思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

写真で見る-5.14民知の会・シンポジューム

2006-05-31 | その他

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5.14「民知の会」設立記念シンポ&パーティーの写真と、豊富な資料です。

?福嶋浩彦(民知による市政変革、我孫子市長)
?山脇直司(公共哲学推進・ユネスコ哲学会議日本代表・東大大学院教授)
?松橋桂子(作曲家・清瀬保二の直弟子、大著・「柳兼子伝」著者)
?武田康弘(民知の創始、白樺教育館館長。白樺文学館初代館長)

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あなたは、人間を「理解できる」と思っていませんか?

2006-05-30 | 恋知(哲学)

あなたは、人間を「理解できる」と思ってはいないでしょうか?
人間の心は、肯定し合い・受け止め合い・親しい交わりをもつことで、悦びを生むことができます。
しかし、「理解できる」と思うのは、傲慢ではないでしょうか?

理解できると思うから、自他の心を私の思い通りにしよう、さらには支配しようとするのでしょう。
人間とは、皆が等しく(少なくとも可能性としては、哲学の用語で言えば存在論的には)「主体者」であり、誰かに操作操縦される「客体」(ドレイ)ではないのです。
主体同士の相克やまたは相和が人の生きる原理であり、システム内にはめ込まれた部分品ではありません。「もの」ではない、主体=心を知解・分析することは不可能です。

自分であれ他人であれ、人間を理解=知解することはできません。了解すること=分かり合うことや承認しあうことができるのであり、生身の生きた人間を知的対象として分析するのは無意味、とうよりも、百害あって一利なしです。

そもそも人間を理解=知解しようという動機が生じるのは、了解できないからです。はじめから人間を客体(もの)として見ようとする冷たい視線が存在していることになります。
これは、近代学問(自然科学)の方法を、人間を知る=了解するという知のあり方と同一視する悪弊がもたらすものです。だれもが学校教育の中で、知らずに身につけてしまう「客観主義」的な見方を人間にあてはめ、それが当然と信じるのは、とても怖いことです。この深い洗脳状態から覚める努力=人間の見方・知り方のコペルニクス的転換が必要です。

了解できないときは、理解しようとするのではなく、いつかなんとなく分かる時が来るかもしれないと思いつつ、待つこと・放っておくこと・黙って見ていること、私の思いを何気なく提示することです。自他を追い詰めずに、」ふぁ~」としているのに勝る方法はありません。言語化せずにイマジネーションの次元で「想う」に留めることです。ただ見ている、そっと見ているだけ・・・。

なんでも理解=知解できると思い、分析しようとするのは、人間に対する冒涜=根源悪であり、底知れない不幸を招来するだけです。心の世界は、ことばや絵や写真やものや音や・・・として表現することができるだけであり、知解・分析は不可能です。人間がよく生きる上で、何よりも重要な心の世界は、ただ了解されるのみ、なのです。

どのような科学(学問)も、解析不能な人間の心の世界の上に築かれているという深い「おもいなし」が必要です。

(蛇足ですが、最近流行の「脳科学」は脳に対する科学であり、こころという価値と意味の世界とは直接関係しません。こころではなく、こころを生み出すメカニズムの探求です。繰り返しますが、人の生きる意味と価値の世界=こころは、知解・分析の対象とはなりません。それは創造されるもの、行為されるもの、表現されものなのです。)

武田康弘

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ミクシィ内のコメントを以下に貼り付けます(6月9日)

aBeBe (阿部憲一)

人は変えれられない。自分が変わるんですね。

一人ひとりが主体ってことだと、相手との関わりは
やさしさ、友情、協力、という気持ちが自然と湧いてきますね。
そして、主体(≠モノ)としては、責任感、納得、というものを
強く感じるようになる。
自分に厳しく、人にやさしく。とは良く聞く言葉ですが、
原理的(よくよく考えてみるとそれ以外は言えないという意味)に考えると、スッキリしますね~。うーん、楽しい生き方だ。
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タケセン

阿部君
よいコメント、ありがとう。
思想ー言葉での整理以前の、もっと深いこころの層に「正直」に生きる、そのさわやかで気持ちのよい「生」を共有=了解し合う人生を歩みたいですね。
世間体にすぎないものが、人生の本体になるようでは、生きている意味がありませんから。
民知が支えるよき「生」です。
武田





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江戸城に住む天皇家!・・・至高のよきものとは心の内部にのみ存在する。

2006-05-27 | 私の信条

神田須田町に生まれ育った私は、幼いころから、近くにある「皇居」の存在がなんとも不可解でした。税金で暮らしている皇族と呼ばれる一族が、なぜ、超特別待遇で、意味不明?の特別な敬語で遇されるのか?民主主義とか人間の平等の理念とは、まったく異なる存在が、全国民統合の象徴!!??というのは、なんとも気持ちが悪くなるような話だと感じていました。やはり、平将門を主祭神とする「神田明神」のせいでしょうか?(笑)。

この気持ちは、54歳になった今も少しも変わりませんが、少しも変わらないことは、年を重ねてさまざまな人生経験を積んでも、心と頭が汚れず穢れていない証拠でしょう(笑)。とても誇りに感じています。


明治維新のときに、京都から出張させられて江戸城に住まわされた天皇一家が、民主主義に変わった戦後もなぜ他人の家(大田道灌がつくった、天皇家とは何の関係もない城)に住むことを政府によって強制されるのか?なんともひどい話だと私には思えます。

「日本の伝統を大事にする」といのならば、天皇家はもともとの家、京都御所に帰られ、歴史的・文化的存在として遇されるのが「正しい」のです。こんなことは、わざわざ論じることもないほど当たり前の話でしょう。
(詳しくは、「皇族の人権と市民精神の涵養」を見て下さい)

きちんと天皇家の人々の人権も保障し、一人の人間としての尊厳が与えられるのが現代世界の常識のはずです。わが日本人の多くが、もう少し、ふつうにまっとうに考える頭を持っていれば、明治政府(山県有朋ら)が日本の伝統を壊してつくりあげた不自然な制度=想念に自他を縛り付けることもなくなるでしょうに。

単なる「事実学」=試験勉強・学問ではなく、日々の体験を踏まえ、自分の頭を悩ませて考える「意味論」としての勉強をしないと、わが島国・日本は、世界の孤児になってしまうでしょうね。アジアの国であり、その文化を共有するわが国が、アジアとは距離を置き、まったく異なる風土と文化のアメリカに追随するだけというのでは、バカみたいです。

話が少しズレましたので、戻します。

とにかく、一番大事なのは、「至高のよきもの・美しきもの」とは、私たち一人ひとりの内部にあるのであり、外にはないことの明晰な自覚です。自分の主観を深く掘り進めていくこと以上の価値はどこにもありません。これは生の原理です。横に流されて浮遊したり、外部に絶対を求めて硬化する精神には、内的なよろこび・充実がやってくることはないのです。歴史的な一家族に「絶対」・「超越」を見るような思想=想念は、人間を幸せにしません。

武田康弘


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「勝ち組」?=空虚な心ー「平等は友情を生む」(プラトン)東京新聞社説

2006-05-24 | 社会思想

以前のブログにも書いたとおり「思想・想念は最大限自由に、しかし経済格差は是正する」というのが、政治のほんらいの仕事です。健全・健康な社会は、それなくしては成立しません。裸の個人同士が響き合うことで生を豊かにする「響存としての実存」は、真に人間的で健康な社会を生みますし、また逆に経済格差の少ない健康な社会は、「響存としての実存」の可能性を広げるのです。

「勝ち組」といわれる人々の心は、濁ったエゴに満ちているように見えます。
粘着質のネバネバした状態か、あるいは、ザラザラとした荒く粗い状態か、または、スカスカの空洞でしかないようです。
豊かな理念やロマンとは無縁の即物主義・思いやりや優しさのない自我主義―その空虚な心を、金品の浪費でかろうじて支える不幸な人生を歩む人間、それが「勝ち組」ではないでしょうか。
幸福になりたければけっして「勝ち組」になってはいけないと思いますし、その種の不幸な心の人々に近づいてもいけません。そもそも、勝ち組・負け組みという言葉=発想を持つのは、本質的に愚かで、不幸で、下品な人間でしかないでしょう。

『平等は友情を生む』(「法律」)というプラトン(思想の元はソクラテス)の言葉を紹介した日曜日の「東京新聞」社説は、示唆に富む大変優れた論説ですので、以下にその後半部分を貼り付けます。

週のはじめに考える
『平等』を問い直そう


 「格差は必ずしも悪くない」と小泉首相は言いましたが、激しい競争社会が招くのは、一握りの強者と多数の弱者です。「平等」は普遍的な価値であるはずです。
・・・・・・・・・・・・

 さて、市場原理主義が闊歩(かっぽ)する世の中です。米国式の弱肉強食主義や能力主義がはびこり、まるで競争に勝てばすべてという時代です。

 ■「一億総中流」はどこに

 何百億ものお金を手にするIT長者の現実を目の当たりにする一方で、貧困の問題も見過ごせません。

 一九九五年に六十万だった生活保護世帯は、もはや百万を突破しました。連合総合生活開発研究所の今春の調査では、収入格差の拡大を実感する人が六割強にのぼりました。

 「一億総中流」は見る影もありませんね。小泉首相は「格差が出るのは悪くない」と国会で答弁し、こう続けました。

 「成功者をねたむ風潮、能力ある者の足を引っ張る風潮を慎んでいかないと社会の発展はない」

 ねたんでも、足を引っ張ってもいけませんが、むしろ問題は富者はどんどん富み、貧者はますます貧しく…という風潮です。市場原理主義は「一人勝ち」を許します。勝ち組は一握りにすぎず、大半は負け組という冷厳な事態を生みます。「平等」という価値観について、問い直していいときではないでしょうか。

 古代ギリシャの哲学者・プラトンの時代から、「平等」については論じられてきました。当時はこんなことわざがあったようです。

 《平等は友情を生む》

 プラトンの著書「法律」(岩波文庫)にそれが記述されています。

 「奴隷と主人とでは、友情はけっして生まれない」としつつ、「くだらない人間と優れた人間とが、等しい評価を受ける場合も、やはり友情は生まれない」と書いてあります。そして、古いことわざは真実だと、プラトンは評価しているのです。

 たしかに米国のように、社長と社員の年収格差が百倍も千倍もあるような社会では、まるで主人と奴隷のような関係で「友情」などは生まれないでしょう。では、「くだらない人間と優れた人間」とは、どの程度の差が適当なのでしょうか。

 いわゆる「結果の平等」の問題です。でも、いくら有能といっても、米国のように収入が、百倍も千倍も違うというのは、ちょっと行き過ぎでしょう。血の通う人間同士にそれほどの隔たりがあるとは、とても思えません。

 従来の日本社会では、社長と社員の年収格差は、四倍程度といわれてきました。これこそが、戦後日本がつくり出した「一億総中流」という平等社会だったわけです。終身雇用や年功序列などの“セーフティーネット”に守られて、それなりに安定した社会でした。

 ヒトの全遺伝情報が解読され、チンパンジーのそれも、解読が終わりました。その結果、塩基配列の実に98・77%が同じでした。残る1・23%の部分に、人類の人類たるゆえんがあるはずです。

 ■「1・23%」の自覚を

 果たして、その1・23%とは何でしょう。「弱い者へ手をさしのべる」のが人間の本性ならば、今こそ、それを自覚したいものです。格差が固定し、教育や就業の機会が奪われてもなりません。「機会の平等」は何としても死守すべきです。

 それにしても、プラトンの時代のことわざは、ちょっと心にとどめておきたい言葉ですね。

 《平等は友情を生む》



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度し難い愚か者=麻生外相・安部幹事長・・・靖国天皇主義

2006-05-20 | 社会思想

今朝もまた、テレビで、麻生外相は、「靖国で会おう」と言って死んでいった英霊を祭るには「靖国神社」しかない、これが日本の立場だ、と繰り返し述べていました。

戦前、日本政府が国家の総力をあげて、天皇現人神=皇室崇拝という国家宗教を押しつけたおぞましい事実=、「天皇陛下万歳!」「お国のために」「皇紀は2600年」・・・という異様な宗教についての根源的な反省が必要であることは、ふつうの正常な頭と心の持ち主ならば、誰もが分かることです。

国家が意図的に画策した若者の洗脳を解くことこそ、英霊に報いる唯一の道であることは、論を待ちません。死後もまだこのような狂気の国家主義のイデオロギーに縛るという麻生や安部をはじめとする自民党右派の言動=所業は、万死に値するものです。日本のよき伝統を破壊したのは、明治政府作成の近代天皇制であり、その思想=国家宗教の象徴が靖国神社であることは、「遊就館」を訪ねればひと目で分かります。

「靖国で会おう」と言わざるをえないところまで追い込んだ政府の悪行を反省し、その反省をカタチにすること=新たな、ほんとうの意味での鎮魂施設をつくりこと以外には、問題の解決はあり得ません。民主制社会を続けるためには、それ以外の選択肢はないのです。これを覆すというのなら、再び「天皇中心の神の国」(森前首相)にする他ありません。

そのような狂気の国家の創造が現代世界で許されると思うなら、愚か者というより、異常な宗教的想念にとりつかれた危険人物という他ありません。こういう頭の構造をもった人間が自民党の中枢を占めているという冷厳な事実をみながしっかりと認識しなければ、日本に未来はありません。これは、市民社会の原理です。自民党権力者のいう「日本の立場」とは、右翼的想念にとりつかれた一部の日本人にしかあてはまらないのです。私をはじめ、まっとうな多くに日本人は、いまどき「靖国思想」など全く認めていません。手前勝手に「日本の立場」などという言辞を吐かれることは、日本人として許しがたく、極めて迷惑な話でしかありません。

武田康弘


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表層知に支配される愚かさー民知は響存としての実存を生む。

2006-05-18 | 恋知(哲学)

知っている=ただその名前と輪郭線だけを知っている、という知り方を身につけた者が優秀=エリートとされるのが、現代の日本社会です。

例えば、文学作品の名前を知っているーあらすじ紹介を瞬時に読んで知っているのと、文学作品を味読する=文学体験を持つのがまったく異なるものだというのは、誰でもが分かるでしょうが、文学の感動―読むことの悦びを知ることは、受験成績をあげるには、「障害」にしかなりません。文学作品もせいぜい「実」を伴わない情報として速読するのが「正しい」とされるのが現代受験主義のもつ狂気です。

ほんとうのことは何も分からず=感じ知るという知の土台を喪失させた知の所有者にならなければ、東大を頂点にする「エリート」校に入ることはできません。逆に言えば、そのような「エリート」校の入学者は、輪郭線だけで、深い「実」のある知を身につけていない人間であることを自ら証明しているとも言えます。彼らは、受験システムにうまく乗っただけで、真実のことは何も知らないのです。

いま、文学を例にあげましたが、すべての知がこのように実感を伴わず、「腑に落ちる」ことがないままに浮遊する知として存在するとしたら、それはどれほど愚かしく危険であることか、これは身の毛のよだつ事態です。しかし、この「不幸しか生まない知」によって成立しているのが、われわれの住む現代の日本社会です。

事実学だけで意味論の探求をしない試験秀才=本質的なことは何もしらない愚かな人間が「エリート」とされる!そういう種類の人々が社会の上に立ち、政治を牛耳り、表層知によって「教育基本法」や「憲法」の理念を変えようと企む。
内容貧弱で輪郭線だけーカタチとウワベだけの生活を営むニセモノ人間たちで満ちた国の住人は、全員が「負け組」でしかありません。

深い心の声を聴き、その内奥の声に応える自分をつくりながら生きるという「生の原理」に忠実に生きる以外に、幸せが来ることはありません。不幸になるために生きる?苦しむために生きる?家系や組織や国家のために生きる?というような異常な「お頭」の持ち主以外のまともな人間は、誰でもエロース・悦びを目がけて生きるのです。深い納得の知は、それを可能にするための条件であり、またその知は、エロース・悦びそれ自体です。

「民知」とは、その自己の悦びを他者への「呼びかけ」によって広げていく運動です。響き合う人間としての「実存」を鈴木亮さんにならって「響存」と呼びましょう。響存としての実存の生は、輪郭線の知に支えられたカタチ優先の不幸な人間と社会を変えます。深い納得の知=民知が響存としての生を生むのです。

武田康弘


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気持ちのよいスタートーみなさんに深く感謝です。

2006-05-15 | 日記

昨晩の『民知の会・設立記念会』には、我孫子のみならず、遠方より参加された方もかなりいらっしゃいました。夜の会にも関わらず、ほんとうにありがとうございました。参加者は81名でした。

また、いろいろな形で、【お祝】いをいただきました。とてもありがたいことで、感謝しております。

「話者」の方も「スタッフ」として働いてくれた方も(共にみなボランティア)みなに深く感謝です。気持ちのよいスタートを切ることができ、「民知というほんらいの知」を広げる運動に大きな弾みがつきました。

いよいよ、ますます、「民知と共に生きる」ことのエロースがひろがっていくことを実感します。ぜひ、ワクワクードキドキーイキイキの人生を共に広げていきましょう!!

民知と共にあらんことを。






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きょう5月14日午後6時ー我孫子市アビスタにお集まり下さい!!

2006-05-14 | 日記

紋切り型の知ー意味論抜きのただの「事実学」だけという悲しく愚かな日本をチェンジしましょう!!エロース豊かな人間と社会を生み出ていく「民知の会」の設立記念会は、いよいよ本日午後6時15分からです。

「思索の日記」の読者のみなさま、ぜひ、ご参加下さい。心よりお待ちしております。
詳細は、ココをクリックして下さい主催は白樺教育館、後援は我孫子市です。

話者は4名です。

1.福嶋浩彦(民知による市政変革に取り組むー我孫子市長)

2.山脇直司(「公共哲学とは何か」の著者・ユネスコ哲学会議の日本代表ー東大大学院教授)

3.松橋桂子(作曲家、「柳兼子」の著者)

4.武田康弘(民知の創始者ー白樺教育館館長(白樺文学館初代館長)



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実に見事な論説ー「君が代」は民主制社会の国歌ではない。

2006-05-12 | 社会思想
以下は、1999年12月14日の東京新聞のコラムー「大波小波」です。
実に明晰な論説なので、古いものですが以下に記します。この論説への反証は不可能でしょう。

『(日の丸については、千年も前からある図柄であり、問題はない)
問題は君が代にある。
幕末以来国内に駐留した欧米列強の兵士がみな軍歌を持っており、出来たばかりの日本国軍にも天皇を迎える敬礼曲が必要だとして設けられたのが君が代だった。
あくまでも「大日本帝国」の「統治者」としての天皇を讃える軍隊の礼式曲であって、当時の日本人は誰も国歌とは考えなかった。
それが昭和以降の「天皇の国家・国民」という国体イデオロギーの中で、国歌 扱いされ始めたのである。
だから、「国民主権」「象徴天皇制」の戦後民主主義や、来るべき新世紀の国際化の時代に、君が代はそぐわない。あらためて「天皇の国家・国民」を強調することになるからだ。
 天皇と国家とはまったく別次元の概念であり、自らの国家観を対外・対内的に表明するために国旗・国歌はある。十分に議論をつくさないまま、党利党略がらみで性急に法制化した政治家の短慮は何度問われてもよい。』

「君が代」を強要する愚かさは、この論説だけで十分に了解されるはずです。
石原都知事を始めとする愚かな保守主義者たちには、猛省を促しておきましょう。
国家主義のイデオロギーを振りまき、権力を乱用する反・民主主義者を政治の舞台から降ろすことは、私たち「民」の義務だと思います。

国歌は「さくら」にしましょう。日本的な華やかさをもつ古歌、移ろい行く四季ー悦びの風土をもつわが国にふさわしい歌ですから。荒川静香の金メダルの時、もし「君が代」ではなく「さくら」が流れていたら、世界中の人々が皆その情緒豊かな音楽に深く感動したでしょうね。

武田康弘



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5月14日ー話者変更のお知らせーキムさんから山脇さんへ

2006-05-09 | その他

5月14日(日)夜の「民知の会」設立記念会のコメンテーター変更のお知らせ

『民知の時代へ!』ということで、お話をすることになっていた金泰昌(キムテチャン)さんが、出席できなくなりました。国際的な「公共哲学」推進の第一人者のキムさんは、韓国での講演等の活動のあと、5月14日当日に日本に戻り、すぐ中国に渡り、北京大学や精華大学での国際会議に出席する予定でしたが、日程が詰まって日本に帰れなくなりました。

そこで、キムさんの代わりとして、山脇直司さんがお話することになりました。

山脇さんは、「公共哲学とは何か」(筑摩新書)の著者です。この本は現在北京大学で中国語訳され出版される準備が進んでいます。また山脇さんは、哲学の国際会議(ユネスコ)で日本の代表として活躍されています。キムさんと共に「公共哲学」の推進者で、東京大学大学院教授です。1949年生まれ。


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民主制社会の本質は、民権力です。

2006-05-08 | 社会思想

民主制の本質は一口で言えます。「民・権力」です。
権力行使の仕方と内容が、ふつうの多くの人々=「民」の生活を安定させ、よくしていくこと=個々人の悦びや楽しさを増やしていくことにプラスになるように権力を行使すること、それが民主制社会です。

したがって、そこでは、ある特定の習俗や思想を求められません。例えば「愛国心」を持つべきだ、という思想教育をすることは認められないのです。私は日本がとても「好き」ですが、その好きの内容は、自然な「親しみの感情」であって、「日本主義」とは違います。また、日本の伝統の中にも、いいな~と思うものと、変えないといけないな、と思うものがあります。ふつうの人々の生活に合わなくなった想念や習俗は変える、といより変わっていくのが自然です。それを教育の力で変わらないようにするというのは、ひどい蛮行です。

個人の自由な想念が羽ばたき、囚われのないのびのびとした言動が増せば、その社会には、活気がみなぎり、「国力」が増すのです。個人の思想・発言・行動が活発になり、政治や権力や体制への批判が保障・歓迎・奨励されるのが、ほんとうの「よい国」だといえます。経済格差は減らすが、考え方や生き方の自由は増やすというの「民・権力」の思想です。

民主制社会で権力を行使する主体は、ふつうの生活者でなければなりません。特定の分野の専門家としての視点や、宗教・信条という立場からの権力行使は禁止されるのが、民主制社会の原則です。大きな資産の持ち主もふさわしくありません。
特定分野の専門家も、専門家としての立場や見方ではなく、一人の生活者としての視点から政治に参加するのです。これは「民・権力」を本質とする社会の原則です。

「民」の立場以上の立場は存在しないという大原則が崩れれば、民主制は終わってしまいます。日本の官僚支配社会は民主的とは言えません。専門知(部分知)ではなく、民知(全体知)という生活世界の知によらなければ、民主政治は不可能です。生活世界の経験に根を持ち、そこから立ち上げる知に依拠する以外に方法はないのです。当たり前の話ですが、専門知は総合判断に役立つところにのみ意味と価値があるわけです。それ自体が目的にはなりません。

武田康弘


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5月14日(日)の案内ー「民」こそが最大の価値

2006-05-05 | その他

5月14日(日)午後6時からの民知の会の案内を白樺ホームページに載せました。
途中にあるリンクや
最後の関連記事へのリンクと共にぜひお読み下さいね。
日本人と日本社会の最も深く大きな「根源問題」とはなにか?が分かると思います。

全国の皆さん(ちょっと無理かな?)、ぜひお集まり下さい。1910~20年代の人間復興=「白樺派」の営みを批判的に受け継ぎつつ、21世紀の新たなルネサンスを生み出そうではありませんか!歴史的転換点を共に創始しましょう。


今日5月5日は子どもの日、現在の充実と未来への希望の日です。

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「民芸」の意味と価値=「民知」を了解するためのヒント

2006-05-02 | 恋知(哲学)

以下は、『近代の美術』11号(1972年刊・水尾比呂志編)より一部文章を変え前後も変えて抜粋したもの―したがって文責は武田。

上流階級の生活の奢侈遊惰は、得てして病的な趣味に走るが、質素単純な働く生活は健やかである。民芸品は、このような民衆に用いられる故に、健やかな性質をおのずからそなえるようになるのだ。だから、現代のように民衆の生活の乱れた時代には、健やかな民芸品は生まれ得なくなるのである。
民芸品の安価という特徴は、そのまま美の条件となっている。安くなければならないという要求が、質素で単純で健やかな美しさを導き出したのである。
現代の「安かろう悪かろう」という現象は、工芸の変質と堕落によって起こった。資本万能主義が、職人の仕事を軽蔑し、工人を搾取し、手仕事を圧迫し、機械文明が民芸を破壊した歴史にともなって、この現象は顕著になってきた。安かろう悪かろうは、歪んだ誤った人間社会によって植えつけられた悲しむべき常識だ。安価と美とが強く結ばれている民芸の世界は、人間と社会の健全な姿を反映している。

民芸品は実用品である。その機能はまずなによりも実用によって規制される。鑑賞性を本旨とする美術作品とは明確に区別される。しかし、実用という概念をせまく限ってはならない。そこには、物理的な用だけではなく、心理的な、生活の精神面に仕える用も重要な要素として含まれている。宗教的な行事や遊戯のための用もある。
使いやすい品物は、生活に悦び(エロース)を与える。使いやすさは、無限の豊かさを生じさせる。健康を増す。さらに積極的な感覚の悦びを誘う要素が加われば、実用性は、さらに豊潤となる。色や形や装飾は、心理的な用を高める重要な要素だ。よき実用品=ほんものとは、このような物心両面の用を満たし得るものを言う。用と美の一致とはこのことをさすのだ=「用 即 美」。
実用品の人為的ではない、使われるうちに生じる自然な変化は、ものの美しさをいっそう深いものにする。茶人はこれは「味」と呼んだが、それは生活に黙々と奉仕する品々に対して、用が報いた絶妙の思いやりなのである。

「理論でものを見るようになってはいけない。すぐに直観が曇ってくるからである。直観さえ純に働けば、誰だとて民芸美を即座に見抜くことができる」(柳宗悦)現代は、事実学としての知の時代であり、人間に本来そなわっている直観の力は、はなはだしく衰えている。美を、また物事の真実を見る眼が、浅い知によって覆われている時代である。私たちはその悪弊に染まって、「知」を「見」に先立てる慣わしから抜けることがきわめて難しくなっている。この失われた本来の力を回復するのに、民芸の世界はもっとも身近で有意義な場を提供してくれる。知識や調査や研究はすべて後でよい。ただ見ること。そして「見」の後に働く「知」は、そのことを考える興味を生む。見てその後で「考える」ことが意味の濃いほんらいの知(民知)を生む条件である。(注)

 健康な人は健康の尊さに気付かず、無事の生活のなかでは平常なるよさを見逃してしまうのと同じく、また、病におち有事が出来てはじめて失われた健康や無事の貴重さを知るのと同じく、民芸品の美は、病的で有事の頻発する現代になって、ようやく人々の認識を呼び覚ましたのだ、と言える。
 古人の惹かれた「わび」の最も基本的な性質は、奢りに心を奪われず、虚飾に走らず、謙虚で親しみやすく、尋常な心がそのまま表出されていることだ。構えたり、作ったりする有事はそこにはない。これは無事の相である。
 単純さは、複雑な迷いを誘わない故に無事である。物事をあからさまにし、誰にも理解しやすくする。複雑さがしばしば奥深く感じられるのは、実は深いのではなくて、濁っているのである。濁りは有事だ。単純さは明澄でさえぎるものがなく、無事である。
 健やかさは、病んでいない故にもとより無事そのものだ。病は人間にとって大きな有事である。精神の病はさらに不幸な有事であることを、現代人たる私たちはよく知っている。健やかさこそもっとも尊い無事に他ならない。かくして、民芸の美は、無事の美と言い換えることができる。

(注) 下線部分は武田による変更及び付け足し、「民知」は武田の造語

武田康弘










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