思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

アンチカラヤン派のためのカラヤンの聞き方、伝授。  追記・カラヤン談義

2014-10-29 | 学芸

 

 わたしは、高校生(1967~69)の時まではカラヤンが指揮する演奏をLPでよく聞いていましたが、聞き込むにつれ、流麗で演出臭いカラヤン節が「作品への深い理解→了解」を妨げるので、嫌気がさし聞かなくなりました。

 当時、高校のブラスバンドの仲間も、カッコいい演奏だけど、ちゃんと聞いていると白けてくる、というので、不評でした。
 どうも音楽の内容に入り込もうとする主体的な構えを持つ人はカラヤン嫌いで、そこそこクラシック好きの人は支持する、というのが実情でした。ただしレコード批評家はいろいろいで、絶賛派も結構いましたし、今もいるようです。

 先日、所沢のアークホールでゲルギエフの「悲愴」(チャイコフスキー交響曲6番)を聴き感動したのを機に、CDでの聞き比べを白樺教育館の「大学クラス」でやりました。その時の四種類の演奏には、わざとカラヤンのものをいれませんでした。

 カラヤンは、「悲愴」が得意で、7回も録音しています。実に見事な「音響美」を誇ります。快調なテンポで乗りがよい演奏です。音は美しく磨き抜かれています。流麗で、きらびやかで、旋律線は流れるようなレガートでとても気持ちがよく、ウットリです。快感が得られます。「音が楽しい」と書いて音楽ですから、言うことなし!

 冴え冴えとした精神、心からの叫び、慟哭、死との面接、そのような「ダサい」ものはいらないのです。音楽に余計なものを持ち込ませない、いかに聴衆やレコード愛好家が喜ぶか、快感を得るか、気分がよくなるか、高揚するか、それにすべてをかけるカラヤンは、そのイデーを見事なまでに具現化しています。

 聞いているわたしは、固有の私ではなく、「一般的」な聴衆になり、楽しめばよいのです。しかし、それぞれの作品に現れている独自のよさを聴きとろう、とか、その曲がもつ意味や価値を感じ知りたい、というような主体的な構えを持つと、途端に「入り込めなくなる」というのがカラヤンの演奏の特徴です。

 カラヤンの流麗で絢爛豪華な演奏を楽しむコツは、富士急ハイランドのジェットコースターを楽しむのと一緒です。

 スリル満点の遊園地の乗り物を楽しむには、能動性(自分からする)をなくし、身を任せることが必要で、もしも自分でコントロールしようとする(出来ないことをしようとする)と、恐怖感ばかりで少しも面白くありません。バイクやクルマを運転するときは、周囲をよく見、カーブでは腰を使い、身体を倒し(バイクの場合)、ハンドル操作をしなければなりません。能動性が求められるわけですが、その態度のままに富士急ハイランドのジェットコースターに乗れば、恐いだけで楽しいどころではありません。何もしないで、手にも体にも力を入れず、機械に身を任せよう(完全受動で安全につくられた游具なのですから)という心になる。そうすると、とっても面白く楽しく遊べます。

 それと全く同じで、カラヤンの上手な演出に身を任せ、受動態になると「音響美」と「快感」を存分に味わえます。感動ではなく、快感です。

 受動的に生きる、という現代人にはまことによく適合するのがカラヤンの演奏ですので、いまだによく売れるのではないでしょうか(実際のところは知りませんが)。
 
 
人生や事象の意味や価値やを志向し、能動的に生きる人。なにがほんとうかを考え、善美を求めようとする人。裸の自分に向き合い、精神的=思想的自立心をもつ人は、眉をひそめるでしょう。

 ただ、たまには身を任せて、なにも想わずに、音響的快感だけに浸る、という時間があってもよいかもです。精神を用いずに音を楽しむのです。でも、たま~~~~にだけにしたいよな、というのがわたしのホンネです。精神を使わない時間が長くなるとかえって疲れる(苛立つ!)ので。


武田康弘

 

 

  • 光子 清水彼処まで、ハンサムで、格好いいと、文句いいたくありません!
     
  • 武田 康弘ははは、そういう見方もあるんですね。聴き方じゃなくて見方ね。
     
  • 黒田 宗之確かにおっしゃるとおりカラヤンは耽美的品がいい印象でした。真逆なのがギルギエフなのでしょうか?
     
  • 武田 康弘
    黒田さん、
    カラヤンの演奏は、チャイコフスキーに限らず、ワーグナーでもベートーヴェンでもモーツァルトでもみな「快感」をつくりだす(聞く人がいかに酔えるかを考えて演奏をつくる)ものです。
    身も心も任せれば(=受動態になれば)酔えるし、快感がやってきます。
    少し前までの女性が多く支持したのは、カラヤンの顔形や瞑想するような仕草のみならず、「受け身」でいると気持ちよい、という音楽づくりにあると思います。「酔わせるサービス」に素敵!となるわけです。
    でもそれは、音楽の深い「感動」とは異なります。
    音楽に対して、主体性=能動性をもった聴き手は白けます(わたしの音楽仲間でカラヤン党はいません)。
    ゲルギエフは、チャイコフスキーに責任をもった演奏(作曲者の精神を具現化するための努力)をしますので、深い感動が得られます。
    楽譜をよく・面白く読む、というのではなく、楽譜に表されている作曲者の精神を音にしようとします。その点では、マレイ・ペライアと同じです。
    ただし、そのように真正面から曲を受けて解釈すると、どのような名曲でも途中で「退屈」する場面が出ます。作曲者の苦心や心の内の複雑さが現れるからですが、それを避けて流れるような演奏(=誤魔化し)をすると、快を超える感動の世界にはいきません。
    以上は、わたしの見方(主観性の知)ですので、誰にも強要するものではありません(笑)ー念のため。
     
  • Osamu Furubayashiきれいなだけ。魂のない音楽。ああいやだ。
    私のカラヤン評。
    というわけで武田さんのコメントに深く納得(笑)
     
  • 武田 康弘
    古林さん、
    「深み」の世界、「真実」の追求、「魂」の叫び、とは無縁で、
    スマートで、カッコよい「音響美」があります。この美は、善のイデアとは無縁の美と言えます。

    「善」に裏打ちされた美ではなく「美」だけを追求すればよい、「快」が与えられればよい、というのは、現代社会を象徴しているようです。
    ナチス時代に同じくドイツで、リーフェンシュタールのベルリンオリンピックを記録した「オリンピア」における「美」の自己目的化とダブります。
    何のためを問わない「美」がいかに危険かを知らねばなりませんが、どうも20世紀の帝王であったカラヤン美学を論じると、話はどんどん深くなります。
    また、感じ、想い、考えましょう。
     

  • 染谷 裕太タケセンの言う「カラヤンの聞き方」、この間の大学クラスで聞いて本当にそう思いました。意識的に聴きにいこうとすると苛立ちを覚える演奏で、楽しむには身を任せるしかない。聴き方を強制されているようで、それもまた腹立たしい。感動ではなく快感というのも本当にそう思いました。そういったものを求めてないと逆に不快になる(笑)
  • Osamu Furubayashiそうそう、リーフェンシュタールにある怪しい快楽を思い起こさせます。
    魂(善のイデア?)の欠落した美、支配欲を隠し持つ美はおぞましいものです。
    染谷さんのコメント、とても鋭く大いに共感!
  • 武田 康弘
    裕太君の、「そういったもの(快)を求めていないと逆に不快になる」は、名言と思います。

    古林さん、確かに、「支配欲を隠し持つ美」ですよね。
    自己の見方・考えを主張するというのではなく、他者を支配する(酔わせて判断停止に追い込む)ための「美」は、白樺「民芸」の《健康な美》とは逆です。

    話は飛びますが、《自己の見方・考えを主張する》という能動性を嫌い、周囲に合わせる生き方をするのが多くの日本人で(思想の左右も職業の違いもなく)、他者承認に怯えて堂々と生きられない(それが「正しい」かのごとくに)。肩書人は、堂々とではなく、慇懃無礼の威張りで生きる(笑)
    《自己の見方・考えを主張する》ことはしないで、《他者を支配する言動》を磨くことに精を出すので、日本人ほど政治的な国民はいない、と言われる。

    健康で真っ直ぐ、爽やか晴れやか、のびのび楽しい、とはずいぶん違いますし、悲劇のもたらす「カタルシス」とも違います。

    音楽に戻れば、マゼールが面白いのは、臆面もなく堂々と、《自己の見方・考えを主張する》からですし、ゲルギエフが感動的で楽しいのは、作曲家に対して演奏者の【責任】を果たしているからでしょう。《責任を持った上での堂々たる自己主張》でなければ、真の感動は生まれないのですね。

    そういえば、ゲルギエフの実演を聞いている時に、なぜか、サルトルの「浄化的反省」という言葉が思い出さたと書きましたが、【個人の自由と責任の哲学】であるサルトルと通底するのですね。
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空海・真言宗の寺ー火渡りの写真  鎌倉時代の新仏教との違いが分かります。

2014-10-27 | 学芸
今日は、拙宅のとなりの「子の神大黒天」(ねのかみだいこくてん)で、「火渡り」がありました。子の神は、空海がひらいた真言宗の寺で、その年中行事です。

真言宗は、鎌倉時代に起きた仏教改革以前の旧仏教で、最澄の天台宗=「密教」との近親性を持ちます。いま、六本木の『サントリー美術館』では、「高野山の名宝」と銘打って、空海の書や快慶・運慶の彫刻などを展示しています。
※(注)運慶・快慶は、空海の時代からは400年も後の鎌倉時代の仏像彫刻家。
わたしも、15日にサントリーホールでの演奏会(ゲルギエフ・マリインスキー歌劇場管弦楽団によるストラヴィンスキーの三大バレエ曲)の前に寄って見てきました。

自家の隣の寺の行事と重なって、呪術的な臭いの濃い「密教」(最澄にひきづられた空海)をよく感じることが出来ました。わたしの祖父と父は浄土真宗の修行者でしたので、親鸞思想との違いがいかに大きいかを痛感します。時の天皇と一体化した旧仏教と、それにより弾圧(死罪・流罪)された法然・親鸞の他力念仏門の相違が肌で感じられます。

※写真に見られる通り、火渡りの時に僧侶が日本刀による払いの所作をしますが、仏教の僧侶と日本刀との結びつきには驚かされると思います。



写真は、ソニーRX-1R(3枚目は中央部分をトリミングで拡大)

 

追記

竹内芳郎さんは、空海について以下のように書いています。

「空海のおこなったところは、原始宗教と国家宗教と普遍宗教との間の区別と飛躍を一切消し去って、これら三者をけじけなく連結するのっぺらな長提灯ーこれこそ〈天皇制〉を支える固有の宗教表象ーをつくることによって、以後のわが国の信仰のパターンを最深部において決定づけることだったのではないか。
しかもその手法たるや、最も原始的な自然崇拝や呪術信仰を最も高度に洗練された哲学的思弁でもって語るという手のこんだものだっただけに、その強力な包容力から外に逃れることは誰しも容易にできる業ではなかったのではないか、と思われる。
最澄の天台に比して空海の真言は袋小路だったというのは、ほんの外見上のことにすぎず、空海の真の影響力は、表層の宗派なぞ完全に乗り越えて、日本人のすべての宗教表象の深層構造にまでひたひたと沁みわたる態のものだったに相違ない。
事実、空海に対する個人崇拝は、この国であらゆる時代をつうじてまことに異常なものがあり、いまも高野山にのぼってみると、皇族や貴族・将軍・大名の墓から法然・親鸞の墓まで、無縁仏の賽石から宇宙産業の弾道ロケットの塔までぎっしり立ち並び、その無限抱擁性たるやただただ呆れるほかはない。
親鸞の墓を建てたのは、「親鸞仰讃会」の連中らしいが、こんな無節操なことをして己の始祖をよろこばせた気で彼らがいるところに、この国の信仰態度の特質と、それを支えている空海の影響力の程が、如実に示されているわけである。」(「意味への渇き」ちくま書房 312ページ)

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ベルリンフィルホールの隣にホロコースト慰霊碑が完成ーー加害を自覚せぬ国=日本との大きな違い。

2014-10-26 | 学芸


ベルリンフィルハーモニー全景(Wikipediaより)

「東京新聞」



ベルリンフィルホール内部




ベルリンフィルホールを参考にして造られたサントリーホール  

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レンブラント「夜警」 フェルメール「牛乳を注ぐ女」 オランダ絵画にみる民主主義の勝利

2014-10-23 | 学芸

 



レンブラント 「夜警」

2014年10月17日「東京新聞」夕刊

 

下は、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」

フェルメールの静謐で純粋な美。
静かで強い。実に美しい絵画の主題は、ふつうであることが「偉大」な女性たち。王でも貴族でも宗教者でもない。
われわれが目がけるべき民主的な社会を象徴していると言えるでしょう。

対象も描き方も大きく異なる二人の画家、レンブラントとフェルメールは、共にオランダ人で、かつ同時代人。民主制を象徴する見事な美の世界!


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「絶えず平和を志向し、争いや苦しみの芽を摘み取る努力を」 ー美智子さんの「反戦」発言にエールを。

2014-10-21 | 社会批評

皇后という地位にある美智子さん(旧 正田美智子)は、
80歳の誕生日に、宮内記者会の質問に文書で応えましたが、
その内容は、撤退した戦争否定ー平和主義に貫かれ、現安倍政権の政策(スパイ法・集団的自衛権・武器輸出)に対するアンチを明瞭にしたものです。

以下です。

 

「第二次世界大戦では、島々を含む日本本土でも百万人近い人々が亡くなりました。多くの民間船が徴用され、6万に及ぶ船員が亡くなっていることを昭和46年(1972)の観音崎の慰霊祭で知り、その後、陛下と何度かその場所を訪ねました。戦後70年の来年は、大勢の人たちが戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。
 世界のいさかいの多くが、何らかの報復という形をとって繰り返し行われてきた中で、わが国の遺族会が一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けてきたことを尊く思っています。
 遺族の人たちの、つらい体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも、今、平和の恩恵にあずかっている私たちが絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています。」(太字は、武田による)

 

安倍政権をはじめウヨク政治家たちは、苦々しい思いのことでしょう。天皇制を利用して「国体思想=靖国思想=日本的国家主義」を復活させたい人々は、胸中、穏やかではいられません。

 

武田康弘

 

 

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10月18日 所沢アークホールでの最終公演・ゲルギエフ・マリインスキーの「悲愴」  カタルシス!

2014-10-19 | 学芸

 

 昨日の所沢アークホールでの
ゲルギエフとマリインスキー歌劇場管弦楽団の演奏会、

 日本公演最後の曲・チャイコフスキーの「悲愴」は、楽章を追うにつれ、力と輝きを増し、悲しみの美が慟哭のパワーに変貌していく終楽章は、異様なほどの迫力で、強音・強打が胸を打ちます。

 ゲルギエフは、西側のソフィスティケートされた音響美ではなく、「悲愴」のもつ理念美を明晰にし、「打ち震える人間の心が世界を支える起点だ」とでも宣言するかのような愛に満ちた理念世界を音響化したのです。

 
強烈な感動、打ち寄せ打ち返す波のようなカタルシス。なぜか、サルトルの浄化的反省という言葉が想起されます。

 最後の一音が消えて、沈黙が支配しました。誰も拍手できないこの30秒間の「沈黙の音楽」は、震えるような感動をもたらしました。周囲を見ると、多くの女性たちは泣いています。静寂の後、ブラボーと拍手の嵐が収まりません。オーケストラの団員が全員いなくなっても、まだ拍手は続いていました。

 この演奏会の後、驚いたことにサイン会があり、長蛇の列。
おそるべきゲルギエフ、現代のカリスマが、にこやかなギョロ目で若手ピアニストと共にファンサービス。

 わたしは、15日のサントリーホールにつづき連続でゲルギエフとマリインスキー歌劇場管弦楽団の演奏会を体験してしまいました。ただ感動あるのみ。

 


 武田康弘

 

 

追記

昨日(19日)の大学クラスで、「悲愴」の終楽章を聞きました。
以下の四枚のCDです。

 マゼール指揮 クリーブランド管弦楽団(1982年録音)

 まず、クリーブランド管の名技性・完璧な合奏能力を活かした音のよさに魅せられます。
マゼールの天才を如実に感じるのは、音型の微妙な差異まで完全に再現してみせるところです。まるでクリスタルグラスのような透明な輝きの中で、「死」は浄化された美として表されています。現代的な都市における死。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団(現在の名称はマリインスキー・1997年録音)。

  厚く実在感のある響きで、弦も管も表情豊かです。切々と生と死のドラマが描かれ、ラストの死の描写は、深い悲しみとして現わされています。
「死」は《慟哭のパワー》により昇華され、聴く者にカタルシスをもたらす演奏で、とても感動的です。ロシアの大地に眠る。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 小沢征爾指揮 ボストン交響楽団(1986年録音)

 実に丁寧で細やか、繊細でスッキリとした響きで美しい。感傷的な悲しみを表していて涙を誘います。耽美的で純音楽的とも言える演奏ですが、残念なことに、死に向き合うのではなく、親しい人が死んで悲しい、というレベルの表現に留まっています。感情は豊かでもフィロソフィがないのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 クレンペラー指揮 フィルハーモニー管弦楽団(1961年録音)

 フィルハーモニー管の音には、癖のない表現力の強さを感じます。
小沢とは対照的な演奏で、強く、深く、巨大な造形美に圧倒されます。チャイコフスキーのもつメランコリーではなく、人類的なロマン性を感じる演奏です。死は、形而上的な世界として表現され、個人性を超えています。
曲が終わってからの揺り戻しの感動は大きく、感銘度は最高です。ただし、全体を通して聞くと、しなやかさに欠けるため、チャイコフスキーの演奏としては特異ではある。

 

 

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ゲルギエフ マリインスキー歌劇場管弦楽団 昨15日、ストラヴィンスキーの凄演に感激。

2014-10-16 | 学芸

聞いたことのない音楽があった。
驚きのストラヴィンスキーの三大バレエがあった。
昨晩の演奏会は、ゲルギエフの自身のCDとも大きく異なる演奏で、唖然。わたしは、何度も口あんぐり状態。

一曲目は、火の鳥
瞬時で空気が動く。まるで、落雷、地震、津波のような音楽。強い光が射し、輝く。まさに火を噴くような「火の鳥」。終わるや、ブラボーと大拍手、演奏会がおわったかのような様相で、何度も指揮者を呼び出し、ゲルギエフが楽員が立たせるが、なかなか拍手がやまない。

予定とは異なり、ここで20分間の休憩(予定では、2曲目の「ペトルーシュカ」の後に休憩)(クリックで拡大)
  

ペトルーシュカも、繊細微妙な西側のオーケストラとは異なり、ダイナミックで神経質さのない凄演。乗りに乗り、実に楽しい。曲想に合わせて巨体のゲルギエフが3度、ジャンプした! 「本場もの」の強みで、ストラヴィンスキーの強靭さが浮かび上がる、終わるや、またまた拍手喝采で、楽員を立たせる事態に。そして、

最後の「春の祭典」へ。 
出だしの表情たっぷりのファゴットのソロから管楽器が次々と歌い、春のきざしと乙女たちの踊りが始まる、おおおお、信じられないようなスピード!ギネスに挑戦のよう。ハラハラドキドキ。パワフル!快速!全開! 同じコンビ、ゲルギエフとマリインスキー(名称はまだキーロフだったが)による1999年の録音のCDとも大きく異なる。
第二部(いけにえ)に入るや、テンポは落ち着くが、リズムの刻みは強く、カリスマ指揮者の本領ますます発揮。ラストもダメを押すような強音で、激辛。

ゲルギエフは、実演ならではだな~~~~と痛感。体中に力がみなぎる!

やめられない、とまらない。

というわけで、所沢での最終公演のチケット、A席のみ残があり、いまゲット(会場の所沢市民文化センターでは取扱い終了で、チケットぴあーセブンイレブンなどーでのみ購入可)。曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲と交響曲6番「悲愴」。ピアノは、トリフォノフ。

したがって、土曜日の「大学クラス」は、日曜日に変更します。すみません。

 
それにしても、指揮者もオーケストラも実にタフ。10月8日に松戸で始まり、18日の所沢での最終公演まで、休みは13日の一日のみ。
連日移動、松戸→熊本→福岡→大阪→金沢→東京(サントリーホール)→名古屋→東京(NHKホールで楽劇サロメ)→所沢。  演奏と同じで、パワフル集団。

マリインスキー歌劇場管弦楽団(旧称・キーロフ歌劇場管弦楽団)は、フランスの天才作曲家ベルリオーズも指揮したロシアでも最も古いオーケストラの一つだが、ソフィスティケートされず、おおらかで野性味に溢れ、強靭で面白い。自由闊達で実に愉快。楽員が本番中に何やら楽譜を見ながら「私語」も(笑)。コンサートマスターの巨体にも驚かされる。ジプシーバイオリニストのラカトシュのようで、なんと体重をかけて弾く。
ロシアと世界中の人々に勇気と自信を与え続けるカリスマ指揮者・ゲルギエフとのコンビは最高だ。


(サントリーホール。座席は、1階の中より後・19列の中央。)


18時30分の開場で中に入るが、まだリハーサルが終わらず、座席に着けない!
ホールの外で待たされるという貴重な経験(笑)。開演20分前にようやくリハが終わる。


武田康弘

 

 

 

 

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枯葉が浮かんでる。

2014-10-14 | その他

  昨日、玄関を開けたら、枯葉が浮かんでる!

 

 

 クモの糸で、ぶら下がっているのでした。

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LP盤の再生がもたらした「強いコンクリートづくり」  原理を知り、基本に忠実になること。

2014-10-12 | その他

 

 いま、明後日早朝~午前にかけての台風に備えて、外れていた屋上のフェンスの足場をコンクリで補修しましたが、
作業をしていて、ちょうど30年前に自宅を建てた時のことを思い出しました。

 わが家は、大成パルコンのRC造ですが、実は、建てる時に営業担当者と現場の責任者に話をし、基礎コンクリートの配合比を変えてもらったのです。
大成建設の説明では、気泡を含むパルコン板は通常のRCより多少軽く、かつ二階建ということもあり、基礎のコンクリート配合比は、1対3対6(セメント、砂、砂利・180㎏基礎)とのことでしたが、
わたしは、もう一ランク上げて1対2対4(210㎏基礎)にしてもらい、かつ、砂と砂利を吟味して(海砂・海砂利などは論外)わたしの知り合いの建材屋から購入、さらに、よくかき混ぜてから(コンクリミキサー車での攪拌時間を延長)使用してもらいました。

 

 なぜ、そうしたかと言うと、学生の時(1970年ころ)、LP盤を再生するプレーヤーの振動による音質劣化を抑えるためにコンクリートの箱をつくりましたが(後で、砂を充填したボックスに変更)、その時の失敗による経験で、強いコンクリートの作り方を学んでいたからです。

用途にあった適切な配合比率水分を適正にすること、よい砂と砂利(塩分は大敵)、よくかき混ぜること、
この条件を満たさずに気を抜いてコンクリートをつくると、脆く、ぶつけるとヒビが入ります。見た目も汚いので「手抜き」はすぐ分かります。

恐ろしいのは、標準よりも水を20パーセント増すと、コンクリートの強度は50パ-セント(半分!)に低下するので、現場での作業のし易さから水を増やすと、構造計算など何の意味もなくなることです。そういうビルはたくさんあるでしょう。型枠に流すのに、標準の水量だとかなり固めですから、曲がったところは流し込みにくく、水を増してしまいがち。

 

 大成パルコンは壁式一体構造で、壁板は「工場生産」ですからよいですが、一番大切な基礎は「現場打ち」になるわけですから、基礎を十分に考慮したのです。出来上がった基礎を見て、大成の関係者も美しいコンクリートの地肌に納得(パルコン事業部の副社長も見に来て、他の現場とは違うと認識)し、その後のパルコンは、コンクリートの配合比を210kg基礎に変更したとのことでした。30年前のことです。

 この経験は、のちに『白樺文学館』(地下室もあり曲面をもつRC造)や『白樺教育館』(パルコンRC造)を建てるときに大いに役立ちました。文学館の建設では、一級建築士たちも総出で、朝からコンクリート流し込みに立会い、作業を手伝いました。強いコンクリートをつくる条件を愚直に守ってつくった建物は美しく、建築士たちもその出来栄えに、う~~ん、なるほど違う!!と唸ったのでした。現場を知らずに図面だけ、デザインだけの建築士ではいけません!

 

 何事も原理を知り、基本に忠実でないと。それがないと今の政治のように滅茶苦茶になります。
子育て、教育も大元を知らないと、情報に踊らされ、ダメ人間を量産していまいます。東大病は恐ろしい精神の病。

 

武田康弘

 

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『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!』が佳境に  かもがわ出版社長

2014-10-11 | 書評

 7月に元自衛官(防空ミサイル部隊所属)の泥 憲和さん(本名)の街頭演説をこのblogでシェアしたところ、
Facebookからの「いいね!」を現在までに12万件頂きました。とても感謝です。

 その泥さんの本が今月末ころに発売予定ですが、その件について出版社(鴨川出版)の社長がblogを出していますので、
以下にシェアします。

とても楽しみです。発売時にわたしの手元にも届きますので、その時にまたご紹介します。

 

 

『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!が佳境に

2014年10月1日

 

 覚えておられるでしょうか。7月15日付で、「泥憲和さんの本の出版へご協力をお願いします」という記事を書きました。

 元自衛官の泥さん(本名ですよ)、これまでも護憲とかヘイトスピーチ反対などの分野で活躍されてきました。6月でしたでしょうか、集団的自衛権に反対する街頭演説の内容をフェイスブックにアップしたら、瞬く間に2万4000もシェアされるという驚異的な反響を呼び起こしました。

 その泥さんの本をつくろうという話が急速にまとまりました。でも、まったく無名だった泥さんの本をつくるって、売れ行きのことを考えると、出版社としてはすごく勇気がいるんですよね。

 そこで、池田香代子さん、池辺晋一郎さん、伊勢崎賢治さん、伊藤真さん、羽柴修さん、柳澤協二さんに呼びかけ人になってもらい、資金協力を呼びかけたとのです。それが、7月の記事の内容でした。

 すごいんですよ。呼びかけにこたえて、200人もの方がカンパを出してくれました。120万円も集まったんです。昨日、自分も資金協力したいという方から電話がありました。もう期限が来たのでお断りしたんですが、そうしたら、「じゃあ、20冊買いますので予約させてください」ということでした。

 元自衛官ということとか、安倍さんを何とかしたいという気持ちが高まっていることとか、いろいろな要素が合流して、こういう結果になったんでしょうね。出版の新しい可能性を生みだすんじゃないかと期待しています。
  
  とはいえ、まず本をつくろうという決定が先行して、実際の本づくりは、それと平行した作業なんですよ。いくら泥さんに執筆する力があるとはいえ、本にするだけのものをつくるって、そう簡単ではありません。毎週の講演会をこなしながら、いろんな方の協力もえつつ、がんばって書いていただき、ようやく昨日、書き上げてもらいました。

 普通だったら、原稿をもらってから、ゲラを出すまで、一カ月はかかりますよね。どんなに急いでも1週間です。でも、この本、9月末に出すと予告したので、いくらなんでも10月中には出さないといけません。

 ということで、本日、あらゆる力を総動員して、ゲラづくりの最中です。10月末には完成すると思います。

 反響が大きいので、特別に、弊社のホームページで「予約注文」できるようにしました。ご期待ください。

 

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社会、公共を考えるための基盤は何か。「私」の抱く善美

2014-10-10 | 恋知(哲学)

外から見れば「立派な社会人」、
でも、内側=精神世界は、幼児的なわがままの延長に過ぎない独我論、
周囲にうまく合わせるに過ぎない独我論の形成者は、外から見れば「立派な人」。

残念ながら、日本はどうもこんなふう。ここから抜け出せない。

 

エゴイズトを批判する人は、「国家エゴイズト」=愛国主義者。
わが国は、《個人エゴ》と《国家エゴ》の間を行ったり来たりですが、この二つは一つメダルの裏表で、実は同じもの。

戦後の民主主義(普遍的なよきものを追求しない私的エゴ)と
戦前の国体主義(皇族は神の系譜=天皇現人神という国家エゴ)の往復では、どうしようもありません。

 「私」のわがままを否定して「愛国主義者」になるのでは、公共人はなれず、国家主義者に陥ります。

 公共人となり公共世界を拓くには、
「私」のわがまま、 (個人エゴ)
「仲間」のわがまま (仲間エゴ)
「家族」のわがまま (家族エゴ)
「組織」のわがまま (組織エゴ)
「国家」のわがまま (国家エゴ)を超えなければなりませんが、そのための基本条件はなんでしょう。

皆が言うからという「一般的なよい」につくこと、
私の考えは絶対とか神の言葉は絶対だとする「絶対的なよい」につくこと、
ではなく、
腑に落ちる=深い納得がもたらされる「普遍的なよい」につくことでしょう。

 

「私」のわがままを肯定するのではなく、
「私」の抱く善美を肯定するのがほんとうの生き方。人間のよき生=恋知の生。

 「私」の抱く善美をしっかり肯定すると、善美の内実は、だんだんと豊かになります。善美という座標軸は、より確かなものになっていきます。
自他の納得がえられる「普遍的なよい」をつくるには、「私」の抱く善美を肯定することが基本条件です。それなくしては、何もはじまりません。まだ、はじまっていないかな?(笑・困)

 繰り返しますが、
「私」のわがままを肯定するのではなく、
「私」の抱く善美を肯定するのがほんとうの生き方。人間のよき生=恋知の生。



武田康弘

 

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白樺教育館 明日(水)は、「恋知の会」(2014年度後期開始)

2014-10-07 | 学芸
 
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明日は、「恋知の会」です。
いつも通り、午後1時開場、1時30分開始。4時まで。

日本の「戦前思想の本質」について考えます。
問題の本質を抉り、明確な指針を出すには、体験談や、単なる社会科学的分析(事実学)だけではまったく不十分です。
思想的・哲学的な次元の探求、事実につく分析とそこからの上向による総合的な全体知(=恋知)が必須です。


飛び入り参加も歓迎です。一回参加の参加費(授業料)は2000円です。

白樺教育館(クリック)

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戦前思想を強要する「靖国神社に恐怖を覚える」   原告代表  関 千枝子さん。

2014-10-05 | 社会批評


安倍首相の靖国神社参拝は、憲法違反ですが(小泉首相のとき違憲判決が確定)、

再び訴訟が始まり、原告代表の関 千枝子さん(82歳)は、以下のように述べました(東京新聞 9月29日(月)朝刊26面から抜粋編集)。

 

「わたし(関 千枝子)は、この訴訟を英霊本人による異議申し立てだと思っている。わたしも学校を休んでいなければ、間違いなく『靖国の神』になっていた。」
(広島第二高等学校の級友らは、広島市役所裏での建物の強制取り壊し作業に動員され、その時被ばく。現場にいた39人のうち38人が命を奪われた。関さんは病気で学校を休んでいた)

 毎日新聞、女性誌の記者だった関千枝子さんは、亡くなった級友たちが63年に『靖国』に合祀された事実を70年代になり知り、
「嫌だった。合祀されていたら、わたしは、社(やしろ)から出してくれ、と泣いていたと思う。」それは、「原爆で悲惨な死を遂げた少年少女が、なぜ『戦の神』なのか」といった疑問や靖国神社自体に対する拒否感から来ている。

「戦時中は、戦争をすれば、強く豊かになれると信じていた。相手国の人にも多大な苦しみを与えていることなど、考えたこともなかった。」

「戦後は国のあり方を改め、戦争はしないと肝に銘じたはずだ。それなのに靖国神社は、あの戦争を『聖戦』とし、嫌だと思う人の合祀取り下げも認めない。戦前の軍国主義の日本と同じ思想をもつ靖国神社に、わたしは恐怖を覚えている。

 

 福岡地裁、大阪高裁では、小泉首相の靖国参拝に「違憲」の判決が出て確定している。

 安倍首相の違憲判決を知りながらの参拝は、憲法が定める政教分離への敵視だ。政教分離は国家神道の否定であり、憲法九条と表裏をなす平和思想だ。」

 「現在の動きは、戦前の軍国主義や『強い日本』の再現を目指しており、平和的生存権に違反している。その縮図が靖国神社だ。わたしたちは、あの戦争の惨禍から、絶対平和、基本的人権、国民主権の憲法を持った。首相の違憲行為を絶対に許せない。」(関 千枝子)


 

 ※ 「靖国神社とは、神社ですらありません」 をご参照ください。

武田康弘

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泥さんによる『集団的自衛権と憲法9条の輝き』 古林 治    安倍首相らウヨクはお終いじゃ。

2014-10-05 | 学芸

《泥さんによる『集団的自衛権と憲法9条の輝き』》 古林 治

 

昨日(10月4日)、四谷で第三回 デモクラシーワークショップがあり、
 生の泥さんとその声を拝見・拝聴。

改めて、泥さんの貴重な実体験とその体験に根差した洞察力・理念・構想力を肌で感じることができた。
これ、いわゆるエリート、インテリにはなかなか見いだせない力。
 聞いていて快感を覚えた。
じっくり話をしたかったけれど、時間もなく早々退散。

この魅力的な泥さんのお話は、近々出版される泥さんの著作、【安倍首相から「日本」を取り戻せ  護憲派の軍事・政治戦略】にも書かれているので参照のこと。
つよ~く推薦しますよ。
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/a/0720.html

 

昨夜の泥さんのお話の一片を紹介する。
これまでは、
○戦争を起こさせない自衛隊
○国連の理念である【戦争の違法化】に協力する自衛隊
であった。
 歴史的にみると、紛争を収めることができた例は3つだけある。
シエラレオネ、ネパール、アフガニスタン(アフガンは後日、米国介入で再び混乱)
いずれも、日本が紛争解決に平和的にかかわってきた国。
 戦争をしない日本という国への信頼、経済的発展に地道な努力を惜しまぬ日本。それがこれまで武力によって解決できたためしのない平和という宝をもたらしたのである。
 集団的自衛権行使によって、この国の【平和をもたらす力】は失うことになるのだ。

 

具体の話も少しだけ。

 中国脅威論が意図的に作られている例を3つほど。

 1.中国海軍レーダー照射事件

   昨年、中国海軍が海上自衛隊の護衛艦に向けて射撃管制用レーダーを照射した。
   これは極めて危険な行為。次は実弾の可能性大だから。
   が、その前に、安倍首相は次の指示を出していた。
   「28km離れて監視していたこれまでのやり方を変え、中国船に3kmまで接近せよ.」と。
   3kmまで接近された中国海軍。緊張関係にある軍艦の最接近を目の前にパニック状態?
   きわめて不快なことをされた対抗として射撃管制用レーダーを照射。
   これが実態。さあ、一体どっちが挑発したのだ?


 2.無害通航権

   中国船の繰り返される領海侵犯(メディアは侵入と書く)について。
   空と陸は別にして、古くからある慣習として洋上では無害通航権として領海内を通航する権利をどの国の船でも持っている。そこで漁をしたり測量したり、無用に長居しない限り、問題はないのだ。
 
あたかも不法に領海侵犯しているかのような報道が繰り返される。メディアはこの事実を知っているはずだが、はて?


 3.戦闘機の異常接近

   中国戦闘機が異常接近!と大騒ぎしているが、世界中、どの国であろうが、他国の航空機が近付いたときには緊急発進し、ぎりぎりまで接近する。中国機が近付けば航空自衛隊も同じことをする。これが世界の慣行である。一体何を騒ぐのか?これも意図的?

以上。

以下の本、買ってね。
 【安倍首相から「日本」を取り戻せ  護憲派の軍事・政治戦略】

最後にもう一つおまけ。明るく楽しい大行進、と思うよ。

【差別のない世界を、子供たちへ。 東京大行進 2014 Tokyo No Hate】
11月2日12時集合 12時30分出発 新宿中央公園 水の広場
 主催:TOKYO NO HATE
http://tokyodiversity.org/2014/

 

コメント (1)
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天才を超えるのは存在の大きさ。 マゼールとクレンペラー (写真は、部屋の定点撮影)

2014-10-03 | その他

 いま、クレンペラーの指揮するストラヴィンスキーの三楽章の交響曲をはじめとする20世紀音楽を聞きながら、
う~~ん、天才の上の世界があるんだなーーと改めて感じていました。今年死去した天才指揮者のマゼール、でも、クレンペラーの前では小さいのです。

 《存在の大きさは、天才を超える》のだな。いくら才能があっても「存在」の豊かさ・魅力にはかなわないというわけだ。

 ボーっと、そんなことを思いながら、テーブルの上のカメラを手に取って、寝っころがりながら、何気に部屋を見回し定点撮影してみました。

     
(クリックで拡大)



武田康弘

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