思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

なぜ日本では自分で考え・話す教育がなされて来なかったのですか?-への返信

2006-08-31 | メール・往復書簡

以下は、昨日のブログに対する「ミクシィ」内からのコメントです。




先生、質問ばかりで申し訳ないのですが、また質問させていただいてよろしいでしょうか?

何故日本では自分で考え・話す教育がなされて来なかったのでしょうか? 考えない国民の方が統治しやすいからでしょうか? 自分で考えさせる教育は時間がかかる教育だからでしょうか?

また何故、今、ナショナリズムの必要性が語られ始めているのでしょうか?単なる安倍晋三氏の意見だけではなく、ナショナリズムの動きがネットでも見られるような気がするんですが、何故この最近多いのか、私にはよく分からないのです。特に理由は無いのでしょうか。

どうぞよろしくお願いします。

------------------------------------------------

2006年08月30日
21:22
タケセン

Tさん、お元気ですか?

大問題ですから、大雑把に書くしかありませんが。
?江戸徳川幕府による統一の少し前に、戦乱の続く中で、武将への盲従を説く規範が示され、物事の判断に自己の知力を使うのは邪悪の根源であり、上位者に仕えてこそ個人の生は価値あるものと言われました。この封建時代の思想は、「国学」運動(国文の古典の解釈)から明治の国粋主義へと受け継がれましたが、政治・社会の秩序も自然法則と同じものとされて、上位者の決定を合理的に批判する道は閉ざされてしまったのです。
明治の自由民権運動は、これとは異なる近代的な人間・社会像を示しましたが、山県有朋らの頑迷な保守派(天皇親政)はこれを根絶やしにするために、教育現場を押さえ、天皇崇拝と事実学による知の支配を1890年ころに確立しました。市民革命的な変革運動は弱く、その後に起こった大正デモクラシー運動もやがて15年戦争の荒波に沈み、1945年の敗戦をむかえました。自立した「民」の力が育つのは、これからかもしれませんね。「民知」運動が大事です。
?実存論的な自己の哲学やシチズンシップ=市民精神が弱ければ、人々は心の拠り所を国家や天皇との一体化に求めるほかありません。
不安の時代に、アイデンティティの手っ取り早い確保がナショナリズムというわけでしょう。ただし、この処方箋は、深い地点で個人からよろこびを奪ってしまいます。「得」も「徳」も得られません。

参考図書として、集英社版・日本の歴史17-日本近代の出発(佐々木克著)を揚げます。簡潔・明晰です。また、読み応えのある大著ですが、ウォルフレンの「日本権力構造の謎」は必読文献だと思います(すでに古典的名著)。
---------------------------------------

2006年08月31日
11:15


先生、お久しぶりです^^。家庭の事情で少しだけ忙しくなっていますが、元気にしています。先生もお元気ですか?

いつも明解なお答えを下さってありがとうございます。自分で考える教育が為されないのには、長い歴史があるのですね。驚きました。自分で考えていく民知運動はこれからますます必要になってきそうです。それに、やはり今は不安の時代なんですね。なるほど、そうだったのかと思いました。

たまには自分の意見でも言えるといいんですけど^^;、いつも質問ばかりですいません。ありがとうございました。


 (写真は、白樺教育館・屋上)









コメント

ナショナリズムによる教育を行う=安倍晋三の「美しい国へ」の批判ー2

2006-08-30 | 社会思想

豊かな国―よろこびの多い国とは、多様な考えと多様な活動であふれる国です。ある特定のモデルが賞賛され、学校教育で方向性が定められる国とは、単色の全体主義でしかありません。

職場で、地域で、政治的な意見を自由にのびのびと発言できない民主制国家!?自己矛盾もいいところですが、わが国がどの先進国よりも個人の自由な意見表明がないのは、衆知の事実です。保守主義以外の意見は、まるで危険思想であるかのように見られ、みながダンマリを決め込む社会とは、不健康・不健全で危険ー人間のよき生の障害であることは、誰にでも分かることです。

八紘一宇・神国日本・皇軍・天皇現人神・・という勇ましくおぞましい標語―思想を掲げて、中国侵略から始まる長く過激な戦争を行った戦前の日本人は、どのようにしてつくられたのか?をしっかりと認識し、その思想的な拠り所になっていた「国体思想」とは何か?(クリック)を知るという基本がなければ、すべては宙に浮いてしまい、何も始まりません。

ところが安倍晋三は、その戦争でA級戦犯(思想的犯罪)容疑者であった祖父の岸信介を肯定したいという底意を持ちつつ己の思想を語っています。ここには、反省の色はまったく見られません。「自虐史観」を排する教育を行い、ナショナリズム(国家主義)をもつ国民をつくるというのが彼の基本方針です。

一人ひとりの考えー主観性を豊かにしていく教育は、わが国では行われてきませんでしたが、そのために生じている個人の無責任性の問題を、政府が理想の家族像を示して学校で教えることで解決するという安倍の主張は、逆立ちしていて、問題の根をさらに深くします。自分の意見を育てる教育―彼が引き合いに出すアメリカの例で言えば、「6歳からのソクラテス教室」のような、自分で考え・話す教育こそが何よりもます始めに求められるのです。

そのような本質的な次元については、何も考えず、何も語らずに、教育もまた政治レベルの話=ナショナリズムを持つ人間の育成の問題に収斂させるとは、あまりにお粗末。

(まだまだ続きます)

武田康弘



コメント

ナショナリズム宣言=安倍官房長官の「美しい国へ」(文春新書)への批判の輪を広げていこう!

2006-08-29 | 社会思想

安倍晋三の思想は分かりよいものです。
「美しい国へ」(文春新書)に書かれている彼の思想は、思考の訓練を受けていない人独特の「わかりよい独断」で貫かれています。
人間の歴史―精神史への驚くべき無知が、狭い自己の信念を不動のものにして、「ぶれのなさ」を支えているのですが、その薄っぺらさとソフトにして頑固な態度の同居が人気の秘密でしょう。

「日本古来の神道」とその思想を大きく変えた明治政府作成の「靖国=国家神道」を同じものとして論じることで、恐ろしく偏ったイデオロギーを正当化する。しかもそれをレーガンやブッシュの力・軍事力による政治こそ正しい(レーガンは悪の帝国・ソビエトを崩壊させた)=「力の行使をけっして畏れてはならない、ヨーロッパはその力の蓄積を怠ったゆえにアメリカに頼るしかなくなったのだ」(ネオコンの論客・ロバート・ケーガン)として、戦前の軍国日本のなし崩し的な正当化ーその時代のことはその時代の目線でみなければいけないーにつなげるという凄まじい裏技を披露します。

「日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である・・一つの家系が千年以上にわたって続いてきたのは奇跡的」と言い、その後で、
「特攻隊員たちは、自分の命を永遠のものにする意志があった」ー大儀に殉じること=日本という国の悠久の歴史に。「私たちはときには自分の命をなげうっても守る価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるのだろうか」と書く。
これでは、戦前の「国体思想」と同じです。

その思想に基づいて「教育改革」に取り組む、と宣言されています。「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあさんも含めてみんな家族だ」「そういう家族が仲良く暮らすのがいちばんの幸せだという価値観は守り続けていくべきだ」、「理想の家族のかたち、しっかりとした家族モデルを示すのは、教育の使命」とし、
現在の教科書には、「多様な家族のかたちがあっていい」と説明されているーこれはよくないので変えていく、と書かれています。
一人ひとりの生活のあり方を政治権力で規制するのが「美しい国」というのは、政治家にあるまじき公私混同ですが、彼はこれをサッチャー(英)やレーガン(米)に倣って断固として行うと宣言しています。

(続く)

武田康弘


コメント

靖国問題の核心ーコメントへの返信

2006-08-27 | 社会思想

以下は、4月10日ミクシィブログとコメントですが、靖国問題の核心が分かると思いますので、貼り付けます。


明治政府が官軍の戦死者だけをまつるためにつくった神社が靖国神社です。敵味方を区別し、しかも戦死者を国家の神にするという「靖国思想」は、わが国の長い神社の伝統を真っ向から否定するものです。
今なお、なぜ、明治政府作成のの特異なイデオロギーの下に戦没者をまつっておくのか?全く意味不明です。
日本の伝統を重んじる右派がなぜ「靖国神社」を批判しないのか?とても不思議な話です。
民主制社会を肯定する健全なふつうの日本人は、靖国思想を否定するはずです。
中国や韓国が言うから、ではなく、私たち自身の意思として、早急に公立の慰霊施設をつくらなければいけません。これはあまりに当然の話で、議論の余地はないはずです。
靖国神社の思想=驚くべき天皇制国家主義についてはクリックで出
ます。


武田康弘

――――――――――――――――――――――
2006年04月10日 23:02


突然の書き込み失礼します。
宗教の自由から考えると靖国思想は何も問題はないですよね。
また、神社と申されましても神社には様々あり、「神社の伝統≠敵味方を区別しない」であります故、官軍の戦没者を神とする靖国神社を否定する事は護国神社全てを否定することになり、ひいては宗教の自由を否定することと繋がります。
それに、靖国神社の思想は靖国神社で完結してあり、靖国思想を周りの神社に強要するならともかく、ただ1神社として存在する以上、その思想を否定するのは思想の自由に反してしまいます。
自由主義社会を肯定するのならば(独裁国家を否定するのならば)靖国神社の存在を良しとしなければいけません。

―――――――――――――――――――――――
2006年04月11日 09:32
タケセン(武田康弘)

確かに、靖国神社は、敗戦後、一宗教法人にすぎなくまりました。
そうであるのに、一宗教法人にすぎない神社が、兵士の全員を有無を言わせず(戦死者の宗教も、遺族の意思もなく)まつることは、明らかに論理矛盾です。

あの戦争に対して反対の考えをもつ人も含めて、時の政府が天皇の命令だ、として戦地に強制動員した戦争犠牲者たちの鎮魂施設をつくること、 その鎮魂施設では、非戦闘員を含む全犠牲者を平等にまつること、論理的にはこれ以外の選択肢はないのです。
日本政府が、彼ら死者に対して、これからは、日本人を二度と海外へ戦争に赴かせることはしない(注)、ほんとうに申し訳なかった、という深い自己反省を込めた謝罪をしなければ、洗脳教育を受け、戦争に駆り出された多くの若者の魂が真に鎮まることはないのです。幼少のころから「お上」の意思で特定思想を植えつけられ、戦争に行くのが立派なことだと信じ込まされた真に哀れな若者たちの霊に、私は言語を絶する悲哀を感じ続けてきました。激しい慟哭なくして彼らのことを想うことはできません。
全戦没者をまつる公立の鎮魂施設をつくる=あなたたちの尊い犠牲の上に、わが日本は、戦争放棄を国是とする世界に冠たる国家になりました、どうか安らかに眠って下さい、という宣言を内外に向けて誇り高く宣言する以上の鎮魂はありません。右翼も左翼もないのです。世界平和の大胆な創造ために、みなが声を一つにしなければならないのです。

(注)ここでは兵士の追悼の話でしたので、あえて「日本人を」と書きましたが、新たにつくる戦没者の追悼施設では、日本人に限定せず、すべての戦没者・戦争犠牲者を慰霊しなければなりません。なお、慰霊を超えて「鎮魂」を含ませるかどうか?は、議論の余地があるでしょう。

(※戦前は、明治政府が靖国思想=国家神道は宗教ではなく、それに従うのは日本国民の義務だと規定しました。いわゆる「天皇教」ですが、日本人である限り、クリスチャンも仏教徒も皆、靖国神道=国家神道に従わなくてはならぬとされたのです。)




コメント

実存として生きる社会人=「響存」

2006-08-25 | メール・往復書簡

以下は、
私のブログー「全身で打ち込んで楽しむことの深さ」(白樺ML公開 )に対する『ミクシィブログ』内「コメント 」です
(写真は白樺教育館)

2006年08月24日 00:09
hiromin

本当に、子どもみたいですよねー!
これ、悪い意味じゃありません もちろん
言葉よりも実体験から、、か・・・そうか!
「愉しい哲学の会」で花嶋さんが「チャレンジだ!!」って言った時に私の中に心地よく、とことん前向き精神の気持ちがふつふつ沸いてきたのをこの日記みてあらためて思いました
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006年08月24日 08:31
タケセン

hirominさん、
ある言葉が人を前向きにさせれば、それは生きた意味ある言葉です。閉じた死んだ言葉ではなく。「前向き精神の気持ちがふつふつ沸いてきた」(H)-とっても素敵なことですね。

==============================

2006年08月24日 04:06


深い(ということは浅いもあり。)って、だれが決めるのでしょう。どうしてそれが「深い」になるんでしょう。「心身全体で考える」ということが成立しているかどうかはだれが決めるのでしょう。常に「まだまだ」なのではないのでしょうか。それが「持続する」、「生きる」ということではないでしょうか。「はじめに言葉ありき。」は半分正しく、半分「事実に反する」のでは?「言葉転がし」も言葉、「濃密な意味」も言葉。「心身に届く深い満足」は本人にしかわからないことではありませんか。
―――――――――――――――――――――――――――――
2006年08月24日 08:41
タケセン

Mさん、
「本人にしか分からないことではありませんか」(M)
ーそうですね。人間は誰でも自分の頭の外には出られませんから、原理(認識論)的に言えば、「自己納得」しかありません。ただし、考え・試し・確かめることでつくられていく自己納得の世界が、他者にも「なるほど」と了解されるものに鍛えていくことはできます。そのためには、生きた言葉による率直な対話が必要不可欠です。
そういう開かれた心身が、人生に豊かなエロース、関係性の深まり・拡がりをもたらすのだと思います。
自閉ではなく、集団同調でもない、実存として生きる社会人=「響存」でありたいですね。

(※「響存」とは、鈴木亨氏の言葉です。)

武田康弘




コメント

国・国家のため!?は、ひどいミスですー「フェティシズム」という問題

2006-08-24 | 社会思想

人々のために、ならあり得ます。自然環境をよくするために、ならあり得ます。
しかし、国とか国家のために、というのは、組織や制度(システム)のためということになり、単純な間違えでしかありません。
私は教師として、こんな言い方には×をつけます。思想の問題ではなく、単なる間違いでしかないからです。

組織ー制度(システム)のために人が生きるというのは、逆立ちした考えです。人がよく生きるために制度―システムはあるのです。手段にしかすぎないもののために人が生きるというのは、間違った思想です。

国・国家のために、はないのです。あるのは、一人ひとりの人間のためにです。
こんな簡明なことも分からない人が大勢いるのは、ほんとうに困ったことです。文部科学省の官僚たちや教師たちも分からないのでは、哀しいお笑いで、ことばもありません。彼らはいったい何を勉強してきたのでしょうか?意味論=本質論ぬきの事実学だけという日本の教育の成果!です。これを私は「東大病」と呼んでいます。

同じことですが、学校のため、会社のため、・・という言い方=考え方も間違っています。
生徒のため、社員のためとは言えますし、また、ある考えや理念を実現するためと言うのならば成立しますが、組織や制度のためという言説は、ひどいミスです。

制度や組織(法、規則、国家、会社、学校・・)それ自体を愛し求めるという倒錯を「フェティシズム」(物神崇拝)と呼びますが、原義は下着や衣服などを性的欲望の対象とする「異常性愛」の意味です。なぜこのような倒錯が引き起こされるのか?を簡明に記してみます。

自分性=主観性を否定され、絶えず客観的「正解」を強要されて育つと、人間は内的な心の真実につくことができず、外的な価値基準に合わせて生きる他ない存在に陥ります。内的欲望を否定され、無目的に、理由なく、ただ勝つことを求められる「競走馬」のような人間は、自分がほんとは何を欲しているのかが分からず、何をなすべきかも出てきません。主体的な存在にはなれず、いつも他者の視線や評価に怯えていきる受動的な存在―脅迫神経症者になります。このような人間は、「根源的な不安」と共に生きるために、動かないもの・死んだもの・権威・伝統・過去にこだわり、ロマンを育み、未来を目がける動的な、それゆえに不安定なものを忌避し、排除しようとします。それが、手段でしかない組織や制度それ自体を希求するー愛するというおぞましい倒錯を生んでしまうわけです。

われわれは、倒錯者を「エリート」と呼んでいるふしがあります。不健康―不健全の極みですね。

武田康弘



コメント

「全身で打ち込んで楽しむことの深さ」ー白樺ML公開

2006-08-23 | 私の信条

以下は、「知る」ということへの問いに対する「白樺ML」への返信メールです。

「公共的良識人」の8月号にキムさんがよいことを書いています。「白樺教育館」を高評価した対談の中でです。

 哲学とは希望を持ち続けることだと思います。絶望のど真ん中でも希望を持ち続ける。・・・本来、哲学するということは知徳を恋い慕うということです。自分がそこに全力投入して学び続けることを楽しむということです。そのような私の基本姿勢は『論語』に出てくる「理性で知ることは感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身で打ち込んで楽しむことの深さに及ばない」という孔子の言葉に影響されたものです。

「全身で打ち込んで楽しむことの深さ」ーこれは武田の思想と実践にもピタリと重なる言葉です。もっとも私の場合は、いつも言葉よりも実体験からくるイメージの方が圧倒的で、言葉は後からやってくる、という感じですが。心身全体での反応が先立つーまあ、子どものようなものです(笑)。

いつも言うように、「全細胞ー心身全体で考える」を愉しみとするのが私の人生です。
私にとって「知る」とは、心身全体で会得するエロース溢れる行為です。言葉転がしではなく、濃密な意味ー身心に届く深い満足を求めます。

武田康弘。


コメント

「白樺教育館の活動は、日本における注目すべき動向」

2006-08-22 | 日記

――高い評価を頂きました。

金泰昌(キムテチャン)氏は、「公共的良識人」紙―8月号の冒頭対談で、「注目すべき日本の二つの動向」として、『白樺教育館』の思想と実践をあげています。以下にその全文を掲載します。わたしたち白樺同人は、高い評価に深く感謝します。


 金泰昌(キムテチャン):
日本での動向の中で私が特に注目しているのは二つあります。
その一つは、東京大学や千葉大学の公共哲学研究者たちが奨めている「学問研究の構造改革を目指す公共哲学」運動です。極端な専門分野的分割化(タコツボ化と言われます)から専門分野を横断する相関志向への学問研究へのパラダイムシフトを強調しています。
そして、もう一つは、武田康弘白樺教育館長とその同志たちによる民知―恋知による生活知再構築運動です。従来の官知―制度知による生活世界の領土化・植民地化から一人ひとりの市民の主体的・主観的・当事者的自立を支える生きる力としての知の産出とその共有を強調する純民間活動です。
(「公共的良識人」紙8月号巻頭―吉林大学・ヤオ教授を訪ねて、より)

(以上は、キム氏と吉林大学のヤオ教授(哲学社会学院哲学系主任・カリフォルニア大学、ハーバード大学で高級訪問学者として共同研究にも従事)の対談の中でのキム氏の発言です。☆吉林大学は、文科系、理工系、医学部などを擁する中国東北地域最大の総合大学。中国政府により「七つの哲学人材育成基地」に指定される。とりわけ日本に関する研究・教育は非常に充実していて、日本語教育については中国随一との定評がある。)

[ 金泰昌(キムテチャン)氏は、現在、公共哲学共働研究所所長。
韓国延世大学院政治学博士。 駐韓米国経済協調所企画補佐官、国立忠北大学・社会科学大学長、国際関係研究所長、統一問題研究所長、行政大学院長、東京大学客員研究員、国際日本文化研究センター客員研究員、北九州大学客員教授、九州女子大学文学部長、などを歴任。前東京大学総長・佐々木毅氏との共編―シリーズ『公共哲学』10巻の編者。続編も刊行中(東京大学出版会2000-2006)。 
★以上は、『行政研修ジャーナル』No.37・2006年(人事院公務員研修所・発行)によるキム氏の略歴です。キム氏は、人事院からの依頼で、行政研修の講師を務めています。]


白樺教育館・武田康弘



コメント

靖国問題への応答メールですー問題の本質は?

2006-08-19 | 社会思想

以下は、私の「靖国問題」についての二つのブログに対するコメント(メール)です。



Hです。

靖国の存在そのものを問い直す作業が必要であることは明々白々のはずですが、
メディアは概して靖国の存在(肯定)を前提にした議論しかしていないように思います。
だから国民の63%が総理の靖国参拝に賛成するなんて狂ったことになるのでしょう。
【掘り下げて考える】という人間として至極まっとうな行為が出来ないのでしょうか、日本人は。
哀しくなります。
加藤紘一程度の靖国批判で放火され(と疑われ)のではたまったものではありませんね。
いや、もしかしたら批判が中途半端だからか?
タケセンのブログ、もっと広まると面白いんですがね。
(専門職)

=======================================
ブログ 靖国問題の本質をよんで

 祈 という言葉をよみ終えた時には、私の目から涙がとめどなく溢れていました。
そこからは、実に多くの尊大な大切なことを想像させられ、心の奥深くに、これまでのタケセンの、まっとうな揺るぎない思想、主張の数々と、生きた言葉の言わんとすることを、私 として感じ、自分が今していきたいことが何なのか、あらためて鮮明になりました。
私にとっては、まず「自分の中」にあり、自分の周り=すぐ側にあるのです。おかしなものが多く混じった情報の中で暮らしていると、「現実」に何となく流され、汚染されそうになることは誰しも多かれ少なかれあるかと思いますが、きちんと我が心の内奥に焦点をあわせ、静かなる底力のようなものを持ち続け、思いやりの心で誠心誠意、自他と接し、対話をしていきたいです。伴うリスクなど承知の上であるならば、肩の力をぬいて、自然に行動を続けていけるとのではと感じています。
私たちは首相でも官僚でもありません。だけど(だから)私たちが普通(まとも)の意識を持ち、当たり前のこと、よきこと、よろこびを伝え広げていくことが、この国を正す、最短最良の道とすら感じています。それは、自他ともに真に幸福な人生を生きることにつながるような気がしています。
(hirominn・主婦)
=============================

すごく分かりやすいブログですね。読みました。
さて、もし、御霊が存在するならば、
時の政府や天皇にだまされたと怒っているでしょう。
だから、小泉首相の参拝は、御霊にとっては迷惑千万でしょうね。
そもそも「心の問題」といいながら「公約」だから参拝したというのは
とんでもない矛盾ですよね。

Y(県会議員・無所属)
===================================

Iです。
武田康弘さんの意見に同感です。私も国立の戦没者追悼施設を作るべきだと思います。
ただ読売新聞の8月16日や11日の記事や今回の8・15のメデイアの靖国参拝騒動の報道を見る限り、これを現在の国内の状況で新たにゼロから建設するのはほぼ不可能ではないか、と思われます。国民の間にこのことについて、ほとんど議論の深まりがないからです。市民がどこまでそれを本気で望んでいるかも不明ですし、それを掲げて運動している市民グループも私の知る限り現在のところ一つもありません(もし知っている方がいれば教えて下さい)。そういう段階では、結局は政治家の間の政争の具として一案件として出される程度で終わってしまうのではないでしょうか。市民不在のままに。むしろ現在の勢力関係では、靖国神社がこのまま日本における「公共の追悼施設」という名目で国民に刷り込まれていく方向にあり、そのことを大いに危惧します。地道に草の根的に取り組んで靖国的追悼への代案を出していく市民運動が育たない限り、武田さんの提案実現は難しいでしょう。自衛隊が合法的に海外に出て戦闘できるようにしたい勢力にとっては、靖国神社はもっとも手軽に利用できる格好の装置であり、何がなんでもこれを死守しようとするでしょうから。
私も何とかこの風潮を変えたいと願って努力しているのですが・・・。

I(宗教哲学・大学教授)
========================================
Yさん、Iさん、
武田です。

ブログ「思索の日記」への賛同コメント、ありがとうございます。

経験次元では、政府―国家の責任による新たな戦没者追悼施設の創設が難しいのはIさんの言う通りでしょう。

ただし、ます第一にすべきなのは、原理次元で考察し、どう考え、どうするのがよいか?を明晰にすることだと思います。

おおもとが明瞭になれば、変革の可能性を広げる条件をつくり出すことができます。

私は、そうやって過去いくつもの課題をクリアーしてきました。深く納得できる原理が明瞭に示されれば、人は必ずその方向に動くものです。ほんとうです(笑)。

コンパクトに、明瞭で分かりよく「原理」を示すことが出来れば、その理念世界は現実を変えうるのです。どのような現実も人間の意識―惰性的な意識に支えられていますが、その意識を活性化―賦活化させるのは、透明な衝撃=「原理」の開示に他なりません。

共に!
=====================================



コメント

「パウル・クレー創造の物語」展ー川村記念美術館

2006-08-17 | その他

昨日、「パウル・クレー創造の物語」展(東京新聞主催)に行きました。
クレーは、私が好きなモダン作家です。音楽と詩を感じさせる絵画で、その「よさ」をことばで説明するのがとても難しい作家です。

建築家・海老原一郎の晩年の傑作ー「川村記念美術館」(大日本インキ・創業者三代による)と、クレーの絵画はとてもマッチしています。20日までなのですが、お勧めです。

「パウル・クレー 創造の物語」展ークリック
川村記念美術館ー建物ークリック





コメント

一宗教法人にすぎない靖国神社が、国家を代表する!?

2006-08-16 | 社会思想

以下の見解は、日本近代史の学的常識に基づく意見です。

読者の方は、すでにご存知だと思いますが、靖国神社は、日本の伝統を否定して明治政府が創設した神社ならざる「神社」です。
味方(明治政府側の兵士)だけをまつるーしかも死者を集合神にするという反伝統の思想を持ちます。

「近代天皇制」という山県有朋らがつくったシステムは、国体思想に基づく官僚主義国家のことですが、それは、尋常小学生からの徹底した「天皇崇拝」の教育ー明治天皇自身の要望により入れられた「天皇史」としての日本史教育等により、永続化させられたのです。

その国体思想による政治を支えた精神的・宗教的支柱が「靖国神社」です。いわば、明治政府作成の「天皇教」最高施設なのですが、戦後、民主主義社会に変わってからもその考えを堅持し、積極的に思想宣伝をしてきました。

天皇現人神ー皇軍という狂気の洗脳教育を受けて戦場にかり出された尊い若い命を追悼するには、あまりに不適切な施設だ、と私は思います。死者をなお「超国家主義」で縛りあげるのは許し難い行いではないでしょうか?

当時の官僚と政治家による「思想教育」の過ちを正さない限り、兵士たちの魂は鎮まることがないのです。「日本は天皇を中心とした神の国だ」(森前首相)いまなお、キングメーカーがこういう発言をする国を正していくことは、われわれ日本人の重大な仕事だと思います。

兵士を含む全戦没者を慰霊する公立墓苑の創設が急がれます。「一宗教法人に過ぎない」(安部官房長官)施設に国家の仕事を独占させていいはずがありません。

武田康弘



コメント

戦後民主主義を否定する「靖国神社」への参拝は、最大の「国内問題」です。

2006-08-15 | 社会思想

神国(しんこく)日本―天皇現人神(あらひとがみ)という「愛国教育」=国民教化という名の狂気の洗脳教育によって、朝鮮・中国を植民地化し、国際的に孤立して無残な全面敗北を喫した戦前の『天皇制国家日本』。これを「正しい」として、戦後民主主義を否定する先頭に立ってきたのが『靖国神社』です。

中国や韓国が言うからではありません。私たちふつうの多くの日本人は、何よりもこの靖国思想を認めるわけにはいきません。狂気の洗脳教育によって侵略戦争に駆り出された多くの若者たちの尊い命もまた、この洗脳思想の下では、安らぐはずがないのです。個人の自由と幸福追求は、人類普遍の思想であり、この思想に反する「近代天皇制」という超国家主義を認めることは到底出来ません。そのような愚かな思想を未だに堅持する靖国神社に兵士たちを慰霊する資格はないのです。兵士を含めた全戦没者を慰霊するための公立墓苑の創設が急がれます。

「日本は天皇を中心とした神の国である」とする森前首相の下に誕生した小泉首相は、今日8月15日の敗戦記念日に、戦前の天皇制国家が正しいと主張する靖国神社に、内閣総理大臣として公式参拝を断行しました。また、その後釜として首相になろうとする安部官房長官は、首相就任後、「自虐史観」を正す愛国教育を行うと明言していますが、これは靖国神社の主張を踏襲するものです。さすがにA級戦犯容疑者であった岸信介(元首相)を祖父に持つだけのことはありますね。

靖国思想をきちんと清算しない限り、日本に真の「戦後」は訪れないのです。これは原理ですが、「民主党」もまたこの原理を押さえてはいません。「自由民権運動」への徹底した弾圧によって明治20年代に確立した国体思想による政治=官僚制国家主義をきちんと廃棄しない限り、日本人は自己肯定ができません。靖国問題とは、外交問題である前に、ます何よりも最大の「国内問題」なのです。

多くの日本人がこのことへの明晰な認識をもたれますようにー祈。

武田康弘

「皇族の人権と市民精神の涵養」(クリック)をご覧下さい。
(写真は、中国軍捕虜の公開処刑)



コメント

いま式根島から帰りました!

2006-08-11 | 日記

いま、式根島から帰ってきました。

私が1976年以来毎年続けているキャンプ&ダイビングーその模様は当初の10年間月刊『マリンダイビング』誌で紹介され、日本でこどもたちのスノーケルダイビングを広げるキッカケになりました。

いままで30年間、奇跡のように晴れっぱなしでしたが、今年は、台風の影響=なんと式根島の真上を通過!!子どもたちは初めて本格的な雨を経験しました。7日の夜に発ち、初日は足付港の東海汽船待合所を貸して頂きましたが、二日目からはいつもの大浦キャンプ場で楽しく過ごしました。三日目は誰もいない秘密のプライベートビーチ!?(写真ー10日)でゆっくり美しい海を堪能しましたが、今年は異常に水温が低く、外海は20度以下で、これも初体験。
いつもVIP待遇で迎えてくれるレストラン「サンバレー」をはじめ、村役場の職員の方や式根モータースの浅野さんらにも感謝です。

写真は管君(管剛文)がたくさん撮りましたので、後日整理して「白樺教育館ホーム」に載せましょう。(私はビデオ撮り)

武田康弘


コメント

感情の絶対化と感情の豊かさとの違いは?主観性の発達/客観学の目的化

2006-08-07 | 日記
以下、コメントを記事にします。

[ 智子 ] [2006/08/06 11:41]
先生、ブログを拝読しました。いつも勉強させていただいています。質問で恐縮なのですが、感情豊かに生きるということは私にとっては素晴らしいことのように思える反面、わがままに生きることのようにも思えて、躊躇してしまいます。感情を表すことが(素直に生きること)は他者を傷つけることになると思うと自分を抑えてしまいます。あるいはわがままな子供と他者に映ることを怖れているのかもしれません。わがままであることと感情豊かに生きることにはどういう違いがあるのでしょうか。また先生も批判されている浅薄な感情の絶対化と感情豊かに生きることとはどういう違いがあるのでしょうか?
――――――――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/08/06 14:22]
智子さん、コメント、ありがとう。
わがまま、おおいに結構です(笑) 自芽=「自我の芽」は、わがままが肯定されると階段を上り、成長しますが、否定されると、わがままを内的には克服出来ず、外的に上手にふるまう(誤魔化す)だけの人間になってしまいます。実存次元での嘘=空白の生の上に社会性の仮面をつけた「外的人間」(根源的な不幸人)の誕生!です。
外的人間は、ステレオタイプの感情しか持てないために、自己の感情世界が発展せず、感情豊かに生きることができません。感情の発達とは、主観性の発達と同義ですが、わが国では、主観性が悪であるかのような刷り込みが行われているために、感情も論理も共に発達しないというわけです。
「主観性消去の詐術」(クリック) と、 「おどけ・ふざけ・悪さこそ」(クリック) をご参照ください。
―――――――――――――――――――――――――――――

[ 智子 ] [2006/08/06 16:21]
丁寧にお答えくださって、ありがとうございます。自分はわがままを内的に克服できずに成長してしまったのだなあと今更ながらに思います。今から自分を育てるのはなかなか難しいかもしれませんが(成長するために未発達な感情を表現した結果、他者との間に軋轢が生まれることは怖いことでもあります)、努力してみようと思います。また質問させていただくと思いますが、どうかよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ タケセン ] [2006/08/07 09:36]
「私」のありのままの感情を見据えるのは、何より「私」にとって怖いことかもしれません。
私が見るところ、ほとんどの日本人は、外的なしつけを受けるか、甘やかされるかのどちらかですが、この両者はひとつメダルの表裏でしかありません。ともに主観性の発達=自芽の成長がありません。
日本では勉強するとは、客観学の習得のみを指します。思想や哲学の分野でも客観的真理!?を求める有様です。思想とは、主観性の深化・拡大によって開かれる普遍性であるという本質論的了解が、とりわけアカデミズム(学校知)にはありません。たとえば自由や平等の理念や人権という思想は、一人ひとりの実存の生・生活世界の体験を反省し思考することで生じたのであり、客観学はその主観性が生んだ普遍了解性を前提にして成立するに過ぎないのです。
ところが、ほとんどの人は、この本質論的な了解がないままに勉強する(させられる)ために、勉強・学問とは、物知りになることと技術知を身に付けることだと思ってしまいます。人間としての深められたエロース・内的成長・生きる意味充実の世界・強靭な人間力とは無縁の知が跋扈するわけです。手段としての知=客観学が目的化されるわけですが、これは感情が紋切り型でしかなく、自由で豊かな発達がないことと重なる問題です。
幼児的な「感情」と恋知(哲学)の営みなき「技術」(やりかた)だけしかない。「私」が生きる意味を考え創り出す「思想」に支えられたほんものの知が成立しないのです。 あるのは、大学に自閉する講壇哲学か、ことば遊戯のオタク思想くらいです(笑)。
生活体験に支えられた根のある知と豊かな感情の発達とはひとつです。
智子さん、よい質問をありがとうございました。

武田康弘





コメント

あだ花―亀田現象、現代日本の象徴=マナーのない下品な若者が英雄!?

2006-08-03 | その他

昨日のボクシングーばかばかしインチキ判定には誰もがうんざりしたでしょうが、首相や閣僚がしてはならないことを連発し、ノーパン風俗接待でクビになった人間―個人資産拡大に精を出す日銀総裁が平然とその職に居座り、人種差別発言を繰り返す最低男が東京都知事のわが日本を象徴する出来事=事件ではあります。

浅薄極まるウヨク思想家が大手を振るい、保守主義がはびこり、現状追認のテイタラク人間だらけのわが日本という国、その愚かさを象徴するのが、下品な言動を繰り返し、マナー・人間的品性のまるでない「亀田一家」の礼賛です。父親のエゴに従う子ども・家族が偉い!かのごとく想念の流布には激しい憤りを覚えます。粗野であることとスポーツを混同するようなデタラメが称揚されるなら、この国は完全にアウトです。

つまらぬものをヨイシュするマスコミ人の愚かさには、開いた口が塞がりません。少しは品性―知性を取り戻してもらいたいものです。ともあれ、技術知と受験勉強だけ、豊かな思想を育むという人間の生の基本がな国、21世紀になっても靖国思想=天皇主義でいこうなどという保守主義に支配される国にふさわしいお粗末ではあります。
この下のブログもご覧下さい。

武田康弘

(コメント欄もご覧下さいー友人の山脇直司さんと未知のやなぎさんという方からのものです。山脇さんは、「公共哲学とは何か」(ちくま新書)の著者で東大大学院教授、ユネスコ国際会議(哲学)の日本代表ですークリック)。
この後で、Aさん=「哲学するふつうの市民」から山脇さんへの批判のコメントがあり、お二人の間で「コメント欄」上で討論になりました。そこから、実際に顔を合わせて討論するという話がまとまりましたので、9月9日(土)に、私(武田)の大学クラスの授業の中で行うことにしました。「白樺教育館」で4時より。


コメント