思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

放送は国家が管理する-政府が公正さを判断する、自民党の主張ですが、北朝鮮に同調?

2016-02-29 | 学芸

安倍晋三と一心同体の総務大臣、高市早苗のヒトラー好き、こういう思想の持ち主が大臣というのは、民主政の国家では許されないはずですが、

それも分からないなら、朝鮮民主主義人民共和国と、本質的には同じこと。

あまりの愚かさに、言葉を失います。

これほど愚かな近代国家はいま、日本をおいて他にはありません。

以下は、1年前にアップしたノーム・チョムスキーさんの発言ですが、9000件の「いいね!」を頂きました。再度アップします
イギリスの王立国際問題研究所における講演です。


 

21世紀の世界の良心・言語学者のチョムスキーがウルトラナショナリスト安倍首相を強く批判。非常に危険。

2015-02-17 | 社会思想

 

  生成文法や言語生得説で著名な言語学者のノーム・チョムスキー氏は、アメリカという一国家を超えた「世界の良心」と呼ばれる存在ですが、

彼は、現在の日本の危うさをもたらしている「ウルトラナショナリストの安倍晋三を強く批判しています。

 

  2分50秒に凝縮された〈行動し発言する碩学〉の言葉をぜひお聴きください。
2014年5月19日にイギリスの王立国際問題研究所 (Royal Institute of International Affairs)で行われた講演『アメリカ外交政策の再考 (Rethinking US Foreign Policy)』からの抜粋です。
https://www.youtube.com/watch?v=wbUqrajckxs#t=17

 

 

 以下に、書き起こした文章も貼り付けます。(書き起こしの労を担われたのは、setsuo fujiwaraさんです。改行と太字は武田)

 

「日本は現在、ある種のウルトラナショナリストの首相とその政権が支配しているわけですが
この人物は明らかに、9条ー憲法の平和主義条項を切り捨てようとしているわけですが、私は最悪だと思います。

アジアの人々たちは、まだいくらか日本帝国主義についての記憶が残っているわけです。

それからもう一つ、日本では長い間、自国のアジアにおける戦争犯罪を過小評価しようという試みがなされています。
歴史家の家永三郎氏はそうした中で、最低限の事実を歴史教科書に含めようと闘い、いくらかの進歩があったのですが、それがまた後退してしまいました。
たとえば南京虐殺否定論であるとか、そんなような類です。

ちなみに、この土台はアメリカによって作られたのです。戦後、アメリカは単独で日本を占領しました。
本来ならば全ての戦争関係国を含む極東委員会による統治であったはずでした。アメリカはそれを全部追い出して単独で勝手に占領支配したのです。
それから対日講和条約として、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれました。

この講和条約は日本の戦争犯罪を告発していますが、良く見て下さい。

その戦争犯罪とは1941年12月7日(真珠湾攻撃)からのものなのです。それ以前に行われた10年間の恐ろしい犯罪は一切考慮されないのです。
なぜですか。結局、それはアジア人に対する犯罪だったからです。ジョージ・オーウェルの言葉を借りれば「非民(unpeople)」というわけです。1941年12月7日(真珠湾)は違いました。それは「人間」に対する犯罪だったからです。

この講和条約の内容はあまりに恥知らずなものであり、当時のアジア独立国は会議出席も拒んだほどでした。インドも拒否しました。セイロンは当時イギリス植民地であったため出席しなければならず、フィリピンは義務的に出席せねばなりませんでしたが。しかし独立していたアジア諸国は出席を拒否しています。そして、それが土台になっているわけです。

さらに言うと、1947年の有名な「逆コース」によってアメリカは実質的に戦前の日本の体制を復古させ、社会に存在していた民主的な要素を壊していきます。

それが日本はこういった復古的政策を維持し続けることができるようになった基盤になってしまったのです。私はこれは物凄く悪いことであると思います。
それは別に中国が今やっていることを褒めるということではありませんし、ベトナム等に対して中国が現在行っていることなど本当に酷いものだと思いますが、それは別の話です。日本が平和主義憲法を捨てるということについて、私は非常に危険なことだと思います。

 

 (注)1947年の「逆コース」とは、民間人(高野岩三郎・鈴木安蔵ら)による憲法案を基に「日本国憲法」案をつくったアメリカ民生局の民主主義派から、タカ派のトルーマン大統領の国家主義派(日本を対ソビエトの防波堤にする)への転換のことを言います。占領からわずか2年もたたずしての急旋回は、その後のさまざまな矛盾の原因となり、戦前の日本権力者たちの復古的な保守主義を再興しました。A級戦犯の安倍の祖父(岸信介)が戦後に総理大臣になることができたのも、いま安倍首相が強権をふるえるのも、「逆コース」ゆえです。(武田康弘)


 

 

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高市早苗の“電波停止“発言に池上彰が「欧米なら政権が飛ぶ」と批判! 著名マスコミ人が抗議声明

2016-02-29 | 社会批評

 

以下は、リテラ / 2016229日 130分より。

高市早苗の電波停止発言に池上彰が「欧米なら政権がひっくり返る」と批判! 田原総一朗、岸井成格らも抗議声明


 高市早苗総務相が国会で口にした「国は放送局に対して電波停止できる」というトンデモ発言。これに対して、ジャーナリストたちが次々と立ち上がりはじめた。

 まずは、あの池上彰氏だ。民放キー局での選挙特番のほか、多数の社会・政治系の冠特番を仕切る池上氏だが、2月26日付の朝日新聞コラム「池上彰の新聞ななめ読み」で、高市大臣の「電波停止」発言を痛烈に批判したのだ。

 池上氏は、テレビの現場から「総務省から停波命令が出ないように気をつけないとね」「なんだか上から無言のプレッシャーがかかってくるんですよね」との声が聞こえてくるという実情を伝えたうえで、高市発言をこのように厳しく批難している。

〈高市早苗総務相の発言は、見事に効力を発揮しているようです。国が放送局に電波停止を命じることができる。まるで中国政府がやるようなことを平然と言ってのける大臣がいる。驚くべきことです。欧米の民主主義国なら、政権がひっくり返ってしまいかねない発言です。〉

 池上氏がいうように、高市発言は、国が放送局を潰して言論封殺することを示唆したその一点だけでも、完全に国民の「知る権利」を著しく侵犯する行為。実際、海外では複数大手紙が高市大臣の発言を取り上げて問題視、安倍政権のメディア圧力を大々的に批判的しているとおり、まさにこれは、民主主義を標榜する国家ならば「政権がひっくり返ってしまいかねない」事態だろう。

 さらに池上氏は、高市発言に象徴される政府側の論理の破綻を冷静に追及。停波の拠り所としている「公平性」を判断しているのは、実のところ、政府側の、それも極端に"偏向"している人間なのだと、ズバリ指摘するのだ。

〈「特定の政治的見解に偏ることなく」「バランスのとれたもの」ということを判断するのは、誰か。総務相が判断するのです。総務相は政治家ですから、特定の政治的見解や信念を持っています。その人から見て「偏っている」と判断されたものは、本当に偏ったものなのか。疑義が出ます。〉

 まったくの正論である。とくに、高市氏といえば、かつて『ヒトラー選挙戦略』(小粥義雄/永田書房)なる自民党が関わった本に推薦文を寄せるほどの極右政治家。同書は、本サイトでも報じたとおり、ヒトラーが独裁を敷くために用いた様々な戦略を推奨するもので、堂々と「説得できない有権者は抹殺するべき」などと謳うものだ。こんな偏っている大臣がメディア報道を偏っているかどうか判断するというのは、恐怖でしかない。

 前述の朝日新聞コラムで池上氏は、他にも放送法は〈権力からの干渉を排し、放送局の自由な活動を保障したものであり、第4条は、その際の努力目標を示したものに過ぎないというのが学界の定説〉と解説したうえで、放送法第4条を放送局への政府命令の根拠とすることはできないと批判。〈まことに権力とは油断も隙もないものです。だからこそ、放送法が作られたのに〉と、最後まで高市総務相と安倍政権への苦言でコラムを締めている。

 念のため言っておくが、池上氏は「左翼」でも「反体制」でもない。むしろ良くも悪くも「政治的にバランス感覚がある」と評されるジャーナリストだ。そんな「中立」な池上氏がここまで苛烈に批判しているのは、安倍政権のメディア圧力がいかに常軌を逸しているかを示すひとつの証左だろう。

 そして、冒頭にも触れたように、「電波停止」発言に対する大きな危機感から行動に出たのは、池上氏ひとりではない。本日2月29日の14時30分から、テレビジャーナリズムや報道番組の"顔"とも言える精鋭たちが共同で会見を行い、 「高市総務大臣「電波停止」発言に抗議する放送人の緊急アピール」と題した声明を出す。

 その「呼びかけ人有志」は、ジャーナリストの田原総一朗氏、鳥越俊太郎氏、岸井成格氏、田勢康弘氏、大谷昭宏氏、青木理氏、そしてTBS執行役員の金平茂紀氏。いずれも、現役でテレビの司会者、キャスター、コメンテーターとして活躍している面々だ。

 なかでも注目に値するのは、報道圧力団体「放送法遵守を求める視聴者の会」から名指しで「放送法違反」との攻撃を受け、この3月で『NEWS23』(TBS)アンカーから降板する岸井氏も名前を連ねていること。本サイトで何度も追及しているが、 「視聴者の会」の中心人物である文芸評論家の小川榮太郎氏らは安倍総理再登板をバックアップし、他方で安保法制や改憲に賛同するなど、安倍政権の別働隊とも言える団体だ。

 同会は『23』と岸井氏に対する例の新聞意見広告と並行して、高市総務相宛てに公開質問状を送付し、高市総務相から"一つの番組の内容のみでも、放送法違反の議論から排除しない"という旨の回答を引き出していた。これを経て、高市総務相は国会での「電波停止」発言を行っていたのだが、これは明らかに、安倍政権が民間別働隊と連携することで世間の"報道圧力への抵抗感"を減らそうとしているようにしか見えない。事実、高市総務相は国会でも、放送局全体で「公平」の判断を下すとしていた従来の政府見解を翻して、ひとつの番組だけを取り上げて停波命令を出すこともあり得ると示唆。ようするに、"すこしでも政権や政策を批判する番組を流せば放送免許を取り上げるぞ"という露骨な恫喝だ。

 何度でも繰り返すが、政府が保持し広めようとする情報と、国民が保持し吟味することのできる情報の量には、圧倒的な差がある。政府の主張がそのまま垂れ流されていては、私たちは、その政策や方針の誤りを見抜くことはできず、時の政権の意のままになってしまう。したがって、"権力の監視機関"として政府情報を徹底的に批判し、検証することこそが、公器たるテレビ報道が果たすべき義務なのだ。

 ゆえに、池上氏や、田原氏をはじめとするメディア人が、いっせいに「電波停止」発言に対して抗議の声を上げ始めたのは、他でもない、「国民の知る権利」をいま以上に侵犯させないためだろう。これは、親政権か反政権か、あるいは政治的思想の対立、ましてやテレビ局の「特権」を守る戦いなどという図式では、まったくない。「中立」の名のもと、政府によるメディアの封殺が完了してしまえば、今度は、日本で生活する私たちひとりひとりが、政府の主張や命令に対して「おかしい」「嫌だ」と口に出せなくなる。それで本当にいいのか、今一度よくよく考えてみるべきだ。

 高市総務相の「電波停止」発言は、メディアに対する脅しにとどまらず、国民全員の言論を統制しようとする"挑戦状"なのである。そういう意味でも、本日行われる「高市総務大臣「電波停止」発言に抗議する放送人の緊急アピール」に注目したい。
(小杉みすず)

 

 

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映画 ロイヤル・コンセルトヘボウ  ツアー 「聴くものが、人生を重ねる時、音は初めて音楽になる。」

2016-02-27 | 芸術

渋谷ユーロ、毎日、5時15分~7時
立川シネマシティ  毎日、5時15分~7時


ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る
 (クリックで予告編が見られます。)

   聴くものが、人生を重ねる時、音は初めて音楽になる。

 

ウィーン・フィル、ベルリン・フィルと並ぶ世界三大オーケストラである、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)。
2013年、コンセルトヘボウが創立125周年を記念して、1年で50公演をおこなう世界一周のワールドツアーへと旅立った!アルゼンチンから南アフリカ、ロシアへと、気さくな素顔をのぞかせながら、王立御用達(ルビ:ロイヤル)オーケストラが世界をめぐる。その先々で彼らが出会うのは、音楽を心のよりどころに毎日を生きる人びと。文化も境遇もちがう人びとがコンセルトヘボウのコンサートに集い、その演奏に人生を重ねる瞬間。ひとりひとりの心には、かけがえのない宝物が生まれてくる。


本作はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団初の公式記録映画。これまで各国の都市で人生の機微をみつめてきた巨匠エディ・ホニグマン監督(『アンダーグラウンド・オーケストラ』)が、音楽を奏でる人と聴く人みんなの人生を、世界最高峰の演奏に美しく織りこみ、音楽の力に満ちたオーケストラのロードムービーを生みだした。

監督:エディ・ホニグマン/出演:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
2014年/98分/オランダ/DCP/配給:SDP

(渋谷ユーロのホームページより転写しました(一部カット)。写真は渋谷ユーロからではありません。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はじめて立川に行った。
素晴らしい音響施設の立川シネマⅡで「ロイヤルコンセルトヘボウ」を見、聴くために。
もう、感動で息が苦しくなるほど。涙が止まらない。

これは「ロイヤルコンセルトヘボウ125周年世界ツアー」のドキュメントとアナウンスされていたが、そうではなく、ドキュメントを基底にした人間ドラマであり、フィロソフィの映画です。

人間、生身の人間、悲惨を乗り越える人間、悦びと笑顔に溢れる人間の映画です。
宗教も思想も国家も民族も超えて人間が生きる、音楽はそれらをすべて包み込み、そして上回る人間の営み。芸術の力、人を一番奥深くで支える音楽の底知れぬすばらしさ。

それが理論ではなく、映画で表されている、平明で深く。

オケのメンバーの人間味あふれる顔、動作、言葉。街々でのインタビューの深さ、声を失う。

ショスタコの10番の凄さをコントラバス奏者がユーモラスに語り、最後はマーラーの復活、あらゆる意味での圧制から人間精神は解放される!

ハリウッドとは異なる、オランダ映画の底知れぬ深さと大きさを知った。凄い監督がいたものだ。


(2月28日 武田康弘)

 

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憲法9条改正運動を起こし、平和主義を貫こう!!

2016-02-27 | 社会批評



 わたしの持論ですが、

9条は、現実に合わないのですから変えるべきです。あまりもエキセントリックな規定=「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」は、自衛隊の存在を継子扱いすることで、危険なのです。

憲法第9条は、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

とあるわけですが、この後段を、以下のように変えるのです。
  「前項の目的を達するため、自衛のための最小限度の戦力は保持するが、集団的自衛権は行使せず、海外派兵は禁止する。」と。
 
 
平和主義を守るためには、9条をいじらせないという「守り」の姿勢ではダメで(それは必負の戦略)、積極的に改憲を提起する攻めでなければいけないのです。
 
「守る」、という思想は、必ずジリ貧になり終わる=負けるのです。
 
ついでに「武器輸出の禁止」を書き込むのを忘れてはいけません。
 
 
 
 

武田康弘

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2月7日の「ソクラテス教室」40周年会ーA4コラボ写真つくりました!

2016-02-24 | 教育

A4のコラボ記念写真をつくりました。

2月7日の『ソクラテス教室』40周年(1976~2016)会です。


 

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武田フィロソフィへのインタビュー(11)   内田卓志

2016-02-22 | 恋知(哲学)

  武田フィロソフィへのインタビュー(11)   内田卓志

 

 「 思想や哲学の中心・本体は、未来に向かう精神から生まれる知的営みで、飛翔するイマジネーションによる思考にある。その活動や働きは、ストレートに知的である。」
 ーー何だか、サルトルを想い出すような感じです。サルトルは、かっこよかったですね。

 プラグマティティストである武田先生は、そのような思考の実践活動として、白樺教育館を立ち上げ、運営してこられたのですね。「思考は行為の一段階である」ということでしょう。

 そこで、ストレートに伺います。私たちは、毎日毎日、考えそして行為しています。
それが生活であり、人生があります。人によって濃淡はあるでしょう。ただ、私のような市民が、フィロソフィーに望むことは、
如何に生活や仕事や人生にフィロソフィーをフィロソフィー的な思考を活用できるのかということです。飛翔するイマジネーションによる思考、というと私にはちょっと難しいように感じてしまいます。
また、先生がよくいわれる問題、「イメージやイマジネーションが先にあり言語が先にあるのではない」

 人間の認識に関わる問題と思いますので、簡単に説明いただけますか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 内田さん、問題が核心に迫りました。お応えします。 


 白紙に戻して見る、大元を探る、「〇〇とは何か」を知ろうとする、というのは、人間がみな持っている知的好奇心で、それがフィロソフィですから、
解き方だけ知ればよい、とか、丸覚えでその場を乗り切ろうというのではなく、「考えてみよう」「意味をつかもう」とする頭の使い方は、フィロソフィです。

 それは、内田さんの言われる通り誰でもしていることですが、フィロソフィとは、それを自覚してするだけのことです。それをしないでまるでオートメーションのような頭の用い方をすることも多々ありますが、いったんストップをかけて元に戻して考える習慣をもつ人は、豊かな世界を生きることができて「得」をするし、それは「徳」につながっている、と思います。

 今までの既成の見方や価値観に囚われることが減り、頭が自由に動き、言葉と行為に幅と深みと面白味がでるのですから、どうころんでも生活に仕事に自ずと役立つのではないでしょうか。わたしの人生はわたしにそう教えます。まさに「未来へと向かうイマジネーションによる思考」です。

 しかし、ふつう、哲学と言えば、固い・重い・暗いというイメージをもたれることが多いです。なぜでしょうか。考えたり意味をつかもうというのが特別なことで、重苦しいイメージとなるとは不思議なことです。

 それは、古代アテネでは、フィロソフィは、エロース=恋愛をキーワードにしていたのに(プラトンがつくった学園「アカデメイア」の主祭神はエロースでした)、それを後のキリスト教が「エロース」を邪なものと考え、人間は原罪を負っている存在とし、「アガペー」という神への愛が大切だとしたことに起因しています。
 キリスト教のローマは、フィロソフィを禁止し(「アカデメイア」は廃校)かわりにキリスト教神学によるスコラ哲学をつくりましたが、16世紀にはじまる近代哲学はスコラ哲学の改革ですので、キリスト教への信仰と理性的な人間精神の探求の無理な統一をはかることになったのです。
 日本も明治になり、西ヨーロッパの近代哲学を直輸入にしたので、フィロソフィ=恋知は、固く重く難解なテツガク=哲学となっています。そこからの脱出が必要だというのが、わたしの考えであり主張です。

 

 イマジネーションについてのお尋ねですが、
それは、幼子を見ればよく分かります。言葉が使えない1歳の子は、感動的としか言い得ないスピードで日々、世界(自分を取り巻くもの)を認識します。
その認識は、感覚とイメージに基づいています。それが先行していて、膨らんだイメージによる認識は、2才ころから言葉を観念の道具として用い出すことで明確になるのです。言葉を魔法のアイテムのように使います。

 だから、わたしたち大人も、出来合いの言語がつくる意味とイメージに囚われすに、世界を言葉の介在なしに直接見る練習が必要です。いわば始源ー白紙に戻して世界を感じ知ろうとするのです。街中でも自然の中でも芸術作品を見たり聴いたり触れたりする中でも、言葉を介在させずに、そのまま見る・聴く・感じるのです。そういう練習がとても大切で、それを意識して行うことがフィロソフィの基盤となります。言葉で明確化された認識を、再び始源に戻してみるわけです。

「飛翔するイマジネーション」とはそういうことで、特別な話ではありません。大人が幼児の思考を取り戻す作業を意識的にしてみる、というわけです。

 
 最後に逆質問ですが、内田さんは、わたしをプラグマティストと規定しますが、そうなのですか?
哲学という科目に囚われないで、自らの具体的な経験に基づき、自由に本質的に思考する、世俗の権力や権威とは無縁に思考する、誰も何も特別視せずに堂々と思考する、というのがわたしのフィロソフィなので、それをわたしは「恋知」と名付けていますが、「プラグマティスト」という規定でよいのでしょうか。
 

武田康弘

 

2月7日(日)ソクラテス教室40周年会で
内田卓志 武田康弘

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ミケランジェロ弦楽四重奏団=ベートーヴェン全曲演奏の最終日(13番・大フーガ)に感動。

2016-02-20 | 芸術

  若手の第二ヴァイオリンのほかは、みな著名なソリストや教師である「ミケランジェロ弦楽四重奏団」の銀座王子ホールでのベートーヴェン、

 作品130(13番)は、1826年の初演時、あまりに長大で難解なフィナーレの6楽章=「大フーガ」が不評で、別のフィナーレをつくり改定し、大フーガは独立させて作品133としたわけですが、きょうのミケランジェロ四重奏団は、ベートーヴェンの意図通り、フィナーレ(第6楽章)を大フーガに戻しての演奏でした。

 外から形として見れば、大フーガは、全体とのバランスを欠いているように見えますが、1楽章の四人の親密な対話、2楽章のウキウキする推進、3楽章の優しい色香、4楽章の懐古ないし再会のよろこび、5楽章のなつかしき陶酔と耽美の後、痺れるほど強靭な大フーガが来なくては、やはりこの曲(13番)は終わりません。

   ベートーヴェンの到達した世界がいかに前人未到のものか、人間の内的精神の豊穣、もうなんの囚われもない自然の極みです。それにしても、最晩年になってもベートーヴェンは枯淡などとは無縁で、ますます色っぽい。深い精神とは色香を伴うものと分かります。芸術とはまさしくエロースそのものです。

   強烈なフィナーレの大フーガ、王子ホールに虹がかかり、ムゥサがエロースと共に降りたったよう。昨年12月17日、ポール・ルイスによるピアノソナタ32番のときの再現です。

   演奏は、第一ヴァイオリンが主導するオーソドックスなスタイルで、その音の強さと鋭さが6番の時にはかなり気になりましたが、13番では慣れもあり、曲想の違いもありで、全体の名演の前にはさほど気にならなくなりました。実演ならではの熱演で痺れましたが、粗野になる部分は全くなく、熟達の音楽家ならではの感動の名演奏。 うれしくてたまらない。

 それにしても315席の王子ホール、弦楽四重奏にはピッタリです。贅沢の極みですが(妻と交代で、前から6番目の真ん中と、後ろから4番目の中央少し右寄りで聴きましたが、どちらもよい)。



武田康弘


写真は、演奏後のサイン会で。
あまりにも暗い場所で、iso6400での撮影 ソニーRXー1R

 

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ついに映像メディアに登場ー憲法学の最高峰、樋口陽一さん。必見・必聴です。

2016-02-18 | 学芸

 憲法学の最高峰として知られる樋口陽一(ひぐちよういち)さんは、いままで映像メディアには出ませんでしたが、安倍自民党政権のあまりに危険な憲法改正の動きに対して、その深い意味を知らせようと、岩上安身さんの1時間以上にわたるインタビューに応えました。 キーワードは、「個人」

これは、テレビをとめて真面目に見ないと大損です。深い話が、実に平明に語られています.必見・必聴です。


http://iwj.co.jp/wj/open/archives/287549


なお、書物としては、「いま、憲法改正をどう考えるか」(樋口陽一著・岩波書店刊)がとてもお薦めです。



武田康弘(元「参議院行政監視委員会」調査室・客員・「日本国憲法の哲学的土台」を講義)

 
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武田哲学の芯に迫るためのインタビュー3 「宗教について」 と 「フィロソフィは『学』ではない」 他

2016-02-16 | 恋知(哲学)

 10年前(2006年の12月)に、わたしと山脇直司さん(当時・東京大学大学院教授)とは、「武田の主観性の知としての哲学」を巡り討論的対話をしましたが、 その最後に山脇さんは、「武田哲学」に共感・共鳴し、「武田さんの考えは、日本にはない『哲学の王道だ』(自分がミュンヘン大学で学んだ主任教授と同じだ!)」と言われました。

 では、フィロソフィの王道とは何か?といえば、決して難しいことではなく、自分の頭で考え、体験を踏まえ、それをきちんと述べることの練習です。 「覚えること」や「信じること」ではなく「考えること」ですので、どのような分野であれ、たとえ小学生が国語の本を音読するのも、フィロソフィになるのです(文脈から意味を汲み取りつつ読むという音読ー考える音読)。

 わたしは、内田卓志さんから「哲学インタビュー」を受けてお応えしてきましたが、もちろんそこでも、この「王道」を歩んでいます(東大出版会から刊行された金泰昌さんとわたしの「楽学と恋知の哲学対話」の30回も、同じ考え方・方法によります)。

 

内田卓志さんによるインタヴュー対話(6~10)が、「白樺教育館ホームページ」にアップされましたでの、ぜひ、ご覧ください。
クリックで出ます。

 

 内田卓志  
内田卓志さん
2015年49歳上野で
(撮影:武田)

 
 武田康弘
武田康弘
2015年63歳 教育館にて
(撮影:ソクラテス教室小学生)
 
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日本人が勝った!そんなレベルで喜ぶの?もっと大きく豊かな内的深みの人生を!!

2016-02-15 | その他

日本人のスポーツ選手が勝った!で、それがなんで喜びになるのでしょうか?

スポーツであれば、そんなレヴェルの話ではなく、動作や表情やら心身の発する善美を感じ知ることがエロースなので、ニッポン人云々というのは、あまりに稚拙な見方というほかありません。

それは、精神が幼稚な証です。

あなたは、スポーツに何を見ているのですか?

勝ち負けというのは、競技としてのスポーツを成立させる必須の手段ですが、競技の至高の面白さは、人間身体(心身)の不思議と善美のあらわれにあるので、勝った!万歳!というのは、浅はかな見方ー感じ方ー思想というほかないのです。

わたしは、運動は好きですし得意ですが、日本が、とか、日本人が、とかいうのは、気色悪くて、うんざりですね~~~~~。


手賀沼遊歩道で基礎運動中
のわたし。全身力の鍛錬は
それ自身がよろこびになる。
昨年63歳。


武田康弘

 

fbより感動的な素晴らしいコメントを頂きましたので、以下にご紹介します。

 

川本 久美恵

同感です。そういう意味でオリンピックが好きになれません。
四半世紀以上前のことですが、退職と開業の間で自分へのご褒美として、北京で開催された世界女性会議に参加しました。
開会式は屋外スタイジアム。
驚いたことには、スタイジアム内には国旗も国名を書いたプラカードもない。アフリカ女性の鮮やかなプリント模様とインド女性のサリー以外に国を連想させるものがない。国を背負っていない女達の連帯に胸が熱くなりました。
 
 
ヒラリークリントンが演説した講堂でアメリカインディアンの女性が多国籍企業批判演説したり、ルアンダの女性から悲惨な報告があったり、インドの女性問題では、会場に私達をみつけたインドの女性から、日本は商品だけでなく女性差別まで輸出している。差別に甘んじているあなたでたちのために私達まで、悲惨なめにあっているって叱られたり。
 
 
独立する節目に(子育てのために起業した)勇気づけられたというよりを入れられました。

 

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自民党ー読売新聞ー巨人軍。大人の好きなもの(笑)野球賭博、清原覚せい剤事件で連想。

2016-02-14 | 社会批評

憲法違反の法案を通す安倍自民党。
TVキャスターの個人攻撃全面広告を載せる読売新聞。
で、野球賭博と清原覚せい剤常習の読売ジャイアンツ。

みんな根本的違反ですが、それを許して、それでもいい、といのが大人の日本人、ということなのでしょうね。

違憲の法案であり、人物破壊の広告であり、賭博と覚せい剤であり、そうか、主権者で「現人神」だった昭和天皇も免責で、平和主義者の偉い「人間」となるのですから、大きなものー力あるものー権威と権力の保持者であれば、結局なにをしても最後は安泰なのですね。

まあ、そういう国ですから、みんなニッポン人同志、あんまり責めないで、仲良く暮らしましょう。それが大人です。道徳や倫理など持ちだすのは、青い青い、ということです。人権や民主的など固いことも言わない、それがニッポンの大人のようです。

騒がず黙って選挙は自民党、いい国のいい国民になりましょう!!と安倍さんの声が聞こえます。


武田康弘



 

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愚かな紀元節、天皇現人神思想に懲りない自民党という戦前思想政党。今日2月11日はその象徴日。

2016-02-11 | 学芸

以下は、3年前の今日、建国記念日(愚かな紀元節復活の日)に書いた文章の一部です。採録します。

 時間・歴史をも天皇教に合致させるというのが「紀元節」ですが、明治5年(1872年)に、神武天皇が即位したとされる2月11日(太陽暦換算)を紀元節の祝日とし、西暦より660年も古いことを誇りました。世界の中心は日本の天皇である。という思想は、田辺元(天皇制は宇宙の原理と合致する)や西田幾太郎(国体は、皇室を中心にリズミカルに統一されてきた)という戦前を代表する哲学教授たちが主張し広められましたが、紀元節と共に戦後は一旦は廃止されました。しかし、1967年に多くの反対を押し切って佐藤自民党内閣は2月11日を建国記念の日として祝日とし、「紀元節」復活に道をつけました。ここには、自民党など保守派政治家の根深い「天皇教」への思いがあらわれていますが、これは「靖国神社」を敬愛することと軸を一にしているのです。

  自民党は、現『日本国憲法』を廃棄して新たな憲法をつくることを「党の約束」としています。それは、彼らが天皇教を引きずる国体思想から抜けられないことをあらわしています。安倍首相は、自著『美しい国へ』で「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタペストリーで、日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と述べていますが、これは、《人間存在の対等性に基づき、互いの自由を承認し合うことでつくられるルール社会》という近代民主主義の原則とは明らかに矛盾します。

   「歴史的に天皇が中心の時代があった」というのではなく、市民社会が成立した後の現代もなお「天皇制が国の根幹である」としたのでは、「おじさん、勝手に言ってれば~~」の世界でしかありませんが、どうも「哲学の貧困」(哲学という衒学を講ずる教授はいるが、各自が自分の頭で考えることがない)のわが国では、このような国体思想が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)してしまうので危険です。

   なお、ここで注意しなければならないのは、明治からの天皇制とは、伊藤博文が中心となってつくった近代天皇制=天皇教のことであり、それ以前の日本の歴史・伝統とは大きく異なるということです。
   明治政府は、皇室独自の儀式に拠る「皇室神道」と「神社神道」を直結させて新たな政治神道国家神道をつくったのですが、これは、日本古来の八百万の神=「多神教」を、天皇を現人神とする「一神教」に変えてしまい、祭司にすぎなかった天皇が現人神(あらひとがみ)となったのですから、ビックリ仰天!というほかありません。敵・味方の区別なく祀るという神道の教義も、味方だけを祀ると変更。なんとも強引な宗教改革ですが、これを官僚政府が政治権力を用いて徹底させたのですから驚きです。いまなお、わたしたち日本人が「私」からはじまる思想を恐れ、既成の枠組みに縛られて主観性の知を育てられずに受験知や事実学だけを貯め込み、また「餅は餅屋」と小さく固まってしまう生き方になるのも頷(うなず)けます。北朝鮮の比ではありません。支配者は将軍ではなく現人神だったのですから。

昭和天皇の裕仁
昭和天皇の裕仁・1945年敗戦時、
マッカーサーと並んだ写真の一部

 誰もが知る通り、太平洋戦争での敗戦により、一旦はこの天皇教は明確に否定されました。1946年に天皇の裕仁は、「天皇を現人神とし、日本民族を他の民族に優越するものというのは誤り」とし、天皇は人間であるとするいわゆる「人間宣言」を出しましたが、こんな珍妙な宣言をせざるをえないまでにわが日本人の意識は深く犯されてきたわけです。
   皇室の祭祀と政治を直結させていた天皇の祭祀大権は、『日本国憲法』の誕生により否定され、皇室祭祀は完全に天皇家の【私事】となりました。第5条―天皇は国政に関する権能を有しない。第20条―国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
   けれども、天皇家と国家とを結びつけることで日本国は成立すると考える保守的な政治家は、「天皇の男系DNAを守れ!」との言に象徴されるように敗戦による大改革を反故(ほご)にすることに激しい情熱を燃やし、既成事実の積み重ねにより成し崩し的に天皇教を復活させようとしてきたのです。
   いまに至る戦後の有力政治家の大部分は、戦前の権力者たちの子孫ですが、それにしても、敗戦による新しい日本を「戦後レジーム(体制)」と否定的に捉え、これを終わらせることを最大の使命だとする首相が現れるまでになったのですから、先祖返りもいいところです。

   では、次に、天皇教は私たち日本人にどのように作用しているかを書きましょう。

   国の近代化のために、キリスト教のかわりに天皇教を用いたことは、「私」を消去してしまい、底しれぬ「精神の不幸」からの脱出を困難にしている、とわたしは見ていますが、聖書に象徴される豊かな内容をもつキリスト教とは逆に、まったく内容のない宗教である天皇教(教典すらなく、型・儀式だけがある)は、日本人の無意識領域までも犯しているために、これを顕在化させるのはなかなか大変です。

(注)ただし、わたしは、神が世界をつくったとか人間の原罪とかを主張するキリスト教をよいものとは全く考えていません(人間性の肯定と善美へのあこがれというソクラテス出自のフィロソフィを歪めた宗教が一神教です)。


武田康弘

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驚異的な89万件の「いいね!」のわたしの記事=「日本の伝統はウソ」が削除されてしまった。なぜ誰が?

2016-02-10 | 学芸

わたしが、このgooBlogに1月8日に出した『初詣や神前結婚式や見合い結婚や天皇現人神は、日本の伝統!?みな真っ赤なウソです。』の記事は、

知らないうちに「WEBメディアSpotlight」で、写真付きで紹介されていたのを友人の高城久さんが見つけて、FBで教えてくれましたが、

そのわたしの書いた記事には、「いいね!」が89万件も寄せられていて、ほんとうに驚くと同時に、とても嬉しく思いました。





しかし、それが昨日見ると削除されていました。なぜ?どうして?誰が?どのように?すべて謎ですが、

オリジナルは、ここにありますので、どなたかぜひ、また紹介してください。

なお、Youtubeには2月7日にアップされたとのことですが、これもまた消される可能性があると思います。



武田康弘

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愛情と理性。エロース

2016-02-05 | 恋知(哲学)

愛情と理性。エロース

 

   わたしは、「恋知」(ソクラテス出自のほんらいのフィロソフィ)を象徴する人物として、暴徒と化したキリスト教徒に惨殺された天文学者・数学者でもあったヒュパティアをソクラテスと共に紹介し、「愛と理性に基づいて生きる恋知者の受難」と書きました。

 「愛情」と「理性」は、恋知者=豊かな人間性と共に生きる者の条件と言えるでしょうが、第一義的に求められるのは「愛情」です。さまざまな人間の感情、その中でもとりわけ「愛情」の豊かさがなければ、「理性」には意味がありません。愛情がない理性とは、根を切られた植物と同じで、すぐに枯れてしまいます。それは無意味どころではなく有害であり、人間の生を元から破壊します。「理性だけがある」というのはあり得ない想定で、人間の生にとっては根源矛盾です。

 わたしは、いま、「愛」ではなく「愛情」という言葉を使いましたが、それは、愛を理念的・抽象的なものとしてイメージしてほしくないからです。とりわけキリスト教でいう「愛」=agape(アガペー)と言われる神の愛、罪人である人間に対して神が恩寵として与える愛という考えとは異なります。愛情と呼ばれる感情は、まず、動物や赤ちゃんが可愛いという気持ちから生じるもので、理念でも要請でもありません。抑圧や過当な競争がないふつうの生活から自ずと生じる何よりも人間的な感情です。

 愛情、愛するという心と行為以上に重要なものはこの世には存在しないはずです。子どもや動物への愛、友人への愛、家族への愛、恋人への愛、そこから人間愛へ。豊かでイキイキとした愛の感情がなければ、生きる意味も生じません。もしも人が、そのような内的には生きる意味を持たない人生を続けなければならないとしたら、脳の奥深く(脳幹)にある爬虫類の戦闘脳に依拠して「競争原理」に従うほかありませんが、それでは自他の人間性を破壊する不幸に沈むだけです。

 愛とは、精神論ではありません。行為としては「可愛がる」ことと同じです。では、可愛がるとはどういうことか、あまりに易し過ぎるゆえに「分からない」=実際に出来ていないことが多いのを、わたしは長年にわたる子どもたちとの交流と父母との対話で感じています。とくに高学歴者の親ほど頭でっかち・理屈先行で、知らない=出来ていないのです。

 以下は、小学3年生の教科書(教育出版)に載っている『のらねこ』(三木卓著)からです。


  ネコ

「はははあん。そうだったったのか。」合点がいったリョウは言います。

「ねえ。きみ、もしかして、かわいがられるって、どういうことか知らないんじゃない。」

「知ってるわけないだろ。どこでも売ってないし。」
のらねこは、ぶすっとして言います。

「きみ、母さんは。」

「母さんなんて・・・・・。」

「ああ、やっぱりそうだったのか。かわいがるっていうのは、そばまで行って、相手にさわってあげたり、だいてあげたり、なでであげたりすることなんだよ。」

「へえ、そんなことするのか。で、そんなこと、なぜするのか。」

「ああ、それも知らないのか。かわいがってもらうと、とても気持ちがいいし、うれしくなるんだよ。」

・・・・・・・・・・・



 言うまでもなく、愛とは、まず始めは、可愛いという想いから生じる身体的行為であり、それは、どのような愛であれ、その絶対的基盤です。それが不足すれば、後は何をしようと虚妄です。

 教科書に触れましたので、次に、子育て・教育の原理を簡明に記した白樺教育館・ソクラテス教室の基本文書をご紹介します。

 お母様、お父様、すでにご経験の通り、子育て・教育の基本とは、文字通りの触れ合い=だっこしたり、おんぶしたり、頬ずりしたり、ふざけあったり、また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のある言葉で接すること、一言で言えば、心身全体による愛です。

 いうまでもなく、理屈以前の愉しい触れ合いがなければ、健全な心をもつ人間は育ちません。愛情とは、心身全体によるもので、子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。愛されて育つ子は、他者をよく受け入れ・愛することができます。

 もしも、子どもを「言葉」だけで教育できると思っている方がおられるなら、それは明らかに間違いです。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足によるのではなく「愛」の不足によるからです。心身全体による愛は、人間のさまざまな営みを「よい」ものにするための基本条件なのです。

 話を戻します。

 結語ですが、愛と理性を海と船に例えてみれば、愛情という海を航行する船が理性です。海(愛)がなければ船(理性)には存在理由がありませんが、逆に、船(理性)が沈んでしまえば、愛は盲目となり意思を失い、真善美=普遍性への想いも探求も消えてしまいます。愛と理性は片方だけ、というわけにはいきません。

 恋知とは、なにかしらの理論で人間の実存(一人ひとりのかけがえのない生)を抑えつけることではなく、愛情に基づく理性の発露であり、何よりも人間的な豊かさ、魅力・エロースによって生きることです。

 エロース
「飛ぶエロース」ー古代アテネ北部の
 ミュリナ(現在のトルコ)出土、
 ヘレニズム期(紀元前320~30)の
 粘土を低温で焼いたお人形

 いま、エロースと言いましたが、わたしの長年の哲学講座で「エロース」というと皆さん驚かれます。
テツガクとエロス!?!? どういう意味ですか、と聞かれます。ソクラテスの弟子のプラトンが創った歴史上最も名高い学園『アカデメイア』の主祭神はエロースですので、これについて少し説明してみます。

 恋愛の神は、ギリシャ語では「エロース」、英語では「キューピット」です。「エロース」は、哲学(正しくは恋知)の動力源であるゆえに、「アカデメイア」の主祭神とされました。
 ソクラテス‐プラトンの思想の核心は、人間の欲望を肯定するところにあります。荒々しい欲望も否定するのではなく、飼い馴らすものとされます。飼い馴らすことで、人間の最高の欲望=よいこと・美しいことそのものを求めるためのエネルギーとして生かせ、と言います。生命を支える荒々しい闘争心は、そのままでは人間性を破壊してしまうので、それを真善美=普遍性を希求する方向に変え・活かすというのが恋知(哲学)の核心です。
 このように、恋愛の「聖なる狂気」(「俗なる正気」の対)をつかさどる「エロース」神は、深い納得=恋知(哲学)をつくるための動力源であるがゆえに、学園「アカデメイア」の主祭神となりました。後に現れたキリスト教の「アガペー」(神の愛)とは発想が根本的に違います。
 なお、廣川洋さんによると(講談社学術文庫1361「プラトンの学園 アカデメイア」) 「アカデメイア」は、プラトンの私邸と小園と小規模な図書館と体育館兼対話場からなり、アテナイの市民は、自由にこの学園の教育と研究の様子を見学することができたといわれます。階級の別はなく、授業も形式ばらない友達どうしのような話しことばで進められていたので「友人たちの学校」と呼ばれていました。宗教的な匂いは全くなく、プラトンのシュンポシオン(英語読みではシンポジューム)は、くつろぎと対話の愉しみを求めて、知的香気の高い雰囲気のうちにお互いに愉快に交わるのが常であったと伝えられています。

 そのような訳で、恋知(哲学)とエロースは、何よりも深く結びついています。エロースとは、人間的な魅力の源泉のことであり、また人を惹き付けるあらゆる事象の総称でもあるのです。

 

 では、この小見出し(3)の最後に、最高のイデア(理念)とされる【よい】の意味について、簡潔に書きます。

対話するソクラテス
女性と対話するソクラテス
(レリーフ制作は紀元前2世紀)

 恋知(哲学)でいう【よい】とは、かたまじめな善(ぜん)のことではありません。生き生きとしていること・輝いていること・しなやかなこと・瑞々(みずみず)しいこと・溌剌(はつらつ)としてること・高揚感のあること・囚われのないこと・愉快なこと・・・ を言います。

 「まじめ」ということも、学校や官の世界でいう「真面目」、厳禁の精神・既成秩序に盲従する「真面目」ではありません。ソクラテスとプラトンのいうまじめとは、恋愛におけるまじめ=真剣と同じです。興味のある方は、世界文学最高の古典の一つと言われる『饗宴』(プラトンによるソクラテスの対話編)をお読みください。

武田康弘

(以上は、2013年7月2日に書き、「白樺教育館」のホームぺージに載せてあるものですが、リンクの都合と、キリスト教思想の不毛さが了解できる文章と思いますので、ここに再度載せます。)

 

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「戦争法」の成立で憲法9条は改正されたのでいじる必要なしー自民党元閣僚 ナチと同一思想

2016-02-03 | 社会批評

以下は、楽天ニュースです。

「安倍晋三首相が3日の衆院予算委員会で「戦力の不保持」を定めた憲法9条2項改正の必要性に言及したことに関し、与党内に「安全保障関連法の成立で実質的に憲法は改正された。9条をいじる必要はない」(自民党の閣僚経験者)と戸惑いが広がった。」

自民党元閣僚のいう通りなのでしょう。安全保障関連法=戦争法の成立で、すでに憲法9条は実質的に改定されたとのこと。

すごい国です。否 「おぞましい国家」というほかないですね。憲法改定をしなくても、解釈改憲をすれば憲法は変えられる~憲法違反の実定法を多数党が国会で通せば、憲法を変えたのと同じ。これは、麻生副総理が言う通り、「ナチスの手法をまねて、憲法改正を経ずに変えてしまえばよい」という話です。

民主政の基本・原理をも覆して平然の自民党をこれでもまだ支持するなら、日本の国民もまた、民主政とは無縁の大衆ということにしかなりません。元から終わってしまいますよ。

 

武田康弘


 

 

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