思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

あらゆる教育問題は、公共的自由をつくらない日本システムから生まれる。

2007-01-14 | 教育


こどもたちの公共的自由がない、学校での生活において、自由に考え・発言して生活のありようを決めるという経験を全くさせないのが、わが日本という国です。
これは、会社に入っても同じ、すべてが上意下達で、社員の話し合いによる自己決定がないのです。

中学や高校の校則も同じ。校長が決めたものに従うだけ。上位者が決定し、それに従うだけというのは、民主制社会の基本原則に反します。ルールは、その成員が決定や変更に参加できなければ、ルールではありません。現在の校則はルールとしての基本要件に欠けるために、ルールにはなっていないのです。子どもたちが無視するのは当然です。

昨日「日本テレビ」で、成人式のやり方を変えた沖縄と夕張市の例を紹介していましたが、昨年までの沖縄の荒れる成人式が、参加者みなで後片付けをするまでに反転したのも、夕張市が感動的な手づくり成人式で成功したのも、理由はひとつです。

なぜでしょうか?
自己決定したからです。沖縄では、毎年荒れる成人式の改革を、「官」ではなく主役である成人者自身に任せたのです。夕張市ではお金がないために「官」が行えず、市民の有志と成人式を迎える若者が「手作り」したのです。

自分のたちのことは自分たちでする、自分たちで考え・決定する。このあまりに当たり前のことが、日本列島から失われていたところに現在の教育問題の核心があります。核心中の核心ですが、このことの自覚が、文部科学省にも学者や評論家にも政治家にも少しもありません。最重要な点について何も分からずに「教育改革」を言うのですから、ただ呆れるだけです。

入学式、卒業式のやりかたも、ほんらい参加者・当事者が決めるのです。文部科学省や教育委員会や石原都知事が決める!?のではありません。自由な自己決定という大原則さえない国では、国民は市民=公民=公共人にはなれません。精神的・思想的に自立したよき社会人にはなれないのです。公共性・普遍性を持たず、上位者にとって都合のよい「型はまり人間」を育成していたのでは、国・社会は元からダメになっていきます。個人も社会も腐ってしまうのです。

イジメをはじめとするさまざまな教育問題の発生源はすべて同じです。自由な対話による自己決定のない社会構造が生み出すもの。【公共的自由】を生み出し、その実践をするのが公共哲学です。したがってそれは、自由対話によって自己決定の力をつける相互学習をその本旨とするもの、と武田は確信していますが、その実践を全国的に行うことが急務です。上意下達の歪んだ文化に支配されているわが日本にとって、いま、このように解釈された公共哲学以上に重要なものはありません。公共哲学とは、ほんらいの哲学と同じで、学者が教えるものではありません。「学」とは部分知のことであり、恋知(哲学)とは全体知のことですので、誰かが教授するものではなく、思考対話の実践で相互に学び合う以外にはないのです。

武田康弘







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「自己納得」の生と「自我主... | トップ | 「公・私・公共三元論」の現... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

教育」カテゴリの最新記事