思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

思想次元と現実次元の区別もつけられない?中山大臣の発言は明白な憲法違反です。

2008-09-30 | 日記

人間は、さまざまな想念を抱きますが、それはどのような反社会的なものでも、反道徳的なものでも全く自由です。
しかし、
それが現実次元(とりわけ政治家の言動)においては、「互いの自由の承認」の枠内でしか認められないのです。

これは言うも愚かな話ですが、「「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が先頭になる決意だ」(28日)という発言は、市民社会が成立している民主制国家であれば、どこの国においても憲法違反です。合法的な活動をしている団体(この場合は日教組)を、最高の行政権力者である大臣が「ぶっ壊す」ことを宣言することはできません。

思想・想念の次元と、現実次元における言動とは次元を異にするのであり、これは論を待たないことですが、どうも次元を混同している人がいるようですので、ひとことしました。

日本国憲法の人権規定に反するとは、民主主義の理念・原理に反するということであり、民主制国家(近代市民社会)において政治家を続けることはできないはずです。


武田康弘

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官僚政府による一元的な教育管理の思想は、戦前の国家主義と同じ(中山大臣ら文教族の本音)

2008-09-28 | 日記
文部科学省の官僚(いわゆる霞が関官僚と呼ばれる行政官僚であり、立法と司法に関する官僚とは異なる)と文教族と呼ばれる保守派の議員とが一体化したわが国の教育行政は、北欧などとは大きく異なり、一人ひとりの子供の側(主観性)に立つのではなく、保守主義者の思想(客観主義)に合わせて学校を管理するというものです。

「天皇陛下を中心とする単一民族国家である日本」にふさわしい子供を育成するのが国家の役割であり、従ってその国家意思(国体)に反対する日教組は、諸悪の根源であり、これは政治権力をもって潰すべき、というのが中山国土交通大臣の思想です。

わたしは日教組の思想には共鳴しませんが、中山大臣をはじめとする文教族の国家主義思想(哲学的には明治の山県有朋ら国権派の思想と同じ)にはさらに共鳴しません。

「日教組は何とか解体しなきゃいかんと思っている」(27日)「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が先頭になる決意だ」(28日)(共に中山国土交通大臣)と言う発言は、保守派の実力者といわれる政治家からいままでも繰り返し聞かされてきましたが、こうした戦前の哲学(国体イデオロギー)による教育の国家管理という発想は、民主主義の原理とは二律背反であり、断じて許せません。

近代市民社会の原理(対等な個人による「自由の相互承認」に基づくルール社会)から逸脱した思想をもち、官府の決定に反対する者は排除する、というような人は、民主制社会における市民の代行者にはふさわしくありません。

≪反対する自由≫がなければ、社会(流動的で活力に富む生きた人間の集合)は死んでしまい、固い固形物のような国家(あらかじめの「真理」=「客観」の強要である国体)だけが残ります。
個人の悦び・可能性を広げる生きた社会は、絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会以外にはありえません。

【自問自答と自由対話】こそが、教育と個人のよき生と社会運営の普遍的原理なのです。


武田康弘

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以下は、コメント欄です。

[ 通りすがり ] [2008/09/28 20:34]

あなたが、「断じて許せない」と言っていることと
絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会とは矛盾しませんか?
アホな大臣の発言も異論の一つではありませんか?
貴方がこのブログで発言できることもまた、絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会を我々が持っていることの証左だと思いますが・・・

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[ タケセン ] [2008/09/28 21:28] [ Myblog ]

通りすがり さん

詭弁を弄されては困りますね。
民主主義社会では、自由と人権を否定する自由はないのです。この原理を受け入れなければ、近代市民社会は成立しません。
古代国家でも封建国家でも独裁国家でもなく、民主主義国家の原理は、「自由の相互承認」なのです。政治権力を使って合法活動をしている団体をぶっ壊す自由は認められない、これが民主主義社会の簡明な原理です。

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麻生太郎政権ー国権派のお友達内閣はもうたくさんです。

2008-09-26 | 日記
16日のブログの続き

麻生太郎さんが自民党総裁になりましたが、内閣の顔ぶれは、一年前の安部内閣と同じく「お友達」&「国権派」ですね。「親の七光」と世間で言われている人たちが世襲でつくる内閣では「生活者が第一」の政治は無理でしょう。主権者であるふつうの市民がつくる公共政府ではなく、選民(エリート)がつくる公=国家主義政府はほんとうにもうたくさん、というのが正直なわたしの感想です。

東大出版会のシリーズ『公共哲学』(全20巻)の基本方針である「公」(おおやけ)と「公共」を分けるという思想は、民主制の原理に反するものです。現状は公(官僚政府)と公共(市民)が分かれていますが、それでは市民社会の原理である民主主義とは言えません。
われわれ主権者の「代行者」が政治家であり、官僚とは市民的公共を実現するためにのみ働く市民「サービスマン」である、という原理=当り前の思想に徹底して立つ政府(内閣)を市民の力でつくらなければ、と強く思います。エリート思想を排することで日本を北欧なみの民主主義社会にしたいものですね。
夢かな~?
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「被差別部落出身者を総理にするわけにはいかない」-麻生太郎

2008-09-16 | 日記
昨日(9月15日)の東京新聞朝刊の「本音のコラム」で、山口二郎さんは、次のように書いています。

「魚住昭氏が書いた「野中広務 差別と権力」(講談社刊)という本の中で、麻生太郎氏が野中氏について、被差別部落出身者を総理にするわけにはいかないと自民党河野派の会合で発言したこと、その後引退直前の最後の自民党総務会で野中氏自身が麻生氏の面前でこのことを暴露し、厳しく糾弾したことが書かれている。先月末、野中氏がTBSの番組に出演し、麻生氏を批判したことには、こうした背景があると思われる」

これが事実であれば、麻生太郎さんは、総理大臣はもちろん自民党総裁という地位につくことも不可能です。

日本には、石原慎太郎氏のように差別発言を繰り返し、世界的に非難され、裁判まで起こされる都知事がいますが、総理大臣もまた同じ穴の狢であるとなれば、もはや救いようがありません。


武田康弘
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ベルリオーズの世界ー「幻想交響曲」 クリュイタンスの東京公演

2008-09-16 | 日記
以下は、わたしの主宰するコミュニティー【ベルリオーズの世界】のトピックです。

幻想交響曲についてもう一度。実は、わたしの「幻想」のベストは、
クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団の東京公演なのです(クリック)。
1964年の東京文化会館でのライブですが、これは初出時に感動し、多くの友人に
勧めました。
古いライブですが、テープヒスさえ気にしなければ、自然で聞きやすい音です。
シャレた明るい音色、線の細い上品な味わい、しかも4楽章5楽章は、
エスプリ豊かな音楽はそのままに、弦も管も打も限界まで音量を上げた怒涛の迫力。
ベルリオーズが生きていたら泣いて悦びそうな演奏です。
もし、まだお聴きでない方は、ぜひどうぞ。リマスターされたCDは
よい音ですので、自信をもってお勧めします。
わたしは買い直して確かめましたので、保証付き(笑)。
この演奏の解釈は極めて普遍性が強いのですが、しかし解釈とか音楽の
つくりが・・・を言う前に、とにかく各楽器の音の鮮度が恐ろしく高く、
生命力が横溢してはち切れんばかりなのです。しかもその怒涛の音の洪水は、
フランスの香りをふんだんに匂わせながら、粘らず、パリッとしているのですから
たまりません。ドキドキして、震えが来て、涙まで出てきます。
こんな演奏がかつてはあったのです。これを聴いていると、生命のエネルギーが
横溢し、私自身の内部から沸々と「力」が湧き上がってくるのが分かります。
全身に鳥肌が立つのです。なお、HMVにレヴューを書きましたので、
コピーします。

最高!魅惑の「間」、洒落た音と絶妙のバランス、これは「管理主義」のような
音楽しかない今の時代はもちろん、当時でもなかったもの。線の細い上品さを
保ったままオーケストラの限界に挑んだ迫力と熱気。高い品位と燃える情熱が
同居した前代未聞のライブです。
わたしは40年間に100種類を超える幻想を聴いてきましたが、これは別格で、
霊感に満ちた奇跡的名演です。"タケセン
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山脇直司、竹田青嗣、武田康弘の「市民アカデミア2008」のご案内

2008-09-12 | 日記
山脇直司、竹田青嗣、武田康弘の【市民アカデミア2008】のご案内

【『公務員を哲学する-市民社会と公共性を考える』と題するものですが、

9月26日(金)山脇直司
10月24日(金)竹田青嗣
11月21日(金)武田康弘

の3回シリーズです。

わたし武田は、100年以上にわたって日本人と日本社会を支配してきた官僚制度の芯である「キャリアシステム」を支えている暗黙の想念を、哲学次元にまで下って解剖する講座(立体的自由対話を含む)を行いますので、このブログの読者の方はぜひご参加ください。よろしくお願いします。

参加費用は、
3回通しの場合は、4500円
1回のみ参加の場合は、2000円です。

詳しくは、アジア太平洋文化センターまでお問い合わせ下さい。http://www.keiho-u.ac.jp/academia08/renzoku1.html


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理念次元って何ですか?ーーリズ

2008-09-08 | 日記

以下は、「永遠を生きる と 瞬間を楽しむ」対するコメントです(「思索の日記」への)。



[ リズ ] [2008/09/07 20:12]

こんにちは。初めまして。

ひとつ質問させてください。

理念次元って何ですか?

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[ タケセン ] [2008/09/07 21:24] [ Myblog ]

リズさん、

スーパーマンは理念・ロマン次元の存在で、
オリンピックの体操選手は現実次元の存在です。

人間の現実は、理念・ロマンの世界がないと輝かず、意味付きません。象徴・想像力動物である人間の現実は、理念・ロマン次元によって支えられていると言えましょう。

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[ リズ ] [2008/09/08 14:06]

御返信ありがとうございます。

理念・ロマンはつまり将来の夢や目標とも言えるのでしょうか?

それが現実を支えているからこそ輝いている、意味があると言えるのでしょうか?

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[ タケセン ] [2008/09/08 18:36] [ Myblog ]

いいえ、違います。
理念やロマンは現実にはなりません。理念やロマンと現実は次元は違うのです。
どんなに頑張っても「スーパーマン」にはなれませんが、「スーパーマン」は理念・ロマン次元では成立します。
イルカのように泳ぎたい、と思いそれを理念として水泳選手が練習することはありますが、イルカと同じ泳ぎにはなれません。
理念・ロマン世界は、現実を指導し・支え・意味づけますが、それは現実的な目標とは違います。「オリンピックで金メダルを取る」というのは現実において達成可能な目標であり、理念・ロマン次元の話ではありません。
【次元の違い】に注意してください。話が混乱してしまいますので。
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孫正義さんの主権在民のブログは、民主主義の原理そのもの

2008-09-05 | 日記
ソフトバンク代表の孫正義さんの2年前のブログが友人より送られてきましたが、これは【主権在民】と直接民主制の先行性を記したもので、【自問自答と自由対話】に基づく民主的=哲学的人間の育成を生涯の仕事とするわたしの考えに完全に符合するものですので、以下に全文をご紹介します。



赤じゅうたん vs インターネットテクノロジーで取り戻そう 主権在民の精神

 孫 正義(2006-08-30 11:52)


 先日、所用があり参議院を訪れた時のことだ。入り口中央には赤じゅうたんが敷いてあり私はなんら躊躇することなくそこから中へ入ろうとした。その瞬間、守衛から怒鳴られ制止された。

 「こら、そこを歩くな。横の通用口から入りなさい。そこは議員さんが通る場所だ」

 私は怒鳴り返した。

 「ちょっと待て。そんなことどこに書いてある。書いてもいないのになぜ、いきなり怒鳴られるんだ。そもそもどうして議員が赤じゅうたんの真ん中の入り口で、国民は通用口なんだ。俺は帰りも堂々と真ん中から出る。そして次に来るときも堂々と真ん中から入る。どうしても通したくなければ警察を呼んで逮捕してみろ」

 結局私は、真ん中から入り、真ん中から出たが、この出来事ほど今の議会制民主主義の歪みを表した象徴的な出来事はないだろう。まさに主権在民の精神を忘れた代議制度だと言えるのではないだろうか。

 議員、代議士というのはその名の通り、主権を持っている我々国民の代理として国会で議論をする人たちだ。憲法で主権在民が謳われているように、一番えらいのは国民であり議員は国民の下僕であるはずだ。それなのになぜ議員が真ん中の赤じゅうたんの入り口で国民が脇の通用口なのだ。

 もちろん守衛が悪いわけではない。彼らは職務として決められたとおりにやっているだけだ。しかし、彼らも長年この仕事をしてきて疑問に思ったことは無かったのだろうか。私と同じ主張をした人はいなかったのだろうか。なぜ主権を持っている国民が通用口で国民の代理人である議員が赤じゅうたんなのかと。もしかして我々国民もいつの間にか「一番えらいのは議員で、国民はその下」などと卑屈な考えを持ってしまっているのではないだろうか。

 ちなみに私はいろいろな国の国家元首を訪問した経験があるが、一度たりとも通用口など通されたことはない。いつも堂々と正面から入っている。何故自分の国の国会に正面から入れないのだ。

 代議制民主主義は、物理的な制約や、情報の偏在、テクノロジーの稚拙さなどで直接民主主義が不可能であった時代での民主主義の実現のため作られたシステムだ。そのシステムの根底にある精神は、主権在民であり、議員は国民の代理であるという考え方のはずだ。

 ところが日本においては、戦後の議会制度60年の歴史の中で、いつしか議員が権力を持っているかのごとく扱われ、主権在民の精神は薄らいでしまった。それは国民の政治への関心の低さにもひとつの原因はあると思う。

 このような状態は国家50年100年の大計でみると決して好ましい状態ではない。今まさに大きな枠組みを変える時がきたのではないだろうか。

 たとえば内閣総理大臣の選挙など何か国家にとって重要な決め事をする場合、国民投票など直接民主主義の制度を導入するというのはいかがだろう。直接民主主義というとすぐにポピュリズムだ、とか衆愚政治だとかいう反論が聞こえてくる。まさに、政治家や官が賢く民は愚かだ、という思想だ。

 確かに、教育水準にばらつきがありまた情報が偏在していた時代には、官が民をひっぱっていくというような政治、行政もあったであろう。しかし今は状況がまったく異なることは明らかだ。その証拠に官の仕事の代表格である全国の第三セクターの惨状を見てほしい。何一つ成功せず、その処理にさらに多額の我々の税金が投入されている有様だ。民間企業が血を流すような努力をしながら事業を行っていることを考えると、民は愚か、などということがどうして言えようか。

 国民と議員の関係は、株主と経営者の関係と似ている。株式会社で一番えらいのは株主である。社長や取締役は株主の委託を受けて会社を経営している。そして年一回だが必ず株主からの直接投票を得ているし、上場企業なら毎日株価という形で審判を得ているのだ。

 自民党総裁選が連日話題になっている。そのニュースを見ていると何か違和感を感ぜざるを得ない。

 自民党総裁は自民党議員、自民党員の投票で決まる。そして現在は自民党が与党であるから、総裁イコール日本の内閣総理大臣となる。確かに議員は我々が選挙で選んだ人たちだ。我々は選挙のたびに、候補者の政策、主義主張を比較しながら投票している。しかし議員が総裁選で誰を総裁に選ぶかまで考えて投票しているわけではない。また議員も総裁選の投票には必ずしも自分の意思で投票できていない可能性がある。派閥の論理に左右されるからだ。

 ということは自民党総裁選には、民意は正確には反映されていないということになる。また各省庁の大臣の人選についても同じだ。大臣については選挙もなく、総裁が指名する。では何を基準に選んでいるのか。財務大臣には財務のエキスパートが、経産大臣には経済政策のエキスパートが選ばれているのか。答えはノーだ。当選回数や党内のパワーバランスで決まっているのが実情なのである。しかし国家の難しい舵取りを任せる人たちがこのような選ばれ方で本当にいいのだろうか。せめて総理や大臣は国民投票で選んでもいいのではないか。インターネットというテクノロジーの進歩により国民は様々な情報に平等にアクセスできる時代だ。その情報を元に国民一人一人が投票を行う。最新のインターネット・テクノロジーを使えば簡単にできることだ。

 日本国憲法の制定によって確立した日本における議会制民主主義は今年で60年を迎える。憲法で保障されている主権在民の精神をもう一度取り戻す――。今まさに目指すべき方向ではないだろうか。

孫正義
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永遠を生きる と 瞬間を楽しむ

2008-09-03 | 日記
(Aさんへの返信メール)


理念次元ではなく、現実次元において絶対(ゆるぎない安定)を求めれば、必ず挫折し、よろこびは得られません。それは人間存在の原事実と異なる架空の世界を「現実」にしようとする不可能な欲望だからです。本質的に欺瞞=ウソ・騙しでしかないのです。

けれども、Aさんのメールにあるただ「瞬間を楽しむ」というのとも違います。

理念・ロマンを育みながら生きる(ロマンを主義として固定=「ロマン主義」化するのではなく、現実の中で段々と豊かにしていく)ことが、瞬間を大いに楽しみながら、瞬間の快をつなぐだけという刹那主義に陥ることなく、人生に大いなる実りをもたらすーそんな感じです。

「永遠の相に下に生きる」ことと「瞬間を楽しみ充実させる」ことは一つです。永遠を生きる人であってはじめて瞬間を楽しみ深いものにすることもできるのだと思います。


武田康弘
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