最高裁の判決にもまったく知らん顔、
たんたんと憲法を無視、
こんな人間が首相という国は、思想・信条の立場を超えて、許されていいはずがありません。
民主制国家の原則さえ踏み外す自由を政治家、しかも首相がもつことを許す国民ならば、三等国民というほかないでしょう。
われわれ日本人は、再び、奈落の底まで落ちるのか?
「主権者は国民という民主制」を進める日本でありたい、わたしは、そう思います。
以下は、今朝の「東京新聞」ですが、山口二郎さんの言は、まったく正しい!
武田康弘
最高裁の判決にもまったく知らん顔、
たんたんと憲法を無視、
こんな人間が首相という国は、思想・信条の立場を超えて、許されていいはずがありません。
民主制国家の原則さえ踏み外す自由を政治家、しかも首相がもつことを許す国民ならば、三等国民というほかないでしょう。
われわれ日本人は、再び、奈落の底まで落ちるのか?
「主権者は国民という民主制」を進める日本でありたい、わたしは、そう思います。
以下は、今朝の「東京新聞」ですが、山口二郎さんの言は、まったく正しい!
武田康弘
以下は、かもがわ出版のホームページです。
最高にタイムリー!!
今日は、泥憲和さんの1回目の出版記念講演会
2014年11月21日
カンパを頂いた方には、そろそろサイン本が着く頃ですが、どうでしょうか。そう、我らが泥さんの『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!──護憲派・泥の軍事政治戦略』のことです。
元自衛官。自衛隊に反対するデモをどう考えるか苦渋しているときに、教官から「デモの自由のある日本を守るのが自衛隊だ」と教えられ、そういう日本を保証する憲法を守ることと、自衛官であることの両方を誇りにして生きてこられてきました。
その泥さんが、自衛隊合憲論の立場から、安倍首相をこっぴどく批判し、まともな軍事戦略をこの本で打ち出しています。面白くないわけがありません。
私、泥さんのこと、ずっと前から感謝しているんです。蓮池透さんの『拉致──左右の垣根を超えた闘いへ』を出したとき以来です。
蓮池さんのことも、その本のことも、いまでは左翼業界からだって受け入れられていますが、本を出した5年半ほど前は、そうじゃなかったんですよね。蓮池さん、「9条を改正して、拉致被害者救出のため自衛隊を北朝鮮に送れ」みたいなことを言ってたし、うちから本を出して、いいことが書いてあっても、「本当なのか?」「どうせまた変わるんじゃないか?」なんて受け止めがあったんですよ。9条の会なんかに、「講演で呼んでもらえませんか」と持ちかけても、当初、「9条とは関係ないし」なんて言われる日々が続きました。
そういうときに、泥さんから電話があったんです。彼が事務局をしている姫路の9条の会で蓮池さんを講演に呼びたいという内容でした。
すごくうれしかった。蓮池さんの本をつくるには、私としてもすごく勇気がいったし、サブタイトルで「左右の垣根を超えた闘いへ」なんて打ち出しながら、左からは受け入れられなかったとなれば、蓮池さんにも申し訳がたたないと思っていたんです。その危惧を払拭してくれたのが、泥さんなんです。
そのことだけでも、泥さんのことがよく分かります。被害者への共感、何が護憲運動に求められているかの洞察、おそらく反対も多かったであろうなかで貫いてくれた実行力。いろんなものを兼ね備えている人です。
その泥さんの安倍批判、平和戦略、慰安婦論。鋭い論理と暖かいまなざしが溶け合った本です。是非、ご一読を。
本日の神戸(18時半より、元町駅西口から徒歩8分の「こうべまちづくり会館」)を手始めに、12月22日の東京まで、4回の出版記念講演会があります。予定一覧はここにあります。参加費は1000円ですが、泥さんの本を出版するということで事前にカンパを頂いた204名の方は無料です。
是非、ご参加ください。つい最近、大事件が発生しまして、一風変わった泥さんと会うことができます。では、本日、会場で。
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★
すごい説得力ー強烈な安倍首相批判=元自衛官(防空ミサイル部隊)の泥 憲和さん。 「いいね!」を14万件頂きました。感謝!
(1)自分自身の心身に直接感じられ、想われたこと、一言で、わたしの直観=体験。
(2)同じくわたしの具体的な経験ではあっても、確かだなと思われる他者の体験を見聞きしたことーその人から直接聞いたこととネットなどに書き込まれたことの双方。
この二つを明確に区別すること、区別して話し、区別して書くこと、
これを心掛けないと、精神の健全・健康が得られず、さまざまな精神疾患に陥ります。
現代のネット時代は、余計に気をつけないと、自他の区別があいまいとなり、その結果、わたしの心の自立が得られず、心身の自由な飛翔が妨げられ、精神の他者依存から抜けられなくなります。常態化すると、依存していることの自覚さえ得られなくなります。
明確な区別のもとに生きている人同士になってはじめて、発展的な協力が可能ですし、さわやかな楽しみの世界が広がります。ベタッとした依存関係ではなく、【自立する美しい精神】が互いのよさを引き出すのです。それがほんものの協力です。
しかし現実は、残念ながら、そのようにならないことが多く、他者「依存」(昨日のblogで書いた自己を高く見せる高等詐術)か、他者「利用」のどちらかであることが多いです。
人間は、ものやシステムを利用することはできますが、人間が人間を利用することはほんらい不可能です。人間は互いに主体者ですから、協力することは可能ですが、利用するという関係はありません。あえてそれをしようとすれば、心身は歪み、腐ってしまいます。地獄堕ちです。
昨日のblogの続きのようになりましたが、これは、極めて大切な生の原理です。
自他の経験・想念・行為の明晰な区別、その自覚が何より必要です。親子であれ、夫婦であれ、親友であれ、仲間であれ。
その自覚の上に、わたしの見方や考えや行為の【背後にあるもの】、どこから、誰からもたらされたのか?を意識し、それを率直に表明する習慣をもつこと。
ほんらいは当然のその作業を怠れば、深い嘘つきにしかなりません。それは、自他のよろこびを塞ぎ、不幸しか生みません。
程度の差こそあれ、知らずにそうなっている人が多いので、要注意!これは、「死に至る病」なのですから。
武田康弘
わたしは、長年、実に多様な人々と交流をもち、多くの社会運動や文化運動≒趣味活動をしてきましたが、
どこでも強く感じることがあります。
なんで、こんなに嘘つきなのか!ということです(笑)
あることは、誰がやり始めたのか、あるいは、言い始めたのか?
述べられている情報・事実、あるいは考え方をどこで、あるいは、誰から知ったのか?
自分で直接体験して得たことなのか、何かの情報で得たことなのか?
なぜ、どのような経緯でその経験や体験をすることになったのか?
こういう肝心かなめなこと、文章で言えば全体の文脈ですが、
それを省くこと・無視することは、深いエゴイズム(表層的にいい人を演じる自我主義者)の結果ですし、はっきり言えば詐欺行為です。
ためらわずに自己主張(ホンネを語る)すれば、裏の隠れた自我は表に出ることで燃焼し、さわやかになるのですが、いい人・カッコイイ人であろうとする(深いエゴイズム)人は、いつも自分を少しでも高く見せようとするので、一生、不完全燃焼のエゴイズム世界で生きるのです。一番汚らしいエゴーー表層キレイで中身は毒素人(笑)。 誰にどう思われようと、そのままを示すこと、自分の言葉や行為の【背後を隠さずに示す】こと、それがなさ過ぎ、というのが、わたしがいつも感じることです。何に、あるいは、誰に学んだのか・影響されたのか?を隠してはいけません。
ほんとの意味で正直にならねば! それが豊かで伸びやかで、生き生きした人生を拓きます。
わが日本人には、【くぐもった顔】や、【演出した笑顔】の人が多すぎる、わたしは強くそう思いますが、みなさまはどう思われますか?
紋切人をやめて、素を出せる愉快人になりたいですね。
総理の意向を伝えるのに敬語を使っている(驚)
テレビで発言する大臣を見て吹き出しましたが、内閣の構成員(大臣)とは、言葉の使い方も知らない非常識な人たちのようです。
内閣は、国家権力の三つの柱の一つ、行政権を担当していますが、その20名ほどの国務大臣は、主権者=国民のために仕事をするわけです。そのメンバーがテレビで国民に話すのに、組織の長である総理に敬語を使うのは、あ り え な い ことです。どこを向いて話しているのですか???
国家の主権者とはいうまでもなく一人ひとりの国民であり、行政権をもつ内閣とは、国民の代行機関です。そのメンバーが主権者に話すのに、自分たちの長に敬語を用いたのでは、「笑い話」にしかなりません。
みっともない言辞行為ですが、彼らがこのような非常識を平気でやらかすのには何か理由があるのでしょう。
安倍晋三という総理が、憲法さえ踏まえない独裁的な権力行使をしているために、各大臣は、同じ行政権者という意識がもてず、総理の前で怖気づいているのではないでしょうか。国民ではなく、総理を向いて話してる!(呆)
愚かで危険な事態ですが、それを咎める人がいないというこの国の現状には、言葉がありません。どこまで堕ちるのか。
武田康弘
昨晩の演奏会は、至福の時でした。
若書きのメンデルスゾーンは、指揮者なしで、助走にふさわしい演奏。アカデミー室内管の弦の美しさを堪能。
続くモーツァルトのピアノ協奏曲21番は、ペライア得意の名曲。完成された美で、言うことなし。三楽章のカデンツァはCDとは異なり、持続力が強く面白い。プゾー二のものかな。
休憩後のバッハの7番(元はチェンバロ協奏曲)は、なんとも幸福な演奏で、これほど品の良い愉悦感のあるバッハは、滅多に聴けません。イギリス的な中庸のよさが満開。
最後のハイドンの交響曲94番「驚愕」は上質な愉しさ。まるで、ホールの上に美しい光が広がるようで、ティンパニーの強打(上手い!)や弦の強奏も荒さは全くなく、快感が広がります。実に気分のよいハイドン、ペライアの指揮は彼のピアノ奏法と同じで、品位が高く、和声の豊かさを感じさせるもの。ただし、シャープで迫力があり、メリハリも強くて別の側面も感じさせる。
う~ん、愉悦、幸福な音楽たちに出会えました。
なお、会場では、久しぶりに大島久子さんと二女のピアニストの直子さんにお会いし、談笑!なんと、久子さんは、ゲルギエフのファンだとのこと、数年前の来日時に聴いたチャイコフスキーの「悲愴」に感激、彼の演奏で、「悲愴」という曲の素晴らしさに開眼したとのこと。わたしも同じ!と話し、10月18日に所沢で聴いたゲルギエフの「悲愴」の素晴らしさ(多くの聴衆が感涙)を話し、また、10月15日にここサントリーホールで聴いたストラヴィンスキーの三大バレエの話をし、たまたま持参していた当夜の写真をお見せしたら、「これ頂けるの!」と、とても喜ばれました。90歳にしてこの情熱!!いや~、さすが白樺派 (久子さんは、柳兼子のただ一人の内弟子で、青春時代を柳家で過ごし、宗悦や志賀直哉などとも日常的に接していた方です。まさに「白樺派」の最後の生き証人)。手を握り合ってしまいました。
直子さんは、なんと、若きペライアの最初の来日時に上野の文化会館で聴き(会場ガラ空き)、それ以来、理想の音をもつ最高のピアニストと思い続けているとのこと。一時、ポリーニの超絶技巧に影響されて、バリバリ弾いて指をダメにしたことを、ポリーニなんかに影響されてバカね~、と思っていたら、美しく豊かに広がる奏法に戻り、よかった!素敵!と、言っていました。筋金入りのペライア支持者です。
もう、意気投合しすぎて、タイヘンタイヘンでした(笑)。
この日の演奏会のこと、お教えした甲斐がありました。お二人にとても感謝されました。
(注)なお、直子さんと三女の文子さんのことは、以前にCD「十五の心」でご紹介しましたので、ご覧ください。
(写真はクリックで拡大。大島久子さん、大島直子さん、武田康弘)
武田康弘
明後日、13日の水曜日は、『恋知の会』です。
テーマは、
(1) フィロソフィと美学...
(a)ギリシャクラシック・ヘレニズム(紀元前400年代~~)と仏像彫刻の違いの意味
(b) 異なる音楽表現に現れるフィロソフィ
(2) 「浄化的反省」を方法とする人生の『根源的選択』と、精神分析学の誤り
(1)は、実際に見て、聞いて、感じてもらいます。それをもとに対話します。
(2)は、フィロソフィの土台であり真髄です。
講師・武田康弘
★午後1時開場。1時30分開始~4時終了
(そのあとは、小学生の授業があります)
★飛び入り参加も可能です(授業料は2000円)
お問い合わせは、『白樺教育館』へ ☎04ー7184ー9392 メール info@shirakaba.gr.jp
わずか50歳でこの世を去った独創的な天才ピアニスト、グレン・グールド、
かれのバッハは極めて高く評価されてきましたが、今は、驚くほど安く入手できます。
グールドの演奏は、
社交的なこと、華やかに振る舞い・お喋りをし・他者の視線や評価を気にする、
というのとはまったく反対に、
非社交的なこと、独りでいること・黙っていることが、何よりも豊かで深いよろこびになる、
というバッハです。
ベートーヴェンは、「わたしの音楽の意味を見ぬきえた者は、人生のあらゆる悲惨から免れるだろう」と言いましたが、それとは逆のベクトルで人生を深く支えるピアノ独奏です。
そう、独奏ー独りで奏するという言葉がこれほど嵌まるピアニストはいません。
一人にならなければ「私」の心の宇宙を深く開発することはできない、ということの証左が、彼の弾くパルティ-タの世界です。
現代人は、絶えず誰かとつるんでいないと不安になるという心の病をもちますが、「沈思」がいかに豊かな人生の充実ー深さをもたらすか、それを知らしめるのが彼のバッハです。
落ち着きのない小学生もグールドのパルティ-タを流していると、静かに学習の世界に入ります。
パルティ-タ全曲、
それに、小前奏曲と小フーガ集とフーガの技法(オルガン演奏)の全曲、さらにイタリアン・アルバムの全曲、ビッシリ網羅した4枚組のアルバムが、たったの1494円、リマスターされて音も驚くほどよいです。
武田康弘
ついにこのような本が出る時代になったのだな~~とえらく感心。
平易で明晰、戦後日本社会の構造を見事に分析し俯瞰した本書は、ほんとうに役立つ生きた社会学であり、一読、驚きとよろこびでいっぱいです。
ピュアで思惑のない叙述、固定観念に縛られず、専門の学者のエゴやしがらみから無縁の爽快な論述。
学生は、この本で学べば、社会学の面白さと威力を知り、社会人=公共人になるよろこびを覚えるでしょう。
また、誰しも、従来の政治対立のつまらなさ、レベルの低さを痛感されることと思います。必読です。
いたずらに思想的な言い方になっていないのも好感であり、著者の精神の健康・健全を強く感じます。
透明でどこまでも見通せるような本書の出現は、これからの社会学の基盤・座標軸になるものと確信します。
『日本はなぜ、「原発」と「基地」を止められないのか』 矢部宏治著 集英社刊 1200円+税
2014年 10月29日 初版
武田康弘
以下は、毎日新聞の社説です。
毎日新聞 2014年11月02日 02時30分(最終更新 11月02日 13時55分)
一国の首相の口からこんな発言が軽々しく飛び出すことに驚く。
経過はこうだ。首相は先月29日昼、側近議員らと食事した。終了後、出席者の一人が報道陣に対し、首相はその席で政治資金問題に関し「(与野党ともに)『撃ち方やめ』になればいい」と語った、と説明した。これを受け、朝日のみならず毎日、読売、産経、日経など報道各社が、その発言を翌日朝刊で報じた。
ところが首相は30、31両日の国会答弁で朝日の記事だけを指して「私は言っていない。火がないところに火をおこすのは捏造だ」などと批判し続けた。一方、当初、報道陣に首相発言を説明した出席者はその後、「発言者は私だった。私が『これで撃ち方やめですね』と発言し、首相は『そうだね』と同意しただけだ」と修正した。つまり発端は側近らのミスだったということになる。
首相は「発言を本人に確かめるのは当然」と言う。その通りである。ただし現在、首相と担当記者との質疑の場は実際には首相側の都合で時折設定されているに過ぎない。首相がそう言うのなら、小泉純一郎首相時代のように1日2度、定期的にインタビューの場を設けてはどうか。
首相はかねて朝日新聞を「敵」だと見なしているようで、今回の記事も「最初に批判ありきだ」と言いたいようだ。「安倍政権を倒すことを社是としていると、かつて朝日の主筆がしゃべったということだ」とも国会で発言している。だが、朝日側はその事実はないと否定しており、首相がどれだけ裏付けを取って語っているかも不明である。
あるいは慰安婦報道や東京電力福島第1原発事故の「吉田調書」報道問題で揺れる朝日を、「捏造」との言葉で批判すれば拍手してくれる人が多いと考えているのだろうか。
いずれにしても今回、報道に至る経過を首相が精査したうえで語っているようには見えない。「私は語っていない」と報道各社に修正を求めれば済む話だったと考える。
従来、批判に耳を傾けるより、相手を攻撃することに力を注ぎがちな首相だ。特に最近は政治とカネの問題が収束せず、いら立っているようでもある。しかし、ムキになって報道批判をしている首相を見ていると、これで内政、外交のさまざまな課題に対し、冷静な判断ができるだろうかと心配になるほどだ。
わたしが楽しみにしているコンサート、みなさまもぜひ。
日本人として最高の音楽家だ、とわたしが確信している鈴木雅明(まさあき)指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデル「メサイア」
わたしが最も敬愛する指揮者だったクレンペラーのオーケストラ=イギリスのフィルハーモニー管弦楽団が、独特の理知的解釈をみせるサロネンのもと、いったいどのようなべートーヴェンを聴かせるか?それも3番「エロイカ」だ!ドキドキもの。また、女性的と理知的が融合した魅力的なヴァイオリニスト・ヒラリー・ハーンがブラームスのヴァイオリン協奏曲を弾く、この男のロマンのような名曲(私の一番好きなヴァイオリン協奏曲)をどう解釈し、聞かせてくれるか。とても楽しみです。
武田康弘
昨晩の記事、麻生副総理の発言がものすごいのは、
「消費税10パーセント増税と、ゴルフ場税無料をセットで」という発言です。
賛成!!!という方、いますか???よもや。
安倍政権、終ってますね。
麻生太郎副総理兼財務相は利用税が地方自治体の税収となっていることを念頭に「仮に消費税が来年10月から上がるとなれば地方税も増える。(ゴルフ場税を廃止するには)良いタイミングかなという感じはする」と述べた。ただ、「総務省の所管だ」とも繰り返し語った。(ヤフーニュースより)
映画監督のオリバー・ストーンさんは、語ります。
「日本は、偉大な文化をもつ国だ。
映画や音楽、食べもの、すべて素晴らしい。
しかし、第二次世界大戦後の70年に、ドイツとは異なり、平和でより高潔な世界をつくるために闘った政治家を一人も知らない(要旨)」
と(2013年広島の原水禁大会で)。
戦後、高潔で高い見識をもつ首相は、石橋湛山ただ一人です。
下村博文 麻生太郎
山の木々を伐採し、森林を破壊し、広大なゴルフ場がつくられてきました。
首都圏の山は、地図でみると「虫食い」のように、ゴルフ場に食いつぶされています。
モグラを殺すための強い殺虫剤(殺獣剤)が撒かれ、河川が汚染されています。
自然の中につくられるゴルフ場は、大人の遊びのための自然破壊の典型です。
ある程度以上裕福な人でなければ、お金のかかるゴルフ場で遊ぶことはできませんので、
そこに税金をかけるのは理の当然ですが、
それをタダにしようと、文部科学大臣が言い、麻生副総理(炭鉱で朝鮮人などをこき使い、財をなした一族)が賛成という。
もう日本は「終わっている」のではないでしょうか?
公平さはなし、自然破壊への反省はなし、市民的公共はなし。
武田康弘
(元 参議院「行政監視委員会調査室」客員調査員)
以下は、ヤフーニュースのコピー
下村博文文部科学相は4日の参院予算委員会で、ゴルフ場利用者に課せられるゴルフ場利用税について「生涯スポーツであるゴルフの振興を考えると廃止すべきだと考えている。文科省として廃止を総務省に要望し、関係団体とも連携して廃止への理解を深めて参りたい」と述べた。
下村氏は「スポーツの中でゴルフだけが唯一、施設の利用に伴い課税され、なおかつ消費税との二重の課税がある」と指摘した。
また、麻生太郎副総理兼財務相は利用税が地方自治体の税収となっていることを念頭に「仮に消費税が来年10月から上がるとなれば地方税も増える。(廃止するには)良いタイミングかなという感じはする」と述べた。ただ、「総務省の所管だ」とも繰り返し語った。
なんだか、愚民政治・社会をつくることに精を出す公共放送のようで。
まあ、安倍首相のお友達の会長からして、口あんぐりの人ですから。
経営委員には、変な小説家(「国家のために死ぬ生き方を思い出そう!」と主張)や、アナクロ哲学おばさん(今の天皇が何と言おうと、天皇は現人神である」との論説)が抜擢されるNHKですから当然かも。(※このNHK経営委員の給料たるや、人もうらやむ高給です)
それにしても「市民的公共」という意識は、いつになったら生まれるやら。
テレビ番組は、ミーハー路線をどんどん突き進み、勝った負けたのスポーツと芸能ばかりなり。
そんなことの裏では、官府批判を抑圧する「スパイ法」実施に向けての準備が進み、
「集団的自衛権」行使のための改定法案づくりが行われています(なにせ《憲法違反の法律改定》ですから「裏ワザ」たっぷりで頭使いまっせ!)。
武器輸出解禁で、三菱重工など軍需産業も張り切ります。
原発再稼働のためには、データの読み替えや解釈がえが必要で、大忙し(辻褄合わせは大変じゃ)。
なんだ、かんだ、「目くらまし」が公共ニュースの役目のよう。
本質レベルでの批判者はあらかじめ排除してのテレビ放送ー質の悪さは、愚衆=《自分で思考しない情報キャッチ人間》を生んでしまいます。
テレビは、ますます、騙しによる「合意」の生産工場(MANUFACTURING CONSENT) に。いやですね~。
それにしてもスポーツ選手のランクが上がった話をトップニュースにするのは、あまりに不見識。
武田康弘
和声(ハーモニー)への着目と重視で、楽譜の深い読みを可能とし、豊かに広がる音楽を創造するマレイ・ペライアは、現代最高のピアニストであると言えます。 わたしは、先に、「ペライアには過去の巨匠も現代の技巧派もかなわない」、と書きましたが、その一例を示します。
バッハのゴールドベルク変奏曲は、グレン・グールドの新旧二つの演奏が最も高く評価されてきましたが、2000年に録音されたペライアの演奏を聞くと、グールドの内向的演奏を超えた豊かな音楽の立ち現れに唖然となります。他を寄せ付けない鋭い楽曲分析によるグールドの世界が、交響的な広がりをもつペライアの豊かな和声の前に閉塞感を感じさせます。なお、パルティ-タは、グールドの演奏に深みと面白味を感じます。ペライアは、余裕のある落ち着いた演奏で、なぜか宇宙を感じさせます。
ピアノが、単なる打楽器ではなく、より大きな普遍性をもつ楽器であることを証明してくれるのがペライアのピアノ奏法で、それは、彼の全人的な生き方=思想により支えられているようです。ペライアの濃やかな美音は、美音であることを誇るのではなく、豊かな和声による新たな音楽世界を拓くための美音なのです。
メロディーの心に沁みる歌わせ方、内的なリズムのよろこび、にとどまらず、音楽を音楽たらしめているハーモニーの重視は、ペライアの音楽を21世紀の新たな指針にまで高めています。そのペライアが、今月13日にサントリーホールで弾き振りをします。世界最高のピアノ音楽の魅力を生演奏で体験するのは、人生の得難いよろこびです。ぜひ、お出かけください。
武田康弘