思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

北朝鮮への先制攻撃が可能!?!?

2009-05-27 | 社会思想
「あまりに非常識な麻生総理の見解!」、思わずそう叫びたくなるような話ですね。

これでは、「危険が及びそうだから」という理由でいつでも戦争をすることが可能になってしまいます。

こんな突拍子もない見解を述べるとは、ただ呆れるばかりなり、です。

北朝鮮の挑発に乗って、攻撃を受けてもいないのにこちらから攻撃を仕掛けたら、北朝鮮の思う壺でしょう。

先制攻撃など19世紀までの遺物であり、今日このような主張をするとは、すでに審判が下ったブッシュ前アメリカ大統領と同じ発想でしかありません。

その場の感情だけで「おしゃべり」する首相では危険極まりない、と言う他ありません。これではマンガの世界です。

理性ある政治家=人間を求む、とだけ言っておきましょう。


武田康弘

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新しい倫理のためにーまず、民主的のイメージいろいろ

2009-05-25 | 恋知(哲学)
一昨日の土曜日、白樺教育館ソクラテス教室の高校・大学クラスでは、
儒教に代表される封建的倫理・道徳ではなく、
民主的な倫理・道徳をみなでつくるための授業を始めました。


参加者はそれぞれメモを書きましたが、以下はわたしのメモです。


民主的倫理をつくるために------

まず民主的のイメージ


広がる。  固まらない。
しなやか、伸びやか。  窮屈でない。
柔軟。  強張っていない。厳禁の精神とは対極。
楽しい。  無味乾燥ではない。
優しく、生命愛に満ちる。  機械的でない。
豊かな強さを持つ。  荒っぽくない・粗野でない。
明るい。  陰鬱でない。
前向き、未来的、現在の充実。  過去、業績、履歴に拘わらない。
健全で健康。  病的、デカダンスでない。
肯定的。  後ろ向きで否定的でない。
平等、対等。  上位下達ではなくネット型、差別的でない。
自由。  既存の権威や制度に縛られない。
臨機応変、当意即妙の精神。  型はまりの紋切り型でない。
表情豊かで、にこやか。  単調、渋面ではない。
開かれている。  閉鎖的でない。
創意工夫。  マニュアル通り、形式的ではない。
自己決定と自己責任。  命令、強要ではない。
個性的。  集団主義ではない。
共働的。  単独主義ではない。
公共的。  自我主義ではない。
リーダーシップの発揮。  独断的ではない。
納得をつくる。  従わせるのではない。
自分の頭で考える。  パターン・公式代入ではない。
実存からの出発。  集団からの出発ではない。
自他への配慮、博愛。  単なる自己主張ではない。
協調的、人の話を聞く。  自分勝手ではない。
主観性の知を深め広げる。  客観主義に呪縛されていない。
自然性。  既存の人為性に囚われない。
現実を踏まえたロマン性。  冷嘲的な現実主義ではなく、ロマン主義でもない。
生活世界の「用の美」。  華美や、贅沢趣味、成金趣味ではない。 

 
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能動的な批判精神が歓迎されないと、人も社会も朽ちていきます。

2009-05-24 | 恋知(哲学)
社会システム・社会構造への批判を避け、既成の枠組みに従うだけの「おりこうさん」(=弱々しい優等生)が多数を占めれば、社会は元から腐っていきます。
批判精神をもつこと、既存の枠組みや権威を無批判的に受け入れないこと、
これは人間社会の健全な発展にはなくてはならぬものです。
既成の秩序に挑戦し、新たな世界を切り開く営みが「励まさ」れなければ、個人から立ち昇るパワーは生じません。
主体性・能動性を生みだす言動を歓迎し、新たな世界を生むための批判精神を称揚する文化をつくらないと、わたしたちの社会は生きるエロースに乏しい「死んだ社会」に陥っていきます。

「一般性」に埋没せず、「私」からはじまる「普遍性」をめがける精神を育てること。主体的・能動的な精神を生むこと。批判精神の重要性を自覚すること。それが大人の責任・義務のはずです。

文部科学省をはじめとする官僚たちは、今までそれとは真逆の発想で仕事をしてきましたが、それは人間と社会に対する恐るべき「犯罪行為」というほかありません。その結果、現代の日本は「受動性」の人々で満ちる国になり下がっていまいまいした。猛省を促します。批判する者を排除したり、取り締まったりする国に明るい未来はないのです。「正しい反抗」を育てなければ、社会・国はエネルギーを失い、内部から朽ちていきます。

以上は、人間社会=文化の原理なのです。しっかり自覚しようではありませんか。


武田康弘

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裁判員制度のウソー意図的な詐術

2009-05-22 | 社会思想
裁判員制度が始まりました。
以下は、わたしが一年前(2008.5.17)に書いたブログですが、いま見ても全く「正しい」指摘だったと思います。みなさんのご意見・ご感想をお待ちします。

行政権力による詐術ー2008-05-17 10:05:00ー社会思想
(行政権力に引きずられた司法権力)

市民が裁判を行う裁判員制度は、民主主義の理念の具現化=現実化ですが、
これから導入される日本の裁判員制度は、マヤカシというよりも意図的な詐術です。
市民が裁判に関わるほんらいの意味は、行政権力(官の問題)を市民の【常識】に照らして裁くところにあるはずですが、今回の裁判員制度は、刑事裁判にのみに限定されています。

刑事事件(強盗・殺人・強姦 などの個人犯罪)の量刑を決めるのに市民が関与する意味は希薄だと言わざるを得ません。【個人のおぞましさ】を裁判に関わる市民はイヤというほど見せられるわけですが、ほんとうは、個人の持つおぞましさ・悪に比べて、【行政権力が犯す罪】は、桁違いのものです。

【個人の悪】の生々しい提示は、【行政権力の悪】(=検察に悪だと決められたら無実でもまず逃れられないのが現状で、その実態は最近刊行された『冤罪ファイル』に詳しいですが、国連から日本政府に対して改善命令がでる理由がよく分かりますー戦慄!)から目を逸らさせる役割を果たすことになります。

行政権力は、酷い「悪」(例えば薬害で亡くなった方がどれほどか))をなしても裁かれません(行政マンの個人的なハレンチ罪以外は)。冤罪をつくった検事も罪を問われないのです。

このような【民主主義の暗部】(官の絶対化・行政権力の肥大化)を改善するのが、ほんらい裁判員制度の一番の意味なのですが、そこには全く市民を関与させません。刑事事件=個人がどれほど恐ろしいことをするかを生々しく見せることで、【ほんとうの問題】から目をそらさせること、そこに裁判員制度の狙いがある、そう断じても間違いないと思います。形は民主主義の発展、中身は行政による民の支配の拡大。

個人は悪をなす、したがって、行政権力による指導と取り締まりと厳罰化が必要だ。取り締まる側である行政権力は正義だ!?というわけですが、これほどの欺瞞はありません。極めて恐ろしいことです。

【民主主義の原理】の確認がいま何より大切です。あらゆる問題を【詐術・騙しで乗り切る】わが国の現実を変えることは、ふつうの市民みなの得を生みます。真実を生む仕組みをつくることが何よりも求められるのです。

武田康弘
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以下は、mixi内のコメントです。


ヨッシー 2009年05月23日 06:24 タケセンさん

 この制度は、司法権の拡大というべきことと思えます。市民の権利を剥奪することも辞さないという感じではないですかね。

 しかも世論を市民のアリバイと共に利用するという魂胆です。

 許し難い制度です。

 ではでは  
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ざらすとろ 2009年05月23日 13:37

国家が何をしようとも国家は常に正しいということらしいです。
それに対する批判は存在しないものとして扱われる。
「貴様、帝国陸軍を愚弄する気か!!」ということらしい。

明仁が権力を持ってようと、どうであろうと、
これが近代日本という社会のエートスなんでしょう。

日本の司法なんかどうせ最初から終わっているのですが、
衆愚政治の行き着いた最終形態としては非常に興味深いです。
暗黒裁判という言うか、早い話がリンチです。
リンチが正当化されるというのが何とも素晴らしい!!

いつ冤罪にされるか分かったものではない。
こんな国ウンザリ・・・
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タケセン(武田康弘) 2009年05月25日 23:37

ヨッシーさん
「司法権力」は、日本では、「行政権力」の内でコントロールされ、行政の司法担当が、司法権も牛耳っているので、今回の裁判員制度も延長・肥大化した行政権力の拡大なのです。日本では三権分立が極めて不十分で、行政=霞が関が圧倒的な力をもち、民主主義を危うくしています。「行政官僚独裁国家」とさえ言われるゆえんです。したがって、いま国会(参議院)の「行政監視委員会」がその仕事の本質を見据えて、恒常的な行政監視をしようとしているのは、本来は当然の仕事ですが、画期的な「事件」と言えます。



タケセン(武田康弘) 2009年05月25日 23:50

ザラストロさん
民主制国家は、ほんらい主権者は国民であり、わたしたちがお金を出し合って国家をつくっているわけですから、主権者がつくる公論(一般意思)に従って代議者と官僚は行動してもらわなければ困ります。
天皇主権の下での特権官僚の意識が抜けず、自分たちを国民に仕えるサービスマンではなく、国民=主権者の上に立つ「エリート」と思っているようでは、民主主義は永久に現実のものとはなりません。
わたしたち国民=自立した市民がきちんともの申す「自由民権」の運動が必要だと思っています。政権交代はそのための「はじめの一歩」ですね。



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【ルソー・ルネサンス】の条件が整ったー中山元氏の新訳は強力な推進役

2009-05-21 | 書評

わたしは、30年以上に渡って「民主主義」を哲学することとその実践を続けてきましたが、いうまでもなく「主権在民」の思想と哲学の基盤をつくった最大の人物はスイス・ジュネーブ生まれのルソーであり、フランス革命を導いた高名な著書は『社会契約論』です。

その見事な新訳が、『ジュネーブ草稿』の初の全訳と一冊になって「光文社文庫」から昨年9月に出版されました。さらに、同じ中山元さんの訳で、『人間不平等起源論』も8月に出ています。

大変分明な中山さんの解説もついていますので、「近代民主主義とは何か」をしっかり学ぶにはよい環境が整ったと言えます。

混迷する現代社会の問題を解決するには、民主主義の本質を自覚し、それを実現するための条件を探り整備すること以外にはありません。わたしは、参議院でのディスカッション(2008年1月)でも、行政監視委員会調査室から依頼されたキャリアシステム批判の論文(2008年11月)でも主権在民の「民主主義」を思想的な土台としましたが、ルソーの社会思想はその最も優れた近代の古典なのです。

いま「ルソー・ルネサンス」が必要ではないのか。中山さんの新訳は、その強力な推進役になってくれます。読みやすい活字の廉価な文庫本ですので、とてもお勧めです。

武田康弘

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白樺文学館・誕生秘話

2009-05-20 | その他
『白樺文学館』が4月1日より我孫子市の管理になりましたので、白樺文学館・創成記というホームページを新設し、「誕生秘話」をシリーズで発表しています。当時の写真と共に事実とその意味を平明に記載しています。ぜひご覧ください。

武田康弘


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他者愛と自己愛

2009-05-18 | 恋知(哲学)
「私」がよろこばしい気持ちでいられるのは、どんな時でしょうか。
私が私の心身に拘(こだわ)っているときは、私に充実やよろこびがきません。
私が、よいものや美しいものに憧れ、それを想っているときに、私は満たされます。
私は、私を目がけるのではなく、よき「他者」を想うとき、はじめて私はよろこびを得ます。この場合の他者とは、他人(人間)だけを指すのでなく、動物や自然であり、また、人間がつくり出した事物=建造物や生活用品、音楽・美術・文学作品なども含みます。
私が私を愛するとは、よき他者、美しき他者への憧れや愛をもっている私を愛するということであり、私の心身だけに意識が向かえば、私によろこびー幸福が来ることはありません。
私だけのよろこびを考えて生きている人は、どこまでいっても不幸です。他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない、これは簡明な真実です。

武田康弘
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以下は、白樺MLに寄せられた古林治さんのコメントです。


保守的な人たちは、自由にさせれば人は好き勝手やるような存在なのだといいます。
【私】とはエゴそのものだというわけです。
さまざまな学者グループの方もみな同様の解釈みたいです(=私の心身にこだわる【私】)。

一方、フツーに暮らす人々にとって下記の指摘は確かに自明かもしれません。
『他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない』なぜなら日常的にそのように生き、その実体験が思想として内面化されているからです。
ところが、そうした日々の小さな【よろこび】を得る実体験を持たない人々にとっては、この簡明な
真実は、きわめて難解なものとなるでしょう。実体験無しの、言語上の思考のみで導き出せる
発想ではないからです。
この問題、学者さんたちをはじめとするインテリだけの問題として片付けてしまうこともできますが、
昨今の教育を見ると、ことはきわめて深刻です。
幼い頃より詰め込み教育と競争にさらされて育つ子供が増える一方ですから、日常的な体験から
『他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない』という自明の感覚、論理が育つ
素地はなくなります。子供たちの【私】もまた【他者を押しのけるエゴそのもの】になっていくほか
なくなるのです。
【私だけのよろこびを考えて生きている人は、どこまでいっても不幸です。】
不幸な人間の再生産を繰り返す愚を何とかしないといけません。
改めて、教育問題の深刻さ、重要性を感じました。





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新総理の誕生を望む

2009-05-17 | 日記

政権交代は、民主主義の大原則です。
あまりにも長い、気が遠くなるほど長い自民党中心の政府が続いてきましたが、
わが国が民主主義国家としての健全さを保つには、政権交代が不可欠であり、これは論を俟たないと思います。
次期衆議院選挙には、無党派層だけでなく、今まで自民党を支持してきた方も、民主党に投票すべきだと思います。
わたしは、民主党支持者ではありませんが、官僚主義の弊害を減らすためには政権を交代させることが必要ですので、次回の選挙は民主党に投票しようと思います。
鳩山新総理の誕生を望みます。

武田康弘
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小沢城陥落?民主党は天敵―霞が関のキャリア官僚たち・東京新聞

2009-05-13 | 日記
民主党復活を怖がるキャリア官僚たちの実態が、今朝の東京新聞・「こちら特報部」に大きく紹介されています。

外国人ジャーナリストから「キャリア官僚による独裁国家」呼ばれているわが日本は、「東大病による主観を消去するシステム」により運営されてきました(それについてはわたしの参議院発行「立法と調査」の論文21を参照してください。21・武田康弘)。

先ごろも、検察官僚による【官僚の集団無意識】とでも呼ぶべき力は、小沢一郎の第一秘書逮捕という前例のない事態を生み、「小沢城、落城」を成しました。

ところが、その『「小沢城、落城」。11日の小沢一郎・民主党代表辞意表明に戸惑っている人々がいる。民主党を天敵とみなし、小沢氏の秘書逮捕以来のドタバタにほくそ笑んでいた霞が関の官僚たちだ。』(東京新聞)として、「官僚が民主党を怖がる6つの理由」が二面にわたって紹介されています。「官僚主導政治の元で、自公政権を手玉にとってきた霞が関」は、ミスター年金=長妻議員に「火だるまにされた」厚生労働省に代表されるように、「うらみ骨髄」だとのこと。それは、煮え湯を飲まされてきた法務省、外務省、検察庁、警察庁も同じとのことです。「民主党政権になれば、震え上がるのは霞が関官僚だ」で結ばれていますが、内容については、東京新聞をご覧ください。

デスクメモには、「(小沢辞任=新代表選出で一番傷ついたのは、)政局を混乱させないことが伝統だった検察と、敵失を享受していた政府与党だ。」と書かれています。
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社会契約論,ジュネーヴ草稿 -中山元訳(光文社古典新訳文庫)

2009-05-10 | 書評

社会契約論,ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)
ルソー著 中山元訳


中山元さんの新訳はとてもよいです。初めて「ふつうの日本語」として読める訳が出た!とわたしは大喜びしています。
民主主義の原理を考えるための必読本ですが、平面的思考の「学者」たちが愚かな誤読を重ねた書としても有名です。
ルソーは文学者で作曲もし、フランス古典派の大御所ラモーとの論争は有名です。芸術家ルソーの豊富なレトリックを解さず、表層の字面に振り回されるのでは、書物を読む基本が出来ていない!としか言えませんよね。
この近代最高の古典の一つがとても分明な訳と見やすい活字になり、さらに初の「ジュネーブ草稿」全訳まで付いて980円は安過ぎです!(笑)。
皆さん、ぜひ買い直して再読を。

武田康弘


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白樺文学館・誕生秘話(2)ブレイクの版画

2009-05-02 | その他
柳宗悦夫人・兼子さんによると、宗悦は晩年になっても、ブレイクの詩を寝言(英語)で呟いていたとのことですが、そこからも分かるように、柳は、詩と絵画(石版画)を融合させた大胆なまでに自由な幻視者であったウイリアム・ブレイクを生涯愛し続けたのです。

当時は、本国のイギリスでもブレイクについての研究は「危険」なことであり、ブレイク賛美など出来る状況にはありませんでした。性とキリストに対する自由な見方は、異端であり、ブレイクは危険人物、ないし狂人とされていたからです。

そのような状況の中で、1914年、柳は我孫子に来てすぐに『ウイリアム・ブレイク』を発表しましたが、この弱冠25歳の若者によって書かれた大著(778ページ)は、後に、世界水準を抜くブレイク論として高く評価されることになりました。

「創造の地―我孫子」というコンセプトの下につくる『白樺文学館』においては、我孫子白樺村の最初の来訪者(※注)であった若き柳宗悦の心を占め(ブレイクが柳か、柳がブレイクか、とまで評されもした。)また、生涯にわたって伴侶であり続けたブレイクを提示することは必須のことです。そこで、わたしは文学館をつくるとき、ブレイクの石版画を探し歩いたのですが、偶然にも2000年春の神田の古書祭りで、驚くほど安価にブレイクの版画集を入手することができました。その版画集(WATER‐COLOUR DESIGNS FOR THE POEMS OF THOMAS GRAY)は、100枚を超えるものですが、そこから一つの章12枚を選び、額装し(柏市のいしど画材店に依頼)、文学館の玄関ホールに飾ったのです。建築会議で建築士たちに版画を見せ、文学館の玄関ホールの壁の仕上げと色は、いぶし銀の額に収めたブレイクの版画に合うように決めたのでした。

ところが、わたしが館長を辞した後、ブレイクの版画は外され、この壁面には竹久夢二(大正ロマン主義の象徴)の絵が数枚飾られることになりました。いまは、白樺派の面々が写った特大の写真パネルが飾られていますが、どちらにせよ、これでは白樺派の魂―精神を見せることにはなりません。内的意味の希薄な「文化」は現代に生きる力を持たず、ただの飾り物に過ぎない、そう言う他ないのです。とても残念です。

日本人画家の絵を展示するならば、白樺同人の南薫造か有島生馬、また著名な画家では白樺派と密接な関係にあった岸田劉生か梅原龍三郎、棟方志功のものとすべきです。もし竹久夢二の絵を展示するならば、大衆的な人気を得、生馬が追悼の辞を述べた画家ということで、参考として一枚、それが良識というものでしょう。現在の「白樺文学館」のように、一室全部を夢二の絵で飾るというのは、元・オーナーであった佐野力さんの個人的な趣味に過ぎず、普遍性を持ちませんし、公共性にも欠けます。


(※注)柳が、我孫子に志賀を呼び(柳が地元の飯泉賢二さんに頼んで土地の世話までした)武者を呼び、リーチを呼んだ(柳家の一部を提供し庭に窯もつくらせた)のです。

写真は、2001年春、開館当時の文学館ホール(ブレイクの版画)


武田康弘
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