思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金・武田の「恋知対話」一応の最終回(合計23回)

2007-06-27 | 恋知(哲学)

「恋知対話」ー2-6(通算22)


武田様 2007年6月23日 金泰昌

【官僚学者=御用学者を嫌った宇井純先生のこと】

今日は東大安田講堂で開催された「宇井純を学ぶ」という集まりに行ってきました。2002年に『地球環境と公共性』(シリーズ『公共哲学』第9巻:東京大学出版会)を一緒に編集出刊したこともあり、その前後に直接、お会いしていろいろ議論したことも何度かありましたので、改めて、追悼の気持ちを胸中に込めて参加しました。2000名程度の老若男女の方々がいらしゃっていました。
生前の宇井先生は、現場主義と反権威主義、そして、生活者=市民の立場に徹した衛生工学者でありました。欧米からの輸入学問に頼らず、どこまでも問題発生の現場状況と、そこから立ち上がる市民=住民の自主的調査研究を重視し、それを手助けするというところで、専門学者の存在理由を確認していた市民学者でありました。宇井先生がお嫌いだったのは官僚学者=御用学者でありました。

わたくしの考えでは、武田さんとわたくしの共に哲学する対話・共振の原点は、生活の現場から物事を捉え、考え、そこから出来れば、思考・探索・行動の新しい次元=地平を開くという欲望の共有でありました。しかし、それは、武田さんとわたくしの間にズレ=差異=距離がないということではないという、共通理解に基づいてのこことでありましたね。
と、申しますのは、いままで生きてきた状況・条件・環境が違いますし、そこから生じた問題意識や体験学習もかなり異質なものであったということを考慮しますと、互いに食い違うところがあるのが当然でありますね。私が考える対話の意義というのはズレ=食い違いをなくすることにあるのではなく、それを明確にしながら、その不同が不和の原因になるよりは、共振・共働・開新の原動力になるように努力するところで活かされるということです。

 わたくしは「公共(するということ)の源泉」を自我と他者との出会いとそこから出で来る対話と共働と開新への相互連動に見出すのです。自分の心の中で思ったことや気づいたことを他者の方に向かって延長・投入・推測するのとはまったく違うということです。仮にそのようにして他者の心の中に自分の心の中にあるものと同じものを感得したとしても、それは他者を自己に同化したということでしかないわけです。そこには、もしかしたら、「共同」(性・体・時空)が生成するということがあるかも知れません。勿論、共同性も大変大事なことです。しかし、わたくしとしては、共同性とは違う「公共」(すること)のいみとその重要性を明確にしておきたいのです。わたくしに同化できない、わたくしへの統合・一致・合一を拒む他者との出会いを貴重な機会と捉え、自我と他者とのあいだから展開する無限の新地平を共に充実化していくことが「公共」(するということ)であると考えるのです。そういう理解に基づいて行動・実践・活動するということです。

 わたくしは武田さんのことを山脇直司教授から聞き、武田さんのことをもっと知りたいという思いで、武田さんにわたくしの意思・願望を伝えた最初のときを思い出します。まったくの未知の他者であった武田さんは、わたくしのいままでの体験学習の範囲=世界の外部で―それはわたくしがいままでなじんできた学校=大学=制度とは距離を置いた、自立・自律・自給の時空間を自力で設立し、そこで―制度知化された「官知」とは違う生活者たちの生活知を育み、それをもって生活世界の自立とその質の向上を目指す哲学の実践活動に全身投入してきたという、その情熱と愛情と希望を学びたかったわけです。

わたくしは生れて死ぬときまで一生学び続けることに幸福を実感しております。ですから、わたくしにとっての他者とは、教師=先生=師匠という姿で現れる場合が多いのです。わたくしはできれば一生涯学生=学び続ける立場に立つ人間でありたいのです。他者とはわたくしの理解・認識・判断を超える存在ですから、まず、そのありか=ありかた=考えを教えてもらうしか接する途が無いのではないかと思うわけです。勿論、わたくしにとっての他者から見れば・考えれば、このわたくしこそ、彼・彼女・彼ら・彼女らにとっての他者になるわけですから、わたくしから学ぶということもありうるとは思いますが、そのような確実性は誰も保障できません。しかし、ここでわたくしが申し上げたいことは、武田さんを通して大学教授が大学で教えている哲学とは違う哲学の学習現場を目撃することが出来たということの大きな意味です。そこから公共(する)哲学の新しい可能性を実感することが出来たからです。武田さんがわたくしに見せてくれた=教えてくれたのは、まさに白樺哲学館という名の哲学実践の現場です。それは、わたくしが過去10余年間続けてきた対話と共働と開新の哲学実践の現場と似ているところもありますが、違うところもありました。そのような意味で改めて考えさせられたこともたくさんありました。

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「恋知対話」2-7(通算23)

2007年6月24日 金泰昌様。 武田康弘

内と外の「同化」 / まとめ

わたしは「他者を自己に同化させる」という考え方ほど嫌らしくおぞましいものはないと思っています。かつて、わが日本は、朝鮮を天皇直属の朝鮮総督腑によって植民地支配しましたが、その思想・手法は、「朝鮮を日本に同化する」というものでした。白樺派の柳宗悦は、1920年にここ我孫子の地から「朝鮮の友に贈る書」」(虐げる人々の方が死の終わりに近い、として日本政府の同化政策を痛烈に批判)を書き、雑誌「改造」、読売新聞、東亜日報、The Japan Advertiserに載せましたが、柳家は官憲に監視されることとなりました。
「同化」とは、言語に絶する狂気の蛮行であり、謝っても謝っても謝りきれない恐ろしい政策でしたが、それを支えた八紘一宇・大東亜共栄圏をスローガンにした国体思想=天皇教とは、わたし自身にとっても不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵という他ないのです。なぜなら、明治の山県有朋らによってつくられた近代天皇制が廃棄された今もなお、個々人の意思を超越した国家という共同幻想を置く思想は強く生き残り、個人の自由と責任の具現化を阻害しているからです。この人間を底なしの不幸にする様式宗教は、外的価値を個人の内面価値の上に置き、型・様式によって生きている生身の人間を支配する「思想」です。金と物がいくら溢れても、「私」の心の充実=悦・愉・嬉が湧き上がることのない仕組みを生む源泉が、この日本主義というイデオロギーだと思っています。様式による意識の支配ーあるべき型が存在するという想念は、主観を消去するシステムをつくり、個々人から立ち昇るエロースを断ってしまうのです。わたし自身幼い頃から、この「同化」(上位者の意向に沿って個々人を同一・一色の集団と化する)の巧妙な詐術と無言の圧力=集団同調をつくり出し、個人の意識・言動を金縛りにするという環境の中でずっとそれと闘い続けてきました。
だから、キムさんの書かれた「宇井純さん」の存在は、わたしにとっても大きな心の支えでした。

「生活世界の現場から考え、そこから新しい地平を拓く」というキムさんと共通する哲学の原理を持ちつつも、その上で、ズレ・差異があるのは、とても生産的なことだと思います。新しい世界を拓く「共感・共鳴」が生むエネルギーは、「差異・ズレ」がなければ湧き出ることがないのですから。

キムさんの呼びかけで始まったこの「恋知対話」(命名は私ですが)は、一月余りでずいぶんな量になりましたが、このような内容での往復書簡による対話が出来たのは、もしかすると何かの始まりを告げる「事件」かもしれません。哲学の民主化―「哲学する主体は市民である」という理念を具現化していくための試みは、いまようやく緒についたばかりで、ここからはまた道なき道を進むしかありませんが、金泰昌さんという優れた異邦人との出会いは、わたしに限りない勇気を与えてくれます。共に哲学する友を得たことはとても嬉しいことです。キムさんとわたしとの出会いをつくってくれた山脇直司さんにも改めてお礼を言います。どうもありがとう。


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ゲルギエフのダフニスとクロエ と マイルス・デイビスの音楽

2007-06-25 | 趣味

昨日の日曜日は、パワフルでエネルギッシュなラヴェルに酔いしれた。ダフニスとクロエの第二組曲だが、ゲルギエフの12年前の来日公演をNHKが再放送。オーケストラと指揮者の一体感が見事で、クールな演奏が主流の現代には珍しい熱演。やはりパワフルなオーケストラはいい。

夜は、ジャズの巨人―マイルス・デイビスのETV特集を見た。この変わり続けることで変わらなかった天才の魅力を分かりやすく見せてくれた。インテリジェンス溢れる知性派のマイルスは、しかし分析不能だ。知的で激しく熱い。探求の根源性が新しさを生み出す音楽は、常に生きて強く呼吸していた。

マイルスのラストアルバムージャズを越えてしまった?「DOO-BOP」を聴きながら。




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武田康弘ー「ほんらいの哲学・対話は、生活世界という共通項の中でするもの」

2007-06-23 | 恋知(哲学)

恋知対話・2-5(通算21)

金泰昌様 2007年6月22日 武田康弘
【ほんらいの哲学・対話は、生活世界という共通項の中でするもの】


「思い」は、キムさんとほとんど一緒という感じです。

なにかの専門家である人もみな生活者という地平では同じです。学的世界をその一部として包む生活世界をそれ自身として考察するのは、さまざまな立場・職業を超えて最も重要な営みだ、と思っています。
わたしは、このことは昔から繰り返し主張し、実践していますが、今年1月18日のブログ・思索の日記には、『皆に共通する立場は、ひとつだけあります』を書きました。

例えば、官僚の立場で考える、学者の立場で考える、技術者の立場で考える・・・・
ということでは、普遍了解性は得られません。学者の常識に基づいて考えれば、学者仲間には通じますし、技術者にしても、官僚にしても、その社会の通念で考え・語れば、それぞれの世界の住人には通じるでしょうが、ふつうの多くの人の共通了解は得られません。
「集団オタク」の世界から抜けられずに、【独我論】の世界に陥るしかありません。
 では、どうしたらよいか?皆に共通する立場に立つことです。それ以外の答えはありません。では、皆に共通する立場とは何か?【生活世界の現場】から考え・話し・行為することです。どのような立場の人にも共通するのが生活世界です。生活世界を持たない人はいないのですから。生活世界から立ち上げて、生活世界で通用するような言葉、生活世界に受け入れられるような態度で語り、行為することです。
 何かを語り、何かをなそうとする時、この原理中の原理をよく自覚し、実践することがまず何よりも先に求められます。この原理を無視する歪んだ「エリート」意識に囚われていると、何を考え、何を語り、何をしても、空しい独我論の世界から抜けられません。
 たとえ、言葉・思想として独我論や自我主義を批判しても、それを語る人間の【語る言葉や態度】が上記したそれぞれの世界の枠内のものであれば、つまるところオタクに過ぎず、普遍了解性は得られないはずです。
 人間や社会の問題について考え、解決し、よい人生を生むためになにより必要な「対話」は、生活世界という共通項の中でするほかありません。このことの深い自覚があれば、対話・討論は驚くほどの成果を生むはずです。
 多くのふつうの人々の「私」から発する公共性を担保するのが、ほんらいの公共哲学です。けだし、公共性とは、ふつうの市民を主体者にしなければ成立しない概念なのですから。キーワードは、生活世界です。(2007年1月18日・武田・一部カット)

生活世界の立場から「哲学を民主化することが今日の課題である」ことは、まったくその通りだと思っています。哲学の専門家になるのではなく、哲学する(公共哲学する)ことには深く大きなエロースがあるのですから。まさに哲学は、その語源通りに「恋知」です。そこでこの金・武田の往復書簡もその名を「恋知対話」というわけです(笑)。
「哲学(恋知)が切り拓く世界に希望をもつ」、というキムさんのお考えは、わたしと全く同じですね。わたしがそう考えてドンキ・ホーテのごとく小さな私塾を立ち上げたのが24才の時ですが、はやいものでもう31年が経ちました。ようやく助走期間がおわったかな、という感じです。これからが本番。



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金泰昌ー「徹底的に市民として哲学する立場を大事にする」

2007-06-22 | 恋知(哲学)

金泰昌・武田康弘の「恋知対話」2-4です。


武田様 2007年6月21日
金泰昌

 わたくしも学者だけが公共哲学の中心的役割を担うということには、懐疑的です。公共する主体が学者だけとは話しにもなりません。公共する哲学の主体は一人ひとりの市民であると考えます。しかし学者も市民という位相をもっていますし、それを何よりも重視する学者もおりますので学者と言うだけで一括批判するのはどうでしょうか。今日の反哲学的な日本の知的風土の中で哲学的良識をもちつづけながら、誠実に哲学しつづける学者=生涯学習者=哲学実践者もいらっしゃるわけです。わたくしは哲学する市民を何よりも重視する立場ですが、哲学する学者・官僚・政治家・企業人もあってほしいと思っております。

 わたくしは過去の一時期、政治哲学と国際関係哲学の専門学者でありました。しかし現在は一切の大学所属なしの、一私人・市民として哲学するだけです。ですからわたくしがかんがえている哲学=公共する哲学は私人=市民の立場から他者と共に考え、語りあう哲学です。相異なる多様な専門分野の学者=哲学研究者たちもそれぞれの専門分野の枠から脱出して一人ひとりの私人=市民の立場から考え、語りあうという前提条件の相互了解に基づいて発題・質疑・総合討論・発展協議というプロセスを共に体験してきたのです。

 わたくし自身は哲学する市民の一人として自分を位置付け・意味付けしているつもりです。わたくしの過去の経歴には学者であった時期もありましたが、現在はあらゆる側面から、学者業界=学会から公認された学者とは言えないですし、そのように言われてもいません。あえて言わせていただけば、在野の好学者=野人学習者です。ですから市民の・市民による・市民のための・市民と共にする哲学としての「公共する哲学」を強調してきたのです。

 徹底的に市民として哲学する立場を大事にしているからこそ、白樺教育館の存在とその活動に敬意をはらうのです。そして武田さんを尊敬するのです。わたくしも哲学を大学の独占から解放して、生活世界の公共財に転換していくことが緊急課題であると思っています。哲学を民主化するということが今日の哲学の課題ではありませんか。

より民主的な哲学とは誰もがその気さえあれば哲学することが可能な哲学でしょう。しかし世界中の人々が皆、哲学するようになるのが本当に望ましいことでしょうか。世界中の人々が皆、政治するというのはあまりよいことではないような気がします。何だか急に世界がおかしくなるのではないかと不安になります。政治する人間は数が少ないほうがよいのではないかという気がします。しかし哲学するというのはちがうと考えます。哲学するということは、自分の頭で考え、自分の心で実感し、自分の意志で決定し、自分の身体をもって実践し、自分の人格をかけて責任を負うということです。他者と共に対話し、共働し、そこから新しい次元=地平=世界を拓いて行くというのは普通の私人たち=生活者たち=市民たちの日常生活の中でもいつでもどこでも現実的に必要なことですから、それを出来る限りうまく上手にして行くというのは望ましいことと言えるのでありませんか。ですから世界中の人々が皆、専門哲学者になるのはむしろ、恐ろしいことになるかも知れませんが、哲学すること=公共哲学することはすべての人々にしてもらいたいことだと思うのですが、武田さんはどうお考えでしょうか。勿論、今すぐすべての人々に100%期待するということではありませんし、そうするべきであると強要するということでもありません。しかし、哲学する市民がより多く育まれることを希望するという意味です。本当の意味で哲学する市民が主導する社会が善良な社会ではないかと思いますが、如何でしょうか。わたくしは哲学が切り拓く世界に対して希望をもちたいのです。



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嘘・偽りを押し付けるインチキ国家が美しい国の正体ー沖縄戦の歴史の改ざん

2007-06-22 | 社会思想

以下の記事を読めば分かりますが、安倍内閣の進める「美しい国」つくりとは、ウヨク的な国家主義思想で、歴史の事実を消去していく恐ろしい国・おぞましい国つくりでしかないことは明白です。反論の余地はないでしょう。

こういうデタラメを見てみぬふりをするのは、市民として、人間としての義務違反だと思います。まともな市民は、きちんと批判し、責任と義務を果たそうではありませんか。

独我論的な思想、独裁的な国家運営には、断固としてノーを言いましょう。黙っていれば、戦前と同じく、恐ろしい結果になるでしょう。


【沖縄タイムス】より、

 県議会(仲里利信議長)は二十二日午前、本会議を開き、高校歴史教科書の沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」の記述から軍の関与を削除した文部科学省の教科書検定の撤回、記述の回復を求める意見書案を全会一致で可決した。本会議終了後、県議会代表らが上京し、文部科学省などに要請行動を展開する。
 午前十時に開会した本会議は冒頭で、同意見書案を全会一致で可決した文教厚生委員会の前島明男委員長が文案を読み上げ、提案理由を説明した。その後、全会一致で可決した。

 意見書は「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしには起こりえなかったことは紛れもない事実」と指摘。

 「今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものだ」とし、「一般県民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、到底容認できない」として、検定意見の撤回、記述の回復を求めている。

 同問題に対する意見書案をめぐり、野党側は定例会冒頭での採決を与党側に要請した。

 だが、県議会最大会派の自民党内に反対意見が表面化。同党内の意見調整が続いていたが、賛成で意見がまとまった。

 与野党で意見書案の文案を調整し、文教厚生委員会が十九日、全会一致で可決。「慰霊の日」前日の二十二日の本会議採決を要請していた。

 県内では二十一日までに、四十一市町村のうち、三十七の議会が教科書検定意見に反対する意見書を可決している。


 ◇ ◇ ◇ 

県民の総意 国へ


 高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の記述から「軍命」を削除した文部科学省の教科書検定問題で、県議会は二十二日午前、全会一致で意見書を可決し、県民の強い意志を示した。県議会の要請団は早速、意見書を携え上京した。検定意見の撤回と記述の回復を求めてきた県民の運動に大きな弾みがつくことになる。

 傍聴席に駆けつけ、意見書が可決される様子をじっと見守っていた高教組の松田寛委員長は「慰霊の日の前に可決されたことをまず評価したい」と語り「文科省へ要請に向かう皆さんには、県民の声を背に県議会として記述の復活をしっかりと申し入れてほしい」と話した。

 元高校教諭の宮里尚安さん(65)は「六十年余りたった沖縄戦から『軍命』を削るのは許せない。議員団は強く要請し、ぜひ撤回させてほしい」と期待を込めた。

 「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」事務局長の山口剛史琉大准教授は可決の知らせに「明日来県する安倍首相にも、県民の意志をきちんと示せる効果がある」と評価。加えて「せっかく一致点を見たのだから、歴史認識を正しく伝える役割を発揮してほしい」と要望した。

 県議会文教厚生委員会メンバーら七人は二十二日午前、要請行動のため那覇空港から上京した。文科省では、布村幸彦審議官が対応することが固まっている。

 伊吹文明文科相への面談を求めていた前島明男委員長(公明)は出発前、「県民代表として大臣に会いたかったが、国会開会中でもある。記述の削除に憤りを持ち、強く検定撤回を訴えたい」と話した。

 共に上京する比嘉京子県議(社大)は「歴史の事実は一つで、変えられない。県民の意志をしっかりと示したい」と力強く語った。

 自民の伊波常洋政調会長は「教科書問題は、与野党を超えて可決された画期的なこと。意見書の通りに抗議を含め県民の意志を伝えていきたい」とした。

 要請行動ではこのほか内閣府沖縄担当部局や県関係国会議員に面会し、同日中に帰任する。


意見書全文

 去る3月30日、文部科学省は、平成20年度から使用される高等学校教科書の検定結果を公表したが、沖縄戦における「集団自決」の記述について、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」との検定意見を付し、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させている。

 その理由として同省は、「日本軍の命令があったか明らかではない」ことや、「最近の研究成果で軍命はなかったという説がある」ことなどを挙げているが、沖縄戦における「集団自決」が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである。

 また、去る大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般県民を含む多くのとうとい生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、今回の削除・修正は到底容認できるものではない。

 よって、本県議会は、沖縄戦の実相を正しく伝えるとともに、悲惨な戦争を再び起こさないようにするためにも、今回の検定意見が撤回され、同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する。

 以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

 平成19年6月22日

 沖縄県議会

 衆議院議長 参議院議長 内閣総理大臣 



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【私の悦びや楽しさを広げるために】ー独我論は根源的不幸

2007-06-21 | 恋知(哲学)


例えば、家具や家電を買うとき、例えば、物をつくり、家の修繕をする時、自分だけの趣味で買う、つくるでいいでしょうか。そうではなく、そこに住まう人、使う人みなの「思い」を出し合い・聞き合いするというプロセスを踏まないと、世界は広がらないはずです。みなの心の思いを知り、それを生かすように心がけると、私の心には、自分ひとりの満足を超えた広々とした悦びがやって来る、これは誰でもが体験的に知っていることでしょう。

卑近な例ですが、わたしは自宅の他に、私塾をつくり、その後で白樺文学館をつくり、更に白樺教育館をつくりましたが、いつも参加者・使用者の「思い」をよく聞き、使用者の心と体になったつもりで建物を建て・設備を整え・物づくりをしてきました。この空間って気持ちいいですね~、これは使い勝手がいいな、いい感じの建物ですね~、こんなのないですよ・・・と皆によろこばれるのは、何よりもうれしいことです。

わたしはわたし、あなたはあなた。それでは、人生は殺伐とした寂しいものにしかなりません。悦びや楽しさを広げるためには、相手の心の思いを知り、共感・共鳴できる部分を増やしていく努力が必要です。

そのために何より大切なのは、たくさんおしゃべりをすること。どんなことでも言い合い・聞き合いする習慣をつけないと、生きた頭にはならないので、よい関係を広げていくことはできません。損得・利害の関係をつくるのではなく、全人的な人間関係をひろげていくには、豊かな会話・対話が必要ですが、わが日本人にはこれがひどく欠けています。ホンネを出し合うことでホンネを鍛え合う習慣をつけないと、ただ「お上手」なだけで、内容貧弱な人間にしかなれません。根源的不幸に陥ります。

私の悦びや楽しさを広げるには、たくさんおしゃべりをする中で、他者の「思い」をよき聞き、共感・共鳴できる部分を少しずつ増やすことです。自分の得だけを考え、自分の気持ちだけを押し通す独我論的態度は、その人の人生を狭くつまらないものにしかしません。
人生が広がり深まるという意味で「皆」がよろこぶことをするのは、何よりも大きな「私」のよろこびです。

武田康弘



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金・武田の恋知対話2-3【公共する主体は市民です】

2007-06-20 | 恋知(哲学)

金泰昌様。
2007年6月20日 恋知対話2-3(通算19) 武田康弘

対話2-1 「自己という中心から公共性は生まれる」
対話2-2「武田さんと共働・開新へとつづくことを期待」
を先にご覧下さい。


【公共する主体は市民です】


東京での第74回公共哲学京都フォーラム「横井小楠と公共世界」、実り豊かであったとのこと、よかったですね。キムさんご苦労さまでした。
早速ですが本題です。

わたしは、自分自身および子どもたちが、どのようにして公共的な世界を開いていくかを実情に即してよく見ることが何よりも大事であると思っています。「あー、そうか。公共的な世界・社会的な問題を考えるのって面白い。自分の世界が広がって得だな~。」そう思えるような考え方・生き方・生活仕方をどう作りだすか、それが核心のはず。
公共世界を開くには、実践的思考が必要で、単なる理論・学・知識ではどうしようもありません。公共哲学をほんらいの公共の意味である皆に開かれたものにするには、ふつうの多くの人が心の底から納得できる考えを示す必要がある、というのがわたしの考えです。

もちろん、キムさんの特異で貴重な体験から立ち昇る哲学が、現在まで学的世界において素晴らしい成果をあげてきたことには深い敬意を払っていますが、これからの若い人たちが(わたしもまだ十分に若いですが・笑)公共世界を自分たちのものとして開くには、日々の学習や生活の中でそれを身近なものと思えるような発想と実践が求められていると確信します。

そういう意味で、学者中心の公共哲学はそれ自身において問題を孕んでいる、とわたしは見ます。学者はふつうの市民がよりよく公共世界を開くサポート役であるべきで、公共を担う主体者が学者であるというのでは困ります。それでは公共にはならないからです。ついでに言えば、哲学も同じです。どのように生きるのがよいか、どのような社会であればよいかを考えるのは、ふつうの市民であり、従って哲学する主体は市民です。これを理念としてしっかり置かなければ、公共も哲学も死んでしまいます。後には、反・民主的な思想と衒学的で無意味な知が残るだけです。

わたしは、数々の業績を持つ優れた学者であるキムさんと裸のお付き合いをするのは大変愉快です。対話する中から、力をあわせて、新世界を開いていきたいものですね。「公共することの具体的な意味は、対話する・共働する・開新する」にあるということ、「他者との出会い・他者と向きあってたがいの存在をきちんと認め・その価値と尊厳に敬意を払い・一方的な強制・支配・所有(我有化)を戒める」のが公共する哲学の前提条件であることは、私もそのまったくその通りだと思っています。

「他者の他者性の尊重」をことばや主義ではなく、日々の生活や仕事の中で自分自身の具体的な言動として為すことにわたしは長年努めてきたつもりですが、それが白樺における小中学生の授業や高校・大学・成人者の自由対話に基づく哲学実践に結実していると自負しています。
従来の学校(小学校から大学まで)の授業ではなく、参加者を主体者にまで高める教育実践はエロース溢れるものですが、自由な雰囲気の中での対話方式による学習から豊かな実りを得るためには、基礎的な思考方法(自分の具体的経験を踏まえて、意味をつかみ、本質に向けて思考する態度)をしっかりと身に付ける(付けさせる)必要があります。
そのように従来の教育の常識とは大きく異なる考え・方法によらなければ、ほんとうに他者を生かす教育・哲学実践はできないと思います。教育者・主宰者はサポーターに過ぎず、参加者が主体者として生き生きと考え発言するという状況をつくるのは、確かにひどく困難ですが、その方向に歩を進めない限り未来はない、というのがわたしの考えです。長年、多くの実践に関わってこられたキムさんはどう思われますか。




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次元の違いの自覚ー1「原理的思考と理念の創造」

2007-06-19 | 恋知(哲学)

わたし(武田)が昔から繰り返し主張している物事・意識の「立体視」のためには、次元の違いを自覚することが必要ですので、シリーズ「次元の違いの自覚」を始めます。今日はその第1回目です。



大元に戻して考える営み=原理的思考ができるように努力すること、これは哲学の命です。意識を透明にする練習は、哲学することの基盤で、そこから原理的思考が生まれます。
(ただし実際には、自分のはじめの直観に拘り、また感情に縛られて、自分の思いを絶対化するような思考法になりがちです。そのように自我を閉ざして「主義」に陥れば、哲学は死んでしまうのですが。)

しかし、なにか新たな建設・計画・事業・運動・改革をはじめようとする場合は、関係者が、うーんと感心して唸るようなよき目標・理念を創り出す作業が不可欠です。その作業は、原理的に考えるのとは頭の使い方が異なりますが、これもまた哲学の重要な仕事です。理念の創出のためには、大元に戻して考えてみる作業が不可欠ですが、それだけでは不十分で、強い意欲―パトスー創造力が必要です。頭脳の働かせ方の向きが逆なのです。透明な原理的思考は、よき創造にとって有用ではありますが、それと理念の創造とは直結しません。

現実の社会問題についての総合判断、及びそれにどのように関わるかを思考するのは、
上記に近い頭の使い方が必要です。それは勉強や研究の領域ではなく、実践的思考の領域なのです。このように同じく考えるー哲学すると言っても、大きな違いがあるので、一人の、あるいは一つの能力でまかなえるものではありません。この点をよく自覚しておかないと思わぬ悲喜劇が起きてしまいます。くれぐれも用心したいものです。

武田康弘



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金・武田の恋知対話2-2「武田さんと共働・開新につづくことを期待」

2007-06-18 | 恋知(哲学)

恋知対話2-2

武田様 2007年6月18日
金泰昌

 6月15日から17日まで東京で「横井小楠と公共世界」というテーマをもって第74回公共哲学京都フォーラムを主催しました。いろんな側面から実豊かな研究会でありました。ただ武田さんへの応答が遅れましたことをお詫びします。

 わたくしの公共認識はわたくしとは人種的にも文化(宗教)的にも国家的にも相異なる他者との出会いとそのようなちがいにも拘わらず、共にくらし、仕事をし、時にはぶつかりながらも何とか最悪の破局までには行かず、何らかの目標を達成することによって共に生きていかざるを得ないという経験的事実に基づいています。別に利他的というわけではありません。わたくしのわたくしであること=私性=自己同一性を自明なものではなくて、いつでもどこでも他者との関係の中で改めて見直し、立て直し、固定化への衝動に乗ってしまうことのないように自他関係を重視してきたということです。自分の思うようにならないような状況、圧倒的多数の他者たちの真只中で日常生活・研究活動・私的公的交流をつづけていくということは、いつでもどこでもわたくしではない、身体も思考も欲望も目標もわたくしとはちがうし、決してわたくしのものとして回収・同化・支配できない、他者たちが私に向ってわらわれる現象であり、それにきちんと向きあって、わたくしとしての応答―意図的に応答を拒否するという応答も含めて―を要請されているという状況の中で生きつづけてきたという実存体験がわたくしの公共認識の源泉とも言えますね。

 他者とともに生きていくということは、利他的な倫理の立場からものごとを考えるということと必ずしも同じことではありません。他者とともに、他者たちの中で、生きて行かざるを得ないからこそ自分を確かめ、自分の位置付け・意味づけ・視点設定をしっかりし直す必要があります。全体・統一・普遍という名の「同の帝国主義」に制圧・統合・無化されないためにも個体・個別・特殊としてのわたくしであることの確認・再確認・再々確認は不可欠な基本条件であると思います。自己も他者も同時に呑み込んでしまう全体化統一化・普遍化への暴力に抵抗するためにも唯一・代理不可能・還元拒否的な自己と他者の相互関係という次元の重要性を十分認知する必要を強調したいのです。

 わたくしの考える「公共」とは「公共性」という名詞的ものというよりは動詞的はたらきです。「公共する」ということです。ですから、公共性とは何かという実体論的問題設定はそれで重要な専門家的研究課題であると思います。しかしわたくしは「公共するとはどういうことか」そしてそれは「何のためにすることか」という問題に関心があるのです。わたくしの公共認識はそのようなわたくしの問題関心に相関的であります。そしてそれはわたくしの切実な願望=正直な思い=欲望に相関的であります。日本と中国と韓国という政治空間に生きてきた・生きている・生きていくだろう私たち=市民たち=人間たち=自己たちと他者たちが共に幸せになる相和・和解・共福の公共世界を共に拓きたいという欲望です。自分ひとりで考えても他者たちが共にしてくれないとできないことです。ですから自他が向きあって語りあい・働きあい・新しい次元を拓きあうというプロセスを積み上げて行くということが大事であると考えるのです。対話する・共働する・開新する―それがまさに公共するということの具体的な意味であります。わたくしはそのように考えます。ですからわたくしにとりましては、他者との出会い・他者と向きあってたがいの存在をきちんと認め・その価値と尊厳に敬意を払い・一方的な強制・支配・所有(我有化)を戒めるということが公共するということの前提条件になるということであります。

 わたくしは武田さんと哲学を公共するという姿勢でまず対話するという段階に参入したと現在の状況を捉えているのです。ですから、武田さんのご意見をうかがいましたし、また武田さんの考え方を尊重するという立場からわたくしの考え方も武田さんに申し上げて私たちの対話をつづけていきたいと思っているわけです。願わくばいずれ武田さんとの何らかの共働する段階に進展し、そこからまた開新する段階にまでつづくことを期待するのです。わたくしにとっての他者としての武田さんと武田さんにとっての他者としてのわたくしは決して「同」ではなく「一」でもない「異」であり「多」でありながらも「相和」を目指し、どこかで想定外の不和が生じた場合は「和解」に最善をつくし、そこから「共福」の時空が拓かれることを希求するということであります。共に哲学する友よ、それがわたくしの赤裸々な心の現実であります。


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金・武田の恋知対話2-1「自己という中心から公共性は生まれる」

2007-06-17 | 恋知(哲学)

恋知対話パート?ー「公共性について」

金泰昌さんからの催促もあり、木曜日に第一弾を書きましたので、以下に貼り付けます。おそらく明日にはキムさんからの応答あるのではないかと思います。ぜひ、ご意見・ご感想をお願いします。 


恋知対話―2の1(通算17)

金泰昌様 2007年6月14日 
自己という中心から公共性は生まれる  武田康弘

これまでの「恋知対話」について、小見出しをつけ、一部修正してインターネット上での公開が出来ましたので、対話を再開します。

キムさんの問いー公共性について武田がどう考えているか?にお応えします。

わたしは、なにごとも赤裸々な心の現実から始めないと、思想は宙に浮いて絵空事になってしまうと思っています。正直な心=己の欲望のありようをよく見つめ、その地点から考えを立ち上げないと、イデオロギー性の強い「主義」に陥ると考えていますので、公共性についても、わたしの体験から始めようと思います。

わたしの公共思想体験は、小学5年生のときの「日本国憲法」の学習に始まります。わたしは当時(もちろん今でも)、戦争への憎悪と嫌悪と恐怖をつよく感じていました。政府が戦争を起こし、自分が戦争に行かされるなどは、絶対に認められないーそのような政府ができた時は「打ち倒すべきだ」と思い、もし政府を倒せなければ、どのような方法をもっても「逃げよう」と心に深く刻んでいました。
わたしは何より私の命が大事であり、他者のために命を捨てるなどという考えは少しもありませんでしたし、「お国のために」などという自己犠牲の思想は、危険でおぞましいものとしか思いませんでした。核戦争も起こり得るという現実の前に、古い道徳や思想は、何の役にも立たないと明瞭に直観していました。
わたしは、どんな遊びより「日本国憲法」の勉強が面白かったので、小学校の先生に頼んで「政治クラブ」をつくってもらいましたが、それは、?国の最高の力=主権は国民にあること、?政府の交戦権を認めない戦争放棄の平和主義をもつこと、?基本的人権は永遠の権利として国民に与えられていること、以上の3つを柱とする民主主義という思想が権力者からわたしを守ってくれると思ったからです。他人のためでも国のためでもなく、自分のために公共性はある、それがわたしの出発点です。

いわゆる「自己という中心」からの出発ですが、それはエゴイズムとは違います。これも小学生の時の思い出ですが、担任が「個人主義ではいけない」という話をしたので、わたしは「個人主義と利己主義は違います。自分の得だけを考えるのはよくないですが、自分の考えに従って生きるのはよいことだと思います」と反論し、担任が絶句したことがありました。

この私の命・生活は何より大事なものであり、この私の心身と私の抱く想念は何より貴重なものである、とわたしはずっと感じてきました。だからこそ、互いにその貴重な世界を守り合い、楽しみや悦びを広げ合うことが必要なのです。これが公共性の起こりであり、公共性とは、集団で生活する人間が、集団に埋没するのを防ぎ、個々人がより大きな私の可能性を開くために必要な思想だ、とわたしは思っています。人間はひとりで生きることはできないので、単なる個人性では、個人の可能性は狭まり悦びも広がりません。公共性とは、互いに私の可能性を広げていくために必要な現実的な思想であり、社会の中でよく生きるための知恵ではないでしょうか。

狭く私の得だけを考える閉じた自我主義的思考ではなく、広くみなに共通する利益を考える開かれた公共的思考は、私の人生を社会的現実に向けて押し広げてくれます。公共性とは、観念的・抽象的な次元ではなく、現実的・具体的な領域で私を活かす道であり、それは私の人生の充実・悦び・晴れやかさの世界を切り開くことになるのです。
 したがって、公共的思考は、一人ひとりのふつうの個人が、私的生活に閉じ込められてしまう不幸から抜け出るための方法であり、広く社会全体を私の世界にするという発想であり、官・政治権力者・経済的支配者・知の独占者から社会・国家・知を「私」-「民」に奪い返す力をもつものです。公共する哲学によって、現代の民主制社会に生きる私たちの思想の原理を明晰化していきたい、そうわたしは思っています。

公共的な時空を開くとは、ふつうの多くの人が、私の可能性を社会的現実に向けて開き合うことだ、それがわたしの基本思想ですが、「公共哲学」の第一人者であるキムさんは、武田の考えをどう見ますか?






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「恋知対話」パート?の総集編ー金泰昌・武田康弘

2007-06-16 | 恋知(哲学)

一昨日まで6回に分けて載せた「恋知対話」(計16回)をきれいに編集し、大変読みやすくしたものを古林治さん白樺教育館ホームページにアップしてくれました。写真入りです。ぜひ、ご覧下さい。クリックで飛べます。


武田康弘


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金泰昌・武田康弘の恋知対話ー6(パート?の最終回)

2007-06-15 | 恋知(哲学)

武田康弘様 2007年6月4日

「哲学する友」へ 他者の他者性の尊厳を重視する。

 昨夜、大阪に戻りました。今回ソウルでのアジア哲学者国際会議を通していろいろ感じたことがありました。その中でも特に21世紀の人類と地球がかかえている哲学的問題状況、そして特に東アジアの哲学的問題状況をどのように捉えるかということを改めて考えさせられました。理論的・文献的情報・知識の交換ではなく、それぞれの国家と社会と人間が置かれた政治的・経済的・宗教的・文化的そして実存的現実条件に基づいて一人ひとりの具体的個々人が身体・心情・精神を通して実感する問題群への人格的対応・決定(決断)・責任の在り方を問うということです。

 武田さんはわたくしの「哲学する友」という、わたくしの熱い思いがあるからこそ、あえて申し上げるのですが、十年前の独我論に関する議論と、現在の武田さんとわたくしの対話における問題の本質は不変だという点はたがいに改めてよく検討する必要があるのではないかという気がします。問題は不変の本質というよりは発展・変化・進化する出来事ではないでしょうか。フッサールもサルトルも、そしてメルロ・ポンティも物凄い情熱と高度の知性を総動員してこの問題に取り組みましたけれど、意識哲学の立場からは自他意識の隔たりを埋める(媒介する)ことが結局不可能でありましたし、唯一の代案と言えば、自己(意識)のワナから脱出して他者へ向かう超自我的指向性を躍動させるということでありました。しかしそれが何らかのかたちで自己(意識)の拡大・開展・進化の(大きな?)地平=世界=宇宙の中に他者(意識)を包容するのであれば、すでに他者はその他者性を自己の拡大の中で消失してしまうのです。ですからデリダにしろリクールにしろ、そしてマルセルにしろレブィナスにしろ、意識哲学から言語哲学への転換を選択せざるを得なかったと思います。誤解しないで欲しいのは、だからわたくしが彼らに従って言語哲学を受容するということではないということです。問題のあり方が進化したのです。私たちの問い方が変わったとも言えるでしょう。わたくしは東アジアで特に日・中・韓の人間たち―公民とか国民というよりは私人という立場から―がどうすれば互いに向きあい、ともに幸せになる世界を語りあえるか、そしてそこから国民国家という自己(中心の)世界の究極のあり方への執着から解放され、より実存的幸福の実現が可能になれるまったく別次元の世界―わたくしは相和と和解と共福の公共世界と称しています―を共に築くことができるかということを最大の課題にしているのです。ですから抽象論とも客観学とも事実学に偏向しているものとも違います。それは自他共創の生活世界であり、そのための自他共働の知・徳・行の連動変革であり、何よりもすぐれた意味の自他相生の哲学運動であります。

 武田さんの「民」に対する考え方もよく理解できます。わたくしもそのような角度から民主化を民生化―民富化―民福化という三次元相関的に捉えて「民が主人になる」ということは「民が主体的に生きる」ということであり、「民が身体的・心情的・精神的な富を築く」ということであり、「民が自己と他者の相関幸福を実感する」ようになるということであるという実践活動をしてきたのです。ですから今までメクラであり、ドレイであった「民」が主人として生命・生存・生業の真の主人=当事者=決定者であるという思考と行動と判断が何よりも大事であるとも考えています。
 しかしそれと同時に「民」という漢字の本来の意味とその使用例についてのきちんとした認識を通してそれがもたらす直接・間接の否定的影響を警戒する必要性も念頭に入れるべきです。例えば、官尊民卑とか官導民従とかいう発想や今日のいたるところで見られる官僚たちの民を無視する行態は、長い歴史を通して蓄積された「民」への心理的偏見が今もまだ存在するということではありあませんか。ですからその自覚が必要であるということを申し上げているだけです。

 わたくしは武田さんのおっしゃることを誠実に理解するための努力をしているつもりです。そして武田さんの立場・信念・行動を尊重します。ただわたくしは民族・文化・国境・宗教を異にする人間たちの対話と共働と開新をすすめて行くことに全力投入しているわけですから、意識哲学=主観性の哲学=考える哲学と同時に対話の哲学=共働の哲学=開新の哲学を語りあう哲学としてその必要性を強調せざるを得ないのです。これはまず理論=理念=パラダイムがあって、そこから現実をそこに合致させるのではなく、日々ぶつかる問題状況から哲学していくことなのです。わたくしはほとんど毎日そのような問題状況の中で生きていますから。わたくしの今までの経験から申せば、意識は純粋意識であれ、自(己)意識であれ、「誰々の内面」に収斂する傾向がありますし、また志向性(何々についての・何々に向かっての意識のはたらき)と言っても自己から他者へ向かう一方的な作用になるという限界を乗り越えられないと思うのです。わたくしは他者を理解するよりは他者を尊敬することが大事であると思うのです。他者は自己の理解を超える神秘―聖なる地平であると考えるところに他者の他者性の尊厳を重視する心構えが成立しますし、そこから真の人権思想も出てくると思うからです。
金泰昌

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金泰昌様 6月6日(二年前の今日は、全く未知の方だったキム・テチャンさんから始めてお電話があった日)
「主観性の知としての哲学」は、「意識主義」ではありません。

私もキムさんを「哲学する友」だと思っていますので、忌憚無く書きます。
かつての独我論論争についてですが、わたしが「問題の本質は不変だ」と言うのは、認識の原理論の次元では、という意味です。なお、何が不変で、何が異なるのか?は、当時の討論資料がありますので、必要ならば、それを参照して詳細に検討できますが、公平を期するためにも、高齢ながらまだご健在の竹内氏と今も活躍中の竹田氏にも参加してもらわなければなりませんし、何日もかかる大テーマです。

次に、「意識主義の立場」ということですが、私はもちろん、竹内氏や竹田氏も意識主義ではありません。それを乗り越えるために竹内氏は、意識(前意識や無意識を含む)の立体的把握のために言語の次元の相違に着目して「言語階層化論」を展開しましたし、竹田氏も形式論理の言語学を超えて、生きた現実言語の意味を捉える「言語本質論」を確立しました。両者とも、近代の意識主義と現代思想=ポストモダニズムの双方を超えるために努力を重ねています。

また、国民国家の問題及び共生の問題は、ずっと追及してきたことですので、キムさんの国家主義への批判は全く同感ですが、市民主権の民主制社会における国家の姿について更に考えを深めたいと思っています。

「民」についてもキムさんと相違はないようですが、繰り返しますと、わたしはすべて承知であえて「民」を使うのです。従来の伝統的価値を逆手に取り逆転させる(記号学的価値転倒)ことが、ダイナミックな変革のためにはどうしても必要―それが強い思想だ、というのがわたしの考えです。

なお、「意識の志向性」(ブレンターノの言葉を発展させたフッサールの概念)とは、認識の原理・本質論次元で出てくる概念であって、経験・具体レベルで「自己から他者へ向かう一方向な作用になる」という話を持ち出すのは、次元の違いを超越した見方でしかないと思います。

また、「理論=理念=パラダイムがあって、そこから現実をそこに合致させるのではなく、日々ぶつかる問題状況から哲学していくことなのです」は、わたしの人生そのものであり全く同感ですが、それと認識論の原理をしっかり踏まえるというのとは次元の違う話です。

その次の「意識哲学=主観性の哲学=考える哲学」という並列は意味がよく分かりません。「同時に対話の哲学=共働の哲学=開新の哲学を語り合う哲学の必要性」というのをなぜ対比させなければならないのか?わたしには疑問です。わたしの主張している「主観性の知としての哲学」とは、生きた有用な対話を可能にする哲学の原理であり、それらは一体のものなのですから。

 最後に、

「他者を尊敬することが大事」「他者は自己の理解を超える神秘―聖なる地平」「他者の他者性の尊厳を重視する心構え」というのには、異存はありませんが、哲学するとは、このような思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求することではないでしょうか。よき理念を提示するだけでは、学校が掲げる目標と同じになってしまいますから。

わたしの「民知にまで徹底させた哲学」や「主観性の知としての哲学」とは、対話こそが哲学の命だとか忌憚のないご意見をといくら言われても、実際には、立場に縛られて自由対話ができない社会の現状を変えていくための考えなのです。他者の他者性の尊重や、生き生きと言い合い・聞き合いの自由闊達な対話や、共働や開新を可能にするためにはどうしたらよいかを考え、実践しているのであり、キムさんのお考えと異なるわけではありませんが、わたしはそれを阻む思考法・思想を批判し、どう考えればそれを実現できるかを探っているのです。それがわたしの哲学と実践=人生そのものなのです。(2007.6.6.)
武田康弘

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武田康弘様 2007年6月7日

日常の生活世界も理性の外部でないことの確認ができました。

 ご丁寧なご説明ありがとうございました。武田さんのお使いになっているいくつかの用語が、所謂現象学の立場を取っていないか、また、それとは反対の立場からものごとを考えている人々にとっては必ずしも自明ではないので確認しておきたかっただけです。わたくしの念頭の中のどこかにちょっとありました余計な懸念の雲が晴らされました。わたくしはいろんな側面で未熟なものですから、よく分からないところがいっぱいあると思います。特に日本ではほとんど常識的になっていることでもわたくしとしてはゼロから学ぶしかないわけですから。武田さんがご指摘なさったように、竹内さんや竹田さんにも何時か適当な時期に教えていただくチャンスがあれば幸いです。

 「意識主義の立場」のことも一般的には意識哲学としての現象学は無意識に対応できないと理解されていますし、そのような批判を激しく展開している方々が日本にもいらっしゃいます。ですから武田さんとわたくしの立場は、前意識や無意識も含めて理性の外部として排除されてきた日常の生活世界における、一人ひとりの具体的・実存的私人たちの身体感覚までも立体的=相関的に捉えるということを確認しておく必要があったからです。わたくしはまったく無名の人間ですから、事前の予解事項として素直に受け入れてくれるかどうか定かではないでしょう。わたくしは、所謂理性主義的観念論者だとか認識・理念・パラダイム原理主義者ではないかというような批判・誤解も受けたことがありましたので、武田さんとわたくしの対話にまでそのような雑音が生じることを防止するためであったのです。武田さんがどうだというよりは、自己警戒の意味が強いものなのです。

 武田さんのおっしゃる「記号学的価値転換」は大変重要かつ有効な対話と共働と開新の哲学の基軸の一つであります。ですからあえて、「民」という漢字を使いつづける武田さんのご意向を十分理解します。わたくしが「民」とともに「私人」ということばを使うことのわたくしの意図も分かっていただければありがたいと申し上げただけです。

 「意識哲学=主観性の哲学=考える哲学」という並列はオクスフォードとケンブリッジでの公共哲学フォーラムで特に将来世代と現在世代の相互関係に関する激論の最中に出てきた反デカルト主義の一人のイギリス人哲学者の発言にあったものです。そこでわたくしが公共哲学はデカルト―ヘーゲル―カントに代表される理性中心の思考・意識に偏向した大陸観念論とは基本的な発想がちがうということと、むしろスコットランド啓蒙主義に似ているところがあると反論したことがあります。ですからあえて言えば、経験論・道徳感情・実践知を重視する哲学運動であると説明したときから時々使うようになった言い方です。武田さんのお考えにそぐわないところがありましたらそのような事情から生じた立場表明の一つにすぎないということをどうかご理解をお願いします。

 武田さんが“「最後に」でおっしゃったように「思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求する」”哲学を私たち二人で語りあいたいと思っているわけです。それを阻むものを批判し、その実現方法を探る哲学とは、はたしてどのようなものなのかと。ただ今まで生きてきた世界とそこで体験した事柄とそれに基づいて形成された自己了解と世界認識がちがうところもあるでしょうから相互理解がすぐ成り立たない場合も多々ありえますね。しかしそれはそれで意味があると考えられるのではありませんか。

 わたくしは、武田さんの考えていらっしゃる公共性というのを知りたいのです。何回かお書きになったことを読みましたが改めて武田さんのご意見をお聞きしたいのです。
金泰昌

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金泰昌様 6月8日

基本合意が得られましたので、公共に開きましょう。

キムさんのお返事、基本的に了解しました。
「武田さんとわたくしの立場は、前意識や無意識も含めて理性の外部として排除されてきた日常の生活世界における、一人ひとりの具体的・実存的私人たちの身体感覚までも立体的=相関的に捉えるということ」の確認がしっかり取れ、深く合意に達したことは、大変よろこばしいことです。

なお、竹内氏や竹田氏の極めて優れた業績は、日本の学者〈学会〉の中でも知っている人は少数で、「常識」にはなっていません。多くの学者は、現象学に対する理解も古い常識に縛られたままです。わたしは、竹内氏は旧世代の最良の読解者であり、竹田氏は竹田現象学とでも呼ぶべき新たな地平を切り開いた人物で、本質論次元でみれば、欧米の哲学界を超える仕事をしていると思います。

また、「公共哲学はデカルト―ヘーゲル―カントに代表される理性中心の思考・意識に偏向した大陸観念論とは基本的な発想がちがうということと、むしろスコットランド啓蒙主義に似ているところがある」との見解に対しては、わたしは、再検討が必要だと思いますが、今はこの議論は保留とさせて下さい。

それでは、
【武田さんが“「最後に」でおっしゃったように「思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求する」”哲学を私たち二人で語りあいたいと思っているわけです。それを阻むものを批判し、その実現方法を探る哲学とは、はたしてどのようなものなのかと。】
という基本合意が得られましたので、いったんここで対話を休止し、これまでの成果を公共に開きたいと思います。読者の皆様の反応を待って、続きを再開致しましょう。

武田康弘

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武田康弘様 2007年6月8日

二人の対話を公共時空へ。

 今朝、武田さんのメッセージをいただいて読みました。それで今までの対話の進み具合が整理されたと思います。
 わたくしも、ここでわたくしたちの対話を二人の間に閉じておくのではなく、他の人々にも開いて多様な意見が交じりあう公共時空にしたいと思います。
 武田さんの部分だけではなく、わたくしのものも含めてより見やすく、読みやすくするための工夫をお願いします。わたくしは古い人間で恥ずかしいことにコンピューターを自由に使いこなせないのです。
金泰昌




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金泰昌・武田康弘の恋知対話ー5

2007-06-14 | 恋知(哲学)

「ソウルからの手紙」への応答 2007年5月31日

独我論は、主観性の開発・掘り進めがないと越えられない。

キムさんのソウルからの応答文は、一言で言えば、「独我論」をどう乗り越えるか?ですが、これはなかなかやっかいな問題で、十数年前にわたしが企画した討論会のテーマでした。サルトルやポンティの邦訳者で哲学者の竹内芳郎さんと、当時、文芸批評家で独自のフッサール読解を世に問うていた竹田青嗣さんを中心に行いましたが、都合6回、一年以上にわたる議論は白熱したものとなり、最後は空中分解に終わりました。

キムさんの一番はじめのお考えー「わたくしの基本的な考え方は「私を活かす=活私」から公共哲学的思考・判断・行為・責任を始動させるべきだということです。」という思想には、わたしも共感し賛同していますが、その「私」をどのように位置づけるのか?「自分の私」=自我と「他者の私」=他我の問題をどう考えるのか?という純哲学的な次元の問題になると、確かに違いがあるようです。

この込み入った問題を「往復書簡」という枠組みでうまくできるかは疑問ですが、できるだけ明晰化するように努力してみます。

まず、「「他者の私」を認め・尊重し・敬意をはらう」にも「自他相克・相和・相生の連動」にも全く賛成ですが、それは、やはり、私(例えば武田)がそのように思い・考え・生きるわけですから、「私の決断」なのだという自覚は、いつも持ち続ける必要があるはずです。「他者の信憑」も「私の意識」において成立しているのだ、ということの自覚が弱まれば、却って他者との相克・相和・相生も難しくなってしまうでしょう。
「他者の私を優先する」という思想や行為であっても、自分がそう考え・そう行為しているわけですから、それが「自分の考え」であることに変わりはありません。また、世界の内に存在している我々は、自分の外にある世界・他なるものと一緒にでなければ「考える」こともできませんから、自・他・世界は、連動して働いているわけですが、「私」=自分の考え・行為には、私が責任を負うしかありません。

確かに、「『自分自身の私』の中だけを深く深く探っていく」というのは、不毛でしかありませんが、逆に「自分の私」を放棄してしまえば、外的人間になってしまいます。わたしもずっと長いこと、他者(子どもや異性とも)と共に哲学し、そうすることで自他を豊かにする営みに精魂を傾けてきましたが、自分が直接できることは、「自分の考えを広げ、深め、豊かにすること」であり、他者もまた同じです。

「自分自身=自己というのは単独でおのずから生成するものではなくて、他者との関係の中で他者との対比を意識する過程で生成・形成・造形されるもの―ものというよりは出来事・事件・ことというべきです。」というのは、全くその通りで異議はありませんが、わたしが言う、【「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが哲学することの芯”】と少しも矛盾する話ではありません。自分自身=自己の発生過程を知ること、その本質を知ることとは、次元を異にする話なのです。「私」は「他」が驚き・悦んでいるのを感じ知ることはできますが、その内実は、「私」の確信としてもたらされる以上にはなれません。他者を知り、同情あるいは共感・共鳴することはできますが、他者の具体的経験を他者に成り代わって「私」がすることは出来ないからです。その原事実をよく自覚することが、外からの要請ではなく内側から「独我論」を破ることになるー他者の私(他我)と共に哲学することによって、「私」(自分の私=自我)の主観を鍛え、掘り進め、その深化・拡大を目がける作業が、客観主義に陥らずに主観主義(独我論)への転落を防ぐ唯一の方法だ、私はそう考えているのです。なお、ついでに言えば、独我論が困った問題なのは、それが自他の悦びを広げられない思想だからです。

次に、人権思想についてですが、キムさんの主張されている「公的人権」でも「私的人権」でもない「公共的人権」の内実は、金泰明さんの「ルールとしての人権」という思想にあると思います。それは互いの「自己中心性」を認め、そこに依拠しつつ、内側からそれを超えていく思想です。

では、ソウルへの旅でお疲れがでませんように。旅の安全をお祈りしています。
武田康弘


武田康弘様  2007年6月1日

「自分の私」を立てるにも「他者の私」のを活かすことが何より大事

 昨夜は18時から23時まで西江(ソガン)大学の哲学部の教授及び大学院生たちと公共哲学の具体的な問題を心を開いて語りあいました。問題はいろいろ出ましたが、他者論=他者の哲学=自他関係論が純哲学的な次元というよりは正に現実的・実存的な次元から詳細に議論されました。韓半島は常に外国=強大国=外部=他者からの直接・間接脅威を受けつづけていますし、国内外の諸々の状況が日本のように平穏無事ではありませんから感覚というか、捉え方が日本とはかなりちがいます。十年前のこととか、竹内芳郎さんや竹田青嗣さんと現在のわたくしは、全然ちがう立場―状況―観点―問題意識―現実対応に逼られています。ですから「哲学する」友であり、共働対話者である武田さんと向きあって語りあうということも彼らとの対話とはその方向も内容も、またそこにかける期待も同じではないのが当然です。

 「独我論」をどう乗り越えるか?という哲学的問題でありますが、わたくしが武田さんと共に考えたいのは、日本人にとっての韓国人―韓国人にとっての日本人やそれ以外の多様な自国人=自己対外国人=他者が世界のいたるところで政治・経済・社会・文化・宗教などなどありとあらゆる分野・局面・境遇で対立・衝突・紛争の原因になっていますし、そこから言い切れない悲惨な悲劇が生じているわけですから、十年前の議論が空中分解に終わったからと言って放棄することができないのです。

 武田さんがおっしゃるように“「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶこと”と“他者の「私」の不可思議・理解不能の深奥”との両方を相関媒介的に考えることが大事であるということを申し上げたわけですから、武田さんとわたくしのあいだにそれほど大きなちがいはないという気がしました。よかったと思います。それは考え方が互いに似ているからよいというのではありません。互いに正直な対話ができてよかったということであります。“他者の驚き・悦びの内実を「私」の確信としてもたされる以上にはなれません”し、“他者の具体的経験を他者に成り代って「私」がすることは出来ない”からと言って、自分自身の内面に閉じ込むのではなく、そのような不理解・不把握の彼方にいる他者を他者としてそのまま尊重することが何よりも重要だと思うのです。他者を自分自身の理解・納得・解釈の枠の中に回収・消化・位置付けしようとするから他者の他者性を奪取することになるのではありませんか。勿論“私の決断なのだという自覚”が必要ですし、“「自分の私」を放棄してしまった外的人間になってしまう”ことを是認しているのでは決してありません。「自分自身の私」を強化するために「他者の私」を犠牲にし、排除し、否定するのは結局「自分自身の私」の犠牲・排除・否定をもたらすことにもなるということを言いたいのです。ですから「自分自身の私」をきちんと立てるためにも「他者の私」を活かすことが何よりも大事な思考・判断・行動・責任の原点ではありませんかと問いかけているだけです。

 武田さんもおっしゃっていますように“「自分自身の私」の中=内面の宇宙だけを深く深く探っていく”というのは不毛であるだけではなく、他者無視の横暴にもなりますので、それが現実的・実存的に深刻な問題であるとわたくしは思うということです。
昨夜の議論の中にも人権論が出てきました。人権弾圧の極限状況の真只中で、いのちがけの闘争をつづけ、結局ある程度の成果を勝ちとった民主化運動の実体験をもっている人々ですから抽象的・文献的考察ではなく、生生しい体験に基づいた現実論でありました。武田さんのことも皆さんに紹介し、30年以上の間、専ら自力で一市民としての哲学運動を展開してきた「哲学する市民」の姿に深い共感を感じたようです。

 自己と他者の問題はフッサールやサルトルやメルロ・ポンティが誠実に取り組んだ問題でありましたし、それがデリダ、レヴィナス、リクールそしてトドロフなどに継承されてきた大問題ですから往復書簡を通して語りつくせないでしょう。わたくしも決してこのようなかたちで決着がつくとは思いません。ですがこの問題が、今のわたくしにとっては、最緊急課題の一つですので、日本でも中国や韓国でも共に語りあっていくつもりです。
 今日は朝からアジア哲学者大会に行きます。何かありましたらお知らせします。
ソウルから 金泰昌


ソウルへの手紙―2 2007年6月2日 武田康弘

哲学は、民知にまで進むことで始めて現実性をもつ/「集団的独我論」を超えるには?

キムさん、ご活躍ですね。よろこばしいことです。
海を隔ててリアルタイムでの往復書簡、とても愉快ですね。インターネットの善き活用です。

早速ですが、本題です。
キムさんの言われる通り、十数年前の独我論を巡っての論争と、いまのキムさんと私との対話が、その方法・内容・方向を異にするものであるのは当然ですが、ただし、その問題の本質は不変だと思います。

もちろん私は、独我論者でも主観主義者でもありませんので、他者の私を活かすこと・他者の他者性の尊重については、キムさんと全く同じ思想です。ただ、私が思う「哲学する」とは、そのような思想や理念を具体的現実にもたらすにはどのように考えたらよいか、それを皆(私の場合は、私自身と一般の日本人の現実から始まる)の赤裸々な意識の現場から探る営みです。
さらに言えば、予めの理念やすでにある思想を前提にせず、深く生の現場から思想や理念を生み出す試み、単なる言語的・理論的整理を越えて、皆の生活実感にまで届くように「考え」を練り進めること、その営みを私は民知としての哲学と呼んでいますが、そこまで進んではじめて哲学は現実的な力を持つと考えています。

なお、わたしは、この「民」ということばにマイナスの意味があることは承知していますが、だからこそあえて「民」を使うのです。柳宗悦らの『民芸』―高級品でない普段使いの品々には「用の美」があり、そこに普遍的な美しさがあるとする見方をわたしは支持していますが、それと同じく『民知』という「用の知」としての哲学に、学知としての哲学以上の価値を見るのです。伝統的な意味・価値の呪縛から自他を解き放つ「文化記号学的価値転倒」の営みだと言えましょう。

話を戻します。
独我論の問題ですが、どうもいまの日本では、「論」という次元を遥かに越えて、思想はいらない、主観それ自体が悪であるという想念が蔓延しているようです。政府が示す枠組み=思想については疑わず、その枠内で考えるというわけです。教師や公務員(に限りませんが)は、政治的意見を言ってはならない!と多くの人が信じ込まされている集団同調の国では、思想上の論争それ自体が成立しません。思想を語るのは、権力者と一部の選別されたコメンテーターのみに許された行為のようです。愚かな話ですが、独我論は、溶解して日本主義という「集団的独我論」となっていますので、出口が失われています。この入り口も出口もない状況を変えるには、ふつうの市民が自分で考える営みをするための条件整備―根本的な発想転換・価値転倒が必要で、それがわたしの進める民知としての哲学です。従来の思考法・学を越えて、自他の心の本音=黙せるコギトーに届くまでに「考え」を練り、揉み、進化させなくてはいけないと考えています。それは、恐らく人類知性のありようの転換という地点にまで進み行くのではないでしょうか。言語中心主義を超える壮大イマジネーションの哲学ですが、心身全体による会得を原理としますので、温故知新の試みとも言えます。

少しズレました。わたしは、この「集団的独我論」という矛盾した概念として表現する他ない事態を変えていくための原理は、自分の意識の内側をよく見ること、わざと徹底して主観に就くことだと思います。自我の殻を破って広がりゆく精神=純粋意識は、自分を深く肯定できないとよく働かないからです。肝心なのは、意識の二重性の自覚=自我(経験的な次元)と純粋意識(意識の働きそれ自体)の違いをよく知ることでしょう。
そもそも意識とは何ものかについての意識であり、それ自体を取り出すことはできませんから、私の意識をていねいに見ることは、意識の内実である他我・自我・物・自然・・をよく見、知ることになります。
元来、哲学とは主観性の知です。多くの人が専門知や事実学による抑圧から解放され、主観を開発し、自分の頭で考えることを可能にするための「考え」をつくり、それを実践すること。それが何より急務だと思っています。

今回は、哲学の出し方=始発点の問題と、そこから帰結される民知という考え方=
民知にまで徹底された哲学について触れました。もし、市民・生活者による公共哲学が可能ならば、それは民知による他はない、と私は思っています。キムさん、いかがでしょうか。
では、今日のところはこれくらいで。健康に留意され、更なるご活躍を。

武田康弘


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金泰昌・武田康弘の恋知対話ー4

2007-06-13 | 恋知(哲学)

金泰昌様 2007年5月27日

「私」―自我と、純粋意識 / 「ルールとしての人権」思想

「私」から始める、というキムさんのお考えには、全面的に賛成です。実存思想は、わたしの人生そのものですから。

けれども、「私」から始めるという時の「私」とは、わたしの場合、対象化された己=自我ではなく、「私」の意識の水面下を見ることから始まります。自分自身の「黙せるコギトー」の声を聴く練習が、哲学するはじめの一歩=実存論の原理だ、と考えているのです。
 言語化される以前の広大なイマジネーションの世界を感じ知ること、「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが、哲学することの芯だと思うのです。
したがって、私=哲学の出発点とは、言語化され、経験的な次元で自我となった「私」ではなく、沈黙の深層である「黙せるコギトー」=広大な「宇宙」なのです。
それに声を与える作業、言語化していくプロセスが、哲学の練習であり、現実化であると考えています。

以上の意味で「哲学する」のは、日本人のみならず、「私」の純粋意識ではなく「私」の自我による思想の闘いに明け暮れる世界の人々にも、とても大切なことだと思っています。

次に、日本人が抽象思考とか一般化思考を好まないのではないか?というキムさんのご質問ですが、現状は確かにその通りだと思います。その現実を変えるために、『白樺教育館』では、意味論・本質論としての学習にとり組んでいるわけです。

また、「神妙な無責任・脱責任体制」の問題、及び、「細かい小さな違法行為は法によって処罰されるが、巨大・強大な反法行為は天下を横行してそれを制するものなし」、というキムさんのご指摘は、全く同感です。その異常な社会のありようを正せない日本人の問題については、私は「思想なき人間は昆虫の属性をしめす存在にすぎません」というブログにも書いた通り、無自覚のうちに誰でもがもっている思想=価値意識の束を、顕在化・意識化する努力の必要を訴え続けてきました。『白樺』における哲学実践もそのような考えの元に行われています。

最後に「私」と「公」の問題です。
「私」とは、エゴイズムだからダメだ、という俗流「道徳論」と、その思想に基づく強者の「私」にすぎない「官」による日本支配の問題ですが、その現実を変えるための原理的な思想を「共生社会のための二つの人権論」という本に現した金泰明(キムテミョン)さんが、昨日『白樺教育館』の大学クラスに参加され、その後で、夜遅くまで対話しましたが、自己中心性からの出発は哲学の原理であること、そこから「ルールとしての人権」という考えが導かれるというのは、わたしたちとも完全に一致するものと思いました。
しばしば、「官僚独裁国家」と規定される日本社会を内側から開いて行く基本条件は、キムさんの言われる【「公人」とは結局「私人」たちが出した税金を使って私人たちの幸福を実現し、それを妨害するものから保護するための生活装置の管理・運営を委託された代理人である】という民主制社会における「官」の本質をみなが自覚することですが、立憲主義の国家においては、「憲法」の理念と条文に示された市民の意思を守り・実現することが仕事・職務であるはずの公務員、とりわけ官僚がその原則をわきまえるように指導する必要も大きいと思います。公務員研修に携わるキムさんに期待するところです。私のみるところ、その原則への明晰・透明な自覚を持っている人は少なく、愚かな想念―国家の指導者気取りの官僚が多いようです。これは深い思想の闘いですが、そのためには、誰もが納得せざるを得ない原理的思想(民主制社会の原理)を示すことが必要だ、というのが私の考えです。いかがでしょうか? 武田康弘

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武田康弘様 2007年5月30日

ソウルから。「自分の私」ではなく「他者の私」の尊重―自己中心性のワナ

5月28日から韓国ソウルに来ています。27日付武田さんのメールは昨日、池本さんから送ってもらいました。

まず「私」のことですが、もしかしたら武田さんの考え方とわたくしのそれが違うのかも知れません。ですから丁寧に語りあう必要が感じられます。わたくしの基本的な考え方は「私を活かす=活私」から公共哲学的思考・判断・行為・責任を始動させるべきだということです。「私」から始めるというのとはやや違うのではないかという気がします。そして「私を活かす」という場合、その「私」は「自分の私」ではなく「他者の私」を優先するということです。自分自身=自己というのは単独でおのずから生成するものではなくて、他者との関係の中で他者との対比を意識する過程で生成・形成・造形されるもの―ものというよりは出来事・事件・ことというべきです。今まで「私」を専ら「自分自身の私」に限定し、それだけに執着し他者への開き・かかわり・つながりを重視しなかったから「私=エゴイズム―自我至上主義」という捉え方が固着したと思うのです。

 「私を活かす=活私」とは「他者の私」を無視・否定・排除することによって成立する「自分自身だけの私」ではなくて、「他者の私」を認め・尊重し・敬意をはらうという他者への関心の濃度に正比例して生成・生長・成熟する「自分自身の私」という自他相克・相和・相生の連動の出発点とも言えるでしょう。

 ですから、“自分自身の「黙せるコギトー」の声を聴く練習が哲学するはじめの一歩=実存論の原理”というのは自己論=自己哲学の基軸として過去から現在に至るまでの正統哲学によって強調されてきた哲学のあり方の標準でありました。わたくしも長い間そのような哲学の訓練を受けましたし、またそのように教えたのです。しかし、1990年の来日以来、日本とアジア、そして日本と世界の関係を政治とか経済とか貿易とか安保という側面に焦点を置いて考えるのではなく、「哲学する」という立場からその大本を見直すという場合、どうしても気になるのが個人的・集団的・国家的・民族的自己中心性への執着から生じる他者無視・弾圧・否定という問題であります。それはどちらかと言いますと、自己から他者に向かっての一方的な心理・行動・態度・判断です。結局、自己中心性のワナにはまっているということです。

 武田さんのおっしゃる“「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが哲学することの芯”というのが自分自身とは全く違う、自分自身の全てをもって最善の努力をしても尚かつ理解と納得の彼方に、自分自身の一切を超越して自分自身に問いかけてくる他者の存在とその中に隠れている無限の未知の宇宙に畏れを感じ、身勝手な同化を戒め、いつでもどこでも自己反省・自己批判・自己再生を促す「他者の私」と、それと連動する働きを通して生まれてくる「自分自身の私」を同時に意味するのであればまったく同感するところであります。しかし、今までお会いし、語り合った数多くの日本人学者たちの場合は、ほとんど「自分自身の私」の中だけを深く深く探っていくということに偏重していました。

わたくしはまだ金泰明さんとはお会いしたことがありませんし、彼の著作を読んでもいないわけですから、なんともいえないのですが、わたくしは所謂「人権」というのは一般論としては誰もが一応、その重要性と必要性を認めながらも具体的・実践的な問題として「誰の人権」なのか、そして、「人間の公的人権」なのか、それとも「私的人権=私権」なのか、どこまで念頭に入れ、どこまでを保障するということなのかということも誠実に考えてみる必要があります。「人権宣言」が「人間と市民の人権宣言」という言い方をしているのも「私的人権」と「公的人権」をきちんと念頭に入れた人権の公式化・公認化を意味するものと捉えます。わたくし自身はそれに加えて今後、公共的人権論というのを皆様とともに議論していきたいと思っています。武田さんも憲法の問題に言及なさいましたが、従来の憲法論―日本での議論という意味です―の人権論は圧倒的に公的人権論に偏っています。民法で「私権」が尊重されるという原則が明示されていますが、わたくしは今後、国家・政府が一方的に公認する公的人権論ではなく私人が人間として国家・政府に対して要求し、それが尊重されることを権力を持っても、妨害・阻止できないという公共的人権論を強調したいのです。国家・政府の自己主張の一方的強制ではなく、私人=人間=市民という他者とのかかわり方を一変させるところから始まる哲学こそが公共哲学であると思うのです。なんだか急に堅くなりました。すみません。武田さんのお考えをお聞きしたいです。
金泰昌


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金泰昌・武田康弘の恋知対話ー3

2007-06-12 | 恋知(哲学)

金泰昌様 2007年5月23日

学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能。ドレイがドレイを管理する社会

「私」が生かされない日本の現状を解明するための「問い」に感謝します。早速お応えします。

まず1について。
結果的には、両者は「相互強化的」であるわけですが、そのはじめの原因は、「反・哲学的な教育」にある、と私は確信しています。
また、日本の現状が「非・哲学的な環境である」というのはその通りですが、「日本人は元来哲学や思想が嫌いで物をつくることや実際経験したりすることを大事にする」というのは、ひどいウソとしか思えません。日本人の学者や文筆業者からこういう意見が出てくるのは、彼らが人々の「黙せるコギトー」の声を聴く耳を持たず、ただ活字化・映像化された情報に頼ってしか「現実」を見ることができないからでしょう。

次に2について。
「上位者の何に従うのか?」ですが、
まず、【下位者の「私」は上位者の「公」のために徹底的に抑圧・排除・犠牲になってきた】という現実を変えるための金さんの凄まじいまでの奮闘努力に深い敬意を表します。
お応えします。
日本における「上位者」とは、ほとんどの場合、「私」としての意見を持たない・言わない人です。そうでなければ上位者にはなれません。彼らは、自分の考えを鍛えるのではなく、上位者たるにふさわしい態度を身につけ、周囲にうまく合わせる言動に磨きをかけるのが生き方の基本形となっています。上位者となった人は、既成の価値意識とそれを支えるシステムの維持・管理を自己目的化し、通常それ以上のことはしません。
このように内実を追求せず、カタチのみを追うというのは、意味論や本質論としての学習・学問がなく、単なる事実学に支配される知のありようと符合していますが、そうだからこそ、出身学校名による単純な序列主義が成立します。ほとんどの日本人は、キツい言い方をすれば、東大を頂点する「学校序列宗教」の信者だと言えますが、この〈序列による意識の支配〉が「私」の発展を阻害してきました。哲学の命である自由対話が成立しないからです。

しかし、私は子どもが好きで教育を仕事としていますが、子どもの多くは、どうして?なぜ?と考えることが嫌いではありません。「事実学」を効率よく習得するために不都合となる【質問と対話】を嫌がる親や教師の意向に従わされ、変えられてしまうまでは。
結論を言えば、このようにカタチ・結果を優先し、序列に基づく統治が行われている社会では、「上位者」に従うのは、上位者の「何か」(内容)には関係なく、それが上位者であるからだ、という事になるわけです。序列主義の想念は、中学生がよく言う「先輩の命令には逆らえない」という言葉に象徴されています。
以上は、最後の問い―天皇制の問題と結びついています。

キムさんも強調されるように、狭い「私」=エゴを越え出るためには、徹底的に「私」につくことが条件となりますが、失敗と試行錯誤を嫌がり、決まった型に早く嵌(はめ)ようとする教育の下では、自我が内的には成長せず、「私」が「私」にはなれませんから、合意形成の作業がはじまらず、「公共」という意識も生じません。こういう社会では、上からの命令=「公」(既存システムの維持に必要な権力者の集合意志)だけがある、というわけです。

日本の「エリート」のほとんどは、受験知に囚われ、システムが命じる価値意識に従うだけで、失敗を重ねながら自我を成長させる生き方をしてこなかった人々ですから、かれら自身が、既成制度のドレイでしかなく、そういう意味では、日本とはドレイがドレイを管理する社会だ、とも言えます。中身・内容の進展ではなく、制度の維持それ自体を目的とするシステムの中では、具体的な現実問題に対しては誰も責任は取らない・取れないということになり、現場にいる人間だけが出口のない状況に追い込まれて苦しむのです。こういう無責任性の体系=集団同調主義による社会システムの最上位に天皇という存在を置くわけですが、それも個人としての人間ではなく、天皇制というシステム内人間=現人神です。したがって、現実に対する責任は取れません。グルグルと堂々巡りで、どこにも誰にも責任はなく、結局はなにごとも自然災害のようにしか意識できず、「しかたなかったんだ」ということになるわけです。

では、最後に、明治政府がつくった「近代天皇制」の定義についてです。
確かに「近代天皇制」=「国体思想」が「全体主義」であることは、私も間違いないと思いますが、「天皇教」とでも呼ぶべき「明治政府作成の擬似的な一神教」の「神」と規定した天皇を、同時に現実政治の主権者としたのですから、事は複雑で、「国家宗教に基づく全体主義」とでも呼んだらいいのではないかと思います。

この天皇による統治を支え、実務を行ったのが、東大法学部卒の官僚であったので、彼らは「天皇の官吏」と呼ばれていたわけです。周知の通り、この明治政府がつくった官僚制度は、戦後もその基本のありようを変えずに今に到っています。この「官」による「公」(権力者の集合意志)を「民」による「公共」(市民的な共通利益)に変えようとする金さんの努力には、ほんとうに頭が下がります。民主制社会における「官」は、ほんらい主権者である一人ひとりの市民の側に立って仕事をしなければならないはずですが、依然として既存のシステムを維持するための「公」という装置でしかなく、公共世界を拓くという発想にはなりません。

この現状を変えるには、「民から拓く公共」という発想の下に「官」を位置づけ直す以外にはないと思いますが、この点、金さんはどのようにお考えでしょうか?お聞かせ願えれば、と思います。

武田康弘
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武田康弘様 2007年5月24日

「官」という巨獣による支配―官尊民卑―国体護持―神妙な無責任体制
細かい違法行為は法によって処罰されるが、巨大・強力な反法行為は天下を横行してそれを制するものなし


 “「黙せるコギトー」の声を聴く耳を持たない日本の学者や文筆業者のひどいウソ”という表現には魅了されました。しかしそれは日本の学者や文筆業者に限られた宿痾ではないと思われます。言語以前の沈黙の深層の底に流れる情動のマグマを感知するということは並外れたわざ(技・業)ではないでしょうか。誰にも期待できることとは言えません。ですから、何とか彼ら・彼女らの声に謙虚な耳を傾けることにしてきたつもりですが、日本では異邦人であるわたくしの語り掛けに心を開いて応答してくれるというのが、極くまれなのです。ですから読んだり、聴いたりしたことがウソなのかどうなのかもよく分からないのかも知れません。しかしです。武田さんのご意見では日本人が大体抽象思考とか一般化思考を好まないとはお考えにならないのでしょうか。例えば、自分の身内のことになるとものすごくやかましくなるわりには、他人事になりますと冷淡であり、ほとんど思考停止になるということを普段日常生活を通して感じているわけです。北朝鮮に拉致された親類の人権は声高く叫びまわりながらも自国の軍隊によって踏み躙られた近隣諸国の数多い私人たちの生命と尊厳に対しては、証拠が無いとか、他の国々もやったことではないかというような非理・無理・背理をもってごまかして平然としていられるというのが、どうも理解できないのです。ものごとを自他相関的に考えるということ、そして適当に距離を置いて見るというのが抽象思考というのですが、そのような思考回路は十分作動していないように感じられるのです。もしかしたらそれは、「上位者に従う」ということが「上位者の具体的な命令の内容を自分の頭で判断してから服従する」というよりは「上位者の意思」と思われ、そのためになることと勝手に決めて手前に用意されたマニュアル通りに行動するだけのことが限りなく繰り返され、自動拡大再生産された結果かも知れません。ですから個々人は別に自分の問題としてそこに具体的なかかわりを感じないし、したがいまして自責の念も何もないということですかね。あえて言えるとしたら、すべてはお国のためにやったことだし、それを天皇の御国を守るためのことであったということで正当化されると思っているのかも知れません。すべては「公」(=国体)の護持のためであるという最終的なお墨付きによって罪悪感は消去されるということなのでしょうか。であれば初めから終わりまでそこにあるのはシステム=国体としての天皇制という「公」だけが実在し、すての「私」はその中に融合無化されるわけですから、誰も責任を負うとかということが構造的に不可能になっているわけです。実に神妙な無責任・脱責任体制ですね。細かい小さい違法行為は法によって処罰されますが、巨大・強力な反法行為は天下を横行してそれを制するものなしという状態のように見えてしょうがないのです。

 “日本における「上位者」とは「私」としての意見を持たない・言わない人”であり、“そうでなければ「上位者」にはなれない”というのも日本だけの事情ではないと思われます。“自分の考えを鍛えるのではなく、上位者であることを示す言動に磨きをかけるのが日々の生き方の基本形になっている”とう現象もどこでも目にするような日常茶飯事ではないかと思います。問題はそのような「上位者」たちが、自分たちのキタナイ「私」(事・心・利・欲・益)を「公」の名の下に充足させながら一般市民たちの細く小さい「私」(事・心・利・欲・益)を犠牲にするということなのです。「公」の実体は果たして何なのかということを冷静に考えてみますと、それは結局武田さんのおっしゃる通りの上位者の命令=既存システムの維持(管理)に必要な(だけにこだわる)権力者の集合(団)意思(及びその仕組)でしかないということですね。それが国民・市民・個人全体のためという口車に乗せられて「私」(の生命・生存・生業)が徹頭徹尾否定されてきたとうのが問題ではないかということです。

 わたくしは「民から招く公共」という考え方に対しても、もっとつっこんで調べる必要を感じます。わたくし自身は一人ひとりの私人の「私」(事・心・利・欲・益)を殺すのではなく、活かすというのが発想と行為の原点になる必要を強調したいのです。そして「私」は単独ではなく、複数が存在するわけですから、「私」と「私」とのあいだから、たがいの「私」を活かしあうというのが公共生生の現場であるという捉え方を基本にするということです。今までの最大の問題は「公」という名の下に巨大・強力な一つの「私」が他のすべての「私」を弾圧・抹消・否定したということです。皆のためというのは「権力者」の一方的な思い上がりにすぎないのです。「みんなのため」というのは実際には(具体的な)「誰のためでもない」ということになりますし、それが「善」であるという思い込みを伴うから厄介なことになるのです。「公」と「私」は同一論理の表と裏、大と小、強と弱という関係で相互包摂の関係にあるという実像が見えてきたのです。ですからわたくしはそのようないつわり(偽・詐)への執着から脱出して「私」と「私」との相克・相和・相生のプロセスからたがいの連動向上をはかるという意味の公共を重視するのです。これこそ本当の意味における官民共働であり、私民主導の公私共媒であり、一人ひとりの私人の幸福が複数の自他共福の始動をもたらし、それがたがいの幸福の善盾還作用を回転させる原動力になり、そこから幸福共創の公共世界が拓かれるという展望なのです。わたくしは「民」という漢字のもともとの意味が嫌いです。それはメクラ(盲・瞽)であり、ドレイであるからです。ですからあえて「私人」と言いたいのです。従来は「公人」と言えば何だか偉い権威がついた人間のような感じがありましたが、「公人」とは結局「私人」たちが出した税金を使って私人たちの幸福を実現し、それを妨害するものから保護するための生活装置の管理・運営を委託された代理人であると言えるでしょう。それが「公」という美名の下で自分たちの委託者をばかにしてきたわけでしょう。ばかにするのも程があるということで、私人たちが怒りはじめたのが、今日の反官僚的社会心理というものではありませんか。官がそのような現実をきちんと自覚するようになれば「私人から拓く公共」というのが社会を変えることになると思うのです。「私」はエゴイズムだからだめだというのが正統的な道徳論ですが、「官」は合法的に正当化された強者の「私」の構造化・組織化にすぎない一方、私人たちの「私」は合法的正当化の枠外に放置され、構造化・組織化への途が塞がれました。しかしそのような「官」優性の制度思考は官尊民卑と滅私奉公という時代錯誤的心情倫理によって強化・増幅されたのです。しかしそれは、近代国家という名の「公」の制作にともなう虚偽意識でしかないとは考えられませんか。「官」という巨獣が必要とする成長ホルモンのようなものではないかと考えられますが。わたくしの個人的な見解ですが、「公」からは「公共」への開き直りがほとんど不可能であります。「公」とは統合・統制・統一の垂直的力働であります。それとはまったくちがいまして、「公共」とは多様・多元・多層の水平的共働であるからです。それは「公人の指示」ではなく、複数の相異なる一人ひとりの老若男女たちの「私」(事・心・欲・利・益)をそれぞれの相克・相和・相生のプロセスを通して共に向上・実現・盾還させようとする「私人の工夫」なのです。ですから一度私人の立場に戻って考えるということが先決課題ですね。そこから出てくる私人たちの力がより人間を幸福にする社会を創るには、「私」の見直し・立て直しから始まるのが現実的な道筋ではないかと思われますが、武田さんのお考えはどうでしょうか。

金泰昌
-------------
続く



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