思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

皆に共通する立場は、ひとつだけあります

2007-01-18 | 日記

例えば、官僚の立場で考える、学者の立場で考える、技術者の立場で考える・・・・
ということでは、普遍了解性は得られません。
学者の常識に基づいて考えれば、学者仲間には通じますし、技術者にしても、官僚にしても、その社会の通念で考え・語れば、それぞれの世界の住人には通じるでしょうが、ふつうの多くの人の共通了解は得られません。
ひとりでやってれば~、という「集団オタク」の世界から抜けられずに、独我論の世界に陥るしかありません。

では、どうしたらよいか?
皆に共通する立場に立つことです。それ以外の答えはありません。
では、皆に共通する立場とは何か?
生活世界の現場から考え・話し・行為することです。
どのような立場の人にも共通するのが生活世界です。生活世界を持たない人はいないのですから。
生活世界から立ち上げて、生活世界で通用するような言葉、生活世界に受け入れられるような態度で語り、行為することです。

何かを語り、何かをなそうとする時、この原理中の原理をよく自覚し、実践することがまず何よりも先に求められます。この原理から逸脱するような歪んだ「エリート」意識に囚われていると、何を考え、何を語り、何をしても、空しい独我論の世界から抜けられません。
たとえ、言葉・思想として独我論や自我主義を批判しても、それを語る人間の「語る言葉や態度」が上記したそれぞれの世界の枠内のものであれば、つまるところオタクに過ぎず、普遍了解性は得られないのです。

人間や社会の問題について考え、解決し、よい人生を生むためになにより必要な「対話」は、生活世界という共通項の中でするほかありません。このことの深い自覚があれば、対話・討論は驚くほどの成果を生むはずです。
民知に基づく公共哲学は、公共政策の専門家を養成するという「東京大学公共政策大学院」構想の思想を元から断つものです。エリート主義をその発生源から消去し、ふつうの多くの人々の「私」から発する公共性を担保するのが、ほんらいの公共哲学です。けだし、公共性とは、ふつうの市民を主体者にしなければ成立しない概念なのですから。キーワードは、生活世界です。

武田康弘



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