思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

小林よしのりさんは、首相の思いを伝え、「森友学園」を高評価した安倍夫人・昭恵さんを国会に承認喚問すべきと。

2017-02-28 | 社会批評

右派の論客で、漫画家の小林よしのりさんは、以下のように言っていますが、これは、適格で鋭い指摘と思います。
(太字、色字は、武田による)


そこまでして国家権力が森友学園を優遇したのは、当然、政治家の介入があったからだろう。
しかも最高権力者の安倍晋三の「口利き」なら、各省庁の官僚は直ちに動く。
「森友学園に国有地を優遇してやってくれないか?」と首相が官僚に電話すれば、そのための悪知恵は官僚が出してくれるのだ。

なにしろ首相夫人の安倍昭恵が森友学園の名誉校長だ。
安倍本人が自分は関係ないと言っても、妻の安倍昭恵がこのアナクロ学園を絶賛している。
森友学園で行なった講演で、こう言っている。
「こちらの教育方針は大変、主人も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」だから小学校も作るべきと推奨したわけだ。

その小学校の創設のために国有地をタダ同然で取得するには、安倍昭恵名誉校長の権威は、絶大な効力を発揮しただろう。
「主人も素晴らしいと思っている。」この言葉の威力は凄い。

韓国で大統領の親戚が、我が物顔に権威を利用して、利益を貪る構図に似ている。

安倍昭恵は直ちに森友学園のホームページから、自分の顔やメッセージを削除させたようだが、よっぽどやましいことがあるのだろう。安倍昭恵を国会に証人喚問すべきだ。」(小林よしのり)

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忠臣蔵、忠犬ハチ公、忠義、「忠」こそ最高の道徳である(東大名誉教授・小堀桂一郎)。アメリカの忠犬〇〇公

2017-02-26 | 教育

 「忠」とは君主に仕える道徳、というのが国語辞書よる定義です。いわゆる家来、臣民など支配される側の人々の、主人、目上の者に対する忠義の心と態度の純粋なるさまのことを言います。

 日本人として生まれたからには、一般的、抽象的な「人間」の道徳ではなく、ニッポン人という自覚と誇りをもたなければいけません。それが「忠」という道徳ですーーこれは、自民党安倍派や彼ら全員が所属する「日本会議」の主張=思想です。

 彼らが称揚する「教育勅語」の基本思想は、君主(上位者)に従う臣民の道徳を謳ったものですので、「我が臣民、よく忠によく孝に、億兆心一にして」と言われます。

  以下は、靖国神社の理論的重鎮で、東京大学名誉教授の小堀桂一郎よる「」の解説です。

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考え方で出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。
 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として据えられているという日本特有の事情があるのです。・・・

 「」とはどういうことかと言いますと、現代語に翻訳すれば「公」と「私」の関係でして、「私」というものを「公」に捧げて、遂には命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。これは、実は支那の儒教にはない精神なんですね。

 この「忠」の精神こそが、西洋列教が日本を圧迫するという非常に厳しい国際環境の中にあって、日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから、「私」というものを「公」のために捧げて働き、遂に命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。
 その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義をつくして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」

 「忠」という道徳は、「民主政」とその内容である「人権」の思想とは相いれないことがよく分かります。主権者を国民(人民)として、主権者の意思で国をつくるという民主政の原理とは二律背反です。

 民主的倫理とは水と油である「忠」という臣民道徳を、主権者を国民とする民主政国家で教えることは根源的な倫理違反となり、許容されません。この当然の前提さえ踏まえないで政治や教育を行うのは、認識が甘いというレベルではなく、知的ないし精神的退廃そのものです。

 まず、こういう基本をしっかり認識しないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。


武田康弘

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安部首相夫妻の「森友学園」への深い関与は、テレビ東京の独占映像に明白です。

2017-02-26 | 社会批評

2月17日のテレビ東京の独占映像は、安部首相夫妻が「森友学園」と深いつながりがあることを証明しています。

その思想的罪は、計り知れないもので、もしドイツならば、夫妻は、以後公職につくことができません。

認識が甘いどころではなく、知的退廃そのものです


武田康弘(元 参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

クリックしてください。


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「森友疑惑」で政治家の関与、動かぬ状況証拠。価格の非開示はこれ1件のみー財務省

2017-02-25 | 社会批評

安倍総理と親しく(携帯番号を教え合う仲)【臣民教育】という民主政下では厳禁の幼児教育を推し進めてきた森友学園(安倍首相夫妻がこの教育に賛同)の経営者に対して、超がつく格安で国有財産を売り渡していたことが、大スキャンダルとなっていますが、

国有地の売り渡しに関して、大物政治家が介在していた動かぬ状況証拠が明らかになりました。以下は、今日の東京新聞一面からです。

「大阪市の学校法人「森友学園」の国有地取得問題で、財務省が国有地の売却額を非公開にしたのは2014~2016年度の693件のうち森有学園の事例1件だけだったことが分かった。政府は取引を透明化するために金額を原則公開としているが、異例の扱いをしていた。」

大物政治家の口聞きがあったことの動かぬ状況証拠と言えるでしょう。当然、口聞きは、安倍首相サイドであるとみるのが妥当ですが、国会議員は、世界中が注目するこの大事件の真相を暴くべく努力してほしいと思います。

日本は西側諸国と同じ人権と民主主義の国である、そう事あるごとに強調してきた安倍首相が、国民主権を否定した思想=「臣民教育の勅語(明治天皇が臣民に与えた言葉)」を暗唱させ、それを教育の柱とする学園の熱烈な支持者であったことは、まさに西側諸国から驚きの目で見られています。安倍晋三のもつ戦前ウヨク思想については、世界の良心ともいわれる言語学者・チョムスキー氏が英国王立アカデミーで講演するなど、すでに常識となっていますが、こんどの土地疑惑事件は、その異常な思想(国体思想=靖国思想)を赤裸々にしたわけです。

安倍首相は、民主政の国で首相を続けることは不可能です。

テレビ東京の独占映像は、必見です。  学園への安部首相夫妻の深い関与




武田康弘

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1906年=漱石「坊ちゃん」 藤村「破戒」 伊藤左千夫「野菊の墓」 志賀直哉「天皇ノート」強い近代的自我意識は・・・・

2017-02-24 | 白樺文学館

 

まっすぐな自我と官僚的学校との衝突、痛快なアクション小説の「坊ちゃん」(夏目漱石)

社会的差別との闘い、実存的苦悩を抱えつつ乗り越える不退転の自我を描いた「破戒」(島崎藤村)

純粋な恋愛と社会通念による抑圧、個人の善美の実現の困難さをせつなく甘美に教える「野菊の墓」(伊藤左千夫)

明治政府がつくった天皇制という空しい思想と直哉の正直な自我、個人が消去される天皇主義のおぞましさを極めて率直に現した「天皇ノート」(志賀直哉)

すべて、近代の個人意識、自我の覚醒を軸としていますが、みな1906年=明治39年に出され(書かれ)たものです。現今の安倍内閣による教育改革、個人や自我の抑圧の思想=「教育勅語」称賛、愛国心教育への取り組みを見ると、明治の文豪たちが現した優れた思想との違いに驚きます。

アナクロニズムという以上に、退化してゆく愚かな精神を目の当たりにして、わたしは、日本という国の劣化、精神的退廃を深く感じざるを得ません。

ああ、110年前の文学者たちの輝かしい自我=個人は、この4年後には「大逆事件」=天皇制国家主義による怖ろしい弾圧がはじまり、冬の時代となりました。歴史は繰り返すで、再び、冬の時代=愛国主義で市民的自由が侵される時代へ、は冗談じゃないですよね。今度はわれわれ個人が国家主義に負けられません。子どもたちの自由を官府から守らないといけませんね。ぜひ、公共的(=市民的)連帯、みなで共に!

 


※この大逆事件(無実の幸徳秋水らが一日裁判で、即刻死刑)による冬の時代の始まりの年、1910年に、個性と個人の自由を謳う同人誌「白樺」が発刊され、柳宗悦、兼子は、保守政府と対峙し、朝鮮人との太い民間交流も成し遂げます。学習院の反逆児たちによる思想、宗教、教育、文学、美術、音楽の文化運動は、日本の人間復興(ルネサンス)となり、白樺山脈と言われるほどになったのです。彼らの【個人主義】は、その後、今日まで日本では右と左の全体主義・権威主義のために実現しませんでしたので、いまとても新鮮、未来を拓く思想です。

21世紀の白樺派は、「恋知」の生を広める運動が軸ですが、それは言葉の正しい意味での「個人主義」とも言えます。


武田康弘

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臣民の教育、国民主権の否定に立つ思想=『教育勅語』を民主政下で教えることは出来ません。

2017-02-24 | 学芸

 

「我が臣民 克(よ)く忠に、克(よ)く孝に、億兆心を一にして・・・・・・」(教育勅語) 勅語とは天皇が臣民に与える言葉

臣民とは、君主国において、君主の支配の対象となる人々を指し、明治憲法下において、天皇・皇公族以外の国民のことです。


民主政の根幹=原理とは、主権者を人民ないし国民とする自治政治のことで、民主主義社会では、それに反する思想を認めていません(主権者を君主としたり独裁政治を行う自由はなく、そのような公的言動は禁止されます)。

従って、『教育勅語』(明治天皇による言葉=勅語とされているもので、律動的で優れた文章に仕立てたのは、明治の文豪・島崎藤村です)を正しいものとして教えることは、民主政国家においては許されていません。

いま、格安土地疑惑の「森友学園」教育勅語の思想による教育は、民主政の否定となり、到底現代の民主政国家で許される範囲にありません。これほど明白な憲法違反もありませんが、それを認可する文部科学省の次元の低さは、論評以前であり、近代社会の常識さえ知らぬ官僚たちには呆れ返りますが、意味=本質を知らない受験知人間が「役立たず」であることは今に始まったことではありませんね(呆)。それを素晴らしい教育と言う安倍首相夫妻とは、なんなのか。


武田康弘(元 参議院行政監視委員会調査室・客員調査員=「日本国憲法の哲学的土台」を講義)

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安倍首相夫妻と官のスキャンダルは、ふつうの国なら政権が大元から崩壊する事件です。 拡散を!

2017-02-23 | 社会批評

 「安倍晋三小学校」の名称で寄付金を集めていた安倍首相夫人が名誉校長を務める「瑞穂の國記念小學院」(今年4月開校予定)が、
その用地を財務省から非常識な価格(地元不動産業者は、ありえん!と絶句)で購入していた問題は、財務省と文科省と政権トップとの構造的癒着を象徴する事件で、ふつうの国ならば、政権は、大元から崩れ去る大スキャンダルです。

  建築中のその小学校の母体である森友学園は、「戦前思想」を園児に教え込む教育、明治天皇が臣民に与えた『教育勅語』を毎日歌わせて暗唱させる教育を40年間にわたり続けていますが、これは、明白に『ポツダム宣言』に反し、現『日本国憲法』の根本理念(13条「すべて国民は個人としての尊重される・・公共の福祉に反しない限り最大の尊重を必要とする」19条「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」)を反故にするものですが、

 それを素晴らしい教育として賛美し、現在の公教育を否定するような発言を名誉校長として保護者の前でおこなった安倍首相夫人の異様な思想(国民主権を否定した「教育勅語」中心の教育理念)と、その思想を肯定する安倍首相は、到底、西側諸国と国連の掲げる人権とデモクラシーとは反目します。近代民主政国家の思想的要件を満たしません。

 財務省は、隣接する同面積の土地を、豊中市(大阪府)に14億2300万円で売却し、この小学校建築用地は、その10分の1よりも安い1億2300万円で売却しています。駅から徒歩10分の土地が坪単価わずか5万8千円です。しかも、財務省は、手付と最初の支払い額2700万円の残り1億600万円を10年返済でという異例の厚遇をしています。しかもこの土地は、2012年に別の学校法人が5億8千万円で購入を申し入れところ、財務省は、「安すぎる」と売却を断っていたのです。裏があるのは明白です。

 常識外れのこのような契約は隠されていたのですが、市民団体の情報公開要求でようやく明らかになりました。

 財務省官僚と私立学校の許認可権をもつ文部科学省官僚と首相夫妻とによる大スキャンダルというほかありませんが、金銭の優遇と、国家主義を排して民主主義を国是とする『日本国憲法』の基本理念に反する思想行為は、国の大元が劣化してしまっていることをあらしています。ふつうの国ならば、政権は大元から崩壊します


武田康弘(元・参議院行政監視委員会調査室・客員調査員ー「日本国憲法の哲学的土台」を講義)


テレビ東京の報道(2月17日)は、必見です。

 

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カラヤン談義は、文化論に。 ヒトラー、レニ・リーフェンシュタール、カラヤンの自己陶酔と純潔の美学。

2017-02-22 | 学芸

染谷裕太君の「カラヤンを聴いての感想」(fb)を、わたしがシェアしたところ、数十通ものコメントが寄せられました。
以下は、染谷君の記事とわたしのコメントのみを抜き出したものです。最後はわが小沢征爾の問題点の指摘になりました。
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染谷裕太

 最近少しカラヤンを聴いていて思ったこと。

まず、カラヤンの演奏はどの曲も同じ曲に聴こえる。とても流麗で綺麗な演奏で、パッと聴いた限りで別に文句をつける所はない。演奏の最初から最後まで綺麗に、軽やかに、流れるように進んでいく。全ての曲がその調子なので、全て同じに聴こえる。

しかし、それほど華麗に流れるように進んでいく中で、たまに「え?」と驚くほど、突然喧(やかま)しくなることがある。それはハッキリ言って騒音と言ってもいいほどで、音楽でなく単純にウルサイだけ。

たぶんカラヤンの演奏は、その曲の意味(作曲者が言いたい事)を掴んで、それを表現しようとする演奏ではないんだろうと思う。だから、むやみに鳴らすだけの統一がなく意味の通らない箇所が出てくるし、白けるほどにあざとい響かせ方もするのだろうと思う。

聴き終わった後にその曲の印象が残らない。感動のカケラも残らない。その演奏なら、その曲である意味も必要もない。曲をのっぺらぼうにしてしまう。カラヤンの演奏はそういう演奏だと感じた。 

 

  昨日はブラームスの一番を聴いていて、あんまり軽薄なので段々腹が立ってきて「これはおかしい」と思って途中で止めて、クレンペラーを聴いて「うん。これ」と納得。
 自身がやっていることに誠実でない感じや、作曲家や曲に対するリスペクトのなさ、上から目線な感じ。カラヤンのそういった所が僕は非常に気に入りません(笑)

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武田康弘

同感です。

音楽家を含めて、なぜカラヤンが支持されてきたのか?
わたしも裕太君の感想と近く、さっぱり意味が分からないのです。
 確かにスマートでスタイリッシュですが、それぞれの音楽固有のよさを消してしまい、自分のための音楽にします。カラヤンの意識する聴衆は、大衆=テレビ好きの人々ですが、数が多いのが正しいというのであれば、正しいのでしょう(笑)。
 他者への共感(演奏家の場合なら作曲者と楽曲への敬意や共感)は少なく、自己中心的で耽美的、流線形の流れ去る=消費される音楽で、確かに時代に合っていますが、こういう演奏を好む人は、大元を探るというフィロソフィーの精神とは無縁でしょう。
もっと手軽に!もっと楽しませて!もっと乗せて!素敵~カラヤン、ですが、わが小沢征爾も途中からはそちら側に行ってしまいました。そうならないと受けないのです。
ナチ党員でしたし、自己耽溺でしたし、政治力で音楽世界をわが者としたチャンピョンでした。自家用飛行機を持ち、スポーツカーを乗りこなすカッコいいカラヤン!!
 各作曲家は、カラヤンのために(笑)
 冗談じゃないぞ~~~。

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 カラヤンには、、音楽と人間への愛情がない。
 愛の代りに機能がある、自己陶酔がある、音への没入と聴衆支配がある。...
彼は自分自身の存在を愛することができない。代りに、彼の才能を愛し、彼の美学を愛し、彼の所有物を愛する。自己充足ができず、本質的に不幸だ。

だからスマートにやれてしまう。流れるようなレガートが多用され、他者を自己の美学に従わせる。作曲者のもつ人間精神の重層性はなく、屈折もなく、苦渋もない。彼は、奥深い精神世界とは無縁で、表層美に支配される。ヒトラーの純潔の美学やヒトラーが称賛した女優・映画監督・カメラマンのレニ・リーフェンシュタールと同じだ。

カラヤンは、音楽美を用いた独裁者だ。作曲者の精神世界は、自分の美学を音楽化する手段となり、聴衆は、自分の美学を称賛する群衆となる。カラヤンにとって作曲者も聴衆も自立した他者ではなく、彼の美学実現のためのアイテムだ。彼には他者はいない、いれば、無視するか、排除するだけのこと。彼の美学に従う者だけが他者ならぬ他者となる。

彼の美は、人間性の多様さや豊かさとは無縁で、生産性は持たず、支配をもたらす。彼の音楽も存在も、すべては「権力への意思」である。自分の美学への陶酔は、日本の三島由紀夫のものでもあるが、そういう思想の持ち主は、必ず、なにかしらの「絶対」を要求する。

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一松さん、
「フルトベングラーがカラヤンの対極」は、表層的にはそう見えるでしょうが、一つメダルの裏表と思えます。
どちらも音楽を「演出」します。カラヤンの(フルトベングラーとも)対極は、同時代ならクレンペラーでしょう。音だけで勝負するー演出はしない、という極みですので。

「演出」に乗る群集心理の怖さーー
心身全体での会得=納得ではなく、他者や情報や表層知で動いてしまう人間の宿命かもしれません。政治を見るといつまでも同じようなことの繰り返しですが、その中で目覚めていたいもの、わたしは楽しく面白く深く納得して生きる「恋知の生」です。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

大澤さん、丁寧なコメント、ありがとうございます。
今なぜカラヤン談義なのか?のご質問ですが、
これを書いた染谷さんは、青年で、カラヤン初体験です。今更ではなく、今、なのです。そこにわたしやみなさんが思いや見方や考えを書き込んだのです。
みなが熱くなるのは、いまなおカラヤンの美学ー思想が力をもっているからでしょう。
ヒトラーとリューヘンシュタールとカラヤンの美学は同じで(みな天才です、20世紀の最大の哲学者といわれたハイデガーもヒトラーに共鳴)、純潔主義、夾雑物の排除、自己絶対化・・・・ですが、その思想は、現代でも大きな力をもっています。

徹底的な衛生主義、虫のいない(笑)人工化された自然、人間の管理を含むあらゆる面の管理主義・・・

豊かで楽しいアンパンマンの世界にはバイ菌マンがいます。バイ菌マンを消去したアンパンマンの世界は、どうなるでしょうか?(笑)

なお、N響に期待するのは官僚に期待するようなもの(笑)。ぜひ、ジョナサン・ノット東響に足を運んでください。

小澤征爾についてはまた。

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こんなに悲しいんだ、
こんなに嬉しいんだ。
こんなに怒っているんだ。
と直接言う、直接音で表現しようとする、ということでは、芸術になりません。
文学でも音楽でも美術でも、それを日常言語で表現する、また、その延長の表現し方では「芸術表現」ではなく、ただ「表現」」です。
二次化(=高次化)しないといけませんが、それを「理念化」とも呼びます。この理念化は、フィロソフィーに弱い日本人の最も苦手とするところです(フィロソフィーとは個人意識そのものですから、滅私奉公の道徳を仕込まれ、集団主義をよしとする国では不可能です)。

高次化のためには、豊かな感情と、その感情が湧き出る源を冷静に分析する知の両方が必要ですが、譜面を読むのは、その譜面が表している「理念」を読み取る=解釈することが基底にないと、ただの音符読みに終わります。この理念を掴み(解釈し)、理念世界を空間に構築する作業をするには、強い思考力=フィロソフィーが必要です。

音による精神世界の構築(高次化)がないと、音楽は、ただ上手い(下手な)ものにしかなりません。上手に流れゆくだけの音楽は、浅くて精神の底に届きません。感情をクスグルだけ、あるいは「部活」の乗り。いくら精緻に譜面を読み、暗記しても、それは、理念をつかむ頭の作業とは別次元の作業なのです。


若き小澤は、斉藤秀雄から教わった楽曲の理念に従っていましたが、次第に(教わらなかった曲の演奏が増えるに従い)「理念」ではなく「直接的感情」につくようになり、それを音楽化するための緻密な楽譜読みに入り込んだようです。基準となる「理念」の替わりに、「他者承認」が中心となりました。無自覚であれ、理念化の放棄です。聴衆に受ける(承認される)ことが基準になり、豊かな理念の構築ができません。評判のよい比較的新しい録音ほど音響の追求にしかなっていません。

昔は、若さゆえの「自分の音楽」への意地が新鮮でしたが、若さが成熟に向かうにつれ、理念の不足を緻密で美しい音や優れた合奏力で置き換えることになったのです。『ぼくの音楽武者修業』(音楽の友社刊)を1980年に新潮文庫にするとき、ある部分だけをこっそり抜いたのは、その象徴でしょう。「こんなことをしているとカラヤンの亜流になってしまう。カラヤンなにくそと思って、ぼく流の音楽を作らなければならないと固く心に誓ったというフレーズが消され、全体は、巧妙にカラヤン讃美へと変えられました。


武田康弘
ーーーーーーー

以下は、2013年4月7日のブログより。

小沢征爾さんの『ぼくの音楽武者修行』は、30数年前から長いこと中学一年生の授業で使い、彼の演奏する音楽を聞いてもらいつつ音読しました。 ず~と応援してきてLPCDもたくさん購入してきました。

 ただ、ウィーンフィルの音楽監督になったころ(超有名になったころ)からの演奏は、
 最高の評価を得たショスタコービッチの交響曲5番にしろ、
 奇跡のニューヨークライブと謳われた最近のベルリオーズの幻想、ブラームスの1番にしろ、各々の音楽の真髄に「届かない」と感じてしまいます。

 たとえば、ブラームスの1番でいえば、サイモン・ラトルがつくる明晰で豊かな理念を感じるエロース=立体的な面白味とは異なり、平板的・直線的でひろがりを持ちません。聴衆は熱狂していますが。

マーラーの9番(2001年東京文化会館でのライブCD)など、西洋人がつくる世界とは別の意味で優れた演奏(美しく情緒的で涙を誘うような)もあり、好感を持ちづづけてはいますが、若いエネルギーの奔騰を示した以前の演奏のようには絶賛できない演奏が多いのです。

 おそらくは、オーケストラプレーヤーをまとめる力はあっても、強靭な理念世界を生み出す力が彼の中にはなく(師の斎藤秀雄にはありましたが)、そのことが、若さの輝きを失った後の彼の演奏を平板化させているのではないかと思えます。

 

 

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40年前からの園児への徹底した「戦前教育」ー天皇の肖像を拝ませ、教育勅語を歌わせる、安倍夫人が名誉校長。

2017-02-21 | 社会批評

以下の7分のビデオ(クリック)は、必見です。背筋が凍る洗脳教育の世界。ぜひ、拡散をお願いします。

https://www.dailymotion.com/video/x5cb36z_%E6%84%9B%E5%9B%BD-%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7-%E5%90%8D%E8%AA%89%E6%A0%A1%E9%95%B7%E3%81%AF%E5%AE%89%E5%80%8D%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%AB%E4%BA%BA_news

 

以下は、FBの友人、大山浩司さんの記事から一部を抜粋しました。

森友学園(40年前より「戦前思想」で園児を教育する学園)が購入した土地は、
隣接地同面積で14億円の国有地だが、1億3400万円で払下げ。...
地中のごみ撤去費用を引いた値段だとのこと。しかもなんと10年分割。
(2012年別の学校法人が撤去費用約6憶円で購入を申し入れたところ
国は「安すぎる」と売却を断っていた。) 


購入したのは「森友学園」で「瑞穂の國記念小学院」を建設するため。
 「瑞穂の國記念小学院」の名誉校長は安倍昭惠夫人。
 寄付金を集める際には、
 「安倍晋三記念小学校」の寄付者銘板に記名することを謳っている。

当然、安倍首相は以前から森友学園とは繋がりがある。
 森友学園の籠池泰典総裁は「日本会議」の大阪代表・運営委員。
 安倍首相も「日本会議」のメンバー。



今年1月、海外メディア「タイムズ」紙の取材を受け、
 報道されたその日本語訳は以下の通り。 

「日本愛国主義幼稚園の忠誠と服従」
 訪問者は、塚本幼稚園の風変わりで驚くべき点にすぐには気付かない。
 笑顔で丁寧な先生、2~5歳の制服を来た子供達は、
 他の幼稚園と同様愛らしい。

しばらくした後、園児たちの“おじぎ”をする光景に気付く。
それはお互いにするのではなく、壁の写真に対してである。
それらは、天皇の画像である

「天皇陛下は、我が国の基盤です」と、
 籠池チナミ(先生の1人)は言う。

「私は、天皇陛下に対しそのような尊敬の念を感じます。」

この学校は、ある時代を彷彿とさせる。
 幼い園児は、日本の計算盤である“そろばん”を教わっている。

毎朝、彼らは寒い中でも整列し、
 明治天皇が1890年に明示した教育勅語を詠唱する。
それは忠誠への賛歌と狂信的な国家主義への刺激として
教育分野では禁止されたもの。   
 彼らは、個性的で美しく、
かつ高貴な日本と文化の見方を教え込まれている。

「私たちの目標は、
 我が国と国民の役に立つ子供達を育てることであり、
かつ利己的な目的を追求しません」

籠池チナミの父、園長 籠池ヤスノリ氏は語った。

「国家への誇りをなくして繁栄はない」。

自由主義の日本において、塚本幼稚園は、
 1945年にさかのぼる残忍な戦争介入や、   
 悲劇的な敗北を齎した愛国主義へと子供達を洗脳する施設である。
それでも、ここにおける教育は更に必要とされている。

毎年、70名の募集に対し120人の希望者。
 教育費は毎月215ユーロ(26,000円)。
 4月には新しく小学校が開校され、
 12歳まで愛国的教育が行われる。

その名誉校長は、
 内閣総理大臣・安倍晋三夫人、安倍昭恵氏のようだ。

籠池氏は語る、

「第二次世界大戦後、
 日本の歴史と文化は悪物だという解釈がなぜか発生した。
 伝統的なふるまいや慣習はほとんど喪失してしまった。
 当に今、人々は
歴史・文化の理解や公徳心の必要性を認識している。」

すべての科目は政治的なものではなく、
 将棋、剣道、伝統音楽やラグビーも含まれる。
しかし籠池氏は例えば“女性の役割“という
偏った考え方も持っている。

「男の子は男らしく、女の子は女らしく」

と籠池氏は語る。

籠池氏は、4年間の安倍政権の間、
その成長に影響を与えた愛国的な組織「日本会議」の委員である。

それは、戦後の平和憲法の改正、教科書の改訂、
 戦争の残虐行為に対する自虐意識を排除する
日本の愛国的歴史観を引き起こすものである。

世論の投票が示している。
ふんぞり返っている右翼と違い、
 塚本幼稚園の世界観の普及が
平凡な日本人を深く当惑させていることを。

籠池氏は語る、

「当学園を卒業した園児は、
 弁護士、政治家、自衛隊、芸能人になるべく巣立っている。
その先輩クラスはまだ40代である。
 今後10年のうちに彼らは、先任の地位まで出世するだろう。」

 

異常に安い価格での土地払い下げ
「安倍晋三記念小学校」
 教育勅語
 憲法改正
そして日本会議。

こんな大きなスキャンダルなのに
 なぜかテレビ報道は及び腰。

すべては繋がっています。

これら事実の列挙から、
 背筋のぞっとするものを感じる人は
少なくなってしまったのでしょうか?

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早稲田、東大、慶応、千葉大、今度は慈恵医大の医師ら「集団による女性への暴行」ー甘い対応は、わが国の後進性の証。

2017-02-20 | 社会批評



 
かなり以前ですが、早稲田大学の運動部の部員たちが、女性を集団で暴行しましたが、その時、元総理大臣の森喜朗は、「元気がよすぎたんだろう。」と評しました。

 最近では、東京大学、慶応大学、千葉大学(医学部)の学生が、やはり一人の女性を集団で暴行する事件が相次いでいますが、その卑劣としか言いようのない行為に言葉を失います。今度は、慈恵医大の医師二人と医学生一人による犯罪(強姦罪で起訴)です。

 点数が命の「受験知人間」は、内心に他者への思いなどまるでなく、自分の欲望だけ。苦しみや痛みの感覚や、抑圧される者の言葉にならぬ辛さなどは、想像さえできぬようです。記号化された勉強と勝ち負け主義の部活運動の中で、「個人としての理性」を持てない集団人となり、「みんなで犯せば恐くない」とばかりの集団卑劣です。

 大の男が計画的によってたかっで女性に暴行をするというのは、言葉にならぬ卑劣な行為で、犯罪の中でも最悪です。

 いまの日本の総理大臣の程度は、森元総理の《集団で強姦した学生をかばう発言》が象徴しています。その人間を平気でオリンピック東京大会の要職につかせるわが日本という国は、道徳的・倫理的におわっているというほかないでしょう。

 こういう恥知らずのおぞましい悪行は、権力を握った者たちの集団がやりたい放題の政治をするのと共通しています。主権者が為政者に示している憲法の理念を一内閣(安倍政権)が勝手に変えたり、石原元都知事は都政を私物化し(税金は使いたい放題)、官僚も「天下り」でおいしい汁を吸いたい放題ですが、最近それを組織ぐるみでしていたのは、道徳教育を叫ぶ文部科学省です。彼らのように、不当な力を用いて自己の思い=欲望を遂げるのは、根源悪と呼ぶほかありません。

 国是であった「自衛隊の海外派兵は行わず」もあっと言う間に犯され、武器輸出も解禁となり、強権的なイスラエルと軍事共同開発まではじめています。

 強い立場の者たちが徒党を組み組織的に、力(権力)を持たない弱者を蹂躙する。「エリート」大学の学生も、民権派を抑え込む国権派の政治家や官僚も、実に醜い存在です。集団凌辱という行為は、共通しています。

 

 武田康弘

 

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白樺文学館 創生記 その1 『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』に変わった理由。佐野力と武田康弘

2017-02-19 | 白樺文学館

 

白樺文学館  誕生秘話 1. 武田康弘(ホームページ作成は、古林治)

『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』

 

八木書店

1999年2月20日志賀直哉文学館プロジェクトスタート。
(写真は神田の八木書店にて.黄色のジャンパーが佐野力さん.)

哲研

その晩.哲研(哲学研究会)で志賀直哉文学館構想を発表.(中央:武田、後ろに佐野さんおよび当時の我孫子市長・福嶋浩彦さんが見える.)ソクラテス教室にて.

 

用地取得

1999年3月26日、皆川豊さん(左)から用地取得.武田(中央)の右は不動産仲介業の栗原年男さん.武田宅にて.

 

旧志賀直哉邸 奈良

1999年5月30日、まだ”志賀直哉文学館”構想であった頃。奈良の志賀直哉・旧居にて.
佐野さん(左)と武田(右)

 

文学館ロゴ

【白樺文学館】ロゴ、白樺派の代表的な活動であった雑誌『白樺』の表紙書体を利用.
● 誕生秘話 ●

1.『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へ

 ちょうど10年前の1999年2月に『志賀直哉文学館』の創設が始まり、それから丸2年、2001年1月に、それが『白樺文学館』として落成を迎えるまでの間、および開館後の数ヶ月間は、わたしの生涯の中でも最も多忙な時期でした。

 今年2009年4月1日、その『白樺文学館』は、オーナーで二代目館長である佐野力さんから我孫子市に寄贈され、市が運営することになりました。初代館長であるわたしは、この機会に、文学館創成の過程を振り返り、検証し、その意味を明確にする必要と責任があると思いますので、『白樺文学館創成ー誕生秘話』をシリーズとして順次発表していくことにします。

 

  1999年2月6日(土)、前日に「日本オラクル」の株式店頭公開を果たし、巨額の資金を手にした佐野さんは、わたしの家を訪れ、「武田先生、事情が変わ りました。お金があるのです。なにか面白いことを一緒にやりませんか。志賀直哉の文学館をつくるのはどうでしょう。武田塾の教育を広めるにも役立つと思う し。つくるにあたっては、理念も中身もすべて先生にお任せしたい。」と言いました。わたしは笑いながら即答しました。「いいですね。やりましょう。」

 わたしは、馴染みの神田神保町(神田生まれのわたしは、神保町の大型書店や古書街でいつも遊んでいた)にある「八木書店」に依頼して資料の収集をはじ め、土地を購入し、理念をつくり、建物のコンセプトを考え、定期的に志賀直哉の勉強会を開き、奈良の志賀直哉邸を佐野さんと共に訪ね、・・・・私塾で子ど もたちの勉強をみながら、そんな多忙な日々を送って7ヶ月が経過したある日、「週刊朝日」(99年9月10日号)に載った佐野さんの発言で『志賀直哉文学 館』の構想を知った志賀直吉さん(注1)から、「父の遺言により、記念館の類をつくることは一切お断りします」という手紙が日本オラクル(株)に届いたのです。

  9月なのに真夏のように暑い土曜日、佐野さんは困惑した様子でわたしの主宰する私塾『ソクラテス教室』を訪れました。「武田先生、どうしましょ う・・・」と言うので、わたしは即答しました。「佐野さん、何の問題もありませんよ。『白樺文学館』とすればいいのです。志賀は柳に誘われて我孫子に来た のですが、かれは同人誌「白樺」を代表する文学者であり、思想・文学・美術・音楽・教育等の白樺文化運動の一翼を担った人なのですから、ひろく白樺派を顕 彰する文学館とし、その中に志賀直哉に関する資料を展示すればOKです。」と。佐野さんは安堵し、その場で『志賀直哉文学館』は、『白樺文学館』になったのです。

  私は内心、「よかった」と思いました。というのは、私小説作家である志賀直哉ひとりを顕彰する文学館ではどうしても趣味性が強くなり、未来を開き、公共性をつくることが難しいからです。
白樺派は、白樺山脈といわれるほどの大きな影響を各分野に与えた日本最大の文化運動ですが、活動があまりに多岐にわたった為、その真価・核心を思想的に明 らかにすることは未だに不十分です。そのため、白樺派を顕彰する文学館(注2)をつくるとなれば、困難の度は飛躍的に高まりますが、その価値もまたはるか に大きなものとなります。「これは、やりがいがある仕事になったな。」わたしは、そう思ったのです。

  しかし、これが後に佐野さんとわたしとの別れを生む深因ともなりました。志賀直哉という一人の作家に拘る佐野さんは〈私性―趣味性〉に傾き、白樺派の精 神を現代に活かそうと発想するわたしは〈公共性―未来性〉に傾くのです。『志賀直哉文学館』から、白樺派を顕彰する『白樺文学館』とした時点で、佐野さんの最初の、そして赤裸々な「想い」を貫くことは出来なくなったのです。誰が計ったのでもなく、これは「運命」としか言いようがありません。

(注1) 志賀直吉さんは、志賀直哉の次男(長男は生後すぐに亡くなったので実際上の長男)で、岩波書店の専務を勤め、定年退職)
(注2) ほんとうは、名称は『白樺文芸館』の方がよいのですが、『志賀 直哉文学館』としてスタートしたため、『白樺文学館』という名称になりました。

 


 

2009年 4月16日  武田康弘

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倒れたわが友・松橋桂子さんと、柳兼子と「白樺文学館」のことなど。

2017-02-15 | 白樺文学館

 Facebook  2017年 2月 11日 武田康弘

 今日は、大学クラスの前に、作曲家の松橋桂子さんのお見舞いに行ってきました。松橋さんとは16年間の親しい友人です。
    先月、電話で「ガンが見つかり」と話されていましたが、2週間ほど前に突然倒れたのでした。ガン治療はもう無理なので療養所に転院しました。

 動けない松橋さんは、わたしの声を聞くなり、「ああ、武田さん!わが最強の友よ!」と言われました。


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 わたしは、1999年2月から「白樺文学館」の創設に心血を注ぎ、我孫子に集結した【白樺派の四人】(柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチ)と名付けた理念をつくっていましたが、同年の10月に松橋さんが書かれた大著『柳兼子伝』(兼子の初の評伝)を読み、仰天!これは、大変な女性で、白樺運動の中心者の一人であると判断し、兼子さんを加え【白樺派の五人】としたのでした。
  そのために、白樺文学館の地下に音楽室(兼子さんのCDを最高の音で聴ける部屋とオーディオ装置)をつくりました。

 2001年1月11日の「白樺文学館開会式」に来られた松橋さんは、兼子のための音楽室を見、音を聴き、とても喜ばれ、「武田さんに感謝!こんなに嬉しいことはない。」と話され、意気投合したのでした。

 それから16年間の中身の濃いお付き合いですが、松橋さんは、文学館から教育館への移行時=わたしの苦しかった時代にも、いつも全力で尽力してくれました。一点の曇りなく、真っ直ぐにです。
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 今日の松橋さんは、頸椎も悪く、まったく動けないのに、気丈で頭は少しも衰えず、1時間5分、話し続けました。

 わたしとの驚きの出会いのこと、柳兼子のこと、白樺派ー柳夫妻や志賀直哉のこと、我孫子ー白樺文学館と教育館のこと、釧路での空襲=戦争持のこと、いまの酷い政治のこと・・・・・

 松橋さんは、話の途中で、「生きているんだから、楽しくなければしょうがないでしょ!」と妹さんに言い、妹さんは、「いつも姉に叱られるの。」と笑いました。
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 わたしは、松橋さんが倒れられてから今日まで、心がとても重くて言葉にならぬ気持ちでしたが、今日、病室で話して、ホッとしました。彼女の気丈さ、変わらぬ精神力はさすがです。少しもブレることのない見事な生き方、素晴らしい人生に、乾杯!です。

 昨年2月、白樺教育館での【ソクラテス教室40周年を祝う会】に駆けつけてくれた松橋さんの写真をA4に編集(コラボ)してもって行きましたが、見るなり、「楽しかったわよね、それ置いて行って」と、笑いを誘っていました。もちろん差し上げるための写真です(笑)。

 5か月前の9月14日、師の清瀬保二さんの「ヴァイオリンとピアノのための二楽章」を東京文化会館の小ホールで聴き、食事し、一杯飲みながら歓談をした日の日記もプリントアウトしてもっていきましたが、わたしが文章を朗読すると、「松橋桂子、偉いわね~~(笑)」と言いながら、とても喜ばれました。

以下の記事です。

2016年 9月14日のFacebook

松橋桂子さんと。
画像に含まれている可能性があるもの:2人、座ってる(複数の人)、食べ物、室内

 松橋さんは、日本の風土に根ざし深い世界的普遍性をもつわが国最高の作曲家であった清瀬保二さんを最期まで世話したお弟子さんで、柳兼子の初の伝記「楷書の絶唱」の著者でもあるーーー極めて詳細で明快な大著で圧倒されます。

 わたしが、我孫子市に「白樺文学館」をつくったとき、柳兼子を加えて「白樺派.の5人」としたのは、この書が発売になったからです。

 いまでは、すっかり定着した「兼子を白樺派の中心人物とする」見方は、わたしの決断によるものですが、それは、松橋さんの著作に依っています。

 我孫子市民も、柳家(駒場の日本民芸館)も、深く感謝すべきことでしょう。


 

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わたしの夢 ジョナサン・ノット・東響+ポール・ルイスで、ベートーヴェンピアノ協奏曲全曲演奏会。

2017-02-14 | 芸術

 
(写真は、共に、武田撮影)



実にていねいで美しく、健康な力に満ちた、かつ、市民的な洗練さをもつこの組み合わせは、未来を拓くベートーヴェンになるはず。

神秘主義や耽美主義や自己陶酔とは無縁ですし、現代の機能優先とも無縁です。人間的なよろこびに満ちた真に普遍的な演奏が眼前に展開されることでしょう。

超越や絶対ではなく、豊かで深く強い普遍的な現代のベートーヴェンです。想像しただけでワクワクします。

すでにポール・ルイスは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を録音していて、見事としか評しようのない名演奏ですが、実にていねいに楽譜の理念を抽出するノットとの演奏は、もう一つの新たな規範を打ち立てると思います。

ライブ録音もぜひ! わたしの夢、かなうかな~? 東京交響楽団さん、よろしくお願いします。


武田康弘

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いま何よりも必要なのは「個人」という意識です。国家主義という狂気が吹き荒れる中では、ますます「私」につくことが大切。

2017-02-13 | 恋知(哲学)

  幼少期からみな、精一杯踊らされ、「他者承認」(ヘーゲルの概念)に怯え、競争を血肉化させられ、みな一緒の集団主義の中で青息吐息。新興宗教が流行るのも当然ですが、それらは、政治的にはウヨク的国家主義でしかなく、統一教会など多くは自民党の集票機関です。

  戦前の「家族主義」を称揚する安倍首相以下のウヨク政治家は、同一の価値観を教育で刷り込むための「愛国心」教育をはじめています。「ナショナリズム」という精神の病が、どれほどの悪をもたらしたかは忘れ(消し)、再び国家主義の亡霊を復活させようと目論む長州藩の過激な下級武士の末裔たち。

  東条英機や岸信介(安倍晋三の祖父)らの「鬼畜米英」のスローガンから「アメリカのポチ」路線に転換しながら、同じく明治政府(伊藤博文や山県有朋ら)の国体思想=靖国思想につき、自立する「個人」=シチズンシップに基ずく「市民」という概念を嫌い、ニッポン「国民」としての統合をめがけます。公(おおやけ=官僚政府)による公共(市民自治)の支配=民主政の心臓部を奪うおぞまし戦略です。

  日々、追いまくられる余裕感のない生活、受験主義のパターン知の習得と部活主義の運動と器楽で「自分の頭を使って考える」力を元から奪い、成人すれば、世界一長い労働時間でしばることでフィロソフィーを不可能とし、官僚政府の権力機構がつくる壮大なウソの世界の中で生きるほかない地点に追い込む。

  いまなによりも必要で一番大切なのは、臣民や国民としての人間(ただの人)ではなく、自由と責任意識をもつ手強い『個人』なのです。人間は、どういう状況にあろうとも「個人」なければ、大元から不幸です。いつまでも「人間を幸福にしない日本というシステム」を続けるのは愚かの極み。「公共悪」に過ぎないウヨク国家主義者の想念を元から断たないといけません。

  日々の生活を見直し、状況と自己への明晰な意識を獲得し、私からはじまる人生を歩もうではありませんか。「恋知の生」です。


武田康弘

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稲田防衛相の発言は、極めて危険ー いまもなお続く大本営の思想(東京新聞ー筆洗より)

2017-02-09 | 社会批評

言葉で誤魔化(ごまか)す、言葉で騙(だま)す、というのは、戦前から日本の国の国是のようになっています。真実を嫌い、上位者(官僚政府)に都合のよいように変える、このおぞましい伝統を変えるのは、わたしでありあなたです。

教科書ではかなり前から、中国侵略という史実を、その史実は消せないので、「中国進出」進出!!??と言い換えるように文科省は教科書検定で各出版社に強制していますが、今度もまた同じです。大本営としての安倍自民党政権です。

われわれ日本人は、戦前から続く古い思想をもつ保守政治家の意向には反対できない人々の群れでよいのでしょうか。民主政とは形式的制度のことで、中身は官府をはじめとする上位者に従うソフトな独裁政治では困ります。

天皇現人神の明治維新政府をよしとする日本では民主政=自治政治は永遠に不可能なのでしょう。 支配し支配されることによろこびを感じるのが日本人なのでしょうか。戦前のアメリカ駐日大使グルーの言ったように、「日本人はアリやハチなどの昆虫のよう」なのでしょうか。 否、そうではない、われわれも個人として人間的な矜持をもてる存在だ、とわたしは思います。

武田康弘

 

 

 

 

 


 

コメント (2)
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