思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

独裁者のような親と教師に悲鳴。石橋湛山の言葉。

2010-10-30 | 恋知(哲学)
下のブログの続きです。


茶所博士2010年10月29日 20:25

 お答えいただき、ありがとうございます。

 現在の教育が行き詰まっているのは誠に同感です。望みもしないことを強制して、当局に都合のよい「人格」を作るための組織であり、それが崩壊しているということは、子供たちが悲鳴を上げていると言うことにほかなりません。
 私も、子供の頃は悲鳴をあげたいのを我慢し続けていて、親も教師もぜんぜん理解してくれませんでした。義務教育で逃げ場が他になく、教師たちが権力者、さらに言えば独裁者となっているのですから地獄でした。
 現在、このような教育現場が崩壊しているのなら、変に手助けせず、生暖かい目で見守るだけにするのが親切というものです。

 大人の勝手な押し付けではなく、子供たちがおのずから求めるものを学べる仕組みが必要なのでしょう。吉田松陰の教育方針がまさにそれで、生徒の個性を見極めて当人に合った指導をしていました。
 タケセンさんの塾が21世紀の松下村塾となることを期待します。義務教育が崩壊したら、役目が増えると思いますから。

 石橋湛山の場合、日蓮宗ということが大きそうですね。鎌倉時代から当局に反抗し続けてきた宗派ですから。
 現代日本人に足りないのはこの反逆の精神ですね。

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タケセン2010年10月30日 13:59

以下は、石橋湛山の言葉ー思想です。

「国民として生きる前」「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に、人は人として生きなければならないのである。なんとなれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も。その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものだからである。もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変革せねばならぬ。(「国家と宗教および文芸」明治45年)

「良妻賢母」という概念ー言葉を生んだ国粋保守主義への痛烈な批判、女性もまた「推しも推されぬ一個人」として遇せられねばならぬことの力説、「明治神宮建造」の愚、ミリタリズムへの徹底した批判、「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためではない。」と述べ、
「ルソーの人民主権論」に立って、明治のおわりから大正にかけて、生活・社会・政治・学問のあらゆる場における民主化を訴えました。役人の支配=官僚による政治からの脱却を「第二の維新」と名づけ、行政の一大改革なくしては、わが国の行き詰まりを打開できない、と強く主張しました。

昭和に入り、15年戦争の時代には、よく知られているように、厳しい政府批判を繰り返し、戦後は、すかぶらさんの言う通り、靖国神社の廃止を主張しました。このように徹底した民主主義を貫いた人が、第55代総理大臣となり、全方位の平和外交を大胆に進めた時、病に倒れたのは、なんとも残念です。その後継が戦犯でアメリカべったりの岸だったのですからーー。

『石橋湛山評論集』(岩波文庫)は660円です。とてもお勧めです。

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茶所博士さんのコメントと関係しますので、古林さんの「渋谷学園」へのコメントを以下に貼り付けます。民主主義を根本から破壊するのは、差別・選別主義=エリート教育にあるのですから。

中・高一貫高化は格差社会へのブースター (古林 治) 2010-10-30 12:56:44

先日、NHKの『百年インタビュー』という番組に出ていたロナルド・ドーア氏の話はとても興味深いものでしたので紹介します。
ロナルド・ドーア氏は25才で初来日(1950年)して以来、60年間、日本を観察してきた社会・政治経済学者です。
インタビューの一部を簡潔にまとめます。
『新自由主義はレーガン政権時代に始まったが、当時の日本も規制緩和という名目で共同歩調をとり始めた。それ以来、日本の社会は(一部問題はあったにせよ)共同体特有の良さを失い続けてきた。その良さとは同胞意識である。
経営者と従業員の格差は拡大し、株主への配当も上がり続けた。会社は従業員のもの、という観念は消えうせ、株主のものでひたすら利益を極大化するのが目的であるとされた。(ドイツは法律で役員の半分は従業員代表として、半分は株主代表として、という規制がある。)
この新自由主義への方向性をリードしてきたのが、米国へ留学し(MBA)、90年代に官庁や大企業でリーダーとなった人々である。彼らは米国留学を通じて新自由主義の洗礼を受け(洗脳され)、日本を変えてきた(破壊した)のである。経済学者の中谷巌(いわお)氏はその典型。今は転向したけど。
その流れはますます激しくなる。単に経済格差が広がるだけではない。文化的な断絶が起きつつある。
かつては工場長と一番下の労働者には同胞意識があり、互いに腹を割った話をすることがよくあった。だが、今は事情がまったく異なる。11歳から中・高一貫高に入るエリート子弟とそうでない人々の間に交流はもはやない。10代の前半期に隔絶されてしまうのだから。
優秀といわれる子弟たちは、そうでない人々を、「あの人たち」と呼び、蔑むような階級社会がすでに現れている。まるでかつてのイギリスの階級社会のようだ。
自己の利益と経済効率のみを追求する、この新自由主義を推し進めてよいのだろうか。自由、平等、博愛(同胞への意識)は人類永遠のテーマであるが、このままでは日本の社会は崩壊する。日本人はそのような社会を望むのか。』

私もまったく同感なのです。
いろいろな意見があるでしょう。
議論する価値は大いにあります。

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平和の維持は、教育にあります。

2010-10-28 | 恋知(哲学)
「戦争に不可を言うだけなら簡単だが、では、どうしたら平和を維持できるか?
タケセンさん、そのために哲学をどのように役立てますか?
サンデル白熱教室では期待できません。「オバマは原爆投下について謝罪すべきか」などという無意味な問いを論じ合うようでは。」

という茶所博士さんの問いに対してのお答えです。
この問題を考えるには、人間の生の基底をつくる「教育」が核心となりますので、そこに焦点をあてて書きました。


 悪は許容しても、最悪を避ける、という現実的思考と現実感覚を養うこと。
そのためには、幼いころからの現実問題を現実的に解決する思考=対話の訓練が必要です。わたしが長年主張し実践している自分の頭で考え・対話し・決定する能力(思考力・対話力・自治力)の育成が鍵となります。
 最悪をさけるためには、毅然と妥協の双方が必要です。原理的思考の明晰化によって得られる大胆な現実対応の能力が求められます。ホドホドやダマシダマシも大事です。
そのような能力の育成は、机上の勉強だけでは不可能です。実際=現実への上手な対応は、実践の中で思考する訓練を繰り返さなければなりません。こどもたちに、日々、家庭でも学校でも「生活」の仕方を自ら決めさせる練習=試行錯誤の日常化が基本です。宙に浮いた想定=言語ゲームはなく、現実の話=何がほんとうかを目がけた議論を生活の中に組み込むのです。その作業は、子どもにとって大きなエロースでもあります。実際に自分で考えて決める体験は、ワクワク・ドキドキします。
 その意味で、現在の学校教育はほとんど正反対の教育をしています(部活と受験知教育により生徒に時間を与えずに自己決定の機会を奪う)、家庭もまた、勉強とは受験勉強のこと、としか捉えていませんから(ほんとうの知的教育がない)、この変革は容易ではありません。わたしは私塾で34年間不退転ですが。

 また、最悪を避ける、ということは、大損をしないこと=コスト計算ができる能力の育成でもあります。冷静に損得を考える力と同時に、その損得に意味と価値を与える人間的な「善美」の探求が不可避です(何がよりよいか、より美しいか、より魅力的かを探る営みを生の基底に持たないと、現実的な損得も意味を失います)。ほんとうによいこと・美しいことは何かを求め、憧れるのを恋知(哲学)の営みというわけですが、これは幼い子は、ほとんど誰でもがしています。なにがほんとうか?それを目がける心が肯定され、励まされ、評価されて育つこどもは、たとえ生活苦に陥ったとしても最悪の選択をしない、というよりそれを拒否する大人になるはずです。自分の頭で考えることを肯定され、愛されて育った子どもは、馬鹿げた選択をせず、「善美という土台に立って現実的な損得計算ができる」清さと逞しさを併せ持つようになるのです。

 以上、教育の話に比重をおいてその芯について簡単に書きましたが、どうでしょうか。ご意見をお待ちします。

 PS.戦前、戦中にも石橋湛山(戦後に第55代総理大臣)のような偉大な先達がいましたが、彼がなぜあのように優れた思想を持ち、現実の中でそれを実行し続けられたのか、それを知るのはとても有意味です。彼は早稲田の哲学科出ですが、その師は実践的哲学を説いた田中王道でした。また、経済誌の発行・執筆・編集という仕事も興味深いですよね。


武田康弘


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コメント

内田卓志

デューイ・王堂・湛山 武田の民知


「最悪を避けること、現実的思考と現実感覚を磨くこと」、
ここが大切な思想と思います。しなやかで、柔らかな、それでも芯のある思考。原理の上に立ったバランス感覚ですね。本当に重要です。
その意味で石橋湛山は、稀なる思想家でした。その師の、田中王堂は正に「生活の哲学」を主張していたのです。
 王堂の生活の哲学の核には、「徹底個人主義」という思想がありました。彼は、徹
底個人主義を原理主義として言ったのではなく、個人主義という立場も、欲求の限りな
き拡大により利己主義に転化するおそれがある。それを「整斉」すること、そのことに
も重きを置いたバランス感覚ある思想でした。それを今までの個人主義と峻別して彼
は、徹底個人主義を呼んだのです。(当然欲望や欲求を認めての話ですが・・・)
 その思想を湛山が引き継ぎ、発展させたのです。そして、王堂の思想はアメリカ哲
学の良心であるジョン・デューイの哲学からの影響が大きいと言われます。
 つまり、デューイ・王堂・湛山という系譜を考えることができます。この系譜に
は、武田さんが言っている「民知」という知のあり方の真髄ともいえるものが、窺われると思うのです。
湛山の戦いは、大いなる知恵の塊です。石橋湛山は民知の思想家でもあったのです。

 中国との戦争のこと、また話します。一点だけ、戦略爆撃を最初に始めたのは、重
慶での日本軍だったこと。それは、ゲルニカや東京より早かったのです。それは、徹底的
な無差別爆撃の人殺しだったのです。その後の東京のように。合掌。 
          
 内田

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ウヨク学者のウソとデマの近現代史を、わたしたち民衆の伝承で、正しましょう。

2010-10-26 | 社会思想
与太郎堂

タケセンさん、そのとうり、実際に戦災にあった人でなければ、真実味に欠けますよね、
与太郎堂は、生まれ育ちも新宿です、母は浅草生まれの、杉並育ち、

母方のひいじいちゃんは水戸の天狗党の生き残り、
母方の婆ちゃんからは、震災(関東大震災)の恐ろしさを耳にタコができるくらい聞かされて・・・

かあちゃんからは、東京大空襲の恐ろしさをことあるごとに聞かされ、
新宿の古老達からは、戦争の悲惨さを祭りの社務所で夜の尽きるまで聞かされました。
因みに母ちゃんは、3月10日に深川不動の裏に住んでいたそうです。
命からがら、杉並の実家まで歩いて戻ったそうですが、帰って来たとたんに
その家の中にあった鏡は、ことごとく隠されたそうです。
母ちゃんは、その頃20歳前、やけどのひどさを見せないために、家の中にあった
鏡という鏡を家族総出で、隠したそうです。そうこうしている内に、山手空襲で実家
も焼け出されてしまうという、不幸を背負った婦女子であったかも?
今は、高尾の山のなかで静かに眠っとります。

中国の話は、地元新宿の古老達に、イヤというほど聞かされました。

オヤジは何も語らない人でしたが、物故した折、親戚から進駐軍との軋轢
のなかでいろいろあったようです、
聞きたくなかったけれど聞かされました・・・
人は、墓場まで持っていかなければいけないことが幾つかあるのかもしれません・・・

与太郎堂も若い頃は、祭りが好きで、アチコチお神輿担いで回っていました、
勿論深川も、浅草も・・・
そのたびごとに、顔を赤らめて、酒に任せて古老達が異口同音に
「戦争はいけねえ、」って言っていたのは、身につまされる思いでした。
本当に怖いことを知っている人は、本当の恐ろしさを教えてくれました。

だからこそ、残された者が真実を後世に語り継がなければならないのではと、思います
が。

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与太郎堂さん

ていねいなコメント、ありがとう。

わたしは、58歳、亡き父の体験談や小学生の先生の体験談からはじまり、中国での日本軍の恐ろしい話をたくさん聞きました。書くのもためらわれるような。

比較的最近では、東京新聞が連載で、元兵士の人の体験談を載せていましたし(凄まじい内容)、NHKテレビでは一昨年、詳細な南京事件のレポートをしていました。現場にいた元日本兵は、苦しみながら必死で証言していました。

タケセン

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sam
c-moonさんと同様、中国での大量殺戮のことを知ったのは、高校生のときに読んだ『中国の旅』でした。
ただし、それ以前からうすうす何か昔、とんでもないことをやらかしてるな、とは感じていました。戦時中、海外で何があったか語ろうとしない男たち。年寄りたちが在日について触れようとしない不自然な姿勢。何かいえないようなことがあったのだろうと私は子供なりに思っていました。
『中国の旅』はあちこちで話題を呼び、ここぞとばかりに戦前の日本をヒステリックに糾弾するサヨク、本に書かれた一部の間違い、一部証言者の嘘を誇大に宣伝してあたかもすべてが嘘で虐殺がなかったかのように本多勝一氏を糾弾するウヨク・メディアが現れたりしましたが、戦時中にとんでもない虐殺が行われた事実が明るみにされた点で極めて重要な書籍といえます。
ともあれ、その後出てきた数多くの、第三者の証言、加害者の証言を見ても大虐殺があったことは否定のしようがありません。私自身も燼滅(じんめつ)作戦(中国では、殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くすの意を示す三光作戦と呼ばれた)に従軍した元兵士の壮絶な証言を直接聞いたことがあります。一般市民に対する虐殺の話です。事実を残さなければいけない、その一心で証言を続けている方でした。元従軍慰安婦の話も直接聞くことが出来ました。終戦直後、証拠(証人)隠滅のために殺された慰安婦も少なからずいたといいます。

国際的には、アジアでは特に、こうした事実は常識として知られているわけですが、加害者である日本人だけが知らないというのでは、アジアの国々との健全なお付き合いなど出来るはずがありませんね。
それに、加害の事実すら知らずに、東京大空襲、原爆の非道さを訴えても首を傾げるばかりでしょう。
(ドイツでの)ドレスデン大空襲については連合軍の責任を問う動きが出ていますが、これはドイツ自身が犯した罪を正面から受け止めてきたからこその結果です。
東チモールやカンボジア、それに旧ユーゴやルワンダで行われた虐殺に日本人が何もいわない理由もこの辺り(自分自身の罪を認めないこと)にあるのかもしれません。

ちなみに、私は下町生まれの下町育ち。母は東京大空襲であちこち逃げ惑い、多くの友人知人の死に直面しました。海外で何があったのか知らない(知らされない)母にとっては、戦争は被害の歴史でした。
戦争に行っていた父は軍隊でひどい目にあった話はしますが、一度たりとも加害の話をしたことがありませんでした(結核で本来なら内地送りのところ、経理が出来たため部隊が手放さなかった)。人を殺めたことはないとは言っていましたが、広東軍の精鋭部隊にいたのですから部隊が何もしなかったとは思えません(聞いても話しませんでした)。
先日、中国での反日デモのニュースが流れていたせいでしょう。突然、87歳になる父が、
『(中国人に対して)ひどいことをやったからなあ。』
と話し始めたのです。
兵隊たちが遊び半分で捕虜を相手に刀の試し切りをしていたというのです。一度では首を切れず何度も切りつけ、最後は刺し殺していたと言っていました。『人間だと思ってなかったからなあ、(反日デモは当然)。』
同様の話はルポで読んだことがありましたが、直接父から話を聞くことになるとは思いませんでした。
直接戦闘に出なかった父ですが、戦闘現場で何があったかは知っているはずです。多分、まだまだあるような気がします。
もう先の見えた人生、隠し事をしても始まらないと思ったのでしょうか。機会があればもっと聞いておこうと思ってます。
事実は事実として受け止めるのが正道だからです。

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Cmoon

僕が『中国の旅』を読んで感じたのは、祖父が話してくれたこととあまりのも類似している……という衝撃でした。
少し時代は遡るのですが、祖父は志願兵として旭川騎兵第7連隊に属し、日露戦争の旅順攻略に従軍しました。旭川の連隊は、消耗部隊として語られ、現在も厩舎が保存されています。
何とか生き残ったのでしょう、その後、南満州鉄道の守備隊に配属されました。ポーツマス条約で南満州鉄道をロシアから割譲された時点で満州地域(中国東北部)の実効支配が始まったと思われます。
たしか祖父は奉天に配属されたのだと記憶しています。(小学生の時聞いたことなので地名の記憶は正確ではないかもしれません)
そんな状況にいた祖父が、しみじみ話したのが、中国人不満分子や馬賊の虐殺です。
『中国の旅』に書かれていた”100人斬り”のようなものです。
5~6人跪かせ、見せしめと試し切りです。それも軍刀を持った将校が遊び半分で行っていたというのです。その描写はここに書くことできないほど残虐でリアルです。
この辺りは、時代に時間的ずれはありますが、Samさんがお父様から聞かれたことと重なります。時間のずれが逆に”皇軍”の本性を感じ取ることができます。
日露戦争以降、中国東北部を実効支配し、関東軍による侵略と支配までこのようなことが、繰り返えされていたことが祖父の話から明らかです。

僕の年齢で(51歳)で日露戦争に参加した祖父を持つのは、少ないと思います。子どものいなかった祖父母に、父が青年期に養子に入ったことで、祖父母から、明治時代の様子やその後の流れを聞くことができました。祖父母とも明治10年代の生まれで、しかも共に長生き(88歳)だったので、たぶん親から聞いた話なのでしょう。幕末の様子も聞いています。

父ですが、終戦間近3ヵ月ほどの軍隊経験なので、戦場の経験はなく、聞かされたのは、軍隊の厳しさと、徴用で連れてこられた朝鮮人への激しい差別です。父の兄が二人、中国で従軍していますが、ひとりはその後ニューギニアで戦死、もうひとりの伯父からは、何も聞いていません。
あまり話したくなさそうでした。

いずれにせよ、祖父が小学生に聞かせられないようなことを話してくれたことで、僕は歴史に特に近現代史に近付き、その後学ぶことができたし、真実に近付くことができて、祖父に感謝しています。

本多勝一さんは『事実とは何か』という本を著し、”事実とは何か”をルポルタージュの中でも語りかけています。本多さんが、書かれていることの真偽については賛否両論ありますが、事実を追及する姿勢を僕は学びました。

祖父が話してくれたことも、事実としてこの機会にこちらに書かせていただくことにしました。

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「原理」とは何か? 理想と原理はまったく異なる概念です。相対主義と原理主義の不毛。

2010-10-25 | 恋知(哲学)

昨日のブログにも書きましたが、「原理」ということの意味について少し説明してみようと思います。

どうも原理的思考が分からず、嫌う人が、思想や哲学関係の学者にまで多いために、思想的な軽重を問わない相対主義が横行して、知識量を競う哲学という概念矛盾まで引き起こしているからです。

物理学の基礎ですが、ガリレオの「落体の法則」があります。中学で習う誰でも知っている法則で、その第一法則は、物が落ちるスピードは、質量には関係しないというものです。これは、アリストテレスの間違え(権威とは恐ろしいもので、こんな簡明なことが2000年もの間信じられてきたのです!)を正したのですが、橋の上から石を落せば、すぐに分かります。

もちろん、石と紙ならば、紙は空気抵抗が大きく、ひらひらゆっくり落ちます。落体の法則は物理法則ですから、空気抵抗は除外して考えるわけです。これが物理における落体の「原理」です。

社会思想においても、この原理にあたるものがあります。われわれの生きる近代市民社会においては、主権はそこに住む人々に同等に与えられるもの=個人の対等性と自由の相互承認という思想が原理になるわけです。原理とは、土台となる思想・大元の思想・鍵となる思想のことで、種々のイデオロギーや個々の宗教とは違います。

ここで注意しなければいけないのは、原理とは、観念が思い描く理想ではないということです。理想の世界という発想ではなく、そこを立脚点にしなければ現実を支えることができない根源的な思想、それを原理と呼びます。物理学における落体の法則と似たものです。

ただし、現実の社会においては、空気抵抗があるので、原理からの立ち上げがうまくいかない場合があります。
原理を知らずに混沌として右往左往するのは愚かですが、さまざまな条件を無視して、すべて原理から立ち上げることができると考えるのもまた愚かです。前者は相対主義、後者は原理主義と呼ばれます。

人間の非条理性をよく弁えないと、理論信仰(硬直論理)に陥りますし、原理的思考を知らないと、実感信仰(感情論理)に陥る、というわけです。


武田康弘
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昨日10.23の土肥元校長と佐高信さんの面白トークショー(東大農学部)

2010-10-24 | 教育

昨日、午後2時より4時まで、東大農学部において、元・都立三鷹高校の校長、土肥信雄さんと、評論家で『週刊金曜日』の編集委員の佐高信さんの対談がありました。

土肥信雄さんの本を出すための佐高信さんとの対談を公開で行ったです。土肥さんは、教職員の自由な議論を禁止する通達を出した東京都教育委員会と裁判闘争をしています。

軽口や冗談が飛び交う対談はとても面白く、有意義な会でした。会場はしばしば笑い包まれましたが、シリアスな話題もエロースに変えるのは、生徒と共に生きた土肥さんの人柄と、場馴れした佐高さんの話術の力です。

わたしは、白樺同人と高校&大学生の6名で参加しました。東大、とくに農学部、それと地震研究所と三四郎池は、わたしの幼いころからの遊び場でしたので、懐かしく楽しく過ごせました。わたしの中学は、農学部の向かいの文京第六中学校(最近になって知りましたが小沢一郎さんも同窓生)ですので、白樺のみなさんに教えました。最後は、根津神社近くの甘味処でゆっくりお茶タイム!

なお、対談の中身ですが、佐高さんの話しの内容で、ひとつ間違いがありますので、記します。

思想的なことですが、佐高さんは、現実の社会は『日本国憲法』通りではないと繰り返し述べ、学校の教師は、生徒に幻想を与えることがないようにと諌める発言をしました。これは、憲法の理想と現実は異なるという話ですが、憲法とは、元来、理想を記したものではないのです。

『日本憲法』は、近代民主主義という思想の原理に則り、それを理念的具体として叙述したものです。主権者の意思の代行者である政治家と公務員は、どのような【原理】に基づいて国家を運営していかなければならないか、を記したもの(主権者が為政者を縛る政治原理)であり、【理想】ではありません。

コメント欄のつよしさんにもお答えした通り、【理想】と【原理】とはまったく異なる概念ですが、しばしば混同されがちです。この混同は、極めて危険で、ひどい間違いを導いてしまいますので、要注意!です。



武田康弘

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日本軍は何人の中国人を殺したのでしょうか?―あまりに膨大な数で・・・

2010-10-24 | 社会思想

なぜ、近現代史の最大の出来事について、教えないのでしょうか?
15年戦争で、日本軍(天皇の軍隊なので「皇軍」と呼ばれた)は、中国人を中心にして、何人を殺したのか?

ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺をはるかに超える人数ですが、中学生も高校生も大学生も、ほとんど誰もそれを知りません。

ところで、大人であるあなたは知っていますか?

単純な事実、極めて重大な事実さえ教えない、知ろうとしないわが日本人とは何なのか?これでは何も言えないと思います。


武田康弘


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よしくんぱっと2010年10月24日 11:48

私は大人ですが、知りませんでした。

単純な事実とは思えません。

そもそも、当事、中国人が何人いたかは誰にもわからないのでは?そのなかから“15年戦争”の間に何人死んだのかもわからないのでは?そして、そのうち日本軍に殺されたのが何人かもわからないのでは?

統計的な数字は出ているのでしょうけれども、それも日本側と中国側とでは相当な開きがあるのでは?

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C-moon 2010年10月24日 14:04

12月8日になると、mixi日記にジョン・レノンへの追悼の文章がたくさん掲載されます。僕もその一人です。同時に太平洋戦争への反省の言葉も掲載されます。二度とあのような戦争を起こしてはならないと。
中には、第二次大戦が始まった日という認識の人もいて、実際そう書いている人もいて思わず突っ込みたくなるのですが、これも近現代史を疎かにしてきた教育の罪だと思いスルーしていますが……

太平洋戦争の被害と加害については、概ねほとんどの人が認識しており、沖縄戦、本土空襲、原爆による被害者という認識が、太平洋戦争(日米戦争)の認識度を高めている、それ以前の中国への加害者としての認識は圧倒的に不足している現実が、12月8日になると俄かにクローズアップされることに気付きます。12月8日は僕にとってそんな日でもあるんですね。たいていの人は「あの戦争」と言えば、太平洋戦争に帰結してしまいます。

ですから”15年戦争”という言葉に込められた反省と加害者認識が大きく後退していて、15年戦争という言葉自体が埋もれてしまっていることに、危機感を覚えます。
満州事変(柳条湖事件)に発する15年戦争を国民が認識しなければ、近現代史のまともな歴史観など生まれようがないし、日中間、アジアとのまともな友好関係も生まれて来ようはずがないと思います。

太平洋戦争について「なぜあのような無謀な戦争を引き起こしてしまったのか」という根は、ABCDラインやハル・ノートにあるのではなく、中国への日本の侵略にあるわけで、満州事変こそ、愚かな戦争の起点だったと認識しなければならず、15年戦争という言葉を色褪せさせてはならないし、満州事変、日中戦争の中国人被害者、1000万人とも2000万人とも言われる、太平洋戦争での日本人被害者と桁違いな犠牲者を日本軍が生みだしてしまったことは、しっかり肝に命ずるべきだと思います。

中国人犠牲者の人数は、今後も見いだすことは難しいと思います。戦後徹底的に追及されているナチス・ドイツによるホロコーストでさえ、600万人から1000万人という範囲の中に諸説があり、特定に至りません。
正確な犠牲者数も大切なことですが、「1000万人とも2000万人とも……」というあまりにも膨大な犠牲者数を直視すべきであり、中国の発表がどうの、日本の発表がこうのという、”どうのこうろ論”に帰結することは、実態と本質が見えなくなってしまい非常に危ういと思います。

誰が、どこで、人を殺す手段を行使したのか……

このシンプルな着眼点に主眼を置いていさえすれば、自ずとその実態と本質が明らかになると思います。すべての戦争においてです。イラク戦争を見れば明らかです。

仰るように、近現代史の教育はとても大切です。できることなら、単独の科目として中学か高校で、あるいは両方で、少なくとも半年くらいしっかり行ってほしいと思います。

僕は本多勝一さんの『中国の旅』を読んで目を開かされました。学校では皆無でした。


それから……僕は自分の日記欄に政治の問題、近現代史について書こうとすると、どうも思うように進みません。しかし、タケセンさんの文章を読ませていただいた後は、コメント欄にスラスラと思いが書けるんですね。
僕は自分の日記欄に書く文章にしても、政治記事や社会問題記事の日記へのコメントを寄せる場合、いったんワードに書いてから、掲載しているんですが――それほど考えなければ書けないのです――タケセンさんへのコメントだけはダイレクトに書けるのです。

この現象は、タケセンさんが、タケセンさんの文章が、僕の中にある蓋みたいなものを開けてくれて、そこにあるものを引き出してくれる。そのように感じるのです……

ですから、いつも感謝しています♪

武井繁明

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検察の特捜部とは、憲法違反の存在なのです。

2010-10-22 | 社会思想
『日本国憲法』は、近代民主主義思想に基づき、権力分立を宣言しています。

特定の人や組織が複数の権力を持つことを禁じているのです。

東京地検特捜部に代表される【特捜】という組織は、捜査と逮捕と起訴という強権を同じ一つの組織が持っていて、第三者の視点・立場で権力行使を規制することができません。

したがって、特捜という組織は、『日本国憲法』の依拠する近代民主主義の原理に反し、権力行使の正当性を持ちません。
【特捜】は解体しなければならないのです。それ以外の選択肢はありません。これは原理です。

まずは、取り調べの全面可視化と、捜査権は警察、起訴権は検察、と権力を分けることが必要であり、次に、警察オンブズマンと検察オンブズマンの制度を創設することが必要です。また、裁判所は、検察の下請け機関としての現状を改めなくては、日本は独裁国家(官僚独裁)と変わりません。民主化が急がれます。

わが国を「天皇の官吏としての官僚」という旧憲法の思想から決別させ、主権者は国民・市民であるというほんらいの民主主義の国にしていく必要があります。


武田康弘

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すかぶら 2010年10月22日 12:20

よく考えなくとも
そうですね。
盲点でした。

C-moon 2010年10月22日 20:03

捜査・逮捕権と公訴権を持つ行政組織、準司法組織は、世界でも稀有な存在でしょうね。
検事は、警察官のように身分証を有することもなく、「秋霜烈日章」をスーツの襟に付け、自分で発行できる捜査令状、逮捕状を持って強制捜査でも何でもできてしまうわけですから、国民の人権に対しこれほど危険性を有する公権力はありません。

世界から見れば、「何て野蛮な国なんだろう!」

そんな評価が当たり前のように聞こえてきそうです。
こんな非民主主義的な組織を許諾している人たちは、中国や北朝鮮を非難できませんね。

根源は、山県有朋にあるにせよ、占領時代にいったんは検察をも解体しようとしたGHQが、隠匿物資捜査摘発という見返りに作った、米軍の手先である特捜部が、ここまで化け物化してしまったのは、自浄力の源泉である有権者にも責任があると思います。
それにしてもGHQは、とんでもないものを作ってしまいましたね。

さらに大陪審制度と検事の公選というGHQの要求を退け、代替的に作った検察審議会もこれまた大化けしてしまい、そうした代償をようやく世間が感じるようになったことは、小沢さんの大きな功績のひとつになるかもしれません。
三井環さんにしても、鈴木宗男さん、佐藤優さん、堀江貴文さんにしても孤軍奮闘し、検察、特捜の実態を世間に知らしめてきましたが、小沢さんへの政治的捜査がなかったら、ここまで世間が注目しなかったかもしれないし、小沢さんが検察改革、脱官僚、政治主導の旗手だったからこそ行われた国策捜査ですから。
そして決定的だった村木公判。さらに、小沢さんの代表選出馬、行政訴訟が(却下でしたが……)問題点を少しずつ浮き彫りにさせていると思います。

検察資格審査会にも、川内博史、森ゆう子、辻恵議員といった検察の在り方に強い疑問を持つ議員が加わり、取り調べ可視化を考える議連もこうした議員が中心になり活動を始めました。

取り調べの可視化、特捜の解体、検察を監視、指導権を持つ第三者組織(委員会)の創設、そして、捜査・逮捕権と公訴権の分離の迅速な実現を願っています。

今、最後の部分を書いてあらためて気付いたのですが、少しも特殊なことではなく、ごく当たり前のことで、願いであること自体がおかしなことでした。
当たり前のことができない政権も非民主主義的と言えるかもしれません。

武井繁明
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タケセン 2010年10月22日 22:02

詳細な解説、とても感謝です。


【原理の明晰化】がなければ、すべて砂上の楼閣です。

われわれの社会・国家は、自然発生的にできた自然物ではなく、近代民主主義という思想によって意識的につくられた機構であるのですから、 それが、どのような思想の原理に基づいてつくられているのかを知らなければ、何を語ってもすべて無価値です。

日本の教育は、原理や本質についての思考(意味論としての勉強・知)とは異なり、暗記知とパターン知の獲得と単なる事実学の積み上げなので、核心が掴めず、内容の乏しい形式知だけが跋扈します。

みなさんと共に「新しい世界」を拓きたいと思います。





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ルールを守らない企業=AOKIの経営者モラルを問う・東京新聞

2010-10-19 | 恋知(哲学)

今朝の東京新聞の「本音のコラム」に、ルポライターの鎌田慧(かまた・さとし)さんが、AOKIグループ(洋服販売会社)の経営者モラルについて書いています。

AOKI経営者の不当労働行為を「AOKIグループユニオン」が訴えている問題です。解雇や配転で脅し、4カ月間に1380人=8割の組合員が脱退させられたとのことです。

憲法28条で保障されている交渉権を奪うAOKIの経営者の行為は、明らかな憲法違反ですが、企業の公共的=社会的責任(CSR: Corporate Social Responsibility)が問われている中で、その前提であるはずの、企業内における人権を遵守しない企業は、今後存続できないのではないでしょうか。

わたしたち消費者もまた、企業との利害関係者として、公共的=社会的責任がありますので、このような悪質な経営者の企業に対しては、積極的に「ノー」を突き付ける必要があるはずです。

これは、ひとりAOKIの問題ではなく、派遣労働の極端な差別を続けるキャノンなど、【経営者のモラルが欠如した企業】に対しては、消費者がきちんとした対応、毅然とした態度をとることが必要です。

健全な社会=民主的な社会を生むのは、わたしたち消費者の具体的行動なのだと思います。企業や官や組織の不正に対しては、はっきりと批判し行為する良心をもつ人間=「公共的良識人」が増えないと、よい社会をつくることはできないでしょう。

それにしても、エルンスト・アッベという偉大な先達をもち、高邁な精神に貫かれたドイツのカールツァイス社(世界最高の光学機器メーカー)の経営理念・経営手法・企業体質には畏敬の念を持たざるを得ません。そのツァイス社のつくる製品を購入し、愛用することは、消費者のよろこびとなります。人間の心を豊かにする企業活動・市民活動こそが人間と社会を富ませるのです。

わたしの『白樺教育館』も、34年間、そのような精神によって運営してきました。以前のブログに書きましたが、「責任」という意識こそが人間を人間にするのです。


武田康弘


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法務省は、依然として検察主導―最高検の筋書き通りで民主主義とは無縁

2010-10-16 | 恋知(哲学)
以下は、毎日新聞

「大阪地検特捜部の証拠改ざん隠ぺい事件を受け、法務省は犯人隠避容疑で逮捕された前特捜部長、大坪弘道容疑者(57)らの拘置期限となる21日にも、前部長や上司らを一斉に処分する方針を固めた模様だ。全国規模の人事異動も検討しているとみられる。関係者によると、大坪前部長と元特捜部副部長、佐賀元明容疑者(49)は起訴前に懲戒免職処分となる。1月末に改ざん疑惑が発覚した当時の上司だった小林敬検事正と玉井英章前次席検事(現大阪高検次席検事)についても監督責任を問う形で戒告などの懲戒処分とするとみられる。」


とかげの尻尾切り。
組織全体のありよう(検察が独自に権力を行使できる反民主的な仕組みー天皇主義者の第35代首相でA級戦犯の平沼騏一郎がつくった)を、『日本国憲法』の民主主原理に則って改革するのではなく、
責任を個人の検事に負わせて、この事件を終わらせる。

この最高検の官僚たちの思惑を追認するに過ぎない法務省とは一体何なのか?
真面目に主権在民の民主主義を現実化する努力を放棄した政治とは、政治の自殺行為でしかない。
政治主導は看板だけ。もっと実力と覚悟のある政治家はいないのか。わたしは主権者として腹立たしい限り。

官僚主義を守る砦である検察庁の仕組みの抜本的改革なくして日本の民主化(主権在民)はない。


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法務省は検察トップの支配下にある。 武井繁明
2010年10月16日 11:38


現在、証拠改ざん事件と検察審査会の在り方という二つの法務関係の問題が取りざたされていますが、深くリンクしながら問題の根底にあるものが浮かび上がってきているように思います。
根底に見えるものは、タケセンさんがご指摘されているようにひとつには

>最高検の最高検の官僚たちの思惑を追認するに過ぎない法務省とは一体何なのか?

という問いの答えにあると思います。
各省庁の官僚のトップは、次官ですが、法務省だけは次官の序列が5番目か6番目という事実です。
天皇の認証官である検事総長、次長検事、検事長というポストは、それぞれ、検察庁、最高検、各高等検察庁のトップです。検察庁は法務省とは独立した行政機関のように思われますが、あくまで法務省の特別機関であり、人事は法務省人事と深く関係しており、法務省でも権限の多くを握っている刑事局の職員は、ほとんど検察官で、検察庁と一体化していると言っても過言ではないと思います。
こうした現実の仕組みが、最高検の官僚を追認するしかない今回の事例を生みだしていると思われます。
つまり法務省は、検察官によって牛耳られている。検察官のトップである検事総長以下、次長検事、検事長は、法務大臣と同じ権威とそれ以上の権力を有しているという現実……
法務大臣以下副大臣、政務3役は成すすべもなく検察の巨大な権力の掌にあるという現実。
千葉前法務大臣が、平議員として果敢に立ち向かえたにもかかわらず、法務大臣になったとたん手足をもぎ取られてしまったかのように何もできなくなってしまった例を見れば明らかです。千葉さんが政治家として無能であったのではなく、法務大臣として無能化させられてしまった。
このような評価が妥当だと思います。
その現実は法務省に民主主義国家としての仕組みは存在しないということになると思います。
選挙で選ばれた政治家よりも、検察官僚が権限を握っているのは、どう考えても民主主義国家の行政制度と思えません。

そこで検察官僚と闘う政治家ですが、目下のところ検察とマスコミと世論というマスコミが作りだした化け物に手も足も出ない状況に追い込まれています。
戦後の占領下でGHQが、時の政府に求めた大陪審制度と検事の公選制と引き換えに法務官僚が作りだしたブラックボックス的な検察審査会制度が致命傷を与えようとしています。この制度をさらに強化した小泉政権の時に生まれた改正検察審査会法による、拘束力の効果によって。
この法案は裁判員制度と同時に審議され、圧倒的に審議が裁判員制度に費やされ、まともに論議されなかったとある政治が認めていますが、郷原さんや桜井敬子学習院大学教授(行政法)が指摘しているように、法の体をなしていないばかりか、運営と実際の審査が、まったく開示されてなく、議決の内容から杜撰さしか浮かび上がってこない、「市民の視線」「市民の感覚」「市民の正義」という理念から、遠いところにあることが、今回の議決で明らかになっています。
さらにお二人は、検察審査会という行政機関は違憲である。とも指摘しています。

ここにも、検察の巨大な権力が及んでいると言えるともいます。
石川議員を取り調べた特捜検事が石川議員に取り調べの中でこう言ったそうです。
「仮に不起訴になっても検察審査会で覆してやる」

検察審査会の問題点についてはいずれ、自分の日記に書こうと思います。

武井繁明
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サンデル教授の白熱とストリップー金融商品に続き再びアメリカ発の大混乱

2010-10-13 | 恋知(哲学)
 
わたしは、ストリップショーは、とても人間的な文化だと思いますが、それは、二次化された「性」の世界であって、いうまでもなく、実人生の恋愛における「性」の世界とは次元を異にします。もし、これを同次元のものと勘違いするなら、愚かとしか言えません。

 言論ゲームや言論ショーも、これとまったく同じで、それが二次化された見世物であることを自覚していれば何の問題もありませんが、それを実人生の現実における思考だと捉えれば、馬鹿げた話にしかなりません。

サンデル教授の授業はもちろん前者であり、哲学ではなく、言論ショーですが、これを、実人生という現実世界の思考だと思わせるサンデル教授自身と、それに取り込まれている大学人、大マスコミであるNHKや出版社は、大きな罪を犯していることになります。

 ソクラテスの問答的思考法とは、「何がほんとうの善美か」を目がけた実人生における思考です。当時隆盛を極めていたソフィストたちの言論術(言論ゲーム・言論ショー)を批判し、言葉をそのように用いてはいけない、と警鐘を鳴らし、彼らと討論したのですが、それによりソクラテスは訴えられて死刑(500名以上の陪審員による民主的裁判)になったのです。

 そのソフィストたちとの討論(問答)の模様は、プラトンが『ソクラテスの対話編』として書き残していて、いまなお恋知(哲学)の古典中の古典として世界中で読み継がれています。日本版は岩波書店から全13巻の全集が出ています。ソフィストたちは、煽情的に言論を用い、次元を混同させた論理を用い、小さな世界でしか言えない話を全体にあてはめて思考を混乱させ(「形式論理」の次元を超えた使用)、彼ら好みの結論なき結論に導いたのです。ストリッパーの煽情的な性的刺激と同じことを、言葉を用いて行ったわけです。お金と地位を得るために。

 サンデル教授が、難破船における極限状態を例にして社会思想を語る、というのも同様ですが、そこに学生を登場させて全体を興奮状態にもっていくのは、ある種のストリップショーで、観客を指名して舞台に上げ、興奮を増す手法と同じです(わたしは映画でしか見たことはありませんが)。
 
 哲学における問答とは、沈思に支えられた世界で、落ち着いた深みへの旅(根源的・原理的思考)を共にするものですが、それは、比喩として言えば、実人生における豊かな愛や性の世界であり、ショ―における興奮や煽情とは次元を異にします。

 ハーバード大学や東京大学でのサンデル授業は、それがよくできた「ストリップショー」であるゆえに「白熱教室」になっているのですが、それは、ほんものの哲学とは全く異なる世界です。違いを知らぬまま、あれが哲学的思考だと思い込んだら、大変です。アメリカ発の金融恐慌、誤魔化しの金融商品を巧妙につくりだして、世界中に甚大な被害を与えた経済の大混乱が、思想・哲学・教育の世界で再現されてしまいます。

 足が地に着いたほんものの理性を働かせましょう。


 武田康弘


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旧社会主義国の崩壊前夜のようです。検察権力の崩壊は、民主主義の始まり。

2010-10-11 | 社会批評

いよいよ、官が治めるという「官治主義」の崩壊が始まったようです。旧社会主義国の崩壊前夜に似てきました。

わが国の形だけの民主主義(主権在官)が、市民主権の民主主義(主権在民)に生まれ変わるのは容易なことではありませんが、その課題をクリア―しなければ、日本の深い不幸の近現代史を変え、未来を拓くことはできません。

そのためには、一人ひとりが真に主体者になるための自己教育と、学校教育のパラダイム転換が必要です。それを準備するのが、能動的・主体的な哲学です。受動的な存在論(=人間解釈)にはもういい加減に退場願いましょう。「客観主義による権威」ではなく、わたしの、あなたの、心身からの出発が必要なのですから。


武田康弘



以下は、毎日新聞ですが、読み物として面白かったので、貼り付けます。

証拠改ざん 「逮捕してください」前部長、覚悟の否認毎日新聞 10月11日(月)2時30分配信


 検察への信頼を根底から失墜させた、郵便不正事件に絡む証拠改ざんと隠ぺい事件。最高検は11日、大阪地検特捜部主任検事、前田恒彦容疑者(43)を証拠隠滅罪で起訴し、犯人隠避容疑で逮捕した前特捜部長の大坪弘道(57)、前副部長の佐賀元明(49)両容疑者の拘置延長を請求する。「検察崩壊」の危機に直面した時、内部で何が起きていたのか。水面下の動きを追った。

 「どうするつもりなんだ」

 10月1日午前、大阪・中之島の大阪高検庁舎内で、吉田統宏・最高検公判部長(57)が大坪前部長を問いつめた。容疑を認めれば逮捕見送りの可能性があることを知りつつ、前部長は言い放った。

 「徹底的に闘う。逮捕してください」

 断続的に行われていた聴取は、6日目になっていた。「刑事責任を認めて謝罪すれば在宅起訴も検討する」。それが検察上層部の方針だった。前部長らに考える時間をもう一度だけ与え、逮捕回避を模索した。

 だが、大坪前部長は闘う姿勢を鮮明にした。佐賀前副部長も否認を貫く姿勢を示し、下着を詰めたバッグを持って出頭してきた。

 「逮捕するしかありません」。午前中の聴取が終わると、大阪に派遣されていた最高検の捜査チームは2人の供述内容を東京・霞が関の検察トップに伝えた。

 大林宏検事総長(63)や伊藤鉄男次長検事(62)らによる協議を経て、逮捕の方針が決まったのは、午後1時半だった。

 ◇「尋常ではない」

 特捜部の検事が証拠品のフロッピーディスク(FD)に保存されたデータを改ざんした--。

 衝撃的な情報が最高検に伝わったのは9月20日夕だった。休日出勤していた最高検刑事部の八木宏幸検事(54)が、一報を伝える大阪高検の榊原一夫刑事部長(52)からの電話を受けた。

 「尋常ではない事態だ」。八木検事が池上政幸刑事部長(59)に報告すると、情報はその日のうちに伊藤次長検事を経由して大林総長に伝わった。

 郵便不正事件で検察側は、厚生労働省の村木厚子元局長(54)=無罪確定=が「04年6月上旬」に元同省係長、上村(かみむら)勉被告(41)=公判中=に偽証明書の発行を指示したとの構図を描いていた。

 FDに保存された偽証明書の最終更新日時は、特殊なソフトを使って「04年6月1日未明」から「04年6月8日」に書き換えられていた。1日未明は検察側が描いた構図と矛盾するが、8日ならぴたりと当てはまる。多くの検察幹部が意図的な改ざんと直感した。

 翌21日。「すぐ大阪へ行け」。午前9時半から約1時間の会議で最高検が捜査に乗り出す方針が決まり、刑事部の長谷川充弘検事(56)が現地に派遣されることになった。

 「ブツ(物証)さえ手に入れば事件になる」。FDを保管している上村被告の弁護人に連絡を取るよう指示が出た。

 長谷川検事が主任となった7人の検事による捜査チームは、FDのコピーの任意提出を受ける一方、ソフトに詳しい専門家から意見を聞き、その日の夜に前田検事の逮捕に踏み切った。

 直後から、今年1月末に地検内で改ざん疑惑が表面化していた事実が明らかになっていく。

 前田検事の同僚たちは「部長や副部長は意図的な改ざんと知りながら調査や公表を制止した」と聴取に証言した。前部長らの刑事責任を見極めるカギを握っていたのは、前田検事の供述だった。

 検察庁が容疑者の供述内容を公式に明らかにすることはほとんどない。24日、「容疑を認める」と一部で報じられると、幹部の一人は「誤報だ」と明言し、事態の鎮静を図った。しかし、実際には前田検事は逮捕当日から容疑を大筋で認め始めていた。

 大坪前部長らの立件を視野にいれながら、長谷川検事のチームはひそかに捜査を本格化させていった。

 ◇「おれを切り捨てるつもりだ」

 東京地検特捜部のOBでもある最高検の吉田統宏・公判部長が、大坪弘道・大阪地検前部長から初めて任意で事情を聴いたのは、前田恒彦検事の逮捕から2日後の9月23日だった。

 「吉田さんは何を聞きたいのかさっぱりわからん。『正直に言えよ』って聞くか、黙っているだけだ」。聴取は24日も続いたが、大坪前部長は親しい知人に余裕すら見せていた。「あんなんが特捜の調べか」

 だが、26日に聴取が再開したころから、様子が変わり始める。「認めないと逮捕になるぞ」。吉田部長の追及は厳しさを増していった。「最高検はおれを切り捨てるつもりみたいだ。信じられん」。前部長は知人に電話をかけ、怒りに満ちた声で最高検を批判した。

 聴取は27、28日も続いた。特捜部長経験者を逮捕すれば大林宏検事総長の進退問題に発展することは必至。一部の法務省幹部からは組織防衛のために強行策を回避するよう求める声があがった。

 ◇「罰金で」の声も

 「本当に逮捕する必要があるのか」。検察内部にも消極的な意見があった。念頭にあったのは、99年に発覚した神奈川県警捜査員による覚せい剤使用の隠ぺい事件。犯人隠避容疑を認めた元県警本部長の逮捕が見送られ、在宅起訴で有罪が確定した。

 「罪を認めて辞めれば、罰金で済ませられないか」。検察首脳からはそんな声も漏れたが「身内に甘い」と批判されるのは明白だった。30日、疑惑が表面化した際に前田検事が大坪前部長らの指示で作成し、パソコンから削除したとされる「上申書案」のデータが復元されたとの報告が検察首脳に上がった。選択肢は「逮捕か在宅起訴か」に絞られた。

 1日午後9時47分。再開された聴取で徹底抗戦を宣言した大坪前部長に逮捕状が執行された。佐賀元明前副部長が逮捕されたのはその1分前。前田検事による改ざんを故意だと認識しながら、過失として説明するよう指示したという容疑だった。

 刑事責任の追及に懐疑的だった検察関係者はつぶやいた。「どちらに転んでも批判されるなら、進むのも一つの判断かもしれない」

 だが、前部長らによる「隠ぺい」を認める供述をした前田検事の同僚の中には、昨年7月に改ざんを打ち明けられながら、その事実を上司に報告しなかった疑いが持たれている検事もいる。

 「保身のために『最高検のストーリー』に迎合した」。こんな疑念の声は少なくない。「自ら描いた構図に合うように証拠品を改ざんした前田検事の供述を信用できるのか」。検察内部にすら、前部長らの無罪の可能性を指摘する声がある。

 「過失だと思っていたんだから、過失で処理するのは当たり前だ」。大坪前部長の弁護人は強調した。「改ざんだと知っていたら、上司に報告しないわけがない」。前部長の意思は「否認を貫くことで確定している」という。東京特捜OBが名を連ねる最高検の捜査チームと大坪前部長らの攻防は、なお続く。

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コメント

検察問題と「公・私・公共三元論」 (荒井達夫) 2010-10-11 20:01:42

郵便不正事件を巡る証拠品改ざん・犯人隠避事件を巡り、逮捕された大阪地検特捜部前副部長が取調べの録音・録画(全面可視化)を求めているとのことです。

検察官対元検察官という取調べのプロ同士の戦いにおいてさえ、全面可視化が求められるのですから、一般市民が被疑者の場合は全面可視化が当然であり、議論の余地がないと考えるべきでしょう。

取調べを受けている元検察官が全面可視化を求めているということは、彼らは被疑者になって初めて一般市民の立場が理解できたということではないかと思います。

また、今回の検察問題は「公・私・公共三元論」が哲学原理にならないことを証明する良い実例であると思います。

「公・私・公共三元論」では、「検察(=官)の公」と「一般市民の公共」が異なる、つまり、「検察の考える正義」と「一般市民の考える正義」が異なる、と元から考えるわけですから、これは非常に恐ろしい結果になることが明らかです。「公・私・公共三元論」では、全面可視化も実現できません。

もちろん、刑事訴訟法は、そのようなデタラメな思想に基づいて作られていません。小林正弥さん(千葉大学教授・公共哲学センター長)等、「公・私・公共三元論」を主張する学者は、今回の検察問題を真面目に議論すべきでしょう。

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裸の個人 (タケセン=武田康弘)

2010-10-11 22:57:07

荒井さん、よいコメント感謝です。

どのような理由にせよ、【特権】が外されたとき、人は、自分自身で立たなければなりませんが、「公権力の傘の下」にいるときは、人は公権力の一部になっているために、「裸の個人」という意味がまったく理解できないのです。

はじめから裸で生きている人にとっては当然のことが、全く見えない・分からないというわけです。

公権力を公共(裸の個人の集合である市民の意思)と別に考えるというのでは、民主主義は原理次元で崩壊してしまいます。民主主義国家では、公共権力以外の権力(国民の常識とは異なる国家権力)を認めてはいけないのです。「検察独自の権力」などあったらたまりません。

武田

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特に今週は国民必読です! (週刊朝日購読者より) 2010-10-12 18:52:28

武田先生
先般、尾崎豊の音楽作品についてのコメントをアップしてくださり有難うございます。さて、この度投稿させて頂いたのは、「小沢起訴は無効である」と特集を組み、郷原氏も登壇されています、本日発売の週刊朝日10.22号を多くの方にご一読していただき冷静な視点でいわゆる「小沢氏」問題を考えていただきたいですし、あの堀江氏の「思考停止状態から脱却できない日本人」というコラムに賛同します。
それにしまても、日本を脱出しノルウエーにでも移住したくなります。

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理性と良心 (タケセン=武田康弘) 2010-10-13 10:45:29

真実を伝える姿勢をもつ「週刊朝日」は、いま一番信用のおけるマスメディアです。新聞ならば、「東京新聞」でしょう。

なぜ、大多数のマスコミは、「大本営発表」のウソを流すのか?記者や経営者たちは、人間としての良心を持たないのか?

インチキな仕事=人生を続けても「自己嫌悪」を陥らない図太い人間たちを見ると、わたしは心底悲しくなりますし、怒りが湧きあがります。

ほんとうのエロースと共に、人生を真面目に生きろよ!、と。

お願いですが、名無しのままのコメントへのお応えは、わたしの趣旨に反しますので、ペンネームをお付になってください。できれば、プロフィールを個人メールでも結構ですので、お知らせください。
info@shirakaba.gr.jp


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ノーベル賞、 競争原理の人生。

2010-10-10 | 社会批評

勝ち負け、競争が人生?
ノーベル賞は、最たるもの。ノーベル賞を取るために研究する?ノーベル賞を得るために生きる?
そういう人生選択もありますが、
それで何が得られるのでしょうか。わたしは、うんざりですが、勝ち負け、競争が好きな人は、そうするのでしょう。
サルトルは、ノーベル文学賞を拒否しました。
栄誉のために生きる、勝者になるために生きる。わたしは、そういう文明を肯定しません。
わたしは、わたしの生の充実―内的豊饒を悦びとします。日々を楽しく充実したものにするのです。
それを広げるために公共世界を拓くのです。
ほんとうの生の充実は、実存の悦びに支えられた公共性にある、それがわたしの考えです。
競争を原理とする現代文明から、実存―納得を原理とする新たな文明にチェンジしたいもの。
巨大賞など要らないのです。名もなき人の発掘なら意味がありますが、すでに地位を得ている既存の組織に属する人に賞を与えるのは、つまらない話です。
かつての田中さんの受賞には意味がありましたが。



武田康弘

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コメント

競争原理の生き方は貧しい (tomoko)
2010-10-10 21:29:54

今、アルバイトをしていて、元大手の副社長だった高齢の方とお話する機会があるのですが、「成長の競争」「成長の競争」と事あるごとに主張されていて、私は違和感を感じずにはいられませんでした。それも一つの選択ではあるのかもしれませんが、「競争」を原理とする生き方は貧しいように、思えてならないのです。タケセンさんの日記は、腑に落ちることを書いてくださっていて、いつも勉強させていただいています。

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競争の自己目的化 (タケセン)
2010-10-10 22:12:03

tomokoさん

競争は、人間の生にプラスに働く限りにおいて有効ですが、現代社会は、競争を原理にまで祀り上げているために、個々人にとっても人間全体にとってもマイナスに働くことが多いですね。

また、ノーベルの思いとは異なるものに変質したノーベル賞は、それ自体の自己目的化を招いています。本末転倒ですが、競争を原理とする歪んだ精神がもたらす悲劇です。
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尾崎豊の音楽ー「人生の意味を問い続けることの意味」 問いと答え。

2010-10-07 | 恋知(哲学)
ご教示ください。 (尾崎豊の音楽(作品))
2010-10-06 19:16:19

武田先生
突然のコメントにて失礼いたします。
先生はユーチューブというwebサイトをご存知でしょうか。様々な音楽がわざわざCDを購入しなくても聴く事ができます。

故尾崎豊氏が10代の頃に出した歌、特に「僕が僕であるために」「卒業」「15の夜」という3曲が異常な程、聴かれております。恐縮でございますが、是非ともご視聴いただきご見解を先生のブログで公開していただけないでしょうか。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
尾崎豊の音楽は、世間一般では問題視されていますが、武田先生のこれまでのご発信ブログを拝見し、上手く言えませんが、なんだか共通すると申しますか、人のあるべき姿、人生を問い続けることの意味を尾崎豊同様、教えて頂いたような気がしております。
どうぞよろしくお願い致します。

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はじめて聴きました。 (タケセン)
2010-10-07 00:08:07

ブログ、お読み頂き、感射です。
わたしは、いつもクラシックを聴いていて、流行の歌は知らないのです。
尾崎豊さんは、名前は知っていますが、歌を聴いたことはなく、いま、Youtubeではじめて聴きました。

確かに、この人は、天才ですね。
純粋で、強いメッセージ性をもっています。
若者の心を捉えるというのは、なるほど、と思います。
けれども、若い人たちが、現代の管理社会に対して、彼が歌っているような「仕方」でしか闘えない(それも観念的にだけ)とすれば、絶望的です。

わたしは、現実は変えられると思っています。社会問題を考え・社会に関わることを、生のよろこびや充実・自分の得になるように工夫すればよいのです。
問題点を分析・批判することが、プラスのエネルギーとなり、より元気に生きられるような「能動的思考=哲学」が必要ですが、わたしは、それを考え・語り・生きてきました。

尾崎さんの歌のような直接性・感情論理の発露は大切で、人間の基底にあるものですが、それだけではもちません。自分の頭で深く考える営み、思考錯誤の行為と実践。地味な努力の積み重ねが必要だと思いますが、如何ですか?


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「公共」をめぐる哲学の活躍(14000字)ー豊富な写真入りで、白樺教育館ホームにアップ!

2010-10-06 | 恋知(哲学)
「『公共』をめぐる哲学の活躍」が、写真入りで、白樺教育館ホームにアップされました。製作は古林治さんです。

文章だけではなく、その時々の写真が一緒に載ると、立体化して迫力が出るようです。ぜひ、ご覧下さい。



追記 pdfファイルができましたので、印刷、転送等にご活用ください。
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/Kokyo_Tetsugaku_photo.pdf



武田康弘

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小林正弥さんに (荒井達夫) 2010-10-09 23:19:17

「公」と「公共」の区別の問題は、福嶋浩彦さん(現・消費者庁長官)の明解な意見により行政実務的にも完全に決着したといえるでしょう。「公(=官=国家)」と「公共(=市民)」の意味を明確に区別し、「公共の利益」と異なる「公の利益」の存在を許す考えでは、消費者行政を誠実に執行することは不可能です。

主権在民の民主主義社会において、「公共」とは普通の市民の頭の中で創り出されるものであり、それ以外にありません。学者も官僚も政治家も等しく市民のはずです。この当然の前提に立てば、「公」と「公共」を区別するいう、おかしな発想は出てこないと思いますが、特に公共哲学者はそうでなかったということでしょう。

書物からの知識の吸収ばかりで、生活上の現実に即して個々具体の問題を生活者の立場から丁寧に考えるという作業がなければ、本物の哲学にはなりません。難破船の事件にベンサムの「最大多数の最大幸福」を適用するという、筋違いの馬鹿げた議論を有難がるようになってしまうのは、そのためでしょう。実に頭の悪い議論で、「もっと普通に真面目にやれよ!」と言いたくなります。単なるディベートと哲学することの区別がつかない原因もここにあると思います。

(千葉大学教授・公共哲学ネットワーク主催者)に、お伝えしたいところです。
コメント (3)
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罪なき人を「罪人」とするー特捜検察とマスコミの力で、実力政治家を闇に葬る。

2010-10-05 | 社会批評
好き嫌いを抜きに冷静に見れば、
すでに、会計士・税理士や実践的な法律の専門家である元検事の郷原信郎さんや三井環さんらの証言により、法律違反のないことは明白であるにも関わらず、最大の実力者である政治家は、政治的生命を断たれることになりそうです。

誰かを、何かを、スケープゴードにして、一番大きな問題から目をそらす。そらさせる。

それに乗って、乗せられて、得をするのは誰?

わたしは、わたしの好みでない古いタイプの政治家であっても、罪なき人を「罪人」とすることはできません。それほど恐ろしい「犯罪」はないと思うからです。それほど酷い「反倫理」はないと思うからです。

多くの仕事、その人でなければできない仕事をしてきた人を、「犯罪人」として遇する。あまりにも残酷、あまりにも破廉恥、あまりにも非道徳です。それでは、善美を求める人間として生きることはできない、とわたしは思います。

わが日本人は、ここまで堕ちたのか、言葉を失う出来事です。感情論理の絶対化はヒステリーですが、「集団ヒステリー」ほど恐ろしいものはないでしょう。


武田康弘


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コメント

魔女狩りの理屈と感情は、恐い。 (Cmoon)
2010-10-06 18:40:35

検察特捜が狙ったのは、小沢さん(陸山会=政治団体は法人化できないので個人所有になる)が買った秘書宿泊施設土地代金4億円に対する”不法政治献金の立件”で、その外堀を埋めるために、政治資金規正法虚偽記載という”微罪”を持ち出して、陸山会の当時の会計担当秘書3名を逮捕しました。
しかし、あの無理筋徹底捜査の東京地検特捜部が、1年以上の時間と10億円以上の捜査費用をかけた強制捜査にも関わらず、4億円の不正献金の証拠はなく、地検特捜部の”幻想”に過ぎませんでした。検察特捜の”幻想”は、村木さんの公判でも明らかになったように検察特捜の悪しき体質です。いったん勝手に描いた疑惑は、どんなカードを使っても犯罪に仕立て上げるという体質です。しかし4億円は小沢さんの自己資金で、一時的に立替えが必要なため、銀行からの融資を受けたという事実が明らかにされました。
記者クラブ主催の昼食会の講演会の講演者として大林検事総長は、事実上の敗北宣言と言える発言を記者の代表質問(東京新聞記者)に答える形で「起訴を成立させる証拠は、捜査したにもかかわらず見つからなかった」と言いました。残念なことに、読者が見落してしまうほど記者クラブ各メディアの扱いはとても小さく、何のための代表質問だったか不思議です。

検察特捜の幻想ともシナリオとも言えるような不正献金疑惑についてはかなり早い段階で検察特捜は挫折し、面子のために不正献金疑惑の外堀を埋めるための政治資金規正法虚偽記載という、いわば別件逮捕で争うしか検察特捜の方向性はなくなりました。しかし政治資金規正法虚偽記載で明らかになったは、「登記の期ずれ」で犯罪と言える代物ではなく、もしこの程度のことで政治家や秘書が、起訴されるとすれば、前総務大臣(総務省は政治資金規正法の管轄官庁)の原口議員ではありませんが、年間何十人もの政治家や秘書が逮捕、起訴される事態になります。
たいていは「修正」で済む”誤認記載”の部類に属するものです。
こうした、事実にもかかわらず特定の政治家とその秘書が、検察の”権威”と、メディアの論調に洗脳された国民にやりだまに上げられ、政治生命を喪失するかもしれない事態に発展したことは、国民の無知ぶりの一部を露呈してしまいました。

これまでメディアと政治家と国民の多くが、小沢さんに求めていたものは、「説明責任」という『犯人じゃないなら自分でそれを証明しろ』という中世の魔女狩りの理屈です。そして今回の検審の議決は、『証拠はないかもしれないけれど、小沢は犯人かもしれないから、裁判所で決めろ』というもので、民主主義国家の中で生まれ得ない発想です。
これが「市民感覚」「市民の正義」なら世も末です。市民の無知による硬直した感情が、特定の政治家の政治生命を貶めようとしているわけで、今回の議決は「市民の不正義」と言えるでしょう。

「市民感覚」を構成させる大きな要素は、マスメディアが握っています。日本のメディアは、海外のメディアに比べ、検察との関係バランスにとても神経質で、近過ぎる関係にあり、検察もこうしたメディアの姿勢を実に上手く利用して、検察特捜の”幻想”を広く深く国民を洗脳しています。このことに早く気付かないと日本の事態は、さらに悪化の道を辿り、一億総白痴化どころか、国民が権力の手先になってしまった戦前の状態に戻ってしまう怖れさえあり、これを助長しているのが世論調査で、政治家が世論調査結果をあまりにも神聖視しているため、いったん走り出してしまえば、後に戻れない状況が生まれるでしょう。

小沢さんをめぐり具象化したものは、こうした危険性を示唆していると思います。

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正鵠を射る指摘に感謝です。 (タケセン)
2010-10-06 18:48:14
Cmoonさん

正鵠を射る分析に感謝です。まったくその通りと思います。

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一回目と二回目が違う!! (内田卓志)
2010-10-11 16:18:11

武田先生
先日の郷原さんの説明を聴いて驚嘆しました。
何と一回目の起訴相当事実と第二回目の起訴相当事実が
違うのです。どうも検察審議会の弁護士の錯誤のようです。
(2回目は4億円期日ずれに加えて4億円の不正献金のそのもの
も問題としているようです)
これでは世の中でたらめのことで犯罪人にされます。
やはり、教育の根本から立て直さないとダメです。
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