思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

親鸞思想の核心ー現代に生きる親鸞

2005-11-30 | 恋知(哲学)

3回シリーズで書いたものを一部改定し、一つにまとめました。

親鸞思想の核心


親鸞の考えの徹底性は驚くべきもので、今も強い輝きを放つ日本最大の思想です。
以下は、昨年、鎌ヶ谷市中央公民館での「とわの会」講座と、我孫子の「白樺教育館」で行った『歎異抄』を読む、に基づく核心部分の「まとめ」です。


親鸞思想の核心 此岸と彼岸の峻別 

親鸞は、此岸(この世)と彼岸(あの世)とを峻別しました。

その立場で、万人の救いー阿弥陀仏が等しく皆を救ってくださる、と考える(信じる)のです。人間とは煩悩にさいなまれる存在であるがゆえに、それを気の毒に思った阿弥陀仏が大願をかけ、死後の世界では等しく皆を「極楽浄土」住まわせてくれる、往生はまちがいないというのが、親鸞の他力念仏宗=「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依する)です。

都に暮らす恵まれた人々=「善人」でも救われるのだから、欲望に苛まれ、罪を犯しこの世で苦しむ人々=「悪人」は、なおのこと救われるのだ、という悪人正機説も、そこから自ずと導かれる思想です。親鸞自身は狂おしいまでの「女犯」の欲望に衝かれていました。

幼いころより比叡山で学問と修行に勤しんだ親鸞は、自身の体験から、欲望存在である人間は、生きたままこの世で仏になること=「即身成仏」などありえないことを確信します。29歳のとき法然の念仏宗に回心して山を降り、空海の真言密教を否定。それまでの天皇や貴族のための仏教から、民のための仏教への大転換を成し遂げたのです。密教=旧・仏教のもつ呪術性を徹底して排除、寺院を建てることを禁止し、お布施を納める必要もないとしたのです。(2005.4.10)



親鸞思想の核心 地獄の消去 

親鸞は、仏教のみならずさまざまな宗教に見られる地獄の思想を、「南無阿弥陀仏」の六文字によって意味のないものにしてしまいました。根源的な宗教革命をなしとげのです。

阿弥陀仏は、すべての人・煩悩に苛まれる人間を例外なく救うという大願をかけてくださったがゆえに、往生は間違いない。われわれ欲望存在である人間は、そうであるからこそ、死後の救いー極楽浄土は約束されているのです。

親鸞思想の前では、「地獄」は意味を持ちません。生と死の間には明瞭に切断線が引かれ、死後の世界については、すべて阿弥陀仏が救ってくださるのだから、心配はいらないのです。

そうなれば、私たち煩悩につかれた人間は、煩悩につかれたまま、この世で自身の納得のいくような生を営むこと、心から望むことに従い生きる道を進むことが可能になります。

権力者・権威者・管理者に従ってビクビクする必要はありません。従うのは、親でも教師でも上司でもありません。自分の内から自然と湧き上がる心の声(これが他力)のみです。ここではじめて各自の人生は各自のものになります。「根源的な民主主義」=実存思想の成立です。誰であれ人を支配することも支配されることもない、皆「ご同胞ご同行」ということになるのです。

秩序は、外的な道徳律から内的な納得へと180度回転します。内から湧き上がるエネルギッシュな人生への転換です。驚くべきことに、他力に徹する念仏門は、自力正道門をはるかに超えた個人のパワーを引き出すことに成功したのです。自己のうちに眠る巨大な潜在的な力を解放するのが、親鸞の絶対他力の思想なのだと言えるでしょう。

世界の思想のうちで、これほどの徹底性と大衆性を併せ持った思想はほとんど例がありません。800年前にこのような見事な思想を生み出した日本はすばらしい国です。誇るべき日本の伝統とは、こういうものなのです。ウソで固めた「万系一世」などという神話ではありません。(2005.4.30)


親鸞思想の核心 天皇制国家思想の根源的否定

親鸞とは、表層の思想(イデオロギー)ではなく、
最も深い地点(欲望と生死そのものの価値)から「天皇制国家」の詐術を打ち破った、日本史上最大の人物です。

「南無阿弥陀仏」=善人でさえ往生できるのだから、まして悪人の往生は間違いない=全ての人間を救う願をかけた「阿弥陀仏」への帰依、ただそれだけに凝縮した絶対他力の「救い」の思想は、やがて多くの民衆の心を捉えていきます。
念仏を唱えるだけで誰でも直ちに救われる、という権力者にとっては極めて「不都合な」この思想は、死罪・流刑の大弾圧を被ることとなります(親鸞の師である浄土宗の開祖・法然とその弟子たちが受けた法難)。親鸞は法然の思想を更に深め、都(京都)に住む「善人」でさえ救われるのだから・・・・としたのです。

僧籍を剥奪された親鸞は、わざわざ、朝廷に、「愚禿(ぐとく)親鸞」(愚かなハゲの親鸞)という名前の使用を許可するように申し出ました。
なんという不敵な、いや、そういう言葉も不似合いなほどの徹底した行為でしょうか。

「親鸞は天皇のためには礼拝せず」(主著「教行信証」)、と言い切ったこの優れて民衆的な、同時に「エリート」という名の俗物性から超越したほんものの人間は、多くの日本人に深い感動をもたらします。やがてその思想は野火のように広がり、その後の蓮如の働きにより「浄土真宗」は、日本最大の宗派になったのです。

信長による大量殺戮、徳川幕府による懐柔支配、明治の凶暴な近代天皇制の下に苦しみ、妥協を強いられてきた「浄土真宗」は、今こそ始祖―親鸞の初心に帰ることで、真の普遍宗教の役目を果たすべきでしょう。

「天皇制」の亡霊を復活させようとする勢力が台頭しつつある今、親鸞思想の意義は計り知れないおおきさをもつと思います。真宗教団の奮起を祈念します。(2005.9.11)


武田康弘


 

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「知る」とは?=土門拳の言葉をヒントに(授業の一コマ)

2005-11-29 | 恋知(哲学)
識別したり、覚えたりすることは、「知る」こととは違います。
では「知る」とは何でしょうか?
写真家の土門拳が次のようなことを言っています。

「例えば、松の木を写そうとする場合、ただ漠然と松をフレームに掴み、それが構図的にいくらまとまったものになったとしても、それだけでは非常に弱い概念的な松しか写すことはできない。
松が生えている大地、すなわち土台を抜きにしては一本の松といえども、地上に生えているものとしては成立しないのである。どこに、どのように生えているのか?ギョロリとよく睨み付ける。モノを正確に、的確に捉える目がないならば、一本の松といえども写すことはできないのである。
われわれがモノを知るとは、なまやさしいことではない。
概念的に知っているだけではダメだ。概念を飛び越えて深く、深く知らなければダメだ。君の胸をゲンコで打ち感じ知るように知るのである。ゲンコで胸を打たれた以上、知るということが単に概念的に知るということではないのである。われわれが知るということに向かって、思い切って胸を開いて、「どすん」と立ち向かうのである。一直線に!である。
迷いなしにである。知るということは、そういう迷いのない一直線でない限り、ああ!果たせないのである。」(要旨―文責は武田)

知るとは、識別することや覚えることとは違うのです。概念的に知るだけの今の「知」では、知の意味は希薄になり、悦びは生じません。五感の全体で感じ知る「知」がないと、事実学と情報知だけの「愚か者」になってしまいます。

以上は、今月の「愉しい哲学の会」での一コマでした。

武田康弘



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天皇制についての思い・考え=lucien さんの問題提起を受けて。

2005-11-28 | メール・往復書簡

以下は、lucien さんの「天皇制について考えてみないか」のブログ記事へのコメントです。
みなさんもぜひご参加下さい。

[タケセン] [2005/11/27 21:14] [URL]

「今までの天皇制に関する議論で、決定的に欠如していたのは、『自分(あなた)にとって天皇制とは何か?』」という視点なのだ。」(lucien)
という視点は、見事に「現象学ー実存論」的ですね。

「客観学」的視点では価値ある思想は生じない、これは原理です。
「主観性」を深く大きく豊かにしていく=私の人生のエロースを開拓することと、内容を「無」にすることで生きながらえてきた「天皇教」という形式だけの儀式宗教とは、両立不可能です。

一人ひとりの子どもたちが真に自分から出発する人生ー自由とエロースの可能性を拡げる手助けとしての私の教育実践と天皇制とは、どうにも折り合いがつきません。
多くのふつうの日本人のために、また個人としての皇族の人達のためにも、現在の「天皇制」については、見直し、改める必要がある、そう私は確信しています。

武田康弘

―――――――――――――――――――――――――――――――――

[lucien] [2005/11/28 12:37] [ MyDoblog ]

今の世の中で普通に暮らしている人たちは絶対に天皇制の必要性を自然に感じることはありえません。むしろホリエモンや村上ファンドみたいな「拝金主義」になる方が自然です。なのに天皇制が上の方から押し付けられるように宣伝されるのは不自然なことです。

とはいってもわたしは天皇制を否定したいのではなく、少なくとも日本古来からの伝統文化を継承し象徴する集団としての価値はおおいにあると思っています。万世一系とか現人神みたいなのは認められませんけど。これは天皇制における「象徴的な面」と「超越的な面」に分類できるのではないでしょうか。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

[タケセン] [2005/11/28 12:48] [URL]

天皇という存在がどのようなものであったのかは、北沢さんの書いた「感性としての日本思想」(藤原書店)がよい本です。あなた(lucienさん)の考え=思いに近いようです。

私は恋知としての哲学を実践する人間ですので、「天皇制という思想」(象徴規定)は認められないのです。

おかしな役割を押しつけるのではなく、日本の伝統の旧家として存在してもらうのがよいと思っています。無理にいつまでも江戸城に住まわせるのではなく、京都御所に帰られて、もっと自由に生きられることがよいことだ、と強く思っています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

lucien] [2005/11/28 16:27] [ MyDoblog ]

良い本の紹介どうもありがとうございます。読んでみたいと思います。
天皇家が京都御所あたりで静かに生活していただく、というのは賛成ですね。国会の召集とか大臣の認証のような国事から解放してあげたほうが良いと思います。
皇后陛下の「声が出なくなる」事件や、雅子妃の適応障害など、ものすごいストレスがあるんでしょうね。見ていると痛々しいです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以上です。
みなさんもlucienさんの提案=「天皇制について考えてみないいか?」に沿って考えてみてください。

私が昨年夏に書いた、 「皇族の人権と市民精神の涵養」もぜひ参考にしてください。
ご意見・ご感想をどうぞ。

武田康弘


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受動性の哲学・想念に支配されてから30年-能動性を生み出すためには?(昨日の大学クラスの授業から)

2005-11-27 | 恋知(哲学)

「受動性」に支配されると、
人間のすることは、ひとつしかなくなります。
なんでしょう?

それは、「消費」することです。
したがってお金の価値が絶対になります。
消費としての勉強しかない、
すると、知とは、受験知のことでしかなくなります。

自分の頭で、体で、全身で生きることー創意、創造、生み出す、つくりあげる、考えだす、工夫、知恵、、、、という能動的な態度・かまえがなくなります。心身の内側から沸きあがるエロースは消えて、人間の生きる意味は希薄になります。

現状追認という受動性か、過去の価値に支配される死んだ思想という受動性か、どちらにせよ、脆弱な精神は「受動性」しか生みません。その想念に縛られて、「その場主義」か、その反動の「権威主義」のどちらかに陥るのです。右も左もなんら変わりません。
ここからの脱出には、「民知」という発想とその実践=ほんらいの哲学(恋知)するという営みが必要です。比ゆ的に言えば、「命懸けの飛躍」が必要!

自分の頭は、自分の心は、自分の体はどこに行ったのでしょう?
日本社会が「受動性」に支配されてから、もう30年近くたちます。
いまの若者はみな「受動性」しか知らないわけです。

そういう現状を打ち破るはずの哲学(恋知)も、完全に専門知に陥り、いまの日本には、受動性の哲学しか存在しません。・・・・・・・
民知―恋知と公共哲学」をもう一度よく読んでみてください。


以上は、昨日の大学クラス(白樺教育観―ソクラテス教室)の授業、そのごく一部の再現=紹介です。どう思われますか?

=この下の昨日と一昨日のブログ記事も授業で取り上げました。見て下さい=

武田康弘



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民知対話ーじゅんや君とタケセンー受動性からの脱皮=失敗をしよう!

2005-11-26 | メール・往復書簡

以下は、ソクラテス教室(白樺教育館)で学んでいるじゅんや君のブログ記事と私のコメントです。

じゅんや(大学3年)

僕は一寸
今までいろいろと考えた結果、ある心境に達した。
それは、過去の出来事に対する自分の凝り固まった想念をすべて水に流し、過去+現在という姿勢で物を見るスタンスから、(過去+)現在というスタンス、つまり過去とのつながりを最低限にして今を生きようという心境だ。
そして、この心境になった後、そういえば自分の過去ってどんなんだったけ?と思い、自分の過去を振り返ってみた。そうすると、自分にはすがるべき実績や経験などは何も無いことに気付いた(それはそれで悲しいね。あとこれは過去の否定ではない)。これに気付くと、なんだか今まで感じたことの無いほど“未来もしくは現在への積極性”というものがより鮮明に意識され、新たな意味をもって現れるようになった。
この心境に至り、最近はとても元気な日々を送っとります。

追記
ふと思ったんだけど、人間の行動ってすべてその根底には積極性があるじゃないかな。
例えば、うなずくということでも、相手に了解の意思を伝えようという積極的姿勢があるからこそ、うなずくんだと思う。

―――――――――――――――――――――――
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2005年11月22日
13:33 タケセン (武田康弘)

まったくもってその通り!ですね。
「うなずく」だけでどれだけ自他を救うことか、皆がよく認識することが大事です。
おりこうさんの受動性を元から破壊しなければ、人生は開けません。これは原理ですが、みな臆病になって縮こまっていますね。バカが偉い!失敗が偉い!のです。積極性には必ず「間違え」が伴います。現代の日本には受動性の哲学しかありませんので、いま作成中です(笑)「民知・恋知」論文みなさん、ぜひお読み下さい。
タケセンは、平気でバカが言え、恥を恥とも思わない、断固とした自分性をつくるために努力してきました。
かっこいい人間にならないように努力しましょう!それが一番かっこいい?

武田康弘




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なぜ、「和」の精神が「同」の強要になってしまうのか?「和」問答の続きです(成毛・武田・山脇)

2005-11-25 | メール・往復書簡

山脇直司さんが提起された「和」をめぐる対話(11月17日のブログ)の続きです。
成毛君からの質問と私の答えを以下に載せます。
(26日追記:山脇さんのコメント)


2005年11月22日
23時51分
ナルケッケー成毛孝行

ここでいう「和」はどういう意味なんですか?
「和」っていい意味だと思っていたのですが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2005年11月23日
14時22分
タケセンー武田康弘

直接に「幸福」実現を果たそうというのは無理です。そうではなく、幸せを感じて生きることができるには、どういう考え方・生活仕方をすればよいか?は追求できますね。
これと同じで、
直接に「和」を目的にして、その実現を果たそうとしても無理です。強引に和を作り出そうとすれば、都合の悪いものを差別・排除することにしかなりません。
「和」はもちろんよいことなのですが、それを可能にするためには、実はとてもおおきな「対人関係における課題」を解決していかなければなりません。その認識が甘いと、逆におぞましい結果を招来する、というわけです。
一例を挙げれば、「皇族を敬愛すべし、それによって日本人の和がつくれる」、というような思考―思想は、皇族を敬愛しない人間を「非国民」として排除するという結果をもたらしますね。
あらかじめの「和」の強要は、最悪の思想になってしまうということです。
「差異」を尊重し、よろこぶような思考ー文化でなければ、ほんとうの意味での「和」は生まれないというわけです。
違いは生産的!違いは面白い!違いを愛そう!という考えを実践すると、その結果として「和」がもたらされる、タケセンはそう考えています。
ぶつかり・軋轢((あつれき)を恐れる脆弱(ぜいじゃく)な心と思想では、「和」を生み出すことはできません。「同」の強要、したがって「差別」と「排除」しか招来しないのです。

追記:
とても大事なことを言い忘れました。
この「差異」=「違い」を生かすためには、あることが絶対条件として前提されなければならないのです。
それは、学歴・職業・肩書・性別・家柄などによる「上下意識」を消去する努力です。上下意識があると、違いは、生産的どころか「差別」しか生みません。これは原理です。
このような序列主義・権威主義・様式主義があるところには、「和」は生じません。したがって聖徳太子の言った「和」とは、和ではなく同でしかないのです。
「和・即・同」という貧しい頭脳=精神を越えなくては、よき美しき人間の想念が羽ばたくことはありません。
「差別」のあるところには、その本質において、上からの統一・支配と非支配の関係しか生じないのです。そうなれば、ドレイ根性で従うか、非・妥協的に闘う以外に選択肢がありません。
「根源的不幸」を生み出すもの、それは上下意識にあるのです。権威主義・序列主義・様式主義があるところ、永遠に「和」は生じません。あるのは個人のエロースを奪う「同」だけなのです。これでは民主制社会は成立しませんね。
この原理をお互い「肝に銘じなければ」と思います。

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最初に問題提起した山脇直司です。
武田さんが強調するように、あらかじめ強要された「和」は、「和して同ぜず」という社会観と真っ向からぶつかる「同」の論理です。和=WAはあくまでも、harmony in diversity や peace based upon reconciliation という意味で用いられなければ、諸文明に通底するtransversal な価値とは成り得ません。
ちなみに、中曽根元首相が憲法の前文改訂で持ち込もうとして頓挫した「我が国固有の伝統としての和」というイデオロギーは、そうしたtransversal なWAの再理解と相容れない「WAの特殊日本化=矮小化」に他なりません。中曽根康弘氏が「哲学の必要性」を説教するときに私が苛立つ一番の要因は、彼の極めて特殊な世界観を普遍的なものと勘違いする「公共精神の乏しさ」です。
山脇直司

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受験知がつくる『構造欠陥人間』-底なし沼の日本社会

2005-11-24 | 私の信条

見栄えがよく、セレブっぽい、建築優秀賞受賞!のマンションは、実はインチキ・上げ底・手抜きの『構造欠陥』物件だった!
これは、現代日本のあらゆる分野に共通する大問題ですね。

人気があれば偉い、
金ころがしが偉い
東大が偉い、
皇族が偉い
・・・・・
内容―中身の検証ではなく、外見と名前でしか物事を見ることができない人間の集合。
「受験勉強」しかないこの国では、上げ底の「知」-意味を問わない技術としての「知」によって、すべてが覆いつくされています。
情報=ただの事実の羅列だけ。表層的な言葉と数字だけ。全身で感じ知り会得する=自分の頭を悩ませて考えるというほんものの知は消え失せました。
お手軽、手抜き、底上げ、外面人間たちのオン・パレード。
点数で計ることのできる「知」しか知らない人々で埋め尽くされている国。

まさに『構造欠陥人間』がさまざまな分野で社会のトップに立ち、中身のない肩書き・外見人間が支配する『構造欠陥社会』が現代の日本という国の実態です。

この恐ろしい事実を正面からまともに見据えること、そこからしかほんものの改革は始まらないでしょう。
恋知(哲学)に基づく思想がなく、現状追認の「保守主義」と感覚を刺激するだけの浅はかな「その場主義」が大手を振るう現状を変えるためには、おおきな覚悟が必要です。

そのための基盤となるのが「民知―恋知」という「知」の変革です。
事実学から意味論への転換が急務です。
「客観学」を先立てるのではなく、主観性を深め、大きくし、豊かにする「主観性の学」である「恋知(哲学)=民知」を血肉化する営みに取り組まなくては、未来を開くことはできません。これは原理です。

外見だけが立派な『構造欠陥人間』では悲劇です。

武田康弘


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ちょうど一年・4万件感謝です。民知の運動をぜひ共に!

2005-11-23 | その他

武田康弘のブログ=タケセンの「思索の日記」が、立ち上げからちょうど一年目の昨日11月22日(注)、アクセス数が4万件になりました。これほど多くの方に見てもらえるとは、一年前の立ち上げ時には、全く予想もしませんでした。皆様のご愛読に深く感謝します。また、ブログ開設を助けてくれた「白樺同人」の管剛文君と綿貫信一君にも感謝です。ありがとう。

6月には、このブログでの「書評」が縁で交際が始まった山脇直司さんが、私の文書を金泰昌(キムテチャン)氏にお送り下さり、それがきっかけでキム氏との生産的な「出会い」が実現しました。出会いは、「公共的良識人」紙での民知―恋知論文へと結実し、思想の発展と明晰化に大きく寄与することとなりました。

?「出会いと民知と公共哲学」(「公共的良識人」紙7月号)

?「民知―恋知と公共哲学」(「公共的良識人」紙10月号)

「民知―恋知」という知のありようについて判然と自覚し、それを実践することは、人生と社会の種々の問題をおおもとから解決する道を開き、生きるエロースを深く豊かにする、そう私は確信しています。

どうぞ引き続きご愛読下さい。

また民知―恋知という「知」の変革のために、ひとりでも多くの方にこのブログを広めて下されば、と思います。これからもどうぞよろしくお願いします。

(注)はじめの頃、一日で複数の記事を出したため、日付を前にずらして表記しました。表記は11月19日からになっていますが、実際の立ち上げは22日です。


武田康弘





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構造強度の追求―大成(パルコン)の実際は?/今日、ブログ一周年ー4万件か?

2005-11-22 | その他

我が家は、1984年(21年前)に建てた大成建設のコンクリート住宅=パルコンです。
『白樺教育館』も同じくパルコンで、共に2階建+ペントハウス(3階)からの屋上利用という形態=構造です。

私は、建築前の設計段階から建築中の細部の見直し・検討まで、すべてに渡りしつこく関わりました(笑)ので、その実体験からひとことご報告します。(施工日には、ほぼ毎日出かけ写真を撮りました。)

まず、言えることは、古くからの地山である土地にも関わらず掘削による地盤調査を徹底したことです。ビルを建てる訳でもないのに、ビックリしました。それにより得られた地耐力の程度で基礎を決めるのですが、友人の一級建築士には、「ちょっとやりすぎだね~」と言われるほど大きく強い基礎を造りました。

ここ数日、欠陥マンション、住宅問題で話題になっている「構造」(構造計算)については、大成建設は、建築主の私の意向にも「ノー」という厳しさで、とても「うるさかった」です。神経質なほど強度に拘る大成の住宅部門は、とても商売が上手とは言えません(笑)。融通が利かないのです。そのおかげ?で、21年前に建てた我が家は、基礎にも壁にも亀裂はほぼ皆無です。「狂い」などの構造からくる欠陥とは無縁です。

家などの大きな建造物では、何よりもまずその構造の安定性・堅牢さ・耐久性を考えるべき、というのが私の考えですが、たとえ基礎や躯体の強度を上げるのに、1割~2割ほど建築費が多くかかっても、安全と長寿命が得られるならば、はるかに「得」です。長い目でみれば、おおきな節約になります。

「役所には、構造の欠陥を見抜ける人はほとんどいない」という記事が今朝の東京新聞に載っていました。みなさん、ぜひ、全身で体験から学ぶ知恵に就き、五感をふるに使って試し・確かめる「しつこい人!」になられることをお勧めします。人生の味が濃くなります。人にどう思われようと「ほんとう」を貫くことが何よりおおきな得だ、と私は思います。

「民知」の実践をぜひどうぞ(クリック)。

なお、本日はこの私のブログ立ち上げから記念すべき!一年目です。その一年目の今日、アクセス数が4万件に達しそうです。ご愛読、感謝!です。引き続きよろしくお願い致します。(最初、一日に何本もの記事を載せたので、後でリンクに困り、日付けを前に伸ばしてしまいましたので19日からとなっていますが、実際は22日からです。)

武田康弘


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「集団的自衛権」、愛国心、フェティシズム、ロマン、批判精神、人間愛、、、対話が完結

2005-11-20 | メール・往復書簡

私のブログに対して、学生のヌルハチさんという方からコメントがあり、「ミクシィ」というブログ上で問答を繰り返しましたが、一応の完結をみましたので、改めて全文を載せます。誠実な対話が思索を深め豊かにする=いろいろな視点から事象をみることの有益さ・面白さの一例としてお読み下さい。ヌルハチさん、どうもありがとうございました。


「集団的自衛権」による戦争には一切協力しないことが「正しい」のです。子どもたちに伝えましょう

戦争という国家エゴイズムは、認めないことが「正しい」のです。

もし、そのような決定を政府がしたら、従わないのが「よい」ことです。

この原理的で簡明な思想を一人ひとりが明晰に自覚し、子供たちに教えていくことが、世界の平和をつくります。

自分たちの住む地域を直接攻撃された場合を除き(現実にはまずありえないことですが)、いかなる戦闘にも参加しないこと、これが正しい選択です。「レジスタンス」としての闘い以外の闘いはないのです。

したがって、「集団的自衛権」など認められるはずがありません。

もし、政府が戦闘行為を決定したならば、それには一切の協力をしないことが「正しい」選択です。

こうした考えをしっかりと子供たちに伝え、世代を超えた共通認識とすることが必要です。

自民党の改憲案を葬り去るためにも、上記の考えを子どもたちに明確に伝えていきましょう。

全国の大人がブレずに子どもの教育にあたれば、靖国=国体思想をひきずる政治家は生き残れないはずです。

平和への責任は、子どもたちに上記の「正しい」考えを、家庭や学校で伝えれば、誰でもが果たせます。

未来の社会と人間のための責任を一緒に果たしましょう!

お母さん、お父さん、学校や塾の先生、
為にする言説=国家を実体化させて「国のため」を主張する「詐欺思想」を元から断ち、一人ひとりの生身の人間=実存が先立つという哲学(恋知)の原理をしっかりと教え伝えて下さい。

(さまざまな事象・物事を考えるとき、国ー国家を先立てるのが思考の原理に反することは、普遍了解的な「真理」として哲学的に論証できます。ありのままの私の主観性=心の内側から自ずと湧き上がる声から出発する以外には、思想は根付く場所をもたないのです。右翼的・左翼的を問わず、あるゆる「超越的基準」に基づく思想は、思想ではなく、為にするイデオロギーでしかありません。私が「客観神話」と呼んでいる客観主義の思考法(「一神教」はそのおおもと)が、あらゆる無用の混乱と対立を生んでいる元凶なのですが、これは、欧米崇拝や天皇教や東大病などの社会的病理を生み出す暗黙の想念です。この問題は、現代の哲学(恋知)の最大の課題ですので、「民知ー恋知」論の続きとしてしっかり書かなければいけないと思っています。)

武田康弘

上記の記事を私のブログ「思索の日記」http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972 に出したところ、今日一日で今までに300件のアクセスがありました(まだ時間があるので何件になるかは分かりません)感謝です。

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2005年11月10日
00:46
ヌルハチ

 初めまして、ヌルハチと申します。ふざけた名前ですか、常識や世間の流れに正しい疑問を持って生きたいと思っている者です。いくつかの質問を行うことをお許し下さい。

?抵抗としての闘い以外の闘いはない、とおっしゃっていましたが、「集団的自衛権」とは「やられる前にやる」という意味ですか?
?また、やられてからでは遅いのだから、自分たちの住む地域を直接攻撃されてから抵抗してもダメだ、という意見にはどうお答えになりますか?仮にイスラム過激派にテロ攻撃を受ける前に、テロリストだけを殺し市民を巻き添えにしない手段があったとしましょうか、テロリストに日本を攻撃される前にその手段を使うというのはいけないのでしょうか?
?国家には実体はないのでしょうか?あ、すいません、ないですね。国家も国境も恣意的なものですね。この質問はナシにします。
?ただ、国民を団結させるために崇拝対象を作るのはいけないことでしょうか?

 ちなみに僕自身の立場はまだハッキリしていません。これから本を読んだり人と話していく中で少しずつ固めて行こうと思っています。ぼんやりとですが、「戦争は避けたい」そして「今の日本には愛国心が足りないため、政治やお互いの国民を好きになれないことにつながっている」とは思っております。自分は「戦争は避けたい」と思っていても、戦争を肯定する人間に会ったときに自分の意思を曲げない自信がありません。先生とお話してそれができるようになれたら嬉しいと思います。

 お暇が出来たときで構いませんので、このコメントの返事を下さい。
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2005年11月11日
00:32
タケセン

?集団的自衛権とは、軍事同盟の加盟国のどこかが攻撃を受けた場合、攻撃された国を支援して一緒に戦うことを意味します。
?先制攻撃は、国際法上、認められていません。個人の場合でも同じで、相手が何かやりそうだと思ったから、という理由で先に攻撃することはできません。それを認めたならばどういう事態になるかは容易に想像がつきますね。
?愛国心とは何か?自国に対しての自然な親しみの心と、意図的にある国家像を愛するように仕向けることとは180度違います。実体のないものを「愛する」とは、精神病の一種でフェティシズムといいます。疎外感や不全感がもたらす幻影で大変危険です。以前に書いた「国とは何か?」(クリック)を見て下さい。
?団結させるとは、何のためにですか?
一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を生み出すことは、団結という発想からは生じないでしょう。
以上、お答えです。

思考とは、自分のもつ「常識」を捉えなおす営みです。自分の頭で考える練習は、何より大きな「徳」と「得」をもたらします。ヌルハチさんにエールを送ります。では。

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2005年11月11日
17:55
ヌルハチ

 タケセン先生、すぐにコメントを下さってありがとうございます。「やられる前にやる」は国際法上禁止されていたんですか、知りませんでした。(だからアメリカは「やらせてからやる」を良く使うのですね。)
 ?-a国民の団結の目的の一つ目は、それを強めることで、(中国、ロシア、韓国との)領土問題、在日米軍問題、朝鮮民主主義人民共和国による拉致問題といった外交問題において、然るべき権利を主張する声を強くするためです。郷土への愛は国境がどうなろうと持続できるかも知れませんから領土問題は相手国の好きにさせてもいい(そこの住民が傷つけられない限り)としても、在日米軍にしばしば生存の危機をもたらされた人々、朝鮮民主主義人民共和国に家族を拉致された人々、あるいはされた当人といった被害者だけの声では弱いために今もこの問題が解決していないのではないのでしょうか?一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を持つ人々の権利を守るための団結はいけないと思われますか?
 ?-b二つ目に政治無関心を解決するためです。政治が良くないならば、良くしてもらうために自分たちで何かをするべきなのです、そのために政治への関心が必要です。今の日本ではそれは愛国心に比例して希薄です。
 ?崇拝対象についてですが、フランスの2月革命(でしたっけ?)では「民衆を導く自由の女神」という自由主義の神様をドラクロワは描き、ブルジョワとプロレタリアの人々の精神を高揚させました。これによりウィーン体制という、共和政治を潰し君主政治を取り戻すための反動体制に大打撃を与えることができました。(倒したんでしたっけ?よく覚えていなくてすいません)正しいことのために人々を導くために崇拝対象を作るのであれば、その崇拝対象に実体がなくても良いというのが僕の主張です。
 確かに国体には実態はありません、「国を愛する」と称して「政府を愛する」、「政府のために自身を犠牲にする」ということはいけません。しかしながら、「国を愛する」と称してもそれが「国民や郷土を愛する」、「彼らやそれらを守るために何かをする(自身を犠牲にしなくても構わない)」ということならば、どうでしょうか?

ヌルハチ
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2005年11月12日
00:08
タケセン

?国民的団結で対抗する?という発想の問題は、すでに歴史的に審判が下っています。そういう古典的な考えで物事・事態が解決する時代ではありません。問題解決のためには、まったく逆の発想が求められるのです。
政治的無関心は、日本政府・文部省の方針が生み出したものです。批判精神とその能力を育てない(逆に押さえ込む)教育は、体制に流されるだけの無能な人間を輩出しています。
私の「問題提起としての書評」の後半をお読み下さい。
?元来は、人間ではなく衣服=下着などを偏愛する者のことを指す言葉であるフェティシズムの問題(目の前にいる生身の人間ではなく、国家を愛する)と、人間の生を支える「理念ーロマン」の問題とは次元の異なる話です。「ロマンとロマン主義」を見て下さい。「国民」ではない人は愛さないのですか?「人間愛」の方が基底的だと思いますが。私は、人間や郷土を愛するのはとてもよいことだと思います(だからこそいろいろな改革・改善運動に取り組み、成果を上げてきました)。しかし、他人に強要はできません。愛するように仕向ける!?まして強要するとは、おぞましい行為でしかありませんから。
最後に、自分を愛し、大事にすることができる人間だけが真に他者をも愛することができる、私はそう確信しています。
では、また。

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2005年11月14日
16:08
ヌルハチ

?「問題提起としての書評」は理解できませんでした。もっとしっかり読みこんでからまた書きたいと思います。
?「ロマンとロマン主義」でおっしゃていることは、「こうだったら楽しいだろうな!」を現実に持ち込むな、ということと解釈しました。具体的には、天皇が日本神話の神の子孫であるというお話があっても良いが、だからって天皇が神聖な存在だなどと憲法に書くなよ大日本帝国!ということでしょうかね。
 確かにお話と現実は別の世界です。だから先生はお話の世界を現実に持ち込むことを危険視なさるのですね。とは言え、お話を信じて人々が現実の世界でとった行動は良い方向に行くかも知れないと僕は思います。2月革命がそうです。逆に危険な方向に向いた例もあるでしょうけれども、大事なのはどっちの方向に向けるかということで、ある対象を崇拝してもらい何らかの行動をしてもらうこと自体が悪とは考えません。
 「国民」以外も愛すべきか否か、これは長くなりますので後ほどまたお答えしようと思います。

 返事が遅くなってすいませんでした。長い問答にも付き合っていただいてとても感謝しております。

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2005年11月14日
23:57
タケセン

よきロマンをはぐくむことは、何より大切。
しかし、「ロマン」を生活をよきものとするように生かすのではなく、「ロマン主義」になれば、独我論に陥ります。それが社会化すれば、ナチズムや大東亜共栄圏などの全体主義におちいります。フランス革命が曲がりなりにも成功したのは、ロマン主義を退治し、あらたな社会の原理を理念として提示しえたルソーなどの哲学者の存在が大きいのです。「個人性」に立脚した現実変革の理念を構築したことが、これがポイントです。
また、非常に大事なことですが、ロマンとは本来「個人性」にもとづくもの、もし、「集団化」すればおぞましく危険な事態を招来します。
「集団的ロマン」とは、言語矛盾なのです。必ず他者にロマンを強要することになるからです。そうなればロマンは死にます。個人のエロースから出発し、それを豊饒化させるための社会変革でなければ、変革は意味を失うのです。
まだ内的価値の培養を条件とするシチズンシップが根付かないわが国では、集団主義=外的価値信仰の危険がおおきいですね。
内的秩序ーロマンをゆっくりとしっかりと育てつつ生きられんことを切望しています。
では、また。

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2005年11月20日
01:06
ヌルハチ

 この6日間、考えておりましたが返せる理論がありませんでした。参りました。
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以上ですが、皆さまもご意見、ご質問、ご感想をぜひお寄せ下さい。
武田康弘



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アジア蔑視ー非道徳・無思想のわが日本ー思考力と愛の心を育てたい

2005-11-19 | 社会思想

すでに世界の孤児となってしまっているアメリカ、そのブッシュ共和党政権の戦争政策に全面的・無批判的に従う小泉自民党政権、「ファザコン」の二人のデレデレ顔には嘔吐をもよおしますね。もうすぐ自衛隊と米軍との戦争行動も始まります。ひどい時代になったものです。

私たちはアジア人であるにもかかわらず、アジアを無視・蔑視するわが日本政府には、心底「怒り」を感じます。すでに審判が下った「大東亜共栄圏』の思想を堅持・賞賛する天皇現人神の「靖国神社」(皆さんぜひ「遊就館」を見学して下さいーその戦争賛美には驚愕します)を特別待遇し、アジアの国々からはそっぽを向かれる国をつくって、何をしようというのでしょうか? 愚か者、ここに極まるです。

この「愚かな政府」をつくっているのは、確かにわれわれひとりひとりです。
しっかりとした思想、きちんとした批判精神、勇気ある明確な行動を生み出す努力を怠れば、「幸福をつくらない日本というシステム」から永遠に抜け出すことはできません。

保守政権が醸しだすムードに乗っかるだけで、政治やそれを支えているイデオロギーを批判的に検討する頭脳を育てなければ、この国には未来―希望はありません。つい先日も「中国人は悪いDNAをもつ国民だ」、という演説(これは恐ろしい犯罪行為です)をアメリカで行った石原都知事に対しても何のお咎めもない。わが日本はおそろしく低次元・脳天気・非道徳な国になり下がったものです。金・物品・セレブ?にしか価値を感じない国民―テレビの撒き散らす下劣な価値観を批判する人すら「わずか」しかいません。これでは滅んでも文句は言えませんよね。

武田康弘


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山脇さんとのメールでの思想対話ー「和」の精神について(付・ユネスコ報告)

2005-11-17 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML内での山脇さんと私との対話です。

山脇直司です。

一週間前の6日に日本を発ち10日の昼までパリのユネスコ本部で開かれた文明間対話の国際会議に出かけてきました。ドゴール国際空港に着いて電車で何事もなく市街に入りましたが、途中止らなかった郊外の駅が危険なため、前日まで日本の外務省からこの電車には乗らずタクシーで市街に来るようにとの通達があったことを後で知りました。エールフランスの機内で読んだ英字新聞には、今回の暴動の背後に、we are French, but not real French という深刻なアイデンティティの差別問題があるということが書かれていました。パリ市街はほとんど平穏でしたが、そうした中で開かれた文明間対話の会議で私が報告したテーマはWAについてでした。すでに松浦事務総長の影響もあって、ユネスコのアフリカ諸国で人気のあるWAという概念は、WARと鮮やかなコントラストを成すコンセプトとして、更新され、世界に発信されるべきtransversal(通底的)な価値であることを、私は強調しました。ユネスコは、アメリカの影が薄く、アフリカやイスラム圏に対する影響大の重要な国連機関なので、そこでの平和国日本の果たすべき使命は大きいと私は考えます。私は、「和して同ぜず」をharmonizing without assimilation と、また中曽根康弘のインチキ哲学を粉砕すべく、現憲法の前文を引用しながら、「和・環」をharmony in diversity and differences, peace based upon reconciliation と意味を更新し、また「やわらぐ」「なごむ」といった日本語のよさを強調しつつ、WAのもつ意義を発表しました。そのabstract を添付ファイルにしましたのでご覧頂ければと存じます。いずれにせよ、日本・東洋思想の「弱点」を踏まえつつ、「世界に発信しうる価値」を再発見・脱構築・更新していくことも公共哲学の重要な課題だと思います。かつてサルトルやマルセルが熱弁をふるったユネスコは、21世紀の危機に対して哲学教育を重視しており、この意図に昨年からコミットし始めた私は、トランス・ナショナルないしグローカル公共哲学を日本から発信すべく、さらに今月末にはソウルで開かれる「アラブ世界とアジア世界の地域間哲学対話:民主主義と社会正義」で新たな報告(自由民権運動・大正デモクラシー・戦後民主主義の哲学歴考察)を行う予定です。ともあれ、このWAという考えについて、皆さまからコメント頂ければ幸いです。

Abstract

Toward a Renewal of the Concept “Wa”(和、環) for the Culture of Peace

Naoshi Yamawaki

In this paper, I would like to make a renewal of the concept ”Wa”, which originated from Confucius and can be regarded as one of the most important heritage in East Asian tradition. In the Chinese tradition of thought the well-known proverb “Wa shite Do zezu(和して同ぜず)”, which I would like to translate as“public spirituel person harmonizes but never assimilates”, presents a great principle for human conviviality. In Japanese tradition too, Wa (和) has been used as the meaning of harmony and peace since the time of Shotokutaishi(574-622?). However, Wa(和) in Japanese tends to have also the meaning of conformity, concordance or behaving similarly. Indeed, this meaning played a very totalitarian role in the Japanese modern history as “the Cardinal Principles of the National Polity” issued by Minstry of Education in 1937 showed.

Nowdays, I think that this concept Wa(和) should be radically deconstructed as well as reconstructed for the culture of peace. I mean that Wa(和), which also connotes “peace (Heiwa,平和)” and “harmony (Chowa, 調和)”, should connote “reconciliation (Wakai, 和解)” too, which is a matter of importance for the intergenerational responsibility. The intergenerationally responsible Japanese must therefore assume the burden of resolving the responsibility for the grave errors that the Japanese past generation committed in the modern history and must continue to criticize them. Only then, Wakai (和解) would occur between Japan and Korea as well as China and the solidarity for the future generations would be born between them.

Beyond the confines of East Asian tradition, this new concept of Wa could send a message on the global level. It strongly opposes “the enemy-friend thinking”, which was formerly represented by Carl Schmitt and is nowdays represented by Sammuel Hungtington. The pronciple “Wa shite Do zezu” suggests a horizon to overcome both the individualism and collectivism.

I hope this concept could contribute to the peace all over the world. Indeed, Heiwa(平和) and Chowa(調和) could not come into existence without Wakai(和解). Wa in Japanese has also the meaning of circle(環) and connotes the circle of humanbeing. Moreover, Wa in Japanese verb (和らげる) implies the softening or easing conflicts and Wa in Japanese adjective (和やかな) means to be friendly.

From this perspective, Wa(和) should be now reconstructed in terms of Wakai(和解), Heiwa(平和) and Chowa(調和) in order to generate the “reconciliation-promoting gentle human solidarity” ( Nyuwa de Yawaragiaru Rentai no Wa, 柔和で和らぎある連帯の環 ) in the world, which makes a sharp contrast with “War” and contributes to the culture of peace.


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武田です。

山脇さん、ご苦労様でした。
早速ですが、「WA」(和)について直感的に思うことを一言します。
日本ならざるものを排除する、
フランスならざるものを排除する、
仲間ならざるものを排除する、
という役割も果たしてしまう「和」の精神は、別名「差別」の精神ですが、そこをどう乗り越えていくか?ですね。
「差異」を尊重し、それに依拠した営みを具体的現実・生活の中で実践するためには、どうしたらよいのか?
それを可能にする方法の発見こそが核心だと思います。
「和」とは結果としてもたらされるのであり、予めの和の精神=和それ自体を目的化すれば、意に反して必ず「差別」や「抑圧」や「排除」を結果する、
私はそう考えます。


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武田さま
山脇です。

仰るとおり、聖徳太子17条憲法の「和をもちて尊しとなす。逆らうべき事なきを旨とせよ」は「和」と「同」の差異をなくする危険を内包していると思います。1937年に文部省が発令した『国体の本義』は最悪のケースでした。しかし、『春秋左氏伝昭公20年』(岩波文庫)では和と同が峻別され、『論語、子路編』では「君子は和して同ぜず」と「小人は同じて和せず」とされており(これは組織原理として重要な意味をもつと私は思います)、こうした古典的意味を「やわらげる」などのソフトな女性原理を加味して現代的に脱構築・再構築し、ピコ・デッラ・ミランドーラ、エラスムス、スピノザ、マテオ・リッチ、ライプニッツ、シュライエルマッハー、日本国憲法などの平和・調和・生命の哲学と連帯し、カール・シュミットの敵味方思考やハンチントンの文明衝突論と対決するというのが、ますます危険度を増している現代国際社会に対する、私の根本的な戦略とメッセージです。とりあえず簡単なお返事のみ。
山脇直司

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山脇様。
武田です。

はい、お返事ありがとうございます。
私は、極めて意識的に「和して同ぜず」の実践を続けてきましが、
そのためには、大きな覚悟ー四面楚歌の覚悟ー無理解や反発や排除をわが身に受ける覚悟がなくてはできません。
恋知(哲学)の身体化=生身の私自身がその思想を日々身をもって生きるのは、「理論的整理」の次元とは截然と異なる「全実存」を賭けた厳しい生の営みです。
仲間にさえ迎合せずに、「同ぜず」(しかし存在次元では深く他者を受け入れる)という真の「精神的自立」を果たすのは、容易なことではありません。
厳しい対話ー議論を避ける精神と「和して同ぜず」は、二律背反です。意識の底が深く大きいー柔らかくかつ剛毅な人間を育てることー「差異」に基づく「手強い人間」の育成を私は目がけてきました。平気でバカが言えバガができるスケールの大きな人間=真に自由でかつ深い納得(知識ではなく)を生み出す力をもつ「民人」が日本も世界も変える!といけたら素敵だな、と思いつつ。

知の捉え方、遇し方の根源的変革(民知ー恋知)は、そのための絶対的な前提です。
「和して同ぜず」を言葉次元から飛翔させて日々現実に生きることは、恐ろしいことです。しかし、それは又、何にもまして深いエロースの生を招来します。
私の場合、「実存主義(論)」とは、対象化された哲学史上の話とはまったく無関係で、日々の私自身の生を指します。「和して同ぜず」といきたいものですね。共に!

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以上です。山脇直司さんは「公共哲学とな何か」(ちくま新書)の著者で東大大学院教授です。

上記のやり取りを読んで「白樺ML」のメンバーの古林治さん(コンピュータのシステムデザイナー)が書いたメールを以下に貼り付けます。

(なお、シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の金泰昌(キムテチャン)さんから昨日電話があり、私の「和」の捉え方に強く賛同するとのことでした。日本社会では、差異に依拠する厳しい対話が成立しない、しかしそれを欠けば、どうころんでも「同」にしかならないと。)

古林です。

『和』の精神、厄介な思想です。特に日本人がこれを発するときには。
精神的な自立がないまま、この『和』を強調するとどうなるか。
多くの場合、それは批判を封じ込め、『より良い』を求める心を破壊し、変革を妨げ、
既得権益を守るだけの思想に堕します。

・長い物には巻かれよ。
・付和雷同。
・大人になれ。
まさに日本の社会です。

一方、私の経験からすると米国では、往々にして肥大化した自意識同士の喧嘩で空中分解ということになりがちです。

ここで『和』が成立するための条件は、優れたヴィジョン、コンセプトを提示することです。
そうすれば、自意識は引っ込みます。
精神的な自立と純粋意識の発露があれば『和』は成立するのかもしれません。

思い起こすと、息子の高校=「自由の森学園」(埼玉県飯能市)の再生を妨げた最大の原因は『和』の精神でした。
おそろしい!



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わが同志=福嶋浩彦・我孫子市長の良識、皇族の結婚には関与せず。

2005-11-16 | その他

「山階(やましな)鳥類研究所」のあるわが我孫子市は、今度の皇族の結婚に際して、極めて冷静に対処しました。

浮かれることなく、便乗する愚をおかさず、余計なことをせず、というわけです。

17年前より、「直接参加民主主義」を中心理念として掲げ(市内全戸配布の「緑と市民自治」紙=私と彼との共同執筆・編集によるミニコミ紙)、11年前に市長に就任してからは、「市民自治」を拡大深化させる思想・実践に精力的に取り組んできたわが同志ー福嶋浩彦・我孫子市長の良識です。

クリックで写真が出ます。

武田康弘



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いつまで「元号」?「天皇制」?おかしな「超越」は認めない健全な心を!

2005-11-15 | 私の信条

「平成」時代?「昭和」時代?
21世紀の今なお、時間・時代までも「天皇」と呼ばれる一人の人間の生死で規定されてしまう!このような「古代王政」の思想・制度を受け入れているようでは、「実存の生=エロース豊かな自分から始まる生=精神の自立の生」は始まりませんね~。

少年よ!青年よ!大志を抱け(Boys, be ambitious like this old man)とクラーク博士に倣って言いましょう。
「世間常識」に従う=「既成事実」に縛られる=その場の快・不快だけに左右され、真実を探求しようとしない=政府(官僚イデオロギー)・マスコミに誘導される操り人形もどき、受動的な思想に縛られ、受身でおとなしいだけ・・・・そういうことでは、深い悦びの人生はやってきませんよね。

外的価値を追いその価値に従うだけの人生から、自己の内奥の声(真善美)に従う意味充実の生へと飛翔しましょう。「大志を抱け!」というわけです。
原理上の中心=自己の心の声を基点にして、人類的、生物的、地球的、宇宙的規模で考え、遊び、学ぼうではありませんか。

私たちは、日本人である前に人類であり、生物なのです。つまらない想念に縛られてエロースの乏しい人生を歩むのは、なんとももったいないことです。島国日本にしか通用しないおかしな「超越」=「天皇教」では哀れです。知らずに意識の深くに巣食う権威主義・序列主義・形式主義の呪縛を解く努力が必要です。

深く厳しい健全な「批判精神」と人間・生物への「愛の心」を育み、柔らかくしなやかに、どのような権威にも頭を下げず、真に自分から始まる生を生み出しましょう!それが何より美しく素敵な人生です。

「靖国思想・天皇制、東大病・官僚主義」を元から断ち、ひとりひとりの人生を深く輝かそうではありませんか! 民知ー恋知に基づき、自分の頭で考え、語り、実践する人生を!

「皇族の人権と市民精神の涵養」もぜひ見てください。

武田康弘




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哲学とタケセンのこと (塾で哲学をマイペース♪で学んでいますー楽しいですよ)

2005-11-14 | その他

以下は、ミクシィ内の記事です。
中野君、どうもありがとう。感謝です。
タケセン。


哲学 中野牧人(明治大学2年)

 今日、久しぶり(三週間ぶり)に地元の塾に行ってきました~
小学校の五年生の時から通っている塾で、ピースボートに乗った前後と、受験の直前の長く休んだ時期以外を除けば、なんと12年通っている塾です。そこの塾の先生がマイミクのタケセン(武田先生)なんですが、その師匠に高校の時から哲学を教わってます。今では、そこで何か勉強しないと勉強した気がしないぐらいです。(怪しい意味ではなくてw ソレぐらい中身があるって事です)

 哲学が自分に教えてくれる事は、ただ一つ。極端に言えばそれは、「自分の頭で考えろ!」って事です。学校で教えてくれる事はどれも、答えはコレとか、コレが正しい事だとか、こう生きる事がイイ事という、閉鎖的で断定的で面白くないことばかりです。自分の頭で考えることが何よりも、どんな勉強よりも最優先で大切だと教える学問は、ドコを探しても哲学だけだと思います。

 塾では、テキストを使って考える練習をしています。最近、使っているのが『現象学入門』竹田青嗣 著 で、今日も読んできました。久しぶりというのと、大学に入ってから頭が休止モードになりがちというのもあって、かなり大変でした。でも、その大変を繰り返していくうちに力が着く実感があって楽しいです。なによりも楽しいのは、、社会通念的な価値感や、権威的な価値観にとらわれずに、自由に自分の頭を使って思考していると実感できる時があることです。そういう状態に持っていくことはいつでも出来るわけではありません。より多くの事について、多くの機会で、自分の頭で自由に考えイイ生き方が出来るように、今でも塾で哲学をマイペース♪で学んでいます。

楽しいですよ!

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2005年11月13日
00:29 もんた

カントの本読みたい、オススメ教えてくれ

2005年11月13日
00:45 kana

哲学!
今、勉強したいNO,1ですよ!!
そうそう!自分の頭で自由に思考したいのよ~!
精神世界にばかり、心奪われる日々です。。
中野氏はイイお師匠さんを持っているね!うらやましい。

2005年11月13日
09:15 なっちん

すごーい☆☆
遊んでばっかりのあたしには哲学なんて・・・
って思ってたけど、そういわれるとなんだか楽しそうだね♪♪
てかあの頃から塾通いだったんだ!!


2005年11月14日
13:07 おっちー

哲学おちも興味ある!
自分の頭で考えることが大切かぁ。。
あたりまえだけど難しいよね。
ぅーんすごいなまきとくん(*^_^*)


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