思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

力あるものの超法規社会では、社会は公共性を失い、崩壊します。

2008-02-28 | 社会思想
【法律】とは、元来弱い立場=権威や権力の保持者ではないほとんどすべての人を守るために、主権者の意思でつくられるものです。この原則は近代市民社会においては絶対であり、これに異議を挟むことはできません。

 ところが昨今は、力を持った者や組織が、憲法と法律を無視して勝手にふるまうという【超法規の蛮行】がまかり通っています。自衛隊が犯した過ちの責任者を、警察(海の場合は海上保安庁)が取り調べる前に基地に連れて帰ってしまうということが許され(もちろん許されるはずはありませんが)、また、以前ブログに書いたように鹿児島県警と検察の反法と明らかな違憲があり、しかもそれに対しては、処分らしい処分すら行われないというのは、自由と民主主義の政治体制そのものの危機です。

 個々人は政治や官の権力者のために存在する!?ついでに言えば、「学」もまた、学者の権威に従うのが民であると言わんばかりの逆立ちがまかり通るようでは、人類に未来はありませんね。群畜としての民!?!?一人ひとりのふつうの人間―市民こそが一切の価値の源泉である、というあまりに当然の前提が崩れれば、この社会の全ての機構・組織の正当性は大元から崩壊します。公共性は成立しません。

本質的に思考し、土台に戻り、民主制社会に生きる人間としてまっとうに考え・行為し・生きなければなりません。

武田康弘
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アメリカによる日本の主権の侵害ではないのか?三浦氏逮捕に思う。

2008-02-27 | 社会思想
最初にロス疑惑の三浦氏逮捕というニュースを聞いて、なんとも不思議な気持ちがしました。
日本人である三浦氏は日本の最高裁判所で無罪が確定したにも関わらず、
アメリカの検察・警察が逮捕できる!?といのは、どういう法的根拠によるのか?
わたしには理解できませんので、どなたか教えて頂けませんか?
わたしが小学生の時に暗記した日本国憲法の39条には、 「何人も、実行の時に適法であつた行為又は
既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の
責任を問はれない。
」と書かれていますが、どうして、今回の逮捕が可能なのか?
アメリカは軍事力が世界一だから、アメリカの法は日本の憲法を超越し、
無罪が確定した日本人でも逮捕し、刑を課することができるのか?(笑)
もし、この点で明瞭な法的根拠がないのならば、これは、アメリカ国家による日本国家の主権の
侵害になるはずで、大問題だと思いますが、どうしてその点についてマスコミは報じないのでしょうか?
それともわたしの疑問は愚問なのでしょうか?どなたかご教示願えませんでしょうか?
武田康弘
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僕の人生

2008-02-27 | 私の信条
今日は、おやすみなので、机の片付けをしていたら、ノートに挟んであった紙きれが落ちた。
ずいぶん昔に書いたもののようだが、せっかくなので、ブログに載せることにした。


僕の人生

僕は、死の瞬間まで、情熱的に生きる人間でありたい。
精神と肉体の輝きをもって、エロースの生を紡ぎ出す。
僕は、その同伴者を増やしていけたらいいな、と思っている。
しかし、現代の管理社会の中で、みなは重たい日常に縛られ、はつらつとした命、心身の輝きが失せ、多くの人は、惰性態に陥っている。
自分で自分の首を絞め、悦びから遠ざかる。
いろいろ言い訳をしながら。
僕が子どもたちが好きで、子どもたちを愛するのは、彼ら・彼女らの多くがまだ惰性態になっていないからだ。
大人ではそういう人はほとんどいない。
僕は僕の発する光を受け止め、生かし、高めてくれる同伴者を求めている。僕の光が同伴者にもよき世界をもたらせたら素敵だ、と思う。
これは奇跡のような出来事―夢だ。
でも、僕はその夢を生きてみたいのだ。

武田康弘

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自衛艦は「治外法権」!?仰天するほかありません

2008-02-25 | 社会思想
主権者であるわれわれ市民が雇っている自衛隊という名の軍隊が市民=民間人の上に立ち、大手をふるっていいいはずはありません。
昨日の新聞には自衛艦は「治外法権」で、法律(船舶法など)の適用を受けない!?という恐るべき記事が載っていますが、これが本当なら日本という国は、戦前・戦中のままということになります(いつも有事!?-狂気の沙汰です)。
そういえば、海上自衛隊の正式な行進曲は、いまだに「軍艦マーチ」(正式名は「軍艦行進曲」)なのだそうです。その歌詞は、

歌詞

守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の
皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇なす国を攻めよかし

石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾撃つ響きは雷(いかづち)の
声かとばかり響(どよ)むなり
万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光輝かせ

驚くなかれ、【皇国】(天皇の国)を守る!!!というのです。

明治天皇賛歌として明治天皇に捧げられた「君が代」を現代日本の【国歌】にしてしまうという感覚は、江戸っ子(なぜ、京都が本家の天皇家を敗戦後も江戸城に住まわせておくのか?不思議だな~と思うのが東京人です)のわたしには全く理解不能ですが、
それと同じく、海上自衛隊の正式の行進曲の歌詞が「皇国を守る」ですから、これはもう、やはり日本は「天皇を中心とした神の国」!?(森元首相)なのかな~(笑)と思ってしまいます。仰天するほかありません。

ついでに言えば、せっかく国の花である「さくら」という日本的な名曲があるのに、この国花をうたった曲を国歌にせず、わざわざ国論を二分する歌― 歌詞の内容もまったく意味不明の「君が代」を国歌にして教育現場で強要する、こういう想念や感覚を変えなければ、わが国が明るく楽しい国になることはないでしょうね。

そこのけそこのけ自衛隊と米軍が通る、では嫌になります。「戦争の脅威」なる神話をねつ造して市民生活を圧迫する自由はないはずです。何のための自衛隊なのか?誰に雇われている自衛隊なのか?深い自覚が必要です。

武田康弘
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一人ひとりの存在の価値・輝きを超えるものはない。

2008-02-23 | 恋知(哲学)
君の存在は、○○君の存在より優れている。
あなたの存在は、○○さんの存在より劣っている。
そんなことを言える人は、この世の誰ひとりとしていません。

100メートル走の優劣や、計算能力の優劣は言えても、その人の存在価値の優劣は誰にも分からない、と言うより、元来決めることが不可能な領域の話です。

天皇家に生まれた人間は、あなたより価値が上だ、ということももちろんありません。どこの生まれ、などで存在を規定するのは、最も下劣な想念です。

土台、ある特定の人間が他の人間すべてを「象徴」するなどということが出来るはずがないのは、誰にでも分かることで、子どもたちはみな、そんな話がデタラメだ、ということを知っています。特定の思想教育を受けていないふつうの子どもは、赤ちゃんの時から「○○さま」と敬語で呼ばれる特別な存在がいることを訝(いぶか)しく思います。

話が脱線しましたので、戻しますが、
人間の存在、いま、わたしがここに生きてあること、それ以上の価値はないのです。わたしの存在、あなたの存在、存在していることの驚異・輝きは一切の基盤であり、価値論として考えても、一人ひとりが「生きてある」こと以上の価値はどこにもありません。至上の価値とは、一人ひとりの存在にあるのであり、したがって、わたしの心の想いや良心は、何よりも貴重な宇宙なのです。

人間が類的存在であること・関係性の存在であることの深い意味と価値は、個々人の何よりも貴重な存在の輝きに照らされてはじめて現実に価値あるものとなるのであり、その実存の価値を少しでも減じるようなシニカルなものの見方は、必ず人間的なよきものを潰します。自分の命や存在を軽視する思想は、実り豊かな関係性をつくらず、あだ花を咲かせるに過ぎません。

己の存在の価値を深く自覚するに比例して、公共性=関係性は豊かな内容を持つよきものとして広がるのであり、形式的・儀式的思考や、要請や命令の言説は、形だけ・うわべだけのエロースのない「関係・間・あわい」しか生まないのです。これは原理です。


武田康弘
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もう一度確認です、公共について。金泰昌氏との論争

2008-02-19 | 社会思想
「公共的良識人」紙の2007年12月号、及び、2008年1月22日の参議院でのパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori87.htmにおける私(武田康弘)と金泰昌氏との論争の核心点である【公と公共の区分け】の問題について、再度簡明に記します。



官庁が、民間の組織とは異なるものであることは当然です。
①官庁の組織があり、②民間会社があり、③NPOなどの市民団体があり、④趣味の集まりがある。それぞれは大きく異なっています。

では、官庁は、みなに共通する利益(市民的な公共性)とは異なる独自の「公」(おおやけ)という世界をつくっていいのか?となれば、当然、市民主権の民主主義社会では許されないことです。近代市民社会では、官とは、主権者の共通の利益を実現するものとして主権者のお金=税金でつくられたのであり、主権者の利益とは異なる独自の世界(官が考える国家!?)を持つことはできないからです。
これは、原理・原則に属する話であり、ほんらい意見の違いが出るような場面ではないはずです。公私二元論だの、三元論だのというようなことではなく、基本的な近代社会の常識に属する話でしょう。

④の「私の趣味の集まり」が、社会人みなの共通利益とは無関係に独自の世界を持つことには何の問題もありませんが、官庁が「市民的公共」とは異なる独自の「国家のため」という世界をもつことは許されないはずです。【「公共」(市民)と「公」(官)を自立・分立させることが必要だ】という金泰昌氏(「公共哲学」運動推進の第一人者)の主張を受け入れることは、近代市民社会の原理からの逸脱であり、到底できません。

どうも、ここでは、金泰昌氏が理論の次元・位相の混同を起こしているために、極めて錯綜した話に陥るのだと思います。公や公共という言葉の意味は、実体=具体的な組織を指すのではなく、性質やありようを示すものですが、それを実体化させた官や民や私に対応させるために、異なる位相の話が一緒になり、話が混乱してしまうのです。

官であれ民であれ、異なる組織や団体や個人がそれぞれの特性を生かし・協力しながら、【公共世界】をより豊かに開くことが必要なのであり、官は「公」をめがけ、市民は「公共」をめがける、というのでは訳が分かりません。【官という組織は、市民の利益=公共を実現するために、市民の意思とお金でつくられたもの】、という原則を曖昧にしては、わたしたちの「近代市民社会」(民主主義国家)は成立しようがありません。もう一度、「天皇制国家」(天皇に仕える官吏としての公務員)に戻すのでない限りは。

武田康弘
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鳩山法務大臣の発言を生む想念は、民主主義とは相いれないー検察・警察への厳格な処分が不可欠

2008-02-18 | 社会思想
法相発言に批判と反発強まる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=409756&media_id=2

わたしは、14日のブログhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=714740677&owner_id=548859に書きましたように、鳩山法務大臣(この人は文部大臣も務めた)の発言を生む想念は、自由・民主主義とは根本的に異なるもので、その言動は、お気軽な【お坊ちゃんの政治遊び】としか思えません。市民が主権者であり、政治家とは「代行者」でしかないはずの民主主義の思想・制度とは相いれない人物、と評する他ないようです。

【検察と警察に対する厳重・厳格な処分】をしなければ、主権在民の民主主義は崩壊します。これは絶対的な要件です。
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罪もない人を犯罪者にして「お気の毒」!これが法務大臣?―激しい怒りと憤り

2008-02-14 | 社会思想
わたしは、自由でやわらかな子どもたち、何の特権的な力も持たないふつうの人たちこそがほんものの人間だ、という不動・絶対の確信をもって、小学生以来、ずっと生きてきました。小学5年~6年生のとき先生に頼んでつくってもらった「政治クラブ」で学んだ日本国憲法の人権思想は、まさに人類普遍の原理であり、これに反する思想を持つことは許されない、と深く・強く確信したのです。
「職業に貴賎はない」という考えを持ち・実践する人間ではない人、いわゆる「「エリート」という意識を持つ人は、もっとも恥ずべき人間で、そういう人は犯罪者よりもはるかに悪い=【反・倫理的人間】だ、と強く思い続けてきました。
だから、まだ自分の家の宗教(浄土真宗)については何の興味もなかった高校生の頃に、神田の書店で偶然立ち読みした『歎異抄』に身が震えるような感動を覚えたのです。

学歴や履歴が「立派」で、哲学的=人間的=本質的に劣っている人は、必ず「エリート風」を吹かせるものです。

鳩山法務大臣の発言―【鹿児島県の選挙違反事件】(手柄をあげるために警察官がでっち上げた事件で、これに検察も同調し、違法な脅しによる取り調べで村人を逮捕・起訴・抑留したおぞましい事件。わたし(武田)は、自国民を拉致するような【警察と検察=公(おおやけ)】による犯罪で、北朝鮮を非難する資格はない、とブログに書きました)での無罪判決を、「冤罪(えんざい)と呼ぶべきではない」と発言したとのことですが、こういう人間をわたしは決して許しません。

ただ、「被告にされた方々に大変なご迷惑をおかけした痛切な気持ちはもっている」と補足したと新聞には書かれていますが、無実の罪で(明白なアリバイがあったにも関わらず)1年間も刑務所に入れられていた人に対して、「ご迷惑をかけた」で済むと思うのは、まさに特権階級者の意識=民主主義国家では許されないおぞましき意識という他ありません。証拠もないのに起訴した【鹿児島県の検察と警察】に対して処分らしい処分は何も行わないという法務大臣は、法務大臣としての最低限の資格すらない、と言えます。法律とは、市民を守るために存在する(それが法律の本質)という基本さえ知らず、【市民的公共】とは別に【「公」という名の国家権力】が存在するかのような妄想にとりつかれている人には、市民の代行者としての政治家の資格はありません。現代の日本は、「天皇の下での臣民」の時代ではないのです。

どうも政治家にしても検察官にしても、自分が「主権者のサービスマン」であることを忘れて、人の上にたつ「エリート」とでも思っているふしがありますが、もしそうならば、対等な個人という近代民主主義の大原則さえわきまえない愚か者、という他はありません。一刻も早く辞めてもらわなければなりません。

武田康弘
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改憲派から護憲派へー欽定憲法も近代憲法も「憲法」だから同じ!?

2008-02-13 | 社会思想

改憲論者であった小林節慶応義塾大教授は、自民党の憲法改正案が出た後では、護憲派になりましたが、それは、近代市民社会の原理(民主主義原理)を踏まえれば、あまりに当然の帰結です。
為政者を主権者である市民の意思で縛るのが「近代憲法」の立憲主義ですが、主権者である天皇が臣民に与えた「欽定憲法」も、名前が「憲法」だから同じ、というのでは、あまりにお粗末です。
その根本的な違いもわきまえずに新憲法をつくろう、というのだから、小林教授に限らず、主権在民の民主主義思想を理解する人ならば、誰であれ呆れ返ることでしょう。自民党の憲法改正案は、主権者である国民の方を管理するような発想で憲法をつくろうとするもので、これでは「近代憲法」にはなりません。
近代市民社会(自由の相互承認に基づくルール社会)の【良識】とは異なる考えを現代に持ち込むことは、明らかに間違いです。
いまもテレビを見ていたら、宮内庁長官が、天皇に皇太子が会いに行く回数が少ない、と苦言を呈していましたが、家族問題まで政府の役人が口を挟み、管理しようとするー論評するのも厭になるほど愚かな話です。
これは、個々人からエロースを奪う人間管理主義の【象徴】のような話ですが、この問題については、以前わたしは、『皇族の人権と市民精神の涵養』という文を書きましたので、よろしければご覧ください。

武田康弘
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参議院主催パネル・ディスカッション「公共哲学と公務員倫理」 の意義とその模様

2008-02-11 | 社会思想
去る1月22日に行われた参議院調査室主催のパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」は、大変白熱した議論となりました。
この催しの形式も内容も全てが【前代未聞】であったようですが、今後は、こういう丁々発止の本音トークが「あたりまえ」になれば、日本の社会も大きく開けるはず、そう私は確信します。

「真理の保持者はいない」、それが民主制の社会です。この社会・国家をつくっているのは、われわれ一人ひとりの市民であり、代行者(政治家)やサービスマン(行政職員)はいても、特権者はいないー認めないのが近代民主制の政治と社会の原理です。それを現実のものにするためには多くの努力ー意識と制度の改革が必要ですが、その営みには大きなよろこびがあると思います。

人間の生き方や社会のありように関しての専門家は存在せず、生活者の日々の具体的経験についた「よい・美しい・ほんとう」への試行錯誤があるだけだ、という原理を踏まえ、【自問自答と自由対話】によって物事を進める、それを私たちの社会の大原則としなければなりません。

1月22日の模様は、白樺教育館のホームページで見ることができます。http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori87.htm
また、無修正の音声ファイルも公開されていますので、http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/info1.html興味がおありの方は、ぜひ見て(聞いて)みてください。

また、このディスカッションの激論をそのまま活字化した『立法と調査』も発刊されるとのことです。国会職員と衆参の国会議員に配布されるそうですが、発刊後に参議院のホームページで公開されるとのことです。


武田康弘
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ベルリオーズの世界―「幻想交響曲」トーマス指揮の現代的名盤

2008-02-08 | 趣味
マイケル・テルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団によるベルリオーズの『幻想交響曲』は、現代的でシャープ、同時に緻密で細やかな演奏ですが、聴く込むほどに味わいが増し、繰り返し聴きたくなる名演です。

音色の美しさや華麗さはありませんが、明晰でリズム感がよく、しっかりとした構成力が抒情性の表出を支えています。ロマン主義の権化とも目される曲ですが、全体に古典的とも言える落ち着きがあります。

パッと面白く聴かせる演奏ではないのですが、終楽章の迫力は怖くなるほどで、サンフランシスコ響の巧さにも舌を巻きます。余白には、声楽付きの「レリオー生への帰還」の抜粋が入っていますが、これが選曲もよくとても聴きごたえがあります。

録音も分解能とバランスがよく、ダイナミックレンジが大変広く、強奏時に大音量にしてもまったく歪まず、極めて優秀です。

ぜひ、みなさんお聴きになってみて下さい。

以上は、わたしが管理人を務めるmixiのコミュニティ【ベルリオーズの世界】のトピックとして書いたものです。


武田康弘
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近代市民社会の常識ではダメー真の神を見出すべき!?へのわたしの応答

2008-02-03 | 恋知(哲学)
敗戦後すぐの東大総長であった南原繁は個人と共同体との調和をめがけた「理想主義的現実主義者」であったわけですが、
キリスト者であった南原の「真の神が発見されない限り、人間や民族ないし国家の神格化は跡を絶たないだろう」という言を貴重な真実として語る宗教学者の稲垣久和さんの「公共哲学メール」に、わたしは批判的なメールを出しました。
しかし稲垣さんの返信がないうちにわたしの友人の山脇直司(東京大学教授)さんが介入ましたので、山脇さんとの10回以上にわたる長いやりとりに変わってしまいましたが、それが一段落した時点で、稲垣さんからMLのみなに宛てたメールがありました。
稲垣メールは、山脇さんへの最後のメールでわたしが確認した「近代市民社会の常識」を批判する趣旨のものでしたので、それに応える必要を感じ、メールを出しました。

これは、とても深い哲学上の論争だと思います。
「公共的霊性」「公共的宗教」の必要性を強く訴える稲垣さんの思想は、
宗教や霊性を個人の自由の範囲で十分に認めつつ、しかしそれは現実政治の世界とは次元を異にするものという原則を徹底させる必要がある、というわたしの考えとは大きく異なります。
わたしは、「近代民主制」の思想の本質をしっかり見据え、それを深め広げることが何よりも重要な現代社会の課題であると考えていますので、以下に稲垣さんに宛てたメールをコピーします。



稲垣さん 、みなさん、

「宗教心を克服して人間の理性・感性から近代の人権や自由等の問題を考えてきたのがこれまでの常識的な近代化論でしょう。しかし、そんな常識論が、うまくいっていないことがありありと出てきているのが現代世界であり、」(稲垣)

わたしは、【近代の社会原理】(稲垣さんの言う常識的な近代社会論)が、①政治世界において哲学・思想的意味として理解→了解されていないこと、 ②政治家を含むふつうの多くの人の意識として、まだ極めて不十分な認識しか持たれていないこと、③それは民主主義をほんとうに実現するための「考える(覚えるではなく)教育」と自由対話の実践が学校と家庭教育の双方でほとんど行われていない!!ことが問題の核心だと思っています。

要するに、近代の原理が極めて不徹底・不十分(意識としても制度としても教育としても)であるところに現代社会の問題の根を見ているわけですので、稲垣思想と武田思想は大きく異なります。「公共宗教」がないことが原因だ、という考えは持ちません。

そこで、ひとつ整理しておかねばならぬ問題について書きます。

わたしの師であった竹内芳郎氏(哲学者でサルトルの『弁証法的理性批判』ポンティの『知覚の現象学』その他の翻訳者かつ解説者、また、独自の「宗教論」「文化論」「言語論」を生み、現代思想の批判的紹介者でもあった)は、普遍宗教、中でもキリスト教のもつ「超越性原理」を高く評価し、個人の自立の思想だけではエゴイズムに陥る危険性があり、また世俗の価値を相対化するためには、超越性の原理はなくてはならぬものと考えていました。

しかし、わたしは、ふつうの多くの人(幼い子どもから成人者・高齢者まで)との数知れぬ(日常的な)会話・対話・議論・交際を通して、氏の超越性原理の思想は、現代の日本社会ではほとんどリアリティを持たないと確信しました。世俗の雑駁な日々の生の中から「よいや美しいや真実」の世界(理念やロマン)を見出すこと、そこから飛躍せずに自・他・世界の課題とその解決策を見出すこと、要するに内在的に思考し「超越項」をつくらずに自他のふつうの人の生の実情に沿って深い納得が得られるように考えること。理論の体系や累積的な知識ではなく、恋知(深い納得)する営みが何より大きな価値があると思うに至ったのです。(「生活」は「学」よりも価値的に上位であり、これは原理中の原理です。)

そこで、整理しますと、①なんらかの超越的な原理をもって思考し生きること(宗教者の生)と、
そうではなく、②「至高のもの」を内在化させて(日常生活のふつうの体験につき)生きること、従って、至高のよきもの・美しきものは、具体的な経験(恋や音楽や民芸や美術や自然・よきもの美しきものとの出会い)から得ること(世俗者の生)、
この両者をともに認め合うことが必要だと思います。
自分の信念が他に優越するという考えを心の深部に隠し持てば、生きた意味ある対話はけっして成立しませんし、民主的な分け隔てのないしなやかで柔らかな人間性ー上下意識を廃した自由で気持のよいざっくばらんさ・明るさは生まれようがありません。

市民の自立ー個人の自由を阻む国家主義のイデオロギーと教育は共通の敵だと思います。国民国家としての近代国家を、市民(シチズン)国家としての近代国家へと変えていくことが必要であり、それは十分可能であるし、そうすることが日本という国をよくすること・強くすることであり、またそれはそのまま世界平和ー友好につながるはずだと思っています。
わたしは広義の「愛国者」です。ゆえに、従来の日本文化(政治等も含む広義の文化)をエロース豊かなものに変革しようとしているわけです。

武田康弘

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