思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

原理的次元と現実的・実際的次元の相違ーー信号機というシステムを例に。

2010-03-31 | 社会思想

 わたしたちが何かについて考えるとき、それが原理的次元のことなのか、実際的・現実的次元についてのことなのか、その違いを明晰に意識しないと、混乱して収拾がつかなくなります。

 例えば、ルソーが示した近代社会の屋台骨である「社会契約」や「一般意思」の思想は、原理次元のものです。ルソーは近代市民社会の仕組みを構想するとき、その範を故郷であるジュネーブに求め、それを理念化しました。独立に慣れ親しんでいるために、人々が放埒さとは無縁の自由を持ち、よい習慣の下で暮らしている国民を想定し、そこでの統治の仕組みを『原理』として提示したのです。直接民主制が可能な小国でなければ、原理になりうる思想は提示できないからです。

 したがって、実際に各国の統治をどうするかは、原理を踏まえた上に、個々に考えなくてはいけません。原理はマニュアルとは違うのです。例えて言えば、信号機のシステムのようなものです。クルマがある程度以上の数になったとき、信号機が考え出されましたが、そのシステムは原理であり、交通量が多い場合はどの地域でも必要となります。すべて立体交差になるなど交通環境が大きく変わるまでは、信号機のシステムという原理をなくすことはできません。ただし、どこにどのように信号機を設置するかという実際は、状況によっていろいろですから、個々によく検討しなければなりません。

 フランス革命におけるロベスピエールの独裁政治を批判するのに、近代民主主義国家の原理である「社会契約」の思想や「一般意思」による政治まで否定したら、話はメチャクチャです。JSミルやトクヴィルが、国家と個人を媒介する中間的な制度の重要性を言ったことは、原理の批判や否定では全くありません。トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」における多元主義的な思想(力のある地方政府や教会や結社などの重要視)は、多民族・巨大国家アメリカにおける民主主義の実際に寄与しましたが、それはもちろん「社会契約」の否定とは無縁の話ですし、「一般意思」(=議論によりつくられる市民の公共的意思)の否定でもありません。ただしトクヴィル以前の社会思想は、中間団体を封建制度の名残と捉えて批判しましたから、その点においては異なります。

 曲解・誤解の上での批判もありますが、それは論外としか言えません。またルソーは、民主主義の実現がいかに困難かを強く意識し、人々が扇動者の手に堕ちる危険に警鐘を鳴らしてもいます。

 ともあれ、大事なのは次元の相違をいつも意識して見、考えることです。次元を混同すると、荒唐無稽な話にしかなりません。


武田康弘


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よい生とは?(恋知=哲学の生)

2010-03-29 | 恋知(哲学)

人は幼いころは、横溢する生命の力だけで生きられます。迷うことがありません。ただ目の前に広がる世界に嬉々とした好奇心を持ち、関わります。

ところが、思春期になるころから自分の生を意識するようになります。生き方を考えますが、答は得られません。

宗教は明確な生き方を示します。しかし特定の宗教に従って生きるという選択は、多くの人はとれません。

右往左往しながらなんとか自分の生の方向を定めようとしますが、いつも世間の価値観を気にして自分の生き方ができません。世間と自分が葛藤し、何がよいかが分からないのです。

世間の示す価値に従って生きようとすると自分の存在価値は小さくなり、昆虫のような生き物のようで、生きる意味が感じられません。けれども自分の心に従うのは孤立するようであり、また「正しさ」から遠くなるようでもあり、とても不安です。

さあ、どうしたものか。
結局は、みんな一緒という集団同調の受動的な生き方に陥ることが多いようです。

宗教的な絶対ではなく、周りに合わせるという受動態でもない生き方はあるのか。
それが恋知=哲学の生です。哲学と言っても哲学書を読むのではありません。「なにがほんとうなのか?」を探求する生き方のことです。生活世界の具体的な経験に照らし、自分の頭で考える習慣をもつ生き方です。

これは誰でも出来ることですが、なかなかそれが行われないのは幼い頃からの○×テスト(客観テスト)で育てられるわたしたちは、「正しい答」が決まっていて誰かがそれを教えてくれると思い込まされているからです。早く正解を導く技術を学ぶことが勉強だと信じているために自分の頭で考える習慣がつくれず、その力がつかないのです。

だから「なにがほんとうか?」を探求する心になれず、知っているかどうかの暗記競争になり、答の決まっている問題の解法をパターン化して覚えるだけになってしまいます。

ところが、自分がどう生きるのがいいかには正解がありませんから、覚える能力をつけても、パターン認識を身につけても、どうしようもありません。生活世界の具体的な経験に照らし自分の頭で考える習慣をもつ生き方をすることで、なにがほんとうかを考える力を養うしかないのです。これが哲学することのほんらいの姿です。宗教的な絶対ではなく、誰か「偉い人」?のつくった「主義」を信じるのでもなく、思想の本を読んで覚えるのでもなく、自分の五感をフルに用い、自分の心身の声をよく聴き、自分の頭で能動的に考え、自己決定する生き方、それが哲学する生なのです。とても素敵な生き方ではないでしょうか。

なにがほんとうなのか? ほんとうによいこと・ほんとうに美しいことは何か?
それを生活の中で問う習慣をもつこと、それこそが人間のもっともよい生き方・もっとも優れた生き方ではないか、わたしはそう思います。恋知=哲学の生へ!

2010.3.29  武田康弘

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「ディベート」は有害な言辞行為です。「恋知=哲学的対話」をしましょう。

2010-03-29 | 恋知(哲学)

ソクラテスは、ソフィストと呼ばれた人たちの言論・弁論術(ディベート)を否定しました。
そこからフイロソフィー(恋知=哲学)が誕生したのです。

「勝ち負け」の言辞行為ではなく、「自我の拡張」の言辞行為でもなく、「アイデンティティー補強」の言辞行為でもない。

そうではなく、「なにがほんとうなのか?」を目がけての問答的思考法による対話が求められる、というわけです。それが「よく・美しい」生に憧れる恋知(哲学)の営みです。

人間の生によきもの・美しきものをもたらす何よりも大切なエロースの営み、それが「恋知対話」ですが、それを可能にするためには、互いに自分自身を開き、誠実に、正直に語り合うことが条件になります。目がけるのは「真実」であり「勝負」ではありません。

このような開かれた思想と実践であったので、ソクラテスの問答法による恋知は、宗教も主義も、国も時代も超えて普遍的な営みになったのです。

わたしは、狭くエロースに乏しい「ディべート」ではなく、善美をめがける「恋知」(哲学)の営みを習慣づけたいと思っています。


武田康弘




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ルソーは「自然に帰れ!」と主張した!?読まないで語られるルソーの書

2010-03-28 | 恋知(哲学)

ルソーの『エミール』(教育論)、『新エロイーズ』(18世紀最大のベストセラー小説)、『告白』(自伝)、『人間不平等起源論』『社会契約論』(近代市民社会を創り出した政治哲学)は、あまりにも有名な書ですが、これらは、まったく読まれずに語られることの多い書でもあるようです(苦笑)。

とりわけ、『社会契約論』(及び「ジュネーブ草稿」)における市民社会・民主制社会の屋台骨となっている「社会契約」と「一般意思」についてのあまりにも粗雑な、というより、荒唐無稽な解釈の横行には、ただ呆れ返るしかありません。

1年半ほど前に中山元さんの見事な新訳も出たのですから、未読のままでの批判や、一知半解の読解や、拾い読みによる荒唐無稽な解釈ではなく、まずはゆっくりと味読することが必要です。中山さんの解説も正確な理解のために有用ですから、参照されることをお勧めします。

近頃もある高校で、「自然へ帰れ!」と主張したのはルソーである、と答えさせる出題がありましたが、これなども、『人間不平等起源論』を読まずに(否、小見出しだけ読んで)いることの証明です。自然状態には帰れないことを主張しているのがルソーなのに、です(笑)。【原注9】の一部(その部分だけならわずか3ページ半)である「自然へ帰れ!」は論敵への揶揄なのですから、読んでから出題してほしいものです。


なお、以下に、わたしの生徒(高校生)がまとめた「社会契約」と「一般意思」についてのの文章を載せましょう。大学の教師でも読めていない人が多いのですが、西山君と古林さんの読解は明晰なだけではなく、自分の具体的経験を踏まえ、自分の頭で考えたものですので、ほんらいの哲学になっています。わたしはまったく手を入れていません。


社会契約とは何か?

自然状態で持っていたさまざまな「権利」と「人格」を一旦共同体に譲渡する。


・個人が自然状態で持っていた権利… 身の回りで食べ物を取る、好きな場所に家を造る権利等の他、他人の物を奪う権利も持っている。

→周りの物全てへの無制限の権利を持つ。

この権利を共同体に譲渡する時、共同体に参加する者全てが等しく権利を譲り渡さなければならない。


結果としてどうなるか?

・まず、自然状態で持っていた強盗略奪をする権利を失う。しかし同時に、共同体に参加する全ての者も同じようにその権利を失っている。つまり、強盗の権利を捨てたことにより、「自分が強盗されない」権利を手に入れたことになる。
・どれが合法的に手に入れた物かということがはっきりし、保障された所有権が生まれる。

※この社会契約を破り、他の人が手放した権利(例えば強盗する権利)を再び持つ人が出てきた場合、その人はその集団にとって危険な存在であるから、もはやその集団の中で生活することはできない。このような場合、この人は合法的に追放される。


そしてこの集団の中にいる人は次のような3つの人格を持つことになる。
一つは集団の構成員としての個人「民」、集団の方針を決める(政治)者としての個人「主権者」、最後にそれを守る者従う者としての個人「国民」の3つの人格をもち、この集団は国として成立する。(西山)
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一般意思とはなにか?


一般意思とは、自分を含む「その国家の各人」適用される事柄に対する共通の認識・意見の事である。
この時、一般意思に従う事は「自由を失う=不自由になる」事ではないと言う点に注意しなければいけない。

一般意思を作ろうと考えた時、各人は自分が得をするように考える(自分が損をするように考える人はその国に居るメリットがない)。
しかしその時、単なる集団の一構成員(民)として好き勝手な意見を言う訳でではない。
国の方針を決めるのだから、政治的責任を負った「主権者」として発言せざるを得ない。
そして、自分がその集団に属する以上、主権者としての各人が一般意思を作った場合、国民としてその一般意思(≒そこで打ち出した方針や、決定した法)に対し、それを守る者としてふるまう事になる。

「自分の大嫌いな○○って人を苦しめてやりたい」と思って一般意思を形成した場合、その一般意思に従う国民として自分も平等に苦しまなければならない。
こんな事をすれば、自分越しに相手を刺すという滑稽な事態に陥ってしまう。
主権者としての自分に、国民としての自分が従わなければならないのだから。

さて、各人が主権者として自分の利益を一番に考えると、他人にとっても最も利益になる選択をすることになる。つまり、各人が主権者として提案した事は自分も他人も区別が生まれない。先ほど書いたように、「自分は苦しみたいんだ!」と言う人は、国家を作る根本的な理由(自身の安全等)に背くので、そのような人が国家の中にいるとは考えられない。
いても国家に入ろうとはしないだろう。

「安全に暮らしたい」「自分が不利益を蒙る事がないように」と願う人々の国家で作られる、自分たちにかかわる一般意思は、決して間違った答えを出すことは無い。なぜなら、間違った一般意思とは「自分にとって不利益なこと」なのだから。
もちろんこれは、情報操作や裏取引、そして結社や脅迫等が全く無しに、自由に徹底した議論が出来るという状態が必要条件となる。
一般意思が常に正しくあり、民主主義を成り立たせ存続させていくためには、このようなあらゆる不正を排除していくことが大切である。(西山)

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*一般意志とは何か?* 古林あきら

一般意志とは、その共同体を構成する全ての人、私やあなたを含む全員が話し合ってうまれる皆の意見。

皆で話し合って合意するのだから、それはもちろん全員の利益を目的としているし、誰か特定の人や団体が得をしたり損をしたりすることはない。

ただし、「私の利益」を目指すひとりひとりが集まって議論するのだから、あざむいて周りより多く得をしようとする人はいる。
そこで一般意志があざむかれないために、公正・公平で徹底的な議論をする必要がある。

ex)・大きな結社を作って他を圧倒するのは×(どんなに大きくても個別意思が一般意志 を代表することはできないから)
  ・偏った情報で一般意志を誘導するのも×
・首長が一般意志と反する命令を出したときも、誰も「NO」と言わなければそれが一般意志になってしまう
・一時的に個別の利益が一致することはあるが、意志が永久的に全て同じであることはありえないので、自分の一票の権利を他人に譲り渡すことはできない(あなたが今望んでいることを私も望んでいるとは言えるが、あなたが明日望むことを私も明日絶対望むとはいえない)

そうやって念入りに議論した結果うまれた一般意志であれば、皆が納得した皆が得をする考え方なので、それが法になる。
これが一般意志を行使すること(=主権)で、それ以外が国を動かすことはありえない。
(一般意志でなければ、大小あっても個別意思である。)



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わたしのちょっとした「技術」(能動的な生のために)

2010-03-24 | 恋知(哲学)

わたしは、友情や恋愛・音楽や美術に象徴される人間的な世界、豊かなエロースの世界を目がけます。エロースとは「よい」「美しい」のイデアを生むもので、柔軟で豊かな世界です。それを拓く条件は、人間性の肯定です。

それとは反対に、権威的・厳禁の精神・規則ずくめ・融通が利かない・固まじめ・管理主義・・・は「悪い」「醜い」のイデアがもたらすものです。


わたしは、能動性をもって豊かに生きるためにちょっとした「技術」を持ちます。

それは、いつも明るいイメージ、楽しいイメージをつくる習慣です。

よい人、美しい人をたえず想うのです。美しい海、豊かな海の生物を想うのです。渓谷や山を想うのです。愛する音楽で空間を満たすのです。いつでも好きなものに触れられるようにするのです。そうすると、よいイメージが作れます。

要するに、ふだんの生活の中で、たえず「よい」「美しい」のイメージを生みだす習慣をもつこと。それがわたしのちょっとした「技術」です。これはすぐに実行できますので、ぜひどうぞ。習慣づけに成功すると人生が変わりますよ、きっと。


武田康弘



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能動性の存在論(人間の自由)のために(a)

2010-03-22 | 恋知(哲学)

「生徒が決定的な光を自ら投ずるのでないならば、言葉はいつまでも死んだ記号にとどまり、すべては暗記されるにすぎない」

これは、サルトルの言葉ですが、以下にこの言葉がある論文の前後を書き写します。

「・・・・・どんな立派な先生がついていても、生徒には、まったくひとりで数学の問題に立ち向かわなければならぬ瞬間が必ずやってくる。その際、生徒がいろいろな関係を自分で把握しようと決心するのでないならば、また、問題となっている図形に格子のようにうまくあてはまり、その図形の基本的な構造をあばき出すところの、さまざまな推測や図形を、自分自身でつくり出すのでないならば、要するに、生徒が決定的な光を自ら投ずるのでないならば、言葉はいつまでも死んだ記号にとどまり、すべては暗記されるにすぎない。それゆえ、自ら省みるとき、私は理解作用とはある教授法の機械的結果ではなく、その源は、ただ私の注意力、私の努力、放心と即断に対する私の拒否、結局、あらゆる外的作用者を完全に排除した上での私の精神全体、にある、ということを知ることができる。そしてそれがまさしくデカルトの最初の直観なのである。・・・・・」

『デカルトの自由』(サルトル著・野田又夫訳)

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受動から能動へ (3)

2010-03-21 | 社会思想

受動から能動へ (3)

(1)受動性の哲学から能動性の哲学へのコペルニクス的転回が必要です。

(2)惰性態から能動態への跳躍を可能とする新たな哲学を


皆がどう思うか、皆がどう言っているか、皆がどう評価するか、
それを知るのはよいですが、そこに留まるのはダメです。
私はどう感じるか、私はどう見るか、私はどう考えるか、という能動態にまで進むことがなく、皆は、という世間の価値意識を知るところに留まると、それはプラスどころか、マイナスの結果しかもたらさないからです。

人間は、現実次元の思考と行動においては、能動的な態度を基本にしなければ、「私」の生の意味・価値を感じることができません。人間としてのプライドは、世間的な成功者にのみ与えられる、ということにしかなりません。外的評価に怯え、受動態として生きると、「私」のよさは消え、一般人=ただの人に陥っていきます。

眼差し返す力が弱く、皆のもつ価値観に従って生きることを基本にしてしまうと、他者の眼差しのドレイになってしまいます。深い意味と価値ある世界は、【善美に憧れ、何がほんとうなのかを探求する】ところにつくられるのであり、受動的な存在論(=人間解釈)に支配され、受動的な生き方しかできなければ、人生は決して色づきません。いつも世間的な成功のみを基準に生きると、たえず他者の評価を気にする神経衰弱となり、「私」=内的世界の充実が得られなくなります。

わたしは、「こうしたいので、こうする」という能動性こそが人間の健康な生の条件なのだ、という基本思想をしっかり社会に根付かせ、よい生・よい社会をつくりたいな、と思っています。哲学は、一人ひとりの能動性を生み出すために努力するところに存在理由があり、その反対に受動性を流布するのであれば、「犯罪」です。精神疾患が増える現代社会に寄与する哲学!?では笑えない笑い話にしかなりませんから。

人生や社会の意味ーどういう生が、どのような社会がよいかのは、「私」がつくりあげていくものであり、他者・世間から与えられるものではありません。心身の能動性を生みだすには、どう考え、どうしたらよいか?をみなさんと共に探求していきたいと思います。ぜひご一緒に。


武田康弘

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わたしは○○ちゃん、でも、ひとりだけは○○さま、人間は平等ではないの?

2010-03-20 | 日記


わたしの教室の小学生の女の子の「つぶやき」です。

わたしは、○○、とか、○○ちゃんとか、○○さん、って呼ばれてるけど、
どうして、おんなじ小学生なのに、「あいこさま」なの~~?へんなの!!(プンプン)。
平等にしてほしいーーー。

あなたなら、どう応えますか?

「愛子さまは、お生まれが天皇家という偉いところなので、生まれながらに高貴なお方なのよ、だから、「さま」と呼ぶの。あなたは、ふつうの家の女の子だから、「ちゃん」なのよ。分かった。」--------分かるはずありませんよね(笑)。

教師は、とっても困ります。



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ウォルフレン「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」(「中央公論」4月号)

2010-03-18 | 書評

以下は、「中央公論」4月号のウォルフレン氏による論説『日本政治再生を巡る権力闘争の謎』の要旨です。


山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。・・・・
 ヨーロッパには彼に比肩しうるような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
ところが、日本の新聞各紙はまるで小沢が人殺しでもした挙句、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てている。・・一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。日本の主だった新聞の社説は、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれている。これを読むと、まるで個人的な恨みがあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねる論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。

確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権が現れては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。

検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。・・鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。・・民主党の政治家たちは、今後も検察官がその破壊的なエネルギーを向ける標的となり続けるであろう。

日本の超法規的な政治システムが山県有朋の所産だとすれば、検察の役割を確立した人物もまた存在する。平沼騏一郎である(1867~1952・司法官僚・政治家)。彼は、「天皇の意思」を実行する官僚が道徳的に卓越する存在であることを、狂信的ともいえる熱意をもって信じて疑わなかった。山県のように彼もまた、国体思想が説く神秘的で道徳的に穢れなき国家の擁護者を自認していた。・・オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は、古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。

検察が誰を標的にするかを決定するに際して、彼らの権力は、桁外れの自由裁量によって生じたものである。・・・検察官たちは、法のグレーゾーンを利用して改革に意欲的な政治家を阻もうとする。彼らは、極めてあいまいな政治資金規正法を好んで武器として利用する。・・政治家たちを打ちのめすのは、彼らが関わったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルにほかならない。検察官たちは、絶えず自分たちが狙いをつけた件についてメディアに情報を流し続ける。・・検察官はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振舞うものだ。

新聞社の編集幹部の思考は、高級官僚の思考とほとんど変わらない。・・日本のメディアが新しい政権について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人の未来にとって何が重要か、という点が欠落していたのではないか。

 いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうことは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。しかし、キャリア官僚たちの権力など、ひとたび新聞の論説委員やテレビに登場する評論家たちが、いま目の前に開かれた素晴らしい政治の可能性に対して好意を示すや否や氷や雪のようにたちまち溶けてなくなってしまう。そして多少なりとも日本に対して愛国心のある日本人であるならば、新しい可能性に関心を向けることは、さほど難しいことではあるまい。

(この後の論述は、対米従属の日米関係を変えていこうとする鳩山・小沢政権への期待です。)もし、この政権を退陣に追い込めば、主権国家を目指す日本の取り組みは、大きな後退を余儀なくされることは言うまでもない。

※なお、ぜひ、「中央公論」の4月号で、全文を読まれることをお勧めします。

武田康弘




コメント (3)

クロマグロ狂騒曲(mixiでのやりとり)

2010-03-18 | 社会批評

以下は、mixiでのやりとりです。


クロマグロ!?庶民は食べませんよ。何を騒いでいるのやら。
2010年03月16日20:24

わたしたちの食卓からクロマグロが消える、とニュースは伝えていましたが、クロマグロという高級魚を食べるのは、庶民じゃないですよね~~(笑)。
ふつうの多くの人は、1年に1回も食べやしない、もちろんわたしも。
だいたいクロマグロは、マグロ全体の10パーセントに過ぎません。
それなのに、ニッポンの食文化を守れ?って、
何のことやらサッパリ分かりません。
どんな文化なのか、どなたか教えてくれませんか?

魚が減ったなら、とらなきゃいい、
それだけのことなのに、どうしてマスコミは、大騒ぎするのでしょうか。
マスコミ関係者も高給取りですから、クロマグロをたくさん食べているのかな?

武田康弘
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コメント

ざらすとろ 2010年03月16日 20:58

今回のご意見には私は異論があります。

一つには政治的な道具として、水産資源の問題を利用しようとしている勢力があるということです。

本当にクロマグロが絶滅寸前なのか疑問があるという話も流れているようですし、クジラと同じように政治的な思惑が大きく絡んでいるのではないかと疑っております。

さらにわれわれにも直接関係してくる問題としては、クロマグロをきっかけに、他の種類のマグロに対しても大幅な規制がかかるということになると、日本の庶民にとって関係のない出来事ではないと思います。やはりこれは危機感を持って認識しなければならない問題であると思います。

捕鯨禁止によって日本の鯨を食べる文化のありかたに重大な影響を受けている状況があるので、マグロも同じようになってしまう危険性もあります。

捕鯨においては鯨の数が増えているというのに、減らない限りにおいてさえも捕っちゃいけないという。

さらに呆れる事に捕鯨を調査捕鯨に限定しているというのに、どこぞのタワケが調査捕鯨船に突っ込んだり、有害な酸をぶっ掛けたりして、きわめて悪質な妨害をしています。

私は、きちんと調べた上で規制を設けたうえで、漁業を続けていくべきだと考えていますし、漁業国として水産資源を守りながら、水産物を採取することは当然の権利であります。
しかし今回の全面禁止がそのようなきちんとしたデータに基づいたものであるのでしょうか?

私もマグロの規制は必要であるという立場をとっていますが、
もし海の生態系の問題を、政治的な都合で事実を捻じ曲げてまでも利用しようとするのであれば、かえって海の生態系の破壊を引き起こしてしまう可能性があります。

むしろこの問題は、遠洋漁業というものそのもののあり方を考え直したところから議論しないといけないのではないかと思います。


二つ目には文化とは庶民だけのものなのかという問題があります。

庶民は食べないから、それが日本の食文化ではないということになれば、庶民が使わないものはすべて日本の文化ではないという話になってしまいます。
もしそうであるとすれば日本の文化財とされるものの大半は文化ではないという話になってしまいます。
文化というものの中には、特権的な立場の人間が権力と財力を注ぎ込んで創り出していった側面はあるのではないかと思います。

世の中には民主的ではないけど、すばらしい芸術があり、
差別的だけれども優れた文学作品があります。

それは民主主義という政治形態が望ましいとか、基本的人権の問題とか、
貧富の格差の是正とか、そういう論理と違う側面があるのではないかと思います。
如何思われるでしょうか?
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あ01-23CR-Z
2010年03月16日 23:52 お邪魔します。

普通に回転ずしで食えますけど。
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タケセン
2010年03月17日 00:30

ざらすとろさん

芸術の世界では、その通りだと思います。

ただ、毎日の食というレベルの話で、クロマグロが日本の食文化だというのは、わたしには意味が分からないのです。それも、太平洋については規制されず、クロマグロが入手できなくなるわけではないので、なおのことです。

この程度のことで大騒ぎするのは、なにか恥かしい気がするのですが。ヒステリー!?
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this boy
2010年03月17日 19:48

http://mainichi.jp/select/biz/news/20100312ddm003020069000c.html

上記の記事を読んで私がおやって思うのは、地中海の
クロマグロの殆ど大部分が日本に輸出されているという
現状です。

欧州からして見れば東の一番遠い国が自分達の庭に上がり
こんで、食べ物を掠めて行くという感情論があるかも知れ
ません。

日本海に回遊しているマグロを遠いブラジルからやって来た
漁船団が根こそぎ奪って行くという印象なのかも知れません。
これはあくまで私の印象ですが。

クロマグロはマグロ消費の1割で確かに高級でしたが最近は
値崩れを起こしてるようですね。
私も食べたという記憶がありません。
クロマグロと書いてあれば記憶に残りますから。
最近では築地に中国からクロマグロを買い付けにくるみたい
ですね。

クジラも食文化というより動物性タンパク質を取るために
食べたわけであり、今はその必要性がないですよね。

(今話題のイルカ漁も然りです)

それなのに調査捕鯨と言って南極海周辺にまで行って、
年間1000匹前後も捕獲する理由が私には判りません。
それをどう利用してるかも判りません。
オーストラリアも自分の庭が荒らされているという悪感情
も抱くでしょう。

http://facta.co.jp/article/200801043.html


文化だから残すべきという意見には賛成しかねます。
文化なんて時代とともに変化していくものだから、あえて
残さなければならない必然性がないと思います。
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ざらすとろ

2010年03月17日 21:56

タケセンさん

高級なものでそうそう我々が食べることが出来ないものも、食文化です。たとえば懐石料理を食べることは、お茶でもやっていないとまず考えられないことではありますが、それでもそれらはれっきとした食文化なのではないでしょうか?
我々が日常食べないからといって、それが食文化ではないというのは違うと思います。

もし日常的に食べていない洗練された料理を食文化として認めないということであれば、洗練されたフレンチはフランスの食文化ではないという話になってしまいます。


私は個人的にはマグロ漁に対する規制は絶対に必要であると考えていますが、それがきちんとした客観的なデータによって裏付されたものでなければならないと考えています。

なぜなら資源保護という観点においても、海の生態系保護という観点においても、その政策を決定する上で必要不可欠な情報を何らかの恣意的な思惑で歪められる事は、海の生態系をおかしくする危険性があるからです。

しかしながら果たして今回の国際会議において客観的なデータに基づいた議論ではなく、どうも政治的な道具としてこの問題が利用されているのではないかという危惧を感じます。
もし、そうであるとするならばシーシェパードをはじめとする環境問題を商売にする卑劣な屑どもの飯の種にされるだけです。

そもそも水産資源の保護や海の生態系の問題を、あのような利権を目的とした輩の恣意的な都合で捻じ曲げてよいはずがない。
そんなものを放置することは逆に海の生態系を破壊する結果になる。

this boyさん

当たり前の話ですが、遠洋漁業というものそのもののあり方をきちんと考え直す必要があり、日本国が世界中の水産資源をとりまくっている状況を望ましいとは私は考えておりません。

そして、この問題は日本国だけの問題ではなく、世界中の国々の問題でもあります。きちんとした水産資源の管理が当然ながら必要であります。

そのことを踏まえたうえで、反捕鯨を主張している側は鯨やイルカがかわいそうだから獲るなという。
しかし増えている水産資源を採るなというのは、漁業をするなということに等しい話で、イルカの問題にしても地元の漁師は本当に迷惑している。

this boyさんは彼らに漁業をやめろというのでしょうか?

もしこのような状況を放置し続ければ、漁業そのものが成り立たなくなる。さらに海の生態系のバランスそのものが非常に危険な状態になります。人間の側である程度、間引いてイルカや鯨を獲って食べるべきであります。

千頭もとおっしゃるけど、一匹だけ獲ってわかる事は限られているのではないでしょうか?

そもそも「千頭も」獲っても、なんら問題が起きないどころか、増えている種類の鯨さえあるということが調査の結果、判明している。
それなのに一定枠の商業捕鯨さえ認めないことのほうがおかしい。獲った鯨はきちんと肉にするのは当然のことです。

ちなみに鯨は日本の食文化です。縄文時代の貝塚からも鯨の骨が出土していますし、昔から食べてきたものです。

引用なされていた記事が事実であるとするのなら、冷凍の鯨肉がダブってしまう様になったのは、捕鯨を辞めろという外圧に屈したことで、良質な鯨肉が入手できなくなったことで鯨肉を高くて不味い物であるという認識を与えてしまったことが原因であるということが伺えます。これは食文化の破壊の何よりもの証拠ではありませんか!!

私は小学生のころ鯨を食べた経験があり、鯨が非常に美味なものであったことを知っています。

もし時代とともに文化も変化していくから、あえて文化を残す努力をする必要はないということになれば、京都や奈良の文化財をぶっ壊して、ショッピングセンターでも造るべきだという話になってしまいます。

さらにいえばご飯と味噌汁じゃなくて、マックがあればいいじゃないかということにさえなってしまいます。
その結果、文化どころか健康までおかしなことになってしまう。

細々ながら食に携わっている人間として、
このような事態は捨て置けない問題です。

誰がなんと言おうと、文化だから残さなければならないものは確実にあります。それは利便性や経済性の問題ではなく人間の尊厳に関わる問題であるからです。
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タケセン
2010年03月17日 22:23

もちろん、懐石料理は素晴らしい食文化です。たまに、豊かな気持ちになってゆっくり味わのは、とてもよいことだと思っています。そういう文化は、残していきたいですね。

しかし、今回の騒動は、そのレベルの話とは違うのではないでしょうか。マグロの一種であるクロマグロの漁獲量を減らすことが、なぜ食文化の破壊になるのか、わたしにはその理由が分からないのです。

食べる量を減らせば済むことで、どのような食材でも少なくなれば、それは同じことです。

ただ、科学的、生態学的な研究と調査、できるだけ客観性に富む検証が必要なのは、全くその通りですので、政治的な思惑を排除して、各国が共同研究すべきですね。
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ざらすとろ
2010年03月17日 22:56

私は規制そのものには反対ではないです。

たとえば絶滅寸前のジュゴンがいくら美味だからといって、
食べるようなことには私は断固として反対です。
それらはきちんと食資源としても守られなければならない。

海の生態系に影響がある問題ゆえに、ただ規制をするにしてもその根拠となる資料がきちんとしたものを基準にして議論をしなければならないと考えます。

というのもこの間テレビを観ていたら、しかしスペインの鮪漁業の業者たちからは、ワシントン条約の対象にする必要性はないのではないのかという声もあります。

しかもスペインではきっちりと鮪を獲る規制があって、規制が守られているのかをチェックする人間を派遣して乗船させています。

しかも鮪漁の業者の中には自主的に独自に調査していて、捕獲禁止する必要がないという結論を出しているようです。もちろん業者の独自の調査ということを差し引いて考える必要はありますが、また同時に乱獲が自分の首を絞めることになることを一番良くわかっているのは、漁業関係者であるということは指摘しておくべきことだと思います。


ただ私が心配していることは、この動きがエスカレートして、政治的な思惑で鮪そのものが全面禁止という話に動きかねないことを警戒しています。鯨の時と同じことを繰り返すのではないかということです。

鯨に関しては種によっては増えているものもあり、逆にある程度間引いて食べないと、かえって海の生態系を狂わせてしまう危険性があるのに、酪酸を投げつけたり、船を体当たりさせたりというような妨害を繰
り返す環境問題を食い物にする破廉恥な輩に翻弄されています。
これは人間としての尊厳の問題です。

参考になるかはわかりませんが、
日本捕鯨協会というところがあります。

http://www.whaling.jp/index.html
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this boy
2010年03月18日 08:52

ざらすとろさん

私は論理的にはあなたの言うことは判らないでは
ありません。

でもタケセンさんが言うように1程度のことを
10で有るかのような誇張した言い方、感覚には
ついて行けません。

漁師をやめろと言うのかとかマックを食べろと
言うのかとかクジラ1匹では調査出来ないという
ような極端な言い方は、北朝鮮がすぐ攻めてくる
とか中国が近いうちに日本を占領するとか煽るような
人達とダブって見えてしまいます。
(あくまで私の感覚です)

私が言いたいのはどんな生物でも絶えず環境に
順応して変化して行かないと生き延びて行けない
のではないかということだけです。
少しずつ環境に順応していくということです。
その中で消えて行く食物もあるでしょう。
その程度です。

ということで誠に申し訳ありませんが、今回の件に
関して私はこれ以上返事をするつもりはありません。
あしからず。
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タケセン
2010年03月18日 10:37

ざらすとろさん、This boyさん

丁寧なコメントありがとうございます。

わたしは、過激な妨害行動を支持したことは全くありませんし、感情的・扇情的・政治的な意見に与したことも全くありません。

それとは逆で、日本人のストイックな性質からくる一方的で極端な意見(今もなお一部のウヨクが掲げる戦前のおどろおどろしいスローガンや、天皇主義に象徴される)には辟易しているのです。

落ち着いて・広い視野を持ち・合理的に考える方が悦びが大きく、得と徳がえられるのではないか、と思っています。「事」に対して、騒がず慌てず、大きく強く考え、断固として主張する、そういう態度がよいと思うのです。


コメント

わたしの名盤―交響曲のベスト3(クレンペラーの英雄他)

2010-03-15 | 趣味

ベスト3は、とても無理ですが、あえて決めます。
ただし、長年の愛聴盤ということで、20年以上聴き続けているものに限定します。
以下の3点は、わたしが大好きな交響曲の絶対的名盤です。

1.ベートーベン 交響曲3番 英雄 クレンペラー指揮、フィルハーモニー管弦楽団1959年のスタジオ録音
100種類を超える演奏を聴いてきましたが、これは別格。クレンペラーのライブもありますが、繰り返し聴くならこのスタジオ録音です。

2.ベルリオーズ 幻想交響曲 クリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団・1964年、東京文化会館でのライブ。
この曲も30枚を超えるCDを持っていますが、色香と情熱、迫力と品位、すべてを満たす空前絶後の一枚、スタジオ録音もありますが、これはライブに限ります。

3.ブルックナー 交響曲8番 クナッパーツブッシュ指揮、ミュンヘン交響楽団 1963年のスタジオ録音
ヴァントや朝比奈の名演も、この「なにもしない」演奏の前では小粒な音楽でしかありません。まるで音楽の原理のよう。深く、有無を言わせず、人を惹きつけます。

以上の3曲は、最新録音を含めて同曲の私のベストです。

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コメント

わたしの感想 (内田)
2010-03-17 16:43:12

1.ベートーベン 交響曲3番 英雄 クレンペラー指揮、ニューフィルハーモニー管弦楽団1959年のスタジオ録音

これは見事なものです。フルトヴェングラーが好きな人が多いようですが、耳の感度が悪い私にはあの録音ではさっぱり音楽が分からないのです。バーンスタインのウィーンフィルライブも素晴らしいですが、クレンペラーはバーンスタインより数倍恰幅が良い堂々たる演奏ですね。そして細部も美しい。誤解は承知で正にヘーゲルの弁証法を想わせる演奏です。(笑い)


2.ベルリオーズ 幻想交響曲 クリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団・1964年、東京文化会館でのライブ。

ミンシュのパリ管といわないところが『にくい』ですね。この演奏は、私もかつて聴きましたが、これこそライブ録音という演奏です。破綻すれすれのスリリングさはライブ音楽でしか味わえないところですね。聴き込んでいくと興奮して思わず腰が浮いてきてしまう演奏です。


3.ブルックナー 交響曲8番 クナッパーツブッシュ指揮、ミュンヘン交響楽団 1963年のスタジオ録音

これがまた凄い演奏です。
この「なにもしない」演奏の前では小粒な音楽でしかありまん。
なにもしないとは一体どういうことでしょうか?あの不気味ともいえるおどろおどろしいまでの4楽章は、確かに広がり続ける宇宙の中に身を投げ入れられたような錯覚に襲われます。ただ、音楽においてなにもしないことほど難しいものはないでしょう。個性(主観性)の消去に繋がりかねないのです。クナッパーツブッシュは練習嫌いで有名だったようですが、プレイヤー一人ひとりの自発性(主観性・主体性)を引き出します。指揮者にそのような技術を超えた『わざ』がないと、なにもしない演奏なんか創れないでしょう。演奏家の個性(主観性)と指揮者の個性(主観性)のぶつかり合いが成功した時、この演奏のようにあたかも「なにもしない」ように思えるほんとうに凄い大演奏が出来るのかもしれません。カラヤンと全く違うところのように思えます。
ただ、ヴァントや朝比奈も相当に大粒な音楽ですよ。そこのところは不同意!
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改めて (タケセン)
2010-03-18 12:59:04

うん、改めてこの三つの交響曲の演奏を聴くと、とにかくリズムがいいのです。呼吸するリズム・身体のリズムに合うので、生理的に気持ちがよいのです。「観念」の前にしっかりした土台としての「身体」があるのです。だから、言葉はいらない、とか、何もしていない、と感じるのでしょう。

クレンペラーの英雄は、同時代の名演として有名フルトヴェングラーのもつ主情性が全くありません。一つひとつの音のエネルギーが極めて大きく、そして個々の音が十二分に解放されています、音楽が生き物のように前に向かって進み、豊かに膨らみ、ついには自然物のような充足と安定に至ります。40年間に数百回以上聴きましたが、飽きることがありません。毎回、身体がパトスで満たされます。

余白にある「レオノーレ序曲第三番」も、これ以上は不可能と思われる巨大な演奏で、まるで天地創造のようです。わたしは、拙宅のオーディオでふだんクラシックを聴かない人にこれを聴かせたところ、その人は唖然として声を失い、しばらく動けませんでした。

クリュイタンス幻想は、上質の香りが漂うような音色で描かれる情熱の音楽です。終楽章は、痺れるような怒涛の迫力ですが、内田さんも言うように危うさを伴ったギリギリの演奏で、まさにライブならでは。一期一会の奇蹟の記録です。

クナの8番は、その後に出た名演と比較すると、その「何もしていない」凄さに黙るしかありません。朝比奈ファンの方、ヴャントファンの方、ゴメンなさい。なんという悠然。なんという無骨、なんという魅力。


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こんばんは (ken)
2010-04-04 23:52:40

クレンペラーのエロイカを検索していてたどり着きました。クレンペラーではストックホルムフィルとの共演版が好きです。クナは絶品、幻想は最近出たミンシュのライブ版が好きです。クレンペラーのライブでベートーベン交響曲全集はいかがでしょうか?
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クレンペラーのベートーヴェンライブ (タケセン)
2010-04-05 12:20:15

コメント、ありがとうございます。
「クレンペラーのライブでベートーベン交響曲全集はいかがでしょうか? 」
とのことですが、
テスタメントから出ているウィーンフィルとの第4、第5は世評にたがわず、EMIのスタジオ録音よりもよいです。わたしは、バイエルン放送交響楽団のとライブ(EMI)が録音を含めて好きですが。
第9もテスタメントの1957年ロンドンでのライブは素晴らしい演奏です。
田園はスタジオ、ライブ、それぞれのよさがあります。
7番は異常なまでに遅い最晩年の演奏(EMIのスタジオ録音)に惹かれます。出た当時に購入し(LP)戸惑いましたが(笑)。

コメント (4)

ハイデガーとサルトル、竹田哲学と武田哲学

2010-03-13 | メール・往復書簡

武田先生

受動性の哲学のハイデガー論、大変参考になりました。
勇気あるとても良いご意見と思いました。最近私の大切な
恩師が逝去し思考能力が低下しておりますのでこの件は、
またのチャンスで私の意見も述べたいと思います。先生と
ハイデガー論をするにはまたハイデガーを読まないといけ
ませんので。一点のみ本日は記します。前期ハイデガー
『存在と時間』の頃は、サルトルもハイデガーに能動性の
哲学を見ていたように思います。『実存主義はヒューマニ
ズムである』でハイデガーを神なき実存主義といっています
ね。「死への存在としての」現存在はそのような死への不安
や自覚から再度生を捉えなおし再構成しようという意気込み
のようなものが、『存在と時間』にはあったように思います。
だからサルトルも影響を受けたのでしょうかね。ただ、
「転回」以降のハイデガーは先生の文脈で言うと受動性の哲学
だったのかもしれません。それを哲学の自殺とまで言われると
難しい判断です。アドルノだったら先生のご意見に賛成でしょ
う。私にはそこまでの判断はつきません。
結論として、ハイデガーの哲学は私が求めている哲学ではあり
まえん。ただいまだに彼の論文を読んでいるとやっぱり引き込
まれますね。(笑い)どのようなものに引き込まれるかはまた
のチャンスに。

内田

――――――――――――――――――――

内田さん
はい、そうですね。
前期と後期は明らかに違いますよね。しかし、「存在と時間」自体にすでに問題の根
はあると思うのです。人間存在の分析と物の存在の分析を分けて考えることはできな
いはずですから。また、わたしは、サルトルの思想が「正しい」と考えているのでは
なく彼の哲学ならざる哲学が為になるー面白いと思うのです。哲学を「正しさ」競争
から解放しないと、能動性は支えられない、そう思うのです。「正しさ」を基準とす
れば、哲学は死ぬ(客観主義へと堕ちていく)。それがわたしの基本思想です。後期
のハイデガーも「正しさ」競争をしたのではないのですが、「受動的な存在論」がそ
れを導いてしまった、というのが私の見方です。
武田
――――――――――――――――――――――――

武田先生

ありがとうございます。
私もサルトルの思想が「正しい」と考えたことはありません。
あのサルトルの楽天的といえるほどの主体的な思想はどこから来る
のでしょうか?よくアンガジェするとか言っていましたね。(笑い)
「受動的な存在論」という文脈からすると、前期ハイデガーにも確か
にそのような根はあったと私も感じます。基礎的存在論(存在とは何
だろうと質問している人間存在の研究)の次の問題ですね。
しかし、哲学史家としてのハイデガーは驚くべき存在です。哲学史家と
してのハイデガーを「正しい競争」から評価しても意味がありません。
また、短い哲学論文ですが『同一性と差異性』とか強靭ともいえる思索
力で本質に迫ろうとします。
再度申し上げますが、ハイデガーの哲学は私の求める哲学とは違うのです。
主体性の哲学という文脈では、サルトルやヤスパースの方が近しい存在と
思います。
(ヤスパースに関しては先生も竹田青嗣さんも批判的のようですが?)

                               内田
――――――――――――――――――――――――

内田さん

哲学を知る、というときの「知る」は、考え出す・生み出す・提案する・意味を与える・・・という「主観性の知」です。徹頭徹尾「意味論」なのであり、したがって、通常の勉強・学問(「事実学」)とは頭の使い方が異なりますが、その点の認識が明晰でないために、ありもしない「正解」を求める悪弊から抜けられないのではないでしょうか(=一神教の枠内にある哲学)。サルトルの哲学は、その悪弊を打ち破ろうと企図したものでしょう。 「専門の哲学の学者」ではない「哲学する者」としての哲学者というのがサルトルであったと思います。  「理論」(静的な論理の構築物)ではなく、自らの生きる姿勢を問い、生を創造する哲学であり、したがって「研究」しても意味がないわけです。知的言語ゲームではなく、心身全体によるその都度の思索なのではないでしょうか。

武田

――――――――――――――――――――――――

武田先生

ありがとうございます。大切なポイントですね。
「心身全体によるその都度の思索なのではないでしょうか。」⇒ 哲学的に知るとは、
先生の文脈から考えると、『全身による会得』というような感じでしょうかね。
正に意味を与えるのは、主観であるこの私ですね。意味論であり主観性の知ですね。
知られて事実だったら勉強したり、研究したりしてもよいのですが、こちらがその意味
を与えるのですから主体的な行為の問題となると思います。
極端に言えば、未知の事物に出会ったときにどうするでしょう。無条件・無前提・今ま
での常識は通用しません。そのときは裸の個人として、その事物に対峙せざるをえない
のです。その時、人は意味を与えるでしょう。ただ、そのような反射や行為に伴う知を
会得するには、常に訓練が必要かもしれません。それは、勉強や研究とは違ったもので
しょうね。
違った頭の使い方をしないと確かに対応不能なことだと思います。今の学校の勉強では
ダメですね。柔軟なしなやかさを伴う、とっさの時の実践知のようなものでしょうか。


追伸 竹田青嗣さんと竹田先生の哲学の違いについて私なりに想像します。

ちょっと話しは外れますが、昨年東大名誉教授の高崎直道先生にお会いしました。その際
開口一番、「仏教学は文献学なので哲学でないのです 哲学はできません」と言われま
した。私が、比較思想(哲学)を研究しているのをご存知で言われたのでしょう。高崎
先生は、『如来蔵思想』の世界的な研究者です。如来蔵とは、仏性と同義の言葉です。
簡単に言うと、すべての人に仏となる性質が本来私たちには誰にでも備わっているとい
う意味でしょうか。私は、高崎先生を仏教哲学者と思っていましたのでその発言には驚
いたと同時に、先生の学問である文献学への真摯な態度と誠実で謙虚な人柄に心をうた
れました。高崎先生は、僧侶でもあり市井の民に接しておられることもあって東大病か
ら遠い立派な方と思いました。

本論に戻し、竹田青嗣さんの哲学は常に厳密な文献学的手法を用いテキストを正確・精
緻に読み込むことを基本にされていると思います。その意味では原典主義の伝統的な日
本の哲学者の態度のように思います。学者としては、正に正統的かつ立派な姿勢をお持
ちです。その成果がヘーゲルやカントやフッサールですね。
そこをベースにして自らの哲学を表現されているのでしょう。だから、テキストの読み
に執拗にこだわられていると思います。私など非力な原典が読めないものからすると驚
きですが、居直ってしまって「偉大な思想は誤読から始まる」親鸞や道元など・・・と
思っております。恥ずかしい限りですが。
武田先生の哲学はそれと正反対で、直接的な体験や経験から立ち上げる哲学でありテキ
ストはあくまで参考程度というところだと思います。もちろん、先人他のテキストを読
むことは、体験や経験だと思いますがそれは2次的なこと。まずは、子供たちと学び遊
ぶところから、自分と同じ考えや異なる考えの人との対話から、自由闊達な人との交わ
りから立ち上がってくる哲学と思います。
どちらの哲学がより価値があるかとは言えないと思いますが、このスタイルの違いは大
きいですね。ただ竹田青嗣さんのようなスタイルで哲学をしている方は、彼ほど素晴ら
しく行えなくても結構おいでになるし、私も存じ上げております。
ただ、武田先生のようなスタイルの方は、哲学の世界ではいわば天然記念物の希少価値
生物(失礼です)なのです。ただ、市井の民にとってどちらが頼りとなるかということ
です。本来哲学は、「いつでも、どこでも、誰でも、ただで」行えるものと思っており
ます。そのような開示性がないと、民は哲学から離れるでしょう。
つまり、学者が求める哲学と民が求める哲学は違うということでここに日本の哲学界の
不幸があるように思います。一番肌身で感じておられるのは、30年市井の民の中で哲
学をされている武田先生でしょう。

内田

コメント

惰性態から能動態への跳躍を可能とする新たな哲学を

2010-03-10 | 恋知(哲学)

下のブログからの続きです。


わたしの姿形やわたしの住む世界は、わたしが決めたものではありませんし、さまざまな事象や出来事もわたしが起こしたものではありません。わたしが選べるのは、すでにある状況の中のひとコマです。

そういう意味では、わたしは受動的な存在だと言えます。これは、大きな目で見れば、地球は宇宙の中の小さな惑星だ、というのと同じです。確かに、地球環境のことを考えるときにも宇宙をメージするのは大事なことで、それは想念を広げ、複眼的な見方をもたらします。

しかし、受動性の感覚を持つだけでは、現実の生はひとつも前に進みません。深い受動性の感覚の上に、人間存在の能動性の次元を打ち立て、その領野を開拓することが重要な課題になります。

状況に主体的に関わる人間存在の意味と価値を明らかにし、能動的な哲学を創り出す営みがないと、人間の生は、既成価値の中で決まった役割をこなすだけの存在に陥ります。自分からはじまる生の意味は希薄になり、「眼差し返す力」に乏しい受動的な存在にしかなれません。「私」は「一般化の海」に沈んでしまうのです。

機械化・システム化・管理化が進む現代社会の中では、何もしなければ、人間は受動的な惰性態に陥りほかありません。能動性に主眼を置く人間存在の哲学を生み出す努力は、意味充実の生を営むための基盤です。ところが、ここ30年以上にわたり哲学・思想の世界はこの努力を怠たり、状況に合わせて自らの色を変えるカメレオンか、旧態依然のアカディミズム安寧哲学か、そのどちらかでしかなく、状況を穿ち・改変し・新たな世界を生み出す力をもった哲学思想、根源的な生のパトスに支えられた大胆で強靭な思索は消え、パトスは「日本万歳」を叫ぶ愚かなネットウヨクの専売特許になってしまいました。

主権在民に基づく民主主義とは、能動的な哲学・存在論に支えられなければ、単なる形式でしかなくなり、その力は萎えてしまうのです。受動的な存在論に支配され、能動的な行為に乏しければ、人間は実存としての光を失い、非人間的・画一的な管理社会しか得られません。生きる悦びに乏しく、意味の希薄な人生しか与えられなければ、みなでよい社会を生みだそうという「公共性」は元から崩れてしまいます。

いま何よりも求められるのは、惰性態から能動態への跳躍であり、それを可能とする能動的な人間像であり、それを生み出す能動的な存在論=哲学なのです。組織や団体、権威や権力ではなく、「ひとり一人から始まる能動性」なくしては、何も始まらず、何もなし得ず、何も意味を持ちません。


武田康弘


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受動性の哲学から能動性の哲学へのコペルニクス的転回が必要です。

2010-03-08 | 恋知(哲学)

1970年代の後半から30年以上にわたり、日本社会は、受動性の哲学が支配してきました。

世界的にサルトルの能動性―自由と強い責任の哲学、参加・出会い・呼びかけの「主体的行動」を呼び覚ます哲学は嫌われ、ハイデガーの徹底した受動性の哲学が主流となり、その延長線上で哲学もまた「一般的正解」を求めるひとつの学に変質したのです。

哲学することが、大学知の一つにすぎなくなり、教授が講義する哲学を受動的に学ぶのでは、能動的な生を呼び覚ます哲学は死んでしまいます。哲学にまで「正しい答え」を求め、それを提供してくれる他者を望むのでは、哲学の意味は大きく削がれます。

哲学で確かな答えの出る可能性があるのは、思考の原理次元のみです。それをしっかり学ぶことは大切ですが、それはあくまでも前提にすぎません。そこで終われば、ただ受動性の強い心と頭がつくられるだけで、害あって益なしです。「一般的に正しい答え」を求めて生きると、受動性の罠にはまり、一般性の海に沈んでしまいます。

受動性の存在論に支配されていると、よろこびも、悲しみも、成功も、失敗も、意味の薄いものにしかなりません。自分という中心から立ち昇る世界が弱まるために、いつも他者の目を気にして一喜一憂するだけです。参加・出会い・呼びかけを可能とする能動的な存在論によって生きなければ、人間は生の輝き・悦び・充実を得ることはできないのです。

物や単純な事象については、それらの意味の認識は受動的なのですが、自分の生の意味や社会の意味を受動的に認識するのでは、人間存在を昆虫の存在と同次元に捉えることにしかなりません。意味は、向うからやってくる、ではなく、「私」が生活世界の具体的経験からくみ取り、生み出すのです。意味は受動的認識ではなく、主体的な創造でなければなりません。実存次元の探求においては、意味は身を持って生きることではじめて意味となるのであり、受動的に意味が存在するのではないのです。したがって、ハイデガーなどに見られる受動性の存在論は、哲学の自殺としか言えません。

われわれ人間は、主体的に生きた時はじめて生きることの悦びを感じ、自他と世界は色づくのです。人は、主張し、行動するときには、失敗も悲惨もすべて意味づき、価値を持ちます。しかし、受動的にしか生きなければ、世界の中の部品にしかなれず、「私」の固有の価値は消え、生きる意味は希薄になってしまうのです。


武田康弘
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コメント

受動性の哲学について想うところ
(古林 治)
2010-03-08 21:21:18

受動性の哲学から能動性の哲学へ。
異論などまったくないのですが、想うところを少し。

自分の考えをクリアにし、表明する。
自分が所属し、生活している集団や社会について考える。議論する。合意を形成する。変革を試みる。
確かに70年代の後半といえば、上記のような行為が古臭いとかかっこ悪いというムードが蔓延してました。
そうした奇妙な場の空気がいつの間にか醸成され、その空気を読むことが優れた人、という感じでした。今もまったくその通りですね。異を唱えれば変な人と指差されます。
【奇妙な場の空気】とは、一体何なのでしょう? 多くの場合、閉鎖的な既成の集団を維持し、受け容れるための暗黙のルール(タブー)のように思えます。そうだとすると、それは思考の停止と集団の維持、そしてその集団への従属に快楽する徹底した受動性の哲学そのものといえますね。

その昔、西欧・東欧といった比較的恵まれた国だけでなく、アジアを旅してみても、どの国の子供たちも日本の子供たちより目が輝いていました。
彼の国々には希望を持って生きる、行動する。それが基本にあったように思います。
片やうつろな目をした人々が多いこの国は一体どうなっているのか、と強く感じました。
よく考えてみれば当たり前ですね。一人ひとりは皆異なり、それなりの生があるはずなのに、なぜか平均的な正しい生き方を他者によって強いられ、窒息寸前になっているのですから息苦しい表情になるのも当たり前か。受動性の哲学の帰結、一般性の罠にはまった結果に違いありません。

昔の人に比べてスケール感のある人間が少ないと言われる理由もこの辺り(受動性の哲学の蔓延)にあるのでしょう。
能動性を失えば人間はみみっちい生き方しか出来なくなるのも当たり前です。

問題の根はおそろしく深いですが、私たちの生き方を根源的に見直す必要があるのは間違いないと思います。
能動性の哲学へと。

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Unknown (青木 里佳)
2010-03-10 00:08:13

青木です。

これを読んであるイメージが浮かびました。

デートのプランを立てる若い男性。

デートで着る服、待ち合わせ場所、食事はお洒落なあのカフェで、食事の後は映

画、映画はロマンスものにする、映画の後は大人気のアイスクリーム屋で映画の

感想を語る・・・・と決めてデートの支度をした。

相手の女性と待ち合わせをしたのはいいけど、女性が乗る電車が遅れて時間通り

に来れない。女性がやっと来て、食事へ。でもあのお洒落なカフェの前に大行

列、1時間は待たされそう。それでもそのカフェで、と決めてたのでプラン通り

に進めることにした。

やっと座れて食事にありつけた。お腹がいっぱいになったところで映画を見に行

こうと思ったが、カフェの前での行列と食事に時間がかかってしまったので映画

は間に合わない。

どうしよう、待ち合わせの時からプランが崩れてしまってる。映画も駄目。じゃ

あ何をしよう・・・?

プラン通りにいかなくてイライラ、パニックに陥ってしまい、相手の女性も気分

が悪くなる。

「頼りないのね。あなたと一緒にいても楽しくないわ」と言われ、ショックを受

ける。

そしてプラン通りに進まなかったのは遅れてきた君が悪いんじゃないかと責め、

喧嘩になる。

こんな光景が思い浮かびましたが、特に今の若い男性にありがちだと思います。

そして女性も無意識のうちに男性に決まったデートプラン・コースを期待してい

ます。それが叶わなかった時、その男性に失望するか怒る。最悪の場合、喧嘩に

なってしまう。

この原因は「受動性」だと思います。

決まったプランを立てないといけないと思い込む男性、決まったプラン通りじゃ

ないと嫌と思う女性。受動という状態で生きるとこういう事態に陥るでしょう。

では「能動性」なら?

決まったプランにこだわらず、臨機応変にああしよう、こうしようと切り替えて

はその状況を楽しむでしょう。プラン通り行かなくてもイライラしたりパニック

に陥ることもないですし、女性も男性に期待するのではなく、自分からも積極的

にこうしようと提案し、デートの中身を充実させていけばお互い楽しく過ごせます。

今回はデートを例にしましたが、この例に限らず、全体から見て、能動的に生き

ている人は少ないと思います。

決まったこと、やり方、考えにとらわれていて、常に「こうしなきゃ」という強

迫観念に取りつかれて生きている人が大多数だと思います。

そうやって生きていると、本来持っている良さや魅力が外に出ていかず、決まり

きったやり方や考えに支配されてしまいます。そしてその決まりきったことが

「常識」として植え付けられ、周りにもこのような「常識」を求めます。

その「常識」が広まり、多くの人がその「常識」思考になり、受動的になります。

そして自分達が受動的になっていると気付かないで生きているのです。

能動的に生きれば、人生がもっと楽しく充実したものになるんじゃないかなぁ。

みなさんでこの話題、広めて、へんな哲学の流れを変えたいですね。

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大学の哲学のつまらなさ (楊原泰子)
2010-03-10 23:24:55

「受動性の哲学から能動性の哲学へのコペルニクス的転回が必要です。」を読んでの感想です。

学生時代の哲学の授業はほんとうにつまらなかったです。理論武装をした「哲学オタク」な教授の、原理次元での深い話はなく、ただ知識の羅列に過ぎない授業は、私自身が未熟で無知だったこともあるのですが、「能動的な哲学」にはなりようがなくて、ひたすら単位のための苦痛な時間でしかありませんでした。

武田さんに出会って、「ほんとうの哲学って人生の日々を豊かに生きるためにこんなにも必要なものだったんだ!」と気付かせてもらった時が、それこそ私にとってのコペルニクス的転回でした。

決して難解な言葉で議論したり、哲学史を羅列したりするのが真の哲学ではないことに気付いた時に、特定の宗教やイデオロギーに納得できないでいた私は、生活世界の中でああでもないこうでもないと自分自身が深く考え、周りの人と語り合い、ほんとうに正しいこと、良いこと、美しいことを求めながら、普遍の価値を目ざして生きることこそが、何よりも素晴らしい見事な生き方であり、そういう人々が総体として社会をよい方向に変えていけるのだということを強く感じることが出来ました。

一般的な正解などなくて、日々考え直し練り直しながら、生きていくのは楽なことではありませんが、こうあらねばという束縛から解放され、集団や組織の中でも議論の行方を愉しむ心のゆとりが生まれました。

でも子どもに対しては保守的な意見を言ってしまうことがよくあります。長い間この国の一般性の罠にはまって生きてきたひとりである私は、どこか人と同じであることの安心感から抜け出せないでいるのかもしれません。また、集団のリーダーを務める時に、突出した発言をする人がいる時、その意見を大切にしなくてはいけないと思いつつも、その意見の良し悪しにかかわらず、「参ったな!やっかいだなあ!」などと心の隅で思ってしまうこともあります。

受動性の罠にはまった人々の集合である国で、ひとたび危険な方向に導くカリスマ性をもつ扇動的な為政者が登場すればどのように怖ろしい結果を招くかは歴史を見ても明らかです。今の社会状況をみながら、子どもたちの時代にそういうことがあるのではないかと恐れています。平和も決して受動的に得られるものではありませんから。






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連続の冤罪=検察は市民の敵?―――テレビ朝日

2010-03-05 | 社会批評

いま、「スーパーモーニング」(テレビ朝日)で、4年半前に起きた高知県のバスと白バイの衝突事故について報じていました。
多数の目撃証言で、バス運転手は無罪であることが明白なのに、白バイ隊員の証言のみで有罪とされ、刑期を終えて出所したバス運転手とその家族の闘いを伝えていました。ブレーキ痕を捏造してまで無実の人を罪にする警察、検察、裁判所とは、一体何なのか?

あまりにも明白な数々の証拠(止まっていたバスに猛スピードの白バイが突っ込んだ)を前に、司会者の方も「検察は、物理法則さえ否定するのか!」と驚きと憤りを露わにし、長嶋一茂さんなどのコメンテーターの方も口を揃えて、「警察や検察がこういうことをするのなら市民はどうしたらよいのか?」と怒りの声をあげていました。

この事件については、以前にもテレビ朝日で詳細に報道していましたが、何一つ悪いことをしていないバスの運転手さんを「白バイ隊員のメンツを守るため」だけに罪人に仕立て上げた、というのです。バスに乗っていた25名の生徒、バスの真後ろにいたクルマの運転手(校長先生)、目撃していた市民のすべてが「バスは止まっていた」と証言していますので、バスの運転手が無実であることは、明白です。

「ふつうの市民が警察や検察と絡めば何をされるか分からない」「検察は、多くの無実の証拠を持っていながら罪にする、官僚は人の心を持っているのか」とメインコメンテーターの方が話していましたが、ほんとうに恐ろしいことで、こういうことが頻繁に起きるわが国は、「自由と人権につく主権在民の民主主義」と言えるのでしょうか? 日本は民主主義の敵である官僚=検察庁が支配する国だ、というウォルフレン氏(世界的ジャーナリストでアムステルダム大学教授)の指摘にある「現実」を変革しなければ、よい国・誇れる国にはなれません。

解説者でジャーナリストの大谷さんは、政治家やその秘書への違法な取り調べをしている東京地検特捜部の問題を含めて、「週刊朝日にも書かれているが、これでは戦前の特高警察と変わらない」と話していました。敗戦後、新憲法に則り、一人ひとりの人権を守るための国家になったはずなのですが、世界から「冤罪天国」という汚名を頂戴する事態は一向に改善されません。まさに、市民の公共に反する「公=官=国家」が歴然として存在しているのです。

少数ではあれ、勇気あるジャーナリストが真実を伝えるために努力しているおかげで、ようやくわたしたち市民は「事の真相」の一端を知ることができます。それに基づいてわたしは、この悪(官=公=国家という戦前の思想)と微力ながら闘っていますが、大学人や、多数派のジャーナリストは、自己保身のために見て見ぬふりをしています。そういう人に、「明日を語る資格はない」ことだけは確かでしょう。なんというテイタラク。

わたしは、教育に携わる人間は、間違ったことに対しては、怯(ひる)むことなくそれと闘う覚悟が必要で、それがない人は、われわれの未来そのものである子どもや青年を教育する資格はないと思っています。自分の地位が上がること、自分の自我が満足すること、自分が有名になること、自分が権力に近付くこと、・・心の本音がそこにある人では、ほんとうの教育などできるはずがないのです。【善美のイデアに憧れ、真実を求める心】、それなくしては、人間の生は貧しく醜いものにしかなりません。


武田康弘
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以下は、古林治さんからのメールです。

古林です。

冤罪天国といわれて久しいですが、冤罪には単に能力不足や職務怠慢で起こるもの以外に警察・検察の
政治的意図によって起こる冤罪も少なくありません。件のバスー白バイ事件もそうです。
警察・検察が気に入らなければいつ、誰でも犯罪者として投獄されてしまう可能性があるということです。
これでは私たち市民は安心して生活することなど出来ません。おそろしい!一体この国の主権者は誰なのか!

戦後、鈴木安蔵ら憲法研究会の努力のおかげもあって日本国憲法は主権在民を高らかに謳いあげることが
できました。
しかしながら現実政治のレベルでは、米国CIAの強い介入と支援によって岸信介らA級戦犯を含む戦前の
保守勢力が実権を握ることになってしまいました。自由主義とも民主主義とも無縁な人々による政党に
よって戦後政治が支配され、戦前の亡霊(反民主的思想・制度)があちこちに残ったまま今に到っているのです。
その端的な例が警察・検察です。
明治維新以来、何度か民主制への変革の努力が払われてきました。白樺の人々の活動もこの流れと無縁では
ありませんでした。『明治前半期の「自由民権運動」と大正期の「大正デモクラシ-」とは、日本の自立した市民による民主的思想と実践運動の二つの輝かしい峰です。(白樺文学館の理念より 武田康弘』
が、私たちの社会は未だ民主制社会としては極めて未熟なままです。
しかし、戦後60数年が経ち、実質的には初めてと言える政権交代が起きた今、この変革を進める絶好の機会
です。特に私を含む年配者たちには大きな責任があるはずです。若い世代に負の遺産を残してはなりません。
反民主的な警察・検察(官僚)の体質を変えさせなければいけないでしょう。
もちろん私たち一人ひとりが声を上げ、行動するのです。マスメディアや政治家が当てにならないというのは
言い訳になりません。私たちの社会は私たち自身が作り上げていくというのが近代社会なのですから。
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コメント

なぜ裁判所まで…… (C-moon )

この事件を思うと、「なぜ裁判所まで……」ととても悲観的な気持ちになります。
警察と検察は、必ずしも正義ではないことが解っていますが(一部の警察、検察だと信じたいですが……)高裁も、最高裁も実に簡単に処理してしまっている。高裁など弁護側の証人を採用せず、即日結審していると聞きます。
これでは何のための三審制か疑問です。
基本的人権を守るための慎重かつ公平な審査のためのもので、ここが崩れたら、基本的人権は消えてしまい、権力のなせるままになってしまう。
ある弁護士によると、検察側が提出する証拠はほぼ全面的に採用するが、検察側に都合の悪い証拠は、検察によって提出されないし、裁判所に弁護側が全証拠を開示要求しても、裁判所は応じないそうです。
こうなると、”裁判所は公平である”という当たり前の役割が、現実性のない神話の世界の話になってしまう。
このことはこの事件にも当てはまると思います。

警察の面子、これも公権力の歪曲した姿勢から生まれるもので、到底許し難いものですが、さらに検察はそれに助長し捜査し、公訴してしまう。
権力を持つ警察官や検察官一人ひとりの良心に問うことも、すでに限界がありそうです。
やはり民主主義国家にあまり類を見ない、検察が有する二つの権力である捜査権と公訴権を分離する改革が必要だと思います。
検察は捜査権のみ有し、公訴権は独立した行政機関を作り十分な審査をしたうえで公訴するかしないか決定すること。ここには、民間有識者も加わることが望ましいと思います。

このような現状で死刑制度があることは、とても怖ろしいことです。
警察と検察によって作られる犯罪……
郵便不正事件の公判でも明らかになっていますが、検察のストーリーはもろくも崩壊し続けています。
事件発生時と逮捕時だけ、世論を煽るように報道するマスメディア。
公判の事実をわずかにしか伝えないマスメディアも、冤罪に加担していると言わざるを得ません。
この事件でも、地元愛媛新聞の姿勢は、常に警察と検察に寄り添っていたようですね。

日本の民主主義は、本来なら民主主義を死守しなければいけない大きな力(権力=検察)によって損なわれ続けている。そう実感せざるを得ません。





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