思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

新しい結婚式ー「恋知結婚式」はどうでしょうか。

2011-04-29 | 恋知(哲学)

わたしは、一神教であるキリスト教の神は、まったく認めていませんので、神との約束(契約)をすることはありません。
わたし以外の多くの日本人も、超越神の前で神に誓い神との契約を守って結婚するとは意味不明の話でしかないはずです。しかし、それでも結婚式はキリスト教の教会で挙げる人が結構います。その人たちの心はどうなっているのでしょうか。

では、私は誰と契約し、それを誰が保証するのか?
私は私の相手と約束し、その約束の担保は、私の存在それ自体です。
特定の宗教的信念に囚われている人でなければ、誰にとっても私の存在を超える存在はなく、もしあるとすれば、結婚によって生まれる子どもの存在だけです。神という絶対者の概念よりもはるかに価値があるのは、「私の存在それ自体」なのです。

だから、もし儀式が必要ならば、その儀式では、主宰者=結婚の媒介者は、
「あなたの存在にかけて、あなたはその男(女)を配偶者としますか。」と
問い、
「はい、誓います。」と言い合えばよいのです。シンプルにそれだけにするのが最善です。
そのような結婚式は、優れた音楽が鳴り響く美しく輝ける場所で行うのがよいでしょう。新しい結婚式は、人間性の全的肯定という思想に基づいて行われるので、「エロース」が媒介者となります。

名称は、教会でも神式でもないので、『恋知結婚式』としましょう。

わたしの提案を実現するには、恋知による結婚式を行う人が必要です。恋知者(哲学の研究者ではなく、実践と共に主体的に哲学する人)が結婚式を執り行うのですが、そのような人はいまのところとても少数なので、まずは人材育成から(笑)

荒唐無稽な提案と思われるでしょうが、わたしは結構本気です。いかがでしょうか?


武田康弘
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市民連帯mlー「三井環(元大阪高検公安部長)です。」

2011-04-28 | メール・往復書簡

以下は、【市民連帯】(三井環さんの活動を支える市民の輪)のmlメールです。

三井環です。(元・大阪高等検察庁公安部長)

皆さま方からの毎度ご熱心な投稿有難うございます。これらのご投稿にはすべて目を通させていただき「市民連帯の会」の活動に生かしてまいりたいと存じます。

ところで私は2002年4月に検察の裏金告発のため、テレビ朝日「ザ・スクープ」に現職・実名で出演しようとしましたが、その収録の3時間前に大阪地検特捜部より逮捕されました。逮捕は全くのでっち上げであり、私の口封じのためであることは明らかでしたが結局、1年8ヵ月の実刑が確定、2008年10月に収監されました。

10年1月18日に満期出所後、『告発!検察「裏ガネ作り」』『検察との闘い』『「権力」に操られる検察』などの本を出版、昨年末には「検察の裏金返還」や「取調べの全面可視化」などを求め市民デモなどを実施して参りました。

私はつい最近まで、検察の自浄能力や政治のリーダシップを期待していましたが、官僚組織という化け物は自分達に不利になることは決して認めようとしないし、私が期待した菅直人氏も所詮、官僚組織に太刀打ちできない無能な政治家であったと痛感した次第です。

そしてこの肥大化した官僚組織を改革できるのは、小沢一郎氏や鈴木宗男氏ら本物の政治家であり、政府にコントロールされない自由報道協会などのジャーナリストや評論家達であることを確信いたしました。

そこで今後「市民連帯の会」は、これら革新的政治家や真実を伝える言論人たちを支援し「公正で安全・安心な社会」「国民の生活が第一」の共生社会の実現を目指したいと考えています。是非、皆様方のご支援、ご協力を賜りたく宜しくお願いいたします。
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『知事抹殺』ー福島原発問題で国・経産省と闘い、逮捕された前知事・佐藤栄佐久氏の著書

2011-04-28 | 書評

『知事抹殺』ー佐藤栄佐久著(前・福島県知事)平凡社 2009年9月刊 

以下は、2年近く前に出た上記の本からの抜粋です。


★佐藤前知事は、1988年の知事選で、建設業界推薦の候補と闘い、脱金権政治を進めた気骨ある政治家で、圧倒的な支持を得ました。(しかし、検察特捜部の「国策捜査」により逮捕された。東大法学部卒の政治家が逮捕されたのは、この半世紀ではじめてのこと)


 1988年
 一地方の首長選挙にまで口をはさんでくる傲慢さに、参議院議員だった私は激し怒りを感じた。中央が好き勝手に役人を担ぎだして知事選に出馬させる。民主主義の危機である。
安倍晋太郎氏から自民党幹事長室に呼ばれた。・・要は「降りろ」というのである。・・私は、「それはできない。知事は県民が選ぶのだ」と拒否した。
「保守王国福島」にあって、世代交代の風穴を開けようとした私を、県民は熱狂的に迎えてくれたのである。

――――――――――――――――――
 
 2002年8月29日、原子力保安院からのFAXは恐るべき内容だった。
 「東京電力福島第一・第二原発で、原発の故障やひび割れなどの損傷を隠すため、長年にわたり点検記録をごまかしてきた」と書かれていたのである。
 やはり「国と電力会社は同じ穴のムジナ」だった。考えられない内容の不正行為に私は言葉を失った。
 当事者の東電よりも、告発を受けながら二年間も放置してきた国と原子力保安院に対して感じた怒りのほうが大きかった。私は副知事に檄を飛ばした。
本丸は国だ。敵を間違えるな
翌8月30日、私は記者団に囲まれた。
「国(※自民党政府)、経済産業省はこの二年間何をやってきたのか。トラブルを二年間伏せておいて、経産省は、『安全文化の向上』と言っていた。茶番をやっているのか。一番安全に関係する福島県民のことをどう考えているのか。」
「この問題を東電がどうした、当事者の誰がどうした、プルサーマルが進まなくなる、などと矮小化してはならない。原子力行政全体の体質が問題だ。政策そのものを考え直さないといけないのではないか。」
「日本は、原発に対し世界の共通の常識を持つべきだ。」

県庁に戻り、今後の対応について打ち合わせをした。
われわれの相手は経済産業省である。・・官僚はさっと抜け穴から逃げるので、ドジョウを逃がさないだけの目の細かい『ざる』を用意しなければならない。いよいよ本番、決戦が来た」――これから霞が関の官僚と交渉することになる県職員への私の檄であり、アドバイスだ。

この頃(2003年1月)私と国の原子力行政・東京電力との闘いはピークに達しつつあった。・・私は、一度県知事として承認を与えた福島原発でのプルサーマル計画事前了解も白紙撤回しており、この三カ月後には、日本の原発がすべて停止する事態に発展する。私にとっても、前年から常に緊張の毎日が続いていた。

翌年の2004年は、新潟県中越地震をはじめ、台風、集中豪雨などの天変地変が相続いた一年だった。
1月24日、秘書課長が、『アエラ』のコピーをもってきた。
「知事大株主企業の不可解取引」大きな見出しが躍っていた。郡山スーツが行った、私がしらない土地取引と木戸ダム建設工事発注の件を、無理やり結び付けて「疑惑」としている。
 しかし、発売翌日、『アエラ』の本社で会議であり、「(この件は)事件性がない、と結論づけた」

(以下、経緯が長く複雑なので、しばらく省略)

2006年10月23日、『毎日』『読売』の夕刊に「前知事、逮捕」という予測記事が大見出しで載った。
電話は、午後にかかってきた。
「東京地検特捜部ですが、事情をお聞きしたのでお会いしたい。準備ができ次第、ホテルハマツの地下駐車場に来てほしい」・・・・ 
 クルマを降りると、茶色のワゴン車に移乗するように指示された。同じ型の車、二台が来ていた。窓にはカーテンがめぐらせ、外が見えないようになっている。・・
 私は、ちょっと驚いて、
「ここで事情を聞かれるのではないのですか」
と聞くと、男性は「検察事務官だ」と名乗り、東京に向かうのだと答えた。
車中ではほとんど会話は交わさなかったが、県庁から持って帰った資料の整理が途中だったのを思い出し、携帯電話で電話した。妻に、
応接間の原発関係の資料は、裏の倉庫に入れておくよう
と指示すると、検察官らしい人がすぐにどこかに電話して、何か指示していた。「・・裏の倉庫」と聞えた。翌日、私の自宅も家宅捜査を受けることになるが、それは保釈されてから知ることになる。
 
 ・・・車はそのまま小菅の東京拘置所に入った。

車を降りたところで逮捕状を見せられる。
そこには「収賄罪」と書かれていた。





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身の回りの世界を愛し、引き受けること。

2011-04-24 | 恋知(哲学)
わたしの親しい人、
仕事の仲間、
行きあう人。
身の回りのもの、
部屋、
家、
庭、
まち、
自然。

それらは、わたしの一部です。とても大事な一部で、それなくしてわたしは生きられません。

身の回りの世界を愛することなしに、よき生、充実した生、楽しい生はないはずです。

わたしは、我孫子に住んでいますが、とても美しい場所がたくさんあります。いつも手賀沼遊歩道を歩き、水辺の様子を楽しみます。手賀沼周辺だけでも豊かな世界が広がり、飽きることがありません。季節の変化も面白く、春は空気が光りに満ち、輝いています。萌え出る野草と共に。

いま、手賀沼一周サイクリングをしてきて、おいしいコーヒーを飲んだところ(笑)。

わたしは、音楽を愛していますので、音楽を聴く部屋を大事にしています。ただ一般的な奇麗や豪華ではなく、心の満足を求めていろいろ工夫し、楽しみます。いま、ガーディナー指揮、古楽器によるベートーベンの交響曲3番「英雄」を聴きながらこれを書いています。大好きな曲で、1000回くらい聴いたと思います。数え切れないほどのLPとCDを聴きましたが、わたしの愛聴するのは、クレンペラー盤とラトル盤とこのガーディナー盤です。

昨年、「私風景」と名付けて、部屋の一部と全体、家や庭を撮った小さなアルバムをつくりました。「お気に入りのものたち」と名付けて、『白樺教育館』の入口には、4枚の四切の組写真も展示しています。「善美は、どこか遠くにあるのではなく、身近なものにこそ宿る。」と書き添えてあります。

自分が普段生活している空間に無頓着な人、
自分の住んでいるまちのよさ、美しさを知らず、感心を持たない人もいますが、
それは、間違いなく「不幸な生」です。

自分の一部、それなしには生きられない「身の回りの世界」を愛さずに、よき生、美しき生、幸福な生がもたらされることはありえないでしょう。これは原理のはず。

わたしは、わたしが生まれ育った地域や国を愛しています。
ただし、もちろん、それは国粋主義とは無縁です。わたしは、世界のさまざまな文化に関心をもち、親しみを感じています。
西洋が生み出した音楽はわたしの生きる糧で、それなしにはいられません。
全身に鳥肌が立つ美、深く納得できる思想、心に染み入る話、それらに国境などあるはずがありません。民族の違いも言葉の違いもありません。

しかし、そうした優れた文化をほんとうに深く豊かに知る=味わうことができるのは、自分の生きる世界―生活世界への愛がある人に限られるのではないでしょうか。

身の回りの世界を愛することのできない不幸な人がもつ想念・思想は、自分の歪んだ意識に対しての苛立ちの表出に過ぎないために、何の価値ももたず、自他に害を与えるだけです。「強制」されて育った人の社会批判は、ただ過激なだけで、よきものを何も生みません。

残念なことに、人類の文化は、厳しい戒律・強制=絶対神への信仰によってつくられてきたものが多いですが、未来の文化は、そのような一神教による圧力、脅迫神経症の下での文化ではなく、豊かな悦びの思想―人間性の全的な肯定と共にあるようにしたいものです。そのための基本条件が、身の回りの世界にこそ善美は宿るという思想であり、身の回りの世界を愛する日々の生活なのだと思います。

身の回りの世界、わたしが置かれた状況を引き受けるという「責任の哲学」が自由を価値あるものとし、幸福を生み、未来を拓く、わたしはそう考えています。

武田康弘


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コメント


すかぶら
2011年04月24日 19:37

歩く速度を少し落として、
時速3㎞のまなざしなら、
些細なものかも知れませんが、
素敵なものに出会えます。
あとはシャッターを切るだけ!
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ラルゴ
2011年04月24日 20:17

非常時の今だからこそでしょうか、心に染み入りました

いつも気付きをくれるタケセンさんの日記を楽しみにしています。
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C-moon
2011年04月24日 21:48

福島第一の事故で、多くの方たちが避難生活を強いられています。
日本国中で、放射能物質の危険性が語られています。

こうした中で、放射性物質の影響を受けやすい、幼児、児童、妊婦を抱える人たちが、なぜもっと遠くに避難しないのか!
子どもたちだけでもなぜ避難させないのか!

福島の人たちは、政府の言いなりになっているだけの愚民ではないか……

そんな事が、平気で語られている現実があります。

しかしどうなんでしょう。避難したくてもできない経済的な問題もあるでしょう。それ以上に家族を引き離されたくない、生まれ育ち生活をしてきた地域への愛情があると思うんです。
タケセンさんが、言われているように身の回りの世界を愛しているんです。
だからこそ、危険覚悟でギリギリ回避しながら避難生活をしたり、避難地域でない人たちもそこに留まっている。

命と健康が最優先されることは、共通の認識で、そんなことは他人に言われなくても解っていし、賢愚のレベルの話じゃないと思います。
はい!そうですか。と言って簡単に離れられるものではありません。

そこをしっかり見つめていかないことには、福島原発の危機が収束したとしても、原発問題はいつまでたっても解消しないと思います。
根源的なことですから。

小出裕章、京大原子力研究所助教は、40年近く反原発を訴えてきましたが、福島の避難について、最終的に決めるのは家族だ……仰っています。
タケセンさんが仰るように、小出さんも身近なすべてのものへの愛情をその理由にあげています。

だから僕は、小出さんを信じることができるのです。

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恐るべき検察特捜部による日本支配の実態ー「民主派知事を消せ!」

2011-04-24 | 社会批評

参議院における村木さんの参考人質疑で明らかになった検察庁の実態は、恐るべきものです。
一口に言えば、「検察の独裁的権力による支配」と言えます。

それを端的にあらわすのが、小沢氏関連の「事件」であり、前・福島県知事の佐藤栄佐久氏の「事件」です。
佐藤氏の著作をぜひお読みください。
検察庁が、原発批判の知事を抹殺するために仕組んだ事件(でっち上げ)です。

検察庁は一度解体しなければならないでしょう。このまま完治主義が続けば、司法の独立も果たせません。国会の力が必要です。

武田康弘
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4月18日の村木厚子さん参考人質疑の全文公開

2011-04-23 | 社会批評

参議院の「行政監視委員会」(立法府である国会から行政機関に対する監視を行う)は、2月14日に村木さんの冤罪事件を引き起こした大阪地方検察庁と、村木さんが無実の罪で取り調べを受けた大阪拘置所を視察しました。

その結果、「大阪地検の問題は、検察全体の構造上の問題として、行政監視委員会において行政の組織・人事の観点から継続的に調査を行う必要性を認識いたしました」(大島九州男・行政監視委会筆頭理事)と結論されました。

そこで、4月18日(月)に、参議院で、村木厚子さん(元厚生労働省雇用均等・児童家庭局長)の参考人質疑が行われたのです。クリックで全文を見ることができます。

お読み頂ければお分かりになりますが、村木さんの証言において、検察庁の重大な構造的問題が浮かび上がりました。
大島筆頭理事は、最後に「行政監視委員が最高検察庁に行き、検事総長のお話を聞かせていただきたいという希望を持っています」と述べています。


武田康弘



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日本人の宿痾=「東大病」へのコメント

2011-04-22 | 社会批評
下のブログに対するmixiコメントです。


C-moon
2011年04月21日 16:29

「東大病」-タケセンさんが、ずっと言われてきたことが、東電でものの見事に体現していたんですね。
その辺りの考察もしっかりなさっているんでしょうけど。

清水社長ですが、資材部にいた時、東電の全制服を(作業着。今着ているやつです♪)made in japanからmade in chainaして2億円削減したそうです。
経費削減は必要ですが、それを鉈でぶった切るように関連企業に求めてきたことが、彼の評価らしいです。
いわば憎まれ役をずっとやってきて掴んだ社長の椅子。東大閥の圧迫もあったと思います。それに耐えられず、事故後入院したのかもしれませんね。

しかし、震災以降記者会見を見て思うのは歪みです。責任から逃れよう逃れようとするさまは、醜態としか感じません。
憐れ、東大病症候群ですね。本人たちが、また組織としても症状に気づいていないところが怖ろしいです。

そうした組織を、政府が把握しきれていないことは、危機的な現実の中でもっと怖ろしいです。

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タケセン
2011年04月22日 12:21

「そうした組織を、政府が把握しきれていないことは、危機的な現実の中でもっと怖ろしいです。」(Cmoon)

まったくです。
それが「東大病」なのですが、菅首相のように東大卒でない人がしばしば余計に東大病※です。
受験知が知であるという刷り込み(この刷り込みから免れている日本人は極めて稀)によりつくられる「東大病」は、東大に象徴される「受験知大学」を神とする「東大教」信者が罹る精神の病ですが、意味論抜きの単なる事実学によるパターン知が支配する日本社会の中で生きると、みな知らずに東大教の信者になります。権威の前に自己は消え、客観神話の呪縛により豊かな主観性は育ちません。日本に必要なのは、人間性回復の文明転回だとわたしは思っています。

東大という権威による管理主義の日本社会は、主観性の知を抑圧し、個人精神の自由を奪う「人間の管理」を行うために、システムや物の管理に失敗するのです。人間を管理してしまうために、創意工夫・臨機応変・当意即妙の精神=しなやかで自由な頭をもった人間がいなくなります。物やシステムの優れた管理のための最大の障害は、管理主義なのです。

※東大総長経験者の起用希望=復興会議議長、東電との関係で断念-菅首相
 東日本大震災の復興計画を立案する復興構想会議の議長人事で、菅直人首相が当初、元東大総長の佐々木毅学習院大教授の起用で調整していたことが15日、分かった。しかし、佐々木氏が東京電力福島第1原発のプラント建設にかかわった東芝の社外取締役であることがネックとなり、起用を見送ったという。政府関係者が明らかにした。
 同会議メンバーの人選は、首相が枝野幸男官房長官、仙谷由人官房副長官や一部の民主党幹部と相談しながら進めた。首相は、佐々木氏を議長に据えたい意向だったが、東芝取締役であることが判明。震災復興のイメージを損ないかねないとの懸念が出され、断念した。
 次いで白羽の矢を立てたのが、首相とも親交がある前東大総長の小宮山宏氏。だが、小宮山氏は東電の監査役で、放射能漏れ事故を引き起こした企業の役員は議長にふさわしくないと判断。最終的に「第3の候補」だった五百旗頭真防衛大学校長に落ち着いた。(2011/04/15-22:54)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011041500944


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よしくんぱっと2011年04月22日 04:24

私からみると、リーダーシップを発揮できる人がリーダーとして選ばれない状態が日本の問題のように見えます。東大出身であろうが、慶大出身であろうが関係ない。選ばれる側より、選ぶ側により根深い問題があるように見えます。

タケセンさんの草の根型活動が、東電のトップ人事や総理選出プロセスに影響を及ぼすようになればいいですね。だいぶ道は長いようですが、それでも底辺のところから出発するしかないのだと思います。

The good you do today will be forgotten tomorrow.
Do good anyway.
    The Paradoxical Commandments
    Kent M. Keith
ーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン
2011年04月22日 12:35

よしくんぱっとさん
Paradoxical であることは、深き思考のために必須だとわたしも思っています。

「東大病」は、客観神話に囚われた形式知がもたらす病ですが、単なる事実学、即物主義、パターン知、形式論理・・・による知の退廃ですので、優れたリーダーが育つことはあり得ませんよね。

リーダーを、東大病である東大教信者が選べば、どうなるか(笑)。
現実的な治療法は、根本的な治療法にならざるをえないのです。それ以外の道がないのですから、「底辺のところから出発するしかないのだと思います」は、まったくその通りです。

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東大による支配で、日本社会は硬直化し、不幸に沈む。「東大―東電―官僚」

2011-04-21 | 社会批評

受験知の絶対化という不幸な日本の知の現状は、「東大病」ないし「東大教」という言葉で表せますが、これが、日本社会の様式主義・権威主義・上意下達という守旧的で非人間的な社会をつくっています。

柔らかさ・しなやかさに欠け、豊かな人間性とは無縁。形式的で、内容のよさ・面白さ・有用性は二の次になる。このエロースに乏しい社会を生むのは、答えの決まっている知=「受験知」の支配(客観神話)にその究極の原因があります。豊かな人間の主観性・生活世界につく有用な知が育たないために、固く緻密な形式が偉いものと思い、中身・内容が後景に退くという逆転が生じてしまうのです。

こういう知の構造をもった社会に生きる人間は、自分の心の内側からという生き方が出来ず、外なる価値を追い求めるほかありません。そのために、強迫神経症者やその予備軍の人間ばかりとなるのです。

原発事故で誰の目にも明らかになったのは、まさしくわたしの言う「東大病」でしょう。愚かしい事態の連続です。
上位者は、安全地帯にいて、右往左往するだけ。実際に頑張って支えるのは、現場の下請け労働者と現場の技術者(専門家)。長年にわたりウソや言い逃ればかりしてきた上位者は、実力もないのに学歴だけで驚くほどの高給を取り、何があっても安泰。
許し難いことです。



武田康弘


以下は、東洋経済オンライン


東京電力・清水社長がリーダーシップを発揮できないワケ
(東洋経済オンライン 4月20日(水)11時12分配信)

東大偏重が目立つ東電

東京電力の清水正孝社長が、4月7日、ようやく業務に復帰した。東日本大震災から1カ月が過ぎたが、清水社長がリーダーシップを発揮することができない背景には、体調面の不安ばかりではなく、社内派閥の影響力が強いために身動きが取れなくなっている可能性が高い。

東電は東大文系が歴代社長を独占、10電力会社の歴代社長の学歴一覧

 東洋経済が毎年7月、全上場会社を対象にアンケート調査を行っている『役員四季報』から役員の出身大学を1989年から2010年調査までの過去21年分にわたって分析、さらに各社の有価証券報告書から電力10社社長の職務経歴をまとめたところ、東電は東大、文系、間接部門出身が力を持つ、硬直的な人事となっていることが分かった。

 歴代東電役員の学歴を見ていくと、東大派閥が非常に大きな力を持っていることが見て取れる。89年には38人のうち26人、7割ほどを東大派閥が独占していた。10年には44.4%に低下している。ただ、会見に登場していた武藤栄副社長はカリフォルニア大バークレー校工学部を修了しているが、東大工学部も卒業しているので実質的には役員27人中13人、2人に1人が東大卒だ。ちなみに清水社長は慶応大学出身だが、私立大学出身の役員が社長となるのは東電では初めてのケースだ。

 次に歴代東電社長の出身学部を見ると、社長の椅子は法学部、経済学部と文系出身者が独占してきたことがわかる。取締役会の構成は文系63%、理系37%と文系が優位で、工学部など理系出身役員は副社長止まりが「お決まり」だ。『役員四季報』89年調査時点以来、理系トップが1人も見当たらないのは電力10社のなかでも東電だけ。

 さらに、有価証券報告書から東電歴代社長の職務経歴を調べた。84年、93年は2代続けて総務部出身、99年、02年は企画部出身、08年から就任している清水社長は資材部出身だ。また、他の電力会社と比較してみると職務経歴の少なさが目立つ。歴代東電社長は5人中3人が1つの部門の経験のみ。最も職務経歴の多い勝俣恒久会長も3部門にとどまる。一方、関西電力の場合は5人中4人が3部門以上を経験、中国電力は特に人事交流が盛んで、山下隆社長は8部門も経験している。

 他社をみると、関西電力は京大が89年も10年も最大派閥。東大と置き換えれば、東電と変わりない。2社とも取締役会の構成は文系63%、理系37%であることも東電と同じだ。ただ、90年代は文系社長だったが、01年から3人連続で理系出身の社長が就任していることが大きな違いだ。

 中部電力は、89年調査時は29.7%と3人に1人が東大派閥だったが、10年調査では9.1%にまで低下。代わって名大比率が36.3%で最大となった。ただ、特定の大学に偏らない役員構成であり、かつ社外役員として女性を登用するなど風通しを良くしようとする意欲が感じられる。理系出身役員が54.5%と文系を上回っていることも特徴的だ。つまり、他社では東電ほど1つの大学の派閥に偏っていない。文系・理系の昇進区別も見当たらず、特定の部署の比重が高いわけでもないのだ。

 東電の清水社長は出身大学、職務経歴から見て、社内に強い基盤を持っているとは考えにくく「強いリーダー」とは言い難い。そもそも、02年に辞任した南直哉元社長は柏崎刈羽原子力発電所のデータ改ざんを隠ぺいしたことが発覚しての辞任だった。それを受けて現在指揮を取っている勝俣恒久会長が02年に社長に就任。さらに柏崎刈羽原子力発電所の運転再開のめどが立たないなかで08年2月に勝俣会長も社長を辞任したために、清水現社長が引き継いだ経緯がある。

 東電トップは3代続けて地震と原発問題に翻弄され続けている。トップがリーダーシップを発揮することが難しいばかりでなく、一刻を争う非常時の対応がまずいという弱点も改善されないままだ。東電にとっては企業体質の改善もまた、大きな課題だ。
(『役員四季報』編集部・山本亜由子 =東洋経済オンライン)

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国会は国権の最高機関ですー行政機関への監視を怠れば、国家はリバイアサンになります。

2011-04-19 | 社会思想

13世紀イギリスにはじまる「議会」は、王と貴族の対立を背景に生まれたのですが、次第に民主主義(=人民による支配)の背骨に成長していきます。
17世紀、王権神授説を掲げて「議会」を軽視し、議員を逮捕しようとしたイギリス国王のチャールズ1世は、議会軍を率いるクロムエルに破れ、裁判にかけられ「国民の敵」として処刑されました。いわゆる清教徒(Puritan)革命です。
「議会」を軽視すれば、「国王」でも逮捕され死刑になる。これは近代民主主義を象徴する事件です。イギリス国会議事堂(裏門の正面)には、今も王を処刑に導いたクロムエルの像が立っています。

日本の明治憲法(「大日本帝国憲法」)は、現人神である天皇の恩寵によって臣民に与えられるという欽定憲法で、「法の前の平等」ではなく「天皇の前の平等」から始まりましたが、それでも「大正デモクラシー」期に至り、「民本主義」(吉野作造)という名称の元に、立憲君主制の民主主義に成長していきました。日本は、戦前においても「議会」は、実際上、国権の最高機関としての地位をもち、天皇も議会の決定に従わされたのです。
「言論の自由」は民主主義の絶対要件ですが、国会議員は、「日本国憲法」(51条)のみならず、「明治憲法」(52条)でも、議院内での発言(演説・討論)に対して、院外で責任を問われることはありませんでした。
しかし、国会での自由な議論により決定するという民本主義の原則は、1940年(昭和15年)に、国会議員が自ら終止符を打ってしまいました。第75回帝国議会における斉藤隆夫議員の「反軍演説」に対して、多くの国会議員は、「聖戦(天皇の戦争)目的を侮辱するものだ」として、斉藤議員を除名したのです。「国会」が、「政府」(天皇制政府)におもねり、言論の自由を自ら圧殺したために、【国家権力】はコントロールする仕組みと力を失って暴走し、ホッブスのいう「リバイアサン」(冷酷非情で不死身な怪物)が出現したのでした。

ドイツでも、ヒトラーが独裁権力をほしいままにできたのは、国会がヒトラーへの「全権委任権」を可決したからです。それにより、立法権をも政府に与えてしまいました。言論の府である国会(全国のあるゆる地から選出された議員)による立法ではなく、政府がすべての決定権をもち、法律を決められるということは、民主主義の死を意味しました。

「日本国憲法」第41条―国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
が、どれほど深く大きな意味を持っているか。わたしは、それを言いたくて、長々と書きました。

現在のわが国は、「検察庁」という一行政機関が、絶大な力をもち、法務省の事務次官及び課長級以上のほとんどを検察官が占めるという異常な事態にあります。村木さんの冤罪事件をはじめとする国策捜査(「官知主義」を守る)が生じる温床は、人事と組織にあるのです。政治が特捜検察にコントロールされてきた日本の現実を変えるには、国権の最高機関である国会の力が必要です。

国会からの行政監視は、民主主義にとって極めて重大な仕事です。わたしは、参議院の行政監視委員会の活躍に期待しています。主権者である国民の目線で、検察庁への監視を強めることが必要です。また同時に、マスコミ人の自覚も促したいとい思います。


武田康弘



コメント

本日、村木厚子さんの参考人質疑ー参議院行政監視委員会

2011-04-18 | 社会批評

本日午後、参議院の行政監視委員会にて、以下のように、村木厚子さんの参考人質疑が行われました。検察庁の不祥事についてです。
   
   午後三時四十分 第四十三委員会 (分館四階)
   行政監視、行政評価及び行政に対する苦情に関する調査
   検察不祥事と行政監視システムの在り方に関する件
   参考人・元厚生労働省雇用均等・児童家庭局長 村木 厚子君


内容は、会議録がネット公開されますので、注目です。公開されたらすぐに記事にしようと思います。


武田康弘



以下は、産経ニュースです。

厚労相元局長・村木さん「可視化、全過程にすべきだ」 参院委
2011.4.18 21:58

元局長の村木厚子さん
 厚生労働省の文書偽造事件で無罪が確定した元局長、村木厚子さん(55)が18日、参院行政監視委員会に参考人として出席、検察が試行を始めた特捜部の取り調べの録音・録画(可視化)について「一部では冤罪はなくならない。全過程にすべきだ」とあらためて訴えた。

 可視化をめぐっては、法相の私的諮問機関「検察の在り方検討会議」が範囲拡大を提言し、江田五月法相の指示を受けた笠間治雄検事総長が一部事件での全過程試行を表明している。村木さんは「改革が進んでいくのでは、と大きな期待をしている」と述べた。

 江田法相も「調書(の存在)が公判であまりにも重すぎるのが問題」と指摘。「刑事司法の在り方全体を変えていきたいので、新たに議論する場を設ける」と説明した。


コメント

「自分を中心に考える、とはどういうことかー小我と大我」から始まる4つのブログとコメント

2011-04-17 | 恋知(哲学)

哲学の大事な問題=「自分を中心に考える、とはどういうことかー小我と大我」をはじめとして、関連する四つのブログと、コメント&白樺mlメールをまとめました。立体的になり、分かりよくなったと思います。ぜひご一読ください。


自分を中心に考える、とはどういうことか。小我と大我。2011-03-22 | 恋知(哲学)

「自己中」といえば、批判されるべきことですが、どんな人でも、まず、自分の「気分」が先立ちます。自分の安全を考え、自分の損得を考えますが、それは悪いことではなく、当然のことです。

自分という言葉の意味には、いまの気分を絶対化する「小我」、という意味と、よりよい「私」をめがけようとする「大我」という意味がダブっています。

いまある自分をそのままにして、その固定した自我から損得を考えれば、他者との関係は、必ず、利用可能か否かでしかなくなります。互いに主体者同士としての相互性のエロースを追求するのではなく、小我である自分が他者を利用するという他者関係にしかなりません。現代の成功者はこのような人が多いために、不幸を生産、再生産しているようです。

物や制度であれば、十分に利用するのがよいことです。利用することで、それらは価値をもちます。しかし、人間は違います。人間関係とは、親子、兄弟、友人、夫婦、恋人、生徒と先生、社員と経営者・・・なんであれ、協力関係・相互関係であり、一方が他方を利用するのではありません。人間存在とは「主体者」の別名ですから、他者を客体視することは不可能なのです。

小我としての自分のために他者との関係をつくるというのが「自己中」といわれるもので、これは、非難されて当然です。自分自身もダメにしていく愚かな思考・言動で、なんともイヤラシイ。

けれども、もうひとつの自分、よりよい「私」をめがけようとする「大我」であれば、これほど価値のあるものはありません。哲学の基本である、深い納得=腑に落ちる知を目がけるのは、この大我です。「なるほどそうか」という認識=了解ですが、それを得るためには、徹底せる自己が必要です。それが大我です。

【自分(大我)を中心に考える】、これは、よく生きるための基本であり、それを貫くことは、自分のみならず、他者の幸福・よろこびに貢献します。自他相互の関係性をエロース豊かな「得」のあるものにするのは、徹底せる自己(大我としての自己)なのです。それは、無限な拡がり、実存の充実から公共世界を生む基盤―条件と言えます。

武田康弘
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つづめて言うと、 (武田康弘)

このブログを約めて言うと、

人間は、自分を中心にして生きることが大事。ただし、その場合の自分とは、小我ではなく、大我のこと。
小我に囚われていると、自分自身の損であり、他者に害を与える。
自他共に利するのは、大我としての「私」。

ついでに言えば、利他的に考える(他者の優先)という思想は弱い思想であり、それでは、真に他者を利することもできない。

というものです。

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異論の立てようもない。(古林治)

『【自分(大我)を中心に考える】、これは、よく生きるための基本であり、それを貫くことは、自分のみならず、他者の幸福・よろこびに貢献します。自他相互の関係性をエロース豊かな「得」のあるものにするのは、徹底せる自己(大我としての自己)なのです。それは、無限な拡がり、実存の充実から公共世界を生む基盤―条件と言えます。』
異論をたてようがありません )^o^(。

幼少のころ、『おてんと(天道)さまが見てるよ!』と祖母によく言われました。
自己中に陥っていたり陰でワルサしたりしてれば、そこでギクッ!
自分の良心は良いか悪いかはよく知っていて、おてんとさまはそれを気づかせてくれるきっかけ、というわけです。

多くのは宗教はもっと明示的に、『○○すべからず!』、『○○すべし!』という形で人々を従わせます。
保守的な発想の人々も、内的な確信からではなく外からの正しい価値、道徳(○○すべからず、○○すべし)を教えるべきだといいます。姪の通っていた高校の教師たちも、教育とは道徳(明示的な禁止や命令)を教えることだと勘違いしていました(>_ 小我=人生の失敗2011-03-24 | 恋知(哲学)

大我としての自分=自己=意識とは、開かれた我=私のことです。
元来、人間の意識とは「志向性」を本質としますから(何かをめがける、何ものかについての意識)、閉じたもの・固定したもの=小我ではありません。

意識の本質とは「自由」である、とは、開かれているという意味です。

自分=自己とは、意識の別名ですから、人は生きている限り、絶えず自分を新しくしていきます。繰り返しますが、自分=意識とは、閉じた固定した世界ではありません。

意識が自己防衛の必要から一時的に閉じで固まっている状態を「小我」と呼びますが、この状態を続けるのは、自己欺瞞(自分で自分を騙す)でしかなく、「歪んだ意識」「不幸な意識」の別名です。したがって、小我としてしか生きられない人の生は、失敗した人生というほかないでしょう。

本来、自分=意識とは、固定させることの不可能な存在で、ゆえに「実存」と呼ばれます。実存とは「自由」の別名です。人間存在=実存は、「自由たるべく宿命づけられている」(サルトル)ために、人は、その言葉と行為に全的に「責任」を負っています。人間は、自由であるゆえに「責任」から逃れることができないのです。

自分につく、自分を中心に、というのは、一つの立場=思想ではなく、人間が人間として生きるためには、大我としての自分(=意識)を原理とするほかにないのです。石橋湛山の言う「我」「何をおいてもまず自己を考える」「明瞭にせられたる自己から出発する」「自己の立場についての徹底せる智見」(『哲学的日本を建設すべし』1912年・明治45年6月『東洋時論』社論・湛山28歳))というのは、そのような意味での我=大我のことだと言えます。

武田康弘
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ギクッとしました。 (染谷裕太)

これ、読んでギクッとしました。
確かに、その時の気分が絶対化されて、それを中心として行動した時に
自分でも「何やってんの?」と思う言動になることがあります。
僕は自転車屋で働いていますが、お客さんに対する対応が回りくどくなったり、
親切とはいえない対応になったりする時があります。
そういった時、必ず意識は「小我」の状態でした。
逆に、意識が固定化されておらず、目の前のことやお客さんが、
何を求めているのか察知し、どうするのかをその場その場で臨機応変に
対応しようとしている時、頭はよくまわり、発言や行動はシンプルになり、
保身の意識はなくなり、自分を中心としながらも「オレがオレが」という意識は
消え去り、簡単に言えば活き活きと生きられます。
そうなれば良い意味で、周りを気にしなくなり
そして、良い意味で周りを気にするようになります。
ただ、終わった後はかなり疲れますが(笑)
まだまだ不徹底なので頑張らねば。

染谷
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染谷裕太さん

「周りを気にしなくなり、
周りを気にするようになります。」

うん、言語表現すればこういう矛盾した言い方になるほかないですね。

このコメントは、とても明晰。「哲学する」ことの見本のような文章だと思います。

学者の哲学(哲学史の研究者)とは異なり、生きたほんものの思考です。

武田康弘
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武田様

自分の「小我」にとことん向き合い、その根本にあるものを良く知ることが出来るようになれば、
真理が見えてきて全体が見え、「大我」につながっていくのでしょうか?
とても難しいですが、自己への向き合い方と大切さが少し具体的に見えてきたような気がします。
間違っているかなあ?

楊原
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楊原さま、みなさま

武田先生の仰有ることを伺って居ると小我と大我の別がわかってきますね。 真善美 どれがほんとのことか考えて、どれが善い事かをおもい、美しい事美しくあることを愛する事を感じ取ることは 、生きていてだんだん深くなってきているような気がします。そうなると、そうでないことを許すことも出来るかと思います。80過ぎのわたしが言うことなので、間違っていたらごめんなさい。

清水光子
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楊原様 皆様

誰でも、幼い頃から、自分の都合や損得で行為しますが、同時に、なにがほんとうか?なにがよいことなのか?も考えます。

前者は小我、後者を大我と呼べますが、それは、誰でも両方あります

真善美を想う心(=大我)は、それを広げる生き方がいいよな、という自覚があれば、その方向に行くでしょうし、その自覚が弱ければ、小我という狭い世界が中心になるでしょう。

小我ばかりでは、「私」の人生が広がらず、つまらない。だから、大我の世界を目がける、そんな感じです。よいや美しいもの・ことに憧れ求める心が小さいと、自分が惨めになると思います。

以上は、わたしの用語法ですが、「憧れ心をもって生きる自我」を大我と呼びます。
以前に書きましたAの次元(理念・ロマン)とBの次元(現実)という階層の相違と重なる話です。

武田康弘
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「市民・ネット・良心的出版社」(民知)vs「官僚・マスコミ・独占資本」(管理知)2011-04-05 | 恋知(哲学)

官僚が市民の上にたつ官治主義、
守旧的な官僚制度を支える特捜検察、
検察からのリークを流し、市民を欺くマスコミ、
官との癒着で公共性をもたない独占資本・・・

国民を「管理主義」(≒意味を問わない遵法主義)で統制することが善だと信じる愚かなイデオロギーは、人間の息をつまらせ、自由と悦びを奪っています。

こういう「市民の公共」(ほんらい「市民の公共」以外の「公共」はありません)に反する思想とシステムは変えなければなりませんが、そのためには、権威主義(官僚主義・東大主義)をうむ生き方を改める必要があります。多面的・多層的な情報と開かれた精神の下に、「自分で考え・対話し・決める」という基本を確固としたものにすることが、何よりも大切です。

誰かさんが生きるのではなく、わたしが生きるのです。わたしの思考、わたしの判断、わたしの行為、問題なのは、わたしです。

歪んだ現代思想は、「わたし」の前に「他者」をたてますが、豊かな人間関係をうむための基本は「わたし」にあるという原事実を曖昧にしたのでは、すべては砂上の楼閣に過ぎません。キーは、「わたし」の捉え方にあります。単なるエゴという「小我」ではなく、「大我」としての「わたし」に付くことです。

わたしに付く「民知」の考え方・生き方が、巨大な管理主義を底から破るのです。権威を支え、惰性態を生む「官僚・マスコミ・独占資本」は、「わたし」の前には無力です。

武田康弘
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武田さんの言われる通りだと思います。
マイケル・サンデルがきっかけと思われる最近の哲学ブームに乗って、本屋さんには多くの哲学書が並んでいますが、ほとんどは、「わたし」の前に「他者」をたてる奇妙な思想に見えます。
でも、現実にはほとんど何の役にも立ちません。その思想自体を絶対化して高所から傍観者的に人々を見下ろすだけですから。
知に対する姿勢が根本的におかしいのです。せいぜい特権意識を高揚させるだけでしょう。
とてもじゃないですが、【権威を支え、惰性態を生む「官僚・マスコミ・独占資本」】(武田)には太刀打ちできません。むしろ取り込まれるだけでしょう。
官・学・財・報・政の馴れ合いによる支配構造をぶち破るのは、やはり私たち一人一人の自立と鍛錬のほかに道はないと私も思います。
大我としての「わたし」たちが生み出す民知にこそ希望あり!

古林治
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AC=反復「道徳」の不愉快と、金子みすずの詩2011-04-06 | 社会批評

ここまで執拗に繰り返されると、もやは「言葉と映像による暴力」とさえ感じられ、とても不愉快な「AC」というCM。

集団同調を強制するかのような「道徳」の押し売りは、許し難いもの。

その中で、金子みずずの詩だけは、何度繰り返されても、不愉快どころか、気持よい。よい音楽のよう。

彼女の詩がいかに優れているか。文学=詩的言語の理想に到達していることを知った。

外なる価値意識に少しも汚されずに紡がれる声の偉大さを。


武田康弘
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「わたし」として生きる (染谷裕太)

学校の道徳はもちろん、会社でもテレビでも新聞でも、
人に親切にするとか、人に迷惑をかけないとか、
他者をたてることは教えられても、
自分がどのように思い、考えるかということの重大さを教えられたことは
たしかなかったと思います。
あったとしてもそれは弱く、「自分の意見を持とうね」とか
「周りに流されないように」とかその程度のもので
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと
自覚させられるものはありませんでした。
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと意識させられたのは
タケセンの塾(白樺教育館のソクラテス教室)のみです。

誰かに親切にしたり、気遣ったりするのは良いことだけど
そうやって他者を思っているのは一体誰なのか?・・・。
出発点となっている「わたし」を自覚せずに、他者を先立てたら
一体「わたし」はどこにいってしまうのか。
そうやって自己欺瞞をし、それが当然のようになると
口先では他者のためといいつつ、
心の奥底では自分ためという、乖離がおこり、
他者のためどころか、その逆になるのではないか。
宗教の勧誘なんかが典型だと思います。
消せないはずの「わたし」を消した上で言う
「あなたのため」という言葉の気持ち悪さ。

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原発関係者が霞が関で豪華な食事会―招待された奇妙な体験談。

2011-04-17 | 社会批評

わたしの古くからの友人で鉄のクラフト作家として著名な松岡信夫さんは、奇妙な体験を話してくれました。

昨年、元役人の隣人から、突然、ご馳走するのでと言われ、「霞が関」に招待されたのだそうです。

行くと、東京を一望できるレストランには、原子力関係の大学教授、官僚、政治家などが集まり、とても贅沢な食事会が催され、

原理力発電は「安全」という話がされていたが、誰が何の目的で豪華な食事会を催しているのか分からず、お金がどこから出ているかも分からなかった、とのこと。

「気持ち悪いね~、なんなんだろうか?」と松岡さんは訝っていました。


武田康弘


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Cmoon

勝俣会長が、記者会見でフリーランスの記者に詰問され暴露しましたが、地震が起こった日は、マスメディア幹部OBを複数連れて中国旅行中でした。
「費用を負担しているのか?」の質問に
「全部ではないが一部負担している」と。

途中で記者クラブ記者の妨害が入ったり、広報担当が遮ったりで、中途で終わってしまいましたが。

その後の週刊誌記事とその記者のブログで、慣例であること。メディアの現役幹部が参加することもあること。参加費用は5万円であることを知りました。

ご紹介の例も含めて、酒池肉林的な接待で「安全神話」を補強しようとする様は、まるで”地に堕ちた収穫者”を自演しているようなものです。

子供向けには「プルト君」アニメ。
なんと小中学校には、「安全神話」が描かれた内容の副読本まで配布されているとか。
そして大人には酒池肉林……

まるで中世を舞台にした、堕落社会を描いている映画を見ているようです……
経営陣総入れ替えでは済みませんね。いったん解体するしかなさそうです。
それにしても、自覚に欠けるのはマスメディアです。
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昨日のアクセス数ー4627件!

2011-04-15 | その他

昨日のアクセス数ー4627件。

MIXIの友人がツィートしてくれたために、ビックリするようなアクセス数になりました。
改めて、ネットの力を実感しました。
訪問下さった方、コメントを寄せられた方、ありがとうございます。これからも、ぜひ、お付き合いください。

思索の日記
ブログの開設から 752 日

4月14日のアクセス数 閲覧数:11,281PV 訪問者数:4,627IP
順位: 29位 / 1,567,145ブログ中 (前日比 )
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武田康弘
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侮蔑と差別の言葉を連発する石原都知事をわたしは許しません。

2011-04-15 | 社会批評

侮蔑と差別の言葉を連発する石原都知事をわたしは許しません。

文学的レトリックを現実政治の場に持ち込むことは極めて危険です。

それは、民主政治を不可能にするからです。

人間、冗談や軽口を言ってよい場と、決して言ってはならぬ場があるのです。

挑発的言辞、人をバカにした言辞、暴力的言辞を繰り返す人間に大きな政治的権力を持たせて平気な市民であってはいけません。

わたしは、石原都知事のような言動を厳しく批判する者です。

民主主義は、国民の不断の努力によって維持されるものだからです。


武田康弘
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「わたし」として生きる  染谷裕太

2011-04-14 | 恋知(哲学)
「わたし」として生きる (染谷裕太)

学校の道徳はもちろん、会社でもテレビでも新聞でも、
人に親切にするとか、人に迷惑をかけないとか、
他者をたてることは教えられても、
自分がどのように思い、考えるかということの重大さを教えられたことは
たしかなかったと思います。
あったとしてもそれは弱く、「自分の意見を持とうね」とか
「周りに流されないように」とかその程度のもので
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと
自覚させられるものはありませんでした。
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと意識させられたのは
タケセンの塾※のみです。

誰かに親切にしたり、気遣ったりするのは良いことだけど
そうやって他者を思っているのは一体誰なのか?・・・。
出発点となっている「わたし」を自覚せずに、他者を先立てたら
一体「わたし」はどこにいってしまうのか。
そうやって自己欺瞞をし、それが当然のようになると
口先では他者のためといいつつ、
心の奥底では自分ためという、乖離がおこり、
他者のためどころか、その逆になるのではないか。
宗教の勧誘なんかが典型だと思います。
消せないはずの「わたし」を消した上で言う
「あなたのため」という言葉の気持ち悪さ。


※ タケセンの塾=『白樺教育館』の「ソクラテス教室」
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