思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

哲学は「研究」ではありません。「実践」であり、「啓蒙」ではないのです。

2008-12-31 | 日記
以下の2008年市民アカデミアの総括は、豊富な写真入り(白樺教育館ホーム)で見ることができますので、以下をクリックしてください。

http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori97.htm


2008年「市民アカデミア」(大阪経済法科大学主催)『公務員を哲学する-市民社会と公共性を考える』の最後は、わたしが講師を務めましたが、わたしの企ては、従来の大学講座(一般市民を対象とした啓蒙)の発想とスタイルの双方を変えたいというものでした。「講義質疑応答」ではなく、参加者が講師の問題提起を受けて【共に哲学する実践】を目がけたのです。

残念ながら、参加者の意識はわが白樺同人を含めてまだまだ主体性が弱く、【生きた主観性の躍動】というレベルには達しませんでしたが、わたしは、企てをためらうことなく実行したのでした。

哲学とは「客観学」ではなく、ほんらい生きた対話であり、そのことは、理論=言語の次元で主張されただけでは意味を持たず、実際に主観性を鍛えあう熱い試み=生々しい実践でなくてなりません。「研究する」ものではなく、実際にやりあう=「躍動する生きた対話」なのです。大学講座で「勉強」する(教えてもらう)ことではないのです。

思想や哲学は、従来のスタイルそのものを変えなければ、いくら思想内容を変えたところでひとつの前進もない、それがわたしの不動の確信です。

ついでに言えば、倫理や道徳も同じです。古代の王制や封建社会や近代天皇制の下でつくられた「道徳」(為政者に都合のよいイデオロギー)を学んでもダメで、自由・平等・博愛の民主制社会にふさわしい新しい倫理は、ふつうの生活者の「生活世界から立ち昇る善美」につき、みなの話し合いによって生み出すものなのです。

本を読んだり本を書いたりすることは一つの手段であり、そのこと自体に価値があるのではないのです。しかし、この基本認識がきちんとできている人は極めてまれです。従来の知のスタイルの中に留まって、その中で「哲学する」ことは本質的には不可能だ、という認識を哲学に関与している人さえ未だに持てずにいるのですが、これは本当に困ったことです。「アカデミズム 内 哲学」では、生きた動詞としての哲学にはならず、哲学は死んでしまいます。

ヨーロッパの啓蒙時代は18世紀であり、日本の啓蒙時代は明治から敗戦までです。もうとっくに終わっているのが「教えるー教えられる時代」なのです。いま何より必要なのは、一人ひとりが自ら考える力を引き出しサポートする仕組み・態勢のはずです。「相互に考え・語り合う時代」をつくり・生きることが求められます。したがって、いま哲学は、哲学が大学内の一科目になる以前の「実際に人が生きている現場」から立ち昇ってくる問題にダイレクトに応答するという初心に戻らなければいけません。形而上学としての哲学では、趣味の世界にしかなりません。なぜ?どうして?なんのため?を具体的現実に即して考える営みが必要なのです。

互いの主観性を広げ、深め、豊かにするための実践はいかに可能か?

それに応える思想とそれを現実のものとするためのスタイルを考案し実践することーそれを目がける活動こそいま真に求められているのであり、それをわたしは恋知としての哲学=民知と呼んでいるわけです。

以上のような理念・考えから、
11月21日(金)のわたしが担当した講座では、わたしの話は40分に留めると宣言し(笑)、その通りに実行したのです。ただし、時間を短くした分、内容は、分明・明瞭でかつ刺激に富むものとしました。

また、当日参加された金泰昌(キム・テチャン)さん(「公共哲学」シリーズ全20巻の編集責任者)からも「15分間スピーチ」をしてもらいましたが、少し残念だったのは、わたしの話
=①「東大病」のこと。②ほんらい客観学は知の手段であり主観性の知こそが目的であること。③明治の国権派がつくった「天皇の官吏としての官僚制」に基づく政治は、客観学の支配により各人の主観性を無価値なものとみなすことが必要で、それが天皇教(=序列の絶対化による集団同調主義)という国家宗教と一体化した政治と軍事と教育を生んだこと。④キャリアシステムを支えているのは、未だに清算が済んでいないそのような想念であること。
から話題がそれてしまったことです。

わたしもまた、もっと明瞭に踏み込んで(キツク・笑)主題が浮かび上がるようにすべきだったと思います。それが反省点です。

【共に哲学する】を実現するには、まだまだ多くの創意工夫が不可欠だな、と強く感じました。今後の課題です。宿題としましょう。

武田康弘
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りかです。しまとゆめを写真で拝見。

2008-12-28 | 日記
下のブログのつづきです。
四匹のうち一匹だけが白い猫でした。
それが「エリ」ですが、
飼い主のりかさん(白樺同人で鎌ヶ谷市在住)から、ブログに載せてほしいと、以下のメールと写真を頂きましたので、ご紹介します。

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りかです。

式根島で子猫達を連れて帰って4ヶ月経ちます。

しまやゆめを写真で拝見しましたが、二匹ともすくすく育って愛情いっぱいの顔をしてますね。

うちのエリは甘えん坊で食欲旺盛ですが日々大きくなってきています。
前からうちにいる猫ビッキーと親子のように仲良くしていて微笑ましいです。

自分より小さくて弱い存在を守ろうとする動物の本能には感服します。御飯にしても飼い主の愛情にしても、小さいエリに譲って自分は1歩下がる行動をしてるビッキーを見ると本当にすごいって思います。本当の親子ではないのに、誰に教えられたわけでもなく本能でちゃんとわかっていてこういう行動ができるのです
ね。素晴らしい!

式根島で撮ったこの子猫達の写真を改めて見ると顔の表情が違いますね。
島では生きることが精一杯で野性的な顔でしたが、連れて帰ってきてからは安心できる環境の中で飼い主や周りの愛情で顔の表情が柔らかく穏やかになってきました。

動物も人間も環境・接する人々によって顔が変わるんだなぁと実感してます。


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子ネコたち4匹、式根島から我孫子へーー子どもと女性の命への感度

2008-12-26 | 日記
今年、式根島キャンプ(32年目の子供たちの「キャンプ&ダイビング」)の帰り、

小学生のこどもたちが

まだ生後3週間ほどの赤ちゃんネコを4匹、

船に乗せ、電車に乗せて、

我孫子まで連れ帰りました。

どうなることか、と思いましたが、

四匹はみな元気で、それぞれ個性的に生きてます。

「ゆめ」は、小学生の女の子の家で、

「しま」は、小学生の男の子の家で、

「エリ」は、鎌ケ谷で、

もう一匹は、東京の里親のところで。



先月、「ゆめ」と「しま」は、『白樺教育館』で再会しました。

写真はそのときのものです。

「ゆめ」は、はじめての場所に緊張し、パソコンの後ろに隠れてしまいましたが、

あとからきた「しま」は、興味津々で、近寄ります。

互いをどう感じていたのか?

それは分かりません。



それにしても、

式根島から10時間もかけて

野良の赤ちゃんネコを連れ帰るなんて、

やっぱり小学生でなければできません。

(小学生につられて、大人のりかさんも一匹連れ帰りましたが、前からいたメスネコと親子のようで、とてもほほえましい光景が日々くり広げられているそうです)

※式根島から連れ帰らなければ、キャンパーの去ったあと、子猫たちはカラスの餌食となったでしょう。

大人の男性にはマネのできないことですが、世の中も、子どもや女性の本音が動かしているのかもしれません。「男性原理」による秩序化は、あまり生命的とはいえません。

「思い・想い」の世界を大切にできたらいいですね。


武田康弘
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『立法と調査』(参議院)ーーキャリアシステムに関する意見書

2008-12-24 | 日記
以下は、白樺教育館ホームページの記事(制作・古林治)です。
一部を貼り付けますが、クリックhttp://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori96.htmで全部が見られます。


『立法と調査 別冊 2008.11/特集 「国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査」』が参議院事務局から発行されました。
【官】の世界から本当にこんな内容のもの(多用な人々の意見)が出されるとは大変な驚きです! 私たち市民(国民)・主権者の声に積極的に耳を傾けようという、民主制の原理を地で行く画期的な出来事です。参議院=良識の府の面目躍如です。素晴らしいですね。

 執筆者は下の一覧にあるように、40名+1名で実に多様で、内容もまた濃密なものです。是非、読んでみていただきたいものです。当ホームページでもお馴染みの名前が6名ほど入ってますので、中々身近に感じられるのではないかと思います。


[特集]国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査
キャリアシステムの廃止~民主制国家を支える国家公務員の育成のために~


はじめに(参議院・行政監視委員会調査室)


Ⅰ 有識者の意見(敬称略、50音順)

1
青木 信明
(エムケイ株式会社代表取締役社長〉
2
天木 直人 
(元レバノン大使・外交評論家)
3
飯尾 潤
(政策研究大学院大学教授)
4
伊藤 真 
(伊藤塾塾長、法学館憲法研究所・法学館法律事務所所長弁護士)
5
稲継 裕昭
(早稲田大学政治経済学術院教授)
6
大山 泰弘
(日本理化学工業株式会社会長)
7
岡野 雅行
(岡野工業株式会社代表社員)
8
尾木 直樹
(教育評論家、法政大学教授)
9
落合 博実
(ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員)
10
川本 裕子
(早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授)
11
木川 眞
(ヤマト運輸株式会社代表取締役社長)
12
金 泰明
(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター教授)
13
近藤 恒雄
(株式会社第一測量設計コンサルタント代表取締役会長)
14
堺屋 太一
(作家)
15
澤田 秀雄
(株式会社エイチ・アイ・エス取締役会長)
16
嶋崎 政男
(東京都立川市立立川第一中学校校長)
17
新藤 宗幸
(干葉大学法経学部長・教授)
18
鈴木 敏文
(株式会社セブン&アイ・ホールディングス 代表取締役会長兼CEO)
19
高橋 洋一
(東洋大学教授)
20
竹田 青嗣
(早稲田大学教授、哲学者)
21
武田 康弘
(哲学者、白樺教育館館長、我孫千市白樺文学館初代館長)
22
田中 秀征
(福山大学客員教授)
23
谷 尚
(公立八鹿病院名誉院長)
24
土肥 信雄
(東京都立三鷹高等学校長)
25
永井 隆
(ジャーナリスト)
26
中島 忠能
(元人事院総裁)
27
西村 美香
(成蹊大学法学部教授)
28
野村 吉太郎
(赤坂野村総合法律事務所弁護士)
29
平山 祐次
(財団法人佐世保地域文化事業財団理事長・元長崎県立大学学長)
30
福嶋 浩彦
(中央学院大学客員教授、前我孫子市長)
31
藤沢 久美
(シンクタンク・ソフィアバンク副代表)
32
堀田 力
(財団法人きわやか福祉財団理事長、弁護士)
33
堀場 雅夫
(株式会社堀場製作所最高顧問)
34
前田 正子
(財団法人横浜市国際交流協会理事長・前横浜市副市長)
35
三木 由希子
(特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス理事)
36
山口 広
(弁護士、日弁連消費者問題対策委員会委員)
37
山口 美智子
(薬害肝炎訴訟全国原告団代表)
38
山根 香織
(主婦連合会会長)
39
山脇 直司
(東京大学大学院総合文化研究科教授)
40
若杉 敬明
(東京大学名誉教授、東京経済大学教授)
参考:
荒井 達夫
「国家公務員制度改革とキャリアシステム~参議院による行政監視の意義~」


『立法と調査』は非売品ですが、ご心配無用。下記のサイトから全部ダウンロード可能です。クリックで開きhttp://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori96.htm、→まとめたファイルという表示部分を再度クリックしてください。
(古林治)


武田康弘

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良識人は皆「反戦」です。

2008-12-22 | 日記
わが国の15年戦争は、天皇現人神(あらひとがみ)のイデオロギーを政府・文部省がこどもたちに教え込む徹底した「国体主義教育」の下で行われてきたことは、誰でもが知っている「歴史的事実」です。


わたしは高校生の頃「べ平連」(ベトナムに平和を市民連合)の活動に参加しましたが、その反戦運動が正しかったことは、今でははっきりと証明されています。

また、最近では、アメリカによるイラク戦争にも反対しましたが、反対したことが正しかったことは、ブッシュと軍部による事実捏造が暴かれたことで明白になりました。

ところが、ベトナム戦争にもイラク戦争にも賛成し、アメリカの戦争に協力してきたのが歴代の日本政府(自民党政府)です。小泉元首相などは、いち早く積極的な戦争支持を打ち出し、外務省さえ呆れるほどでしたが、その彼は自身の過ちを未だに認めようとしません。倫理のりの字もありません。


ネット上では、「反戦」というと、非難されるようですが、戦争に反対する思想や運動を非難するとは!?病気以外のなにものでもないでしょう。ふつうの人=常識人は、みな「反戦」なのであり、戦前の日本思想や「皇軍」と呼ばれた日本軍の行為に対して批判し反省するのは理の当然です。

いまなお、民主主義の原理とは相いれない思想を堂々と語る自衛隊のトップや政府要人がいる国では「危険」ですし、「損」です。「戦前体制」を是認するような思想の持ち主が大手を振るうような事態を許してはなりません。

繰り返しますが、「反戦」とは、誰もが共有できる理念であり、公共性のある良識人はみな「反戦」なのです。


武田康弘
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子どもの問題?ーすべては大人の問題です。

2008-12-18 | 日記
踏み込んで話すことを大人はすべきでしょう。
そう思ってわたしは実践し続けていますが、
波風立てずに、という消極的な(無責任な)大人が多いようです。それでは毒にも薬にもならない話しかできなくなるのですね。
だから、
子どもたちは誰もまじめに話すことをしなくなるのです。
本気で話す・ぶつかる(ただし、全身で相手を受け入れる姿勢・態度をいつもとっていることが前提ですが)ことがないと、人間の主体性は育ちませんし、思考力などつくはずがないのです。
これは原理です。

ところが、教育論を語る学者や評論家のいうことを聞くと、まったくピントが外れていることが多いのです。口舌の輩には、自分が責任を持って主体的に取り組んでいないことを情報知だけを元にして語ることの不毛性を自覚してほしいものです。【机の上】で、あるいは、ただ【教場でのみ】子どもや青年と接して結論を出すことでは、「講釈師見てきた様な嘘を吐き」にしかなりません。

また、経験といっても、「高み」からの経験では経験とは言えません。そこで得られた「知」は、始めから都合よく概念化された知でしかないのです。わたしは、ナンデモアリの自由な私塾で、子どもや親の本音と向き合って32年がたちますが、こういう経験を踏みつつ教育を考えるという実践をしている人間につかなければ、有用な考えを導くことはできないはずです。

どうも今の時勢は、タレント化した学者や評論家が、生(なま)の現実を知らずに情報を「一般化」して意見を述べる風潮が支配的ですが、それでは、何も言わないのと同じです。否、却って有害です。いつまでこういうバカバカしい事態(=知的・心的退廃)が続くのでしょうか。
【心身全体で深く会得する】という「知」の基本を大人がまずしっかり身につけ、実践しなくてはいけません。すべては大人の問題なのです。

武田康弘

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今年の第九はプレートルの新譜を、永遠の第九はクレンペラーのDVDで。

2008-12-16 | 日記
今月の新譜で素晴らし「第九」が出ました。

2008年のニューイヤーコンサート、熱く感動的な指揮で聴く者を魅了したフランス楽団の大御所ジョルジュ・プレートルのベートーヴェンです。
もう大昔になりますが、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」全曲や、ビゼーの「カルメン」全曲(カルメンはマリア・カラス)で、その豊かな情感と艶やかな音楽にほれ込んで、わたしが長年愛聴してきたLP(両者共にCD化されています)の指揮者がプレートルです。

彼の第九は、実にチャーミングです。もう84歳(録音時は82歳)のプレートルは、実に若々しく情感豊かです。若い指揮者よりもずっと音楽が瑞々(みずみず)しく、色っぽいのは不思議です。響きのふくよかな美しさは、今はすっかり失われてしまったものですが、明晰で緊迫感をもった大迫力の演奏がしなやかで柔らかい音で奏でられているのですから、聴き手は大きな幸福感に包まれます。今年の年越しは、情感あふれる見事なプレートルの「第九」を!http://www.hmv.co.jp/product/detail/3307280
(このCDは音量レベルが低いので、ボリュームをあげてお聴きください)

「第九」と言えば、べートーヴェンのイデアをそのまま具現化したようなクレンペラーの演奏をあげなければいけませんが、1964年の大変貴重なDVD映像(クレンペラーは大のテレビ嫌いだが、危機にあったニューフィルハーモニー管弦楽団を救うためにテレビ撮影を許諾した)が、CDより廉価(輸入盤)で求められます(白黒映像ですが、かえってそれがよいのです)。
わたしは、全てのDVDから一枚だけ残せと言われたら、ためらうことなくこのクレンペラーの第九を残します。みなさんもぜひ。http://www.hmv.co.jp/product/detail/1481662

余談ですが、わたしにはクレンペラーのつくる音楽とセザンヌの絵画がいつもダブって見えます。このような深い真実を現した芸術を味わうのは、生きる至福です。もちろん、魅惑的で豊かな抒情のプレートルの世界に浸るのも最高の愉悦ですが。


武田康弘

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これが美術館!?殺伐とした「国立新美術館」での素晴らしい「ピカソ展」

2008-12-14 | 日記
これが「美術館」!?
ただの「催し物会場」でしかない。
無機的で殺風景。
なんの味わいもない。
落ち着き、ゆとり、ぬくもり、豊かさ、とは無縁の空間。
機能だけを求めて「一般化」し、そこに建築家のエゴを投影すればどういうことになるのか、その見本のような建造物、それが『国立新美術館』でしょう。
普遍性=深い納得の世界とは無縁です。
今日、「ピカソ展」に行き、はじめてこの建物に入り、わたしは呆れてしまいまいした。
内容の豊かさ・美しさがなく、センスの次元が低く、細部に神経が通っていないために、空間とも建造物の質感とも心が少しも通わないのです。

肝心のピカソ展は、大作・代表作が多く、素晴らしいものでした。
わたしの部屋には「ピカソ全集」があり、長年見ていますが、ほんもののピカソからは、巨大なパワーが放射されます。
ふと思いました。ピカソの大胆な冒険・飛翔する自由を可能にしたのは「父」であるセザンヌ(美のイデアの探究者)なのだと。

(なお、図録の印刷は「セザンヌ主義展」とは異なり、すぐれています。)


武田康弘
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MINIは終わったー BMW社のセンス低下

2008-12-13 | 日記
ついにMINIは、コンバーチブル(オープンカー)まで「新型」となり、インテリアは、大幅にデザインを悪化させてしまいました。

MINIのモデルチェンジは、製造コストを落とすことが主要課題であったと伝えられますが、
インテリアは、そのコストダウンの影響をもろに受け、従来のクラシック・モダンの上質な美しさが、ポップで単調なものとなり、各部材も工芸品のような味わいを失いました。

MINIから神秘が消えました。
カジュアルなのに高品位というなんとも【粋】なクルマは、ただの「BMW製の小型車」でしかなくなりました。
ドイツBMW社が、イギリスロ―パ―社がつくり上げた初代MINIのブランドイメージに挑戦し、21世紀の「伝説」を産み出そうという気概と緊張感ゆえの見事な成果は、それが予想をはるかに超えた「成功」となったことが災いして、アリキタリなものへと堕ちてしまったのです。

MINIは終わった、これが偽らざるわたしの気持ちです。
現行のMINIコンバチーブルを長く乗って、その後は電気自動車にしましょう。

☆写真は、現行のMINIコンバチーブル

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「一般化のわな」ー強い危機感を持ちます。

2008-12-12 | 日記
以下は、「白樺ML」へのメールです。


染谷ひろみです。私のメールへの返信ありがとうございます。

ただの「一般化」に過ぎないことをマズイどころか、多くが「よい」とすら思っている!?
そうだとしたら、強い危機感を持ちます。
このことの核心を明確に指摘したこのブログはやっぱり凄い。
書き言葉を「死んだ言葉」と言ったのはソクラテスでしたっけ?
でもタケセンのブログ文や言葉は、頭になるほどと入るというよりは、心身全体が強烈に揺さぶられて、まるで文が生きているように感じるのは何故なのでしょう。

タケセンが長年実践しつづけている「主観性の知を鍛える」ことは、本来なら家庭や学校などで当たり前のようになされなければいけないのでしょうが、それを「鍛える」のではなく「消去する」ことに一生懸命時間とお金をついやしていることが多いように思うのです。 こういう状況の中で、真逆(まっとう)なことを揺るぎなく実践しつづけている「白樺教育館」の価値は、はかりしれないほど大きいと思います。

それにしても、この「一般化の罠」は、はっきりと指摘されないとわからないものですが、多くの人がそれを「よい」と思ってしまうのは何故なのか?

私は、今の社会が全体的になんだか平べったくて重たい、受け身のムードが蔓延していることと重なるのではないかと思います。

でもここから抜け出るのは、とてもやっかいではないでしょうか。
「罠・詐術」とでもいうものにはまらない強さ・タケセンの言う「主観性の知」を鍛えることがないと、ひきずり込まれて溺れてしまいますよね。また、逆に無自覚ではあれ、自分が周囲の人を引きずり込むほうの側になっているかもしれませんよね?

家庭や学校や友人の間で、「一般化」にとどまらず「主観性を深めていく」ような対話や実践をしていくことの大切さを痛感しますが、自分の中でそれを行なう土壌(大元)を鍛える場がこの国にはあまりになさすぎると思うのです。繰り返しになりますが、そんな国にあっても長年、揺るぎなく実践しつづけているタケセン・白樺教育館の存在は、ほんとうに貴重です。

染谷ひろみ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田です。

染谷さん、ピッタリ!の感想、ありがとう。

もし、わたしの「書き言葉」が、「心身全体が強烈に揺さぶられて、まるで文が生きているように感じる」のであれば、大変に嬉しいことです(光栄)。
まあ、染谷さんはわたしと直接に対話をしているので、書き言葉でも「生きている」と感じるのでしょう。

ただ、ひとつ思うのは、わたしの表現仕方は「一般的なよい」とは異なるのではないか、ということです。「一般化」を拒否しつつ分かりよく、という試みが「成功」するのは、読む人の生き方にもよるわけで、わたしの書き言葉は、現代標準からは批判される類かもしれません。ビビットに生きている人には大変受けがいいのですが、形式優先で生きている人には不評ですね(小学生以来作文はいつも最高評価でしたので、不思議なことに学校の先生には受けたのですね~笑)。

また、話言葉、書き言葉を問わず、大事なのは言語の持つ含意性(表現性)です。ただ明示的に明瞭な言葉を使うだけではダメなのです。言葉の意味が深く・濃く相手に届くには、表現仕方を工夫しないといけません。言葉の意味は、「明示的な内容」と「表現性」が融合して浮かび上がるものなので、思想的な文章になると、ただ明瞭に内容を示せばいいというものではないのです。リズムやテンポを工夫しないとメロディー(思想内容)はうまく流れません。パワーを持って立体化しないと内容がよく伝わらず、面白みも生まれませんが、なかなかうまくいかないものです。染谷さんの文章は、いつも立体的で生きていますね。


武田康弘
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「一般化」は危険な現代病 へのコメント?-染谷ひろみ

2008-12-06 | 日記
以下は、「白樺ML」メールです。


哲学ブログつづき(「一般化」は危険な現代病)をよんで、またうなりました。
これすごいよタケセン~。感動および衝撃うけてます。
古林さんが言うように「学」の世界などでは要注意ってその通りですよね。
程度の差こそあれ私たち・私自身にもいえることだと感じて衝撃をうけた私です。
もちろん一般化することは大切でそれなくては社会生活は営めないし、なんにつけある枠組みがあって、その枠組みの中で自分の感じたことや奥底からわいてくる思い・考えを話したり発していくわけですが、
大切なのは、その内容を一般化のレベルにとどめずに、深めることだと今さらながら思います。
「一般化」することだけにとどまり続け(危ない落とし穴だ~貧しい生になっちゃいそう…)自分から動く・一歩ふみだす・試行錯誤を繰り返すことがないなら、今の社会のさまざまな問題点や身近でいえば自分の家庭の中で問題点に気がついた時など、解決の方向に向かって進んでいくことなど不可能なのだと思えています。
今の現実はどこもかしこもこの「一般化」をめざしそこまでにとどまる生が蔓延してるようでありながらも、ここ最近、多くのふつうの人はこのままではマズイってことをうすうす気がついているのではないでしょうか??

染谷ひろみ

---------------------------------

[ タケセン ] [2008/12/09 23:45] [ Myblog ] [ 削除 ]

染谷ひろみさん、メール感謝です。とてもいい内容で嬉しいです。
ただ、一般化の危険性については、ふつうの人も評論家も学者も教師もほどんど気づいていないと思います。
むしろ一般化が「よい」とさえ思っているのではないでしょうか?
だから、積極的に「一般化」の危険性や愚かさを訴えていく必要を感じます。
いまは、哲学や思想まで「一般化」の海に沈み、その役目を自ら放棄しています。
「主観性の知」の開発、それが核心です。

武田康弘

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「一般化」の危険性へのコメント?ー古林治

2008-12-06 | 日記
以下は、白樺MLです。

古林です。

次の一節には本当になるほど、と思い至ります。
『分析や現状認識は重要ですが、それは人間が生きる手段であり前提に過ぎません。さらに言えば、現状分析さえも「客観」ではなく、深く自身の実存と向き合うことで始めて価値あるものとなるのです。このことを肝に銘じておかないと、知的努力は「受動性」しか生まず、保守主義を招来するだけです。

 「一般化」されえない自分自身の生を見つめ、その地点から発想しない限り、世界は灰色のままです。どれだけ世俗の価値を積んでも、生きる悦びが内側からやってくることはありません。「普遍性」とは、たった一人のこの「私」の生を豊かに掘り進めるところからしか生じないのであり、一般化は、その営みの為の条件整備でしかないのです。』


で、自身のさまざまな体験を振り返ってみると、私にはさらに以下のように感じられます。
優れた分析や現状認識そしてそこから生まれる良質な解決策を実現させるのは、その当事者の実存の深み(普遍性の追求)からやってくる力だ、と。

たとえば、他者性が大事だとか対話が大事だという言説があるけれど、
人によっては強大な説得力を持つ一方、まるで説得力を持たない人もいます。
その違いはその人がどのように良い生(普遍性)を追及してきたかにかかって
います。当たり前ですけどね(笑)。

このことを私流に端的に表現するとこんな感じになりますかね。
優れた一般化は個人の普遍性の追求(実存の深み)から生み出される力によって支えられている。
一般化を生業にする人たちには、このことを深く自覚して欲しいと思います。
(学者さんとか官僚さんというのもこの生業の一つでしょうかね。)


そうそう、一般性とか普遍性という言葉の意味をつかむのは結構難しいです。
その昔、武田さんが子供たちのために書いたメモがとてもわかりやすいので、
引用しておきます。

正しさの3種類について。
1. 絶対の正しさ
誰がなんと言おうとぼくの考えはゼッタイ正しいんだ。とか、偉い人(又は神様)が
 言ったことだからゼッタイなんだ。・・
2. 一般的な正しさ
だいたいこんなところが正解だよ。みんなもそう言ってるし。とか千人からアンケートを
 とった結果このようになリました。・・
3. 普遍的な正しさ
なるほど、そうだなあ。と深く納得する。腑におちる。

 哲学で言う正しさとは、この3.)です。哲学では、1.)絶対の正しさというものは認めませんし、2.)一般的な正しさでは満足しません。
3.)の正しさをつくるためには、疑い・試し・確かめること。自分の頭でよ一く考えたことを、他のひとに示すこと。これを何度もくリかえしてゆく必要があります。だんだんとみんなが深くナットクする〈考え>にきたえてゆく営みを、「哲学する」と言うのです。
また、科学的な正しさとは、この3.)の中の一部分です。
〔1998年4月8日 武田康弘〕

古林治
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「一般化」は、危険な現代病

2008-12-02 | 日記
11月27日のブログ=「一般性」への堕落は、人間性のエロースを消去する。の続きです。


クルマを買うのも、家を建てるのも、学校を選ぶのもみなその人のもつ想念(イデオロギー)によります。人間は、何事に対しても価値判断しつつ生きるわけですから、生きるというのは、イデオロギーと共に歩むということです。これは原理中の原理であり、覆すことのできない「元事実」ですが、そのことの自覚が弱いと、人は「一般化」の海に沈んでしまい、自分の固有の価値=生の意味は消えます。

誰であれ、自分の生きる意味や価値―努力の方向を「一般化」に求めたのでは、生の悦びや輝きをつくれません。これは言うまでもないことでしょうが、どうもこの点についての自覚が弱いのが、現代社会の知的特徴のようです。巨大な管理社会の中で、哲学や思想もみな、技術知や客観学に陥り、大きな体制(一般)に飲み込まれてその存在価値を自ら消しています。「私」の主観を掘り進めることで豊かな「普遍性」の世界を開くというエロースの営みは、「一般化」という形に堕落させられているのです。

ベートーベンは、聴衆に鍛えられたとは言えますが、「一般的な曲」をつくろうとしたのではありません。セザンヌは、美のイデアを求めて苦闘したのであり、「一般的な美」をめがけたのではありません。特別な芸術的才能をもたない我々も、人生をどう生きるかは、みなそれぞれの創造であり、それぞれが個性的たらざるを得ないのです。「一般人」として生きるのではなく、【自分として生きる】のですから、誰でもみな、何をし・何をどう考え・どのように生きるかは、自己決定です。演出者など存在しないのです。その意味では人はみな作曲家なのであり、人のつくった曲を演奏するだけの人間はいません。

したがって、ほんらいの哲学や思想の役割は、それぞれの「主観性の領野」を鍛え、豊かなものとし、能動性―主体性を生みだすところにあります。

分析や現状認識は重要ですが、それは人間が生きる手段であり前提に過ぎません。さらに言えば、現状分析さえも「客観」ではなく、深く自身の実存と向き合うことで始めて価値あるものとなるのです。このことを肝に銘じておかないと、知的努力は「受動性」しか生まず、保守主義を招来するだけです。

 「一般化」されえない自分自身の生を見つめ、その地点から発想しない限り、世界は灰色のままです。どれだけ世俗の価値を積んでも、生きる悦びが内側からやってくることはありません。「普遍性」とは、たった一人のこの「私」の生を豊かに掘り進めるところからしか生じないのであり、一般化は、その営みの為の条件整備でしかないのです。


武田康弘
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美のイデアの追求ー『セザンヌ主義』展(横浜美術館)

2008-12-01 | 日記
昨日午後、「セザンヌ主義」と題する『横浜美術館』の展覧会に行ってきました。

表層の美しさには目もくれず、対象とそれを見る自身の意識と対峙して「美のイデア」に迫ろうとしたセザンヌの絵画は、西洋美術の偉大な一頂点だと言えますが、彼を父だと言うピカソをはじめ多くのセザンヌ礼賛者たちーマティスやブラック、ベルナールやドニなどと、セザンヌに心酔した『白樺派』美術運動の担い手たちー有島生馬、岸田劉生、小野竹喬、森田恒友、佐伯祐三らや安井曾太郎らの作品を並べて展示した今回の催しは、大変面白いものでした(当然ですが、『白樺教育館』のシンボル=南薫造の絵が載った『白樺』第3巻も紹介されていましたー柳宗悦「革命の画家たち」)。

セザンヌの色彩は、追随者たちのものとは大きく異なることが分かります。地味なのに多色で美しいのです。しかも透明で繊細微妙なことには驚愕するほかありません。単純化が豊饒化につながり、強烈なエネルギーが静謐さを生むという逆説を示しています。
油絵なのに水彩のような作品、晩年の水彩画、みな、静かで柔らかくしかも揺ぎなく強い。強烈な力と品位の高さが両立し、自然物が持つような美を感じさせます。
なによりも驚くのは、絵具で塗った・描いたというのではなく、中から色が出てきたというように見えるので、描かれているものの存在が強い光を放つのです。

中学生の時に「赤いチョッキの少年」他の絵を美術書で見て感動して以来、わたしにとってセザンヌはずっと特別な画家でしたが、昨日改めてまた強烈な感動におそわれました。
「セザンヌ展」に行ったのは、1986年の『伊勢丹美術館』以来で、知らぬ間に22年が経ちました。
(☆信じられぬほど良好な保存でいま描いたばかりのような色彩の「バーンズコレクション展」(1994年)でのセザンヌは別格でしたが。)

横浜美術館の展覧会ー「セザンヌ主義」は、来年1月25日までです(木曜休館)。
※ひとつ残念なのは、図録の印刷の色彩が悪く、酷くズレていることです。


武田康弘
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