思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

市民(主に女性)が哲学する会=鎌ケ谷市公民館での「とわの会」

2010-11-30 | 恋知(哲学)
わたしは、1996年より、自分の頭で考える=哲学する会(鎌ケ谷市公民館の「とわの会」)の講師(サポーター)を務めています。

写真は、先月の様子です(会員は15名)。

哲学する市民のレベルは、大学で哲学を講じる学者よりも、本質的に上です。
受験知の横行で、自分で考える(主観性の知を鍛える)という土台は、いまの日本にはありません。哲学までも知識の披露に陥っています。哲学史の勉強が哲学することの代わりになっているのですが、そうでない授業を行う大学教師はまずいません。
哲学することは、大学内では不可能であり、市民的自由の時空間でのみ可能です。いまの大学(学校)内は、客観主義の知が支配しますので、哲学することはできないのです。
よろしければ、どうぞご参加ください。何の予備知識もいりません、というより、変な予備知識は有害です。



お問い合わせは、酒井紀子さん(今年度の会長)まで。鎌ヶ谷市 東中沢3-7-6 電話047-444-5021

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おっしゃる通りです (人生(たび)の途中)
2010-11-30 21:01:25

>>哲学することは、大学内では不可能であり、市民的自由の時空間でのみ可能です。いまの大学(学校)内は、客観主義の知が支配しますので、哲学することはできないのです。
よろしければ、どうぞご参加ください。何の予備知識もいりません、というより、変な予備知識は有害です。<<

おっしゃる通りだと思います。。。色指定を受けた、或いはアウトラインが描かれた ぬりえのような日本の状況を脱するには、主観と客観と俯瞰が必要だと思っています。
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内から立ち昇る豊かさを。 (タケセン)
2010-12-01 00:18:26

「色指定を受けた、或いはアウトラインが描かれた ぬりえのような日本の状況」

まさしくその通りですね。もう極限的な退廃です。

能動性の存在論に基づく躍動する生、「私」から立ち昇る内容豊かな生を創り出さなくては損です。外なる世界秩序に従う奴隷根性ではなく、内なる世界の光輝を放つ人生こそ生きるに値するもの。

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北朝鮮問題は、感情論理ばかり。煽れば損なのに。

2010-11-28 | 社会批評

力へは力で対抗、人間は、永遠に愚かなままなのでしょうか。
同じ日本人といってもその考え方は、大きく異なりますが、
韓国人、北朝鮮人、中国人といっても、それぞれの国に生きる人は同じ考えをもつわけではありません。
その政府の言動と、そこに住む人々の言動は、同じではないですし、政府に反対する人々もたくさんいます。

まして、日本に住む外国人は、ある程度以上は日本の現実を好んでいて、日本の法律の下で暮らしているわけですから、その国の政府の言動とは別に考えなければいけないことは当然です。

不安を煽り、感情的な論理を振り回せば、たしかに興奮が得られるのでしょうが、そんなことをして何になるのでしょうか。けっして得はないと思います。
テレビ局は視聴率が稼げるので、刺激的なニュースを作れば儲かるのでしょうが。

世界最大の軍事力を誇る大国アメリカと韓国との合同軍事訓練、これで小国の北朝鮮に対して何をしようというのか、わたしには全く意味が分かりません。
もっと賢くなれないのでしょうか。人間とはそんなもの?
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階級支配のシステムが「国家」―常備軍はその「暴力装置」というマルクス主義思想。

2010-11-22 | 社会思想

「自衛隊は暴力装置」という仙石官房長官の発言は、マルクス主義の国家理論で言われてきたことですが、近代国家を「悪」とし、国家の廃絶ないし死滅を目がける思想です。国家とは資本家階級が労働者階級を支配するための道具であり、階級支配を正当化するためにつくられた共同幻想だとし、その国家を支える暴力装置が常備軍だと言うのです。

このような非現実的な「国家否定のイデオロギー」を深層に持つ人が政府の中枢にいるとはいかにも奇妙な話ですが、この階級国家観の左翼思想で現実国家を運営するのは極めて危険です。国家の主人=主権者である市民(国民)の安全と利益を損なうおそれがあります。また、千葉大学の小林正弥さんグループによる「スピリチュアルな友愛哲学」に基づく政治という思想なども全く非現実的ですが、彼もまたマルクス主義をきちんと清算せずに横滑りで「公共哲学」(公と公共を分ける三元論)という潮流に乗りましたので、民主主義の原理につくことが出来ないのです。

わが国の不幸は、明治政府がつくった「国体思想」というイデオロギー(天皇神格化の国家宗教をつくり、その現人神としての天皇を国家の主権者として現実政治の頂点に置く思想=近代天皇制)に対抗する思想が、マルクス主義という社会・共産主義のイデオロギーであったことです。近代民主主義の原理を鮮明にし、それに依拠する潮流が弱かったことは、政治問題を酷く歪めてしまい、「わたしとあなたが国家をつくっているのだ」という自覚=自由と責任意識を育てなかったのです。

気骨ある真の民主主義者であった石橋湛山(第55代総理大臣)がいう「人権思想に基づき主権在民を原理とする民主主義思想」が継承されず、政治問題や教育問題が、いかに民主制を深めるかという視点から考えられ・語られるのではなく、左右の不毛な「主義」の争い(イデオロギー論争)になりました。一人ひとりの市民・国民を主体者にしていくという民主制を進める核心点については、ほとんど誰も語ることがありませんでした。

民主党、自民党、公明党、・・・・という枠組みを超えて、石橋湛山に代表される対等・自由の民主主義による大改革を進めなければ、わが国が強い輝きを持つことはないでしょう。官とは、市民的公共をつくるための機関→道具であるという視点を明確にし、市民・国民主権の国家をみなで建設したいものです。国家は悪だという思想は、民主主義とは相容れません。

武田康弘

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理論信仰=民主制を知らず (Sam)


 国体思想に感化された人たちは、自分たちのことを選ばれた臣民(エリート)としてとらえます。旧内務省系の官僚たちには特に多いと聞きます。この想念が自民党政権時代にあった大きな流れ(官僚支配)でした。
 一方で、思想を極めた人々が人民を教え導くというイデオロギーが存在します。現政権の中枢にいる一部の人々や小林正弥さんら学者グループもその流れ(旧左翼的志向)にいるのは間違いありません。現政権主流派と小林さんらが癒着するのが良くわかる気がします。対話ができないのに、人々に『熟議』を講釈する上から目線。情報公開を言っておきながら民に対して隠し事をする姿勢。いずれも民を信じず、人々を見下ろすエリート主義の現れであり、民主主義の思想とは真逆に思えます。こちらも新たな理論信仰による官僚支配を導くことでしょう。
 国体思想もサヨク思想も、あるイデオロギーの元にエリートを結集して民を導くという思想である点では一緒ですね。
両者がくっついたらどうなってしまうのか、ちょっと想像するだけで気持ちが悪くなります。戦前、戦中と岸信介らを中心とする進歩的官僚たちによって推進された国家社会主義がその末路に違いありません。
 これが冗談で済めばよいのですが、困ったことに、受験競争の激化が歪んだ受験知エリートを再生産しています。受験信仰は格差社会と理論信仰のエリート支配の社会を後押しするだけ。一人ひとりの市民が主体的に生きていける社会をめがけていたはずが、その根元から崩れつつあるのです。
 ここは腹をくくって、本来の民主制=私たち一人ひとりが主権者である社会を徹底して追及しなくちゃいけません。

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詐欺のような裁判員制度ー少年にまで死刑求刑。

2010-11-20 | 社会批評

死刑求刑を連発し、今度は少年(18歳)にまで死刑を求め、裁判員に判断を委ねる検察官は、役人根性の厭らしさ丸出しですが、そもそも「刑事事件」にだけ裁判員制度を取り入れたのは、詐欺のような話でしかないのです。

民主制を広げるものとしての裁判員制度は、何よりも「行政事件」についてでなければならず、殺人・強盗・強姦=刑事事件ではないのですが、「行政事件」について民間人に裁かせないのは、【官僚の陰謀】としか言えません。巧妙?な日本的な騙し・誤魔化しの裁判員制度でしかないのです。なぜ、こんなインチキを市民もマスコミを見抜けないのか?まことに知的退廃というほかありません。

制度が始まる前に私はブログに書きましたが、民事事件と行政事件への市民の判断こそが、主権在民の民主主義を広げる裁判員制度なのです。
政治家やマスコミのみなさん、法務省(外局の検察庁)の官僚に丸め込まれるのではなく、自分の頭で考えて、問題点をきちんと指摘しないといけませんよ。

2008年5月17日のブログもぜひご覧下さい。http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/4d98bf92c59bb4f31069d4fc8238d04f

武田康弘


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コメント

目から鱗!行政、民事ならば参加したい 。

すかぶら

民事なら、
むしろ積極的に参加したい!
です。
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Sam

まったくです!
私たち主権者が統治を依頼した政府がちゃんと真っ当に仕事をしているかどうかをチェックする。これが本当の民主制ですよね。
だから行政訴訟こそが裁判員裁判にふさわしいはずです。
それがいつの間にか、私たちの日常感覚をはるかに超えた個人の行為(刑事事件)について、突然裁かなければいけないというのはわけがわかりません。お上のお裁きに一緒に参加させていただく、ということなのでしょうか。その姿勢はひどく傲慢であり、かつ詐術のにおいすらします。
法曹関係者も国会議員もメディアも私たち市民もそろそろ頭を動かさないとエライことになります。
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タケセン

この問題だけではないですが、日本の根深い騙しと誤魔化し政治の根っ子を洗うことが必要です。
ふつうの多くの人々が主体者になり、自由と責任を基にして生きるには、「民主主義革命」が必須です。市民主体の社会へとチェンジするには、「哲学的日本を建設すべし」ー石橋湛山(第55代総理大臣)が、明治45年に宣言したことを実行する必要があります。
わたしは、自民党議員中心に(超党派で)「石橋湛山研究会」というグループをつくり、人権思想に依拠する主権在民の民主主義革命を起こすよう促したいと思います。
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Sam

なるほど。
確かに党派を超えてリベラルな勢力作らないと民主制の実現は難しい状況ですね。
このままでは後戻り。
声を上げていきましょう。
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C-moon

目から鱗です!
勉強不足、認識不足もいいところで、自分の視野の狭さに愕然としています。やれやれです。

ツイッターで、有名どころの弁護士さんたちと一般フォロワーの間で
『耳かき店事件』の判決云々で裁判員制度について熱心にやりとりしているのを感心して眺めていたのですが、裁判員制度に否定的な弁護士さんたちも
「量刑を市民に委ねることはできない。有罪か無罪か、だけの判断を委ねる」
というところどまりで、(実は僕もここで止まっていました)タケセンさんのように根底から、そして民主性の原理から行政訴訟にこそ裁判員制度導入すべき!という”裁判員制度の本来あるべき姿を語る人は皆無……


ぜひ、ツイッターで紹介させてください。

コメント (4)
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原理の自覚化の必要。「あなたを国の軍神として祀る」が多数派であれば、従うのが「公共」?

2010-11-16 | 恋知(哲学)
下の13日のブログ・【『公共』の本質とは、「互いの自由を承認し合う」こと】 に対するコメント(mixi)ですが、
民主主義の原理について明晰化するために有用だと思いますので、記事にします。ご検討ください。


なお、途中でよしくんばっとさんの言われる
「あなたを国の軍神として祀る」(靖国神社)が多数派の意見であれば、それが「公共」であり、それに従うのが民主主義ですね。は、
民主主義とは異なる「公共」には当て嵌まります。戦前の日本における「公共」はそうでした。
しかし、それは、【人権思想を基盤とする主権在民の民主主義】における「公共」ではありません。念のため。



すかぶら 2010年11月13日 13:28
違いを認める事も大事ですよね。
人も国も、
当たり前の事ですが
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タケセン 2010年11月13日 23:32

論理上、互いに自由を認め合わないと、公共は成立せず、自由は、現実にはならず、強者の一方的な自由のみがある(勝手)、という事態になります。
「自由の相互承認」とはへーゲルの概念で、近代市民社会の原理ですが、それは「民主的な公共」の本質を一言で言い表すもので、核心中の核心と言えるでしょう。
その原理(根源ルール)を承認し合った上でなければ、自由とは絵に描いた餅か、一部の人間のものに過ぎなくなるのですね。
すかぶらさんのいう通り、違いを認める(対等な人間として互いを遇する)ためには、大元の約束を守り合うことが条件で、それが曖昧だと、必ず特権者・強者の自由だけがある、という結果になってしまいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

よしくんぱっと2010年11月14日 00:29

すかぶらさん、

>違いを認める事も大事ですよね。

おっしゃるとおり当たり前のことですが、これがなかなかできないですよね。

「互いの自由を承認し合う」より、「互いの違いを承認し合う」ことの方がより根源的で重要だと私には思えます。

互いの違いを承認し合い、その上で、「あなたを国の軍神として祀る」が多数派の意見であれば、それが「公共」であり、それに従うのが民主主義ですね。それに従いたくないのなら、従いたくない人がその共同体(日本国)から出て行くべきでしょう。
一個人が、その人独自の考え方を多数派に強要しようとしたり、その考え方に反する人を“処罰”しようとしたりするのは、公共に反する行為であり民主的ではありません。
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Sam 2010年11月14日 22:09
よしくんぱっとさん

>互いの違いを承認し合い、その上で、「あなたを国の軍神として祀る」が多数派の意見であれば、それが「公共」であり、それに従うのが民主主義ですね。それに従いたくないのなら、従いたくない人がその共同体(日本国)から出て行くべきでしょう。

これは民主制を思想抜きに、単純に多数決の制度と見る見方であり、形式論理に偏った考え方です。
年金制度をどうするかといった問題であれば、極めて公共性の高い問題であり、最終的には多数決によって決められるのは妥当です。
ですが、個人の信条は別問題で公共とは関係ありません。個人の信条を侵犯するような上記の発想・発言は互いの自由を承認する民主制の原理を踏み外しています。この問題は多数決とは関係ありません。
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タケセン 2010年11月14日 22:56
よしくんばっとさん

近代市民社会はいかにして誕生したのか?
泥沼の争い(主に宗教戦争)から、近代民主主義の原理は誕生したのですが、それは「自由の相互承認に基づくルール社会」です。
わたしは、この原理を覆すことはできないと思いますが、それを超えるアイデアがおありならば、ご提示をお願いします。
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よしくんぱっと 2010年11月15日 00:49

申し訳ないですが、私には「論理上」と言って説明される“正しい論理”と、「形式論理」と言って否定される“誤った論理”との違いが分かりません。

「互いの自由を承認し合う」考えを持っていない人を人間扱いしなかったり“処罰”しようとしたりすることが正しい考え方であるとは私には思えません。



>近代市民社会はいかにして誕生したのか?
>泥沼の争い(主に宗教戦争)から、近代民主主義の原理は誕生したのですが、それは「自由の相互承認に基づくルール社会」です。
>わたしは、この原理を覆すことはできないと思いますが

今我々が住んでいる社会は、上で定義されている「近代市民社会」ではない、というのが原理を覆す理屈になると思います。原理が誕生したことと、その社会が誕生したこととは異なります。

「自由の相互承認に基づくルール社会」がいかに美しいものであっても、それを原理とする社会が実在していないのであれば、それは“絵に描いた餅”です。その原理を自らの原理にしないで生きている人を、その餅基準で人間でないような扱いをするのは正しくない、と私は思っています。

誤解していただきたくないのであえて書きますが、「自由の相互承認に基づくルール社会」は素晴らしい社会で私もそれを目指しているつもりです。
そして、自分が目指すだけでなく、他人にも目指して欲しいと願うと同時に、その原理を原理にせずに生きている人の価値観も尊重しないといけないとも思っています。
それができなければ、「自由の相互承認」という名の下に、『他者が、いやだ・困るということを「強要」したり、「誘導」したりする』という矛盾した生き方をしていることになります。
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タケセン2010年11月15日 12:31
よしくんばっとさん

「原理」は、あくまでも原理を考える次元で成立するもので、「現実」ではありません。
しかし、それがなければ、現実の法律や社会制度や、あるいは基本的な道徳も、みな成立しないのです。
その意味で、原理が何かを意識化しないと、個々の問題への対応もよくできません。

「互いの自由を認め合い、守り合う」ためには、基本的な考えの承認が必要であり、それが「人権」という思想を生みましたが、【個々人の人権は、多数決により奪うことはできない】という考え方を原理としています。

その原理までも覆す、という思想を持つことも自由ですが(=存在論レベルでの自由)、それを現実化すること(=経験的・現実的レベルでの自由)は、許されないのです。だから、「他者がいやがることを無理にやる自由」は、禁止です。そのような自由を認めれば、民主制社会は、元(=原理次元)から崩れてしまいます。

「原理」は 理想とは意味を異にするもので、絵に描いた餅のように現実になるのではなく、さまざまに異なり、矛盾し、軋轢を起こしている「現実」(理想という絵に描いた餅にならないから現実と言われます)をそれでもなお一番底で支える【土台】となるものです。それがなければ、人間社会の現実が沈んでしまうという根源ルールなのです。
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よしくんぱっと 2010年11月16日 03:45

では、その原理が誕生する前の人間社会では、現実が沈んでしまっていたんですか?「沈む」という表現で意味されていることが、私にはよくわかっていませんが、少なくとも現実は存在していたし、公共も存在していたと思います。

その原理が誕生したとたんに、一挙に全人類がそれに従わなければならないのですか?そんなことはないとしか私には思えません。その原理が誕生したことと、その原理を強制してよいということとは別です。その原理の誕生によって、その原理に従わない人を人間として尊重しなくてよい特権をタケセンさんが持ったとは私には思えません。
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タケセン 2010年11月16日 12:45

わたしが述べているのは、近代市民社会の誕生に伴う、近代民主主義国家の原理です。古代王制や貴族制や封建性や独裁制の社会についてではありません。
日本でも韓国でも欧米でも、いま、わたしたちは、近代民主制の社会に生きていますから、そこでの共通の約束事(根源的なルール)に従って生きるのですが、もし、それを拒否したいのであれば、異議申し立ては誰でもできます。ただし、人類が長い間かけて作り上げてきた「揺るがし難い」基本規則について覆すことは、現実には不可能です。それが、「人権思想」であり、端的には「『他者の自由を認めない』自由」は認められないという思想なのです。

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コメント

『原理』という語の意味 (古林 治)
2010-11-16 19:22:14

『原理』を「理想」とか「真理」に置き換えて解釈するために、『原理』そのものを否定しさり、結果的に相対主義やら形式論理にこだわるといった、わけのわからない議論に陥ることが多く困ってしまいます。
確たる思想も理念もなく流される現代の日本のあり様の根源にこの問題が横たわっているのかもしれません。
実際に、学者の多くがそのように勘違いしていますから、わけのわからない理論が横行するわけです。
『原理』についてのこの話、繰り返し深化させていく必要があると思います。



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『公共』の本質とは、「互いの自由を承認し合う」こと。

2010-11-13 | 恋知(哲学)

「公共」の本質とは、「互いの自由を承認し合う」ことです。

わたしは、あなた、あなた方の自由を認める、
あなた、あなた方は、わたしの自由を認める。
この二つが同時に満たされるとき、人間は現実において自由であり、公共性が得られます。
核心は、片方ではダメだということです。

したがって、他者が、いやだ・困るということを「強要」したり、「誘導」したりする自由はありません。「わたしの名前を書いてもらっては困る」という意思を無視して、「あなたを国の軍神として祀る」(靖国神社)という自由はないのです。上記の両方を満たさなければ、自由と公共は現実化しません。

以上の考察で明白ですが、「公共」という思想は、民主制社会において、最もそのほんらいの姿を示します。

「互いの自由を承認し合う」、というのは他のさまざまなルールが成り立つために必要な根源ルールです。民主制社会の中で生活するためには、この根源ルールを守ることが絶対条件なのです。独裁政治を行う自由・人を殺すことを是とする宗教の自由、他者をいたぶる自由は、原理上許されません。そのような自由はない、それが民主制社会の根源ルールです。

互いが自由に自らの人生を生きる、それを支え合う思想と仕組みを、公共と呼びます。現実に生きる社会人としての「私」には、公共性を広げる考え方・生き方が求められますし、逆に、公共性に反する考え方・生き方は批判されるべきです。自分だけの自由(=勝手)ではなく、自他の自由の相互承認は、民主制社会の原理です。特権者がいないからこそ公共は成り立つのです。


武田康弘
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こどもの心を尊重せずに大人が決定してよいという思想が、諸悪を生むのです。

2010-11-11 | 教育

「躾」と称して、親が子に行う「型ハメ」、
「道徳」と称して、親や教師の単一の価値観を強要する「洗脳」、
「教育」と称して、物品のように人間を扱う「管理」、
「経済」と称して、人件費と言い、人間を物と同等にみる「物象化」

これらが、差別・暴力・自虐を生む原因です。
子育て・教育の中で日々何気なく行われるこどもの心への抑圧は、親や教師のエゴ(子どものためというウソ)がもたらすものですが、これは、精神の元を縛り、人間の一生を支配するもので、人と社会への深い「犯罪」なのです。

白紙のこどもの心や行為から学ぼうとする考え=姿勢をもたないと、人は、社会の既成想念に縛られて、固い固定観念の中で生きる「事実人」に陥ります。

形式論理に縛られている自らの頭脳を「論理的」だと思い込み、固い言語の枠内でしか思考できない人を「優秀」だと評価し、成金でしかない経済的成功者を「偉い」と評し、善美とは無縁の即物主義者や肩書人を許す。・・・・これでは、人は「よく生きる」ことができません。将来・未来が開けず、窒息してしまいます。

窓を開け、新鮮な空気を吸うためには、幼いこどもの行為に学び、共に生きようとする柔軟さ、こどもに付き、その心を生かそうする自由で大胆な発想が必須です。大人がまず自分自身の心身の自由を得ようと意欲しなければ、何も始まらないのです。既成価値・既成道徳に縛られている私たちの心の解放はどうしたら可能か?それが最大の課題ですね。そのヒントは、こどもが日々示してくれています。


武田康弘
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何故これが国家機密!?情報公開という原則。

2010-11-07 | 社会批評
テレビで、中国漁船が海上保安庁の船にぶつかる映像を見た人は誰でも、「なんで、これが国家機密なの?」と思ったことでしょう。

近代民主主義による市民国家は、情報公開が原則です。
主権者は市民・国民なのですから、事実を公表するのは、政府の基本的な責務です。
見せるか見せないかを政府が判断し、主権者をコントロールしようとするのは、原理に反します。
民主制とは、主権者が政府をコントロールする政治体制なのです。だから民主主義と呼ばれます。

「知る権利」は普遍的なものであり、非公開とするのは、「市民的常識」に照らして、明らかに公表がまずいという特別な案件に限定されなくてはなりません。これは議論以前の話です。

また、妨害行為を働いた船長を海上保安庁という【官】(行政機関)が拘束することはできますが、
国際関係を考えて、拘束した船長を釈放するか否かの判断を行うのは【政府】(政治)の仕事であり、官(行政機関)にはそのような権限・権力はありません。あれば、民主政治ではなく、官治政治となります。

政府の領域と行政の領域の区別ができない・分からないのは、『日本国憲法』が依拠する「近代民主主義原理」の認識が曖昧だからです。これを明晰に自覚し・身体化しなければ、民主主義国家としての政治はできず、国家戦略など立ようもありません。関係者には猛省を促します。


武田康弘

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コメント in mixi

人生(たび)の途中♪2010年11月07日 14:34

仰る通りだと思います。
昨年の政権交代時、ようやく民主的な政治運営がなされるかと期待したものの、菅内閣になってからと言うもの、自民党以上に官主導政治に見えてしまう残念感が拭えません。

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this boy2010年11月07日 16:20

日本の領海内での当て逃げで公務執行妨害だったというなら
ビデオをすぐさま公開してその事実を公表すべきでした。
船長にはその犯罪行為に対する罰は受けてもらうこと
は必要です。

その後船長を国外追放にするしないはそれこそ政治的判断です。
あの対中国強硬派小泉でさえ、尖閣上陸中国人を即時国外追放
にしたんですから。

何台ものビデオカメラ撮ってるんですから、同時に3台ぐらい
のTVでマルチで映せば改竄疑惑も浮上しないでしょうし、
場所の特定も容易でしょう。

前原は後先考えずに思考停止で混乱を助長させただけ。
挙句にクリントンに尖閣は日米安保の範囲であると言わせ
ようとする米国追従他力本願お妾外交。

全く独立国としての外交の体を為してないですね。
でもここを追及しない右翼もアメリカの手先のような
ものです。

それはそれとして今回のビデオ流出劇は遅かろう早かろう
起こることは十分予想されました。
現代のこのインターネット社会ではこれを統制することは
非常に難しいと思います。
ましてやあんなに何本も複製を作ってるんですから。

そして現場で体を張ってる海保の怒りもあるでしょう。
菅政権が官僚に責任をなすり付けたその怒りが一つに
なってこのビデオ流出という反撃に繋がったのだと思います。

政府に危機管理の考え方もなく、今まで中国とどう対応して
きたのか、今後どうすべきかというシナリオがないままで
前原に任せた菅首相は、全く管理能力がなく、完全に首相
失格です。

どちらにせよ政府にその外交シナリオ、交渉術がないから
領土問題に発展し、中国日本の偏狭ナショナリストの格好
の餌食にされてしまったと思います。

今の菅政権はもはや碇と帆の壊れた難破船状態。
すり寄った官僚にも見限られ、捨てられてもう持たないでしょう。
このエイペックで成果を出せなければ年内さえ持たないでしょう。
政界再編で騒がしい年末かなあ。

これは小沢をここまで貶めた自業自得というか因果応報という
ことでしょうか・・・・。

あの民主党政権誕生は叶わぬ夢だったんでしょうか・・・・・・。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
C-moon2010年11月07日 17:12

係争地での事件の取り扱いマニュアルがあってよさそうなものなのに、何もないのと同然の政府の混迷ぶりに、菅内閣の終焉を見たように感じました。

係争地とはいえ、自国領土を主張するなら、まずビデオの全面公開をすべきだったでしょう。その上で中国と政治的に交渉することが肝要だったと思います。
前原外相の「尖閣問題は1mmも後退させない」という強気の発言が、事件をより複雑化させ混迷の原因となりました。
彼の言動は、国内向けだから可能で、国際的には何の評価も与えられないはずです。ただ緊張感を増やしただけで、解決の糸口さえ見つからず混迷を深めてしまった。

情報公開という基本的な民主国家が取るべき姿勢、行動をあまりにも軽く扱ったために招いた混迷がもたらしたものは大きかったと思います。
ビデオ非公開は、中国への配慮、ということでしたが、こんなかたちで世界中に知られることになり、このことに関する中国の怒りは当然かと思います。

民主主義と公約を蔑ろにするこの内閣は、終わった……と評価せざるを得ません。




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ルミックスLX5レポート・ライカ思想をみんなのものに

2010-11-05 | 趣味

わたしにとって5代目となるコンパクトデジタルカメラとして、ライカレンズを搭載したLUMIX-LX5を購入し、一か月ほど使用しましたので、レポートします。

結論から言えば、これは素晴らしい出来で、一度使えば誰でもが欲しくなるのでは、と思わせます。

フルオート(iA)での撮影では、一般のデジカメと同じく、人物、風景、夜景、逆光・・・を自動認識し、押せば誰でも奇麗に撮れますが、Aモードでは、絞り優先の「考えた作画」が一眼と同じ感覚で出来ます。
機能もすべて揃っていますが、一番優れている点は、使い勝手がよく、デシタルなのにアナログのような楽しい操作感が楽しめることです。ここにライカ思想を感じますが、「マニアックなおじさんカメラ」とは違い、皆が親しめ楽しめるデジタル時代のパナソニック・ライカです。特別な高級感がなく、サラリとしているのも、使い易さ、撮り易さにプラスに作用しています。いつでも気張らずに撮れます。

レンズは、24mm広角から90mm(ほとんど画質の劣化がないiAズームで120mm)までです。24ミリ時は、開放F値が2.0ですが、素晴らしい写りです。フィルム時代には、24ミリは、単焦点でさえこれほど明るいレンズはありませんでしたが、これはズームなのに開放でもシャープで高解像力、しかも歪曲収差が大変少ないので(カメラ側で補正している?)驚きます。小型CCD(一般のコンデジに比べれば2倍の面積はありますが)のもつ欠点を逆にレンズ設計の有利さとして活かしています。接写時も見事な高画質で、顕微鏡写真!と冗談が出るほど近づけます。最短はなんと1センチ(24mm時)。広角側が28mmではなく24mmなのも助かります。この差は実に大きいのです。
 
色調は、ルミックス共通のパステル調で奇麗です。これは、「線書き」的で解像力重視のライカレンズの特徴と合っています。わたしは、色乗りがよくコントラスト重視の「面」で見せるツァイスレンズのファンですが、このルミックスライカの絵も大変魅力的です。

感度は、400までは全く問題なし。800になると少しくすみと汚れを感じますので、オートの感度上限を400にセットするとよいです。また、定評のある液晶は、奇麗なだけでなく、撮影時に色調が正確に再現されます。

写真は、フィルターをつけるための「レンズアダプター」を付けた状態ですが、付けっぱなしの方が構えやすいのでお勧めです。アマゾンで1980円。キャップはルミックスからは出ていないので、ケンコーの52ミリのキャップを付けました。上に乗っているのは、「ライブビューファインダー」ですが、全ての情報を見ることができ、角度は90度まで自在に変えられますので、強い日差しやローアングル時には重宝します。

フル装備では「みんなのライカ」のように遊び心を持って撮れますし、本体だけにすれば、ふつうのコンパクトになります。LX5は、他に比較するカメラのない「唯一性」をもっていますので、通好みですが、子どもや初心者でも扱い易く奇麗に撮れますので、みんなにお勧めです。
本体のみならば、量販店では43000円ほどですが、価格コムの最安値ならば38000円くらいで購入出来ます。

(なお、わたしのデジタル一眼レフは、ソニーα700+ツァイスレンズです。また、フィルムカメラは、コンタックス645とRTS(初代からⅢ型まで)を発売時から愛用してきましたが、最近は使っていません。)


武田康弘

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内田さんとの対話・武田の根源的選択=恋知としての哲学。ハイデガー&大学哲学批判など。

2010-11-04 | 恋知(哲学)
武田先生

石橋さんの思想の適切な紹介ありがとうございます。京都フォーラムで報告する機会があったら「生活の哲学」を中心に王堂と湛山を語りたいと思います。その思想の原点はデューイです。本当は、ジェイムズの影響もあったので湛山と柳宗悦の関係も将来は考えます。日本におけるプラグマティズムの開花は、石橋さんと柳さんの思想だと思っています。決して職業哲学者のものではないのです。だから民知なのです。

内田卓志
―――――――――――――――――――――――

内田さん

わたしは、哲学としてはジェームズの方が徹底している、と思っていますが、社会的な影響としては、デューイですね。ただデューイも文章が下手ですから、明晰・分明な解説が必要で、いまの世界に活かせるような紹介をしないと、多くの人のものになりません。石橋湛山は大変明快ですので、解説は余分でいりませんが。

ただ、彼らの思想からわたしの「民知」という考えが出てきたのでは全くないのです。結果として似ていても、その文脈は異なり、わたしは、自分自身の経験から(特に小学校高学年と中学生のときの経験)、生きるか死ぬかの切実な問題意識(子どもは、どんなにもがいても偏差値教育・受験知教育の中から抜けられず、自分がまっとうな知の追求をすればするほど追い詰められていく)から、生死をかけた言葉・思想・仕事として、【恋知としての哲学=民知】を提唱しています。わたし自身がそれを生きているのであり、対象化された理論ではありません。

わたしは、過去から直接に学ぶことをしないのです。私の切実な問題(わたしが思う切実な社会問題)を私の具体的経験から立ち上げて考えてきたのであり、過去の書物は、「思考の訓練」&「基礎的な哲学用語の習得」いう意味で学んだに過ぎません(真剣に学びましたが)ので、それらの思想を直接に参考にはしていないのです。もし、それらがわたしの思想と似ていれば、もちろん嬉しくなり励まされますが。

また、原理としての社会思想をまさに原理として定着させるのも、この基本姿勢(生き方)があればこそだと思っています。原理が生きて原理としての役割を果たすには、上記のような構え・姿勢が必要であり、そうでないと、原理はその意味と価値を現実において発揮することはないのです。ハイデガーに代表される受動的な哲学(存在論)は根本悪であり、能動的な存在論を基盤にしなければ、原理は絵に描いた餅に留まる他はないと思います。核心は、わたし自身がどう生きるか、どう生きているか、であり、哲学説の研究はあくまでも哲学研究であり、哲学ではない、それがわたしの究極の判断です。

だから、わたしは、哲学を哲学研究とする態度とは無縁です。
東大出版会を足場にする金泰昌さんと一緒に仕事をしたのは、わたしの【恋知としての哲学=民知】は、既存の権威・組織に取り上げてもらわないと、現実的な力・広がりをもたないと思ったからです。民知は愚直に民知のままでは、学知=権威の前で一段低いものと見なされるだけですから、それを覆すには、あえて既存の権威に乗って、その内容によって既存の権威を上回ることが必要なのです。

わたしは、21世紀の哲学は、過去とは大きく異なるものにならねばならず、「従来の哲学の改良」というレベルではダメなのだ、という見切りの下で、日々を哲学している(=実存として生きている)のです。それがわたしの人生の選び(=根源的選択)なのです。

武田康弘
―――――――――――――――――――――――――

武田先生

先生の哲学についての詳細なご説明ありがとうございます。
金先生との対話(金泰昌・武田康弘の哲学往復書簡・東大出版会)を電車の中で少し読んでいました。
先生のスタイルは一貫したもので、以前より共感しております。
過去の優れた哲学者も、自ら考え、そして思想化した歴史だったと思います。

「わたしは、自分自身の経験から(特に小学校高学年と中学生のときの経験)、生きるか死ぬかの切実な問題意識(子どもは、どんなにもがいても偏差値教育・受験知教育の中から抜けられず、自分がまっとうな知の追求をすればするほど追い詰められていく)から、生死をかけた言葉ー思想ー仕事として、【恋知とての哲学=民知】を提唱しています。わたし自身がそれを生きているのであり、対象化された理論ではありません。」

この武田先生の言葉は、とても心に響くもので、ここのところを解決しないといつまでも子供たちは、アリジゴク的な苦痛から解放されないのです。少し考える子供ならきっと共感する内容だと思います。
 私にとって石橋湛山の言葉は、日本という環境で、生死をかけた言葉ー思想ー仕事として
引き継ぐべきものと思ったのです。ロマン的に言うと、石橋さんも武田先生もその思想には、
「人間の解放」への粘り強くかつ柔軟な意志を感じます。
 ただ、武田先生のような方は稀です。皆が先生のようにはなれないでしょう。私がいくら勉強
しても石橋さんにはなれないと同じです。人の思想や実存は、代替不可能です。それにこれほど徹底して哲学しようとする人はめったにいません。稀の稀です。(笑い)そこが先生の魅力です。
 武田先生の「生もの」の思想は、対象化された理論ではないと言われます。私は、そこから
思想や哲学することの意義を学ぼうと思います。
 それは所詮、私は私として考え、行為して、生活していくしかないからです。生きるための知恵として、武田先生の哲学する行為・態度からヒントやアイデアを得ようと思います。
それには、既成の悪しき学的権威に頼らない哲学を創らないとダメでしょう。うまく申し上げられませんが、生活内存在として、最後は自ら考え行為することができる「方法としての哲学」をするようになることが必要と思うのです。この方法とは、流行のハウツー本のような方法から最も遠い方法としての知なのです。
 私にとって石橋さんは、先生にとってのサルトルのように、学生の時から自分を最も勇気づけてくれる存在なのです。やはり「戦う石橋湛山」ではないですが、どこかで戦わないとそして、破壊していかないと創造はないのかもしれません。年末までには我孫子へ伺う予定です。    

追伸
ハイデガーについては、ほぼ武田先生のご意見に賛成です。あの後期の受動性の存在論から、民の生き方を導き出せるはずもないのです。
ハイデガーの後期の哲学は、詩的な観想の世界とでも言うべきもので、一人閉じられた言語空間を遊んでいる感じですね。つまり主観とか主体を消去して、人間存在を存在そのものに委ねることになります。この思想からは、生活を主体的に切り開いて生きていく思想、その創造の余地はありません。存在と存在者を区別して、存在の声を存在者である人間存在は聴従するしかないと言います。これでは全く人の主体的認識や主体的行為の入り込む余地は全くないのです。市井の民にとっては、関係なく、大学の研究者や私のような哲学マニアだけの知的興味(遊戯)の対象です。それ以上の効果は期待なしです。それでも間違いから学ぶ必要はあります。

内田
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内田さん

ハイデガーは、「存在と存在者を区別して、存在の声を存在者である人間存在は聴従するしかないと言います。」(内田)

ハイデガーの思想をどう評価するか?は、大学の哲学科教授であろうと、民間の哲学者であろうと、それ以外の者であろうと、何かの専門家であろうと、そうした属性に関わらないはずです。

「存在の声を存在者である人間存在は聴従するしかない」、というのは、人間存在とは何か、という「人間の本質」を暗黙のうちに措定しなければ言えない言葉=思想です。そのような考え方を認められるか否かは、専門家、非専門家であるかに関係しません。

ハイデガーの暗黙の想定は、「人間存在の原理論」上許されるものではなく、それを許せば、人間の生き方の上下を、「哲学」学の専門家が判定できるという話になってしまいます。自分は哲学者だから、ふつうの人とは違い、永劫的真理という見方が可能だ、という想念を導くことで、哲学をオタク化することになります。

だから、哲学は用済みになっているのです。大学内哲学に最終的に引導を渡さなければ、哲学の再生は不可能だ、それがわたしの見方です。

「存在の声を聴く」とは、沈思により心の内側から立ち昇る声を知ろうとする努力だと定義できますが、それをハイデガーのように形而上学的なレベルの話にしてはならず、「生活の中での沈思の営み」とし、実践することが求められるのです。それが哲学の民主化・有用化・高品位化です。

武田
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武田先生

ご回答ありがとうございました。私はかつて勉強した哲学者の説は、ほとんど覚えていなく困ったものです。

 「学は用済みになっているのです。大学内哲学に最終的に引導を渡さなければ、哲学の再生は不可能だ、それがわたしの見方です。」(武田)

私も大学内哲学では、現状の困難は解決不能と思っています。その意見では先生と同じです。

「 「存在の声を聴く」とは、沈思により心の内側から立ち昇る声を知ろうとする努力だと定義できますが、それをハイデガーのように形而上学的なレベルの話にしてはならず、「生活の中での沈思の営み」とし、実践することが求められるのです。それが哲学の民主化・有用化・高品位化です。」(武田)

 ルソーの思想にも人間の内面の声を聴くことについての深い考察がありました。その意味でハイデガーも共通点があるのですが、ハイデガーの後期哲学は、あくまでも存在そのものが主なのです。人間は存在に従うもので、存在は人間を超越した何かとなってしまいます。だから行為や実践の余地はなく、哲学の民主化・有用化・高品位化には無縁です。存在の声だけ聴いているだけではダメで、そこから何らかの主体的な行為や実践が必要と思っています。ハイデガーは受身の哲学です。
だからこそ民知という優れた思想が必要なのです。

内田
コメント (1)
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