思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『竹田教授の哲学講義21講』(みやび出版)3月25日刊・1800円

2011-03-31 | 書評
『竹田教授の哲学講義21講』(みやび出版)3月25日刊・1800円

ギリシャ哲学と近代ヨーロッパ哲学についての解説書として、本書は極めて優れています。
哲学書の読解が、思想の本質を探るという「意味論」として提示されていて、深く納得できます。
哲学説の核心的な内容を軸としての解説本であり、一般教養としての哲学の履修にも、哲学を専攻する学生にも、一押しの「教科書」です。
また、竹田さんの哲学の解釈は首尾一貫して大河のようであり、ギリシャ哲学と近代ヨーロッパ哲学のもつ価値を闡明にしますので、哲学教師にも大いに参考になるはずです。

ただ、注意しなければならないのは、竹田解釈が現代に生きる人(特に若者)の日常感覚に見事にフィットするために、竹田さんとそのグループによる哲学書読解の成果(現在進行中の「完全読解」シリーズ等)を後追いする営みが、「哲学する」の代わりになってしまうことです。

日々、自分が生きている現場・現実において、自分の生を自分で考え・つくる能動的営みこそ「哲学する」ことなのですから、哲学書の読解を「生きて哲学するエロース」と混同しないように注意すべし!です。ヘタをするとオタクになってしまいますから。

大学の哲学教師でない大多数の人にとっては、自分の日常の「仕事」「生活」を踏まえて、生の意味や価値を考え・生きるのですから、哲学は、それに役立つように遇さなければ意味がありません(哲学が人生をスポイルしたのでは、笑えない笑い話)。
哲学のよい遇し方の見本は、石橋湛山(第55代総理大臣)です。「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支える「作用としての哲学」を生きたのでした。

書評に戻りますが、『竹田教授の哲学講義21講』は、かつて「哲学」で悩んだことのある人には「推理小説」のように面白く読めるはず。活字の大きさ・段組がよく、とても読みやすいですし、表紙の絵も楽しく、358ぺ-ジで1890円。とってもお得です。全然哲学ではない「正義の話をしよう」のサンデル本などとは比較になりません(笑・ホントウ)。

武田康弘
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全面的に賛成 (内田卓志)

「大学の哲学教師でない大多数の人にとっては、自分の日常の「仕事」「生活」を踏まえて、生の意味や価値を考え・生きるのですから、哲学は、それに役立つように遇さなければ意味がありません(哲学が人生をスポイルしたのでは、笑えない笑い話)。
哲学のよい遇し方の見本は、石橋湛山(第55代総理大臣)です。「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支える「作用としての哲学」を生きたのでした。」(武田)

 昨日ある会で、石橋さんの言説と、少しその原点の王堂哲学について話してきました。
 私が石橋さんと出会った、25年前に比べれば石橋さんのことは、よく知られるようになりました。

 ただ、先生と私がこだわっている原理。(先生と知り合ってから強固にこだわっている)
 「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支え「作用としての哲学」を生きたのでし  た。

 このところを掴まないと、なんで石橋さんの揺るぎのない、一貫とした言論や思想の本質が分かりません。思考とは、そういう 行為・行動・作用・反射の一段階でないと、市井の民にとっては、役に立たない単なる飾り物の学問です。プラグマティズムは 大切です。

 上記のご意見、全面的に賛成。哲学者石橋湛山について語ることは、これから一層重要になります。

 私は、かつて白樺周辺の哲学として石橋さんを紹介しましたが、周辺ではないようです(笑)。

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健全・有用な新たな哲学への態度 (武田康弘)

内田さん
石橋湛山の話は、管理教育批判に取り組んでいた二十数年前にしばしば出ていましたが、「対し方」に確信がもてず、放置していました。
それが、内田さんから田中王道との関わりの話を聞くに及んで、本格的に取り組むことになったのです。とても感射しています。
哲学というと、どうしても「哲学書の読解」とイコールにされてしまうので、大変困ったことだと思い、【哲学への構え・態度の変更=民知(意味論)という知】をつくるための営みを『白樺』(その前身の『児童教室』1976年~と『哲研』1987年~)で続けてきたわけです。
わたしは、ずっと孤軍奮闘の思いでしたが(哲学館→東洋大学の創設者井上円了には共感)、石橋湛山の思想と実践=生き方を正面から見据えることで、勇気が湧き、深いよろこびを感じます。
もう40年以上前ですが、哲学者の言説を学び始めた高校生時代に、ドイツ観念論のまるで「理性による宗教」のような哲学に疑問をもち、デューイのプラグマティズに健全な明るさと現実的な有用性を感じたのを、昨日のように思い出します。
なんだか、とても楽しく気分です。共に!!
武田


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原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~ (NHK)柴田秀利と正力松太郎と米政府

2011-03-29 | 恋知(哲学)

細川連立政権の誕生で自民党が下野し、自由になったNHKが、1994年に放映した【原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~】(45分)が、グーグルビデオで放映されています。

読売新聞の柴田秀利と正力松太郎とアメリカ政府の使者・ダニエル・ワトソンによる「毒をもって毒を制する」という心理作戦の全貌が明らかにされています。

米ソ冷戦を背景にしたアメリカの水爆実験(第五福竜丸の被爆)への批判―日本人の「核」への拒絶感情を消すための作戦が、「原子力の安全利用=原発の推進」(毒をもって毒を制する)でした。

国会議員となった正力松太郎(警察官僚・A級戦犯・アメリカCIAとの深い関係・読売新聞社主・日本テレビ初代社長)は、原子力委員会の初代委員長になります。懐刀の柴田秀利と共に、読売新聞と日本テレビを使って「毒をもって毒を制する」大キャンペーンを展開し、アメリカ政府の意向(対ソビエト戦略―同盟国に濃縮ウランを提供して原発をつくらせる)を実現したのでした。


http://video.google.com/videoplay?docid=-584388328765617134&hl=ja#


武田康弘
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東京電力のカネ=寄付講座などの名目で、東大を中心に、主要大学にバラまき、世論操作。

2011-03-27 | 恋知(哲学)

林たけしさんから紹介があったブログです。

東京電力の世論操作のための手法は、いろいろと以前から指摘されていましたが、

東電は、寄付という名目で、東大をはじめとする全国の主要大学へお金をばらまき、東京大学大学院の工学研究科へは、寄付講座だけでも5億円に上るとのことです。

『東電のカネに汚染した東大に騙されるな!』(純丘曜彰・大阪芸術大学 芸術学部哲学教授)クリックでご覧ください。

武田康弘


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発電事業の自由化が必要。自己中=官僚主義の東京電力は要らない。

2011-03-26 | 社会批評

東電の「自己中停電」などに従わされるのは、真っ平ご免です。
東電は、火力発電所の稼働率(現在は50~60パーセント)を至急あげて、夏場の需要に間に合わせるのが当然。もちろん、節電は必要ですが。

しかし、独占資本による官僚主義(通産省との癒着)に【企業努力】などあるはずはなく、従来「自己中発電」を続けてきただけの東電ですが、事故を起こせば「自己中停電」をやるだけ。

こんな「お粗末」な電力会社など無用なのですが、エネルギー事業を官僚主義の独占資本に委ねる政策を続けてきたために、エネルギーの自給率が極めて低く、愚かな組織に国民全体が支配されてしまいます。

太陽光パネルの普及と共に、コジェネ(Co-Generation)、特に家庭用の燃料電池を用いるシステムの普及に努めることでエネルギーの自立をめがけること、また、同時に発電事業を自由化する必要があります。
官僚と一体化して独占利益をあげる「国家社会主義」から、「近代民主主義」への大転換が急がれます。

明治政府の山県有朋以来続く「官治主義」(天皇を頂く国家社会主義)を根絶する物質的条件は、【市民エネルギー】の確保です。
霞が関官僚とマスコミと独占企業が結びついた官治主義を変えるには、知的・精神的に自立した市民が必要です。表層的な事実知に過ぎない「官知」(テスト知)から、意味論としての「民知」(有用知)への転換は、そのための基盤です。


武田康弘


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Unknown (染谷裕太)
2011-03-27 00:44:04

今回のことがあるまで、まるで意識していませんでしたが、今の社会は電気無しではほとんど機能しないわけで、つまり、各家庭や企業に電力を自給させず、電力会社が生産・供給を一手に引き受ければ物理的に国民を支配できるわけですね。そしてそれが当然というような状況ができあがれば精神的にも支配することができる。

文を書きながら、なんかこういう構図ってどこかで見たな~と思ったら天皇に軍の統帥権を持たせて力で支配し、現人神として宗教上の権威にして精神も支配しようとした洗脳教育を思い出しました。
まぁものは「天皇」でなく「電気」ですけど。
むしろ隅々まで行き渡ってる分、電気の方が支配できそうですが。

なんにせよ東電の言いなりは冗談じゃない、ので、電力の自給と発電事業の自由化は必須だと思います。

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うーん、正鵠を射るコメント! (武田康弘)
2011-03-27 12:49:05

染谷さんのコメント、
「正鵠を射る」の見本のようです。

【天皇教】(日本の「知」が、意味論ではなく、事実学に過ぎないために、意味=なぜ?の掘り下げがなく、形式が支配する=様式による意識の支配)は、個々人の自由と責任により「私」から発するエロースを封じ込める役割を果たします。

まさに、閉じた組織=情報の非公開は、宮内庁の権威主義(主権者である私たちの税金で雇っている役人が偉そうにしている。また、そもそも天皇家の個人生活も、全てわたしたちの税金でまかなっている)に共通の「不遜」「愚かさ」「危険」を感じます。

日本社会の主権者は、わたしたちふつうの市民・国民であるのですから、みなが、きちんと情報を得、発言する必要があります。それは、権利のみならず、義務ですらある、ルソーに倣ってそう言いたくなります。

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原発は、多くの下請労働者の命の犠牲の上に成立しています。

2011-03-24 | 社会批評

今回、被ばくで病院に運ばれた作業員は、東京電力の社員ではありません。下請の労働者です。原発は、放射能を浴びる危険な仕事抜きには成立しませんが、その危ない仕事につくのは、電力会社の社員ではありません。下請・孫請け・曾孫請けの労働者です。

もう何十年も前から、その悲惨な実態が報告されてきましたが、マスコミ人はみな知らん顔です。白血病で亡くなった人・各種の癌で亡くなった人は、みな労災も受けられず、闇に葬られてきました。このような悲惨で非人道的な労働に支えられてはじめて成立するのが原発なのです。その一端は、平井さんの報告にもあります。

今回の被爆者も、短靴で高い放射線濃度の水に浸かって作業をしていましたが、東京電力の社員は、そんな無謀なことはしませんし、させられません。十分な装備もなく、危険だらけの環境の中で、命と引き換えに仕事をするのは、下請けの労働者たちです。通産省などからの天下り官僚経営者たちは、何のリスクも負わず、楽な仕事だけして、唖然とするような高給を取っています。

こんな組織をそのままにしていいわけがありません。お天道様は見ています。


武田康弘
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小我=人生の失敗

2011-03-24 | 恋知(哲学)

下のブログの続きです


大我としての自分=自己=意識とは、開かれた我=私のことです。
元来、人間の意識とは「志向性」を本質としますから(何かをめがける、何ものかについての意識)、閉じたもの・固定したもの=小我ではありません。

意識の本質とは「自由」である、とは、開かれているという意味です。

自分=自己とは、意識の別名ですから、人は生きている限り、絶えず自分を新しくしていきます。繰り返しますが、自分=意識とは、閉じた固定した世界ではありません。

意識が自己防衛の必要から一時的に閉じで固まっている状態を「小我」と呼びますが、この状態を続けるのは、自己欺瞞(自分で自分を騙す)でしかなく、「歪んだ意識」「不幸な意識」の別名です。したがって、小我としてしか生きられない人の生は、失敗した人生というほかないでしょう。

本来、自分=意識とは、固定させることの不可能な存在で、ゆえに「実存」と呼ばれます。実存とは「自由」の別名です。人間存在=実存は、「自由たるべく宿命づけられている」(サルトル)ために、人は、その言葉と行為に全的に「責任」を負っています。人間は、自由であるゆえに「責任」から逃れることができないのです。

自分につく、自分を中心に、というのは、一つの立場=思想ではなく、人間が人間として生きるためには、大我としての自分(=意識)を原理とするほかにないのです。石橋湛山の言う「我」「何をおいてもまず自己を考える」「明瞭にせられたる自己から出発する」「自己の立場についての徹底せる智見」(『哲学的日本を建設すべし』1912年・明治45年6月『東洋時論』社論・湛山28歳))というのは、そのような意味での我=大我のことだと言えます。

武田康弘
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自分を中心に考える、とはどういうことか。小我と大我。

2011-03-22 | 恋知(哲学)
「自己中」といえば、批判されるべきことですが、どんな人でも、まず、自分の「気分」が先立ちます。自分の安全を考え、自分の損得を考えますが、それは悪いことではなく、当然のことです。

自分という言葉の意味には、いまの気分を絶対化する「小我」、という意味と、よりよい「私」をめがけようとする「大我」という意味がダブっています。

いまある自分をそのままにして、その固定した自我から損得を考えれば、他者との関係は、必ず、利用可能か否かでしかなくなります。互いに主体者同士としての相互性のエロースを追求するのではなく、小我である自分が他者を利用するという他者関係にしかなりません。現代の成功者はこのような人が多いために、不幸を生産、再生産しているようです。

物や制度であれば、十分に利用するのがよいことです。利用することで、それらは価値をもちます。しかし、人間は違います。人間関係とは、親子、兄弟、友人、夫婦、恋人、生徒と先生、社員と経営者・・・なんであれ、協力関係・相互関係であり、一方が他方を利用するのではありません。人間存在とは「主体者」の別名ですから、他者を客体視することは不可能なのです。

小我としての自分のために他者との関係をつくるというのが「自己中」といわれるもので、これは、非難されて当然です。自分自身もダメにしていく愚かな思考・言動で、なんともイヤラシイ。

けれども、もうひとつの自分、よりよい「私」をめがけようとする「大我」であれば、これほど価値のあるものはありません。哲学の基本である、深い納得=腑に落ちる知を目がけるのは、この大我です。「なるほどそうか」という認識=了解ですが、それを得るためには、徹底せる自己が必要です。それが大我です。

【自分(大我)を中心に考える】、これは、よく生きるための基本であり、それを貫くことは、自分のみならず、他者の幸福・よろこびに貢献します。自他相互の関係性をエロース豊かな「得」のあるものにするのは、徹底せる自己(大我としての自己)なのです。それは、無限な拡がり、実存の充実から公共世界を生む基盤―条件と言えます。


武田康弘

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つづめて言うと、 (武田康弘)

このブログを約めて言うと、

人間は、自分を中心にして生きることが大事。ただし、その場合の自分とは、小我ではなく、大我のこと。

小我に囚われていると、自分自身の損であり、他者に害を与える。
自他共に利するのは、大我としての「私」。

ついでに言えば、利他的に考える(他者の優先)という思想は弱い思想であり、それでは、真に他者を利することもできない。

というものです。

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2011年03月24日 12:55
異論の立てようもない。(古林治)

『【自分(大我)を中心に考える】、これは、よく生きるための基本であり、それを貫くことは、自分のみならず、他者の幸福・よろこびに貢献します。自他相互の関係性をエロース豊かな「得」のあるものにするのは、徹底せる自己(大我としての自己)なのです。それは、無限な拡がり、実存の充実から公共世界を生む基盤―条件と言えます。』
異論をたてようがありません )^o^(。

幼少のころ、『おてんと(天道)さまが見てるよ!』と祖母によく言われました。
自己中に陥っていたり陰でワルサしたりしてれば、そこでギクッ!
自分の良心は良いか悪いかはよく知っていて、おてんとさまはそれを気づかせてくれるきっかけ、というわけです。

多くのは宗教はもっと明示的に、『○○すべからず!』、『○○すべし!』という形で人々を従わせます。
保守的な発想の人々も、内的な確信からではなく外からの正しい価値、道徳(○○すべからず、○○すべし)を教えるべきだといいます。姪の通っていた高校の教師たちも、教育とは道徳(明示的な禁止や命令)を教えることだと勘違いしていました(>_<)。

宗教や伝統的価値観・世界観が崩れ、個人の自由が尊重されたとき、人の行動を規定する原理を一体どこに求めればよいのか。今はそのような時代かと。

放置すれば、グローバル化と新自由主義に染まった節操のない自由(エゴ)も蔓延します。
「小我である自分が他者を利用する」輩が多くなっていくのには、いささかうんざりします。
これではいけないと、思想・イデオロギーに頼る生き方を主張する自称哲学者が大勢いるのにも閉口します。これは宗教や伝統的価値観と変わらぬ外からの明示的な価値(規制)を押し付けているにすぎません。
エゴはゆがめられ、別の形で人に不幸をもたらすだけでしょう、きっと。
これが最近の哲学ブームの実態だと思います。

前振りが長くなりました。
自分の頭で『より良い』について考える。それを徹底することで他者への想いにもいたる。
ご指摘の、
『もうひとつの自分、よりよい「私」をめがけようとする「大我」であれば、これほど価値のあるものはありません。哲学の基本である、深い納得=腑に落ちる知を目がけるのは、この大我です。「なるほどそうか」という認識=了解ですが、それを得るためには、徹底せる自己が必要です。それが大我です。 』
これは、言うは易し、行うは難し。
実際には、幼いころから日常生活の中でのたゆまぬ(『より良い』を追及する)体験の積み重ねこそが、『大我』に至る限られた道の一つなのでしょう。
あくまで、日常の積み重ね、です。
これが肝心かなめの肝(きも)、ですね。
いくら知識をため込み、理論を学び、論理を振り回そうと、それは本来の哲学とは無縁の世界です。
そのことを、学者さんたちとの討論を通じて私は学びました。

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責任をもった現場の人間ではなく、机上の知の大学教授が偉い!?マスコミの歪んだイデオロギー

2011-03-20 | 社会思想

いまさらですが、福島原発の事故でのマスコミの報道を見ると、現場を知らず、ほんとうのことは分からない東大や京大の教授を出演させて、常識的な決まり言葉を報道しているだけです。

頭、悪いんじゃないの~(笑)、というしかありませんね~。

一番責任をもって日々仕事をしている現場の技術者には、何も聞かずにです。

机上の勉強しかできない口先人間が偉い!という妄想からいつになったら醒めるのでしょうか?何事も実力がなければ、現実には何の役にも立ちません。当然すぎる話ですが。


武田康弘
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いや~、カッコいい!スノーボーダー・国母(こくぼ)和宏

2011-03-20 | 社会批評

いま、NHKの「スポーツ大陸」で、スノーボーダー国母和宏の活躍を伝える番組を見ました。

天性の素質をもつ国母は、とてもチャーミングで繊細。一般的な日本の青年とは異なる豊かな個性を持っていて、カッコいい!と思いました。

古い因習に囚われた旧日本人(笑)から「服装が~」と批判を浴びましたが、今の日本に求められているのは、彼のもつ自由さだ、わたしはそう確信します。

堅苦しい儀式(国旗と国歌が主役・笑)が大好きな旧日本人による支配を終わらせないと、個性を肯定する楽しい社会はつくれません。

それにしても、彼の滑りは、繊細で優しく独創性に溢れたものです。またそれは、日本人特有の濃やかさも感じさせます。スバラシイ!


武田康弘

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原発がどんなものか知ってほしい:平井憲夫(原子力発電所勤務)

2011-03-19 | 社会批評

以下は、わたしのマイミクのwingdaoさん(プルトニウムを主原料にするMOX燃料の品質管理シミュレーションのソフトウエア開発担当)からの紹介です。
皆さんにぜひお読み頂きたいと思います。
すべての見解が妥当であるとは言えないかもしれませんが、現場の証言は極めて貴重です。

■概要

原発がどんなものか知ってほしい:平井憲夫 (クリックして下さい)

 私は原発反対運動家ではありません。二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。




■筆者「平井憲夫さん」について:
1997年1月逝去。
1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。
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愚かな「原子力発電」はお仕舞いー太陽エネルギーの活用へ。

2011-03-18 | 恋知(哲学)

わたしは、学生のころ(40年ほど前)から原発に反対してきましたが、環太平洋造山帯の中にあり地震大国であるわたしたちの国で、核分裂による発電を行うというのは、自殺行為に等しいのです。

電力を一元管理したいという【官僚国家機構の集団意識】は、家庭や地域での発電を推進するのではなく、意図的に妨害し続けてきました。巨大電力会社にエネルギーを独占させることによる国家=官僚支配は、人々の意識まで管理することに成功したようにみえましたが(愚かな形式論理を振り回すネットウヨクの跋扈は一つの象徴)、今回の福島原発の事故により、その思惑=一元支配は、消し飛ばされたのではないでしょうか。

既成の体制(官治主義)に黙って従うのが正常で、批判者は排除するという「愚かな」事態が1970年代後半よりだんだんと酷くなり今日に至っていますが、この集団ヒステリー(=他者の排除)の破綻を証明するのが、今回の福島原発事故でしょう。

(「受験知」が知であるという思想、大手の進学教室が喧伝する「点数バカ」(パターン知と丸暗記頭脳)が頭がよいという見方が「妄想」であるのは、東大教授という肩書きで出演する人たちの頭のめぐりの悪さ、説得力のなさ、紋切型の発言をみると判然とします。)

かつては世界一のソーラー発電技術と生産量を誇っていた日本は、政府(自民党時代)の消極的な政策のために(エネルギーの一元管理思想に基づく)、ドイツに大きな遅れをとっていますが、今こそ国家戦略としてソーラーエネルギーへの転換を開始しなければなりません。
当面は、火力発電と水力発電だけでも十分ですので、その間に、家庭と地域へのソーラーパネルの普及を急ぎ、同時に地熱発電(火山国である日本の特権)の開発を大胆に推し進める必要があるでしょう。


武田康弘
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炙り出された「天下り組織=東京電力」の官僚主義

2011-03-16 | 社会批評
原発の設計・管理・運用の「初歩的ミス」、
なぜ、どうして、どのように、の「説明なし」の無計画停電、
情報公開と説明責任を果たさない官僚主義的「上から目線」

「高級(中身は低級)官僚」の天下り組織である東京電力の度し難い官僚主義が、大震災で炙り出され、誰の目にも明らかにされました。
実力の無い名だけの人間が上に立ち、理不尽なまでに苦労するのは現場の人間のみ。大金を貰い楽な仕事に従事する経営者は、ほとぼりが冷めるまで雲隠れ、せいぜいイイワケに終始する。まるで、戦前の皇軍(天皇の軍隊)と同じ。

これを機に、日本の統治と組織のありようを抜本的に変えていく必要があるでしょう。
形だけの知=受験知に根をもつ官僚主義。その支配を終わらせないと、主権者は国民という民主主義は現実のものになりません。

ちょうど、『誰が小沢一郎を殺すのか?』(ウォルフレン著・角川書店・3月1日刊)が届いたので、読んだところですが、この本の冒頭は、「大地震や大災害に見舞われると、人間というものははたと現実に気づくのか、」で始まっています。日本の政治が、いかに、なぜ、官僚支配になったのか?が、大変明瞭に強い説得力をもって描かれています。確かに林たけしさん(『ふざけるな校則』の著者)の言う通り、この書は、日本国民の必読書といえます。後で書評を書きます。


武田康弘


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林たけし

2011-03-18 10:13:15

取り急ぎご連絡、多くの国民に視聴して頂きたくご連絡いたします。私が20歳の頃、いわゆる原発のあり方についてテレビ朝日「朝まで生テレビ」等、今は亡きミュージシャンらも問題提起をしておりました。当時さまざまな妨害に屈せず広瀬隆さんの「東京に原発を」が話題にもなりました。大多数の国民は他人事でしたが・・・。大惨事になっても多数の国民が見る番組に出演させないテレビ報道にはウンザリしますが、3月17日の朝日ニュースレターでゲスト出演しています。
http://www.youtube.com/user/chorochannel
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対応不能な停電時間帯の設定―東京電力の官僚主義的な発想に呆れる。

2011-03-14 | 社会批評
絶対安定の「立場」が生む「愚かさ」。東京電力の初歩的ミスの連続を見ると、自分の力で生活しているふつうの人々の「確かさ」と、税金などの「特権的なお金」で仕事をする人・組織の愚かさが、見事なコントラストをなしています。

これほどの大災害に見舞われても、誰もパニックにならずに冷静に行動する多くのふつうの国民。それに対して、東京電力の幹部社員(官僚と同じ立場の人々)の無責任性と愚かさ。

原発事故で、基本コンセプトの初歩的な問題性が明らかになっても、謝罪すらしない態度は、官僚主義に染められた霞が関と同じ。さらに酷いのは、計画停電をめぐる右往左往と時間帯設定のムチャクチャさ。

朝と夕方から夜にかけての2回の計画停電とは、計画性の欠如した呆れる他ない方策。ほんらいは、「徹底した節電」を呼びかけることを基本に、停電が必要ならば、21時以降の一回にすべき(分散が必要でも昼間は1回)。生活の工夫でしのげる停電をまず実施し、それでも不足する事態に陥った時に昼間の時間帯を追加するのが現実的な考え方のはず。

時間帯を極めて機械的に設定し、生活の実情を無視した「計画ならぬ計画」には、机上の勉強しかできない(=本質的に頭が悪い)人に共通の愚かさを感じます。繰り返しますが、日本のふつうの多くの人々は優れているのですから、国民を信頼し、まずは徹底した節電を訴え、21時以降のみ(分散が必要でも昼間は1回)の停電を実施すべきです。


武田康弘
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福島原発事故は、初歩的なミス。

2011-03-13 | 社会批評
メルトダウン(炉心融解)について心配されますが、それにはいま触れません。

今回、福島第一原発では、冷却不能という非常事態になりましたが、非常時に冷却システムが作動せず、海水を入れて冷却する他はないという事態を見ると、設計段階かあるいは運用段階における初歩的なミスとしか思えません。

大地震発生時に電気がストップすることは想定されますから、自家発電装置の維持は絶対的な要件です。ところがそれが作動せず、したがって冷却水も入れられず、ついには海水を使用する(おそらく原子炉は修理不能)とは、なんともお粗末で「原始的」な話です。

今回の東北地方を中心とする地震は、マグニチュード9.0とは言え、震源は陸地ではなく海であり、福島での揺れは震度6。想定外の揺れであるはずがありません。震度6で安全を確保するシステムがみな作動せず、海水を直接注入という事態に陥ったのは、基本コンセプト作成上の初歩的なミスというほかないでしょう。

メルトダウンによる放射能が容器外部に放出される事態に陥らぬように祈るばかり。


武田康弘

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後藤政志さんと同じーーー武井繁明


タケセンさんが書かれていることは、元格納容器設計者の後藤政志さんが、語っていることと同じです。

設計論理を超えた状況になっている。設計論理に至るまでの仮設が甘すぎた。現場管理の想定も甘いと……

”絶対安全を保証する”と歴代政府と各電力会社が言い続けてきた原発の、二重三重の安全冷却システムが、稼働しなかったことは、事実上の原子炉の破綻で、日本の原発政策も同時に破綻したと言えます。
どんな災害に対しても、安全システムが対応することが、原発の条件ですから。


祈ることしかできないのは、辛いですね。でも祈るしかない……

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東電の官僚主義ーーー 武田康弘


テレビを見ていて思ったことを書きました。
「タケセンさんが書かれていることは、元格納容器設計者の後藤政志さんが、語っていることと同じです。 」ーー
そうなのですね。
ほんとうに、海岸線につくるのですから、津波にしても「想定内」は当然。あまりにお粗末。それにしても、東京電力の官僚主義には恐れ入ります。謝罪すらない!!(呆・憤)。

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「私」につく、ということの意味は?

2011-03-11 | 恋知(哲学)

「私」につく、ということについて考えてみたいと思います。どうも意味を取り違えられることが多いので。

もし、「私」につく、というのが、自分の判断やありよう(生き方・考えかた)を絶対なものとする態度のことであれば、その人生は豊かさとは無縁になりますし、その人は少しも魅力的ではありません。

わたしが言う「私」につく、という意味は、ほんとうに「よい」ことや「美しい」ことはなにか、を追求するための土台となる態度を指します。人間の営みのすべてについて言えることですが、どう捉え、どう考えたらよいのかを、「私」に深く納得がくるように追求するのは、なにより大きな価値をもちます。

皆が言うから、権威者や上位者が言うことだから、というのではなく、自らの日々の具体的経験に照らして吟味し、「なるほど、そうだな」と「私」が納得する、そのような生き方を可能にする基本の態度を、「私」につく、というのです。

「私」につく、というのは、よい人生を営む基本=土台である、わたしはそう考えています


武田康弘

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