性の哲学」批判やアーレントの哲学があって、そこが武田さんとの大きな違いだと思っています。
山脇直司
――――――――――――――――――――――――
----- Original Message -----
From: 白樺教育館ー武田康弘
To: yamawaki
Sent: Friday, November 24, 2006 12:10 AM

山脇直司さま。
お返事、遅れました。
・・・・・
私が思うには、もし、私(とそれに賛同する白樺同人たち)の思想である「主観性の知」に対して、山脇さんに異論がおありなら、山脇思想の芯をコンパクトに示していただけないでしょうか?
私の方は、すでにブログに数回以上、「主観性の知」について書いていますので、それに対して山脇説を書いて頂いてもよいと思います。
その後、それをもとに対話=座談会をするのがよいと思いますが、いかがでしょうか?
?主観性の学を始めようhttp://www.doblog.com/weblog/myblog/29972/2232341#2232341
?主観を消去するシステムhttp://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori67.htm
?哲学するための原則についてhttp://www.doblog.com/weblog/myblog/29972/2609191#2609191
?全体知と部分知(討論のための前提)http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972/2618293#2618293
?欲望存在ー公共性の源泉(公共哲学の原理)http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972/2618319#2618319まだ、いろいろありますが、このくらいに絞って、と思います。(主観性プロパーは最初の二つです。)
・ ・・・・・
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ということで、討論会開催となりました。
この討論会について竹田青嗣さん(クリック)から以下のようなメールを頂きました。

----- Original Message -----
From: TAKEDA Seiji
To: 白樺教育館ー武田康弘
Sent: Wednesday, November 29, 2006 1:38 AM

12月9日は、残念ながら参加はできませんが、とても有意義な討論会だと思います。
客観性を重んじる考え方は、コントの実証主義いらい、哲学の観念論的伝統への批判ですが、
社会というものは、基本的に事実学ではなく、本質学、つまり関係の学として捉えられる必要があるので、
主体と主体の関係の原理を基本とする「主観性の知」を基礎にすえることがとても重要、というのが竹田の考えです。
観念論というといろいろ批判されていますが、観念論の意義がずいぶん誤解されてきたと思います。
ともあれ、また結果がアップしたらみたいと思っています。
がんばってください。
竹田。
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武田康弘

(写真は、昨年8月・左から山脇氏、武田、竹田氏)


コメント
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