思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

自由をあきらめさせる日本というシステム

2007-01-05 | 社会思想

いま日本人・日本社会に一番必要なのは、自由です。

買い物の自由!?雑談の自由!?は当然あります(笑)。

学校で、校則や部活動のありようについて、生徒が意見・批判が言えますか?
大学で、正当な社会批判がなされていますか?授業で社会問題についての自由討論がありますか?
会社で、役所で、仕事の仕方について社員やパート労働の従業員が意見を述べられますか?
個人が個人の資格でいまの社会体制について、自由な批判的発言ができますか?

私はそうしていますが、実名ではっきりとイエス・ノーが言える人は、ほんとうに少ないと思います。何か見えない恐怖によって、知らずうちに頭と心の深部が既成の社会体制に馴致されてしまい、人前では、ほんとうに思うところとは違う「意見」を言うような人間にされてしまっているのではないですか?

「主観を消去する日本というシステム」に書いた通り、個人を個人にしない教育がずっとなされてきた為に、私たち日本人は、【自由に生きるという責任】を持たない人間になっているようです。それを加速させ、「政府があるべき家族像・人間像を提示する」というのが安倍首相です。自著『美しい国へ』で、天皇制を柱にした日本の悠久の歴史を守るために、保守主義による教育改革を行うと書いています。こういう復古趣味で政治を行う権力者に、私は激しい公共的怒りをもちます。

自由に遊ぶ。
自由に思う。
自由に考える。
自由に発言する。
自由に行動する。

近代哲学の父、カントは、「人間は自由な存在だ」と言い、近代哲学の王、ヘーゲルは、「人間は自由を求める存在だ」と言いました。また近代市民社会の原理をつくったルソーは、「個人の自由を確保するのが政治権力の役割だ」として社会契約論を書きました。
私が小学生の時(43年前)、感動と共に記憶したヴォルテールの言葉、「あなたの言うことには一言も賛成できない。しかしあなたにはそれを言う権利がある。その権利を私は死をかけても守るつもりだ」(美濃部亮吉編「社会のしくみ」の囲み記事)は、個人の自由に依拠することが公共性を生むという逆説=真実を一言で表現しています。

また、わが国ではそれより遥かに昔、800年前に浄土真宗の宗祖・親鸞は、絶対他力・自然法爾の思想により、個人をその最も深い地点で解放する偉業を成し遂げましたが、これについては、以前「親鸞思想の核心」として書きましたので、ご参照下さい。わが国が守り発展させるべき「伝統」とは、支配者の論理ではなく、こういう民の論理のはず。現在も浄土真宗は、日本最大の教団です。

為政者・「エリート」にとって都合のよい思想を、子ども・人々に身体化させること=馴致を教育だとする支配者の論理で政治を行うのは、根源的な公共悪なのです。なぜならば、民主制とは、絶対者がいない政治体制のことであり、自由に基づく個人の判断と批判精神を育成しなければ機能しない政治の仕組みだからです。再び天皇を元首とし、民を天皇の赤子だとする「天皇制国家」に戻すのがよいというのでない限り、現在までの日本の教育=馴致は根源悪であると断罪する他はないのです。自由な個人=主観を育てず、ある型に誘導するのは、人間性の大元を絞め殺す「犯罪」でしかありません。個人も社会もダメにする何よりも大きな犯罪です。

近・現代社会の政治のほんらい役割とは? ひとことで言えます。
よい【秩序】をつくることで、【個人の自由】を担保すること。
人生のよろこびを生むための基盤=個人が自由な想念を羽ばたかせ、のびのびと行為することを可能にするための条件整備、もう少し具体的には、経済的な格差を広げない工夫をすることで、個人の生き方・思想・表現の自由を現実化し、おしひろげることです。それが政治のほんらいの役割であり、それ以上でも以下でもありません。為政者は、この政治の本質を明晰に意識しなければなりません。

最初に書いたように、わが国では、著しく公共的自由が実現されていないからこそ、個人が個人として育たず、精神的な自立が阻まれてしまうのです。自我が生育するためには、学校や会社や役所や地域など「公共的な場」で思い切り自由に発言できる・することが条件です。それがないまま育つと、たとえ立派な会社人・組織人(役割をこなすだけの外面人間)にはなれたとしても、社会人(公民=公共人)にはなれないのです。外見=形だけが優秀で、中身=内面が貧弱という魅力のない人間がつくられてしまいます。個人が団体・組織のために生きる!?人の顔色をうかがい、上位者におもねる!?そういう人間で溢れる国には、悦びはありません。ただ生存するだけをめがける!?のでは、子どもたちの生きる希望は元から消去されてしまいます。灰色の時間が支配する。

自他共にエロース豊かな生をひろげるために、「自由」の意味と価値を深く知ろうではありませんか。民知とは自由を基盤とする知であり、【自由に生きるという責任】をつくり支える知なのです。

武田康弘




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私は作曲家ー今年もよろしく。 | トップ | 公共哲学をめぐってー荒井達... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

社会思想」カテゴリの最新記事