光文社の企画でルソーの名訳を現した山中元氏は、
四月に『善悪の彼岸』、
六月に『道徳の系譜学』とニーチェの主著二冊を連続で出しました。これは快挙と呼ぶにふさわしいと思います。共に「光文社文庫」で、1000円以下という良心的な価格です。
これまでの訳文とは大きく異なり、日本語としてよくこなれ、明晰、分明。わたしは、ニーチェのもつイデオロギーをすべて是認する者ではありませんが、哲学(=根源的思考)としては、高く評価しています。ものわかりのよい、ということは、あってもなくてもよいような哲学書ばかりの今の時代に、ニーチェは必読文献のように思えます。誰にでも読める文章は、ドイツ観念論の鬱陶(うっとう)しさとは対極にあるものですし。
現代管理社会(=「正しさ」の強要で人間は窒息して死に至る!)中で、ニーチェの強烈な刺激はじつに爽快です。元から考え直し、やり直し、生き直すことが求められる時代にピッタリなのは、そのテーマに示されています。
ポストモダンはニーチェに範を求めましたが、ポストモダンを終わらせるのもニーチェです。ニーチェの徹底した既成価値・道徳の否定は、人間性のエロースを肯定した新たな文明=秩序の建設に向かっています。いま、既成価値に従うだけの哲学者!?(笑)しかいない時代に、個々人から立ち昇る生の根源的なパワーを復活させたいものです。
哲学者とは、わたしであり、あなたです。求められるのは、みなが自分からはじまる生を生きることではないでしょうか。
武田康弘
-------------------------------------------
以下は、コメント欄です。
コメント
哲学者とは? (荒井達夫)
2009-07-20 20:06:14
「既成価値に従うだけの哲学者!?(笑)しかいない時代に、個々人から立ち昇る生の根源的なパワーを復活させたいものです。
哲学者とは、わたしであり、あなたです。求められるのは、みなが自分からはじまる生を生きることではないでしょうか。」
まったく同感です。
既成の価値だけに従っているのでは、哲学することになりません。
個々人から立ち昇る生の根源的なパワーが満ちあふれなければ、健全な活力ある社会は実現できません。
自分からはじまる生を生きることなしには、そのような社会は成り立ちません。
本当の哲学者とは、常に現実具体の問題の中で「私」の意識を明晰に持って思考する者なのだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「哲学する」ことが可能な人とは? (タケセン=武田康弘)
2009-07-22 16:34:08
荒井さん、コメントありがとう。怪我で左手が使えないので、返信遅れました。
哲学の土台=自己の存在を見つめ直すという作業は、たったひとりの裸の個人としての「私」の存在について反省することですが、
それを可能にする基本条件は、①生活の困窮から解放されていることと、②固い組織に守られ、高い地位を与えられていないこと、の二つです。
あまりにひどい労働を強いられ、上位下達の中にいては、存在への思いをもつ余裕はありませんが、固い組織の一員として高い社会的身分が与えられ、所得も一般の人以上の額を保証されている人もまた、赤裸々な人間の条件を見据えることはできないでしょう。
哲学者が「お偉い先生」である、とはそもそも概念矛盾でしかありません。したがって、大学教授の職にある人が哲学者であることは、不可能です。
贅沢三昧な生活をしているこどもは別ですが、二つの条件を満たしたこどもたちの多くは哲学者です。しかし、大人で哲学する人は稀です。スくっと立った意識・自由な意識を持ち続けることが、惰性態の中ではできないからです。
固い組織にいる人(大学人・役人・大会社員)に哲学を可能とする唯一の条件は、「改革者」として既存の考え方・既存の組織のありようと闘うことです。ひとり安全・安定の中にいて哲学する(=根源的に考え直す)など、到底ありえません。
哲学がふつうに読んでも分からない理屈の殿堂になり下がったのは、キリスト教という宗教を正当化するために、人心抑圧のイデオロギーとしてつくられた【教会哲学=スコラ哲学】のせいであり、また、18世紀のカントから始まる特権的専門家のための【ドイツ観念論=大学人哲学】のせいですが、これらは、身分・権威が与えられた者がつくった膨大な理屈の山ですので、「固い言語的思考」の次元に留まるほかなかったのです。
自分の存在をよく見つめ、生きるエロースを支え・広げる恋知としてのみなの哲学は、これから始まるのです。心身全体でよく意味を捉え、自問自答と自由対話を方法とする恋知としての哲学=民知は、イマジネーションの働きを核とするのですが、固い言語的思考の抑圧=愚かな権威とは無縁の地平で、野火のように広がるでしょう。
21世紀の新たな文明を象徴するのが恋知であり、民知です。
武田康弘