思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

再び暗黒日本への道=「教育基本法」改定を支える国家主義の愚かな想念

2006-04-29 | 社会思想

自民党とそれに引きずられた公明党は、個人の尊重の行き過ぎ!?を正すために、というほとんどブラックジョークにしかならない「お話」で、「教育基本法」を改定するのだそうです(いまの国会は、与党が絶対多数なので、数の力で何でも出来ます)。

学校で、職場で、個人の自由に基づく発言と行動が、独裁国家を除いて、日本ほど認められていない国はありません。集団同調の圧力で何も言えない、既成秩序を変えようとする言動は、邪なことと見做され、排除される。こんな状況は、日本人なら誰でも知っています。上意下達で、個人の意見の自由がないこの国で、個人の尊重の行き過ぎ!とは、聞いて呆れてまともに批判すら気にもなりません。ただのバガか狂人の戯言ですね。

問題の所在は、まったく逆で、個人の意見を引き出す教育を全くやって来なかったがゆえに、責任意識が育たなかったのです。主権者としての大胆な自由の行使が認められないからこそ、責任意識も生じないのです。そもそも自由な自己決定がなく、強制や誘導(洗脳
)による人生を歩まされている人に、自己責任という概念は生じません。自分が決めたのでない事柄に責任はありませんから。

自由に考え行為して、おおいに失敗をすること、それが教育の本質です。自分でやって失敗するから自ずと反省や責任の意識が生まれるのです。こんな簡明なことも分からない愚かな人間たちが政治を牛耳り、学者を気取っているのですから、もうじきわが日本もお仕舞いでしょう(笑)。小泉だの石原だの、「小粒ファシスト」にいいようにされて黙っている国民では哀しいです。笑ってはいられませんから、政権打倒!といきましょう。民の力で。

今朝の東京新聞の「こちら特報部」で、『ソフィーの世界』等の翻訳で知られる池田香代子さんが、次のように言っています。
「戦後に生まれた現在の教育基本法は、憲法と同じく『われら』を主語にしている。つまり私たち主権者が、これはしてはいけないと国(政府)に命令する法律だ。ところが与党改正案からは『われら』が消えた。変わって『国』『国家』という言葉が26回も出てくる。この法案が成立すれば、日本の大きな転換点になりかねない」と。

その通りです。
意味と価値を問わないただの「事実学」の積み上げ=受験主義の知がもたらす思考力に乏しい頭脳は、簡明・単純なイデオロギーに操作されて、あっさり国家主義に洗脳されてしまいます。日々の生活経験から、深く納得できる考えを生み出す努力がなければ、個人のエロースは元から消え去り、集団の一歯車にされてしまうのです。生きる意味が消えて灰色の世界に転落してしまいます。個人の個人としての輝き・ツヤ・パワーの乏しい国は、衰退の一途を辿るほかありません。

私を活かして公(おおやけ)を開く=『活私開公』(金泰昌・キムテチャンさんの言葉)の精神と運動をつくり上げましょう!
5月14日(日)午後6時―我孫子市・アビスタにお集まり下さい。白樺教育館主催・我孫子市後援の「民知の会」設立シンポ&パーティーです。日本・韓国・中国における「公共哲学」推進の第一人者=キムテチャンさんのお話も聴けます。

武田康弘


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「共謀罪」法案!? おばかな議員たちと復古主義と

2006-04-28 | 社会思想

硬く狭い理屈で人間のありのままの「心」を抑圧した左翼・共産主義思想に替わって、いまは、明治政府から始まる右翼の国家主義(近代天皇制)の亡霊が息を吹き返したかのようですね。
上意下達の道徳主義で人間を抑圧する思想ならざる想念が幅を利かせ、受験勉強だけの単線的な頭の持ち主が自分の愚かさも自覚できずに、自信満々!?なのは、「お笑い」でしかありません。

今また「共謀罪」という民主主義の息の根を止めかねない愚かな法律案を政府が用意し、自民党と公明党のおバカさんたちは、強引にこれを通そうと頑張っています。
テロ対策(アメリカ政府のご機嫌取り)と称して、健全な民主制社会を危機に陥れる法案成立に「努力する」とは、頭、大丈夫?と言うしかありませんね~。
政府の方針や体制に賛成する自由なら独裁国家にもあります。反対する言動が自由に認められるからこそ民主制社会には活力が沸き、自由な想念が広がって、人間精神の健康が保たれるのです。環境保護団体なども、活動ができなくなる、と強く抗議しています。こんな簡明なことすら分からない人間が国会議員とは、ただただ呆れるばかりです。

だいたい、右派の政治家や右翼の人々は、明治政府がつくった強張った富国強兵=近代天皇制の思想を日本の伝統!?と言っているのですから「お話」になりませんね。上からのへ理屈で人を黙らせる洗脳教育による日本人教化は、繊細な感受性にとみ、やわらなで優しい日本の民の伝統とは、正反対です。いま話題になっている「靖国思想」とは、明治政府が日本の伝統を否定して拵えたイデオロギーでしかありません。簡明な歴史の事実くらい弁えてほしいものです。

はなしが、「共謀罪」とはズレました。今日はこのへんにしましょう。
5月14日(日)午後6時に、この社会のおおもと=知のありようそのものを変えていくための出発の会をします。ぜひ、みなさんお出かけ下さい。民知の会―設立記念会―シンポ&パーティー(クリックして下さい)


武田康弘


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経済格差は、国を滅ぼします。

2006-04-25 | 社会思想

言うまでもなく、人間の生きる意味は、経済的勝者になることではありません。
経済力を持つことは、充実した生活をする手段としてどうしても必要です。
しかし、それは何かをする手段であり、目的ではないはずです。人間の生きる意味は、自他の生のよろこびを広げ深めるところにあり、それは、心の深い満足と結びつく営みです。他者への優越という虚妄とは違います。

お金儲けは、おおいに結構です。しかし、儲けは、それを生み出した社会に還元しなければいけません。これは普遍的な道徳のはずです。それがよく果たされなければ、社会は荒廃し、人の心は潤いを失って砂漠化してしまいます。経済格差を広げるような思想・政策・法律は、基本道徳を踏みにじる根源悪であり、断じて認めてはなりません。

おおいに儲けた人間は、おおいに還元する。多額の税金を払うのは、当然です。多く納めるのは、多く社会貢献をすることです。ただしそのためには、今の官僚の裁量による非能率な税金の使い方を根本的に改めなくてはなりませんし、教育や福祉や環境などの市民活動や芸術活動への寄付金を収入から差し引き、免税するという税法の改正も必要です。

個々人の努力が、新たな、よろこびの多い文化を生み出すのに向かうこと。知識や財産や履歴を《所有》する競争から、人間とその環境や物の《存在》の魅力を深めることに主要な関心を移すことは、現代社会最大の課題なのです。経済格差を縮めるのは、そのための基本条件であり、政治の役割は格差の是正にあるのです。まったく国情の違うアメリカに追随する愚かな小泉自民党政策を転換しなければ、日本社会は元からダメになってしまうでしょう。

武田康弘



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人間の性とは?

2006-04-24 | 恋知(哲学)

人間の性・SEXとは、単に生理的=肉体的なものではありません。
観念=意識の奥深くから湧き上がる欲望=憧れです。
だから、ほんとうの性とは、観念の震え=悦びなのです。
身体のすべてを使っての深い交歓がめがけるものは、意識の内奥の満足=充足です。
心と頭と体の融合によってもたらされる快楽=深い悦びは、人間のみに与えられた至高のよきものです。
なかなか実現しませんが、恋愛における慈しみ・憧れ・欲望との深い一致(幸せの極み)は、この世の宝です。
繰り返します。生理的な性とは、動物の性に過ぎません。人間の性とは精神の欲望であり、身体が目がけるのは、これ以上はない心の快楽=悦び=エロースなのです。

即物的な性、
ポルノでしかない性、
型はまりの紋切り型の性、
性に無関心を装う自己欺瞞、
共働としての悦びの少ない不毛な性・・・・・・・
歪んだ性は、豊かな人間性を育てません。
「私」という中心をもてず、集団に同調して生き、権威に従い、上位者に怯える非・自立的な弱い精神は、上記した歪んだ性意識と性行為にその深因があることを、若い人たちには、とくによく知ってもらいたいと思います。
逆に、内容の豊かな性の交歓は、個人の精神的自立を支えます。昔から上意下達の思想をもつ人(権力者に多い)が「性」を邪なものとみなすのは、何よりも個人の精神的自立を恐れるからなのです。互いの悦びを深めるよき性の追求は、優しさをもった豊かな人間性を育む基本です。

武田康弘


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私はこう思うー「民知」 コメント、キャッチコピーを公募!!

2006-04-18 | その他

「民知」へのコメント、キャッチコピーを公募します。

いよいよ5月14日(日)の『民知設立記念会=シンポジューム&パーティー』が近づいてきました。
歴史に刻まれるイベントになると思いますので、「思索の日記」の読者の方もぜひご参加下さい。民知運動出発の瞬間をご一緒しましょう!

そこで、ぜひ皆様に、「民知」への思い・考えを一言で書いて頂きたいと思います。
キャッチコピーでもコメントでもどちらでも結構です。

以下は、いままでに寄せられたものの一部です。

☆ 大きく全体の意味をつかむ知。(成人50代)
※ 五感で捉える。(成人50代)
♪ 民知は「快革」です。(成人40代)
☆ ハートで考え、心地よい生き方を可能にするのが「民知」です。(成人30代)
※ 苦しいことが楽しくなる、楽しいことはもっと楽しくなる。(大学2年)
♪ あっ、そうか、ビックリする納得、それが民知。(大学4年)
☆ 全身で考え、裸で生きる!(大学2年)
※ 心の器を大きく(小学6年)

このブログのコメント欄か、メールinfo@shirakaba.gr.jpでお寄せ下さい。お待ちしています。

武田康弘



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ひとつの国を滅ぼすのは、簡単です!?

2006-04-14 | 社会思想

ひとつの国を滅ぼすのは、簡単です!?
自国絶対!―伝統主義―国家主義―保守主義の思想をどんどん宣揚すれば、その国は、まちがいなく滅びます。これは、歴史が証明しています。そのような思想=想念を持たなければならないのは、その社会が行き詰まっている証拠だからです。ナショナリズムに逃げ込まざるをえないのは、精神的に余裕がないことの証明ですが、その想念が、閉塞状況を深め、社会をさらに息苦しいものにしていき、最後には国を丸ごと危機に陥れるのです。
真に自国を愛する者とは、こころに余裕があり、素直に自己反省のできる人のことでしょう。新しい考えをどんどん取り入れることのできる柔らかな心、ほんとうによいものを広く世界から吸収することのできる自由な精神こそが、よい国、美しい国をつくるのです。
紋切り型の頭と心=受験秀才が支配する愚かな国では、皆が不幸になりますね。

今朝の新聞に、自民党(と公明党)の「教育基本法」の改定案が出ていました。
公共精神尊重はおおいによいことですが(もちろんその内容が問題なのですが)、前文の「普遍的にして個性豊かな文化の創造を目指す教育」(現行)を、「伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育」(改定案)へ変えるというのは、明らかに次元を下げる話でしかありませんね。ちっぽけな想念しかもてない小利口がつくった愚かな作文です。


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靖国神社の思想は日本人にも到底受け入れられない

2006-04-11 | メール・往復書簡

明治政府が官軍の戦死者だけをまつるためにつくった神社が靖国神社です。敵味方を区別し、しかも戦死者を国家の神にするという「靖国思想」は、わが国の長い神社の伝統を真っ向から否定するものです。
今なお、なぜ、明治政府作成の特異なイデオロギーの下に戦没者をまつっておくのか?全く意味不明です。
日本の伝統を重んじる右派がなぜ「靖国神社」を批判しないのか?とても不思議な話です。
民主制社会を肯定する健全なふつうの日本人は、靖国思想を否定するはずです。
中国や韓国が言うから、ではなく、私たち自身の意思として、早急に公立の慰霊施設をつくらなければいけません。これはあまりに当然の話で、議論の余地はないはずです。

靖国神社の主張については、ここをクリックすれば出ます。
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コメント コメントを書く

2006年04月10日
21:54
Aです。

なるほど。今度遊就館を見学して来ます。
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2006年04月10日
23:02
 Bです。
突然の書き込み失礼します。
宗教の自由から考えると靖国思想は何も問題はないですよね。
また、神社と申されましても神社には様々あり、「神社の伝統≠敵味方を区別しない」であります故、官軍の戦没者を神とする靖国神社を否定する事は護国神社全てを否定することになり、ひいては宗教の自由を否定することと繋がります。
それに、靖国神社の思想は靖国神社で完結してあり、靖国思想を周りの神社に強要するならともかく、ただ1神社として存在する以上、その思想を否定するのは思想の自由に反してしまいます。
自由主義社会を肯定するのならば(独裁国家を否定するのならば)靖国神社の存在を良しとしなければいけません。

突然の書き込み失礼致しました。
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2006年04月11日
00:27
Cです。

>明治政府作成のの特異なイデオロギーの下に

まったく賛成です。
もともと近代国家の一施設だったものが、戦後、民間宗教法人になってしまったところに捻れがあるように思います。
しかし、国民多数に神社として認識されてしまってる現状では、なんらかの政治的配慮によって(それがどんな形になるにせよ)解決方法を見つけ出さざるを得ないのかもしれませんね。
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2006年04月11日
09:32
タケセン

確かに、靖国神社は、敗戦後、一宗教法人にすぎなくまりました。
そうであるのに、一宗教法人にすぎない神社が、兵士の全員を有無を言わせず(戦死者の宗教も、遺族の意思もなく)まつることは、明らかに論理矛盾です。
あの戦争に対して反対の考えをもつ人も含めて、時の政府が天皇の命令だ、として戦地に強制動員した戦争犠牲者たちの鎮魂施設をつくること、
その鎮魂施設では、非戦闘員を含む全犠牲者の魂を平等に鎮めること、論理的にはこれ以外の選択肢はないのです。日本政府が、彼ら死者に対して、これからは、日本人を二度と海外へ戦争に赴かせることはしない、ほんとうに申し訳なかった、という深い反省を込めた謝罪をしなければ、洗脳教育を受け、戦争に駆り出された多くの若者の魂が真に鎮まることはないのです。幼少のころから「お上」の意思で特定思想を植えつけられ、戦争に行くのが立派なことだと信じ込まされた真に哀れな若者たちの霊に、私は言語を絶する悲哀を感じ続けてきました。激しい慟哭なくして彼らのことを想うことはできません。
全戦没者をまつる公立の鎮魂施設をつくる=あなたたちの尊い犠牲の上に、わが日本は、「戦争放棄」を国是とする世界に冠たる国家になりました、どうか安らかに眠って下さい、という宣言を内外に向けて誇り高く宣言する以上の鎮魂はありません。右翼も左翼もないのです。世界平和の大胆な創造ために、みなが声を一つにしなければならないのです。

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2006年04月11日
13:36
Dです。

「アジア侵略者の旧日本軍兵士が”合祀”されている公立慰霊施設で慰霊の儀式をすることは戦争賛美+侵略の意図をなお持つ証明である」って言われるだけと思いますが?
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2006年04月11日
14:25
タケセン

そうだからこそ、民主制ー市民自治の徹底した国家としての日本をつくり、全・戦争犠牲者をひとしく鎮魂する他には方法がないのです。
ドイツの試みが国際社会=第二次大戦の敵対国(連合国)にも高く評価されていることで証明されるように、具体的な反省の言動のみならず、象徴的意味をもつ施設の建造は、何よりも大切なことなのです。
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A級戦犯が合祀されているから「靖国」が問題なのではありません。
もっと深く本質的な問題なのです。小沢一郎のこの問題での発言は、浅いですね。




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小沢一郎をなぜ恐れる?

2006-04-08 | その他

小沢一郎を恐れるのは、豪腕だから?壊し屋だから?自民党の中枢にいたので自民党を知り抜いているから?政財界に太いパイプを持っているから?・・・

ウソです。ズルい言い方=誤魔化しはやめましょうね。

小沢一郎の頭=論理の深く的確なこと、他の政治家とは頭脳力の次元を異にすること、「二次元頭」の秀才がいかなる努力をしても届かない「三次元思考」のできること、それを恐れているのです。活字次元の「平板な思考」しかできない政治家も新聞記者も批評家も学者も、物事の核心を捉える立体的頭脳を持てないから、したがって小沢一郎を自分の思考枠に収めることができない=捉えられないから「恐れる」のです。

私は、小沢一郎とは思想もタイプも大きく異なる人間ですが、現代日本の最も優れた政治家として、彼を高く評価しています。

菅直人は、労働組合の「委員長」にしかなれません。優れた「経営」をすることはできないのです。人間には「器」というもいうものがあり、身の丈以上のことをしようとすると、自他共に不幸です。汝自身を知れ!は、恋知(哲学)の最大の格言です。

「まず、私自身が変わること」―これは、まさに恋知そのもの。他者と社会の改造は、不断の自己改造を前提にしなければ実効性をもたず、価値を持ちません。これは原理です。

武田康弘

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トヨタの思想 vs BMWの思想

2006-04-07 | 趣味

私の愛車・BMWミニのエンジンが不調になって工場入りした2日間、代車としてトヨタのカローラに乗りました。故障の原因は、私が純正品と取り替えた市販のプラグコードが破損したことによるものでしたので、元のコードに戻しただけで直りましたが、ここでは、日本を代表するトヨタ車とBMWミニとの違いについてレポートします。

トヨタとBMW―「違い」という言葉が空しくなるほどの違いで、クルマに対する「思想」がまったく異なるのは、乗れば誰でもが感じることでしょう。

トヨタ車(カローラ)は、とにかく軽い、何もかも軽い。車重も、ハンドリングも、レバーやスイッチ類の操作も、そして何より走りが軽いのです。一口で言えば、簡便・楽チンで、クルマが道路を走っているのだ、という緊張感がないのです。エンジン振動が少なく、音も小さく、路面を感じることのない「フワリ」感です。よく言えばストレスがないのですが、クルマに乗っている実感・悦び・面白みもありません。ただ実用の足として存在する、それ以上でも以下でもない、そんな感じです。結論は、《動くソファー付きの居室―家電品のような自動車》、それが日本を代表するトヨタ車です。これは、より高級なクラウンでも同じ。思想が同じなので、ただ高級感が増すだけです。

反対にミニは、重く、深く、強い。クルマはこうあるべきだという製作者の考えが隅々にまで徹底され、お手軽な運転・使用を許しません。路面をしっかり捉えた走行感覚と、重くて正確なハンドリングのために、体力を使います。走ることの「重み」がいやでも実感されますが、運転者の心は、深い充実感・満足感で満たされます。ミニは、強い理念と愛が生み出した「作品」としてのクルマなのです。ここまでは、他のBMW車にも共通しますが、ミニのいいところは、それにプラス遊び心―楽しさがあることです。一度乗るとクセになりますよ(笑)。 (BMWミニクーパー・レポート)

武田康弘

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古林です。

イヤー、ほんとにそうですね。
運転してる実感がないんですねぇ、トヨタの車は。
ヨーロッパの車に乗っていると、どれも製作者の顔が見えてきます。
その顔の違いがとても面白いし、それぞれに納得させられる部分があります。
だから運転していて対話しているような気分になるのかもしれません。
特にミニには遊び心満載。かつてのミニの最良の一面を徹底して追及した
結果ですね。
私がいつも言うのは、『車のことを知らない人にとってトヨタ車は最高です、
きっと世界一(量の話)になります。』
でもそこに何の意味があるのでしょうかねえ。ちょっと哀しいです。
私が車やバイクのデザインにかかわっていた頃と全然変わってませんね。
個人的には今私はシトローエンC4に興味が・・・・
お金貯めなきゃ。

それでは。



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民知の会へのお誘い

2006-04-03 | 恋知(哲学)

腑に落ちるように知ろう、分かろう、というのが「民知」の心です。
あーっ、なるほどそうか!と深い納得がやってくる瞬間って、なにより嬉しいです。

つべこべ言わずに従え!ではいやですね。
親や教師には口答えするな!?
「偉い」人(肩書きの立派な人)が言っているのだから間違えない!?
専門家に任せれば大丈夫!?
政府や官僚が決めたことはよいことだ!?

こういう人に従うだけという人生では哀しいですね。
かけがえのない「私」を中心に置き、そこを出発点にしなければ、生きる悦び・充実はやって来ないはずです。

自分の日々の体験を踏まえて、自分の頭で何がほんとうなのか?を考えて生きること、そのためには、腑に落ちる納得の「知」が必要です。公式にあてはめるだけ、棒暗記、ゲームの裏技のようなハウ・ツウ・・・という意味と価値を問わず、思考力を使わない「勉強」とその延長上にある「学知」ではダメですね。現代日本のさまざまな病理の主因はそこにあるのではないでしょうか?

しっかりと日々の生活世界の経験につき、自分の興味・好奇心に導かれて「知る」ことは、健康な知の基本条件です。字句をいじくるだけの知や、点数を取ることを目的とした知や、パターンにあてはめる省エネの知ではなく、意味の濃い知、豊かにおおきく思考する全体知を「民知」と呼びましょう。

受験主義に陥らず、特定の思想によりかからず、宗教に逃げ込まず、透明な意識で自他と世界をみる練習、それが民知の実践です。

民知の会は、市民サロンです。皆がそれぞれの経験から「思ったこと」を出し合い、聴き合いしながら、よき考えと生のヒントを得ようとする集いです。直接顔を合わせながら論談しましょう。知的な愉しみを広げ、心に安らぎと情熱をもたらせたらいいな、と思っています。

武田康弘

5月14日(日)Pm.6:15~8:45 民知の会・設立記念―シンポ&パーティー
場所:アビスタ1F.大ホール 参加費-資料代:500円 
主催:白樺教育館 04-7184-9392 後援:我孫子市
みなさん、ぜひご参加下さいね。




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裸の人間として生きる ・ 実存としての自他への約束

2006-04-01 | 恋知(哲学)

外的な価値に従い、世間的な「いい人」として生きようとする人間は、しばしば心の内なる声を聴かず、実存としての自他への約束をホゴにします。彼(彼女)にとっては、世間的な価値が裸の個人としての自他の価値を上回るのです。
このような人が幸せを得ることは決してないでしょう。自分の内なる声を聴き、それを大事に育てつつ生きることが、人間的なよき生の条件だからです。外なる規範・秩序を優先する外面人間には深い生の充実=エロースはやってきません。これは原理です。
内奥の声を聴き、それに従って生きることのできる「ほんものの人間」になるための努力、自己自身へのチャレンジ、それが人間の生きる意味です。
よきもの・美しきものへの憧れ・希求―それらを恋することのない人間は、外的価値に縛られて生きるだけの単なる「事実人」にすぎません.

武田康弘


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