思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

17世紀デカルトに始まり、20世紀ハイデガーに終わった「近代西欧哲学」(キリスト教の世俗化)

2018-11-18 | 恋知(哲学)

 「人類思想の3分類と恋知」の3番目(一神教という思想)の部分の説明に「近代西欧哲学」を俯瞰した説明を加えました。

 

 最後は、唯一神への帰依を説くキリスト(神の子)であり、その弟分として生まれたムハンマド(神の教えを伝える者)です。この二つの世界的な兄弟宗教は、ユダヤ民族の国家宗教である「ユダヤ教」から生まれたものです。ユダヤ教の宗教改革として生まれたのがキリスト教であり、その弟分がイスラム教です。この二者の近親憎悪の激しさは、戦い(殺戮・略奪)の歴史=十字軍の長く凄まじい宗教戦争として有名です。

 言うまでもなく、絶対神(創造神)に従い信仰するという思想と、上記の実存思想(アテネのソクラテス・ネパールとインドのブッダ・中国の老子)とは、根本的に異なる考え方です。

   キリスト教会は、ギリシャ哲学を換骨奪胎することで膨大な神学体系をつくりました。スコラ哲学と呼ばれますが、その改革として出てきたのが17世紀のデカルトに始まる近代西ヨーロッパ哲学です。西欧の学問を明治に直輸入した日本では、哲学といえば、この思想を指しますが、それでは一面的な思想の見方になります。神学の改革としての哲学と言えども、デカルトは代表作の「方法序説」の二部で、神の実在証明を書いているのです。

 近代西欧哲学は、本質的にキリスト教の世俗化としての理論体系ですので、スコラ哲学がめがけたもの=人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述しようとする意思を受け継いでいます。そのために、理論は複雑で難解となる宿命をもち、言葉の構築物としての論理の体系となり、カントからへーゲルに至るドイツ観念論でピークに達しました。人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述するというのは、宗教の宣託のようなものでない限り出来えない不可能事ですが、その出来えないことの努力を続けたのが西欧の「近代哲学」だとも言えます。その歴史は、20世紀最大の哲学者といわれたハイデガーが、1966年に行ったシュピーゲル対話で幕を閉じたと言えるでしょう。

  シュピーゲル対話では、ハイデガーは、哲学にはもはや何も期待できないと言い、従来の哲学の地位はサイバネティクスが占め、諸科学が哲学の替わりをする、と主張しました。哲学は無力だと繰り返し述べ、われわれ人類にできることは、何百年後かに現れる「神」のようなものを待つだけだ、と言いましたが、これは、ハイデガーの存在論(人間と世界のトータルな解明)の挫折であり、「哲学の敗北宣言」と言えます。

 17世紀に始まり20世紀に終わったのが西欧近代哲学と言えますが、この西欧哲学(キリスト教という一神教がバックボーンにある)は、ルネサンスの運動で明らかなように、古代エーゲ海文明への憧れに端を発していて、ギリシャのフィロソフィー(恋知)を換骨奪胎してキリスト教神学をつくり、その上に乗ったものでしたから、相当な無理の上に建てられた思想(形而上学)の建造物であったわけです


武田康弘

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実存  実存思想  とは何か?

2018-11-13 | 恋知(哲学)

実存ということばを西欧近代思想の文脈で定義するのはやっかいです。
キルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、サルトル・・・・は、「実存」を各自が異なる意味で使っていて、厳しく対立もしていますので、統一した定義は困難ですが、

わたしのいう実存とは、日常語の延長としての平明な意味ですので、誰でもが了解できると思います。

人間は、物の存在とは異なり、意識存在です。そして、一人ひとりの人間は異なる意識をもつので、単に人間存在とは言わず「実存」と呼ぶわけです。各自が違う存在であることを前提にして人間を見るのでこの言葉を使います。

人間は、自分をとりまく世界を見て、なにかしらを感じ、想いをめぐらしますが、それは人それぞれです。とりまく世界だけでなく、自分自身も対象として見たり、分析したりします。
ある物事・事象を皆がどう見るか  ではなく、わたしにどう見え・
どう感じられか  につくことが、思考の「はじめの一歩」となります。

正直なわたしの心につくことで、「何がよいのか・ほんとうなのか」を考えることが始まります。みなが言うからという「一般的」な答えは、思考の出発点にはなりません。ほんとうに私が思うことから始めないと、ウソを前提にすることになり、思考は泥縄となってしまいます。

そういうわけで、一人ひとりが、ありのままのわたしを自覚する営みによって「実存思想」はスタートします。自分を自分でだます自己欺瞞の人だと、実存思想はいつまでも始まりません。なにかしらの主義や宗教ではなく、わたしの思い(感じ、想い、考える)からはじめ、そこから逃げないことが必要です。

一般的な学問あるいは権威や常識を前提にしないで、私=実存につくことではじまるので、実存思想と呼ぶわけです。「勉強」という既存の枠を優先する外的な秩序と世界ではなく、私の興味や関心によりはじまる「学習」(わたしが学び、習う)という内的な秩序と世界をつくるのが実存思想です。



武田康弘

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言語論の見方(言葉が先にある)を了解すれば、ソクラテスの「イデア論」(フィロソフィーの核)は分明になります。

2018-10-17 | 恋知(哲学)

以下は、大学クラスの授業で使う「まとめ」です。


 言葉さきにありき、という言語論の見方を了解すれば、ソクラテスのイデア論は分明になります。

 わたしを取り巻く世界のさまざまな「もの」や「性質」や「出来事」をわたしが認識できるのは、言葉によってであり、もしも言葉がなければ、世界を知ることは不可能です。言葉による区分けがなければ、ものごと・できごとの意味をつかむことができません。言葉によって世界を分節し、さらに言葉がもつ概念を組み合わせたり、ずらしたり、次元分けをすることで、わたしは世界の意味を知ることができます。

 そういう意味で、言葉が先にあるのです。ものごと・できごとは、言葉がなければ意味を持たず、意味が分からなければ、人間にとって存在しないのと同じです。さまざまな物質がある、と言っても、言葉によりそれが切り分けられ、秩序づけられないと混沌とした塊にすぎません。さらに名詞ではなく概念語(愛とか誠とか善美とか真実とか)は、言葉そのものです。ものごと・できごとがある、と思うのも、それが言葉で言われる(定義される)からです。

 「なにかがあって、言葉で名づける」というのではなく、言葉で名づけたから、あるものやできごとが、そのようなものとしてある(とイメージされる)のです。言葉によって意味付けられないものごとは、人間にとっては存在しないのと同じです。これを明晰に認識すれば、難解と思える「イデア」論(ソクラテス・プラトンによる)も、簡明になります。

 一匹一匹の馬は存在しない、ほんとうに存在するのは、馬のイデア(原型・理念・典型・見本)だ、と主張するイデア論は、へんてこな話に聞こえますが、冗談ではないのです。馬という言葉の意味があってはじめて、人間はそれをそれとして認識できるのであり、【言葉が先にある】という言語論の主張と同じことです。人間にとって「存在する」というのは、言葉で名付けられた意味が存在するのであり、ただのものや事態というのは存在しようがないのです。
 
 「善美のイデア」というと、とても難しく聞こえますが、実は簡明です。誰でもが善美という概念語を聞いて、なんとなくイメージが浮かびます。サルに言葉を教えても個物だけであり、概念語は分かりませんが、人間はよいとか美しいいう言葉を使うことができます。善美をイメージし、それに憧れることができます。そのイデアの内実を、明瞭な言葉で定義するのは不可能ですが、そのイメージはだんだん豊かになり、ふくらみます。ソクラテスの言うように、善美のイデアそのものを知ることはできませんが、それを憧れ求めることは可能で、その営み=フィロソフィ-(恋知)こそ、人間を人間にする、という訳です。

 これが言語論からみると簡明になるイデア論の意味です。



 いま述べたように、人間の認識にとっては、言葉が先にありきですが、それは、下手をるすると「言語中心主義」の陥穽にハマりますので、要注意です。

 言葉が先だと言うのは、言葉が言葉として自立する、という意味ではありません。例えば、「石」という言葉の意味を言葉で定義することは不可能です。実際に見て触ってという体験がなければ、「石」という言葉の意味はわかりません。辞書で「石」を引くとどうでるか?これは大笑いの定義ですので、ぜひ引いてみてください。「石」に限らず、大多数の名詞は、体験がないと、意味は定義できないですし、その他の言葉の多くも、体験として五感で感じ知るという基盤がないと、宙に浮いたような話になり、意味が確定せず、内容は曖昧なものとなります。

 椅子とか机という簡単な言葉も、それを人間の用途から外して、客観的・物質的に定義することは不可能です。言葉は、人間の目と耳と鼻と口と皮膚で感じ知るという体験=直観と結びついていますので、生きて作用するのですが、それが弱いと言語だけが独り歩きして、意味不明の世界に入ります。五感をふるに用いた心身全体での会得という人間の生の究極の基盤が失われてしまったら、元からアウトです。言語明晰意味不明の迷宮に昇天してしまいます。

 人間の認識は、①運動・感覚次元と、②想像力次元と、③言語次元とがよく連動することで、価値のあるものになります。言語次元ばかりに集中すれば、認識は脆弱で不健康なものとなり、偏向していきます。日々の経験という生きる土台が希薄になれば、言葉もまた軽々しく価値の少ないものにしかなりません。生活世界の体験から感じ、想い、考えることがなければ、すべて砂上の楼閣です。言語の使用を可能にしているのは、広大なイマジネーションの世界ですが、それを開発する努力を怠ると、固く狭い言葉に縛られて自由を失っていきます。

 「言葉さきにありき」であるゆえに、言語の呪縛力は凄まじいものです。それを片時も忘れてはなりません。生身の生きた人間が言葉を用いて思考し、行為し、対話する、というほんとうの現実から離れてしまうと、おかしな観念の虜になり、人間の生はスポイルされてしまいます。


武田康弘

 

 

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人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」

2018-10-10 | 恋知(哲学)

  人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」

 わたしは、神は唯一なり、神は実在する、神の声、神に従う、などという一神教は、嫌いというより、困った思想であると思っています。
 その絶対神=超越神を真似て「疑似一神教」(天皇現人神)をつくった伊藤博文らの明治維新の過激な人たちの思想は、愚かで危険だと見ています。少なくとも近代社会の常識から見れば、異様な思想であることは明白です。

 こういう異様な心=何かに憑りつかれた精神に陥ることのないように注意し、生き生きと自由で健康な精神=自己判断能力を育てようとするのが、現代の教育の基本的な使命であることは間違いありません。

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  では、現代にまで影響を与えている人類の三つの思想について概観してみましょう。

  歴史的に一番古いのは、紀元前6世紀に現れた孔子です、それは儒学となり、その流れは、朱子学や陽明学を生みました。陽明学の実践・行動重視の考え方は、+にも-にも働き、最近では盾の会をつくり市ヶ谷自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫を支えました。

  元々、孔子は、当時すでに崩れていた「君主政治」を理想と考えていました。君主政治に戻すべきと考えていた孔子は、君子が踏まえるべき道徳を示しましたが、孔子の死後は民も踏まえるべき考え方・生き方とされ、『論語』として知られます。それは、含蓄に富む言葉や普遍的なよきものに通じる思想も持ちますが、全体としては、上位者に仕える人間の生き方を示しています。孔子の思想は、権力と財力をもつ君子の側の道徳でしたが、持たざる者の道徳ともされた為に、被支配者が耐え忍ぶという逆転が生じたわけです。日本の明治維新の尊王思想(天皇現人神)を支えた水戸学も儒学です。上下意識に基づく道徳であり《人間存在の対等性に基づき互いの自由を認め合う》という民主主義の社会には適合しません。

 しかし、いまなお力をもつのは、会社や学校や運動部などで民主化が遅れていて、古い全体主義的な組織運営が根強く残っているからです。日本文化が、内容に乏しく「形と序列」の二文字で収まるのも、儒教・儒学の深い負の遺産と言えましょう。

 

 次には、孔子に遅れること80年、世界の三か所で連続して誕生したのが「実存思想」です。紀元前5世紀にエーゲ海沿岸のアテネに生まれたソクラテス(BC469年)と、インド(ネパール)に生まれたブッダ=釈迦(BC463年中村元説)と、中国にうまれた老耼(老子・BC320年ころ?)。ここで詳しく説明はできませんが、異なる点はあっても、みな、人はどのように生きるか、を国家とか全体の都合(支配者の利害)で考えるのではなく、一人ひとりの心の真実から立ち上げた思想として重なります。

 絶対とか厳禁という考え方とは無縁で、誰かに従うのではなく、各自の思考力と対話により優れた考えを導くというディアレクティケー(問答法)により普遍的(自他ともに深く納得できる)考え方を目がけたのがソクラテスです。

 人はみな唯我独尊として生まれてきたというブッダ(釈迦)は、すべては縁により起こるという真実を明らかにし、究極の拠り所は自分であり法則である(自帰依ー法帰依)という根本思想につき、慈悲に満ちています。

 ソクラテスの思想とブッダの思想は、親近性をもち、基本思想が重なります。それは、両者ともアーリア人と現地人との混合・混血の上に成立しているという事情によるのでしょう。生年も数年しか違いません。両者の死後、紀元前3世紀にはギリシャ王たちと仏教者とは盛んに交流をもち、多くのギリシャ王が仏教に帰依していますし、内容豊かな対話も残されています。超越的な「神」という概念を持たず、人間の思索の力を信頼して対話をする両者は、知恵の協奏といえます。

 中国の老子は、無為自然をkeywordに、儒学を批判して差別や権力的な人間関係を大元から断ち、女性原理につくことで平和をつくるエコロジーとフェミニズムの深い思想を展開しました。これら三者は、みな、異なる一人ひとりの人間性を深く肯定し愛する思想で、もっとも根源的な【実存思想】と言えます。

 

   最後は、唯一神への帰依を説くキリスト(神の子)であり、その弟分として生まれたムハンマド(神の教えを伝える者)です。この二つの世界的な兄弟宗教は、ユダヤ民族の国家宗教である「ユダヤ教」から生まれたものです。ユダヤ教の宗教改革として生まれたのがキリスト教であり、その弟分がイスラム教です。この二者の近親憎悪の激しさは、戦い(殺戮・略奪)の歴史=十字軍の長く凄まじい宗教戦争として有名です。

 言うまでもなく、絶対神(創造神)に従い信仰するという思想と、上記の実存思想とは、根本的に異なる考え方です。

 キリスト教会は、ギリシャ哲学を換骨奪胎することで膨大な神学体系をつくりました。スコラ哲学と呼ばれますが、その改革として出てきたのが17世紀のデカルトに始まる近代西ヨーロッパ哲学です。西欧の学問を明治に直輸入した日本では、哲学といえば、この思想を指しますが、それでは一面的な思想の見方になります。神学の改革としての哲学と言えども、デカルトは代表作の「方法序説」の二部で、神の実在証明を書いているのです。

 近代西欧哲学は、本質的にキリスト教の世俗化としての理論体系ですので、スコラ哲学がめがけたもの=人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述しようとする意思を受け継いでいます。そのために、理論は複雑で難解となる宿命をもち、言葉の構築物としての論理の体系となり、カントからへーゲルに至るドイツ観念論でピークに達しました。人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述するというのは、宗教の宣託のようなものでない限り出来えない不可能事ですが、その出来えないことの努力を続けたのが西欧の「近代哲学」だとも言えます。その歴史は、20世紀最大の哲学者といわれたハイデガーが、1966年に行ったシュピーゲル対話で幕を閉じたと言えるでしょう。

 シュピーゲル対話では、ハイデガーは、哲学にはもはや何も期待できないと言い、従来の哲学の地位はサイバネティクスが占め、諸科学が哲学の替わりをする、と主張しました。哲学は無力だと繰り返し述べ、われわれ人類にできることは、何百年後かに現れる「神」のようなものを待つだけだ、と言いましたが、これは、ハイデガーの存在論(人間と世界のトータルな解明)の挫折であり、「哲学の敗北宣言」と言えます。晩年、西欧哲学から離れた彼は、日本の親鸞思想に心酔しました。

 17世紀に始まり20世紀に終わったのが西欧近代哲学と言えますが、この西欧哲学(キリスト教という一神教がバックボーンにある)は、ルネサンスの運動で明らかなように、古代エーゲ海文明への憧れに端を発していて、ギリシャのフィロソフィー(恋知)を換骨奪胎してキリスト教神学をつくり、その上に乗ったものでしたから、相当な無理の上に建てられた思想(形而上学)の建造物であったわけです。

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 わたしの提唱する《恋知》とは、一人ひとりの感じ・想い・考える営みを活発にすることで、意味充実の生を目がけるものです。誰の心にも先天的に備わっている善美へ憧れ心と真実を知りたいという心を不動の座標軸とする生き方ですので、二番目の実存思想と重なります。ソクラテスやブッダや老子に学ぶ温故知新の営みで、日々を支え、未来へ向けて開かれた考え方ー生き方の原理です。

 わが国の宗教である仏教と「恋知」は思想の土台は同じなのですが、ただし、色合いはかなり異なります。

 「恋知」という発想は、現実的で能動性が強く、開放的で明るいのです。子どものよさに学ぼうとする発想がいつも元にあります。いわゆるネオテニーという人間の特性の顕在化です。

 また、とても重要な違いは、性に対する考え方です。「恋知」は、ソクラテスの思想(「饗宴」「パイドロス」)と同じで、恋愛を人間の人間的な生の象徴として捉え、よきものとして肯定します。ソクラテスは、エロ―スという性愛を含む恋愛への情熱を、善美や真実を求める動力源と考えますが、「恋知」も同じく、人間の自然性を尊び、真剣や真面目も、堅苦しいものとしてではなく、それらを、恋愛における態度と同じものとします。更には、老子の思想は女性原理につき、性愛による女男の結びつきを人間の誠(まこと)とします。そのエネルギーが郷里、邦(国)へと広がり、「慈」(博愛・徳)になるとするのです。

 

 

 

 次に「恋知」と公共性について簡潔に記します。

 恋知という実存思想は、公共哲学を支える「主観性の知」として提示されている通り(金泰昌と武田康弘の哲学往復書簡)、公共性をもち社会に向けて開かれていて、特定の階層による政治や国家主義に対して、明確に否と言い、市民の市民のための市民による自治政治=民主性・民主政・民主制につきます。平和への希求を強くもち、直接攻撃を受けたのではない限りは、あらゆる武器使用と戦争に反対します。

 人間の生まれによる上下意識も元から排し、分かち合いという倫理につきますが、これらは、ブッダの思想と重なります。知識や履歴や財産の【所有】の多さに価値を置かず、【存在】そのもののよさ=魅力に価値を見ます。他との比較・競争主義を排し、納得を原理として、誰もがそれぞれの輝き=魅力を発揮できるような思想の態度です。その実現のために、格差を生まない法と制度に基づく自由主義経済を求めます。

 わたしは、もちろん、宗教者の考え方ー生き方を否定はしませんが、こどもたちに示すことができるのは、「実存思想」しかないと思っています。一神教を信じることを教えたり、上位者に仕える道徳を守れ、と教えることが「禁じ手」であるのは自明でしょう。わたしの40年以上にわたる教育実践は、上記の実存思想に基づいたもので、それは、心身全体による豊かな愛情と一体です。

 1979年~天体観望会                  2015年第39回式根島キャンプダイビング(63歳)

2008年参議院での討論(56歳)               2014年 白樺教育館・新館落成10周年

 

 恋知 第2章では、一神教ではなく、世俗主義でもない「健康な生き方」を提示しました。

 

 わたしは、恋知2章で、人間の人間としての生き方・考え方の基本を書きました。その土台の提示と共にキリスト教の影響下にある従来の西ヨーロッパ哲学や社会思想への見方、学習の仕方や生活仕方などについての反省と新たな考え方を記しました。

 それは、宗教とは異なる「恋知」という広義のフィロソフィーですが、それなくしては、囚われなく自信をもって思想に関連する領域(宗教であれ主義であれ)を検討することはできません。

 とりわけキリスト教の強い影響下にある欧米の学問を直輸入した明治以降の日本では、学問に携わる人は、知らぬ間にキリスト教シンパに陥りがちですので、人間や社会の見方には大きな偏りが生じます。その歪みを正すには、一神教(唯一神)によらずに人間の人間的な生の土台が説得力をもって明瞭・分明にされる必要があります。

 恋知という広義のフィロソフィーは、そのための基盤です。外部に超越的な「真理」を置かず、自分の心身と頭で感じ・想い・考える営みを座標軸とする生き方以外はないことの明晰な自覚は、何よりも大切です。その考え方に基づき日々を生きる「内発的な生」なしには、何事でも本質レベルにおける前進は不可能です。従来の思想の批判・検討もできません。

 恋知という発想=思想は、理論体系ではないですし、宗教性もありません。よき生の原理を踏まえて日々を生きること(実践)で、さまざまな領域でよきものを花咲かせる、という効果をもたらす態度です。知らぬ間に深く効きます。強い宗教(キリスト教や日本の天皇教など)や強固なイデオロギー(マルクス主義など)を必要としない自由でしなやかな生を可能とする原理、それが『恋知』です。

 それは、紀元前5世紀に誕生したソクラテス(アテネ)とブッダ(ネパール・インド)、それに続く老子(中国)、また、中世の親鸞(日本)や20世紀のサルトル(フランス)らの実存思想とも重なる人間性を豊かに開花させる思想です。


武田康弘  2018年10月(66歳)
 孫のなな&れんの運動会で。
 おんぶしているのは、
 わたしの知らない女の子(笑)。

 

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『恋知第4章』の冒頭(4ページ)にミスプリントがありました。訂正をお願いします。

2018-09-30 | 恋知(哲学)

恋知第4章の冒頭(4ページ)にミスプリント(打ち損じ)がありました。

その年(2015年)の6月に  は、
その年(2005年)の6月に  が正しいです。

本をお持ちの方は、訂正をお願いします。お手数ですみません。

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 金泰昌・武田康弘の恋知の哲学往復書簡34回に至る経緯      武田康弘

 

 2005年の春に、友人の山脇直司さん(東京大学教授)は、国際的な政治哲学者で東大出版会のシリーズ『公共哲学』(最終的に20巻となり別冊も多数)の最高責任者である金泰昌(キム・テチャン)さんに、わたしの書いた「実存として生きるー市民大学『白樺フィロソフィー』と民知の理念」(白樺文学館パンフレット所載・発行5万部)を送りましたが、それを読まれた金さんは、「深い感動と、熱い共感をもちました」とのことで、丁寧なお手紙を頂きました。

 金さんはわたしには全く未知の方でしたが、その年(2015年)の6月に拙宅および白樺教育館(文学館ではない)を訪ねられ、長時間の対話を交わすことになりました。突っ込んだ話となり激論にもなりましたが、それが縁で、金泰昌さんと私は親しい間柄になっていきました。

 それからは、京都フォーラム及び大阪のご自宅から頻繁に電話を頂き、毎回長話になりました。また、金さんの来訪も4回となり、いづれも半日をかけての中身の濃い対話をしました。白樺同人たちとの熱く厳しい対話や、官民共働を巡って旧友の福嶋浩彦我孫子市長を交えての三者会談などです。

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知の逆立ち(手段の目的化)は、生きる悦びを奪い、艶消し人間をつくる。日本人の深い不幸。

2018-09-07 | 恋知(哲学)

 自分の関心、知的好奇心とは無関係に、文科省が決めたカリキュラムの枠内の勉強をただ繰り返して覚える。進学教室に通い、緻密化する。

 知の世界が、自分の頭で考えることから完全に切れて、政府文科省の「官知」の領域に閉じ込められ、そこから出られない。その枠内に留まり、言うなりになる従順な頭と心身をもつ者を優秀、秀才、天才!?(笑)と呼ぶ。いまは、もうフィロソフィーまで情報知と西ヨーロッパの哲学の「正しい」!?解説書の読書となり、ソクラテスの「恋知」の実践とは無縁。

 これでは、おバカな国ーおバカな国民というほかなくなります。

 アインシュタインとは正反対の頭脳が「頭がいい」と言われます。既成社会の既成頭のチャンピオンの東大脳が「頭がいい!」のなら、頭がいいとは、自分として生きていない証拠ですし、自分の頭と心身で思考していない証拠です。日本では、本質的な馬鹿=従順脳が優れていると言われるので、お勉強のできる人は、使えない頭、人間としては意味のない頭の持ち主にしかなれません。人間までAI(笑)。

 ただ親の言う通り、毎日数時間も受験勉強(パターン知と丸暗記)を繰り返していたら、誰でもみな機械頭になります。臨機応変・当意即妙の能力とは正反対の紋切型の頭脳に堕ちるための努力を従順に繰り返す人間が、人間の脳として「優れている」はずがありません。どうでもよい実にツマラナイ事実の暗記競争をしている人間に、事象の意味や価値が分かるはずがないのです。【高得点を取る本質バカ】を製造するために、膨大な時間と労力をさく国民は、人間性の豊かさや人間的な思考力をもたず、ただの「事実学」の暗記に明け暮れます。それが勤勉と言われて褒められるのなら、勉強すればするほどバカになるほかありません。

 読み書き計算や幾何が一定程度できることは必要です。しかし、その緻密化のみが目がけられれば、「棒人間」にしかなれず、自分自身の頭と心身を使って生きる主体的な人間にはなれません。外見・形だけが立派で、中身は空洞。どうでもよい知識競争の外面人間になり、自我の内的成長がありません。それは精神の未発達ですが、周りも本人もそのことに気付かず、総合判断力のない高得点者が優遇され褒められるなんとも珍妙な社会をつくります。「精神病もみんなで罹れば怖くない」(笑・呆)となります。これが東大病ですが、東大教という世俗宗教がこの病気を起こし、快癒を不可能にするのです。

 勉強、学習、勉学、学問の目的が「主観性の知」の豊穣化であることを知らないのが大多数の日本人ですが、知の目的を知らないので、読み書き計算に始まる客観学(ドリルに答えが書いある)の緻密化が目的だ、と勘違いしていることいることに気づきません。手段にしかすぎない客観学を目的だとするので、物知りが偉いと思い、事実学(意味論・本質論なし)の積み上げに必死になります。単なる「事実学」は「事実人」(サルでも犬でもなく人ではあるが、それだけ)しかつくらない、とは認識論(認識の意味と価値の解明)の原理を明らかにしたフッサールの言葉ですが、その通りと思います。

 わたしの関心から発しない知を体系化して仕込まれれば、善美に憧れ、真実を求める豊かで人間味あふれる人間にはなれません(事実としては人であるだけ)。わたしの関心・必要・目的(広義の「欲望」)から発しない知は、死んだ知に過ぎず、一人ひとりの生を輝かせず、意味に乏しい知なので、優れた生をつくらないのです。

 そういう知の支配する国では、各人が自分自身の存在のありようをよく見つめ、自己の存在価値を自覚することがありません。集団の中の一歯車でしかなくなります。私からはじまるよろこび・輝き、価値を創造する自己ではなく、外なる価値に合わせるだけの自己に陥ります。ほんらいの知の意味が消え、逆立ち(手段が目的化)しているからです。

 今からでも遅くはありません。この逆立ちをひっくり返して、正常化させ、知と生の本道を歩み始めようではないですか。生きるに値する人生は、わたし自身がつるもの。 「恋知」の生です。

エロース像(素焼きのラコステ人形・ルーブル美術館蔵)
プラトンの学園『アカデメイア』(キリスト教により廃校させられるまで900年以上続いた)の主祭神はエロースでした。
善美のイデアを求め、真実を探求するフィロソフィーの営みの動力源がエロース(身体的な愛)です。

武田康弘

 

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善美を求めない現実主義というおぞましさー集団的精神病の日本人。

2018-09-04 | 恋知(哲学)


人の話はよく聞く。何を言わんとしているかをつかもうとし、耳を傾ける。

そうした上で、
それは違う、と思えば、納得できない、とはっきりと言う。
明瞭に「ノー」と言う。
どこの誰が言うことでも(日本人1億2千万人の誰であれ、人類70数億の人の誰であれ)、「おかしいな」と思うことには従わないこと。
それはよく生きるためにどうしても必要です。

納得できないのに、他者(とりわけ立場上の上位者や権威や権力を傘にする者)の言うなり・思うなりになるのは、精神の奴隷であり、人間としての誇りをもって生きることとは正反対です。

わたしは、政治家とか官僚の多数は、嫌い、というより、彼らは、人間として間違った生き方をしていると見ます。心の本音が「権力」による上下意識に囚われているからです。だから態度が慇懃無礼なのです。権力政治家や忖度官僚のみなさんは、この四字熟語の意味をよく調べてみてください。

 

いまテレビでさかんに宣伝しているセレブとやらいわれる人の生き方などは、人として根本的に間違いです。ばかばかしいほどの贅沢をして悦にるというのは、生きる意味のない人生です。みなのために、よい福祉やよい教育やよい環境のために、あるいは困っている人のためにこそ、お金は意味と価値をもつのです。善美をつくり育てるために、分け与えなければいけません。ほんらい言うも愚かなほど当たり前の道徳です。

こういう当然のことが消え去り、金持ちは偉い!権力者は偉い!というおそろしく歪んだ単純思想をテレビは毎日伝えて、多くの国民は知らぬ間に占脳・染脳されています。お金にしろ権力にしろ、それはほんらい皆のものであり、特定の人間が他者を支配する(現実的あるいは心理的に)ためにあるのではありません。

集団的精神病からの快癒が必要です。恋知の生をこそ!



武田康弘

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恋知の土台は、「私」です。「私」を超える原理はありません。これは究極で行き止まり。

2018-08-18 | 恋知(哲学)


ソクラテス教室のマスコット(ソクラテス爺)とミレトスの円形劇場(5月に染谷裕太君が撮影)

 

たとえ、どれほど熱心な唯一神(キリスト教やイスラム教など)の信仰者でも、
あるいは、皇国ニッポン=天皇教の熱烈な信者でも、
それを信じているのは、その人の「私」です。

誰であれ「私」であることを超えることはできません。
何を見ても聞いても、何をどのように感じても、思っても、それは「私」が感じ、思っていることです。

この当然のことをいつもしっかり自覚していることが、すべての始まりで、はじめの一歩ですが、この恋知のはじまりは、当然すぎて忘れられることがあります。そうすると人間の思考は狂い出し、意味不明の混沌や閉じた信念を生んで、自他を不幸に沈めます。

釈迦の思想の原理である「天上天下唯我独尊」(われ独り尊い)、普遍性を求める自分への帰依=「自帰依・法帰依」とは、上記のように、「私」こそが、これ以上はない原理であり、究極の行き止まりであることの優れた表現でしょう。

ソクラテスの言う「善美に憧れ、真実を求める」のは、「私」です。私は、私の世界を豊かにし普遍性のある考え方を探りますが、それは、どこまでいっても「私」の想念です。私は、私の確信を超えられない、この原理中の原理の明晰な自覚こそが、すべての始まりです。


武田康弘

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日本人も人間として生きましょう。昆虫・爬虫類・犬の属性を示す存在ではなく。

2018-08-14 | 恋知(哲学)

ほんとうのことを言うと、

わが日本人には、人間としての人間(愛に溢れ、善美に憧れ、真実を求める存在=恋知の人)が少なくて、

ハチやありなどの昆虫の属性を示す存在(天皇を頂く集団同調主義者たち)と

爬虫類の属性を示す存在(攻撃脳のウヨクと競争絶対主義者たち)と

犬の属性を示す存在(上位下達の封建道徳主義者たち)の三つのどれか、か、その組み合わせがとても多いのです。

 

人間として生きたいですね。

人間になりましょう。そうでないとどう転んでも不幸です。

恋知の生を。


武田康弘(恋知者)

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金泰昌と武田康弘の「哲学往復書簡34回」発売 (東大出版会から出たものより面白いオリジナル版)

2018-08-06 | 恋知(哲学)

   金泰昌・武田康弘の恋知の哲学往復書簡34回に至る経緯      武田康弘

 

 2005年の春に、友人の山脇直司さん(東京大学教授)は、国際的な政治哲学者で東大出版会のシリーズ『公共哲学』(最終的に20巻となり別冊も多数)の最高責任者である金泰昌(キム・テチャン)さんに、わたしの書いた「実存として生きるー市民大学『白樺フィロソフィー』と民知の理念」(白樺文学館パンフレット所載・発行5万部)を送りましたが、それを読まれた金さんは、「深い感動と、熱い共感をもちました」とのことで、丁寧なお手紙を頂きました。

 金さんはわたしには全く未知の方でしたが、その年(2005年)の6月に拙宅および白樺教育館(文学館ではない)を訪ねられ、長時間の対話を交わすことになりました。突っ込んだ話となり激論にもなりましたが、それが縁で、金泰昌さんと私は親しい間柄になっていきました。

 それからは、京都フォーラム及び大阪のご自宅から頻繁に電話を頂き、毎回長話になりました。また、金さんの来訪も4回となり、いづれも半日をかけての中身の濃い対話をしました。白樺同人たちとの熱く厳しい対話や、官民共働を巡って旧友の福嶋浩彦我孫子市長を交えての三者会談などです。

 

 最初の来訪から2年経った2007年5月の連休時、金さんは電話で、「武田さんと私とで哲学の往復書簡をしたいと思うのですが、どうでしょうか」と言われました。わたしは、その方法について話し合った上で承諾しました。

  その往復書簡が十数回ほどになった時、金さんは、自身が所長を務める「公共哲学共働研究所」編集による『京都フォーラム』発行の月刊新聞『公共的良識人』紙に公開したいとの申し出があり、わたしも賛同したのでした。それが2007年7月号『公共的良識人』紙の1面から5面までを使った「 『楽学』と『恋知』の哲学対話=武田康弘と金泰昌の往復書簡その1」で、11回分の対話が載りました。翌月の8月号では、4面から7面を使い12回から21回(このオリジナル版では23回)まで、これで前半が終了。

  22回(オリジナル版では24回)以降は、言語至上主義への批判と想像力次元への着目を強調したわたしの主張、さらには、公共の解釈=公と公共を分けるべきという『公共哲学』の主張へのわたしの批判をめぐって刺激的な往復書簡となりましたが、ここで「事件」が起きました。

  金さんから電話で、「22回(オリジナル版24回)以降を載せることはできなくなりました。『公共哲学』の根幹に関わる部分での対立を載せるのは無理、というのが編集部全員の見解で、申し訳ないがどうしようもないのです。」

 わたしは、「分かりました。わたしには何の権限も権利もありませんから」、と言い、「けれど、残念ですね。金さんは、異論や反論こそ必要なのに日本ではそれがない、その状況を変えたい、といつも言われていましたものね。金さんと私の意見対立を載せるのは、せっかくのよいチャンスでしたのに」と話しました。

 それを聞いて金さんは、「ああ、武田さん、そうでした。もう一度、編集会議にかけて説得してみます」と言いました。その結果、12月号に22回(オリジナル版24回)から30回(オリジナル版32回)までが載ることになったのです。めでたしめでたし。

 

 その往復書簡が、3年近く経った2010年8月に、東大出版会刊『ともに公共哲学する』のメインとして収録されることになったのですが、しかし、またしても「事件」が待ち受けていました。

 2010年の春に、「わたしは、東京大学出版会の竹中英俊という者ですが、武田さんと金さんの哲学往復書簡を出版したいのです。承諾して頂けませんでしょうか」という電話があり、いろいろ説明を聞き、まあ、困ることもないので「ご自由にどうぞ」と返事をしました。

 しかし、竹中英俊編集長の意気込みは、東大教授会の反対にあい、いったんは頓挫してしまいます。「はっきりとした理由はない」という変な話でしたが、当然かもしれません。目次には、わたしの書いた通りに【(5)学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能】という文字が踊りますし、全体は、単なる客観学を超えて主観性の知になっていますので、根源的ですから、「事実学」の累積ばかりで、人間や社会問題の本質を穿つ「意味論」の世界に乏しい東京大学の出版物としては、まさに異例です。しかし、竹中編集長は、粘り強く、再度教授会にかけて説得し、ようやく出版のはこびとなりました。

  後に、この本を読んだ私の師で哲学者の故・竹内芳郎さん(サルトルやメルロ・ポンティの邦訳者で解説者でもある)は、東大の法学部入学で文学部(倫理学科)卒なのですが、「あの東大が、東大病への厳しい批判を載せた本をよくぞ出したな~!」と、とても驚いていました。

  というわけで、この往復書簡が世に出たのは、相当に「奇跡」的なことなのです。二度も頓挫して、そのつど甦り、ようやく日の目を見たのでした。まあ、それだけ刺激的で内容が面白い!という証拠です(笑)。

 ※ なお、この私製本に載せるのは、まったく修正されていないオリジナルバージョンです。

 新聞や本になるときに、金泰昌さんの原稿は、かなり修正・加筆されましたが、往復書簡におけるビビットなやりとりは、手を付けずにそのままが一番面白いはずです。新聞でも本でも、わたしの部分は手直し程度の変更しかしていません。
 また、わたしの金さんへの返信は、ほとんどが、当日か翌々日くらいまでに書き上げたものですが、その方が生き生きとした対話になると思ったからです。

☆ 往復書簡のナンバーの違いについて。

 『公共的良識人』紙(京都フォーラム発行)および『ともに公共哲学する』(東京大学出版会刊)所載の往復書簡のナンバーには、15と16が抜けています。14までは全く同じですが、新聞と本では15となっている書簡の前に、ほんらいは二つの書簡があります。内輪の話で載せなくてもよいとの公共的良識人編集部の判断で割愛されたのでした。

そのために、15番からは2つづつ番号が異なります。このオリジナル版で17となっているのは、新聞と本では15です。それ以降みな2つづれています。

★ 33回と34回について(新聞・本では未掲載)

 最後の2回(33回と34回)は、新聞・本には載せられていませんが、極めて重要な書簡と思います。対話の行きついた先がどこであったか、が分かります。まるで、往復書簡という形式による対話それ自体がもたらした結語のように思えます。      (2018年7月16日・海の日に)

 武田康弘 2018年5月18日(66才・白樺教育館で)

※ なお。この往復書簡オリジナル版の版権は、白樺教育館にあります。金泰昌さんからのご要望で、書簡は、リアルタイムで白樺教育館ホームページに掲載されてきました。制作は、白樺教育館副館長の古林治。



(カラー・本文74ページ・定価は1000円です。送料はサービス。shirakaba2002@k.email.ne.jp にメールしてください。)

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生きている人間を「神」とするー明治政府の「天皇現人神」の思想と麻原オウム教。

2018-07-07 | 恋知(哲学)

超越神をもたない日本人は、ある家族を神の系譜とし、ある人間を神とすることに違和感がないのでしょうか。

「日本会議」という右翼団体に首相以下大多数の閣僚が所属し、いまだに天皇神格化や皇族崇拝の思想が幅を利かす国が近代国家とは、あまりに愚かで呆れるほかありません。

自分の内にある善美の座標軸に従って生きられない人がそれほど多いということでしょう。麻原のオウム=生きた神!に人が集まったのも頷けます。

現人神(あらひとがみ)というおどろおどろしい思想や、超越神への信仰という一神教によらず、よき自分の生をつくるのは、フィロソフィー=「恋知」の実践以外にはないはずです。

一人ひとり異なる人間の内にある善美への憧れ心に従って生きること、超越や絶対を外に置かず、自分の存在の内にのみ座標軸があることの明晰な自覚をもつこと。

ブッタとソクラテスという同時代の思想は、紀元前200年代の仏教と古代ギリシャ王たちの深い交流にも見られるように、自分の内なる思考力=真実の探求心以外には、従うものを持ちません。

このよき伝統を自覚し、互いの対等性と自由を認め合う徹底して民主的な生き方を始めようではないですか。民主性・民主制・民主政の社会をつくるのは、自己の内なる善美への憧れをもつ人です。

 

以下は、3年以上前に出したblogです。

「オウム・20年目の真実」 と 「戦前の天皇教」と。

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「個人はチームに先立つ」ーいまだに分からないのは日本だけのようです。とても愚かです。

2018-07-05 | 恋知(哲学)

私という個人が感じ・想い・考えるのであり、チームが・学校が・会社が・国が、考えたり、話したりはしません(笑)

私が、「私」のことも、「チーム」のことも、所属する「団体や組織」のことも考えるのです。あくまでも『私』が、感じ、想い、考えるのです。

こういう当たり前のことが踏まえられず、すべては私の意識から始まることを自覚して行為することがとても少ないのが、日本の現状です。

「私」が感じ・想い・考えるのです。それを明晰に意識しないと、何をやってもおかしなことになり、「人間を幸福にしないシステム」が変えられません。

現代でもなお、個人意識=私の想いや考えから出発して普遍性や本質を志向するのではなく、立場上の上位者や官僚政府の側にいる人の言うことに流され、従う人が多いのには呆れ返ります。ほんとうに愚かです。

各自が考えたことをどんどん言い合うこと・聞き合うことではじめて一人ひとりの意識が明瞭になり強くなりますが、これこそが一番大切な営みなのです。

一人ひとりがよくなることが、全体にとっても、結果としてプラスの価値を生むのです。

精神的自立=個人の自由と責任を育て、守り、鍛えなければ、個人にも社会にも幸福・充実・発展は生まれません。

個人を豊かにする以外の方針=「戦前思想」=滅私奉公をつくりだした【天皇教=靖国思想=国家神道】ほど愚かで非人間的な思想はありません。

こういう原理・原則次元の思想を深く明瞭に了解することが、何より必要なのです。

「公」=官僚政府中心の国家主義=人間を団子にする愛国主義は、すべてを破壊する全体主義であり、歴史により敗北した思想です。

シチズンシップ(市民精神)に基づく「公共」世界を開き育むことは、精神的に自立した個人なくしては、不可能なのです。

実存は本質に先立つ、 個人は組織に先立つ、それが分からない国では、お先真っ暗で、戦前に逆戻りです。



武田康弘



 

 

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学校にも会社運営にも政治にも、これから一番求められるのは、『民主的』ということです。

2018-07-01 | 恋知(哲学)

 人と人との関係で何よりも一番大切なのは、民主的であることでしょう。

 これからの社会に一番求められるのは、自分に正直な心、ほんとうの自由対話、それによる決定、です。忖度する・空気に従う、というのではなく、ふつうに正直に、自然に無理なく、自由にのびのびと考え、話すこと、その練習です。その営みが褒められる環境づくりです。

 いま流行りの「他者承認」(ヘーゲル哲学の用語)を気にして生きるというのは、一番ダメな生き方です。批判、特に上位者や大きな組織に対しては、ものを言わずにダンマリを決め込む、また、批判する者を「クレーマー」というような差別用語で非難する。それでは自分自身の魅力は減じ、組織あるいは社会問題の解決はさせず、沈滞を招くだけです。

 経済も、大企業が中小企業をイジメる、企業運営が上位下達である、というのでは、会社は伸びません。一人ひとりの人間が生き生きとし、楽しく充実して、意味深く生きることなくして、優れた仕事ができるわけがないのです。善美を想うことのない人間=エゲツナイ利害損得しか考えない人の集まりは、必ず敗北しますーーー30年前にこのわたしの基本思想を大激論の末に受け入れ、実行した佐野力さんは、「日本オラクル」(株)を成長どころか、爆発させることに成功したのでした。

 自由対話、無礼講でなんでも言える状況をつくり出すことが「はじめの一歩」なのです。

 それは、子育て、子どもとの関係からはじまり、すべての人間活動の土台です。いまの安倍政府(「戦前思想」=その象徴が「教育勅語」礼賛)の思想では、個々人も社会もダメにしてしまいます。個人の自由と責任=精神的自立を強めるではなく、組織や国家という全体を優先する思想は、人間存在のありようの自然性とは相容れず、原理上、間違いなのです。

 人間は、必ず「私」です。組織や国家の一員である前に「私」であり、その「私」から出発するというのは、覆しようのない事実であり真実です。「私」が尊重される。「私」こそが、一切の基準=座標軸であることがしっかり了解できてはじめて、普遍性のある考え、みなに共通する利益を考え出すことも可能になるのです。

 未来を拓く条件は、民主的であること。どこまで民主性・民主制・民主政を広げられるか、発展させられるか、それが勝負=根源的な勝負を決めるキーです。

 「民主的」を支えるわたしの『恋知』の思想は、公平・公正で普遍性豊かな人間と社会を生みます。教育はもちろん政治でも会社運営でも、わたしの思想は、すでに豊かな成果をあげてきましたし、役人(官僚)にも強い影響を与えてきました。繰り返しますが、未来を拓く鍵は、「民主的」の拡張と深化にあります。これは間違いありません(笑・ホントウ)

 あっ、とても大事なことを書き忘れていたので、追加。

 民主政(制)社会とは、互いの自由を認め合うことが柱となっていますが、この「自由」を、「法律に反すること以外なら自由だ」という消極的自由とすると、「民主的」が空気を読むという受け身の忖度文化に落ち込んでしまいます。積極的な自由への意思=能動性の精神を持たないと(育てないと)、自由の名の下に、結局は、国家主義あるいはまた管理社会を容認ないし正当化する論理→感情を培養してしまう愚に陥ります。要注意です。


  (写真はトルコのアソス=今年4月に染谷裕太君撮影)


武田康弘

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いや~~な顔の人にはなりたくないですね。顔は顕現する。

2018-06-24 | 恋知(哲学)

お軽い~~顔の人
狡知さの臭う顔の人、
金あるぞ~と得意顔の人(おバカ)
厚顔無恥の嘘つき顔の人、
偉がり顔の人(最低)、
意地悪顔の人、
固い自我丸出し顔の人(終わっている)
無個性で人間味のない顔の人(気の毒)
真剣さのない顔の人、
余裕あるぞ~のふやけ顔の人、
エリート顔の人(愚か者)、
下品できたない顔の人、
情緒音痴の尖がり顔の人、
慇懃無礼な顔の人、
スパイ顔の人(笑)

理論武装の理屈顔の人、
ケチでせこい顔の人、
酒浸り顔の人、

そのような魅力のない顔の人にはなりたくないものです。

優しさ、にこやかさ、自由、勇気、覚悟、愛情、広がり、伸びやかさ、楽しさ、真剣さ、追求、囚われない、自然性、受容、能動、善美への憧れ、明晰、爽やか、わたし自身でいること、そういう顔がいいな~~~。




武田康弘

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国家、愛国心!?ちっぽけで、つまらない思想です。何より必要なのは、人間愛・生命愛と個人精神です。

2018-06-15 | 恋知(哲学)


「愛国心」などという精神は、アナクロニズムです。危険でちっぽけな想念に過ぎません。
国を愛することなどできません。愛するのは人です。人間愛です。幼子や子どもたちを中心にして、今を生きる生きものたちと人間への愛です。生命愛です。

 ソクラテスは、(国家権力者による)地上の支配などはるか下に見下ろすのがフィロソファー(恋知者)だ、といいましたが(プラトン著「ポリス=国家」)、その意味は、一人ひとりの人間こそがあらゆる価値の根源であり、個人の精神こそが何よりも一番上位にあるという意味です。それは、同じ文化圏から生まれた釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の自帰依・法帰依と重なります。

 国家というものは、個々人の意思でつくられるものであり、個々人の精神以上の価値など原理上存在しません。個々人がそれぞれの精神をもち、互いに対等で自由に生きるために必要なシステムが国家であり、Stateとはそれ以上の価値はもたないのです。

 戦後途絶えていた愛国心教育が再び始まりましたが、これほど有害な教育はありません。昔の国家主義に戻るレベルの低い思想であり、危険です。他者愛のない自己愛が有害なのと同じで、他国への愛や寛容が先立たない自国への愛などは、争いを増やすことはあっても減らすことはなく、実に愚かです。

 いま何よりも必要なのは、人間愛、人への愛です。いかに考え・生活すれば、愛が豊かになるか、よろこびや楽しさの広がる人生をつくれるか、そのための教育が求められるのです。世界平和は、よい思想・優れた考え方から生まれます。制裁や脅しや強面や強がり、軍事力強化は、危険を増やすだけの恐ろしまでに愚かな態度です。

 豊かな人間愛をひろげる教育は、親や教師の表情やことばや態度から出る「優しさ」「愛情深さ」「寛容さ」「おおらかさ」「よろこび」「にこやかさ」「しなやかさ」「自由さ」のオーラなのです。愛国心教育ではなく人間愛ー生命愛教育でなければいけません。


武田康弘

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