思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わが日本とは実に恐ろしい国=合法的に女性の同意なしに16500人に強制避妊手術を行った。衝撃です。

2018-01-25 | 社会批評

以下は、凄まじい話ですが、わたしは不覚にも知りませんでした。ナチスでも北朝鮮でもなく、戦後の日本、1996年までのことです。

わが国の官僚政府の底知れぬ恐ろしさを改めて知り、衝撃を受けました。

人権とは、今も昔の建前にすぎないのが日本国なのでしょう。安倍内閣の中心ブレーンである八木秀次麗澤大学教授が、ちくま新書に「反人権宣言」を書き、戦後日本をダメにした最大の原因を「女性と子供の人権だ」と力説しますが、それが彼らの本音なのでしょう。

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1/25(木) 16:24配信 河北新報

旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた宮城県の60代女性が30日、国に補償を求める全国初の訴訟を起こす。本人の同意のない手術により全国で約1万6500人、宮城県で約1400人が子を持つ人生を一方的に奪われた。母体保護法への改定後、障害を理由に手術を強いられた人もいる。偏見への恐怖で、これまで声を上げられなかった東北の被害者の実態から、今なお残る優生思想の陰を探る。(報道部・畠山嵩)

【強制不妊・避妊手術】宮城県内859人 旧優生保護法 最年少は9歳

◎命ある限り 被害訴える

 愛宕橋(仙台市太白区)を越え、路地に入った先に駐車場が広がる。ここには1962年6月から約10年間、宮城県が運営する強制不妊手術専門の診療所があった。

 「何も知らされず子どもを産めない体にされた。人生が全て無駄になった」

 飯塚淳子さん=70代、仮名=は16歳の時、卵管を縛る手術を受けた。軽度の知的障害を示す「魯鈍(ろどん)」が理由。「遺伝性の障害はなかったのに」。今でも怒りで声が震える。

 7人きょうだいの長女として県沿岸部で生まれた。父親が病弱で家庭は貧しかった。民生委員から「生活保護を受けているなら、優生手術を受けないと」とでたらめな説明をされ、中学3年の時に仙台市内の特別支援学校に移された。

 卒業後は知的障害者の職業訓練をする「職親」の下、住み込みで働いた。「他人の子だから憎たらしい」。背中に馬乗りになった職親の奥さんに言われた。ある晩、つらさのあまり逃げ出したが、すぐに連れ戻された。

 63年1月、県の精神薄弱更生相談所(当時)で知能検査を受けさせられた。判定書は「身体的異状認めず」「態度良好」とする一方、「魯鈍」「優生手術の必要を認められる」とも記載。間もなく、行き先や目的を告げられないまま奥さんと愛宕橋を渡った。

 診療所には、なぜか父親もいた。言葉も交わさず病室に入ると、注射を打たれた。気が付くと病室のベッドで寝ていた。その間の記憶はない。後日、実家で偶然、両親の会話を聞き、子どもを産めない体になったと知った。

生理のたびに耐え難い激痛に襲われた。仕事もままならず、介護職の夢も断念した。卵管の糸をほどくため東京都の病院を回ったが、縛るよりはるかに難しく、無理だった。子どもは諦めきれず、23歳の時に養子をもらった。

 「国に補償と謝罪を求める」と決意し、20年ほど前に名乗り出た。日弁連に人権救済を申し立てるなどしたが、国は「当時は合法」の一点張り。他に訴え出る仲間も現れず、独りで声を上げ続けた。

 昨年7月、宮城県在住の佐藤由美さん=60代、仮名=が被害を公表した。「新しい人に出てきてほしかった。頑張り続けたかいがあった」。涙が止まらなかった。由美さんは30日、国に補償を求める全国初の訴訟を起こす。

自分は訴訟に参加できない。手術理由などを記した「優生保護申請書綴(つづり)」を県が焼却処分し、証拠がないためだ。左胸には乳がんを抱えるが、訴訟に懸ける思いは誰よりも強い。

 「人生を奪った国はきちんと責任を取るべきだ。自分が死んでも被害者が国を追及できるよう、命ある限り被害を訴える」

[強制不妊手術]「不良な子孫の出生防止」を目的に1948年施行の優生保護法の下、母体保護法に改定される96年まで実施された。優生保護法4条は遺伝性疾患を持つ患者に、都道府県設置の審査会が認めれば本人の同意なく不妊手術をできると規定。12条は遺伝性疾患以外でも、保護者の同意と審査会の決定があれば手術ができるとした。53年の国の通達は、手術のために身体拘束や麻酔の使用、被害者をだます行為も認めていた。

 

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クルレンツィスの演奏で、わたしは「フィガロの結婚」に開眼。なんという愉悦感

2018-01-25 | 芸術

 

 クルレンツィスの演奏で、わたしは「フィガロ」に開眼しました。

 なんいう面白さ、まるで音楽のイデアが目に見えるよう。ああ、これがモーツァルトなんだな、と感じました。様式も時代も超え、ムーサ(ミューズ)が現れ出るのを視るー聴くのは心躍る体験です。

 今までの「フィガロ」の演奏は、モーツァルトの楽曲のイデーと実際に演奏される音楽との間に介在物が存在していたのだな、それが「楽しめない」原因だったのか。古典的なオペラとはこういうものーそういうわたしの認識の間違いに気付きました。

 クルレンツィス+ムジカエテルナ(彼がつくった古楽器と現代楽器を使い分ける凄腕オーケストラ)を体験してしまうと、かつての名演カール・ベームの演奏も、21世紀初頭の古楽器による名盤=ルネ・ヤーコプスも邪魔な膜=介在物があることが感じられます。クルレンツィスのフィガロは、愉悦感に溢れ、躍動し、器楽も歌唱もとても自然です。

 音楽好き、モーツァルト好き、オペラ好きの方で、まだ体験されていない方は、ぜひ。心が自由で快活になり、身体が自然と動きだし、豊かな世界が広がります。どこもかしこも面白く、病みつきに~~~。輸入盤ならば、3枚組全曲が2500円程度で買えます。


武田康弘

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人間は、精神こそすべて、でしょう。

2018-01-23 | 私の信条


人間は、精神こそすべて、でしょう。

しかし、その精神とは、戦前の日本でいわれた「ニッポン精神」でもなければ「大和魂」でもありません。
お国ために、とか、天皇陛下万歳という「国家宗教」の精神とは無縁の精神です。

「私の精神」であり、「一人の人間としての良心」です。国家主義とか日本主義というイデオロギーではありません。

伸び伸びと自由で、しなやかで、強い心身を生む精神です。
柔らかく、囚われがなく、飛翔する精神です。
私から始まる民主的で開かれた精神です。
奴隷根性とは無縁の自立する精神です。
安易さのない不退転の精神です。
他者承認に怯えない精神です。
豊かな悦びを生む精神です。

そういう心身を生むのが、ほんものの精神ではないでしょうか。
そういう意味で、人間は、精神こそすべてなのです。


武田康弘



 

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豊かな愛情がなければ、人間のあらゆる知と行為は、無意味、否、有害です。

2018-01-22 | 恋知(哲学)



(第41回 式根島キャンプ&ダイビングで、レストラン・サンバレーの梅田さんと)


一枚の写真の善し悪しは、そこに愛があるか否かで決まります。愛のない精密なだけの写真は、心身を害します。そういう写真を見るのは不愉快です。

音楽も同じ、愛に乏しい音楽は、どれほど技量があろうと無価値、否、技量が高い分だけ有害です。人を不幸にします。

学習や学問も同じ。愛のない知は、他者支配の道具にしかならず、高等だましの言説にしかなりません。他者の上に立とうとする知の営みは、すべて本質的に悪行です。愛情がなければ、知や理性には、存在する理由がありません。

スポーツも、それ自体への愛のない勝利至上主義は、自他の心身を害し、まったく健康を生みません。

政治に人間愛がなければ、国家主義に陥り、人々を抑圧する恐ろしい道具となります。権力を私物化する政治家とは、政治家としてのみならす、人間として最低の存在です。

愛、豊かな愛情を交わし育まない子育てと教育は、人間と社会を終わらせてしまう根源悪で、不幸を生む最大の原因です。

豊かな愛情のない人間の知や行為の恐ろしさを深く自覚しないと、生きる意味は元から消えてしまいます。人間のいない国? 表現不能の恐怖です。


武田康弘

(※ネクロフィリアについて

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「春の祭典」 テオドール・クルレンツィスとムジカエテルナ (ソニーレコード)

2018-01-20 | 芸術

昨日、CDが届き、教室(白樺教育館)で中学生の授業前に聞いたが、はじめ、面食らった。予想とは異なり、意外とおとなしい演奏。
あれっ?
聞き終えて、もう一度再生。まだ真意がつかめない。

今日、家のキッチンの小型のオーディオで聞く。あーーーっ、これはモダンと自然(土着)が一つだ。美しい。弱音部分の美と意味深さに惹きつけられ、うっとりした。強奏部分はとてもシャープだが、荒れない。自然な美しさを保っている。バーバリズムとは無縁だ。

いま、わたしの音楽ルーム兼書斎の大型装置で聴いている。ますます弱音の美しさが際立ち、隅々まで繊細で、実に丁寧。20世紀の事件となった不協和音と荒々しいリズムを特徴とする音楽ではなく、モダンと土着が合一した最高の名曲としての「春の祭典」が繰り広げられる。

それにしても、激しく燃えるような情熱が、頭脳明晰・クールなまでになまでにコントロールされたクルレンツィス指揮のムジカ エテルナがつくる音楽を聞いていると、ちょうど100年前(1917年)に出されたアインシュタインの「一般相対性理論」を思い起こす。最初、それを読んで意味が分かった人はほとんどいなかったが、瞬く間にその衝撃は世界を席巻した。時間と空間の概念が革命されたのだった。

いま、5回目。
実演のような大音量で聴いているが、録音も素晴らしく、眼前に楽器が見える。
う~ん、これは、電子テクノロジーの著しく発達した21世紀のモダンと、土着的な人間の自然性が一体化した恐るべき次元の演奏だー不動の確信がやってきた。徹底的に考え抜かれ、コントロールが行き届いていて、且つ自然でふつう。なんということ。 もう一度、うつくしい! そして実に強い! 


武田康弘

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週2日は休養を=中学部活で指針骨子―スポーツ庁ーー気の遠くなるほどの年月の末、ようやく依存症から一歩前進。

2018-01-17 | 教育

週2日は休養を=中学部活で指針骨子―スポーツ庁

1/16(火) 16:41配信

 スポーツ庁は16日、中学校の運動部活動に関する有識者会議を開き、学期中は週2日以上の休養日を設け、平日の練習時間は長くても1日2時間程度にすべきだとするガイドラインの骨子を示した。

 生徒のけが防止や指導教員の負担軽減が目的で、年度内に正式決定する。

 骨子では(1)学期中の平日と土日に各1日以上、合わせて週2日以上の休養日を設ける(2)1日の練習時間は平日は2時間程度、休日は3時間程度にとどめる―ことを提言。教育委員会や校長は、ガイドラインを参考に休養日と練習時間を盛り込んだ活動方針を策定するとした。高校の部活にもガイドラインの準用を求める。

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 言葉を失うような超時間労働ならぬ長時間部活=運動部と器楽部の問題は、---何十年も前から続く異様な事態でしたが、ようやく。ほんとうに気の遠くなるような時間の末に、改善にむけて前進です。

 生徒も先生も部活中毒(部活依存症)で、これは世界中どこにもないことですが、なぜ、現場で改善できないのか、ここに日本人の生き方の異常性が象徴的にあらわれています。

 何十年間も非常識な拘束=毎日暗くなってからの帰宅という異様な学校生活が続いても、それを改善できない当事者たち、親と子と教師の思考力・判断力・実践力のなさには今更ながら、呆れます。

 こどもたちの部活や生活仕方まで、役所に決めてもらわないとどうにもならない? もうそろそろ日本人も「一人の自由と責任をもつ人間」として生きることをはじめませんか? いつまでこうなのでしょうか。なんとも情けないわが国民。

 わたしは、1986年に「我孫子児童教育研究会」をつくり、丸刈り強制の撤廃と体罰禁止を実現させました(その考え方とプロセスは、岩波書店からの依頼原稿「我孫子丸刈り狂騒曲」に詳しく記しました)が、同時に過激な部活動のあり方を批判し続けてなんと30年以上が経ちます。中学生に疲労骨折者が幾人も出る異常な事態でも学校や教育委員会は、何もしてきませんでした。

 

武田康弘

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わたしが設計したワンルームの清掃に精を出した一週間。 誰が住むのかな?

2018-01-15 | その他

わたしは、この1週間、授業の前に貸し部屋(ワンルームマンション)の掃除と修繕に精を出しましたが、綺麗にすることは、それ自体がよろこびだな、と改めて感じます。

もともとこのワンルームは、自分が独身であれば、こんな部屋に住んでみたい、と思う部屋としてつくったのですが(細部まですべて私の設計です)、掃除をするのも、同じこと。

床、扉、トイレ、水場、すっかり綺麗になりました。
トイレや水場は、プロが一応はやりましが、全然納得いかないので(笑)、気合を入れて、ピカピカイに~~。気分いい~~

さて、どんな人が住むのかな?楽しみです。

コンクリート造 (大成建設)。

ドア・窓は、すべてペアガラス。

ワンルームで対面式(テーブル付き)のキッチンは、まずないでしょう。

洗面所とバスとトイレが独立する水場は、別空間。

ベランダ付きで、屋上も利用できます。

共益費、上下水道代、ネット代を含んで家賃4万5千円は、格安と思います。

 

 

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個人が「個人として輝いたままでは生きてはいけない」国があるようです。

2018-01-08 | 恋知(哲学)

「私」としての、一人の人間としての、個人としての、想いや考えを述べない人々であふれる国。

 そうだからこそ、個々人の固有の存在=命の価値を自覚しない管理者に支配される国。

 個人が自由に個人の意見を主張しないので、息苦しいムードが漂う国。

みな同じ価値観で、まるで昆虫のような属性をもつ集団同調の国。

巨大組織が偉いとされ、それに従う人がやたらと多い国。

今なお、誕生と同時に敬語で遇される家族がいる国。

そういう国はどこにあるでしょうか。

幸福をつくらない国のようです。

 

武田康弘

fbコメントです。

桑村和夫
ごく個人的な経験ですが、私の小学校5~6年生の時のクラス担任の先生が、ここに述べられたような考えを語り、何人かの生徒に具体的に指摘されたことがありました。
それは、個々の生徒が自分たちの親たちの考えに全面的に支配ないしどっぷりと染まった影響下にあり、昆虫の脱皮のような体験を経なくてはならないことを教えるものでした。
生徒一人ひとり受け止め方は違ったと思いますが、私も私なりに強烈な思考を巡らせる体験をすることになりました。
端的に、親たちからの精神的な巣立ち、自立、自律のイニシャル・ステージに立つ契機となりました。
現政権の首脳たちを見ていると、彼らが二代目、三代目のボンボンであり、恐らく私の先生のような指導を受けたこと、或いは自覚した経験など一度もないのだろうと思われてなりません。
脱皮の体験、強烈でした。中学校に進んでなお三年間考えさせられました。
 
武田 康弘 桑原さん、すばらしいコメント、ありがとうございます。
ほんとうの教育=自分の頭を悩ませて考えることで精神の世界をつくる、がない昆虫大国では、あまりに情けないく、哀しく、不幸ですよね。
ただ従わせる教育は、最大の罪です。恐ろしい馴致教育を平然と冷静に行うのは、狂気の国。
健康・健全、人間愛に満ちた教育により新しい日本をつくり出していきましょう。
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命(いのち)を問い直す=恋知   旭山動物園長ー坂東元さん『人間のエゴ』(同胞新聞)

2018-01-08 | 恋知(哲学)

 以下は、『同胞新聞』(真宗大谷派刊)のインタビュー記事です。
命(いのち)について、動物から学び、広く深く語られます。人間の生き方・価値観の問い直しです。

2017年12月号(前編)と2018年1月号(後編)ー旭山動物園の園長・坂東元(ばんどう・げん)さんが語ります。

 

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まるで「恋知」の音楽化のようークルレンツィスのベートーヴェン交響曲5番「運命」ー舞踏付き。

2018-01-07 | 芸術

桁違いの指揮者=テオドール・クルレンツィスと彼がつくった名人級オーケストラ=ムジカ・エテルナによるベートーヴェンの交響曲5番ハ短調「運命」の舞踏付きの演奏をYoutubeで見ました。

それは、網のような・牢獄の格子のようなものに囚われてうずくまっている大人たちを、子どもたち解放するという舞踏です。

まるで、【恋知】(古代アテネ・ソクラテス出自のほんらいのフィロソフィー)を音楽化=舞踏化したようなベートーヴェンの5番を見聞き、悦びでいっぱい!!!
大人たちはみな既成秩序に呪縛され不幸に沈んでいます。哲学も大学内の一制度となり、現状を合理化するだけの言葉の城となり、意味を失いました。
クルレンツィスの音楽は、既成の意味の牢獄からの解放です。うん、史上最高の「ブラボー!」

クルレンツィスは、音楽の力で世界を変えようとしているかのようです。実際、彼の演奏をYoutubeで中学生や高校生に見せると、クラシック音楽とはあまり縁のない子も皆、驚き、悦び、興奮し、「ずごい!」「感動した」「やったね!」「もう今までのは終わってる」などと言います。

凄い人間が現れたものです。アテネ生まれのアテナ育ち、まるで古代アテネからの使者のよう(笑)で、ロシアのシベリアを活動拠点する彼とオケは、来年初来日。これまた桁違いの同志のヴァイオリニスト=コパチンスカヤも一緒です。わくわく、ドキドキ 音楽を先頭にして、人々と世界を変えてしまいそう。クルレンツィスの言葉では、Revolutionary spirit 


武田康弘

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「真似っ子まんざい豆屋の小僧・・」「おまわり来い、裸で来い!こっちで罰金取ってやる~」= 神田っ子

2018-01-06 | 教育


「神田っ子」土門拳撮影

 

 わたしは、神田須田町の生まれですが、
幼稚園~小学1年くらいまで、外で毎日のように友達遊び、
そのとき、皆がよく歌っていたのが、「まねっ子まんざい、豆屋の小僧、豆がないから売れないよ~!
人のマネをする子を馬鹿にし、揶揄(やゆ)したのです。

 わたしのその後の人生は、今日までマネをしない生き方です。生活も仕事も活動も趣味も、人の真似をしない、オリジナルです。
それは、最高の悦びであり、同時に最高にリスクを負う生き方です。とてもタイヘンなのですが、慣れれば大丈夫(笑)却ってリスクがないとつまらなくなります。

 オリジナルですので、ヒドイ誤解を受けたり、曲解されて人が離れたりはよくあります。荒唐無稽な話をでっち上げられり、また、あんまり容易く人助けをするので、恩を恩とも感じないで、逆に悪口を言う(仇で返す)人まで続出。でも、まあ気にしない、却ってファイトの元ですから。

 写真一枚撮るにも、武田オリジナルです。人真似はしません。でもそれは、他者から学ばないのとは違います。10代20代の時は土門拳の写真をいやになるほど見、彼の文章は全部読みました。誰か知らない人の写真でも、これは凄い!と思うと、食い入るように何度も見ます。そこから学びます。でも、それらは肥となってしまい、原型はとどめません。真似はしないのです。わたし自身が心身全体で直接、感じ、想い、考える地点から新しく始めるのです。それには心身のパワーと臨機応変・当意即妙の精神が必要ですが、オリジナル精神がそれを可能にするので、グルグル回りです。

 もちろん、本業のフィロソフィーや教育は、みな武田オリジナルです。本も必要と判断すれば深く読みますが、言葉や文章に著された思想は、わたしの中で消化されてしまい、書物に頼ることはないのです。わたしは言葉を言葉のまま記憶することをしません、というより出来ないのです。言葉はイメージの世界に広がってしまい、形をなさないのです。

 真似をしない、オリジナルであること。神田っ子の心意気、こどもたちは、日本という真似が蔓延する社会(管理社会)の中で、そのつまらなさ、うさん臭さを実に的確に捉え、それを歌にしていたのだな~~~と今更ながら感動です。
 大人のツマラナさやインチキさを見抜くのはいつも子どもたち、「天晴れ!」だな。

 

 それからもう一つ
これは亡母の子どもころですので、戦前です。

 憲兵や警察官や将校など制服組が威張り、上から庶民を押さえつけていた時代です。
学校では、天皇陛下(神)の写真を毎日拝み、明治天皇に捧げられた「君が代」を歌い、歴史は、天皇の名前(神話上の人物もすべて現実と教えられていた)を覚えるのが一番で、上位者に従う「教育勅語」(明治天皇が臣民に下した道徳)の暗唱をし、国民は天皇の赤子であると教えられていました。

 そんな時代になんと神田っ子たちの遊びは、警察官をからかうものでした。
おまわり来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる~~~!」と言い、わーっ と逃げたのだそうです。

 とんでもない迫害の時代、政府(岸信介や東条英機)やその番犬のような人間たちが威張りくさっていた時代、こどもたちは、まことに正しく、その悪=非人間性を感じ取り、勇気ある遊びをしていたのでした。
 神田っ子(だけではないでしょうが)、天晴れ!ですね~~~ うん、実に気分いい。


 

 

武田康弘

 

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幼子は知っているのです。命とは愛であることを。国家主義が狂気であることを。

2018-01-02 | 恋知(哲学)

 赤ちゃんは、人間としてうまれてきます。
人種の違いこそありますが、国別の存在として生まれるのではありません。
赤ちゃんは、日本人、韓国人、中国人・・・それぞれの言葉・文化の中で育ちますが、その違いの底に共通する人間存在としての命を生きるのです。
 
 人間は、どこの国の国籍を持とうが、それ以前に人間存在であること。この前提に立って物事を考えないと、愚かな想念に囚われ、危険思想を生んでしまいます。いわゆる国家主義へと堕ちるのですが、この陥穽の恐ろしさを世界は忘れつつあるようです。

 赤ちゃんは、おとなよりもはるかに鋭敏に、「愛」という命にとり最も大切な感情を知っています。人間のよき生、とりわけ幼子に特定のイデオロギー(例えば戦前の「教育勅語」)は無意味・無価値です。幼子は、言葉や形ではなく、その人がほんとうに愛ある存在か否かを鋭敏に感じ知ります。ウソやゴマカシは通じません。

 利害・損得計算の人、躾と称して形式主義を強要する親、これが国柄だと称して思想や主義を注入しようとする大人・・・そこには愛がないことを幼子は分かっています。

 幼子は、ほんらい人間は自由であり、生まれた国や文化や状況の中から、自分自身にあったエロース(魅力価値)を汲みだすのが人間の生き方であることを先験的に承知しています。それが分からないのはダメにされた子どもである大人だけーあなたは大丈夫?(失礼)。

 幼子は生れながらにして、「秩序」は、強制されるものではなく、学ぶものであることを知っいます。どのような秩序が必要かは、幼子自身が試しつつ学ぶのです。納得をつくるために、毎日試行錯誤しています。大人が急いで秩序化しようとすると、納得=腑に落ちることがなく、怖いので従うだけの存在になります。

 精神の自由と自立と豊かさのない人、ただ事実として人間であるだけの存在=「事実人」に陥るのです。まるでAI=認識する電子機器のような、あるいは楽譜を正確に弾き歌う自動人形のような、あるいはスポーツ競技をするマシーンのような、あるいは人間のよき生への探求がない技術オタクのような、です。

 そこには内から湧き上がる愛がなく、自由な精神がなく、エロース豊かな存在の魅力がありません。あるのは、他者との競争=勝ち負けのために生きる戦士であり、それへの称賛です。すべては外です。外的価値に支配された人間は、内的秩序をもつソクラテス的人間、自分自身の内なる声に従うことを教えたブッダ的人間とは無縁の存在です。

 どこの国に生まれようが、赤ちゃんは、みな自分自身として生きようとしているのです。それを破壊しようとする大人の所業は、これ以上はない根源的悪であることを知らねばなりません。

 

武田康弘

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12月28日のライブ=ロシアTV  クルレンツィスのショスタコーヴィチ7番「レニングラード」に驚愕!感動

2018-01-01 | 芸術

2018年が明けたばかリ、真夜中の来訪者=教え子の西山裕天君に、驚くべき指揮者=クルレンツィスの話をし、ユーチューブで映像を見せ聞かせていたとき、偶然に新しい映像が入ってきた。12月28日に行われた演奏会のライブ配信=テレビ映像だ。

もはや通常のコンサートではない、「事件」だ。桁違いの名演に呆然。

第二次大戦の末期。ヒトラーのドイツ軍に包囲され、孤立した極寒のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)は、餓死者も続出、地獄絵となったが、ショスタコーヴィチはそこに留まり、ソビエトとドイツと全世界に向けて交響曲7番「レニングラード」を創り放った。頭上を戦闘機が飛び交う下で、自身でピアノに編曲して弾き、ラジオ放送された。

この曲がどれほどのものか、今までわたしはこの曲の真価を掴み損ねていたが、クルレンツィスとムジカ・エテルナ(クルレンツィスが組織した古楽器によるオケで名手の集まり)の演奏に震えた。レニングラードにおける初演者のムラヴィンスキーをはじめ数多くの名演を聞いても納得がいかなかったが、いま、深く身体に入った。

ムジカ・エテルナは、古楽器を現代楽器に持ち替えて、チェロを除く全員が立ったまま演奏。もう評する言葉もないほどの名演=熱演。ロシアのテレビ局は、始まる前から終わって皆が引き上げるまですべてをライブ放映したので1時間46分の番組となった。

飛ばし飛ばしでよいので、ぜひご視聴を。YOUTUBE

 

元旦、しかも年明けと同時の夜中に、まるで事件のような演奏に遭遇し、興奮がさめず、熱が出そう。今年は、よい年になるな。

来年2019年2月には、クルレンツィスとムジカ・エテルナの初来日が決定。しかもクルレンツィスの愛ある同志で、桁違いのヴァイオリニスト・コパチンスカヤも同行し、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾く。世界が変わる。

武田康弘

 fbコメント

冨樫 昌一
長時間立ち通しの演奏は体力的にも精神的にも相当集中力を保たないときついですね。さすがにアンサンブルの精度や奏者同士のコミュニケーションは格段に良くなりますし、指揮者の独り相撲や特定奏者の名人芸披露のような演奏とは一線を画すのはわかります。何年となく続いてきたオーケストラ演奏のありかたに、一石を投じるものとして興味深いです。クルレンツィスに対する評価は、他の演奏も聴いて判断したいと思います。実験的・表現主義的な傾向があるのか、経験・英智に裏打ちされた上での表出なのかまだわかりません。私がはじめてこの曲を聴いたのはノイマン・チェコフィルのLPで、その時の強烈な印象は忘れがたいです。
 
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武田 康弘
表情の多彩さ、多色で変化に富む。繊細で、きめ細かい。
磨かないのに音が美しい、音の粒子が小さく、粒立ちがよい。
流れが自然で、力みがなく、音楽が塊=団子にならない。
外的な情景の描写ではなく、精神の世界模様として描かれるために、奥深い音楽になり、ショスタコーヴィチの怒り、嘲り、陰鬱、慰め、闘い、持続、屈折、愛、連帯、不屈、勝利・・・が克明となっている。
驚くべき明晰さが単純さとは無縁の地平に展開される様には感嘆するほかない。
わたしはそう感じました。
モーツァルトもチャイコフスキーもストラヴィンスキーもマーラーもみな驚く名演で、実に新鮮。根源的でかつ自然性に富み、新しい世界が拓けます。ぜひ、お聴きください。
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クルレンツィスは、あらゆる抑圧、とりわけ国家権力の個人抑圧に対して不退転・非妥協的に闘うイデーをもつ。それが彼をカリスマにしている。そうわたしは確信しました。
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