思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

死刑は、廃止しなくてはなりません。

2009-07-28 | 社会思想

わたしは思います。
民主主義国家であるわが国において、わたしたち主権者の意思を体現する国家権力を用いて、冷静に、理性的に、合法的に人を殺すことが「よい」ことであるはずはないと。

死刑という刑はあってはならないのです。

被害者の遺族は、加害者を合法的に、冷静に、理性的に、「殺す」ことによって、その心が晴れることはないはずです。憎い相手と戦い、直接相手を殺すならば「復讐」にもなるでしょうが、国家というシステム内で間接的に憎い相手を殺しても得られるものは何もないでしょう。

それよりも、われわれ主権者がつくっている国家権力が、冷静に、理性的に、合法的に罪人を殺してもよいという思想は、「代理殺人」の正当化でしかなく、よき秩序(=人間性を豊かに保つ)の形成にプラスに作用するはすがありません。

考えてもみて下さい。
これ以上はなく「冷静」に人を殺す。そういうシステムを内にもつ国家に豊かな人間性が育まれることはないのです。

罪人をどのように見、いかに罰し、どう遇するか、それは、その国(人々)の文化のありようとレベルを象徴するものです。複眼的な見方、豊饒な生、柔軟でしなやかな人間性もつ人々は、単純な「厳罰主義」を選択することはありません。人間性の不可思議、不条理を見つめることのできる心豊かな人間がいなければ、よい国をつくることもできないはずです。


武田康弘

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「考える」ことの基本の態度について

2009-07-26 | 恋知(哲学)
わたしは、ある批評の中で次ように書きました。

「これでは、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考え・生み出すという主体的な態度が弱く、書物への接し方が学生レベル(=思想まで本から答えを得ようとする)でしかありません。哲学や思想の本は、ほんらい考える「手段」でしかないのです。賛同したり、批判したり、いろいろ吟味する一手段としてみなければ、何の価値も生じないのです。肝心なのは、自分がどう考え・どういう態度をとり、どう生きるかです。」

この文章に対して、
なにもかもが受動的で、与えられたものをこなすだけの生活を知らずに強いられている現代人の多くにあてはまる指摘で、「なるほど」と思った、
という感想がよせられました。

主体性と言う言葉が死語になり、私性・主観性を掘り進め、豊かな個性を拓くのではなく、「一般化」の海に沈み、「一般人」になることがまるで優れていること・よいことでもあるかのような不幸な錯覚の中で、思想や哲学までも「ハウツー」となり、受験参考書のごとく問題と解法と「正解」がある!?そういう哲学本が出回り、評判をとる(笑)。「考え」を生みだし、多面的で豊なものとし、自分性を発揮しなければ、考えることには面白さがなく、ほんらいの哲学は生じないのですが、
では、哲学(者)と何か?に対して、わたしの考えを青木里佳さんが、彼女なりの言い方で以下のように記しました。大変分かりよい表現だと思いますのでご紹介します。東京大学で哲学を教えている山脇直司さんに対する意見としてです。

「タケセンさんが言いたいのは、
大学で哲学を知識として(歴代の哲学者のことや それぞれの理論等)学ぶ・教えることは可能ですが、「哲学する」というのは知識を並べることではなく、日常生活の経験から生み出す・創造することだ、と思います。
絵を描くことを例にとってみます。
学校では有名な画家や作品・手法を学べます。
もし自分が教師になったら、上記のようなことを生徒に教えることはできます。
ですが、自分の作品のテーマや自分のやり方というのは普段生活している中で自分で探して確立しないといけません。
それには学校で教えられた知識がヒントになるかもしれませんが、それはあくまで参考程度で、自分流の表現法は経験から編み出していくしかないですよね。
時には壁にぶち当たって何も描けないこともある、時には全然違う分野に挑戦してみて新しい発見があるかもしれません。
要するに、悩みながら考え抜きながら自分の作品・表現法を生み出す=創造する作業が哲学するということなのではないでしょうか。」(青木里佳)

武田康弘
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以下は、コメントです。

哲学すること (山脇直司)
2009-07-27 01:35:13

青木さんの「哲学すること」は、自分の生活の中で、自分の経験や思考を通して、世界を表現し、作品化していくという営みのことだと思います。このような営みをさらに進めて、個人と社会の関係を深く考え、より良い社会を実現するにはどうしたらよいかを「共に考えていく」ならば、タケセンさんの言う公共哲学の実践になるのではないでしょうか。
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哲学と公共について (荒井達夫)
2009-07-27 22:05:06

「哲学するというのは知識を並べることではなく、日常生活の経験から生み出す・創造すること、悩みながら考え抜きながら自分の作品・表現法を生み出す=創造する作業である」という青木さんの説明は、すばらしいですね。自分の頭で考えて普通の言葉でちゃんと説明すれば、論理的で本質的なすごい話になるという証明です。これ自体が、まさに「哲学する」ことになっていると思います。

また、「哲学する」は、大学教授、官僚、経営者・・・・・という職業や社会的地位と本来無関係であり、むしろそこから意識的に離れる努力をしなければあり得ません。このことの深い自覚が必要だと改めて思いました。

なお、「公共性」について「哲学」として語る場合も、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことが不可欠なわけで、この図書館職員の方のブログもその可能性を感じさせるものです。↓
http://lomax.cocolog-nifty.com/apprentice/2008/04/post_5a99.html

公務に携わる者が自分の仕事の公共性について考えることは、職務遂行の立脚点を明確にするという意味で非常に重要ですから、書物に回答を求めるのではなく、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことができれば、すばらしいと思います。

結局、何事も「私」から始まらなければ「公共」は起こりえませんし、「私」と切り離せば「公共」は展開しません。公共哲学の核心はここにあると言えるのではないでしょうか。
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発想の転換が不可欠 (タケセン)
2009-07-28 00:01:13

山脇さん
コメントありがとう。
書物を読解すること≒哲学すること、という従来の考え方・見方を根本的に転換しないと、みなが自分の頭で考える(=自分の具体的経験を踏まえて事象の意味を捉える)という作業が始まらないのではないでしょうか。もしも、人生の大半を書物の読解に費やすことが哲学することだとしたら、哲学とは一部の特殊な人の趣味(または仕事)以上にはなれないでしょう。新しい哲学(=ほんらいの恋知)とは、各々が人生を創造する上で、有用性に富み、面白く愉しいものでなければと思いますが、そのためには「ふつう」言葉で考え・語りあう作業が不可欠でしょう。
いまの大学制度の中で哲学を講義すること(哲学学)と、ひろく哲学する営み(生の創造)は次元を異にしますので、われわれが対話するとき、その次元をしっかり分けた上で語り合わないと、対話は生産的にならないはずです。
また、社会と私の関わりについて考えるときもその基本はまったく同じで、ふつうのことばで自分の生の現場を見据えて考え・語り合うほかありません。
お時間あれば、ぜひ、また直接対話しましょう。
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私の現場 (山脇直司)
2009-07-28 11:52:19

丁寧なコメントありがとうございます。基本的にご意見に賛成ですが、あえて次のような問題があることをお伝えしておきましょう。私の現場の授業では、多国籍な雰囲気のゼミが多いので、常に日本を相対化しながら考えることが不可欠で、「日常体験に還元できない異文化・多文化についての知識」なしに、授業は成立しません。また、日本語が通用しない海外での哲学対話も、「日常体験に還元できない学習によって得られた知識」なしには成立しません。その点でタケセンさんの日常的な現場と状況が違うかもしれませんが、この点については、またいつか話し合いましょう。
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外国人相手も同じでは? (荒井達夫)
2009-07-28 18:05:01

直接の体験から得ることのできない知識は、読書や講義から得るしかない。これは当然のですが、重要なことは、そのような知識も、本来の「哲学」においては、あくまでも参考資料に過ぎないということだと思います。

ですから、そのような知識をいくら積み重ねても、「哲学すること」にはなりませんし、それを他人とやり取りしても、単なる情報の交換にしかなりません。これは、外国人が相手でも同じでしょう。

また、外国人相手であれば、尚更「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことが求められるのではないでしょうか。

「参考資料はもう十分。問題に対するあなた自身の考えを教えてくれ。それが肝心だ」と。
日本人以上にそれはシビアではないか、と思います。
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具体的経験の哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-07-30 10:47:34
山脇さん

ご事情は察します。
ただ、わたしの「具体的経験の哲学」は、どのような抽象度の高い問題や、世界的な問題も、その真偽を確かめ、妥当性を検証するには、生の現場に戻して吟味するほかないという認識論の原理に支えられているのです。
基礎経験を異にする人々との対話を可能にするのも、己の具体的経験をよく見つめ、それを明晰化することによるほかはなく、他者と通じ合うのは、その互いの体験をイマジネーションにより疑似経験することによる、そう私は思いますが、いかがですか。


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「哲学する」ことが可能な人とは?

2009-07-22 | 恋知(哲学)
哲学の土台=自己の存在を見つめ直すという作業は、たったひとりの裸の個人としての「私」の存在について反省することですが、
それを可能にする基本条件は、①生活の困窮から解放されていることと、②固い組織に守られ、高い地位を与えられていないこと、の二つです。

あまりにひどい労働を強いられ、上位下達の中にいては、存在への思いをもつ余裕はありませんが、固い組織の一員として高い社会的身分が与えられ、所得も一般の人以上の額を保証されている人もまた、赤裸々な人間の条件を見据えることはできないでしょう。

哲学者が「お偉い先生」である、とはそもそも概念矛盾でしかありません。したがって、大学教授の職にある人が哲学者であることは、不可能です。

贅沢三昧な生活をしているこどもは別ですが、二つの条件を満たしたこどもたちの多くは哲学者です。しかし、大人で哲学する人は稀です。スくっと立った意識・自由な意識を持ち続けることが、惰性態の中ではできないからです。

固い組織にいる人(大学人・役人・大会社員)に哲学を可能とする唯一の条件は、「改革者」として既存の考え方・既存の組織のありようと闘うことです。ひとり安全・安定の中にいて哲学する(=根源的に考え直す)など、到底ありえません。

哲学がふつうに読んでも分からない理屈の殿堂になり下がったのは、キリスト教という宗教を正当化するために、人心抑圧のイデオロギーとしてつくられた【教会哲学=スコラ哲学】のせいであり、また、18世紀のカントから始まる特権的専門家のための【ドイツ観念論=大学人哲学】のせいですが、これらは、身分・権威が与えられた者がつくった膨大な理屈の山ですので、「固い言語的思考」の次元に留まるほかなかったのです。

自分の存在をよく見つめ、生きるエロースを支え・広げる恋知としてのみなの哲学は、これから始まるのです。心身全体でよく意味を捉え、自問自答と自由対話を方法とする恋知としての哲学=民知は、イマジネーションの働きを核とするのですが、固い言語的思考の抑圧=愚かな権威とは無縁の地平で、野火のように広がるでしょう。

21世紀の新たな文明を象徴するのが恋知であり、民知です。

武田康弘

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コメント

本来の「哲学」とは (荒井達夫)
2009-07-24 10:14:47

本来の「哲学」とは、「自己の存在を見つめ直す作業」、「たったひとりの裸の個人として私の存在について反省すること」、「根元的に考え直すこと」である。

まずは、この簡明な理の確認が重要であると思います。

○○大学教授の立場で哲学する。○○省事務次官の立場で哲学する。○○会社代表取締役社長の立場で哲学する。等々。これらが本来の「哲学」であるはずがありません。これらは、「哲学」という名を借りた専門的知識・経験の収集・整理・発表に過ぎません。

また、日々の最低の食事に事欠き、生きること自体が困難な状況では、自己の存在を見つめ直す余裕などできるはずがありません。

ですから、本来の「哲学」とは、現実具体の問題に直面する人々が、その職業や社会的地位から離れて、一市民・一生活者として、その人生や社会のあり様について深く考えようと努力するときにのみ可能になるのだと思います。

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そう、一生活者としてです。 (タケセン=武田康弘)
2009-07-24 15:08:25

荒井さん、そうですよね。
本を書いたり読んだりすることが哲学することではなく、
有名大学の先生の話を聞くことが哲学することでもない。
経験の自問自答と自由対話こそが核心。
この簡明な原理の徹底した自覚がなければ、哲学すること(=自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う)は、まったく始まらないのです。
個々人から立ち昇るエロースの生は、恋知としての哲学(=みなの哲学)による、そうわたしは考えています。


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連続の名訳―山中元氏によるニーチェ『善悪の彼岸』『道徳の系譜学』

2009-07-20 | 書評
光文社の企画でルソーの名訳を現した山中元氏は、四月に『善悪の彼岸』、 六月に『道徳の系譜学』とニーチェの主著二冊を連続で出しました。これは快挙と呼ぶにふさわしいと思います。共に「光文社文庫」で、1000円以下という良心的な価格です。

これまでの訳文とは大きく異なり、日本語としてよくこなれ、明晰、分明。わたしは、ニーチェのもつイデオロギーをすべて是認する者ではありませんが、哲学(=根源的思考)としては、高く評価しています。ものわかりのよい、ということは、あってもなくてもよいような哲学書ばかりの今の時代に、ニーチェは必読文献のように思えます。誰にでも読める文章は、ドイツ観念論の鬱陶(うっとう)しさとは対極にあるものですし。

現代管理社会(=「正しさ」の強要で人間は窒息して死に至る!)中で、ニーチェの強烈な刺激はじつに爽快です。元から考え直し、やり直し、生き直すことが求められる時代にピッタリなのは、そのテーマに示されています。

ポストモダンはニーチェに範を求めましたが、ポストモダンを終わらせるのもニーチェです。ニーチェの徹底した既成価値・道徳の否定は、人間性のエロースを肯定した新たな文明=秩序の建設に向かっています。いま、既成価値に従うだけの哲学者!?(笑)しかいない時代に、個々人から立ち昇る生の根源的なパワーを復活させたいものです。

哲学者とは、わたしであり、あなたです。求められるのは、みなが自分からはじまる生を生きることではないでしょうか。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

コメント

哲学者とは? (荒井達夫)
2009-07-20 20:06:14

「既成価値に従うだけの哲学者!?(笑)しかいない時代に、個々人から立ち昇る生の根源的なパワーを復活させたいものです。
哲学者とは、わたしであり、あなたです。求められるのは、みなが自分からはじまる生を生きることではないでしょうか。」


まったく同感です。
既成の価値だけに従っているのでは、哲学することになりません。
個々人から立ち昇る生の根源的なパワーが満ちあふれなければ、健全な活力ある社会は実現できません。
自分からはじまる生を生きることなしには、そのような社会は成り立ちません。

本当の哲学者とは、常に現実具体の問題の中で「私」の意識を明晰に持って思考する者なのだと思います。
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「哲学する」ことが可能な人とは? (タケセン=武田康弘)
2009-07-22 16:34:08

荒井さん、コメントありがとう。怪我で左手が使えないので、返信遅れました。

哲学の土台=自己の存在を見つめ直すという作業は、たったひとりの裸の個人としての「私」の存在について反省することですが、
それを可能にする基本条件は、①生活の困窮から解放されていることと、②固い組織に守られ、高い地位を与えられていないこと、の二つです。

あまりにひどい労働を強いられ、上位下達の中にいては、存在への思いをもつ余裕はありませんが、固い組織の一員として高い社会的身分が与えられ、所得も一般の人以上の額を保証されている人もまた、赤裸々な人間の条件を見据えることはできないでしょう。

哲学者が「お偉い先生」である、とはそもそも概念矛盾でしかありません。したがって、大学教授の職にある人が哲学者であることは、不可能です。

贅沢三昧な生活をしているこどもは別ですが、二つの条件を満たしたこどもたちの多くは哲学者です。しかし、大人で哲学する人は稀です。スくっと立った意識・自由な意識を持ち続けることが、惰性態の中ではできないからです。

固い組織にいる人(大学人・役人・大会社員)に哲学を可能とする唯一の条件は、「改革者」として既存の考え方・既存の組織のありようと闘うことです。ひとり安全・安定の中にいて哲学する(=根源的に考え直す)など、到底ありえません。

哲学がふつうに読んでも分からない理屈の殿堂になり下がったのは、キリスト教という宗教を正当化するために、人心抑圧のイデオロギーとしてつくられた【教会哲学=スコラ哲学】のせいであり、また、18世紀のカントから始まる特権的専門家のための【ドイツ観念論=大学人哲学】のせいですが、これらは、身分・権威が与えられた者がつくった膨大な理屈の山ですので、「固い言語的思考」の次元に留まるほかなかったのです。

自分の存在をよく見つめ、生きるエロースを支え・広げる恋知としてのみなの哲学は、これから始まるのです。心身全体でよく意味を捉え、自問自答と自由対話を方法とする恋知としての哲学=民知は、イマジネーションの働きを核とするのですが、固い言語的思考の抑圧=愚かな権威とは無縁の地平で、野火のように広がるでしょう。

21世紀の新たな文明を象徴するのが恋知であり、民知です。

武田康弘

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デイヴィス指揮ーベルリオーズ「レクイエム」のライブ

2009-07-15 | 趣味
ベルリオーズの音楽を愛聴して40年。
この想像力そのもののような音楽は、わたしに精神の自由を与えてくれた。

彼の音楽は、形式を踏まえた音楽とは対極の、情熱と抒情性の音楽だ。
ただし、横溢するロマンは、ロマン主義とはならず、古典的とさえ言える論理を持つ。

わたしは、長いこと、ベルリオーズが、自身の最高傑作を「レクイエム」だと述べたことが腑に落ちなかった。

しかし、昨年あるCDとの出会いが、その謎を氷解させてくれた。

長年、ベルリオーズに特別の思いを持ち続けるイギリスの指揮者、サー・コリン・デイヴィスが、1994年2月14日に行った「ドレスデン爆撃戦没者追悼演奏会」のライブだ。オーケストラは、シュターツカペレ・ドレスデン。

このレクイエム(鎮魂歌)は、東京大空襲と同時期に起きたイギリスとアメリカによるドレスデンへの無差別爆撃による死者を悼むために奏されたのだが、1960年代~70年代にかけて数々のベルリオーズの名演奏をなし、近年また頻繁にCDを出しているデイヴィス(そのLPとCDのほとんどをわたしは聴いている)は、この特別の演奏会で、今までとはまるで違う「霊感」に憑かれ、この曲の真価をはじめて十全に現した。

わたしは、ベルリオーズのレクイエムが巨大な編成を必要とするは、大音響による効果のためではなく、消え入るような弱音の美と深い叙情性を生み出すためであることを、深く了解した。

なるほど、これは比較を絶した驚くべき音楽だ。深い人間性の悲しみは、実に美しい。


武田康弘
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土肥元校長の闘いにエールをー主権者は行政マン?石原都政の民主化を

2009-07-13 | 社会思想

以下は、元東京都立三鷹高等学校長の土肥信雄さんが、東京都を提訴する理由です。

先月、わたしを含む十名に送られてきたものですが、先ごろテレビ朝日でも放映され、石原都政の暴君のような公権力の行使に戦慄を覚えた方も多いと思います。

基本的な人権さえ奪われる公教育の現場を見ると、日本がいかに遅れた国家であるかが分かりますが、民主主義を現実のものとするには、一人ひとりの自覚・小さな勇気が必要だと思います。

戦後60年以上たちましたが、いままた「自由民権運動」が必要でしょう。伊藤博文や山県有朋らの明治の保守主義の政治家によって葬られた人民主権の運動を復活させましょう。

昨日の選挙結果は、ようやく東京都にも民主化の可能性が生まれたことを示すものです。それにしても、東京都に限らず、日本の教育には自由と人権がなく、依然として「型はめ」なのには呆れ果てます。こどもの人権も教師の人権もなく、官=行政権力が支配者のように振る舞うのでは、どこかの独裁国家と変わりません。チェンジ!!ですね。



2009年(平成21年)6月4日

提訴にあたって
元東京都立三鷹高等学校長 
土肥 信雄

 私は生徒のために全力を挙げて教育活動をしてきたつもりです。その証が、退職時にもらった卒業証書であり、卒業生全クラスからの色紙だと思っています。
教育の主体は生徒であり、教育の目的は教育基本法にも明記されているように、「生徒の人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として育成する」ものです。そのため、民主主義を教える教育の現場には言論の自由が絶対に必要なのです。言論の自由の中でこそ、教育の主体である生徒が、より民主的で基本的人権が保障される国家、社会の形成者となるのです。過去の歴史を見れば、言論の自由がない組織は全て非民主的であり、最終的には崩壊している事実は歴然としています。私は都教委の全てを否定しているわけではありません。しかも都教委の通達、通知等には従いながら問題点を指摘したり、校長の裁量権を奪うような指導について意見表明をしてきただけです。それに対する都教委の指導は、指導の域を超え、私の様々な権利を侵害し、最終的には非常勤教員不合格という報復措置で私を抹殺したのです。まさに都教委という巨大な公権力が、都教委から見れば目に入ったホコリぐらいの土肥というちっぽけな人権を侵害したのです。
憲法は公権力(国家、地方自治体等)による人権侵害を厳しく禁止しています。
この裁判を通じて、巨大な公権力である都教委が、ちっぽけな個人の人権を侵害した場合でも、憲法の理念に反していることを証明したいと思っています。それが将来の生徒の人権保障のため、日本の平和のためだと確信しています。

 具体的には以下の理由で提訴いたします。

(1) 不合格の理由を知りたい
東京都の非常勤教員の採用は、基本的に60歳退職と65歳年金支給の間を埋める雇用保障の制度であり、私の聞いた範囲では、日の丸・君が代の不起立者以外はほとんどの人が採用されています。(日の丸・君が代以外の被処分者についても軽いものであれば採用されており、平成19年度の合格率も98.66%でした。)私は法令違反をして処分を受けたりしたことはないので、なぜ不合格となったかその理由が知りたいと思います。私はいままで、生徒のための教育活動については全力を挙げてきており、生徒、保護者、教員からも評価されています。教育は生徒のために行うのであり、都教委のために行うのではありません。いままでも生徒のため、東京の教育のためと言い続けてきており、退職後も東京の教育のために全力を尽くしたい気持ちでいっぱいでした。

(2) 私の意見表明に対する人権侵害
もし都教委に対する意見表明が原因であればそれは納得できません。なぜならば、都教委の出した通達や通知(法令)には従っており、なんら悪いことはやっていないのです。例えば、職員会議における挙手・採決の禁止も三鷹高校では通知どおりやっており、職員の意向を聞く挙手・採決は行っていませんでした。ただこの通知が教員の言論の自由に悪影響を及ぼし、ひいては生徒の言論の自由にも悪影響を及ぼす可能性があり、それは将来の日本のためにならないと思い、撤回を要求しているだけなのです。三鷹高校で挙手・採決をしたために通知違反として処分されたと言うことであれば、まだ納得できます。卒業式も通達どおり、業績評価も要領どおりやっています。しかし都教委は一方で卒業式の個別的職務命令は校長の責任と権限と言いながら、他方で校長に強要していること、業績評価実施要領違反の相対評価を強要していることは間違っていると意見表明しただけなのです。間違った指導をしている都教委を正したことを不合格の理由にされるのは納得できないし、社会的にも許されないと思います。

(3) 公開討論の拒否
都教委はこの問題について私との公開討論を拒否してきました。したがって、ある意味では私の運動は現在のところ、私的で一方的な運動としか見られていません。私が都教委に公開討論を申し入れたのは、この問題は言論の自由に関わる重要な憲法問題であるからこそ公的な問題としたかったからです。公の場で論争することが私の本意です。そうなれば、当然より多くの国民がこの事実を知ることになり、どちらが正しいかを判断してくれると思います。もし裁判所、国民世論ともに都教委が正しいと判断するならば、私は潔くその判断に従いなんら悔いはありません。それが民主主義だと思っています。都教委が公的な場に出ないで、私を悪者に仕立て上げることは断じて許せないのです。

(4)他の校長への見せしめによる言論統制
私の不合格は、明らかに他の校長に対する見せしめです。「土肥」のように都教委を批判すれば、退職後の職はないぞ、と脅しているのです。今回の結果を見て、ますます校長は都教委に対する批判が出来なくなり、都教委の言いなりになる校長ばかりになるのは明らかだと思います。そのことはまさにファシズムそのものであり、絶対に認めるわけにはいきません。特に統括校長、校長、副校長、主幹教諭、主任教諭、教諭と完全なヒエラルキー化の中で、校長が都教委の言いなりになればその結果は明らかに都教委による教育の支配が貫徹するのです。そうならないためにも、今回、裁判で納得できるところまでやろうと思うのです。

(5) 生徒に対する責任
 私は政治経済の教員として、また担任として、そして校長、教頭としても基本的人権の尊重を生徒に教えてきました。その基本的人権の中でも言論の自由は最も大切であり、「自分が思ったことは、それが正しいか正しくないかは別にして、きちっと発言しなさい」と常に生徒に言ってきました。「自分が間違っていれば相手は納得しないし、正しければ相手は納得する。自分が相手の意見に納得できる場合は相手の意見に従えばいい。相手の意見も納得できないが、相手も自分の意見に納得できない場合は、もう一度考え直して相手を納得させるよう意見を考えることが大切だ」。仮にそのように教えている生徒から、卒業してから私の所へ来て、「土肥先生の教えたとおり、自分の思ったことを言ったら社会的に抹殺されたよ。土肥先生の言ったことは社会では通用しない。先生の教えたことが間違いなのだから、責任を取って欲しい」と言われた時、私自身が自分の思ったことを自由に言わず、結局権力の言いなりになって、自己保身をしているとしたら、生徒に対する責任は取れません。したがって、生徒に対する責任を果たすためにも、都教委との公の場(裁判)で意見を戦わすことが必要なのです。
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「東大病」ー参議院へのわたしの論文

2009-07-10 | 恋知(哲学)
わたしは、明治以降の日本の歪んだ知のありようこそ、現代日本が抱える最大の問題だと見ていますが、
その客観主義的で非人間的な知とそれを支える想念を「東大病」と名づけています。
それは、各自の「主観性の知」を育てず、あらゆる事象をパターンにあてはめる形式知であり、無味乾燥な暗記競争の勝者を「優秀」だと認定するアナクロニズムであり、「私」から悦びを奪い「一般人」へと貶める『死に至る病』だと言えましょう。

昨年末に、参議院調査室から依頼された原稿には、それを主題にし、キャリアシステムを支えるこの歪んだ想念について、分明に記しました。
参議院事務局企画調整室が発行した『立法と調査』の特別号には、「キャリアシステム」に関して各界の40人の論文が載せられ、参議院のホームページで公開されています(国会議員には印刷物として配布されました)。
50音順に載っていますので、わたし・武田康弘の『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』は、真ん中にあります。ぜひ、ご覧ください。ご意見・ご質問などをお寄せ頂ければ幸いです。

武田康弘


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お応えー「公共哲学」とは学者が研究するものではありません。

2009-07-07 | 恋知(哲学)
東大出版会・シリーズ「公共哲学」  荒井達夫

日本社会に蔓延する権威主義・序列信仰の想念が、自由闊達な意見交換を妨げる原因となっており、組織の無責任体制にもつながっている、と私は考えています。東大出版会のシリーズ「公共哲学」は、公共哲学における学問的権威を目指したものと言えますが、一般市民からのきちんとした内容評価を伴わなければ、公共哲学の世界における単なる権威主義・序列信仰に堕する危険があると思います。この点、武田さんは、どうお考えですか。(2009-07-05 14:49:31)

―――――――――――――――――――――――

お応えします。 武田康弘

公共哲学という言葉のほんらいの意味は、
この社会・国は、市民である自分たちがつくるのだという自覚を高め、社会・国をどのようにしていったらよいかを、ひとりの市民という立場によって考えるものだ、そうわたしは考えています。

そもそも、どのように生きるのがよいか?という人生問題やどのような社会が望ましいか?という社会問題を、その全体においてイメージし・考えるのは、哲学の仕事であり、したがって専門知ではありません。何事も、全体像(=ありよう)について想い・考えるのは、特定の学問や技術的な知=専門知ではなく、哲学の営みなのです。

ゆえに、それは、学校や研究所で行えることではなく、生活世界―市民社会の現場から立ち昇らせるほかありません。大学内で出来ることではないのです。学校(小学校―大学院)内でしなければならないのは、公共哲学を支える基礎知識の習得と、公共哲学の基盤となる自由対話の訓練です。

公共哲学が未来的な知=哲学であるというのは、それが開かれた市民社会の中でしか行えない営みだからです。その条件(=主権在民の民主主義を原理とするゆとりある市民社会の成立)が満たされないと、はじまらないのです。もう一度言いますが、大学や研究機関の中で行う、というのは概念矛盾であり、それでは全く現実的な意味を持ちません。

大学の教師という職業人も、官僚という職業人も、どのような仕事をしている人もみな、一人の市民という立場・資格により、対等な人間として考え・語り合うという原則が貫かれない限り、公共哲学は成立しませんし、その営みが意味づき、価値づくことはないのです。
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以下は、コメント欄です。

若干の異議 (山脇直司)
2009-07-07 11:03:33

もしそうであれば、「上司」などという反公共的な言葉がまかりとおる国家公務委員機関=官庁のような所でも公共哲学は行えないと強く言ってほしいものです!少なくともリベラルな雰囲気が漂う大学からみても、唖然とするほど権威主義的なにおいがぷんぷん漂っていますから官庁はーーー。大学は、官庁と違って、そのアイデンティティからして、公共空間であることを強調しておきます!
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ひとりの生活者であり市民であること (タケセン=武田康弘)
2009-07-07 16:17:20

山脇さん
コメント、ありがとうございます。
わたしの論の結びは、最後の部分ですが、官僚の権力や大学人の権威を徹底的に払拭し、みながひとりの生活者であり市民であるという立場で考え・語り合うのが公共哲学の要諦だ、というものです。山脇さんもわたしと同じ考えと志をもたれていると思いますが。

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本来の公共哲学とは (荒井達夫)
2009-07-07 22:05:30

山脇さん。

社会的有用性のチェックがないと、学問世界における権威や序列を大学の内外に示すだけになってしまうおそれがあります。公共哲学は「本当は何が大切なのか」を追求する営みであるから、社会的有用性のチェックが特に重要である、というのが私の意見です。

また、キャリアシステムを中枢神経とする日本の官僚機構が、権威主義的で序列信仰に陥っていることは議論の余地がありません。だからこそ、公務員には本来の意味での公共哲学が必要だと考えています。

これに対し、武田さんは、「本来の意味での公共哲学とは、一市民の立場で行うもので、大学人や官僚という職業と切り離して行わなければ、意味をなさない」と言っているのだと思います。




コメント (3)
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二輪車排除―「差別の思想」をもつ柏市

2009-07-04 | 社会批評
柏のまちには、二輪車が置けません。デパートにとっては、二輪車で買い物にくるような人は相手にしない、ということなのでしょうか?
柏のまちには、四輪車の駐車場はたくさんありますが、二輪車の駐車はできません。お金払ってもダメです。

何事につけ、差別をするようなまちは、人々の心を硬化させ、やがては衰退に向かうと思います。とても嫌な感じですので、わたしは、特別の用事があるとき以外には柏のまちには行きません。

このような「差別の思想」をもつまちが増えないことを切に願います。

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以下は、mixiへ寄せられたコメントです。

H  2009年07月04日 17:39

柏は本当に停める場所がありませんね。
大きなデパートがあるのに2輪駐輪ができないのは悲しくなります。
今はすっかり柏駅周辺に近づかなくなってしまいました。
飽和状態とはいえ、なんとか考えて欲しいところです。

どうしても必要なときはマルイの先...松戸方面...にある
市営の駐輪所を利用しています。1日300円だったかな。
中心部までは少し歩かなければならないのですが、仕方ないです。
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A  2009年07月05日 08:43

そごうは、125cc位までのスクーターならデパートの無料駐車場が使える場所がありますが、それ以上となると、まともに置けませんよね。
秋葉原とかなら二輪専用パーキングも増えてきてるのに。
僕も柏のデパート行った時は二輪車Pを増やせと係員に言ってます。
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Hさん、 Aさん
いろいろ分かりました。ありがとう。

なんだか、すべて平均化、一般化して、「違い」を悦ぶ・愉しむ文化がないことの一つの象徴のように感じます。 効率のみ、平均化・一般化、・・・・

タケセン=武田康弘






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「戦前レジーム」の真の克服=公共とは異なる公を認めないことが核心。

2009-07-02 | 社会思想

金泰昌さんの公共哲学(=公と公共の分離の要請)に寄せられたコメントへの返信を記事にします。
わたしの「公と公共の分離―金泰昌さんの公共哲学批判」もぜひご覧下さい。



①「戦前レジーム」(明治政府がつくった近代天皇制)の残滓

わが国における「戦前レジーム」の発生源は、明治時代前半に、自由民権運動を徹底して取り締まった明治政府(山県有朋ら)が、天皇主権の大日本帝国憲法の下で、市民的な公共性を抑え、天皇制国家=「公」に従う臣民としての【公民教育】を、小学校を中心に徹底させたところにある、これは誰も異論を挟めない事実です。

その名残りを、戦後も「官」が引きずってきた現実(それを象徴するのがキャリアシステムであり、そのシステムを支える想念が「東大病」です)が、公共問題を分かりにくくさせているのです。

端的には、有罪率が100パーセント近い検察と司法との癒着関係は、わが国を除き、独裁国家以外にはありませんが、警察や検察の閉鎖的で独善的な組織の実態は、明治以来の旧態依然とした「官」のありようを象徴するものです。冤罪事件が日常的に起きますが(月刊「冤罪ファイル」を参照)、誰も処分されず、足利事件で「異例」の陳謝が行われても、冤罪の被害者の方が深々と頭を下げてしまう現実を見ても分かるように、わが国では依然として「公」と呼ばれてきた「官」が、市民の上位にあるわけです。これが現実です。

だからこそ、公と公共の区分けを要請するような思想(金泰昌さんの公共哲学)は、わが国をその内実において、市民主権の民主主義国家にしていくための「障害」にしかならないのです。ほんらい、民主主義国における「官」は、その仕事の内容も組織運営のありようも、わたしたち市民が考える公共性=ふつうの市民の良識に合わせなければならず、もしそうしないのなら、その存在自体が民主主義の原理に反するわけですから、認められないのです。

※戦前レジーム = 明治政府がつくった「近代天皇制」を指す。天皇主権の国家権力を用いて個人の自由を抑圧し、市民的な公共を国家の公(おおやけ)に吸収して一元管理した戦前の社会体制のこと。


②「公共的」なことは「役所」の専売と思い込まされてきた日本人

日本では戦前の近代天皇制による「国体思想」が長いこと社会全体を支配してきたために、私=個人のことがらに対して、皆に共通することがらは、「官僚政府が行う公」だと思われてきました。先に書きましたように、江戸の庶民文化は民がみずから公共世界をつくっていましたが、富国強兵をめがけた明治の天皇制官僚政治の下では、官府が民の公共を奪い、民の自発性を公に吸収してしまったのです。その結果が「お国のため」という言い方になり、皆のためになることがらを担うのは、すべて官府が行う公=国だ、という想念を国民全体が持つようになったのです。

そうであるために、「市民の意思が生む公共世界」という見方・自覚が弱いのです。だから、金さんの「官が担っている公に対して、市民が担う公共の世界を広げよう」という主張がリアリティを持つわけです。確かに現実の日本社会を見ると、「官」は誰が何を言おうともビクともせず、官僚は決して従来のやりかたを変えようとはしませんから、市民は絶望的になります。そこに公と公共を分けて考える、と言う金さんの主張が「救い」に見える理由があるのです。

しかし、金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、結局は「現実」を変革する力を持たず、敗北するだけですので、わたしは、金泰昌さんの公共哲学に対して繰り返し批判してきたわけです。

「現実次元」における妥協や曖昧性はものごとを実際的に円滑に進める上で大切ですが、「原理次元」での詰めの甘さや戦略的な妥協は、混乱や停滞を生み、さらには逆効果になってしまいます。いま一番必要なのは、民主主義原理をさまざまな具体的な場において検証し、それによって現実の改革を進めていくことだと思います。その営みは、わたしたち皆が持つ古い考えの変更によって、生のよろこびを広げることにもつながります。

武田康弘

コメント (5)
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