鋭利な感覚神経と強い直観力をもつ白樺派の志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれましたが、大学時代のノートに以下のように記しています。1906年(明治39年)、23歳の時です。
「天皇とは一体なんだろう?どうして何の為に出来たのだろう?誠に妙なものだ。こんな奇妙なものがなければならないのかしら?天皇というのは恐らく人間ではあるまい、単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)をゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、そういう人から爵位をもらって嬉しがる、嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々(こっけい こっけい)。・・・・・・・・」
奇妙なもの 人間ではあるまい、単に無形の名らしい。
という言い方は、さすがというほかありません。文学者の鋭い直観力で、見事にひとことで近代天皇制の本質を穿(うが)っています。中身・内容のない単なる「名」」であるゆえに「形」も定まらない。だから、人間ではなく、単なる無形の名に過ぎない というわけです。
天皇とよばれる人は、その人固有の性質をもった一人の人間 (実存)ではなく、明治政府によって作られた近代天皇制というシステムにはめ込まれた人で現人神(あらひとがみ・生きてる神)と規定されました。
これは、吉田松陰が、後期の水戸学や国学を用いてつくりあげた【天皇教という国家宗教(国家神道)】で、そのイデオロギーに感化された長州藩の若者(下級武士)たちの過激な思想と暴力を支えた「主義」です。
したがって、天皇というのは、個性をもった一人の人間ではなく、「単に無形の名」なのです。現代の言葉でいえば、「記号」です。記号化された人間ですから、奇妙なもの、であるわけです。気の毒とも言えますが、その名により、数々の戦争や残虐が行われたのですから、評しようもない話です。
「記号学」という学問は、政治に利用され、人々を特定の方向に導くための研究に使われたりもしています。電通などの大手皇国代理店ではなくて(笑)広告代理店において企業や政党(自民党など)のCMづくりに用いられます。人間は、ある言葉や動作、儀式や空間、音や音楽などを見聞きしたとき、自動的に脳は、さまざまなシンボルをつくります。そのシンボルをもとに思考は進みますので、記号学では、どのような言葉や儀式や空間や音をつくれば、特定のシンボルを脳内に生じさせることができるかを研究します。イメージの世界を支配する方法とも言えます。
わたしたち日本人は、明治政府が考え決めた「一世一元の元号制度」(明治以前にはなかった新制度)により、日々、自動的に天皇と一体となっている時代名を使います。わたしの生まれは、昭和〇〇年で、今年の5月からは令和元年、平成という時代は云々だった、と言いますが、ほんとうは、時間がブツギレになり、まるで物の存在のように実体化されるのは、おかしな話です。日本だけに固有の時間ー時代がある、というわけですが、そういう意識を生じさせるのは、元号という記号のおかげ!です。そこから、「日本人」という特別の存在がある、という思いも生まれます。
あまたの記号で、日本最大のものが、「天皇」という言葉でしょう。即位の礼と大嘗祭という儀式を行い、天皇という役を担うことになると、個性をもった一人の人間は天皇という記号へと変わります。この記号は、おそろしいまでの力を放射し、日本人は、この言葉=記号を聞くと完全な思考停止になります。天皇という概念や天皇制について考えることはタブーとされ、マスコミも天皇制の検討は一切しません。人々は、この記号により無意識領域まで管理されてしまい、思考は無となります。
では、なぜ、天皇という記号が、これほどまでの威力をもつことが可能なのでしょうか。
それは、天皇教という儀式宗教が、内容をもたないからです。特定の内容はなく、三種の神器という秘密めいた品があり、万世一系という神話(もちろん真っ赤な嘘)があり、さまざまな秘密の儀式があります。天皇は1年間に200以上の儀式を行い、その多くの核心部分は秘密です。このようにたくさんの儀式があり、中身がないのが天皇教の特徴です。
内容・中身がないのですから、批判のしようがなく、対立もおこりません。「型」=「単なる無形の名」(名だけがあり内容を伴う形はない)があるのです。
厳かな仰々しい儀式があり、その儀式の型は、代替わり、死去、米の豊穣、安心・安全、及び紀元節の祝いや神武天皇を実在の人物とする儀式などですが、儀式の真の目的は、天皇という記号の神秘性と権威性を示すところにあります。天皇とは吟味・検討を許さない超越的な存在であるという想念を人々に浸透させ、有り難いものと感じるように導くわけです。内容は、その時々の世俗の価値に合わせて変わりますから、戦前は皇軍の顔で戦争のシンボルでしたが、今は平和の象徴です。柔軟!?でなんにでもなれます。
「どのような言葉を使い、所作をし、儀式を行えば神秘性と権威性を高められるか」その追求に特化して生き延びてきたのが天皇家ですから、ずっと昔から記号学の実践的研究に取り組んできた家系(血のつながりは途切れているが)といえるかもしれません。また、天皇家にしか使われない数々の特別な言葉=敬語をつくることで、世俗を超越した天皇というイメージをつくり出し、無言のうちに人々に頭を下げさせます。さらに、戦後の象徴天皇制においては、親しみをつくる言葉や所作や行為を追求し、その基盤を強める努力もしてきました。
この方法はとても優れていて、上位者は、上位者であることを示せば、自然に勝てる仕組みとなりますから、日本ではみなが用いています。そのために、中身・内容の追求はおろそかになります。生き方の探求や実存の冒険がなく、わたし固有の意味充実の世界を拓く営為がひどく乏しくなります。個々人から立ち昇る精神の自立がなく、組織の中で決められた役割を果たすのが人生の意味となるのです。これは、人間管理の究極の形態と言えます。内容は乏しくとも形式だけが立派という生き方に誘導されます。
恋知(フィロソフィー)の営み=実存としての生はありません。
明治政府がつくった近代天皇制は、いまもなお象徴天皇制として生き残っています。天皇という役を担う人の人権を奪い、その代わりに超がいくつもつく特別待遇をし、皇族と呼ばれる一族を縛り、一人の人間として生きる道を閉ざしています。思想や発言の自由はなく、参政権もなく、個人の尊重もありません。数々の権利がない分、義務もなく、多額の収入(すべて税金)はありますが、納税の義務は果たしません。それは、天皇は国籍を持たないからです。苗字はなく、住民登録もなく、日本の法律(実定法)は適用されませんので、法的には日本人ではなく、宙に浮いた存在です。
こういう説明不能の天皇という存在が日本人全員を統合する象徴!? この理不尽なシステムを維持するには、永遠に「単に無形の名」である記号に頭を下げ続けさせる努力=染脳・占脳を続けるしかありません。
天皇を国事行為から解放して一人の人間としての人権を保障し、文化的行事への貢献者とし、いまの数々の国事行為は、近代市民社会にふさわしい形に簡略化し、大統領(元首であり、政治権力はもたないが、首相の国会解散への拒否権はもつ)が行うのです。天皇制から共和制へのスムースな移行です。市民精神にも基づく話し合いで、混乱なく天皇を「単に無形の名」から解放し、明治以前の日本の伝統に戻し、同時に現代にふさわしい自由な生活を保障するのは、日本の名誉革命(市民革命)になります。住まいは、徳川家の城である江戸城ではなく、ほんらいの京都御所となります。それに伴い江戸城(皇居)は、公共の公園として国民みなのオアシスに変わります。首都東京=千代田区の真中に自然がいっぱいの広々とした公園がある国は、世界に誇れる民主主義=市民主権の国です。なんと素敵なことでしょう~~~~~~
天皇教の呪縛から解放された国民と天皇家は、自由・平等・友愛の精神を現実に自らのものとし、生き生き伸び伸び、型ハメ、束縛、上下意識から自由になり、みながそれぞれの個性を大胆に肯定して生きる国へと変わります。
※天皇家にのみ伝わる宗教=儀式をどのようするかは、最終的には天皇家の人々の判断です。簡略化したり、不要と思われるものを廃止したり、あるいは、盛大に行うか、それは、信教の自由で、天皇家の問題です。ただし、税金を用いるのは、日本国憲法に反しますから、不可能です。(憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)