カシアス・クレイ=モハメッド・アリ
わたしは、彼の存在にただ感動し続けてきました。
スポーツマンとかボクサーとかそんなつまらない呼び名のレベルではなく、
彼が自分で言うように、真に偉大な人間として感動していたのです。...
わたしは、まだ幼いころ、文字通り「チョウのように踊りハチのように刺す」あの美しく軽やかで完璧な強さに惹かれました。魅力の塊でした。
その後、
徴兵拒否ーベトナム戦争反対でチャンピョンベルトをはく奪され、逮捕され監獄に入れられた彼を見て、アメリカ政府に激しい怒りを覚えました。しかし彼は、一歩も引かず、ではなく、巨大なパワーでアメリカ政府と全面的=真正面から戦い、長い戦いの末、ついにはアメリカ政府を倒したのでした。
カムバックの試合、当時あまりの強さに恐れられて対戦者がいなかったジョージ・フォアマンにアリが挑む、ありえない一戦と言われました。すでにとっくに全盛期は過ぎ、得意のフットワークは消え、「アリの無残な最後」となる試合だと誰もが見ていました。「あまりにもレベルの違う者を戦わせるのは危険であり、この試合は中止すべきだ」とも言われました。
わたしは、当時大学生でこの試合を衛星中継でライブで見ていました。偉大なアリがフォアマンの凶器のような恐ろしいパンチに1ラウンドでももつだろうか?怖いもの見たさでTVにくぎ付けになりました。
しかし、その試合展開の「ありえない」模様に唖然呆然。アリの考え出した「ロープに寄り係り、フォアマンにボディーを打たせるだけ打たせる」!? こんな「バカげた」作戦、まるでサンドバックのように打たれっぱなし。いつ倒れるかと見ていたら、倒れない。ロープの反動で打たれるとき、大きく身体を反らし、衝撃を緩和していたのです。ラウンドが進むにつれ、フォアマンのパンチ力が弱まわっていく、ついに、アリが反撃に出て、まさに「ハチのようにピンポイントで刺した」のです。フォアマンは崩れ落ち、アリのノックアウト勝ち。
誰もが狂喜しました。この世の誰ひとりとして予想できなかった現実が目の前で起きたのです。一人として思いつきもしないアリの試合戦略がありました。
その後のアリの難病とそれと闘う姿は有名です。最期まで真に民主的なアメリカの実現を夢見、最近もトランプの批判をしました。
彼は、単なるボクサーではなく偉大な人間でした。空前絶後と思います。
武田康弘
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モハメド・アリは、ベトナム戦争反対に全てを賭けた
http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/11/muhammad-ali-risked-it-all_n_10413940.html
モハメド・アリは、最も著名なベトナム戦争の良心的兵役拒否者だった
モハメド・アリは、自らが尽力した最も有名な社会運動――ベトナム戦争反対、そして徴兵拒否――の影響で、ボクサーとしての全盛期を棒に振り、何百万ドルもの金を失い、その後、彼のイメージは変わってしまった。最終的に、彼は借金生活にまで追い込まれた。この社会運動は、思いつきの一言で始まった。
「なぁ、俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもないんだよ」
それは1966年3月のことであった。アメリカ軍はベトナムとの戦いを本格化させていた。軍は徴兵の基準を大幅に下げ始め、より多くの兵隊を召集した。陸軍の知能指数テストで78点だったアリは、点数が低すぎたため1962年には徴兵されなかった。しかし徴兵基準の引き下げは、彼がいつ徴兵されてもおかしくない人物になったことを意味した。
アリがこの情報を聞いたのは報道陣に囲まれている時だった。そして、あの有名な「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもないんだよ」という、荒々しく、そしてとっさに返した答えによって彼は、何年も続く、アメリカを変化をもたらす革命を引き起こした。
世界で一番有名なアスリートが公然とベトナム戦争を非難することは、当時は冒涜に値した。彼がベトコンに対する無関心を公表した時、国民のベトナム戦争に対する支持はピークを迎えていた。調査会社ギャラップによると1966年の最初の3カ月で、戦争に対する支持率は50%を超えていた。アリは、アメリカの黒人イスラム組織「ネイション・オブ・イスラム」への忠誠、そしてその一員であるという理由から兵役を拒否し、自身が良心的兵役拒否者だと述べた。
「ザ・グレーテスト」の最大のリスク
イスラム教に改宗し、カシアス・クレイという名前を捨てたアリは、すでに議論を巻き起こしていた。加えて徴兵拒否という行為によってアリは、瞬く間にアメリカで最も嫌われている有名人へと仕立てられた。アリほどの著名な人物で、他に徴兵を拒否したものは誰一人いなかった。アリの一見ふざけたような戦争反対の姿勢は、国民、政府、そしてボクシング界から嘲笑された。以降4年にわたって、アリはリングではなく法廷で自分の信念のために戦い続けた。そして1967年、徴兵を回避した罪で有罪判決を受けた後、州のボクシング・ライセンスを剥奪された。アリのボクシング・キャリアは事実上、終わりを迎えた。
しばらくの間、アリは「兵役を受け入れろ」という国民の圧力に直面し続けた。法廷闘争の間には、主張を撤回し、謝罪した上で、慰問活動部隊として軍に入る機会を与えられた。これは軍隊やマスコミのために、自身の特異なキャラクターを披露させるためだった。しかしアリはこの機会を受け入れなかった。その後は同胞の中からも、彼を敵対視するようになる者が現れた。
スポーツジャーナリストのデイブ・ザイリンが著した『アメリカ民衆のスポーツ史』によると、彼にモハメド・アリの名前を与えたネイション・オブ・イスラムは、攻撃的な抵抗を繰り返す彼との関与を否定した。黒人初のメジャーリーガーであり、現役中、引退後も活動家であったジャッキー・ロビンソンは、黒人の兵役軍人を失望させたとして、アリを批判した。そして大多数の黒人兵士たちもロビンソンの意見に賛成した。アリの行動は過激すぎた。
アリはボクシングから追放されている間、アメリカ全土で人種間の関係性とベトナム戦争についての意見を主張した。
「彼はベトナムにいる黒人兵士たちの士気を下げている」。と、ロビンソンは語った。「そして私にとって悲惨だと感じることは、カシアスは何百万ドルというお金をアメリカ国民から稼いだ。そして今になって、私から見ると素晴らしいこの機会を与えてくれた国に対する感謝を示そうとしない」
しかし、アリにとってその「素晴らしい機会」は死刑宣告に等しかった。そして、白人上流階級が貧しい黒人のアメリカ人が、彼らのために戦争に行かされている状況にすぎなかった。
「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」と、彼は言った。
アリを擁護した人はみな、身の危険を感じることになった。スポーツジャーナリストのジェリー・アイゼンバーグは、兵役拒否をしたばかりのアリの話を聞こうとしたところ、爆破予告や苦情の手紙を大量に受け取ったという。その一方で、メディアの大多数は悪意のある報道を繰り返した。アイゼンバーグとは違い、レッド・スミスやジム・マレーなどといった著名なスポーツライターは、アリのことを「役立たず」「白人の重荷」と呼んだ。
アメリカ人がアリの味方につく
だが、反戦派のアリの孤独はそう長くは続かなかった。裁判が続いていた中でも、アリは反戦的な発言を止めなかった。アリの発言は、1960年代の公民権運動と同じく、構造的な階級差別と人種差別を非難するという主張に基づいていた。街頭演説での演説はとてもシンプルだったが、力強く、信念がこもっていた。
「今、自分の信念そして自由のために戦っている人々のように、権力のある白人男性によって人間を殺す道具として私は使われたくない。そしてあなたも、特に貧しく、そして/あるいは黒人の場合は、使われるべきではない」
アリが自由であればあり続けるほど、戦争への支持率は下がっていった。アリの「俺は何の恨みもない」発言の直後、ベトナム戦争を支持する声は下火になった。そのセリフが報道陣に伝わってから1カ月後には、戦争支持率が50%を初めて下回った。アリが兵役拒否したことで投獄された1967年6月の2カ月後、戦争を支持するアメリカ人はたった27%になっていた。これはリンドン・ジョンソン政権下で最も低い数字だった。アリはキング牧師に「戦争に反対してくれ」懇願すらした。
アリは法的にはボクシングの試合を禁じられていたが、トレーニングはできた
1967年の夏頃には、多くの、特に黒人のアメリカ人がアリの味方となった。自分の勇気と意見を巧みに表現し(彼はセルフプロモーションを成功させたアスリートだ)、公民権運動の前進、そして戦争の支持率の低下へと導いた。
アリは上訴していた1968年ごろ、大きな経済的負債を抱えていた。そのため、ボクシングをしていたら稼げていたであろう何百万ドルの代わりに、お金を稼ぐため大学のキャンパスで何百もの講演をはじめた。将来、激しい反戦運動を組織することになる若者たちに向けて講演をした。アリは調停者として、そして若いアメリカ人たちが切望していたカウンターカルチャーの象徴としての地位を固めた。
何年も続いた上訴の後、連邦最高裁は1971年6月、アリの有罪判決を破棄した。その頃には、州が彼のボクシングライセンスを回復させる手続きを始めていた。彼の戦争に対する見解が、アメリカ全体の戦争に対する見解となり、人々は、自分たちの英雄がボクシングに復帰する準備を整えた。そして3年半後、アリはリングに戻った。1970年10月、アリはアトランタでジェリー・クゥオーリーを倒した。
選手生命を犠牲にしたアリ
やがてアメリカ中に、アリがキャリアを犠牲にしてまで貫いた信念と、彼への支持の輪が広がった。以来、これほどの社会的インパクトを残したアスリートはいない。アリが「ベトコンには恨みがない」と言ってから50年後、プロアスリートたちは社会問題について立派に意見を述べるようになった。特筆すべきは、NBAのスター選手レブロン・ジェームスが2014年12月、エリック・ガーナー事件(同年7月、ニューヨークで黒人男性が白人警官に羽交い締めされ、「息ができない」と叫びながら窒息死した事件)に抗議をする人々をサポートするために「"息ができない"シャツ」。を着たことだ。しかし、彼らはアリが直面したほどのリスクには直面していない。
現代のアスリートは積極的に政治的意見を述べるようになった、重要な発言ではあるが、象徴的な意味合いにとどまる
セルフブランディングを中心に考え、ビジネスをしているかのような現代のアスリートたちは、Tシャツ、プレー中に付けるアクセサリー、SNSへの投稿などで、お飾りのような政治的意見を発表することを選ぶ。アリのように積極的に行動し、自分のキャリアを賭けるようなことはしない。
一言で言うと、現代のスポーツにはあまりにも莫大な金がかかっている。キャリアの4年間を犠牲にすることなど、どんなことがあっても考えられない。プロアスリートの全盛期は25〜27歳の間であり、スター選手が一番の大型契約を結ぶ時期でもある。アリは人生の絶頂期に、つまはじきにされていた。
おそらく、公民権運動のリーダーだったストークリー・カーマイケルの言葉が、この状況を一番うまく表現している。
ベトナム戦争に反対したすべての人の中で、アリは一番多くを賭けた人物だと私は思う。多くの人々が行くのを拒否した。何人かは牢屋に行った。しかし、モハメド・アリほどベトナム戦争に行かないという決断のリスクが大きい人は他にいない。そして彼の本当の素晴らしさは、彼が受けた仕打ちの数々にも関わらず、彼はさらに偉大に、さらに人道的になったという事実だ。
彼の本当の素晴らしさは、その人間性にある。スポーツファンは、そして我々は、「アリの全盛期を見ることができなかった」と言うかもしれない。しかしアリは、アメリカ社会にもっと素晴らしいものをもたらした。アメリカは、国の歴史上最も多くの犠牲者が出た戦争に関わる、階級問題と人種問題に抗議する「声」を得たのだ。
ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。